・ コロッセオ、修復中   建設後1900年、2024年に新しくお目見え!

「ローマのコロッセオ」というと、「永遠の都ローマ」のシンボルであり

「世界観光地ベスト」に、ヨーロッパ圏で最高の7位に取り上げられ、
コロナ禍で影響が出ているとはいえ、2019年には約760万人もの
観光客が訪れる・・、

1-Colosseum_and_Arch_of_Constantine_seen_from_Palatine_GF.jpg


という、今更ながらの、はい、「コロッセオ・Colosseo」ですが、

今迄の各年代のそれぞれの部分的修復を経て、
遂に2011年、この象徴的な建物の徹底的修復計画が発表され、

2018年12月にイタリアのファッション・グループ、
トッズ・Tod's Groupの巨額な出資1850万ユーロを受け、
新しいコロッセオ・アレーナ建設のプロジェクトが開始。 で、

2023年中に完了する予定で、現在工事が着々と進行中!なので~す。



ええとです、今迄の工事で特別に目に見えて変わったのは、
これがかってのコロッセオの姿。 

2-colosseo_GF.jpg



つまり入場して見える真ん中のアレーナ、かって剣闘士達が戦った
という平面が無く穴ぼこで、地下の遺構が見えており、

3-Panoramic_photograph_of_interior_of_Colosseum_GF.jpg

はぁ、shinkaiもむか~し見学した時、一瞬考えていた姿との違いに驚き、
何となく全体の姿を想像出来なかったのをよく覚えておりますが、



現在は、ここまで変化しており、

4-1-11-28 091006_GF.jpg


つまり上の写真でもちらっと見えますが、東側のアレーナ部分、
楕円の一部にかなり以前から半円形の舞台が出来、
ここで各種様々な催しが行われているのですが、

それ以外、この写真で見える様に、地下の遺構、2階建て部分の
真ん中の通路が出来掛けているのが見え、周囲にも連絡通路が進行中。


この部分はローマ期には、観客たちにはまるで見えず、
地下には地上での大規模なショーに必要な、剣闘士、囚人、そして
野生動物たちが収容され、

4-2-colosseo_sotterranei_GF.jpg

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4か所の通行口から行き来できる通路・地下道、などがあったのですね。



そして今回、最終的にこの様にアレーナ部分、かっての剣闘士や野生動物達
が戦ったアレーナ・平面部が新しく出来るのだそうで!!

5-arena-colosseo-ansa_GF.jpg

この部分はまだ全部出来ておらずで、写真はコンピュータ・グラフィックに
よるイメージだと思います、が。

写真の現在見える地下遺構を覆う部分については、後程詳細を。


企画デザインの入札で選ばれたのは、ヴェネツィアの
ミラン・インジェニェリーア・Milan Ingegneria.

ヴィチェンツァの「パッラーディオのバジリカ」の修復に関わり、世界中の
様々なプロジェクトにも関係し、レンツォ・ピアーノをはじめとする建築界の
著名人とのコラボを誇っている会社だそう。

ジェノヴァにかかる新しい橋 と、 レンツォ・ピアーノの美しい作品あれこれ
https://www.italiashiho.site/archives/20190106-1.html



今回「新しいコロッセオ」について書こう、と思ったのは、
改めてコロッセオについて読み、現在の姿は単なる遺跡と思っていたのが、

かってのコロッセオの機能、作用を読むと視覚的に想像しても素晴らしく、
ほら、ラッセル・クロウ主演の「グラディエーター」を思い出したり、はは、
他にも昔のハリウッド映画のあれこれも、で、

アレーナ部を覆う作業が終わり、2014年から地下見学も可能になったら
行って見たいなぁ! とムクムクと虫が起き出したので、
きっと皆さんも、と知る為と復習を兼ねてこれを。


参考にしたサイト記事は
コロッセオの修復 ・ Il restauro del Colosseo

ローマ、新しいコロッセオ・アレーナのプロジェクト発表
Roma, svelato il progetto della nuova arena del Colosseo

そして例により、ウィキペディアの日本語版、イタリア版を。



まず1900年前、西暦80年に完成したコロッセオ・円形闘技場の様子は、

当時はネロ帝のローマ大火64年や、内戦68-70年の甚大な経済被害から
未だ復興しておらず、首都の再興を進めつつ、緊急政策と共に
市民懐柔の娯楽施設の目玉としての建設検討だったそうで、

当時は他に小さな木造仮設の闘技場しかなく、ネロ帝のドムス・アウレリア・
黄金宮の人工池跡に造られ、地表が10mほども掘り下げられていて、
そこに土台を打ち込み、より耐性を持たせたのだと。

70年のウェスパシアヌス帝治世の70年に始まり、

6-vesp_GF.jpg



その息子のティトー帝の80年4月21日に完成。

7-Tito_3_GF.jpg


経費に関しては、他の公的建設と同様、地方税の収益と、
ジェルサレムの神殿の略奪の戦利品で賄ったそうで!

これは1813年に発見された、元々は入り口の上に置かれていた
奉納碑文のブロンズ文字の穴から、テキストが再構築され、

「皇帝カエサル・ウェスパシアヌス・アウグストゥス、
 彼は新しい円形劇場を建設させた  戦利品の収益で

と判読されたそうで。
こういうのが見つかると、嬉しくなって笑うshinkai、ははは。


構造物は、

8-63172dd61c3bdee4a8d1425206e7_GF.jpg

周囲527m  長辺 187m  短辺 156,5m
内部アレーナは、 86m x 54m
面積 3357平米
高さは、 現在 48,5m  建設当時 52m
観客人員推定は、 5万人から 8万7千人 


つまり、古代ローマの一番重要な記念物という訳ではなく、
現在の我々に迄届いた、一番重要なローマの円形闘技場なのだ、と。

で、1980年からローマの旧市街地と一緒に、ユネスコの世界遺産に
指定されている事は、既にご存じと。


80年4月21日の完成に続き、100日間の!奉献式が行われ、
アレーナに水を張っての模擬海戦も行われ、

9-nau_GF.jpg


何ともはや、当時のローマ市民たちの楽しみは桁外れですねぇ!!

これは近くのローマ海軍の基地港から兵士達がやって来て従事し、
彼らはまたコロッセオの天井に布を繋いでの大きなテントを張り、
観客席に直接太陽光線が当たらぬように、天幕を張る仕事にも、と、

鳶職人の代りもさせられたのでしょうね。
当時はそんな高い場所での仕事なんぞは無かったでしょうしね。


テントが張られた状態のコロッセオの様子、再現ヴィデオはこちらで。
https://youtu.be/goZXIyPLpY0


模擬海戦は、後にアレーナの表面真ん中に動物たちを飛び出させる為、
また剣闘士達も登場できるように、人力による「巻き上げ式エレベーター」
など80機もの大掛かりな仕組みが組み込まれた為、取りやめになったそうで。


人力によるエレベーターなどの再現も既に出来上がっている様子で、

なにせこれを書きながらたまたま見つけたもので、まだ読んでおらず、
n.2の記事も見つからず、他の記事も見つかり・・。 後刻のご報告に!



で、闘技場でのプログラムは、午前中は剣闘士と野生動物の戦い、
午後は罪人の公開処刑、

ローマがキリスト教を国教と決める以前、禁教の信者たちがコロッセオで
野生動物の餌に、という話が本当かどうか、
この罪人処刑に含まれるのかどうかは、分かりません。

そして午後はメインの、剣闘士同士の戦い、となっていたそうで、
年間数千人の剣闘士がここで命を落としたであろうと。


観客席は1階が上院議員、貴族階級、2階が騎士階級、3階が一般市民、
最上階は市民権を持たない奴隷、女性席があったそうで。

10-Colosseum-profile-english_GF.jpg


ふむふむ、映画の中では1階席で身を乗り出し、興奮して大声で喋りまくる
一般庶民の姿が出ますが、あれは嘘だったんですねぇ、成程ぉ。

11-Jean-Leon_Gerome_Pollice_Verso_GF.jpg



という様な様々な当時のスタイルを復元させ、そして修復保存する為の
大大規模のプロジェクトで、

考古学者14人、修復者45人、建築家3人、技術者4人、印刷関係2人、
建設労働者13人を含む、80人以上の専門家が参加しており、

工事完了後には160mの通路が設置され、これまで一般人が入れなかった
この円形劇場の非常に重要な部分も鑑賞できるようになる筈で、

と共に、2024年から訪問者がより簡単にアクセスできる様に、
ビジター・センターは円形劇場の外に移されるそう!


今迄の所、コロッセオの修復作業は正確に781 日間、55,700時間以上
作業に費やされ、総面積 15,000 平方メートルの古代の円形劇場が
かつての栄光を取り戻しつつありますが、

膨大な量の材料が使用され、

石灰華・トラバーチン、 

12-str-travertino-romano-trevi-dettaglio-01_GF.jpg



ペペリーノ・火山砕屑、班点があり灰色がかっている

13-peperino-pietra-caratteristiche_GF.jpg



トゥーフォ・凝灰岩、

14-tufo_blocco_GF.jpg

全部で4000平米。


6300平米の煉瓦、 千平米の石膏、 2000平米の露出した古代の壁の保護、

ヘリンボーン式の床建設 700平米

1500平米のコッチョペストのフローリング・表面の防水材として使用される
モルタルと砕いたセラミックの混合物、


という、今回の大コロッセオの修復は、

古代ローマの最も重要な記念碑の、最も象徴的エリアの1つを回復させ、
かっての栄光の一部の復元に貢献するまさに巨大な・コロッサーレな
作品なのです、と。



そして、最初にお話しした、かっての剣闘士達の舞台であった
アレーナの床再現ですが、

これは環境にやさしい木製の床を設置しますが、炭素繊維のパネルが
移動、回転し、それにより地下の眺めと換気の両方が保証されるそうで。

つまり地下の訪問が出来るだけでなく、上からの全体が0,5ヘクタールの
地下の広がりも一見できる訳ですね。

そして当時の高さに位置するこの床は、非常に薄い厚さのお蔭で、
形と機能の両方がOKとなり、

これを支える梁は、機械的な固定なしで、壁構造に直接配置し、
これは可能な限り今迄の遺構を変えず、傷つけず、
そして巻ける様にする為で、

もし取り除く必要がある場合は、現在の状態に回復可能、にと。


そして新しい床面は、炭素繊維で作られた可動パネルで構成されますが、
強度だけでなく、耐久性も高める為に、

木材繊維のアセチル化プロセスを通じて得られる」素材の
アコヤ材で覆われます、と。

いうので検索をかけましたら、今頃は大変凄い世の中になっており、
調べる言葉さえ分かっていれば、有り難く十分分かる言葉で教えて頂き、

つまり「木材のアセチル化」というのは、木材成分に酢酸を科学的に
結合させる方法で、

16-p1-1_GF.jpg


腐朽菌やシロアリ,フナクイムシ等に強い(耐久性の向上)
水分による伸び縮みが小さい(寸法安定性の向上)となり、
環境配慮型資材としての利用、人に安全・安心な資材としての利用
が出来るという、

現在のハイテク技術が生み出した新しい木材利用なのですね。

こちらに詳しく説明が。 アセチル木材の実用化への取り組み

そして出て来たアコヤ材、というのは、自然木材の名ではなく、
調べていて分かったのは、

アコヤ材というのは、
ニュージーランド産のラジアタパインを、オランダでアセチル化した製品名、
である事が分かりました。

つまり木材の欠点である、狂う、割れる、腐る、を極限まで抑えた新木材
という事で、日本でも様々な部分で販売進出がある様子。


なんとまぁ、1900年前のコロッセオの修復に、最新木材がねぇ!

世間は狭いというか、イタリアでも古い文書の修復に日本紙が使われる、
という事ですが、新しい技術品が出来ての良い修復、ですね。

今の世界に、レオナルド・ダ・ヴィンチ様が蘇られたら、何を造られますか?!
と考えた事でした。

ガラタ橋は、釣り人天国 ・ イスタンブル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461093420.html



2018年6月に、映画「グラディエイター」のラッセル・クロウが招待され、
この時はまだ目に目ぼしい修復の進みも無かったのですが、

はい、クロウ氏は顎髭真っ白、お腹が驚く程突き出し、
歳月の長さ、移りを感じましたですが、

コロッセルで、映画「グラディエーター」と演奏会かな、それとも演奏付きの
上映かな、が行われた様子で、

17-11-28 183549_GF.jpg

18-gladiatore-colosseo_GF.jpg

夜のコロッセオも素敵ですねぇ! 



コロッセオは6世頃まで使われたものの、キリスト教が国教となり、
段々剣闘士たちの戦いも人気が亡くなり、放棄され、
様々に使われたものの長く続かず、
中世以降は建設資材の石切場、となったというのは皆さんもご存じと。

でも、shinkaiの大好きな、へへ、「モンテ・クリスト伯」なんぞには、
パリからの大ヨーロッパ遊学でやって来て、夜のコロッセオを見たり、
という場面が出てくるので、当時は観光資源になりつつあったのかも。


上手く纏まったのかどうか、まだまだあれこれネタがあるのに、という
気もしますが、また新しく見つけた記事を読み、興味ある事を見つけたら
再アップを致しますね。


こちらに見つけたヴィデオを
コロッセオ、ローマで大アレーナの再建のプロジェクトが(オバマ元大統領が)
Colosseo, a Roma il progetto di ricostruzione della grande arena


コロッセオ、修復が色を甦らす
Colosseo, il restauro svela i colori


下のヴィデオでの説明は、使われた石灰華の石に彫り込まれた文字、
80あるアーチにそれぞれ番号が彫り込まれており、観客たちは
買った切符に書かれた番号の入り口から入ったそうですが
外はスモッグで真っ黒になっていた大理石が、内側の壁も蒸気を
吹き付けられ白く元に戻り、彫り込まれた数字が見えるようになり、

19-11-28 093308_GF.jpg


写っている番号はXL・40番ですが、表と内側に同じ番号が彫り込まれ、
それに酸化鉄の赤色、粘りのある色で、よく分かるように色を付けていたのが、
分かったのだそうで。

20-11-28 093110_GF.jpg

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これは精々2年半か3年持つ位というので、きっとその都度何世紀間か、
塗り直していたのでしょうね。

で、最後にこのドットレッサが言われたのは、手の右横に赤く見えるのは、
これは1970年代に悪戯されたペンキなんだそうで、
大理石に染み込み、取れないのだそう!

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文化財を崩壊する、卑怯者である、と強い言葉で非難されましたです。



という様な、長くなりましたが、「蘇りつつあるコロッセオ」のお話でした。


最後は上のヴィデオに写る作業員の背中に見えた言葉、

イル・パッサート・コメ・フトゥーロ・過去は未来のごとし

23-11-28 091813_GF.jpg



ディアーモ・ルーチェ・アッラ・ストーリア・歴史に光を

24-11-28 091942_GF.jpg

なんと言うか、こういう言葉やデザイン、イタリア人は上手いですねぇ!!


ではでは、まだの方はローマ観光の目玉に、既にの方は再度のローマ訪問を
よろしくお待ちしておりま~~す!!   イタリア観光相に成り代わりて。

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・ レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」の謎、噂、今どこに展示?

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、女性のみの肖像画は4点のみ、
と言ううちの1点、それがまた素晴らしい作品のこちらで、

1-Lady_with_an_Ermine_-_Leonardo_da_Vinci_GF.jpg

板に油絵  54,8x40,3cm

この「白貂を抱く貴婦人」のあれこれの謎、きな臭い騒動、
そして今展示されているのはどこに? のお話を。


まずこの作品は今どこに展示されている? からですが、

実は来年初夏にポーランド、と言っても私めはクラコフ・Krakówのみ
の心算ですが、日本からの友人と訪問の約束が出来ており、嬉しく、

で、クラコフのお城博物館にこのレオナルドの「白貂の貴婦人」が
展示というので、レオナルドの真筆の絵を見るのは2点目で、
うほうほと喜んでいたのが、


何度となくあれこれサイトを見ているうちに、ウァヴェル城に展示とばかり
思っていたのが、

2-castillo-wawel_GF.jpg



街中の「チャルトリスキ博物館・Museo Czartoryski」展示、と
表示があるのに気が付き、

3-Czartoryski_Palace,_17-19_świętego_Jana_street_GF.jpg


どっちに行ったらええんねん、と調べる内に、


なんとまぁ、元ポーランド国王家であったチャルトリスキ家コレクションが
バーゲン・セールで、(これはBBCのサイト記事の表現)

2016年12月、総額が20億ユーロとみられていたコレクション全体が
約1億ユーロでポーランド政府に売却され!たという事実がありました。

左がアダム・カロル・チャルトリスキ氏・Adam Karol Czartoryski、 
右が政府の文化省大臣と。

4-download_GF.jpg

この金額の大差は大変な論争の的となり、なぜと言うに、

レオナルドの作品のみでも、2億ユーロ以上の値段が予想されていたので、
チャルトリスキ財団の理事会一同総辞職、となりましたが、

現相続者である、チャルトリスキ家当主アダム・カロル・チャルトリスキ氏は、
 「人生において、私たちはそれぞれ、自分が感じたことを、
  自分がしなければならないと感じる方法で行います。
  私は一種の寄付をしたかったので、これが私の選択でした » と。


この辺りの事情については、
「お買い得」価格で売られた白貂を持つ貴婦人. 王子のポーランドへの愛が事件を起こす
La Dama con l’ermellino venduta a prezzo «stracciato» L’amore di un principe per la Polonia crea un caso

いずれも画面上でクリック、または右上の翻訳、をクリックすると日本語で
読めますのでどうぞ。


まぁ、お安い価格でコレクション全体がポーランド国のものになるので
あれば、政府、お国の皆様にとっては大変良い事で、へへ、

そして実際にコレクションが公開されるのであれば、問題ありません、
とshinkaiは考えるのですが、

ですがこの後ひき続ききな臭い金銭問題が発生しておりまして。


実はこの現チャルトリスキ家当主アダム・カロル・チャルトリスキ氏
(1940~ スペイン、セヴィリア生まれ)には、

先妻のノーラ・デ・ピチョットとの結婚(1977年1月)で誕生した
娘のタマラ・ラウラ・チャルトリスカがおり、先妻とは1986年離婚。

のち2000年12月に現在の妻ジョゼット・カリルと結婚しており、

現在の一家。 とは言え、娘御はスペイン貴族と結婚され、あちらに。

5-1-adam-karol-czartoryski-8756db39-0d1e-41be_GF.jpg

こうしてみると、一見問題ない様なのですがぁぁ、


はぁ、実は上記したチャルトリスキ家のコレクションを
ポーランド国に売った1億ユーロですが、

娘のタマラによると、この金額がコレクション財団の口座から消え、
リヒテンシュタインのタックスヘイブン、に入り、
つまり非課税の自分の口座に入れるつもりだろうと非難し、


また自分の父親が「2017年1月の財団会議で、大声で、
「私はポーランドとポーランド人が嫌いで、この国のために
もう十分尽くした」と宣言し、

彼の妻は「ポーランド人は信用できない。これからは億万長者のように
暮らすことになるだろう」と答えたと言い、

この件に関しては証言する準備も出来ている、という泥沼状態!ですが、

付け加え、多分、妻のジョゼット・カリルが計画したと思うこと。
彼らは2012/2013年から取り組んでいて、最終的に父親を説得し、
操作し、それが唯一の正しい解決策であると説得したのだろうと。


娘のタマラなる方は、この方はその美しさに溺れず、若い時に
かなり厳しい生き方をされてこられた意志の強い方の様で、

資金を元の口座に戻し、財団が効率的に運営できる様、
強力な管理チームを紹介する事。
こうして家族の名声を守り、その遺産を祝うための戦いの最前線に立ちたい、
とインタヴューに答えたそうで。

これらを読んだのは、2018年4月24日付 ポーランドのサイトで、
チャルトリスカ王女が継母を非難!貴族の鋭い言葉 「父の妻であるジョゼット・カリルが計画したと思います。
日本語に翻訳して読めますので、興味ある方どうぞ。


現当主のアダム・カロル・チャルトリスキ氏は、現在82歳ですか、
ポーランド国王跡継ぎに成るべく生まれたものの、ずっとスペイン、
イギリス等などのいわゆる追放生活が続き、スポーツ選手としての名声も
ある方だったのが、

人生最後になり、今迄の内心のうっぷん晴らしだったのかもですが、
お金が絡み、娘とも断絶の、う~ん、すっきりしない結末にハマられた様で。


という様な、はぁ、きな臭いお話が先に来ましたが、

この美しい「白貂を抱く貴婦人」は、他の全てのチャルトリスキ・コレクション
と共に、これは約8万6千点の品、25万点の写本、書籍で構成され、
現在はポーランドの国有財産に。


で、ダ・ヴインチのこの美しい作品は、現在クラコワ旧市街にある
チャルトリスキ博物館ピヤルスカ通り 15 番地・Pijarska 15 に
2020年以降展示。 やれ、分かって安心!

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時間、 月曜休館 火曜10時-18時 この日は無料
    水曜~日曜 10時~13時 14時~17時

料金  一般 35zloty 他に家族用切符などもあり、シニア料金もある物の、
     エウロ圏国民とか、それの証明書が必要とか、かなり面倒そう。
  
で、 1EUR = 4,7 PLN( zloty)   1 zloty = 0.21EUR

見学には予約が、日にち、時間が必要で、というのも、
各時間のチケットの総数には限りがあるからだそうで、こちらから。
https://mnk.pl/branch/the-princes-czartoryski-museum/tickets-information

チャルトリスキ博物館には、バス 124、152、424、
             トラム 4, 14, 18, 20, 52,
    いずれも停留所は、"Stary Kleparz"

という所まで予習したshinkai、これからまた徐々に。

博物館サイトはこちらから。
VISITARE LA MOSTRA CON LA "DAMA CON L'ERMELLINO"

他のコレクションの殆どは、何せ数が凄いので、ウァヴェル城に展示との事。



この有名なレオナルドの作品は、1482年から1499年にかけて描かれ、

依頼主は当時のミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロであり、

6-Ludovico-il-Moro_GF.jpg



モデルは当時16,7歳の、イル・モーロのご愛妾チェチーリア・ガッレラーニ、
というのは、皆さんよくご存じと思います。

彼女については、 ダ・ヴィンチのデッサン「白貂を抱く・・」
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20181205-1.html
に少し書きましたので、ご覧頂けると嬉しいです。



で、今回あれこれ探していて分かった事などを少し付け加えますと、
上記の https://www.bbc.com/news/world-europe-38462474 に

こんな写真も見つかり、

7-1-77894788_leonardo634_GF.jpg


新しい技術により2014年に分かった、絵が少なくとも2回描き直された、
というのを示しているのですが、

つまり最初は何も腕に持っておらず、左肩下は右同様の袖が見え、

次に、胸元の飾り紐が消え、グレイの動物を抱き、右手が添えられ、
左肩は青色の上着となり、

最後に腕の動物は少し太った白いオコジョ、となり、右手の指も変化し、
手のひらの角度も少し持ち上がり、完成。

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という変化が分かりますが、

これを見て、やはり、なんとも凄い完成度を目指すのだ、と感嘆。
クラコフの博物館での対面が本当に待ち遠しくなりました!



実際の絵画の通称は、白貂・エルミンで、これは1488年ナポリ王から
イル・モーロに授けられた「エルミン騎士団」の名誉から、

本当の絵の中の動物はフェレットと思われますが、エルミン、イタチ、オコジョ
になぞらえ、絵の依頼主が誰か分かる様に、

そして「エルミン」はギリシャ語ではガレ・galḗ (γαλή)・強風、と呼ばれる
事から、ガッレラーニをほのめかす、語呂合わせという・・。

こう考えると、イル・モーロがいかに彼女を可愛がっていたかが想像でき、

7-2-7897577_leonardo_bernie3_GF.jpg

まぁ、レオナルド様も、あれこれ彼の気に入る様に、と構図や意匠を
考え描き直したのかも、と想像できますね。


貂・イタチ、は野生で嚙みつきやすいのに比べ、猫の様に飼いならされた
動物のフェレット、イタチ(体長は30cmを超えず)より大きく、
当時のロンバルディア郊外でも比較的簡単に見つけ、
観察もしやすかったであろうと。


と検査により、彼女の右上には窓が描きこまれていた事も分かっており、

現在の背景の黒一色というのは、いつの事か分かりませんが、

彼女の髪に掛けられているベールと髪型も、黒塗りの際にかなり
変えられている事が分かります。



と左上の署名、LA BELE FERONIERE  LEONARD D’AWIVCI

8-Dama-Ermellino-Particolare_GF.jpg


これはレオナルド自身の署名ではなく、多分1798年にイタリアで
この絵を発見、購入したアダム・イエジィ・チャルトリスキ(1734-1823)
が入れたもの、入れさせたものであろう、と。

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残念な事に、この絵の所有者の来歴が残っておらずで、
3世紀間程、どこかのお屋敷の奥に秘匿されていたのでしょうね。

絵がポーランドに行き、チャルトリスキ・コレクションに加えられた後
ロシアからのポーランド独立を目指した11月蜂起があり、1830-31年
隠匿され、蜂起の失敗の後パリに亡命のアダムに従い、絵もパリのホテルに。

クラコワに戻ったのは1882年になっての事で、1939年にナチス・ドイツの
パーランド侵攻で収奪され、ベルリンの現ボーデン博物館に。

そして1年後にポーランド総督となったハンス・フランクが自身の執務室に
飾る為に要求し、その後の行方は分からなくなっていたのが、

第2次大戦終結時、連合国兵士により、バイエルンのフランクの家で
無事発見され、大戦終結後に他のコレクション共にポーランドに返還、

という長い遍歴の歴史があり、

今もこうして無事におめもじ出来るのは、考えて見ると本当に、
平和の有難さですねぇ。



絵の額も、素晴らしく典雅で美しく!

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我々の時代まで届いて下さったのを、やはり次代の方々にも、と願います!!


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・ 木の梢の位置を巡る スイスの世界一長い散歩道

今日のご案内は、南スイスにこの夏オープンした散歩道、
それも木の梢の高さを巡る1,6kmの、世界一長い散歩道を。

1-1-sentiero-laax-alberi-percorso-poltera-senda-dil-dragun-mondo-qitt_GF.jpg


参考にしたサイト記事は
木の梢を歩く世界で最も長い道
Camminando tra le cime degli alberi sul sentiero più lungo del mondo

”センダ・ディル・ドラガン”:世界一長い小道
”Senda dil Dragun”: il sentiero più lungo del mondo


名前がまた素敵で、センダ・ディル・ドラガン・Senda dil Dragun・
ドラゴンの道。

由来は、土地の地滑りの歴史の中で、大きな雌のドラゴンが尻尾を伸ばし、
2つの村を繋いだ、という謂れにちなむのだそうで。


まずどこにあるか、地図をどうぞ。
真ん中を横切るグレイの線がイタリアとの国境で、
東並びにかの有名なダボス・Davosのスキー場があるのを知りました。

1-11-16 163024_GF.jpg


名の由来に出て来た2つの村、というのが、
ラークス・ムラシェッチ・Laax Murschetgと、ラークス・ドルフ・Laax Dorf. 

上の地図をずぃ~~と拡大していくと、見えてくるのがこの地図で、
右上と斜め左下に見えるのが、散歩道の2か所のアクセス地。

2-11-18 172131_GF.jpg

残念ながら、まだグーグル地図に行程が載っておらず、で。

つまりグーグル地図を開かれ、スイスのSenda dil Dragunで検索され、
それをどんどんアップして行かれ、この様に見えてから、

右上に囲った場所にマウスのポイントを合わせると、こんな写真がでます。
こちらが高さ73mの、滑り台もある塔で、

3-Torre-Murschetg-ingresso-Senda-Dil-Dragun_GF.jpg



左下のアクセスの塔はこの形。 で、

4-Senda-dil-Dragun-torre-Dimplaun_GF_1.jpg



こんな風に林の中に入って行き、東1,56kmにある上の写真の
塔に到着、という訳で、逆行きも勿論。

5-Senda-dil-Dragun-svizzera_GF.jpg

で、73mの高い塔は、円筒形の、多分、滑り台付き!



建設中の写真もたくさん見つかりましたが、とにかく、この高さ!

6-Baumwipfelpfad_Laax_080_GF.jpg

7-default_landscape_GF.jpg

ご覧の様に、積雪の関係からと思われる地元の木材600本の杭と鋼鉄が使われ、


約1年の工事期間を経て、今年2022年7月中旬にオープンし、
平均しての散歩道の高さは28m、ビルの7~8階に相当する高さでしょうか。

途中4か所にプラット・フォームが設けられ、座って景色を堪能でき、
様々な情報パネルも備えられており、

2か所のアクセスの塔にはエレベーターも備えられており、車椅子の方
でも林の中の高い散歩道を楽しむ事が出来ます、との事。

8-1-buehne-home_1920x1600_baumwipfelpfad-laax-3_GF.jpg

8-2-Senda-dil-Dragun_GF.jpg

8-Senda_dil_Dragun_Platform_Uaul_Casti_Flims_Laax_1270x700_GF.jpg

9-Treetop_Walkway__Switzerland_GF.jpg


同じスイスにも、また世界中に散歩道は既に多くあるので、建設以前
たくさんの調査をしたそうで、その成果を盛り込んだ訳ですね。

この道を歩く事により5感が活性化し、これまでにない視点からの森を体験、
静けさを楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾け、素晴らしい景色を堪能でき、
様々な種類の樹木を発見でき、
この地域の歴史、動物、狩猟の秘密も発見する機会の提供、などなど。


村に戻りプロジェクトを紹介すると、コミュニティも興奮し、
環境保護の様々な団体や組織がプロジェクトに参加し、環境と自然、
森林、動物の保護が苦慮され、

道のラインは自然な方法で選択され、伐採は必要な限りに留めたと。

自治体は750万スイス・フランの資金提供をし、管理と所有は
自治体と25年間の契約を交わしたヴァイセ・アリーナ・グループ。


多くの訪問者を期待し、当初の見積もりに基づくと13万人、と。
・・というのは、これは年間の数字でしょうねぇ。

なるべく早い時期にチケット販売で、自治体にお金を還元できる様に
願っています、と。



地図でご覧の様に、すぐ近くには湖もあり、一帯がヴァカンス地の様。

10-85882299087_421687251696705587_n_GF.jpg


この夏のオープンからで、既にいくつかのYoutubeが挙げられており、

全体の様子がよく分かる20分15秒
https://www.youtube.com/watch?v=gEdPt7i-mMk 

2人のフランス男が喋りまくる・・、11分58秒
https://www.youtube.com/watch?v=ZZ_Q5bM_uzs
  
shinkaiは地図を睨み、ヴィデオを見、全体を掴むのに時間がね、ははは。


東側の村、多分ラークス・ムラシェッチ・Laax Murschetgの方が大きく、
駐車場も900台可能、宿泊設備や様々な観光施設も完備、という感じで、

歩いての行き来も勿論OK、現在途中にバーヴェキュー・サイトの設置も
予定されているそうですが、

低い塔の方の村ラークス・ドルフ・Laax Dorfからの戻りには便利な
バス・サーヴィスもあると。



夏も勿論でしょうが、今のこの秋の紅葉の美しい時期はどうなんだろ、と
思い探しましたら、少しですが、黄葉の写真も。

11-n-wide2x-16x9-fill_GF.jpg

12-Bergherbst_Senda_dil_Dragun_Flims_Laax_Herbstfarben_GF.jpg

13-default_landscape_GF.jpg

14-trai-nghiem-di-bo-qua-rung-cay-o-thuy-si-010439_GF.jpg


公式サイトはこちら。 日本語に翻訳OK.
www.flimslaax.com/naturerlebnisse/baumwipfelpfad
夏は朝9時から18時迄開いている様子ですが、現在は11時から15時半。

で、チケットのお値段は? と思ったのが、予約しない値段が出ずで!
https://tickets.laax.com/buy-tickets?productId=baumwipfelpfad-retour-ticket-gc-r

カレンダーが出て、空きがあるかどうかも分かります。


高い塔の滑り台のみも利用でき、多分お子様向けね、
10時から17時まで、天候の良い日のみ、(これはきっと歩道も、と)

5CHF・スイスフラン = 5,11 EURO で、2回OK。 を見つけたので、


多分、その倍の10CHFか、も少し高いかなぁ、と!
はい、スイスの物価はイタリアよりもずっとお高い、と聞きますし、ね。

住所
Senda dil Dragun  Via Murschetg  7032 Laax
TEL  +41 81 920 92 00



もう既に雪も降った様で、勿論ね、はは。

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スイスの、世界一長い、木の梢の高さの散歩道、のご案内でしたぁ。

いつか近くに行ける時の為に、覚えておいて下さいね!  私も!


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・ ロダンとカミーユ・クローデル エロス、芸術、愛、狂気の圧倒的なお話

彫刻家というと、ルネッサンス期のミケランジェロがいますが、
音楽のヴェートーベン、モーツァルト、文学におけるゲーテ、
画家のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエッロ等、と並び時代を超え、

彫刻家のロダンは、時代を超えての世界的名声、
例え名だけでも知らぬ人はない、という存在と思います。が、

彼がちょうど「地獄の門」を制作し始めた40歳過ぎ、1880年頃、
彼のアトリエで生徒として出会った24歳年下のカミーユ・クロデール

1-1-camille-claudel-foto_GF.jpg


彼女の若さと美しさの前に、激しい愛と芸術のせめぎ合い、
芸術家同志としては互いに影響を与えあう幸せな10年ちょっとがあり、

最後は結局ロダンのずっと以前からの内縁女性の存在の前に
2人の関係は破局となり、

哀れな事にカミーユは精神的に崩れ、後半生の30年間を
ずっと精神病院で過ごし亡くなる、という女性の存在がありました。

1-img-ritratti-camille-ve-Rodin-1_GF.jpg


単に美貌と才能に満ちた若い生徒と師の関係ではなく、
ロダンの彫刻の幾つかには、明らかにカミーユの手が入っていると言われ、

つまりロダンにとっては助手、粘土、石膏、型を準備する助手であり、
彼は彼女の持つ技術を利用し、そして様々なインスピレーション、
をも与えたに違いない、彼の愛人でもあったのですね。


ロダンの有名な作品「接吻」 1887年  

2-auguste-rodin-the-kiss-marble-ny-carlsberg-glyptotek-_GF.jpg

この作品を見ると、2人を思わずにはおれませんね。


最初、この作品は「フランチェスカ」と名付けられたそうですが、
「パオロとフランチェスカ」の2人の愛も悲劇に終わったお話。

n.2 グラダーラ  城 と パオロとフランチェスカ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/470815220.html



ダンテとカミーユの経緯はずっと以前聞いた事があり、
知ってはいたものの詳細はで、今回出会ったサイト記事がこちら。

ロダンとカミーユ・クローデル、エロスと芸術と愛と狂気の圧倒的な物語
Rodin e Camilla Claudel, travolgente storia d’eros, d’arte, d’amore e follia

ロダンとカミーユ・クローデル:愛と芸術の物語
Rodin e Camille Claudel: una storia d’amore e d’arte

オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデル、巨人と蝶
美神ではなく共犯者、共生する官能的な愛の物語
Le storie d'amore nella storia dell'arte: Auguste Rodin e Camille Claudel, il gigante e la farfalla
Non musa ma complice: storia di un amore simbiotico e voluttuoso

他に、ウィキペディアの日本版、ロダン、カミーユ共に。

が、今回は余りにも偉大な彫刻家であるロダンではなく、
彼と共に人生のひと時、余りにも短く濃縮された10年ちょっとを過ごし、
そして去ったカミーユ・クロデールについてを。


カミーユ・クローデル・Camille Claudel (1864-1843)
パリから南東に110km程、車で1時間半、電車で2時間の
ノジャン シュル セーヌ (オーブ)・Nogent-sur-Seine (Aube)生まれ。

父親は公証人役場の管理職を務め、詩人・外交官として有名な
ポール・クローデル(1868-1955)は弟。

彼女は幼い頃から彫刻に親しみ、粘土でモデルを作ったりと、
卓越した技術と才能を示し、彫刻家アルフレッド・ブーシェ・
Alfred Boucherに評価され、パリに出る以前、彼のアトリエに通います。

1881年に彫刻家になる夢を持ちパリに出てきますが、当時の
エコール・デ・ボザールは女子の入学枠がなく、別の学校に進学。

その学校の彫刻家の師がアルフレッド・ブーシェ、だったと思いますが、
1883年彼はイタリア・フィレンツェ、ローマに1年間出かけるにあたり、

そのアトリエの代理の師を友人のオーギュスト・ロダンに頼み、
そこで2人は出会ったと。


1883年のカミーユと家族。 多分一番手前が彼女と。

3-1883-704x1024_GF.jpg



カミーユ 19歳、 ロダン 43歳

美しく才気活発な19歳の若き女性、ロダンは背が低く、足が不自由、
近視でさえあった、と書いてもある記事があり、
2人は「美女と野獣」とも、 また「巨人と蝶」 とも。

いずれにしろ才能ある男性、それもかなり年上の芸術家であり、
彫刻家を目指す彼女は、多分即、その彼の大きさ、カリスマ性に
恋をしたのだろうと推察します。

アトリエのロダン

4-gettyimages-2_GF.jpg



アトリエで制作中のカミーユ

5-1-camille-claudel_GF.jpg


すぐにロダンのお気に入りの生徒となり、が、既に素晴らしい技術を
持つ彼女に自分の作品の粗削りと、手足の仕上げを託す様になり、

20歳の彼女は、モデル兼同僚としてロダンのアトリエに入ります。


彼女の非常にきわどいエロティックなスケッチと同様に肖像画のポーズをとり、
2人の彫刻家がお互いに影響を与えるとりわけ幸せな時期を持ちます。


パリのロダン博物館に所蔵されている多数のスケッチが、
カミーユへの愛の進化を語っているされ、

5-2-camille-posa-per-Rodin_GF.jpg

5-3-acquerello_GF.jpg


これらのスケッチには関連するエロティックな内容と、カーリダーサという
4,5世紀のインドのサンスクリット作家によって改訂、再編集された
カーマ・スートラを参照するカミーユ自身による幾つかの作品もあると。

彼らの関係がさらに進むと、継続的な仕事となり、どこまでがどちらの、
と識別する事は困難になり、 とあり、

当然ロダンの作品からカミーユは大きなものを得つつ、またそれが
ロダンの仕事への貢献となり戻るわけで、
2人の関係もどんどん深くなって行ったのでしょう。


カミーユの、ロダン像 1888-1889

5-4-Rodin-Camille-Claudel-Busto-di-Rodin-1888-1889_GF.jpg



ロダンによる、カミーユ像

5-5-Rodin-maschera-di-Camille_GF.jpg


こうして続く年月、2人は一緒に仕事をしたり、旅行をしたりしつつ、
1888年共同のアトリエを開設します。

が、この時以来カミーユは彼女の個人的スタイルを少し調整し始め、
絶対に紛れもない熱意と情熱の特徴付けが現れます。


ロダンには既に長年の内縁で、息子も生まれていたローズ・ビューレ
Rose Beuretがおり、カミーユとの関係が深くなるにつれ、2人の間の
問題となり、ロダンは2人の女の間で悩んだのでしょうが、結論に至りません。

カミーユが20歳前に妊娠した時も、結局ロダンは彼女に中絶を迫り、
彼女にとってはかなりのショックだったでしょうし、
大きな喧嘩、遠ざかり、という事もあった様。


1888年カミーユは作曲家のクロード・ドビュッシー・Claude Debussy
に出会い、作曲家から直筆の手紙が残っており、2人の相互の関心を
示す多くの証拠があるそうで、

ワルツ」 カミーユの作品  ドビュッシーとの別れの後

6-Il-Valzer_GF.jpg


2人の行き来は1889年までの約2年間続くものの、特別な影響はなく、
実際カミーユはロダンとの関係も続けており、

つまりカミーユは、ローズとの決着をつけないロダンへの見せつけ、嫉妬を
煽るつもりだった様ですが、

2人の関係は非常に荒れ狂う様になり、断絶があり、和解しても短期間。

そして遂に1898年、2人は永久に別れ去ったのでした。


別れの後のカミーユの作品 「成熟

7-matura_GF.jpg


1906年カミーユはケ・ブルボン・Quai Bourbonのアトリエに引っ越し、
そこで数多くの作品を破壊し、
精神的苦痛の兆候が表れ始めたのは1913年。

この年唯一の理解者であった父親ルイが亡くなり、心の支えを完全に
失い、パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院に強制入院させられ、

その後第1次世界大戦の影響で、南仏のアヴィニョン近郊の
モンデヴァーギュ精神病院に転院し、以後生涯をそこで過ごし、

1943年10月19日、家族に看取られず、78歳の死


彼女の創作活動は1880年頃に始まり、1905年頃に終わり、

つまりロダンの傍らで生きていた期間、わずか25年間ほどであり、
哀れというか、残念というか・・


カミーユと、彼女を嫌った母親との間には生涯確執が残り、彼女も同様で、
精神病院に入院後は創作する事なく、誰とも口を利かず、知り合おうとせず、
1人自分の世界に閉じこもり、

母への憎悪と、周囲の患者を見下す事で自分の精神の安定を保った、と
いうのが、読んでいて辛い事。



ですが、ロダンの53年間に渡る伴侶となり、亡くなる16日前に結婚した、
というローザ・ビューレ・Rosa Beuret(1844-1917)について読むと、

ロダン作、ローザの像

7-Rose_Beuret_par_Auguste_Rodin__GF.jpg


お針子、洗濯女だった彼女は20歳の時にロダンと知り合い、彼は4歳年上、
彼女は内気で控えめ、一方のロダンは真面目で勤勉、素朴で内気、
だったというので、良い相手同志だったのかもで、

一緒に引っ越し、仕事を続け、ロダンは時々彼女のボタン付けも手伝い、
一方彼女は徐々に忠実な仲間となり、ポーズも取るようになり、
こうしてロダンは女性の肖像にも近づき、

産まれてきた男の子も、彼は認知せずのまま、彼のモデルもしており、
となると、これはもう完全に長い年月の「一家庭の形成」だったわけで。


と、いわゆる三角関係にある2人の女性の様子を少しでも知ると、

カミーユはロダンにとって、まさに禁断の実の様な、若く美しく、
輝く才能と自信に満ち、才気溢れる勝気な性格を持ち、
ロダンに結婚を迫ったのでしょうね。

彼女の前に、一旦は官能と仕事の両欲の前に屈したロダンも、
10年を経てちょっと目が覚めた、という感じだったのかな、
というと厳しいかもしれませんが・・。

そんな様々な感想を抱いた今回のテーマでした。


カミーユの破壊を免れた約90点の彫像、スケッチ、絵画が現存し、
1951年弟のポールがロダン博物館で展示をしたそうですが、

2017年カミーユの生まれたノジャン シュル セーヌに、彼女の作品を
集めた「カミーユ・クローデル美術館」が開設されたそうで、

こちらでヴィデオが見れます。
Musée Camille Claudel, ouverture le 26 mars 2017
https://youtu.be/ibjPoEcDJ-U



写真に見る、本当に美しいカミーユの写真に驚き、
見た途端に「イザベル・アジャーニだ!」と思ったのでしたが、

8-1-Camille_Claudel_Thumb_LeftOne249227_GF.jpg



実際イザベル・アジャーニ主演で「カミーユ・クロデール」という
タイトルで1988年、映画になっており、

8-11-14 110156_GF.jpg

ロダンを演じるのは、ジェラール・ドパルデュー。

彼の顔は一瞬分からず、・・信じられ~ん!!  今の彼は誰だぁ?!

映画のストーリーを読みましたが、もめ事続き、喧嘩続きの様で、
う~ん、こういうのはこの年になるとシンドイなぁ。



最後は、若い頃姉のカミーユから日本の素晴らしさを聞き、その後
外交官となり駐日大使だった事もあり、
日本人、日本文化の素晴らしさを伝え、戯曲「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
「繻子の靴」なども残した弟のポール・Paul(1868-1955)

9-Paul_Claudel_01_GF.jpg


ロダンと別れた後の姉の経済援助もしていたそうですが、
姉を精神病院に強制入院させたのも、後の30年間、彼女が家に
戻りたくとも許さなかったのも、弟のポールだったそうで、

そう言った厳しくも、大変に知的で理性的判断が出来た人だったろうと。

カミーユの生涯は、家族にとっても大変だったろうなあと思い、
知ったこちらも、あれこれ物思いに耽った事でした。


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posted by shinkai at 02:58Comment(0)・欄外

・ 絵の中に描かれた眼鏡  中世から17世紀迄の

皆さんは眼鏡をご使用ですか? 近視用? それとも遠視、
ええとつまりお年を召しての眼鏡? 遠近両用で?
それともコンタクト・レンズ? それとも、それともサングラスのみ?

と、眼鏡を使わずでOKの目をお持ちの方を羨ましいshinkaiは、
遠近両用の眼鏡と、PCやお絵描き用の近くを見る眼鏡と
2つを使っておりますが、

近視用眼鏡を使い始めたのが小学校6年になる前、という記憶で、
もう我が人生のほぼ全部を眼鏡のお世話になっていますので、
やはり眼鏡についての記事があるとつい目が行きます。

で、今回興味を持って読んだのが、こちら。
カラヴァッジョを経て、中世から17世紀迄の芸術の中の眼鏡
Gli occhiali nell’arte dal Medioevo al Seicento, passando per Caravaggio

というのも、絵画の中に最初に登場した眼鏡の人物は、知っており、

こちらお隣のトゥレヴィーゾのサン・ニコロ教会隣接の神学校にある
カピートロの間・Sala di Capitoro」 近いのにまだ見学しておらず、

1-panoramica_GF.jpg


これはかって毎朝修道僧が集まり、その日の日課についての話があったり、
聖書の1章を読む部屋だったそうで、
古い修道院を訪問するとどこにも、フランスの修道院にも、ありました。

で、その部屋全体のフレスコ画を、1352年にトンマーゾ・ダ・モデナ・
Tommaso da Modenaが描いており、

全部で40人のドメニコ会派の著名な学者、研究者が描かれており
その中の1人、この通称ウーゴ・ダ・プロヴェンツァ・Ugo da Provanzaが
眼鏡をかけた肖像画で登場された最初の人物なのだそう。

サン・ニコロ教会のご案内少し n.3 トゥレヴィーゾ ・ 中世からの運河の街
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460906156.html

というのは既に知ってはいたものの、詳しく調べてみる事も無く過ぎており、
今回あれこれ読んだサイト記事のひとつ、

描かれた眼鏡。中世
Gli occhiali nei dipinti. Il medioevo

にかなり詳しく、名前もヒューゴ・デ・サン・シェール・Hugues de Saint-Cher、
フランスのサン・シェール、またはサン・カーロで1200年生まれ、

1244年にドメニコ会派人で初めて、イタリアはオスティアの枢機卿に任命。
という事はこれ以前にイタリアに来られていたのでしょう。 で、
1263年にオルヴィエートの教皇宮廷で亡くなった、

という事で、名前もイタリア風に、ウーゴ・ディ・プロヴェンツァが通称と。
と知って後、ああ、そうか、赤い帽子は枢機卿の帽子だったんだ、と。

2-38_Ugo_da_San_Caro_GF.jpg

3-occhiali-ugo-di-provenza_GF.jpg



そしてこの同じ「カピートロの間」描かれたドメニコ会派僧侶で、
もう1人枢機卿の肖像画が収まっており、この方。

フランス人、同じくドメニコ会派の枢機卿ニコラス・ド・フローヴィル
Nicolas de Fréauville(1250 - 1323 )

4-Nicolas-de-Freauville-_GF.jpg


この方は生まれは上のウーゴ・ディ・プロヴェンツァ殿よりも後の世代に
なる方ですが、ほら、眼鏡をつけず、天眼鏡を近づけて本を読まれています。

つまり、やはり当時の眼鏡は、かなりのお値段だったのだろうと!

そしてこの絵は、拡大鏡、天眼鏡、を肖像画で使っている姿の最初
なのですと。


で、この様に1352年にフレスコ画を描いたトンマーゾ・ダ・モデナは、
ドメニコ会派の著名な学者、研究者たちを描くには、

やはり会派の長老達からどの方を描くか、その方はどんな方だったか、と
様々に言い伝えられている、または記録に残る様子を聞いたものと思われ、
かってに想像し、眼鏡をかけさせたり、天眼鏡を持たせたり、はなかったろうと。


となると、眼鏡がいつ頃にどこで発明されたかは、
大体13世紀に登場の可能性が非常に高く、

場所としては、硝子製造技術の絶頂に達していたヴェネツィアであろうと。


眼鏡の発明
L’INVENZIONE DEGLI OCCHIALI
注)このサイトの最初に出てくる絵、天眼鏡を使っている枢機卿の名が、
間違えてウゴーネ・ディ・プロヴェンツァ、となっています。


眼鏡の発明された正確な日付けは特定できませんが、
多分1280年から1300年の間であろうと。

視力を改善する為のレンズの使用を最初に記述したのは、
1262年英国の哲学者ロジャー・ベーコン・Roger Bacon.

5-1-bacone-francescanesimo-scienza_GF.jpg


彼はレンズと鏡を使って実験し、反射と屈折の原理を説明し、
自分の実験の効果を描き始めたのだそうで。

彼は後にクレメンス4世となるギー・フーコー・Gui Foucoi枢機卿と
知り合い、研究を著作にまとめる様勧められ、「大著作」を書き、
次の「小著作」そして「第三著作」を教皇に送った所で
クレメンス4世が死去。

こうして教皇の保護を失った彼は、所属していたフランシスコ会派内で
異端として断罪、投獄。 幽閉は10年に及んだ、という事も読み、


またクレメンス4世、フランス出身は、太っていて「デブ」というあだ名が
あったとか、宗教界に入るまでの前身が大変変わっていて、
俗人→兵士→弁護士→国王ルイ9世の秘書→1256年司教→
ソルボンヌ大司教→英国の教皇使節。

6-clemente iv_GF.jpg


結婚もしていて2女も生まれ、年代が分からぬものの、妻の没後に
聖職者を目指した、という方で、

亡くなったのが1268年ヴィテルボ、と読み、あれ? と確かめると、

このクレメンス4世没後の教皇選出が揉め、1268年11月から
次のグレゴーリオ10世選出の1271年9月まで、実に3年かかった、
という曰くある教皇様。

n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の初まり、聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536593.html



という脱線から、ロジャー・ベーコンに戻りまして、へへ、

彼が長い異端疑惑での幽閉から解放された後、

先にクレメンス4世に送った「大著作」での、凸レンズの拡大作用に
付いて説明し、視力に問題のある人にその使用を提案し、

「この用具を使う事により、目の不自由な人も、小さな文字を拡大して
見ることが出来る」と。

ロージャー・ベーコンの「大著作」

5-2-lossy-pageBacon_-_Opus_maius,_GF.jpg



いわゆる凸レンズの使用法は

5-3-zeiss-the-history-of-glasses-_GF.jpg



しかし、レンズが対象物ではなく、目の近くで使用される様になったのは
1280年頃の事。

ヴェネツィア共和国は1284年、ガラスの熟練職人たちが「クリスタル」と
宣言する「ガラス」の販売を禁止する法令遵守を誓わされ、

つまり眼鏡製造秘密を明らかにすることを禁じ、違反は死刑が予見、で
ヴェネツィア、ムラーノ島でのレンズの販売、普及が停止されたのでした。


がドメニコ会派、14世紀トスカーナはピサのサンタ・カテリーナ修道院年代記に、
1313年修道士アレッサンドロ・デッラ・スピーナ・Alessanndoro della Spina
が亡くなった、の報告があり、

「彼は、他の誰かが最初に作成したものの、普及させたくない眼鏡の
発明を作り直し、公表した」人物、

つまり眼鏡製造を再現でき、1300年頃にトスカーナに最初に紹介した
人物である、という事ですね。


この「眼鏡-リベット眼鏡・鋲眼鏡、またはPince-Nez・鼻眼鏡」は
素早くドイツに届き、

1953年に最古の標本がニーダーザクセン州のウィーンハウゼン修道院
Abbazia di Wienhausen の14世紀の聖歌隊席の下から発掘されています。

7-wienhausen-abbey-lower-saxony-germany.jpg



このリベット眼鏡、または鼻眼鏡というのは、このような形で、

8-pince-nez-p8rimo-modello.jpg

2つのいわゆるスプーンというか、スコップ型が真ん中の鋲で連結された形で、
鼻の上部に引っ掛ける、というか、抑える形。

初期は輪は木製だったのが、動物の角や骨も使われるようになったと。

イタリアではこの形の眼鏡がフィレンツェで1982年に、ヴェッキオ宮殿裏の
カステッラーニ通りの井戸の内部深さ8,3mで発見されているそう。

図の下に見えるCopper wire とは銅線の事で、左側に見えるSplit,
割れ目、つまりレンズをはめ込む為の割れ目を銅線で結んでいたものと。

これは絵画の中に良く見えるので、なんだろう?と思っていたshinkaiで、
面倒でも、はは、あれこれ漁っていると、答えが見つかる嬉しさよ!!


で、この眼鏡の古い形がよく分かる絵をどうぞ。

ドイツのローテンベルグ教会の祭壇画「キリストの割礼」 1466年
フリードリヒ・ヘルリン 1536x1140

9-occhiali-circoncisione-Cristo-1536x1140_GF.jpg


これは部分で、絵の上下がもっと長く、足元も見えるのですが、
ストック・フォトになっており引けません。

画題は、こんな小さなキリストに何をする、という感じがするのですがぁ、
本日の主題は「絵に描かれた眼鏡」ですのでご容赦願い、はは、



こんな感じに、鼻眼鏡、鋲眼鏡の作りがよく分かります。

10-occhiali-particolare_GF.jpg

はい、手元が狂わぬよう、しっかり見えるようにして頂きませんとね。


そうなんですね、つまり、初期の眼鏡は、所謂「老眼鏡」だったのですね。
高価ではあったものの、研究者や、学者たちに大いに必要品だったわけで、

創設者から科学に専念するな、と命じられていたにもかかわらず、
偉大な学者連の集まるフランチェスコ会にも採用されたそうで!


そうして徐々に、伝道者、教会の司祭たち、書記、商人、つまり全ての
学者たち、事務系の仕事に携わる男性たちすべてに必要とされ、

通常必要でない時は、ベルトから吊り下げられた木と皮で作られた
ケースに収められ保護されており、

何となく日本の印籠とか、タバコ袋、火種の持ち運びを連想し、はは。

で、こうしてリベット眼鏡、鼻眼鏡はヨーロッパ中に広がりますが、



ミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァ、ビアンカ・マリーア・
ヴィスコンティと結婚し、ヴィスコンティ家を引き継いだ方は、

11-Museo-Cenacolo-Vinciano-Dentro-il-Cenacolo-Milano-Sforza_GF.jpg

1462年にフィレンツェにこの眼鏡を3ダース注文したという事で!!

宮廷中に置くため? 貴族たちに配る為?
 
当時の眼鏡の度の合い方はどんなだったろう?と興味がわきません?


そして後世、新聞、雑誌の刊行が多くなると、それこそ全世界に、
全人類の間に普及し、今ではなくてならぬ物の代名詞となっており、

始めは老眼対策であった眼鏡が、近視用にも開発されたのが
15世紀前半以降なのだそう。



という事で、最初はきっと使いにくかった、締めつけて痛かったろう鋲眼鏡、
鼻眼鏡だった形も改良され、
視力に問題があり、一日中でも使用したい人にも大丈夫な形に改良
された姿の肖像画はこちら、

ロ・スパニョレットの サンティアーゴ騎士団騎士の肖像 1638-40

12-El-Espanoleto-Jose-de-Ribera-A-knight-of-the-Order-of-Santiago_GF.jpg

サンティアーゴ騎士団、という名は初めて知りましたが、貴族の中からの
選抜によるものらしく、きっと有名貴族なのでしょう。



そしてムリーリョ・Murilloの「4人の人物」 1655-60

13-occhiali-murillo_GF.jpg


何をしている所と思われます? 右のお祖母さんのひざ元に横になっている
男の子、孫の、頭のシラミ取り! 
真ん中の少し年の女の子は、頭をシラミに食われた痒みで顔をしかめ!
左のまだ子供の男の子は、いっちょ前に笑っている、
という4人の姿ですが、

横になっている男の子のズボンは擦り切れてお尻が見える程なのに、
お祖母さんの顔にはしっかり、黒縁の眼鏡! 

まぁ、仕事の為にも必要だろう眼鏡ですけど、お金があったんだろうか?
と心配になるshinkai、ははは。

ムリーリョの絵は、大昔見て以来、なんとなしに少し上等な感じ、
と思っていたのが、今回のお祖母さんの顔、取り上げたモチーフに、
少しばかり、えっ、という気持ちがしたのでしたが・・。



で、最後はタイトルに出た「カラヴァッジョ」ですが、彼も絵の中に
眼鏡を、鼻眼鏡をかけた男性を登場させていて、

こちら、サン・マッテオの召命 1599-1600 322x340cm

14-vocazione di san matteo caravaggio_GF.jpg


この画中で、召命されたマッテオはどこに? というので、皆が指さす
マッテオは? というのが論争の的と読みましたが、
左端で小銭の計算に忙しいのがマッテオであろうと。


で、その上に顔をのぞかせている白髪の老人の眼鏡姿、という訳です。

15-vocazione-di-san-matteo_GF.jpg

そしてフレームは、これらの絵画の後の18世紀前半、1727年に
ロンドンの眼鏡技師により発明されるのを待たねばなりませんでした。


そしてそして、サングラスの発明もあり、これもヴェネツィアが発祥の地で、
眼鏡博物館見学の様子はこちらに。

ドージェ(ヴェネツィア共和国総督)のサングラス 
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473435824.html


最初の眼鏡の発明があった1300年代から700年!
本当にお陰様で、眼鏡の恩恵を受けて、有り難く過ごしておりますです。

眼鏡の発明、進化に携わって下さった方々、感謝で~す!!


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posted by shinkai at 02:31Comment(0)・欄外

・ 北イタリアの素晴らしい秋の湖、黄葉  お勧め 8か所

秋も深まり落葉も一際ですが、秋色の素晴らしさが
時に目を見張る程になりました。

日本の様に紅葉、赤の煌めく色は余りありませんが、それでも
黄葉のヴァリエーションは薄いヴェージュから茶に近い赤まで
幅広く、深い空の色に映える美しさには目を奪われます。

今日は見つけたサイトの、素晴らしい色の写真をご紹介したく、
但し10か所を中央イタリアを除いての8か所に絞り

秋が魅惑的なイタリアの 10 の湖
10 laghi in Italia dove l’autunno è un incanto 

からご案内いたしますね。 お楽しみください!
北イタリアのアルト・アディジェ州からの選抜がやはり多く、


1.ランドロ湖・Lago di Landro アルト・アディジェ州

1-2022-11-02 175208_GF.jpg

2-Lago di Landro, Alto Adige_GF.jpg

素晴らしいでしょう?!

地図の北にある町ドッビアーコ・Dobbiacoからだと、バスで
13km程ですが、48分!

南のコルティナ・ダンペッツォ・Cortina d'Ampezo からだと
20km、1時間の距離にあります。

で、考えたshinkai. なぜなら電車はないからで、ヴェネツィアからだと
電車はカラルツォ・ディ・カドーレ・Calaluzo di Caderre が終点で、

そこからのバスはコルティナに行く西回りではなく、東回りの50km弱で、
1時間1分と出ましたので、

この周辺、ドロミーティの景観も素晴らしいこの周辺に行ってみようか、
と思われる方は、単に1か所ではなく、何か所かをご一緒のご計画をね!


ランドロ湖の周辺の散歩も素敵ですが、コルティナ・ダンペッツォ迄は
かって通っていた鉄道線の跡を通っての自転車道もあり、
ミズリーナ湖への散歩も出来ます!

または土地の料理、ポレンタを添えた茸、カネーデルリ(団子)
ジビエ等を味わい、隣接の小さな動物園を訪ねることも出来ると。


n.1 コルティナ・ダンペッツォの散歩をどうぞ!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468477130.html

n.2 コルティーナ散歩 ・ ドロミーティの山、ワンちゃん、人々
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468481456.html

ミズリーナ湖 ・ 夏のドロミーティ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468481596.html



2.ブレイズ湖・Lago di Braies  アルト・アディジェ州

3-11-02 175317_GF.jpg

4-lado di braies_GF.jpg


夏の間の数カ月間の観光客、多すぎる! を忘れ、この燃える様な
色の季節に、湖は再び親密で、詩的な場所に戻ります。

ファネス-セネスとブライエス自然公園内・parco naturale Fanes -
Sennes e Braiesに位置し、エメラルド色の湖に映るクローダ・デル・ベッコ・
Croda del Beccoの岩壁。

イタリアで最も写真に撮られる場所の1つであり、クラシックな手漕ぎの
ボートに乗り、対岸に渡ったり、歩いての発見も出来、

ロマンチックな、ホテル・プラグサー・ヴィルトゼー・Hotel Pragser Wildsee
から湖に沿って反時計回りに走る小道1号を進み、日光浴も楽しめ、
道の最初の部分は家族全員に適し、平坦で子供やベビー・カーもOk.



3.ドッビアーコ湖・Lago di Dobbiaco アルト・アディジェ州

5-11-02 175245_GF.jpg

6-lago di dobbiaco_GF.jpg


トゥレ・チーメ・ディ・ラヴァレード・Le Tre Cime di Lavaredoと、上の
ファネス-セネスとブライエス自然公園が、この緑色の水鏡の背景をなし、

夏にはボートやペダル・ボートが動き回るドッビアーコ湖は、秋も最適で、

アルプス地域全体でここは数少ない湿地で、湖を囲む約5kmの
牧草地囲む道を歩くのは楽しいもので、
夜にはこぼれんばかりの星空を!

この地の歴史を発見したい人には、町の中心部と2つの噴水、
そして1939年に造られた第2次大戦時の掩蔽壕(えんぺいごう、
戦時に銃撃、爆撃から人や飛行機を守るための地下の施設)があり、

グルメ体験をされたい方には、レストラン・ティッリア・Tillia、ミシュランの
1つ星で、かってのグランド・ホテル・ドッビアーコの公園にあるそう。


トゥレ・チーメ・ディ・ラヴァレード ・ ドロミーティの大景観!!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468344876.html



4.レージア湖・Lago di Resia  アルト・アディジェ州

7-11-02 175342_GF.jpg

8-Lago di Resia_GF.jpg


オーストリアとの国境から数キロのヴァル・ヴェノスタ・Val Venostaの
シンボルとも言えるレージア湖の青い水面からそびえる鐘楼は、
季節を問わずの観光地ですが、

秋の陽射しに、湖を囲む遊歩道周囲の森は、黄土とオレンジ色に染まり、

レージア、クローン・ヴェノスタ・Curon Venost、カゾーネ・Caspone,
スピン・Spinの村々を囲むヴァレルンガ山脈は、南チロルで最も
荒々しい姿を見せます。

クローンとレージアの物語を伝えるアルタ・ヴァル・ヴェノスタ博物館
訪問もどうぞ。


レージア湖からメラーノに出て西に、マレ・Malles、そしてイタリアで最も
美しい中世の村のグロレンツァ・Grolenzaへの訪問も。


クローンの鐘楼伝説  レージア湖に半ば埋もれた
https://www.italiashiho.site/archives/20210409-1.html

グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.1 

グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.2
https://www.italiashiho.site/archives/201705-1.html



5.サント湖・Lago Santo  トレンティーノ州

9-11-02 175407_GF.jpg

10-Lago Santo, Trentino_GF.jpg


湖が位置するヴァル・ディ・チェンブラは、トレンティーノ渓谷の小さな渓で、
テラス式ワイン製造で有名、ミューラー・トゥルガウ・Muller Thurgauの
銘柄もここの産との事で、

サント湖は、そのブドウ園を除くと、秋がその魅力を最大限に発揮する
最も壮観な場所。

標高1200m! チェンブラの村から4km、車で約15分、楽に行けます!
・・とありますがぁぁ、ホンマかな?!

ハイキングの出発点として理想的で、冬には凍った水面上でのカーリング
が行われ、秋には木々の葉の色の爆発に包まれます。

近くのセゴンツァーノ・Segonzanoのピラミディ・ディ・テッラ・
Piramidi di Terraは一見の価値があり。

何だろ?と検索しましたら、これ!

11-piramidi-di-segonzano-formazioni-rocciose-trentino-italia-le-colonne-naturali-GF.jpg

12-Piramidi_di_Segonzano_Fototeca_Trentino_Sviluppo_GF_1.jpg


中には高さ40mにも及ぶものがあり、地質学的には5万年前に形成された
モレーン堆積物中の、地面の流水が複合的に侵食された結果、なんですと。
5万年前は、地質学的に「非常に最近の起源である」、とあったのに笑いました。


そして、上質なグラッパとジンを瓶詰めする歴史的なピルツァー蒸留所
Pilzer distilleria もお忘れなく、とありましたので、

はい、上のセゴンツァーノも一緒に、住所と地図も添えますです。
Pilzer srl  Via Portegnano 5 Località Faver 38092
Altvalle Trento
tel +39 0461 683326 info@pilzer.it  https://www.pilzer.it/

13-11-04 153231_GF.jpg



6.テンノ湖・Lago di Tenno  トレンティーノ州

14-11-02 175424_GF.jpg

15-Lago di Tenno, Trentino_GF.jpg


ちょっと曇り空の写真が残念ですが、
テンノ湖の周囲の散歩道、番号613、は、子供や犬も含め全ての人に
適した道で、リラックスして景色を楽しめ、

秋のシーズン中は自転車での移動も可能で、散歩の後は互いに数キロ
離れた美しい2つの村を訪問できます。

湖と同じ名前の、カナーレ・ディ・テンノ・Vanale di Tenno、美しい城があり、

と、ランゴ・Rango、イタリアで最も美しい村の1つの、石造りの農民の村と。

ランゴのご案内  https://rango.info/

16-rango_GF.jpg


テンノ湖はガルダ湖・リーヴァ・デル・ガルダから北に入った所にあり、
10km 17分、地図を見て了解,九十九折りの急坂です。
で、以前リーヴァに行って、背後の物凄い山を見たのを思い出しました!

テンノ湖からランゴ迄は13km 16分と。

ガルダ湖周辺から少し奥に入ると、まだまだ古い農民文化、生活が
残っているのは知っているのですがぁ、ここでもまた出会いました。

ガルダ湖 北端 ・ トルボレ、 リーヴァ・デル・ガルダ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463416779.html

n.2 ガルダ湖 ・ 東岸と北端を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462246741.html



7.トーヴェル湖・Lago di Tovel  トレンティーノ州

17-11-02 175441_GF.jpg


トレンティーノで最も美しい湖の1つ。 が、ご注意願います、
ここの森に生息するヒグマにも出会えるかも! って、な、なに?!

ヴァル・ディ・ノン・Val di Non の高山湖のシンボルのト-ヴェル湖で、
この湖の水面は、1964年の夏迄、湖底で増殖した特定の藻類の為に
赤く染まっていたのだそうで、

今は秋になると木々の炎の赤が見える事を期待しています。

湖周囲は1時間半、4km強、の静かで安易な散歩が出来、
周囲にはトゥン城・Castel Thun、クレス城・Castel Cles 、ヴァレール城・
Castel Valerなど、おとぎ話に出るお城や、

1年中巡礼者が訪れる有名なサン・ロメーディオ・San Romedioの
教会も訪れる事が出来ます。


と説明を読みつつ、そうよ、行ったやん!と思い出しましたが、
トゥン城はブログに載せておりませんで、 サン・ロメーディオのみです。

n.2 ヴァル・ディ・ノン ・ 聖所サン・ロメーディオ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468628303.html

n.1 ヴァル・ディ・ノン 秋の色、秋の香り ・トレント自治県ノン渓谷
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468627793.html



8.フジーネ湖・Laghi di Fusine  フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州

19-11-02 175548_GF.jpg


氷河起源の2つの湖、上の湖と小さな湖、があり、周囲は自然公園と
なっている、ウーディネ県のタルヴィージオから数キロの位置。

昔行った時はタルヴィージオからバスで、スロヴェーニアとの国境前を
通る道筋で、検索すると10km、車で16分、バスで54分。

フリウリ州で黄葉・紅葉を鑑賞するには、間違いなく最も素晴らしい
場所の1つ、と。

地図に見えるグレイの筋が国境で、北がオーストリア、左中イタリア、
そして右端がスロヴェニアで、

3国の国境が接する辺り、一番寒い場所で、犬橇の学校が。


フジーネ湖と山の道 ・ 逝く夏を惜しんで
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463997687.html



という事で、今回はイタリア北部の黄葉のご案内でしたが、

トスカーナ・オルチャの谷の秋色  晩秋から、そして冬色に
https://www.italiashiho.site/archives/20211114-1.html

イタリアの黄葉・紅葉は  秋の色を愛でる5つの土地
https://www.italiashiho.site/archives/20200925-1.html

等など、記録庫の方でもお楽しみ頂けますので、どうぞ!


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