・ 今年最後に、 ロッカ・リッチャルダ 春を待つ古代中世の小村

様々な自然災害、コロナ禍、酷い戦争が引き続いている今年も
いよいよ年の暮となりました。

考えずにはおれない事ばかりですが、ここでは控え、

クリスマスも楽しく過ごせ、大掃除も少しだけ済み、へへ、
来年への願い、抱負も持ち、今年のブログを終わらせたいと思います。


あれこれ「控え」もあったのですけど、雪景色の写真を探していて

雪の下のロッカ・リッチャルダは、もっと美しい
Rocca Ricciarda sotto la neve: ancora più bella

という、トスカーナの山奥にある小村の写真を見つけ、

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なぜかとてもこの美しい色の写真に魅かれ、そして記事を読み、
村の様子、歴史をウィキでも調べ、

このブログを書いておられるサンドロ・ファブリツィ・Sandro Fabrizi
ご自身が「なぜこのブログを始めたか」で、この小村から出たく、
フィレンツェに働きに出ていたものの、段々に疑問が沸き・・、

という様に、大変な生活であっても、じっと耐え、待つことも大事、
そして自分で出来る事を、という思いはどこにも通じるよね、と共感し、

今年最後のブログという事で、皆さんにもご覧頂こうと!


まずは、ロッカ・リッチャルダなる村がどこにあるか、地図をどうぞ。

フィレンツェからだと南に車で高速A1で、モンテヴァルキ・Montevarchi
から逆に北上し、という2時間20分程の位置。

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行政上はアレッツォ・Arezzo県で、Loro Ciuffenna・ローロ・チュッフェンナ
のコムーネに。

チュッフェンナ、という名は、村の奥に聳える1592mのプラトマーニョ山の
中腹から流れる川の名で、22kmの流れの後アルノ河に合流と。

アレッツォから行く時は北西上に辿り、50分程の距離。

この一帯はヴァルダルノ・Valdarnoと呼ばれ、つまりアルノ河の流域で、
トスカーナ南のオルチャの谷の様に派手な観光地ではありませんが、
あちこちにたくさんの見所がある様子。


これが村全体の地図で、村への道は西側をぐるっと回り北から入り、
ほらね、村の中の家の数が全部で22,3軒というのも分かりますね。

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後程、村の入り口にあるオステリーア・ラ・ロッカ・Osteria la Roccaの
ご案内もありますし、

左上の、要塞の考古学公園・Parco archeologiko della Roccaが
この小さな山上の村を1100年代から知られる村にしている要塞跡。

で、左端下には、古い墓地・Cimitero vecchio di Rocca Rocciardaが.


こちらが、プラトマーニョ山・Pratomagnoの山襞に抱かれた
海抜957mに位置する村の、遠方からの眺め。

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冬の晴れた日や、雪が降った後は本当に美しく、木々に隠れながらも
その魅力を伝えていると。



ほら、奥に見える道が、きっとフィレンツェから、アレッツォから村に連絡する
市道ロッカ・チユッフェンナ・SC di Rocca Ciuffennaでしょうね。

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太陽の陽が当たり輝く白い雪が一層風景を美しく見せてくれますが、

村の中では典型的な石造りの家々の間で、太陽の陽が届きにくく、
逆に写真を撮る意図的なもの、という様な示唆に富んだ様子に。

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ウィキ伊によると、村の人口は2011年で5人、となっていますが、
これは常住の人口が多分10人位だろう、という記事もあり、

逆に夏には、この村の家を相続しセコンド・ハウス的に住む人々が
多くなり、上記した村の入り口にあるオステリーアも、冬季は日曜のみが、
6月から9月は毎日オープンだそうで、
村の人々ばかりでなく、この一帯をトレッキングで訪れる人々も多いのだと。


村の南外れから下への道は、凍った雪の為に注意を払う事が必要で、

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なぜこの写真に魅かれたのかを考えると、きっと石の色、灰緑の色と
雪の白さ、そして木々の濃い緑などなどの対比の美しさだろうと。

絵の中でもそうですものね、白い雪景色を背景にすると、
どんな風景でも、失礼! 素晴らしく美しく見えますもの!



この村から一番下になる南端にある小さな家、の様に囲われているのは、
かっての古い墓地。 

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つまりこの囲いの中に掘られた2つの穴の中に、かっては男女の性別で
亡くなった人を葬ったのだそう。

きっと土地も狭く、その余裕もなかったのでしょうね。
でも、こうして家の様に造られた形に、故人への思いが秘められている様で。



ここから村越しにプラトマーニュ山の上に建てられた十字架を眺めることが出来、

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こういう山上にある十字架は、かってはこの土地を歩く旅人の護りでも
あり、きっと命を失くすことの多かった過酷な土地の祈りだったかも。



村を出る前もう一度見直し、

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出発する前にオステリーア・デッラ・ロッカに立ち寄り、
美味しい物の賞味を是非、とあり、


こちらがそのオステリーアの写真で、一見狭そうですが、

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左手がこの様に手前に張り出し拡張されており、

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素晴らしいパノラマを楽しみつつ、美味しい食事と、

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栗の粉で作った揚げ菓子を賞味できるそうで!

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同じサイトの記事に、日曜日、フィレンツェとアレッツォ間のおやつ処

そして、夏の村の様子
も覗いて見てくださいね。


第2次大戦時に、この村は一度村中が焼かれた事があり、その為に
黒くなったまま放置された家がある、というのは上の記事にあり、

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村の入り口に駐車場がある様子ですが、そのすぐ近くに岩が落ち、
村はまた小さくなった、とも。



と、かって1100年頃から存在したという、この村の上にあった
要塞、城についてのあれこれは、こちらの記事からで、

ロッカ・リッチャルダ、プラトマーニョ山中世の古い”城”
Rocca Ricciarda, un antico “castrum” medievale nel Pratomagno


ウィキ伊によると、
1191年の記録に残る古い城、現在は城跡があり、

現在の村の様子。 上の要塞跡からの眺めで、

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村が焼かれたり、の被害から修復された家々の屋根瓦は新しくなっていて、


こちらが2003年に開かれた、考古学公園の上の要塞遺跡。

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1997年にフィレンツェ大学が実施した発掘調査から長い研究があり、
それから城の遺跡と、その周囲の壁の修復、その後、城の再構築となり、
この様な想像図が。

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現在残る、要塞城の外壁で、左片側に鉄の階段が付けられていますが、

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かっては木の階段で、馬も上った、というので、きっと段差の低い階段で、
これが要塞、城への唯一の連絡口。

外壁に存在する突き出た脇柱により、一番上に張り出した櫓か、で
保護された門、扉があり、
そこから外壁自体の内側に入ることが出来、東端にあった塔と館には、
メルラトゥーラと呼ばれるレース飾りで仕上げられていた、と。


こちらは上の遺跡。

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そしてこんな15世紀の陶器の発掘も。

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現在の遺跡のみを見ても、素人には何が何だか分かりませんが、
上の様な図があると、説明を読みつつあれこれ想像でき、

かっての領主たちは夏の間にここに滞在する事を好んだ、というのも納得。


11世紀前半頃ウベルティーニ家・Ubertiniが徐々に力を蓄え大きくなり、
マルケ州にまで力を拡張、という程に迄なったのが、

結局は都市部の勢力争いに加わり、1280年のギベリン派の没落で追放、
その後に戦にも負け力を失くして行き、
最後はほんの少し残った領土をフィレンツェ共和国に売った、という様子。

その後の要塞はリカソーリ家・Ricasoliの持ち物となり、
最後の数世紀間は放置されての道を辿ったという事なのでした。


栗の木、ブナの林、そしてチュッフェンナの流れの残るこの山間部で、

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長い過酷な時代を延々と生き抜いてきたこの小さな村、そして人々!

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最初に私を引き付けた写真と記事のサンドロ・ファブリツィ氏
このコロナ禍の今もお元気で居られる様にと願います!!

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***

今年一年、皆さまのご愛顧、本当に有難うございました!

どうぞまた来年も、ご訪問ご愛顧、宜しく、お願い致しま~す!


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・ 「クリスマスの祭日」は、どこから発生し、誰が決めたの?

皆さま、ブオン・ナターレ!

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カトリックでもない私ですが、毎年この祝日前後は出会う人々と
ブオン・ナターレ!  ブオーネ・フェステ! とにっこりとお祝いを言い、
そして勿論皆様にも!


所で、クリスマスの祭日の発祥は? という記事を見つけ、
Da dove ha origine la festa del Natale?
 
という事で、今回はクリスマスの祭日の元はどこから、というお話を。


キリスト教が国教となった380年以前、ローマ人は多神教だったのは
皆さんもご存じですね。

で、ユピテル・ギリシャ人にとってのゼウスが最高の神性で、
他の神々はユピテルに従い、という関係ですが、

で、その中のサトゥルナーリ・Saturnali、土星、にローマ人は敬意を
表し祝った祝日が、
今日の我々が知っているクリスマスの創造に影響を与えた、のだそうで。


というのも、このサトゥルナーリ・i Saturnaliという神は、ローマ人が
農業と収穫の神であるサトゥルノ・英語ではサターン、に敬意を表し
祝ったお祭りと、今のクリスマスのお祭りと多くの共通点があり、


ローマ帝国時代、このお祭りは12月17日から23日の間に行われ、
太陽がより遅く昇り、より早く沈む、つまり一年で最も暗い時期の
当時に合わせて行われ、

その祭りの間、畑仕事は中断され、農民と奴隷達は日々の労苦から離れ、
短い休息を楽しめたというのですね。

この絵はサイトに載っていたもので、後世に描かれ、いささか雰囲気も
違うのではないかと、あれこれ古く残っている物を探しました。

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で、古代ローマ人は今日のクリスマス休暇の様に、大規模な公共の宴会を
祝い、家族や友人を訪問し、贈り物も交換していたのだそう!
そしてサトゥリナーリアは7日間続き、全ての社会階級の饗宴だったそうで。

奴隷たちでさえ、より大きな自由を与えられ、お祭りの間は彼らは
事実上自由人となり、彼らの主人の服を着ることも出来、
仕える義務もなかったそう!

それどころか、サトゥリナーリアの間は奴隷に仕える、少なくとも
彼らの為に宴会を組織したのはしばしば主人達だったと!

これは、ひょっとして賭博のシーンではないかと。

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そして、大飲みに飲んで、

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戯れて。

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ウィキペディア日本版の「サートゥルナーリア祭」にも詳細されてますが、
かなりのバカ騒ぎ、いわば今のカーニヴァル祭的なバカ騒ぎと、社会的
役割の入れ替えを特徴としていた、という感じでしょうか。



ですが、ローマ人たちも「クリスマス」を祝っていた、と言える、というのも、
紀元前45年にユリウス・カエサルが導入したユリウス暦によると、

ローマ人がブルーマ・brumaと呼んだ冬至は、その日、
つまり、ユリウス暦の12月25日、現在我々が使っているグレゴリオ暦の
12月21日、または22日の冬至、に対応する日に、

古代ローマ人はNatalis Solis Invicti・ナタリス・ソリス・インヴィクティ・ 
無敵の太陽の誕生日を祝っていたのだそうで。

無敵の太陽の誕生日」という素敵な名前で、内心ウフフとなりますが、
1年で最も暗い時期の後のアポロ神・太陽の再生に関連し、
12月25日をイエスの誕生日、とする考えが生まれた、というのですね。


紀元後320年から353年、ユリウス1世教皇は、

8-Pope_Julius_I_–_Santa_Maria_in_Trastevere_GF.jpg

おそらく異教のローマ人をキリスト教徒に改宗させる意図で、
12月25日をキリストの誕生日として確立する事を決定し、



約1世紀後のレオ1世教皇により再確認され、

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この教皇様は、大教皇と呼ばれ、カトリック教会、正教会、聖公会
でも聖人と称えられる、聡明かつ雄弁な人物だったそうで。



529年ユスティニアヌス1世帝・東ローマ帝国皇帝、が正式に
12月25日を帝国の祝日として宣言した、のだそうで。

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この方、名前を読んですらっと分からなかったのですが、顔を見て、あれ?

そう、ラヴェンナのサン・ヴィタレータのあの素晴らしいモザイクに、



皇后テオドーラ、と向き合ってお顔が残っている方、なのでした。

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こうして顔が分かり、その繫がりが分かると、安心しません?! 
と、これはshinkaiの事で、ははは。

n.1 ラヴェンナ ・ モザイク詣で
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463938572.html

n.2 ラヴェンナ ・ モザイク詣で
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468770205.html

ラヴェンナの街 ・ 日曜日の広場では
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468769781.html



実は聖書では、イエス・キリストがいつ生まれたかは述べておらずで、
こちらの n1.にもそれについての項が。

n.1 知ってる? 聖書のお話を。 12の謎がね
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20200504-1.html

n.2 知ってる? 聖書のお話を。 12の謎がね
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20200507-1.html



一方、キリストの誕生を舞台にした、キリスト降誕の再現シーン
つまりプレゼーピオですが、

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これの最初は、1223年のクリスマスの夜、アッシジの聖フランチェスコにより、
グレッチョ・Greccio、ラツィオ州の聖域として知られるフランチェスコ会派の
庵の近くの洞窟で作られたものが最初と。



またクリスマスにモミの木を飾る習慣は、北欧から、というので、
これは後世からと。

サン・ピエトロ広場のプレゼーピオ。 多分今年の様子と。

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という事で、皆さま、良いクリスマスをお迎えくださいね!!

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ブオン・ナターレ!!


*****

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・ チョコレート  ヨーロッパを魅了した高貴な飲み物

寒くなると、温かくて甘~いココアが、本当に嬉しい飲み物に
なりますよね?!

今日はその「ココア・カカオ豆」が16世紀最初にコロンブスにより
ヨーロッパに運ばれた後、じわじわと広がりを見せ、
17世紀後半から18世紀にかけ、一般庶民に迄広がった様子を。

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タイトルは「チョコレート」となっておりますが、日本で使われる言葉の
飲み物の「ココア」は同じ「チョコレート」、伊語でチョッコラータ・
cioccolataと呼ばれるので、タイトルがそうなっている事をお断りし、

参考にした記事は、本日のタイトル通り
La cioccolata, la nobile bevanda che incantò l'Europa

他に 
チョコレートの歴史 ・ La storia del Cioccolato

こちらは素晴らしく詳細に、古代からの歴史を綴っておりますので、
興味をお持ちの方、ぜひどうぞ。
ディスプレイ上でクリックされると、日本語訳で読めますです。


では、

1502年4月初旬クリストファー・コロンブスはインドへの道を探求する為、
遂に4度目の新世界への航海に出航を。

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そして遂に3か月後に、ホンジュラス沖のグアナハ島・Guanajaに上陸した時、
彼は原住民からの贈り物として、数個のカカオ豆を受け取ったのですね。

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が、コロンブスはそれらの奇妙な果物を重要視せず、が、スペインに戻る時に
持ち帰り、それをカトリック両王にご披露を。

カトリック両王・アラゴン王フェルナンド2世と、カスティーリア女王
イサベル1世.   両王は1469年に結婚、スペイン王国が成立。
 
2人の出資で、コロンブスは新世界の発見を。

という事で、当時は浸透しなかったこのカカオ豆が、後の1世紀余りに
ヨーロッパ全土にチョコレートが普及し、マドリッドはその中心地と
なったという貴重な食べ物を旧大陸に紹介した
最初の人物がコロンブスでした。


そして当時は飲み物だったカカオ豆、偉大なマヤとアステカ文明で
好まれた飲み物を、誰が初めてスペイン宮廷に持ち込んだのかは
分かっておりませんが、

カカオ豆とその消費の古代史における最初の痕跡は、
マドリッドのアメリカ博物館・Museo de Américaに保存されている、
マヤ語のテキスト、所謂マドリッド・コード・Codice Tudela, Madrid
に見られ、

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カカオ豆を挽いた後、アステカ人はスパイスとコーン・ミールを加え、
こうして得られた粉末に冷水を注ぎかき混ぜ、泡を作った、と。


メソ・アメリカ・メキシコ及び中央アメリカ北西部地域、マヤ、
テオティワカン、アステカ等の硬度文明が繁栄した文化領域、
の人々の文化では、

カカオには精神的、宗教的な意味がたくさん含まれ、
カカオの木は神聖なものだったそうで、

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実際アステカ人は、知恵の神であるケツァルコアトル・Quetzalcoatlが
人間に知恵を与え、疲労を和らげる為に提供した贈り物、と考えていたと。



カカオ豆は、アステカ社会で通貨として使用されており、その重要性が
高く評価されていた事も分かりますが、

新世界の最初の歴史家ロンバルディーア人のピエトロ・マルティーレ・
ダンギエーラ・Pietro Martire d’Anghieraは、この点について

「彼らは金属のコインを使わず、アーモンドに似た木の実を使います。」
と述べているそうで。


ただ、この冷水を混ぜ、かき回した泡の飲み物の、苦みとスパイシーな味
西洋人の舌に合わず、

ミラノの探検家ジェローラモ・ベンゾーニ・Gerolamo Benzoniは、
その著作「世界の歴史」1565年で、

「豚用の粥に似た混ぜ物で、男性向けの飲み物」と判断しているそうで!
わぁ~お!


ま、いずれにせよ、16世紀半ば頃には、「残忍な征服者」と呼ばれた
エルナン・コルテス・Hernán Cortésが呼んだ「神々の飲み物」なるものが
スペイン宮廷に広まったであろうと。

6-1-Retrato_de_Hernán_Cortés_GF.jpg



伝説によると、コルテス自身が、アステカの王モンテスマ2世と共に
観察できた「神々の飲み物」の準備の秘密を、

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1528年にスペインのカルロス5世・Carlo Vに、明かしたと。

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「神の飲み物」の典型的な添加物であった唐辛子を、バニラ、シナモン、
アニス、砂糖、という甘い飲み物、ヨーロッパ人の好みに置き換えたのは、
ブレンドと注入の組成専門家であるスペインの修道士でしたが、

カルロス5世自身は、東方から高額で輸入されたサトウキビをカカオに混ぜ、
非常に高価な飲み物を作り、スペイン宮廷で大流行したそうで!


また修道院ではメキシコ産のカカオ豆の加工プロセスが完成、
スペインの修道士達は、効果的に独占販売を征服し、

16世紀の殆どは、チョコレートとそのカフェインの刺激効果の
イベリアの秘密」は厳重に秘匿されました。


が、聖職者の全てが新しい飲み物を飲む事に賛成した訳ではなく、
当時の医者でさえ、体に危険で、魂に致命的、であると判断!


さらに、チョコレートが断食破りであるかどうかの、飲み物であるか、
食品と見做すか、の真の宗教的論争がすぐに勃発!

が、1662年フランチェスコ・マリア・ブランカッチョ枢機卿・
Francesco MariaBrancaccio が介入、問題を解決し、
次の原則が有効であると主張。

「Liquidum non frangit jejunum」 つまり  「液体は断食を破らない
わぁ~お!

という事で、当時の美食家達は四旬節・
カトリック教会の典礼暦において、復活祭の40日前の水曜日(灰の水曜日)
から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間の断食、肉食を断つ、

の間も、湯気の立つホット・チョコレートを飲み続けることが出来た、
という、ははは。

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この勅令は、現在のカトリック世界で一般的な用法を実際に体系化したもので、

実際に、古代アステカの神聖な食べ物は、徹夜中に栄養と快適さを提供する、
として非常に高く評価されていたのだそうで。


イタリアはヨーロッパで2番目にチョコレートの人気が高まった国で、
フィレンツェの商人アントニオ・カルレッティ・Antonio Carlettiが
スペイン旅行から戻った1606年にレシピを紹介、
彼の同胞者たちはすぐに熱心な消費者に。


こうしてチョコレートの流行は他のヨーロッパ諸国にも急速に広まったものの、
カカオはごく少数の人々に向けられた製品で、つまりお高い品であったわけで。

銅のチョコレート・ポット、パン、チョコレートのカップ 

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フランスには、神聖な飲み物を朝食やおやつとして飲む習慣は、
1615年フランス王ルイ13世と結婚した、オーストリアのスペイン王女
アンナ・ダウストリア・Anna d'Austriaによって持ち込まれ、

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オーストリアのスペイン王女、というややこしさは、16世紀に神聖ローマ帝国の
皇帝位をハプスブルグ家が独占した全盛期となり、

1556年誕生のカルロス5世はハプスブルグ家皇帝3代め、
先代皇帝マクシミリアン1世の嫡孫で、マクシミリアンの長男フィリップ美公・
ブルゴーニュ公と、スペイン女王フアナの嫡子。
ここにスペイン王であり、皇帝、という人物が登場したのでした。


アンナ・ダウストリアは多くの婚資と共に、伝説のカカオ缶と共に、
準備する為の秘密のレシピも勿論。



が、1660年、チョコレートが大好きな別のスペイン王女、
マリーア・テレージア・Maria Teresa di Spagnaが、

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ルイ13世の息子、太陽王となるルイ14世と結婚した時、

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この飲み物、チョコレートは上流階級の間で絶大な人気を博し、

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ブルボン王朝の君主達もカカオの崇拝者となり、


とりわけフェリペ5世・Felipe V、この方はブルボン家で初めて
スペイン王になられた方で、フランス国王ルイ14世の甥で、
祖母がルイ14世の妃マリーア・テレージアという関係で、

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その息子カルロス3世・Carlo IIIも大のカカオ好き、どちらも朝食に1杯を。

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この陶板の壁装飾は、優雅な庭園でのおやつのシーンを描いており、
何人かの使用人がゲストの為にホット・チョコレートを準備している所。

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1728年に設立されたカラカスのギプスコアナ会社・Guipuzcoanaに
スペインとベネズエラ間の貿易管理の特権を与えたのは、
中央集権政策の提唱者、啓蒙専制君主の上のカルロス3世で、

コーヒー、カカオ、インディゴ・藍の顔料、染料など、以前は殆ど存在
しなかった作物栽培に弾みをつけ、

旧大陸でのカカオの普及と並行し、時の経過と共に量を増やし成長した
カカオ貿易だった様子。



更にスペインとフランスでは、その使用が貴族にとっての贅沢品であった為、
17世紀半ば以降、オランダの商人はその種子を多量に輸入し始め、
「神の飲み物」は中、下層階級にも摂取できるようになり、

おまけに18世紀末に、それまでは温かい飲み物、でしか知られていなかった
この食品を固形にするシステムが考案され、品質のさらなる飛躍が。

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最初のスペインのショコラティエの伝統では、カカオ豆は古代の
メソアメリカ人が行った様に、石の特別な麺棒を使用し、
メターテ・metateと呼ばれる石の加熱された傾斜面で挽かれ、

この製法から流動性のある高密度の塊が得られたのでしたが、


スペイン学者マルコス・アントニオ・デ・オレリャーナ・
Marcos Antoniode Orellana は次の様に。

«ああ、神聖なチョコレート  彼らはあなたをひざまずいて
すりつぶします  彼らは祈りながらあなたを殴ります 
そして彼らは目を丸くしてあなたを飲みます!».

はぁ、学者様にしては、いささかオタクっぽい賛歌ではありませんか?!


そして19世紀以降、チョコレートの工業生産によってコストが下がり、
毎日の大規模な消費が促進される様になり、全てが変わり、

万病の万能薬と考えられていた食べ物への崇拝は消え去り

スペインの詩人バジェ・インクラン・Valle-Inclánが書いたように、
神のパン」と見做されていた時代は、遠くに過ぎ去ったのでした。


甘く美味しく、疲れを取りさり、時に刺激、陶酔も与えるチョコレート。
それを常時欲しがり、味わいたい人間達は、
長い歴史の経過の中で、あれやこれやと対策を考え、手を尽くし、
そして遂にすぐ手の届く位置に、安価で美味しいチョコレートを得たのでした。


でも時に過去を振り返り、心の中で過去の様々に感謝の気持ちを
伝える事もきっと必要なのかもね、と思った今回でした。


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・ シエナのプッブリコ宮 「善政、悪政の寓意」の修復現場 公開

昨日偶然に見つけた記事 「シエナ、アンブロージョ・ロレンツレッティの
善政の部屋の一連の修復現場を公開
SIENA, APRE AL PUBBLICO IL CANTIERE DI RESTAURO DEL CICLO DI AFFRESCHI DI AMBROGIO LORENZETTI NELLA SALA DEL BUON GOVERNO

1-1-S28_4809_GF.jpg

思いがけないこの突然のニュースに、俄然浮足立っているshinkaiですが、
まずは、その様子をご覧下さいね。


シエナは、クリスマス期間に市が主催する企画行事の一環として、

「芸術がクリスマスを照らす:感情と持続の間で」 
2022年12月1日から2023年1月31日の間まで、

シエナのプッブリコ宮の「善と悪の政府の寓意と影響」の修復現場を
ガイド付きの特別訪問、というもの。

つまり期間限定で一般公開する、という事で、今月1日から既に
始まっている、という訳ですね。

かなり現場写真が多く載っていて、様子がよく分かるのでどうぞ!

1-Cantiere-Buon-Governo-restauratori_6_GF.jpg


このプッブリコ宮のフレスコ画は、アンブロージョ・ロレンツレッティ・
Ambrogio Lorenzetti(1929頃-1348)により描かれたもので、
1338-1339年、

プッブリコ宮・現市役所、市博物館、の 平和の間・Sala della Pace
の部屋の3面に描かれた、中世ゴシック画の最高傑作の一つとされるもので、


こちらが正面と、向かって右の「善政の寓意、影響」で、

2-vista-degli-affreschi_GF.jpg


左の壁には「悪政の寓意」。 こちらは剥落が激しく。

3-Lorenzetti_ambrogio_bad_govern._det_GF.jpg


というフレスコ画壁画ですが、上の写真に見えるように、かなり高い位置、
天井下、ドアの高さの上に描かれており、

実際に訪問してみるには細部も見えませんし、暗さもあり・・、なのですね。


それが修復の為この高さに床が造られ、こんな風に近くで見ることが出来る!
のですねぇ。

4-Cantiere-restauro-Buongoverno-Siena_4_GF.jpg

手前に写っているパレットは、きっと水彩絵の具のパレットで、
フレスコ画修復の剥落部分を、ハッチングで埋め、鑑賞者が見るには問題なく、
研究者達、後世の修復家達には修復した部分が分かる様に、という
配慮で使われている水彩と。



絵と並ぶこの高さ、だと、実際に画家のタッチまでが見える訳で、
顔を近づけ、思う存分に画家の意図にも思いを寄せ、浸れる訳ですねぇ。

5-Ambrogio_lorenzetti,_affetti_del_cattivo_governoGF.jpg



このアンブロージョ・ロレンツレッティのフレスコ画は、
複雑なメンテナンスのプロジェクトの対象となっていて、

画家の死からわずか数十年後の14世紀後半には、既に問題が
起き始めたのが分かっているそう。

「善政の寓意と善政の効果」の間、つまり正面と右壁の角の元の石膏が
失われ、どうやら最初の補足が行われた様子で、

介入した画家はシエナのアンドレア・ヴァンニ・Andrea Vanni
1330頃-1414後 で、
その後何世紀にも渡り、ジローラモ・ディ・ベンヴェヌート、ピエロ・ディ・
フランチェスコ・デッリ・オリオリ等の名が記されており、

シエナの機関がこの作品の安全と保全に多大な関心を持っていたか
証明していると。

つまりこの作品が描かれた1338-1339年、
シエナを統治していたのは1289-1355年まで続いた「9人の政府、執政官」、
単純に「9・ノーヴェ」とも呼ばれる、市民に選ばれた9人の執政官の政治で、
シエナは一番の繁栄期を迎えた時代だったのですね。

その証ともいうべきフレスコ画で、つまりシエナ人にとっての「パリオ」!
共々、誇りの1つなのだろうと。



現在の修復介入の前に、フレスコ画の診断研究が行われ、変質要因の
評価、塗装全体の科学的分析も行われたそうで、

6-Cantiere-Buon-Governo-restauratori_3_GF.jpg

7-Cantiere-restauro-Buongoverno-Siena_3_GF.jpg


つまり現在のこの3面の壁は、オリジナルと時間経過と共に発生した様々な
修復、切断、補修、およびそれらに起因する不均一な保存状態を示しており、

表面の劣化、石膏の剥離、ほこりの堆積、亀裂などを調べつつ、
以前の修復から得られた結果と比較し、
これらは作業の次の段階を構成する保護措置の重要な基礎となるのだそう。

シエナ市は、多くの各部門の専門家の助けを借り、建設現場を開始し、
シエナ大学、周辺地のグロッセート、アレッツォ、またロータリー・クラブの
各地の支援を受けているそうで。

修復現場は、確信的に設計された足場で、絵画を360度直接見れ、
技術者や修復者は非常に正確な全体評価を行え、


また「知識の場所」として非常に特権的な立場での芸術研究の場として構想され、

修復の為に設置された足場に、安全に上れ、素晴らしいフレスコ画を
間近で見れる訪問を可能にし、

現場での安全を維持する為に限られたグループに限られ、専門家の
ガイドが同行する、というプロジェクトが発足。

8-Cantiere-restauro-Buongoverno-Siena_persone-1024x768_GF.jpg

教育的で有益、そして我らの芸術遺産の保護というテーマでも注目され、

市立博物館の本拠地であるこのプッブリコ宮に加え、大聖堂前の
古代中世の病院であったサンタ・マリーア・デッラ・スカラ博物館も含む
市の観光回路と文化の活性化の機会であり、

国立考古学博物館、シエナ絵画の宝庫である国立美術館もあります、と。


9-cantiere-restauro-affreschi-buongoverno-ambrogio-lorenzetti-1_GF.jpg


という事で、プッブリコ宮のフレスコ画修復現場訪問の要点を。

・ 2022年12月1日 ー 2023年1月31日

・ 毎日 10:30 11:15  12:00  14:45  15:30  16:15
  英語でのガイドは 毎月曜の 10:30 11:15 12:00
  12月25日 閉館  1月1日 午後のみ

・ 最大 1回 9名   約30分

・ 切符 市博物館入場料と共に 21エウロ  在住者 15エウロ
  
・ 切符は既に11月23日から発売されており、
  e-mailによる予約は  ticket@comune.siena.it
  電話では 月曜から金曜の 9時ー13時 +39 0577 292614-15
  
訪問の可能性は、保守サイトでの作業の一時停止によって決定され、
安全性の基準および/または緊急事態が変更された場合、
シエナ市は閉鎖を行う権利を留保し、
作業の残業や時短の場合、入場料は返金いたします。


**

9人の執政官政府 n.1 シエナのプッブリコ宮 ・ ロッジャ・ディ・ノーヴェ
https://www.italiashiho.site/archives/202003-1.html

n.2 マンジャの塔 シエナ
https://www.italiashiho.site/archives/20200401-1.html

n.3 シエナのプッブリコ宮 と カンポ広場
https://www.italiashiho.site/archives/20200404-1.html

n.4 シエナのプッブリコ宮  内部の1
https://www.italiashiho.site/archives/20200407-1.html

アンブロージョのフレスコ画の部屋  n.5 シエナのプッブリコ宮 内部の2
https://www.italiashiho.site/archives/20200410-1.html


トスカーナのスキャンダル ・シエナの子豚「チンタ」の冒険談
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466790646.html


「天国の門」 ・ シエナのドゥオーモ
https://www.italiashiho.site/archives/20180716-1.html

シエナのドゥオーモ博物館 と ファッチャトーネの上から
https://www.italiashiho.site/archives/20180711-1.html

シエナの朝  カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
https://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html

シエナ点描  小路と、黄昏どき
https://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html

シエナのパリオ 2018.7.2 TV中継から
https://www.italiashiho.site/archives/20180706-1.html


***

シエナは、私めにとってイタリアにおける最初の長期滞在場所であり、
パリオも見に行ったりで、ヴェネツィアと共にイタリア熱を上げた最初の
現場の1つなのです。

長いブログの掲載リンクを挙げましたが、記録庫のシエナの記事と共に
楽しんで頂けることを願います!


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・ 古代ローマ人は 何を そして 誰を 笑ったか?!

先日「古代ローマにおいては、冗談と洒落 は日常生活における
不可欠部分で、誰もそれを惜しまなかった」 というのを読み、
何度も吹き出して大笑いしたので、皆さんにも!

記事は、今回のタイトルと同じで

但しタイトルに使った言葉「冗談と洒落」についてちょっと付け加えますと、

イタリア語のsherzo・スケルツォは、冗談、悪戯 でOKかと思いますが、
battute複・バットゥーテは、洒落+皮肉、風刺で、これで結論、
        という感じ、が正しいかと。

1-barba-antichi-romani_GF.jpg

たくさんの人物名が出てきますので、必要最低限の年代等などを
ウィキ、イタリア版、日本版で調べたのを、記しますね。

という事で、では。

人にはそれぞれ独自のユーモアのセンスがあると言われ、
それは他人には必ずしも簡単に理解できるとは限らず、

古代ローマ人の苛烈、辛辣な精神は、元々が農民と兵士の
共同体であった、横柄で皮肉な性格を反映していたと。


いわゆる「italum acetum ・イタリアの酢」と言われるのは、

あっ、これはワイン酢、 いや、これではなく、へへ

2-aceto-di-vino-e-aceti-speciali-bottiglia-italica-vetro-500-ml_GF.jpg


”italum acetum” で検索すると、

この表現は演劇の部門で非常に有名ですが、一般にも使用されており、
頭がよく、噛みつきがあり、すぐに軽蔑する性格を示し、口にはベールに
包まれた苦みが残る、典型的な風刺、と。

何となく感じが分かりますね。

となると、こんな感じかな?

3-898afb8170a97550484d5cc35fc94f1d_GF.jpg

あら、あのBMWはあなたの?
シー。
知らなかったわ・・。 一緒にちょっとその辺りを回れる?
あれは車だよ、ゴミ収集のトラックではない。

ブン!(吹っ飛ばす音)


つまりエリートの市民たちが伝えようと努力した立派な真面目さの
重力の反対側を、古代ローマ人たちが構成していた、という事と。


これは、破産した後、プラウタスは暫くの間製粉業者として働くのを
余儀なくされ、 画面では、仕事の間に自分の作品の1つを読んでいると。

4-1-dopo-essere-andato-in-rovina-plauto-GF.jpg


ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス・Titus Maccius Plautus 
bc254-184古代ローマの劇作家。 

4-1-1-Plautus_GF.jpg

娯楽に飢えた観衆の必要を満たす為、ダジャレ、又名前に登場人物の
性格を反映させるなどの言葉遊びを多用した、とあり、

彼が一般労働で働いた、というのは、伝記上の発明、とウィキには。



上の説明にも出てきた様に、 
ローマ人は名前の3番目の構成要素である姓にユーモラスなタッチを加え、
これは多くの場合家族の特徴への言及に由来する、と。

例えば有名詩人オウディウスのフルネームは、
プブリウス・オウィディウス・ナソ・Publio Ovidio Nasone.

これは説明が無いのですが、多分ナゾーネ・Nasone・大鼻、だったろうと!


政治家、哲学者として有名なキケロ。 
マルクス・トゥッリウス・キケロ・Marcus Tullius Cicero(bc106-43)

4-2-Cicero_-_Musei_Capitolini_GF.jpg


イタリア語ではチチェローネ・Cicerone、由来はcicer-”cece” ひよこ豆

多分彼の先祖がひよこ豆栽培をしていたか、あるいは祖先の顔に
マメ科植物の形を想像させる何かがあったからだろう、と。

これは日本で「へちま顔」と言われるものに似ているのかも!


他にとりわけ奇妙な姓の中には、ブルータス・Bruto・巨大な、
ルッフォ・Ruffo・赤毛、 カピトーネ・Capitone・大きな頭、
ストラボーネ・Strabone・片目   とね。


一般市民のみでなく、皇帝にも遊び心のあるニックネームが付けられ、

初代皇帝アウグストスの養子で、第2代の皇帝となったティベリオ

ティベリウス・ユリウス・カエサル・Tiberius Julius Caesar bc42-37

4-3-Tiberius_NyCarlsberg01_GF.jpg


彼がまだ兵役に就いていた時、彼の仲間の兵士達は養子前の彼の名前
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・Tiberius Claudius Neroを

ビベリウス・カルディウス・メーロ・Biberius Caldius Meroと変え、
からかったと。

つまり大酒のみであり・gran bevitore、ホットでピュアなワイン・murum
を愛した彼の性質を表したものに。



レジョナーリ・Legionarius, レギオーナーリウス・ローマ軍団兵は、

4-4-Légionnaire_romain_GF.jpg


ローマの中心部を通る勝利した軍団パレードで歌う「カルミナの凱旋曲」で
凱旋将軍を嘲笑するのが大好きで、

紀元前46年の凱旋パレードでは、ローマ期を代表する大人物の
ガイウス・ユリウス・カエサル・Gaius Iulius Caesar bc100-44
もこの例から逃れる事は出来ませんで、ははは、

5-Julius_Caesar_Coustou_Louvre_MR1798_GF.jpg

軍団は、
「市民の皆さん、あなた方の女性に気を付けて。 禿の姦淫者を連れて来ます」と!

彼らの司令官の放蕩な生活と、顕著な禿頭にあてつけた訳で、

この逸話は日本語版ウィキにも載っており、はは、大いなる喧伝で!


またビチニア・Bitinia、古代の歴史的地名、小アジアの北西にあたり、
マルマラ海、トラキア、ボスポラス海峡、黒海に接する地、
の王ニコメデス4世・Nicomedes IV

との関係についても、悪意ある言及もあったそうで。 つまり、

「カエサルはガリアを征服し、ニコメデスはカエサルを征服した。」 と。


品性いささか劣るのを自覚しているshinkaiは、こういうのを読む、
知るのが大好きで、ははは、

後に政敵から「ビチニアの女王」と呼ばれた、とも! がはは。


如何にもローマ期の大人物、という評判が大きすぎる方なので、
そうか、彼にもこういう弱みがあったか、と・・、 う・れ・ち・いぃ。

がまた、こういった詩句には、おそらく勝利した将軍の過剰なプライドを
避ける目的もあったろうと。 醒めた目で傍らから見つめているのですね。


日本版ウィキに、「はげ男」と言われることを受け入れていた事は、
カエサルの寛容さを説明する際に引き合いに出される」とありましたが、

これは日本的な考え方、状態であり、こちらでは少々の攻撃では
ひるむ事無く、年上だから、上司だから、という行儀、遠慮も少ない様な
気がしますし、

ましてローマ期であれば、兵士達とその司令官との垣根は低かったのでは
ないか、という気がします。


また元の話の筋に戻り、

キケロは、その様な噂話の街では、誰も噂話から安全ではない、と言い、

公の場でのスピーチと、私生活の両方でユーモアを注ぎ込んだのは、
まさに彼の様な上流社会の人々であり、重力の管理者と推定されていたと。

背の低い娘婿のレントゥウス・Lentuloが腰に長剣を下げているのを見て、
「誰が私の婿をその鉄に縛り付けたのか?」と叫んだと!


また、自分は30代だと主張するかなり年配の上流社会のご婦人について話すと、
キケロは次の様に答えた。

「それはきっと真実だろう。私は彼女がそう20年間繰り返すのを聞いて来た」と。


初代皇帝アウグストゥス・Augusutoも、鋭いユーモアのセンスを持っており、

アウグストゥス  bc64-ac27 ローマ帝国初代皇帝

6-Statue-Augustus_GF.jpg


背むしのガルバ領事が、間違いをしていたらと、訂正するよう彼に頼むと、

アウグストは「正すのは出来たが、真っすぐにする事は出来なかった」と。

これ、日本語に訳す言葉が難しいのですけど、
間違いをただす・correggereと、真っすぐにする・raddrizzare
とは別の言葉なので。



いじめ、意地悪となると、受け手に常に好評だったわけではなく、

オウィディウス・Ovidioの婿のコーネリアス・フィダス・Cornelio Fidoは、
元老院で誰かに「羽をむしられたダチョウめ・struzzo spelacchiato」と
やじられ、泣きだしたそうで、可哀そうにね。


また時に、人前で笑うのは危険な事もありますね。

ac192年、歴史家のカッシウス・ディオはエキセントリックな皇帝
コンモドゥスのパフォーマンスがアレーナで行われていた時、
何人かの上院議員と一緒におり、

コンモドゥス皇帝 161-192年 皇帝マルクス・アウレリウスの息子

7-1-Commodus_Musei_Capitolini_MC1120_GF.jpg

ヘラクレスに扮し、倒したライオンの毛皮を肩に、の皇帝。


皇帝はアレーナの中央でダチョウを殺し、頭を切り落とし、上院議員達の
方に向き、彼らが同じ様に終わる可能性がある事を理解させたのだそうで、

この余りにも芝居がかった見え見えのシーンは、議員達の間に幾らかの
笑いを引き起こしましたものの、大笑いを避けるため、

ディオーネは慌てて頭にかぶっていた月桂樹の王冠の葉を口にかみ、
笑いを耐え、仲間たちもすぐに真似をしたと。

笑いも場所を間違えると、そう、恐ろしい結果が待っていた時代もありました!



宮廷では支配者たちを楽しませる為の道化師が不足する事はなく、

アウグスト皇帝と彼のサークルのお気に入りは、ガルバ・Galbaという
道化師で、


ティベリウスは、道化師の中に小人を1人入れており、

8-1-nano-buffone-statuetta_GF.jpg


ドミティアヌスは、小さくて変形した頭蓋骨を持つ若い男と一緒に
剣闘士のショーに参加し、道化師は赤い服を着て彼の足元に座り、
一緒にシリアスとユーモアの狭間の会話を交わしていたと。


ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス・Titus Flavius
Domitianus 第11代ローマ皇帝 51-95年

8-2-1154.jpg


最初は穏健に始まった治世が次第に暴虐となり、ユダヤ教徒、
キリスト教徒の迫害でも知られ、96年に暗殺。

占星術により自分の死を予告されており、警戒したものの
自邸内で暗殺されたと。



トラヤヌス・Traianoの時代、あるカピトリーノ(大頭)がジョークを担当
していたが、

マルティアリス・Martialisによると、彼はガルバより更に面白い、と。


マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス・
Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus  53-117年 

8-3-Traianus_Glyptothek_Munich_72_GF.jpg

文武両面で辣腕を振るい、帝国内の公共施設の強化、領土拡大に
成功し、ローマ帝国を史上最大に。

同時代から現在に至るまで、優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝。


ローマ皇帝のあれこれを短く記す為に、それぞれの名を検索していますが、
漸くに、「素晴らしく優れた皇帝」と記せ、shinkaiも嬉しいで~す!
こういう皇帝も歴史に存在して頂かないとね。



マルクス・ウァレリウス・マルティアリス・Marcus Valerius Martialis
40-102年 ラテン語詩人 12巻のエピグラム(警句)が有名。

9-Marcus Valerius Martialis_GF.jpg

短くウィットに満ちた詩の中に、町の人々、知人たちの様々な行動を
明るく風刺している、とあり、
日本版ウィキにもその幾つかが。 大変面白く、ご1読をお勧めします。



ユーモアは、路上や居酒屋での会話の間違いなく主役で、

ポンペイの壁に描かれた落書きは、実在の人物のジョーク、罵倒、
似顔絵がたくさんあり、

その中の1つ、宿・ペンションに不満を持った客は次の様に。

「我々はベッドに小便をしました。告白します。宿の主よ、間違っていました。
 しかしなぜかと私に尋ねるのなら、答えます。 小便器が無かったからね」



ヴェンティディオ・バッソ・Ventidio Bassoが司法の最高位の地位に就いた時、
人々は驚きと共に、彼の出自がラバ引きだったのを思い出し、
で、誰かがローマの通りに書きました。

「急いで、皆さん、お目でとう、良いお知らせです! たった今、並外れた
 奇跡が起こりました:ラバの世話をしていた人が領事に選ばれました!」

って、間違いは無いにせよ、ははは、間の事柄を抜かすと、意地悪くも聞こえ・・。



上に出たマルティアリスの風刺的なエピグラムにもユーモアの痕跡があり、
彼の辛辣な機知で、同時代の人々の身体的、および性格的欠陥を
標的にするのが大好きだった、とし、

「クインタスはタイデが大好き。 どっちのタイデ? 片目のタイデ。
 タイデは片目がなく、クインタスは両方」

可笑しいですけど、返す言葉にね・・。



と綴って来ましたが、ジョークの真のコレクションを見つけるには、
西暦4~5世紀迄待たねばなりません。

それはギリシャ語で書かれており、文字通り「笑いの恋人」を意味する
フィロゲロス・Philogelos と題されており、

詩文の美しい物を集めた詞華集・アンソロジーには様々なタイプの
約270の物語も含まれているそうで。

10-71QwVWDfPOL_GF.jpg

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古代には卓越した馬鹿と見做されていたギリシャ北部のアブデラの住人を
主人公に、宦官、偽の占い師、ミソジミー・女性や女性らしさに対する
嫌悪や蔑視もあり、

つまり、特定の形式のユーモアは、どの時代でも一定である事を示す例で、

無能な占い師が男の未来を予言し、子供は持てないと告げる。
で、男が既に7人いると答えると、占い師は「でも、よく見ましたか?」と!

ははは、まさに、こういう一番平凡というか、馬鹿さ加減のジョークが
毒もなく、気軽に笑えますねぇ。



最後の版画は、
ギリシャの植民地ターラント・Tarantoに派遣されたローマ大使の
ルーチョ・ポストゥミオ・Lucio Postumioは、ギリシャ語を上手に話せず、
演説中に公然と嘲笑されました。

12-lambasciatore-romano-lucio-postumio-inviato-nella-coGF.jpg


可哀そうに、ははは。 shinkai、よく分かりますよぉ、その様子!
後ろでトーガを引っ張る男の、憎たらしくも笑える顔のいやらしさ、ははは。


お陰様で、今回の記事を読みご紹介した事で、ほとんど知らずだった
ローマ皇帝殿とも幾人か、ハリウッド映画以外に、ちょっとだけ、ははは、
かってに、お近付きになれた気がしています。 

13-9788843078677-0-0-1521-80-1_GF_GF.jpg


また何か興味ある事が見つかりましたら。


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・ アニェス・ソレル シャルル7世 仏国王の御愛妾 そして ジャンヌ・ダルク

アニェス・ソレル・Agnes Sorel と言っても、ああ、あの人ね、と
すぐ分かる方は仏国歴史にお強い方とご尊敬を!

shinkaiなどは、こういう写真と一緒でないと、誰だったっけと?!

1-Jean_Fouquet_005-1_GF.jpg

という様子ですが、ははは、
これを見ると、ああ、と容姿のみでも知っておられる方は多い筈と。


今回は偶々出会った記事に触発され、15世紀のヤヤコシイ仏の歴史、
イギリスとの100年戦争、(1337年から1553年迄フランス領土で続いた
フランス王の王位継承権、そしてイギリスのフランス領土拡張の為の戦争で、
その戦争の途中で登場のジャンヌ・ダルクの事等など、

ヤヤコシイ人間関係、戦争経過などを何度も繰り返し読みつつ、
漸くにふ~~ん、そうだったのか、という辺りまで詰め、  ホンマかや?
イングランド軍に捕えられ、身代金を払えば助けられたジャンヌ・ダルクを
見殺しにしたシャルル7世・CharlesVIIなる人物を、
少々恨みも含めて書きたく、

また彼のご愛妾、当時として大変にド外れていたと思われる、ははは、
彼女を知りたく、興味を持ち、頑張って読んだのでしたぁ。

参考にしたサイトは
アニェス・ソレル:水銀で殺害されたシャルル7世の「スキャンダラス」な愛人
Agnès Sorel: la “scandalosa” amante di Carlo VII assassinata con il Mercurio

他は、ウィキペディア 伊版の Agnes Sorel
日本版 アニェス・ソレル、シャルル7世、マリー・ダンジュー、
    イザボー・ド・バヴィエール
   そして ジャンヌ・ダルク、この記事は大変素晴らしく、
   当時の背景全体の関係説明も良く分かりました。



ではまずシャルル7世の御寵妾アニェス・ソレル(1422-1450)
の生い立ちから。

1422年頃アンジュー家貴族に仕える高位の一家に生まれ、
父親はコンピエーニュ近くのクダン・Coudun領主のジャン・ソレル、
母親はヴェルヌイ・アン・ブルボネの領主一家のカテリーナ・ディ・メニェレ.
つまり、かなりの高位貴族家出身、という事のようで、

生まれた地と生年は正確には分かっておらずですが、
兄弟はシャルル、アンドレア、ジョヴァンニ、ルイジの4人がおり、

彼女はオワーズのメニェレ・モンティーニの城に暫く住んでおり、
メニェレ、という、母親の姓と同じ地名なので、きっとその関係でしょう、

そこでナポリ王レナート・ダンジューの妻イザベッラ・ディ・ロレーヌ・
Isabella di Lorenaの侍女として仕えるべく準備中だった、と。

はい、貴族の侍女、宮廷の侍女となると、単なる召使ではないので、
貴族家の子女が仕えるのですね。
で、その侍女たちの管理となると、これはもっと高い位の貴族の妻が、
少し年も上、という方達だった様子で。


この肖像は、ジャン・フーケの失われたオリジナルの模写だそうで、
LA・BELLE・AGNES・美しきアニェス 1449 と。

2-AgnesSorel4-1_GF.jpg


とすると、1450年28歳で亡くなった彼女の前年の姿で、
目の色は薄い水色か、明るいグレイ色だった様ですね。


1442年20歳 当時の彼女は、素晴らしく頭がよく、教養があり、
大変美しい魅力ある女性であり、

ポワトゥー、ノルマンディのアンジューの大貴族、ピエール・ド・ブレゼは
彼女を国王に紹介し、

若く美しい新しい宮廷の侍女は、すぐに国王シャルル7世の目に留まり、
夢中にさせ、


シャルル7世は1403年2月22日生まれ、ですから、39歳ですか。

3-CArlo-VII-Francia_GF.jpg


有名なジャンヌ・ダルクの援助による、代々のフランス王戴冠の
ランスの大聖堂における戴冠式は1429年7月29日でしたが、
フランス王在位は1422年10月21日から。

シャルル7世戴冠式  右に立つのがジャンヌ・ダルク

4-Jeanne_d'Arc_-_Panthéon_III_GF.jpg


ランス ・ フランス国王、シャンパン、そして、藤田嗣治の街
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473572872.html



そしてアラゴン王ホアン1世の長女のマリー・ダンジュー・Marie d'Anjou
(1404-1463) 又従妹に当たる方と、

5-MarieAnjou_BNF_GF.jpg

1422年4月22日にブルージュで結婚しており、12子を得ております!



で、20歳のアニェスと出会ったという1442年は、39歳、結婚20年め、
既に10人の子持ちの中年男!

勿論他にもあれこれと御寵愛された方々がおられたのでしょうが、

1444年、つまり知り合って2年後、既に宮廷内衆知のご愛妾であった
アニェスは、イザベッラ・ディ・ロレーヌの特別侍女待遇から、

フランス王国初の非公式の女性(官辺筋から非公式に流される知らせ、
とでも)の地位昇進となりますが、

つまりヨーロッパでも初めての「公妾」の地位宣言。
正式には、フランス女王マリー・ダンジューの侍女、という事に。


つまりこれはかってない宮廷の大きなニュース、噂の種に、というのも、
それまでの王の愛人は陰に隠れていなければならない存在だったのが、
公的に「王の御寵愛様」の宣言となり、他の王の愛人達は問題でなく、

6-Agnès_Sorel_-_anonyme_XVIe_GF.jpg


彼女の生き方と突飛さで、すぐに宮廷で国王妃に次ぐ2位の位置に!

つまり当時の一部の宗教年代記者に「放縦と放蕩」と定義された、
肩、片乳房丸出しのネックラインを発明!

宮廷でのベールや、その他の胸を隠すものは放棄され、
8mもの長さの裾引きが、貂、または黒貂の毛皮のエレガントな
縁取りで飾られ、

1444年に初めてシャルル7世は最初のカット・ダイヤモンドを含む
2万200スクディの価値を持つ宝石を彼女に送ったのだそう。

当時ダイヤモンドは男性の装飾品だったので、その意味でも最初の女性に。

貴重な装飾品を求める為に、王の偉大な銀細工師であり、宝石の
国際的商人のジャック・クールの最高のお客となり、

多量の高価な生地の消費は、宮廷の他の女性達もすぐに模倣。

ある書物の報告によると、
「名もなき恋人たちの群れ、というよりも一種のハーレム、
 旅する鹿の公園であり、どこまでも彼について来ていた」と。

こうした豪華さの為の浪費は、フランス王室の負担となった訳で、
その上、彼女は数か月で国王から幾つかの領土を与えられ!

ボーテ・シュル・マルヌ・Beauté-sur-Marne、ヴェルノン・Vernon、
イッスダン・Issoudun、ロケセジエール・Roquecezière、ロッシュ・
Loches などで、
ロシェ城をシャルル7世から居城として与えられたと。


王妃のマリー・ダンジューは温和な性格で、アニェスの美貌に傾く
夫を認めており、アニェスもまた王妃を尊重した為に不仲とは
ならなかったものの、

領地については他の大勢もが関心を持っている訳で、

とりわけ王太子、将来のルイ11世は、母親を嘲笑した、と耐えられず、


ある日、彼は剣を手にアニェスを王室の居間で追いかけまわし、
彼女は王の寝室に避難する事で漸くに逃れた、との、ははは。


王の嫡子である王太子は1423年生まれで、1444年既に21歳!
「蜘蛛」というニックネームを授けられ、至る所に網を張り、
引っかかった獲物は食べてしまう、という意で、はは、

7-Louis_XI_GF.jpg


父国王にも2度退位を迫った、1439年、1448年、ほどだそうで、

この事件に怒ったシャルル7世は、彼を宮廷から追い払い、
フランス南東部のドーフィネの統治に追い払ったと!

地図を見ましたら、冬季オリンピック開催のグルノーヴルのある、
はい、所謂山間閑地の田舎で、父君としては愛しさ余って憎さ100倍、
という気持ちだったのかも、ですね、読むには可笑しいですが・・。



で、国王をここまで虜にしたアニェス・ソレルの魅力とは?

最初のジャン・フーケの描いた「聖母子に見立てた肖像画・ミルクの聖母」
をもう一度。

1-Jean_Fouquet_005-1_GF.jpg


当時の証言によると、彼女は金髪で、青い目、高い額、小さな鼻、
繊細な口、完璧な卵型の顔、ぴったりとした衣装で強調された体、
の持ち主。

年代記作家のジャン・チャーター・Jean Charterが定義した、
美しい王冠を頂き、「美しい人の中で、彼女は世界で最も美しく、
最年少だった」と。


「聖母」は真っ白な肌、当時のファッションに従い剃られた額、完全に
露出した肩、無表情な視線、コルセットで支えられた完全に丸い胸、
に描かれ、

膝の上の息子と母は、愛情が彼らを繋ぐことなく、お互いに無関心に見え、
当時の絵画の伝統、キリスト教の図像、というのではなく、

エロティックな挑発に見え、絵画全体が何かとてもシュールで、

既に王との間に3人の娘を授かっていた御愛妾がこの様に描かれている、
というだけで、当時の王宮でのスキャンダルの姦しさが想像できますね。

王の自分への力の大きさを確信している彼女の贅沢な浪費などでも
宮廷内での敵は多く、



第4子を妊娠中の1450年、フォルミニーの戦いに遠征中の国王に
ルーアンで会うために出かけますが、

近郊のジェミエージュ修道院・abbazia di Jumieges の邸宅で、
未熟児として生まれた4番目の娘を出産。

そして出産の数日後、アニェスは「腹の流れ」に見舞われ、数時間後に
神と聖母マリアに魂を捧げつつ死亡。

これは公式の法廷年代記者ジャン・シャルティエによるもので、
正式には、アニェスは産褥熱で死亡、と。

彼女は自分の持ち物、家族の何人かに死者の贖罪と冥福のミサを
言い残す時間があり、
数多くの宝石を国王シャルル7世への遺産として、返したのですね。


彼女のデス・マスク。 いやぁ、これは美しい方だったとすぐ分かりますねぇ!

8-Maschera-Mortuaria-di-Agnese-Sorel_GF.jpg


死の速さから、国王は毒殺であったと信じ、宝石商のジャック・クール、
そして王太子にも疑惑がかかりましたが、どちらも無実である事が分かり、
結局そのままになったのでした。


が、2004年、遺体がサント・ルソ教会への移送の際に検死が行われ、
下剤として摂取された水銀塩の吸収が明らかとなり、

急速な死はこの重金属の接種によるもので、毛髪分析による水銀量は、
医療ミスとは考えにくい治療量の1万から10万倍。

水銀が胃の組織を燃やすのを防ぐ為に、パン屑と混ぜて投与されており、

犯人の可能性のある彼女に近い人々の中に、ドイツ人の従妹の
アントニエッタ・ディ・メニェレ。 
彼女はアニェスの死の3か月後に国王のベッドを獲得、

そして彼女の遺産の一部が渡された医師ロベルト・ポワテビン・
Roberto Poitevin.

5世紀以上経ち、彼女の死を望んだのは、彼女の主治医であった
ロベルト・ポワテビンであった可能性が非常に高く、というのは

症状は彼が簡単に認識出来たものであり、彼のみが致命的な
量の毒を投与できたから。 少額の遺産金目当てに。


アニェス・ソレルはシャルル7世との7,8年間、フランスの宮廷に
新鮮な空気を吹き込み、4人の娘、婚姻に有利な正嫡の、を与え、

大きな羨望の目を浴びつつ、敵視され、でも複雑な宮廷の陰謀で
殺害されたのではなく、相続で幾らかのお金を稼ぐ為に殺されたのでした。


愛を失い絶望したシャルル7世は、大理石の印象的なモニュメントの
建造を命じましたが、
こちらはロシュの近くにある、長い碑文で飾られたお墓。

9-CC-BY-SA-2.0_GF.jpg


  ここにスレルの貴婦人アグネス、ボーテ、ロクシシエール、 
  イッスダン、ヴェルノン・シュル・セーヌの貴婦人が横たわります。

  すべての人に思いやりがあり、彼女の財産の一部を教会や
  貧しい人々に惜しみなく寄付しました。

  MCCCCXLIXの恵みの年に亡くなりました。
  彼女の平安な魂のために神に祈ってください。 アーメン。

1450年2月9日没、28歳でした。


shinkaiは最初単純に、ジャンヌ・ダルクの身代金を払わなかったのは、
お金のかかる御愛妾を抱え、頭がちゃんと働かなかったからだろう、と
思ったのでしたが、


いえ、年代を調べると、ジャンヌ・ダルク(1412頃ー1431年5月30日)
が13歳頃に神の啓示を受けたといい、当時王太子であったシャルル7世に
会いに行ったのが1428年16歳の時。

つまりシャルル7世が25歳の時で、アニェスとの出会いは未だ、でした。

この時はジャンヌは嘲笑をもって追い返され、翌年1429年1月に
貴族の知己を得、遂にシノンの城で、余人を払いシャルルと会い、
彼は強い印象を受けたと。

10-Joan_of_Arc_miniature_graded_GF.jpg

彼女をモデルにした肖像画は残っておらず、このミニチュア画も
1900年に描かれたものと。



当時シャルル7世の妻マリーと、アンジュー公ルイ2世妃の
ヨランダ・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍に資金援助しており、
ジャンヌは彼女たちに援助を申し出て、馬、甲冑、剣、旗印、
彼女の協力者たちの軍備一式も調達できたのだそうで、

多分長く続く負け戦に、何せ70年間一度も勝ち戦が無いフランスで!
当時は彼女の「神の声を聴いた」というだけが希望の一筋だったろうと。


オルレアンに到着したのが1429年4月29日、そして8日間で
イングランド軍を完全に駆逐させた、という事実。

こうして「オルレアンの少女、ジャンヌ」はフランスの領土を回復して行き、

ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、翌17日の朝シャルル7世の
戴冠式が執り行われた、という、まさにフランスの勝利の旗印に。

11-Statue_of_Jeanne_dArc_in_Paris_Place_des_Pyramides_GF.jpg


秋にも引き続き戦場で戦い、大怪我もしたり、休戦条約の為に
殆ど成す事なく終わったり、と続き、

翌1430年5月23日の、ブルゴーニュ公国軍との戦いで矢を受け落馬、
捕獲され、

普通であれば捕虜の身内が身代金を払い、身柄引き渡しとなるのが、
ジャンヌの場合は異例で、シャルル7世が身柄引き渡しに介入せずのまま!

祖国フランスから見捨てられた形で、彼女は幾度か脱走も試みたものの

最終的に敵側イングランドが身代金を払い、身柄を引き取り、

1431年1月から異端審問になり、イングランドのシンパであった
フランス人司教ピエール・コーションが重要な役割を果たし、

遂に1431年5月30日、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火刑に。

12-Joan_of_Arc_Roen_Burning_place_IMG_1602_GF.jpg

彼女が真に生きたのは僅か3年に満たずの、19歳の死でした。


シャルル7世は「暗愚な王」という評を受けているそうで、

が、晩年の、100年戦争で荒廃したフランス国の立て直しの功績を
忘れるべきでない、と日本版ウィキにはありましたが、


まだ国王としての実績を積んでいない若い時期とはいえ、あれ程の
戦績を揚げ、フランスを盛り返したジャンヌ・ダルクに対する仕打ちは、

単に身代金を惜しんで、としか見えず、これは他の人物の身代金に
対しても起こっている事なので、本人の性格かも、と

一方のご愛妾に対する浪費に比し、何世紀後のミジンコshinkaiでも、
はい、大いなる悲憤を感じるのでありますで~す。


人が働くのは、とりわけ国家の危機に際し命を懸けて働くのは、
意義の為であり、その意義に感じず、応じないのは、誠に情けない奴と。


という様な、15世紀フランスのシャルル7世と、
あれこれ、彼に近い存在であった女性2人のお話でした。


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