皆さんは勿論「ボニーとクライド」のカップルのお話はご存じですよね?
1930年代、アメリカの大恐慌時代、第一次大戦後のあおりで
一際貧しい市民層にしわ寄せがいった時代に、
一際貧しい市民層にしわ寄せがいった時代に、
20歳を超えたばかりの一組のカップル、「ボニーとクライド」が
銃を手に、多数の強盗を犯し、一般市民4名、警官を9名殺害。
銃を手に、多数の強盗を犯し、一般市民4名、警官を9名殺害。
約2年間の逃走の後、彼らの捕獲のために特別に編成された
テキサス・レンジャーからなるチームに待ち伏せされ、
約150発もの弾丸の雨を浴び、果てた、という・・。
テキサス・レンジャーからなるチームに待ち伏せされ、
約150発もの弾丸の雨を浴び、果てた、という・・。
この夏以降あれこれサイトで見つけ、名前は知っているものの
実態を知らずの事件、人物像のあれこれ、を読んだものの1つで、
で、今回取り上げるのは、
ボニーとクライド、伝説の無法者
Bonnie e Clyde, fuorilegge da leggenda
Bonnie e Clyde, fuorilegge da leggenda
これまでで最も伝説的な犯罪者、ボニーとクライドの真にロマンチックな物語
La vera storia romantica di Bonnie & Clyde, i criminali più leggendari di sempre
La vera storia romantica di Bonnie & Clyde, i criminali più leggendari di sempre
と、ウィキペディアの日本版 「ボニーとクライド」にも詳細に。
アメリカのあの荒れた時代、ある意味庶民のささやかなうっぷん
晴らしの材料ともなり、犯罪を憎むのは勿論でも、ひそかに
応援する人々もいたそうで、
私めはカッコ良いとも思いませんし、ああ、そういう事だったか、
と知った事柄で、それを煽情的に書くつもりもありませんので、
その様にお読み頂けると有難いです!
その様にお読み頂けると有難いです!
上の写真は、何年か分かりませんが、ある夏の一日の2人。
多分1930年の1月5日に知り合ったと言われるので、それ以降で、
2人は1934年5月23日に悲惨な死を、
ボニー 23歳、 クライド 25歳 遂げたのでした。
ボニー 23歳、 クライド 25歳 遂げたのでした。
ボニー・エリザベス・パーカー・Bonnie Elizabeth Parkerは、
1910年10月1日テキサス州生まれ
クライド・チェスナット・バロウ・Clyde Chestnut Barrow、
1909年3月24日テキサス州生まれ
1909年3月24日テキサス州生まれ
「君はジェシー・ジェームスの物語、彼がどの様に生き、どの様に
死んだかを読んだ。
もし今でもまだ何か読みたいなら、ボニーとクライドの物語を聞いて。」
死んだかを読んだ。
もし今でもまだ何か読みたいなら、ボニーとクライドの物語を聞いて。」
これは「The Trail's end」、痕跡、通った跡の終わり、とでも言うのか、
詩を書くのが好きだったというボニー・パーカーが書いた詩の
詩を書くのが好きだったというボニー・パーカーが書いた詩の
最後からの短い抜粋だそうで、
ジェシー・ジェームスは、19世紀後半、南北戦争中から戦後にかけ、
兄のフランクや仲間と共に列車や銀行強盗、殺人を繰り返し、
高額賞金を懸けられ、仲間に裏切られ35歳で死亡の、
ウェスタン映画に何度も登場の人物。
兄のフランクや仲間と共に列車や銀行強盗、殺人を繰り返し、
高額賞金を懸けられ、仲間に裏切られ35歳で死亡の、
ウェスタン映画に何度も登場の人物。
まさに彼らの生き様の暗示の様に、「始まった様に終わった2人の人生」で、
2年ちょっとを駆け抜けて逝った、のでした。
ボニーは石工職人の父を4歳で亡くし、家族と一緒にダラスに引っ越しを。
ここで彼女は文学と詩への情熱をはぐくみ、
これが上記したように、マスコミに取り上げられ、彼女の伝説の一部とも
なったのでしたが、学校の成績も優等だったと。
が、16歳で学校をやめ、同級生の結婚したロイ・ソーントン・
Roy Thorntonとの生活も苦しみと虐待で耐えられず、
Roy Thorntonとの生活も苦しみと虐待で耐えられず、
彼が殺人で逮捕されると家出し離婚申請をし、ウェイトレスの仕事を。
または母親の元に戻り、お針子をするものの、厳しい生活だった、と。
または母親の元に戻り、お針子をするものの、厳しい生活だった、と。
クライド・バロウの人生も決してバラ色ではなく、借金が家族を
窒息させる中、17歳で、食料調達の為にささいな窃盗を始め、
バック・Buck、のニックネームを持つ長兄のマーヴィンも一緒に
車や家畜を一緒に盗む間柄で、
車や家畜を一緒に盗む間柄で、
彼らの悪行は徐々に襲撃や強盗に進み、最終的には誘拐や
殺人に迄発展しますが、
殺人に迄発展しますが、
クライドは21歳の時には既に2回刑務所に。
写真は16歳のクライド。 ダラス警察署のマグショット。
そして1930年1月5日、運命は未来の恋人たちを同じ道へと導き、
最初の出会いで2人は、一目で意気投合、一目惚れ、だったと。
ボニーは、クライドと詩への情熱と、書きたいという願望を共有し、
一方彼は、犯罪歴をやめ正直な仕事を見つけ、新しい生活を始める
望みを話しましたが、
一方彼は、犯罪歴をやめ正直な仕事を見つけ、新しい生活を始める
望みを話しましたが、
しかし、そうは行かなかったのですね。
クライドは建設業界で3カ月働いていた時に仕事をやめ、
強盗を働き、3度目の刑務所送りに。
強盗を働き、3度目の刑務所送りに。
彼はボニーに悲痛な手紙を書き、ピストルを届けるように説得、
クライドはなんとか逃亡しますがすぐに捕まり、強制労働の判決を。
クライドはなんとか逃亡しますがすぐに捕まり、強制労働の判決を。
若者は独房で、囚人から絶え間ない嫌がらせとレイプを受け、
当局はまるで介入せず、最後にクライドはパイプで相手を殴り殺す
羽目となり、これが彼にとっての最初の殺人に。
当局はまるで介入せず、最後にクライドはパイプで相手を殴り殺す
羽目となり、これが彼にとっての最初の殺人に。
そして強制労働から逃れる為、他の受刑者に頼むか、または
自分でか、足の指2本を切りとり、
自分でか、足の指2本を切りとり、
1か月間ベッドで過ごし、さらに2年間独房生活をすごした後、
遂に待望の保護観察を受け刑務所から出ます。 が、
遂に待望の保護観察を受け刑務所から出ます。 が、
彼は足の指切断により、それ以降ずっと足を引きずる様に。
で、このカップルの犯罪歴は、その直後の1932年2月に始まり、
店やガソリン・スタンドで多数の強盗を犯し、銀行強盗をし、
9名の警官の殺害、他には商店店主などの一般市民を。
犯罪集団「バロウ・ギャング」のリーダーはクライドとなり、
兄のバックが1933年3月22日に服役中に恩赦を受けて出所し加わり、
その妻のブランシュもおり、
その妻のブランシュもおり、
ミズリー州ジョプリンにバックは隠れ家を作り、ボニーとクライドも
一緒に住み、
他のメンバーは何度か入れ替わっているものの、2人はいつも一緒。
他のメンバーは何度か入れ替わっているものの、2人はいつも一緒。
手口としては、クライドが店に入って金を奪い、ボニーが逃走用の車で
待機。 逃走経路を綿密に計画し、州境を超える、というもので、
待機。 逃走経路を綿密に計画し、州境を超える、というもので、
当時は警察が犯罪者を追跡できる範囲は州内のみ、に
限られていたのを利用したもの。
限られていたのを利用したもの。
また当時の連邦捜査局・FBIは司法省の「捜査局」に過ぎず、
現在の様な強力な法執行機関ではなかった事も
強盗事件をしやすくしたものと。
現在の様な強力な法執行機関ではなかった事も
強盗事件をしやすくしたものと。
1933年4月13日、警官達が2台の車に5人の部隊を編成し、
酒類密輸入の疑いで彼らの隠れ家を襲った際、銃撃戦となり、
刑事を殺害、巡査が重症となったものの、彼らは逃走に成功。
酒類密輸入の疑いで彼らの隠れ家を襲った際、銃撃戦となり、
刑事を殺害、巡査が重症となったものの、彼らは逃走に成功。
その時の捜査で、多量の武器、ボニーの手書きの詩、数巻の未現像
フィルム、カメラが見つかり、
フィルムを現像すると、ボニーが葉巻を咥えたり、互いに銃を向けたり、
お遊びの写真があり、
フィルム、カメラが見つかり、
フィルムを現像すると、ボニーが葉巻を咥えたり、互いに銃を向けたり、
お遊びの写真があり、
「バロウ・ギャング」はアメリカ中の新聞一面を飾るニュースとなったと。
次々と起こす強盗、ニュースでの報道から身元がばれそうになり、
警官を縛って逃走等もあったものの、
警官を縛って逃走等もあったものの、
盗んで使っていた車がフォードV8、当時の大衆車の中で
最高の速度と加速力を備え、複数の自動小銃も装備しており、
最高の速度と加速力を備え、複数の自動小銃も装備しており、
周到な逃走計画とも相まって、警察の車では容易に追いつけなかったと。
この背後の車は、フォードV8 ではないと思いますが・・。
「最後のキス」と。 でもそれ以前に発見された写真だろうと。
こうして徐々に狭まる捜査の輪、捕獲の為の警官達の待ち構えも
重なり、毎月の様に起こった事件を一々ここには書きませんが、
兄のバックも撃たれ、後、病院で死亡、11月にはダラスの大陪審は
ボニーとクライドに対する殺人起訴状を提出、
ボニーには初の殺人令状だったといい、世間の風も次第に厳しく。
ボニーとクライドに対する殺人起訴状を提出、
ボニーには初の殺人令状だったといい、世間の風も次第に厳しく。
これは、FBIの「WANTED」
遂にテキサス州当局は、元テキサス・レンジャー隊長の
フランク・ハマー・Frank Hamerに捕獲を依頼。
何週間にもわたる追跡失敗の後、複雑な網を張る事に決め、
まず最初に、長い犯罪歴を持ちカップルに最も親しい人物の1人、
20歳のヘンリー・メスビン・Henry Methvinに、
まず最初に、長い犯罪歴を持ちカップルに最も親しい人物の1人、
20歳のヘンリー・メスビン・Henry Methvinに、
彼らを裏切るよう説得する事から始め、
どうやらハマーは彼の父親に、ボニーとクライドを捕まえる手助けと
引き換えに、若い息子が犯した全ての犯罪を許す約束をした様子。
引き換えに、若い息子が犯した全ての犯罪を許す約束をした様子。
こうして当局との契約を締結後、メスヴィンの家族は、
ボニーとクライドがメスヴィンの農場での再会を計画中と報告。
ボニーとクライドがメスヴィンの農場での再会を計画中と報告。
メスヴィンの裏切りにもかかわらず、ベテランの法執行官は
2人の犯罪者の襲撃を終わらせるのは簡単ではないと知っており、
引退した巡視官を含む5人の支援を得る事に。
前列右端がフランク・ハマー。
5月21日、グループは道路沿いに位置を占め、2日後に終わる
長い待機を開始。
長い待機を開始。
その間、彼らの間で幾つかの議論があり、グループの2人は、無法者が
降伏するチャンスがある筈と信じていたと伝えられますが、
降伏するチャンスがある筈と信じていたと伝えられますが、
ハマーとその同僚は、無法者に選択の余地を与えず、即、多量の
弾丸を撃つ事に賛成。
弾丸を撃つ事に賛成。
と、グループは、ボニーが女性だったので、生かしておくことも
検討していた、とも推測されています。
が、最終的にハムラーの立場が優勢となり、誰もが2人を生かして
おかない事に同意を。
おかない事に同意を。
というのも、4月1日の復活祭の日曜に2人の警官殺害があった時、
目撃者の証言で、
目撃者の証言で、
ボニーが警官の1人に情け容赦のない致命的な発砲をしたとされ、
この事件は次第に誇張して伝わり、世論に大きな影響を与えた事も
ボニーの生存云々に影響を与えたのかも、ですね。
ボニーの生存云々に影響を与えたのかも、ですね。
1934年5月、クライドは4つの州で、強盗、自動車窃盗、窃盗、
逃亡、暴行、殺人、の複数の訴因による、16の令状持ちの身。
逃亡、暴行、殺人、の複数の訴因による、16の令状持ちの身。
待ち伏せ場所、ルイジアナ州の松林の中を抜ける道に、
2人が立ち止まる事を想定し、事故を装ったメスヴィンの車を置き、
近くの茂みの中に待ち伏せの6人が隠れていたと。
2人が立ち止まる事を想定し、事故を装ったメスヴィンの車を置き、
近くの茂みの中に待ち伏せの6人が隠れていたと。
1934年5月23日午前9時15分頃、高速で接近する車の音
を聞き、まさにクライドが運転するフォードV8。
を聞き、まさにクライドが運転するフォードV8。
置き去りの車の手前で期待通りにスピードを落とし、
執行官たちがターゲットを視認できる位置で停止。
執行官たちがターゲットを視認できる位置で停止。
しかし隊長のフランクが発砲命令を出す前に、補佐官の1人
プレンティス・オークリーが前に出て、
プレンティス・オークリーが前に出て、
この動作の理由は確立されていないものの、クライドが銃を持っていると
思わせる何かを見たのかもしれず、
思わせる何かを見たのかもしれず、
確かな事は、命令を待たずにプレンティスが予告なしに、先の皆の
同意通り、ライフルを車のドアに向けて撃ち始めた事で、
同意通り、ライフルを車のドアに向けて撃ち始めた事で、
2人の無法者はいささかも生き残るチャンスは無く、
弾丸の雨の中で最初に倒れたのは、頭を打たれ即死したクライド。
弾丸の雨の中で最初に倒れたのは、頭を打たれ即死したクライド。
彼は道端の車を見て即待ち伏せを感知し、Uターンするつもりだったか
車のギアを入れており、彼の足がクラッチから外れるとすぐに車は発進し、
車のギアを入れており、彼の足がクラッチから外れるとすぐに車は発進し、
執行官たちは車の動きに気付き、2人が逃げようとしていると考え、
弾幕を一層強化。
弾幕を一層強化。
車は待ち伏せ隊を追いぬき、50ヤードほど先の溝に突っ込んでいき、
もう少しでひっくり返りそうになったものの、
もう少しでひっくり返りそうになったものの、
警官達は念には念を入れ、車が止まってからも撃ち続けた、と。
この膨大な弾数にも拘らず、ボニーは致命傷をただ一つ受けたのみで、
彼女が絶望的に叫んでいるのに気づいたハマーは、射撃をやめる様
命じ、車に近づき、至近距離で2発発射。
命じ、車に近づき、至近距離で2発発射。
後に「とりわけ座っている女性の頭を撃つのは嫌いですが、
もし彼女で無かったら、我々だったでしょう」と。
もし彼女で無かったら、我々だったでしょう」と。
車には112の弾痕があり、 その内の約4分の1が2人に命中していたと。
教区の検視官J・L・ウェイド博士の公式報告書には、クライドの体に
弾傷の入り口が17、ボニーの体には26の傷、それぞれに幾つかの
頭部と、クライドの脊柱切断の傷が含まれており、
弾痕の多さに、遺体の防腐処理をするのに苦労したと。
弾傷の入り口が17、ボニーの体には26の傷、それぞれに幾つかの
頭部と、クライドの脊柱切断の傷が含まれており、
弾痕の多さに、遺体の防腐処理をするのに苦労したと。
が、実際には、ボニーは57、クライドは51の弾を受けただろうと。
警官の1人テッド・ヒルトンは、後にこう語ります。
「ボニーが開いたドアから落ちてくるのを見ます。 柔らかく、温かい、
髪をきちんと梳かした美しい少女で、
焦げた火薬の匂いと非現実な血の匂いとは対照的な、
かすかな香水の香りがします」
髪をきちんと梳かした美しい少女で、
焦げた火薬の匂いと非現実な血の匂いとは対照的な、
かすかな香水の香りがします」
銃撃の場にはすぐに群衆が集まり、記念品を持ち帰ろうとしたり、
警官隊は、死体が乗ったままのフォードを近くのアルカディアの町まで
運んだ所、町の人口が数時間で2千人から10倍になったとか、
ビールやサンドイッチの値段が跳ね上がったとか、すぐ売り切れたとか。
ボニーとクライドの突然の最後は、ダラスだけで50万部の新聞を売ったと。
この終末後1934年の夏迄に、つまりあっという間に、新しい連邦法が
銀行強盗と誘拐を連邦犯罪とし、
FBIと地元当局との連帯が強化され、パトカーには双方向無線機が
搭載され、
強盗や殺人を実行、逃走するのはほんの数か月前よりも困難になったと。
ボニーのお墓には、
「花の香りが増すように、 日光と露によって、
この古い世界はより明るく、 あなたの様な人々の存在のお蔭で」
この古い世界はより明るく、 あなたの様な人々の存在のお蔭で」
と彼女の詩の一節が。
クライドと、バックのお墓には、
「亡くなっても忘れはしない」と。
2人のお話は何度か映画化され、その一部を。
「俺たちに明日はない」 1967年 フェイ・ダナウェイ、
ウォーレン・ビューティ、 アーサー・ペン監督
この映画は大変評判になり、見ておりませんが、評判をよく覚えています。
曲の出だしは、上記の
君はジェシー・ジェームスの物語、彼がどの様に生き、どの様に
死んだかを読んだ。
もし今でもまだ何か読みたいなら、ボニーとクライドの物語を聞いて。
君はジェシー・ジェームスの物語、彼がどの様に生き、どの様に
死んだかを読んだ。
もし今でもまだ何か読みたいなら、ボニーとクライドの物語を聞いて。
「ザ・テキサス・レンジャーズ」 2019年 2人を追うテキサス・
レンジャーの2人を描いたもので、
主演ケビン・コスナー、ウッディ・ハッレルソン
日本語タイトルは「テキサス・レンジャーズ」となっているのですが、
言葉としては「テキサス・レンジャー」が正しく、「テキサス・レンジャーズ」と
なると、野球チームの名となります。
映画の実タイトルはご覧の通り「ザ・ハイウェイ・メン」で、
「テキサス・レンジャー」同様の、法執行官を指します。
なんと言うのかなぁ、確かに情け容赦なく殺したり、強盗をしたり、
最後は彼らも無情に撃ち殺されたのですけど、
最後は彼らも無情に撃ち殺されたのですけど、
非情な時代の中で翻弄され、消えて行った彼らに、
一抹の哀れさを感じるのを禁じえませんでした。
一抹の哀れさを感じるのを禁じえませんでした。
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