アニェス・ソレル・Agnes Sorel と言っても、ああ、あの人ね、と
すぐ分かる方は仏国歴史にお強い方とご尊敬を!
すぐ分かる方は仏国歴史にお強い方とご尊敬を!
shinkaiなどは、こういう写真と一緒でないと、誰だったっけと?!
という様子ですが、ははは、
これを見ると、ああ、と容姿のみでも知っておられる方は多い筈と。
今回は偶々出会った記事に触発され、15世紀のヤヤコシイ仏の歴史、
イギリスとの100年戦争、(1337年から1553年迄フランス領土で続いた
フランス王の王位継承権、そしてイギリスのフランス領土拡張の為の戦争で、
その戦争の途中で登場のジャンヌ・ダルクの事等など、
ヤヤコシイ人間関係、戦争経過などを何度も繰り返し読みつつ、
漸くにふ~~ん、そうだったのか、という辺りまで詰め、 ホンマかや?
漸くにふ~~ん、そうだったのか、という辺りまで詰め、 ホンマかや?
イングランド軍に捕えられ、身代金を払えば助けられたジャンヌ・ダルクを
見殺しにしたシャルル7世・CharlesVIIなる人物を、
少々恨みも含めて書きたく、
見殺しにしたシャルル7世・CharlesVIIなる人物を、
少々恨みも含めて書きたく、
また彼のご愛妾、当時として大変にド外れていたと思われる、ははは、
彼女を知りたく、興味を持ち、頑張って読んだのでしたぁ。
彼女を知りたく、興味を持ち、頑張って読んだのでしたぁ。
参考にしたサイトは
アニェス・ソレル:水銀で殺害されたシャルル7世の「スキャンダラス」な愛人
Agnès Sorel: la “scandalosa” amante di Carlo VII assassinata con il Mercurio
アニェス・ソレル:水銀で殺害されたシャルル7世の「スキャンダラス」な愛人
Agnès Sorel: la “scandalosa” amante di Carlo VII assassinata con il Mercurio
他は、ウィキペディア 伊版の Agnes Sorel
日本版 アニェス・ソレル、シャルル7世、マリー・ダンジュー、
日本版 アニェス・ソレル、シャルル7世、マリー・ダンジュー、
イザボー・ド・バヴィエール
そして ジャンヌ・ダルク、この記事は大変素晴らしく、
そして ジャンヌ・ダルク、この記事は大変素晴らしく、
当時の背景全体の関係説明も良く分かりました。
ではまずシャルル7世の御寵妾アニェス・ソレル(1422-1450)
の生い立ちから。
1422年頃アンジュー家貴族に仕える高位の一家に生まれ、
父親はコンピエーニュ近くのクダン・Coudun領主のジャン・ソレル、
母親はヴェルヌイ・アン・ブルボネの領主一家のカテリーナ・ディ・メニェレ.
父親はコンピエーニュ近くのクダン・Coudun領主のジャン・ソレル、
母親はヴェルヌイ・アン・ブルボネの領主一家のカテリーナ・ディ・メニェレ.
つまり、かなりの高位貴族家出身、という事のようで、
生まれた地と生年は正確には分かっておらずですが、
兄弟はシャルル、アンドレア、ジョヴァンニ、ルイジの4人がおり、
兄弟はシャルル、アンドレア、ジョヴァンニ、ルイジの4人がおり、
彼女はオワーズのメニェレ・モンティーニの城に暫く住んでおり、
メニェレ、という、母親の姓と同じ地名なので、きっとその関係でしょう、
メニェレ、という、母親の姓と同じ地名なので、きっとその関係でしょう、
そこでナポリ王レナート・ダンジューの妻イザベッラ・ディ・ロレーヌ・
Isabella di Lorenaの侍女として仕えるべく準備中だった、と。
Isabella di Lorenaの侍女として仕えるべく準備中だった、と。
はい、貴族の侍女、宮廷の侍女となると、単なる召使ではないので、
貴族家の子女が仕えるのですね。
で、その侍女たちの管理となると、これはもっと高い位の貴族の妻が、
少し年も上、という方達だった様子で。
貴族家の子女が仕えるのですね。
で、その侍女たちの管理となると、これはもっと高い位の貴族の妻が、
少し年も上、という方達だった様子で。
この肖像は、ジャン・フーケの失われたオリジナルの模写だそうで、
LA・BELLE・AGNES・美しきアニェス 1449 と。
とすると、1450年28歳で亡くなった彼女の前年の姿で、
目の色は薄い水色か、明るいグレイ色だった様ですね。
目の色は薄い水色か、明るいグレイ色だった様ですね。
1442年20歳 当時の彼女は、素晴らしく頭がよく、教養があり、
大変美しい魅力ある女性であり、
ポワトゥー、ノルマンディのアンジューの大貴族、ピエール・ド・ブレゼは
彼女を国王に紹介し、
彼女を国王に紹介し、
若く美しい新しい宮廷の侍女は、すぐに国王シャルル7世の目に留まり、
夢中にさせ、
シャルル7世は1403年2月22日生まれ、ですから、39歳ですか。
有名なジャンヌ・ダルクの援助による、代々のフランス王戴冠の
ランスの大聖堂における戴冠式は1429年7月29日でしたが、
フランス王在位は1422年10月21日から。
ランスの大聖堂における戴冠式は1429年7月29日でしたが、
フランス王在位は1422年10月21日から。
シャルル7世戴冠式 右に立つのがジャンヌ・ダルク
そしてアラゴン王ホアン1世の長女のマリー・ダンジュー・Marie d'Anjou
(1404-1463) 又従妹に当たる方と、
1422年4月22日にブルージュで結婚しており、12子を得ております!
で、20歳のアニェスと出会ったという1442年は、39歳、結婚20年め、
既に10人の子持ちの中年男!
既に10人の子持ちの中年男!
勿論他にもあれこれと御寵愛された方々がおられたのでしょうが、
1444年、つまり知り合って2年後、既に宮廷内衆知のご愛妾であった
アニェスは、イザベッラ・ディ・ロレーヌの特別侍女待遇から、
アニェスは、イザベッラ・ディ・ロレーヌの特別侍女待遇から、
フランス王国初の非公式の女性(官辺筋から非公式に流される知らせ、
とでも)の地位昇進となりますが、
とでも)の地位昇進となりますが、
つまりヨーロッパでも初めての「公妾」の地位宣言。
正式には、フランス女王マリー・ダンジューの侍女、という事に。
正式には、フランス女王マリー・ダンジューの侍女、という事に。
つまりこれはかってない宮廷の大きなニュース、噂の種に、というのも、
それまでの王の愛人は陰に隠れていなければならない存在だったのが、
公的に「王の御寵愛様」の宣言となり、他の王の愛人達は問題でなく、
彼女の生き方と突飛さで、すぐに宮廷で国王妃に次ぐ2位の位置に!
つまり当時の一部の宗教年代記者に「放縦と放蕩」と定義された、
肩、片乳房丸出しのネックラインを発明!
肩、片乳房丸出しのネックラインを発明!
宮廷でのベールや、その他の胸を隠すものは放棄され、
8mもの長さの裾引きが、貂、または黒貂の毛皮のエレガントな
縁取りで飾られ、
縁取りで飾られ、
1444年に初めてシャルル7世は最初のカット・ダイヤモンドを含む
2万200スクディの価値を持つ宝石を彼女に送ったのだそう。
2万200スクディの価値を持つ宝石を彼女に送ったのだそう。
当時ダイヤモンドは男性の装飾品だったので、その意味でも最初の女性に。
貴重な装飾品を求める為に、王の偉大な銀細工師であり、宝石の
国際的商人のジャック・クールの最高のお客となり、
国際的商人のジャック・クールの最高のお客となり、
多量の高価な生地の消費は、宮廷の他の女性達もすぐに模倣。
ある書物の報告によると、
「名もなき恋人たちの群れ、というよりも一種のハーレム、
旅する鹿の公園であり、どこまでも彼について来ていた」と。
「名もなき恋人たちの群れ、というよりも一種のハーレム、
旅する鹿の公園であり、どこまでも彼について来ていた」と。
こうした豪華さの為の浪費は、フランス王室の負担となった訳で、
その上、彼女は数か月で国王から幾つかの領土を与えられ!
ボーテ・シュル・マルヌ・Beauté-sur-Marne、ヴェルノン・Vernon、
イッスダン・Issoudun、ロケセジエール・Roquecezière、ロッシュ・
Loches などで、
ロシェ城をシャルル7世から居城として与えられたと。
王妃のマリー・ダンジューは温和な性格で、アニェスの美貌に傾く
夫を認めており、アニェスもまた王妃を尊重した為に不仲とは
ならなかったものの、
夫を認めており、アニェスもまた王妃を尊重した為に不仲とは
ならなかったものの、
領地については他の大勢もが関心を持っている訳で、
とりわけ王太子、将来のルイ11世は、母親を嘲笑した、と耐えられず、
ある日、彼は剣を手にアニェスを王室の居間で追いかけまわし、
彼女は王の寝室に避難する事で漸くに逃れた、との、ははは。
彼女は王の寝室に避難する事で漸くに逃れた、との、ははは。
王の嫡子である王太子は1423年生まれで、1444年既に21歳!
「蜘蛛」というニックネームを授けられ、至る所に網を張り、
引っかかった獲物は食べてしまう、という意で、はは、
父国王にも2度退位を迫った、1439年、1448年、ほどだそうで、
この事件に怒ったシャルル7世は、彼を宮廷から追い払い、
フランス南東部のドーフィネの統治に追い払ったと!
フランス南東部のドーフィネの統治に追い払ったと!
地図を見ましたら、冬季オリンピック開催のグルノーヴルのある、
はい、所謂山間閑地の田舎で、父君としては愛しさ余って憎さ100倍、
という気持ちだったのかも、ですね、読むには可笑しいですが・・。
はい、所謂山間閑地の田舎で、父君としては愛しさ余って憎さ100倍、
という気持ちだったのかも、ですね、読むには可笑しいですが・・。
で、国王をここまで虜にしたアニェス・ソレルの魅力とは?
最初のジャン・フーケの描いた「聖母子に見立てた肖像画・ミルクの聖母」
をもう一度。
当時の証言によると、彼女は金髪で、青い目、高い額、小さな鼻、
繊細な口、完璧な卵型の顔、ぴったりとした衣装で強調された体、
繊細な口、完璧な卵型の顔、ぴったりとした衣装で強調された体、
の持ち主。
年代記作家のジャン・チャーター・Jean Charterが定義した、
美しい王冠を頂き、「美しい人の中で、彼女は世界で最も美しく、
最年少だった」と。
美しい王冠を頂き、「美しい人の中で、彼女は世界で最も美しく、
最年少だった」と。
「聖母」は真っ白な肌、当時のファッションに従い剃られた額、完全に
露出した肩、無表情な視線、コルセットで支えられた完全に丸い胸、
に描かれ、
露出した肩、無表情な視線、コルセットで支えられた完全に丸い胸、
に描かれ、
膝の上の息子と母は、愛情が彼らを繋ぐことなく、お互いに無関心に見え、
当時の絵画の伝統、キリスト教の図像、というのではなく、
エロティックな挑発に見え、絵画全体が何かとてもシュールで、
既に王との間に3人の娘を授かっていた御愛妾がこの様に描かれている、
というだけで、当時の王宮でのスキャンダルの姦しさが想像できますね。
というだけで、当時の王宮でのスキャンダルの姦しさが想像できますね。
王の自分への力の大きさを確信している彼女の贅沢な浪費などでも
宮廷内での敵は多く、
第4子を妊娠中の1450年、フォルミニーの戦いに遠征中の国王に
ルーアンで会うために出かけますが、
近郊のジェミエージュ修道院・abbazia di Jumieges の邸宅で、
未熟児として生まれた4番目の娘を出産。
未熟児として生まれた4番目の娘を出産。
そして出産の数日後、アニェスは「腹の流れ」に見舞われ、数時間後に
神と聖母マリアに魂を捧げつつ死亡。
神と聖母マリアに魂を捧げつつ死亡。
これは公式の法廷年代記者ジャン・シャルティエによるもので、
正式には、アニェスは産褥熱で死亡、と。
彼女は自分の持ち物、家族の何人かに死者の贖罪と冥福のミサを
言い残す時間があり、
数多くの宝石を国王シャルル7世への遺産として、返したのですね。
彼女のデス・マスク。 いやぁ、これは美しい方だったとすぐ分かりますねぇ!
死の速さから、国王は毒殺であったと信じ、宝石商のジャック・クール、
そして王太子にも疑惑がかかりましたが、どちらも無実である事が分かり、
結局そのままになったのでした。
が、2004年、遺体がサント・ルソ教会への移送の際に検死が行われ、
下剤として摂取された水銀塩の吸収が明らかとなり、
急速な死はこの重金属の接種によるもので、毛髪分析による水銀量は、
医療ミスとは考えにくい治療量の1万から10万倍。
医療ミスとは考えにくい治療量の1万から10万倍。
水銀が胃の組織を燃やすのを防ぐ為に、パン屑と混ぜて投与されており、
犯人の可能性のある彼女に近い人々の中に、ドイツ人の従妹の
アントニエッタ・ディ・メニェレ。
アントニエッタ・ディ・メニェレ。
彼女はアニェスの死の3か月後に国王のベッドを獲得、
そして彼女の遺産の一部が渡された医師ロベルト・ポワテビン・
Roberto Poitevin.
5世紀以上経ち、彼女の死を望んだのは、彼女の主治医であった
ロベルト・ポワテビンであった可能性が非常に高く、というのは
ロベルト・ポワテビンであった可能性が非常に高く、というのは
症状は彼が簡単に認識出来たものであり、彼のみが致命的な
量の毒を投与できたから。 少額の遺産金目当てに。
量の毒を投与できたから。 少額の遺産金目当てに。
アニェス・ソレルはシャルル7世との7,8年間、フランスの宮廷に
新鮮な空気を吹き込み、4人の娘、婚姻に有利な正嫡の、を与え、
大きな羨望の目を浴びつつ、敵視され、でも複雑な宮廷の陰謀で
殺害されたのではなく、相続で幾らかのお金を稼ぐ為に殺されたのでした。
殺害されたのではなく、相続で幾らかのお金を稼ぐ為に殺されたのでした。
愛を失い絶望したシャルル7世は、大理石の印象的なモニュメントの
建造を命じましたが、
建造を命じましたが、
こちらはロシュの近くにある、長い碑文で飾られたお墓。
ここにスレルの貴婦人アグネス、ボーテ、ロクシシエール、
イッスダン、ヴェルノン・シュル・セーヌの貴婦人が横たわります。
すべての人に思いやりがあり、彼女の財産の一部を教会や
貧しい人々に惜しみなく寄付しました。
貧しい人々に惜しみなく寄付しました。
MCCCCXLIXの恵みの年に亡くなりました。
彼女の平安な魂のために神に祈ってください。 アーメン。
彼女の平安な魂のために神に祈ってください。 アーメン。
1450年2月9日没、28歳でした。
shinkaiは最初単純に、ジャンヌ・ダルクの身代金を払わなかったのは、
お金のかかる御愛妾を抱え、頭がちゃんと働かなかったからだろう、と
思ったのでしたが、
いえ、年代を調べると、ジャンヌ・ダルク(1412頃ー1431年5月30日)
が13歳頃に神の啓示を受けたといい、当時王太子であったシャルル7世に
会いに行ったのが1428年16歳の時。
が13歳頃に神の啓示を受けたといい、当時王太子であったシャルル7世に
会いに行ったのが1428年16歳の時。
つまりシャルル7世が25歳の時で、アニェスとの出会いは未だ、でした。
この時はジャンヌは嘲笑をもって追い返され、翌年1429年1月に
貴族の知己を得、遂にシノンの城で、余人を払いシャルルと会い、
彼は強い印象を受けたと。
彼女をモデルにした肖像画は残っておらず、このミニチュア画も
1900年に描かれたものと。
当時シャルル7世の妻マリーと、アンジュー公ルイ2世妃の
ヨランダ・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍に資金援助しており、
ジャンヌは彼女たちに援助を申し出て、馬、甲冑、剣、旗印、
彼女の協力者たちの軍備一式も調達できたのだそうで、
多分長く続く負け戦に、何せ70年間一度も勝ち戦が無いフランスで!
当時は彼女の「神の声を聴いた」というだけが希望の一筋だったろうと。
当時は彼女の「神の声を聴いた」というだけが希望の一筋だったろうと。
オルレアンに到着したのが1429年4月29日、そして8日間で
イングランド軍を完全に駆逐させた、という事実。
こうして「オルレアンの少女、ジャンヌ」はフランスの領土を回復して行き、
ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、翌17日の朝シャルル7世の
戴冠式が執り行われた、という、まさにフランスの勝利の旗印に。
戴冠式が執り行われた、という、まさにフランスの勝利の旗印に。
秋にも引き続き戦場で戦い、大怪我もしたり、休戦条約の為に
殆ど成す事なく終わったり、と続き、
殆ど成す事なく終わったり、と続き、
翌1430年5月23日の、ブルゴーニュ公国軍との戦いで矢を受け落馬、
捕獲され、
捕獲され、
普通であれば捕虜の身内が身代金を払い、身柄引き渡しとなるのが、
ジャンヌの場合は異例で、シャルル7世が身柄引き渡しに介入せずのまま!
ジャンヌの場合は異例で、シャルル7世が身柄引き渡しに介入せずのまま!
祖国フランスから見捨てられた形で、彼女は幾度か脱走も試みたものの
最終的に敵側イングランドが身代金を払い、身柄を引き取り、
1431年1月から異端審問になり、イングランドのシンパであった
フランス人司教ピエール・コーションが重要な役割を果たし、
フランス人司教ピエール・コーションが重要な役割を果たし、
遂に1431年5月30日、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火刑に。
彼女が真に生きたのは僅か3年に満たずの、19歳の死でした。
シャルル7世は「暗愚な王」という評を受けているそうで、
が、晩年の、100年戦争で荒廃したフランス国の立て直しの功績を
忘れるべきでない、と日本版ウィキにはありましたが、
忘れるべきでない、と日本版ウィキにはありましたが、
まだ国王としての実績を積んでいない若い時期とはいえ、あれ程の
戦績を揚げ、フランスを盛り返したジャンヌ・ダルクに対する仕打ちは、
戦績を揚げ、フランスを盛り返したジャンヌ・ダルクに対する仕打ちは、
単に身代金を惜しんで、としか見えず、これは他の人物の身代金に
対しても起こっている事なので、本人の性格かも、と
対しても起こっている事なので、本人の性格かも、と
一方のご愛妾に対する浪費に比し、何世紀後のミジンコshinkaiでも、
はい、大いなる悲憤を感じるのでありますで~す。
はい、大いなる悲憤を感じるのでありますで~す。
人が働くのは、とりわけ国家の危機に際し命を懸けて働くのは、
意義の為であり、その意義に感じず、応じないのは、誠に情けない奴と。
という様な、15世紀フランスのシャルル7世と、
あれこれ、彼に近い存在であった女性2人のお話でした。
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