・ シエナ  サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話

シエナ2日目の午前中、雨が止んでいるのを幸いに、計画通り
ドゥオーモ訪問の後、サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂
Basilica dei Santa Maria dei Selviに出かけました。

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未だ実際に訪問した事がなく、ただ聖堂正面の写真を見ただけで、
その如何にも古いロマネスク様式の雰囲気に魅かれており、

実際にはたくさん見るべき絵画もあったのを端折った見学に
なったのですが、でも素晴らしいパノラマ風景を見れた事、

そして、この記事を書くために調べたちょっとした切っ掛けで
パリオの細部についてもあれこれ知りましたので、

そんなこんなを絡めて、お楽しみ頂けます様に!


楽に歩いて行ける距離、グーグル・マップによると8分と出て、
カンポ広場から北側の一番端からの道を真っすぐでOKと。

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有難い事に、坂道があちらにもこちらにものシエナにしては!
なだらかな道が続き、時に坂道でも緩やかで、


途中家並みの途切れた隙間から見えた谷の向こうに見える
大きな教会風建築。

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サン・ドメニコの背後ではないし、どこだろ?と思ったのでしたが、
教えて頂けましたので後程。



道は両側からこんな風に建物が迫り、大体4~5階建て。

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左の少路の角に見える、白とオレンジ色の旗を覚えておいて下さいね。



左下の道にこんな建物が見え、調べましたら、

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サン・ジローラモ教会・修道院で、表から見ると小さく見えますが、
元は13世紀からの、内部はロココ式に改装された大きな教会の様で!

知らないというのは恐ろしいもので、はは、そのまま通り過ぎましたが、
時間があり、歩きと探検心に満ちている方なら、内部の教会だけでもね。



途中で道が分かれましたが、右に「ヴィア・デイ・セルヴィ」と
標識があり、まるで迷わず、

ほらぁ、見えた!

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左手の古い煉瓦積みの建物の壁に、聖母子のニッキがあり、

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小さな一見素朴そうな感じが、なんとなんと大変優雅で、
とりわけ背後の模様が私めの好みで!
ただ、聖母の手がちょっとゴツイなぁ、と‥。 済みません。



さて、サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂前に。 坂道の傾斜の上、
左右に大木が茂り、聖堂前が狭く・・。

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この正面の、ロマネスクの荒削りの建築中途のまま整備されず、
の味わいが逆に素敵で、一度実際に見たかったのです。

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前に突き出している膨らみの部分は、当時はどの様な意図があったのか、
現在は背後との開いた部分を塞いだままになっている様で。

内部は3廊式、結構広々としているのですが、この日は曇りで
いささか薄暗く、外の魅力に比べ、失礼、少しがっかりの内部で。

聖堂の正式名称は、サン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ・
San Clemente in Santa Maria dei Serviというのだそうで、


元々サン・クレメンテの教区教会があった所に、1250年頃より
新しく増改修が始まり、この名になったのだそうで。

というのも、フィレンツェの北部で設立された最初の「セルヴィ会派」
からの僧侶たちが1234年頃やって来て城壁外に住み着いたのに、
コムーネが、城壁内の、当時のサン・クレメンテに教会を、と招待。

シエナの裕福な貴族のトロメイ家が土地を寄贈し、煉瓦などの建材は
自治体が寄贈、という事で、数年後に工事が始まった、というのです。

「セルヴィーティ・セルヴィ会派」は、托鉢会派、つまりフランチェスコ会派
と同じ会派と思うのですが、

考えて見ると、アッシジのフランチェスコ会派の始まりは1209年というので、
その影響で出来た会派なのかも、ですね。


という様子で、建設の始まりは早かったものの、工事はゆっくりと、
ほぼ3世紀に渡り、15世紀半ばまでにゴシック様式の翼廊と
礼拝堂が完成し、

1471年から1528年に描け、ルネッサンス様式の3つの身廊の
縦長の教会が建設され、

1533年5月18日に聖別式が行われたものの、作業はまだ完了せず、
1537年に内部工事は終了し、

3つの身廊を分割するのに4本の円柱が購入されたものの、

15世紀の正面壁は、そのままで完成せず。

横の祭壇はバロック時代に追加され、1750年大聖堂前の
石段が追加、という事。

鐘楼は14,15世紀にロマネスク様式で建設され、
1926年に鐘楼上の中央と角に尖塔が追加され、
シエナの大聖堂に似た形に、と。


内部は3廊になっており、

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入り口内部の洗礼盤。 大変美しい細工で。

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入り口右隅の礼拝堂。 14世紀のフレスコ画があり、
この奥は鐘楼内部になるのだそう。

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内陣、後陣部の祭壇画とステンド・グラス。

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祭壇画は、聖母被昇天、ですが、金が単純にキラキラし過ぎません?

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天井部は、やはりシエナの大聖堂の天井に似た様式で。

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こちらは「幼児虐殺」、マッテオ・ジョヴァンニ、1491年。
暗い画面に金色が光り過ぎで。 でも嫌いではないので、はい。

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こちらがサイトから引いたもので。

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他にも、ドゥッチョや、ピエトロ・ロレンツェッティなど、かなりの
フレスコ画もあった様なのに、なぜかまるで見ておらず・・! 
はい、またのチャンスに。



こちらは唯一美しいなぁ、と思い撮った、リッポ・メンミ・
Lippo Memmiの「聖母子」 1325年頃と。

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ですが、これは模写なのだそうで、原画はシエナの国立絵画館にと。


リッポ・メンミについては、今回パラッツォ・プッブリコの
シモーネ・マルティーニの素晴らしい「マエスタ・Maestà」に再会出来、
あれこれ読む内に、

◆◆シモーネ・マルティーニの師であり、お舅さんに当たる、というのは

shinkaiめの早とちりで、シモーネとリッポは義理の兄弟
リッポの方がシモーネよりも年下で、
つまり、リッポの姉(と)結婚した、と分かりました。

訂正し、お詫び申し上げます。 詳しく分かりましたら、またお知らせを。


他の絵も見ると、シモーネの絵によく似ているのも発見し、
改めても少し読んでみたいと思っています。



今回改めてシエナでパラッツォ・プッブリコのゴシック絵画、
ゴシック装飾の中にじっくり埋まり、

また、街中で耳に入って来るシエナの人々のあのゆっくりとした話し方、
カ行とハ行が逆になる、独特の訛りがとても心にしみ、

ああ、シエナは良いなぁ! 好きだなぁ!と、改めて思ったのでした。
良いね、素敵ね、とはまた別の 「好きだなぁ!」に進行中かも!
チャンスがあったら、また是非出かけようと!!



で、聖堂を出て来た所で、目に入ったこの景色!
囲いの高い煉瓦塀でここしか見えずでしたが、

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その塀に、聖堂側に大きな木の扉があるのが、開いているではありませんかぁ!

頭を覗かせながら入り込み、きょろきょろとして誰もおらずを見て、
1枚失礼して、と思った所に、シニョーレが出て来て、

済みません、一枚撮らせて下さい、とお願いすると、
勿論、勿論。 あの奥に行くと、素晴らしいパノラマが撮れるよ。
あ、良いですか? 勿論!


で奥のテラスの方まで行くと、 わぁ~い、マンジャの塔と
プッブリコ宮の上のテラスも見える!

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喜んでいると、先のシニョーレがやって来て、色々説明してくれ、

途中来る時にも見えたあの大きな教会背後は、サンタゴスティーノ・
Sant’Agostinoと教えて貰いました。 こちら。

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地図で見ると、右がサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂で、
谷を挟んでの左に、教会ではなく「修道院・モナステーロ」と。

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どうやら私めが入り込んだのは、聖堂所属の何かのクラブ事務所の
様子で、

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パリオの話から、ここはレオコルノの地区に入るのよ、とも聞き、
前夜祭の地区民総出の食事会はこの道も使ってして、
2千人程も集まるんよ、と。

20年ほどフィレンツェの仕事に行き来したけど、今はヴォルテッラの
方に行く、娘が住んでいるので、
なんぞともっと話したそうでしたけど、先の予約もあるしと、
良いチャンスを有難うございましたぁ! でサヨナラを。


てな事で、例により、すっかり聖堂の裏に回る事を忘れ、ドジ!


で、石段を下って来た所で、この猫ちゃんに。
shinkai好みの、丸く重みのある綺麗な猫ちゃんで。

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所で、シエナのパリオに話題を変えまして、
シニョーレの話に出て来た「レオコルノ・一角獣」の地区の旗が、
来る途中の道の左に見えましたが、

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あれこれ探していて「レオコルノの道」という記事というのに出会い、
これがその地図で、

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つまり、この道が他の地区・コントラーダとの境界線で、
この内側、そして道脇の建物もこの地区に含まれるという、
つまり他の地区も同じように境界線が決められている訳で、



こちらが現在17ある地区の境界線と、その地区の旗印。
真ん中にちょこっと開いている所が、カンポ広場。

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で、上の線の地図と、私めが歩いた聖堂への道が一致で、
ただ最後辺りがどうなんだろ?という感じなのでしたが、

それを、あのシニョーレが、ここはレオコルノなんよ、と言われたのでは
ないかな、と納得したのでした。


で、この境界線を決めたのが1729年、当時シエナの統治者で
あった、メディチ家のトスカーナ大公フェルディナンドの妃であった
ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ・
Violante Beatrice di Baviera.

それまでは明確な境界線がなく、頻繁に発生していた領土紛争に
決着をつけた「御布令」だったのだそうで!

オーストリアからの妃がねぇ、シエナの統治者として、あの熱狂的な
コントラーダの各境界線を決めた、と知ると可笑しくなって。



各地区のその自分の地区に対する熱狂度はもうそれはもう、もうもう、
なんですが、

この指輪、これは今回はレオコルノですが、「フェーデ・Fede」と
呼ばれる、自分の地区への忠誠度を示す!指輪なんですと。

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だって皆さん、結婚指輪も「フェーデ」なんすよ、ははは。

こんな指輪をはめた男達が寄り集まって気勢を上げてるのを想像すると、
ちょっと怖い気もしますがぁぁ、ははは。



なんぞとあれこれパリオの写真を探していたら、あの熱狂度が
懐かしく思い出され、

カンポ広場をうずめる、溢れそうな、この頭数を見てぇ!!

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これは、レオコルノの馬と騎手が1位でゴールに入った時ね。

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左端で、シニョーレたちが耳を塞いでいるのは、一位が到着と共に、
ドッカーンと、大爆竹が撃たれるのでね。



勝った馬と騎手は、もう、もみくちゃにされ、地区の男達は殆どが
大泣きして齧りつき、可愛いの。

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ああ、懐かしい! この夏は忘れずにTV中継を見るぞぉ!!


という様な、今回はパリオのお話でお終いですが、

パリオについて余り良くご存じない方にも分かりやすく説明したのから、
実際に見に行った時の様子までも集めましたので、
余韻を楽しんでくださ~い!

シエナのパリオ ・ Il Palio di Siena
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462677150.html

シエナのパリオ 2008.7.2 ・ その前日
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678205.html

n.1 シエナのパリオ ・ 2008.7.2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466779099.html

n.2 シエナのパリオ ・ 2008.7.2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466779309.html

n.3 シエナのパリオ ・ 2008.7.2          
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466784900.html

シエナのパリオ 2018.7.2 TV中継から
https://www.italiashiho.site/archives/20180706-1.html

シエナのご案内はこちらから。
https://www.italiashiho.site/article/469315783.html


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・ シエナ行き   雨のシエナ

こちらイタリアは長い間暖かさが続くお天気だったのが、
ここに来て漸くに冬が到来、という状態で、寒い日が続いています。

で、12日にミラノに行った時は雨の予報が一転し、
大変良いお天気で暖かかったのが、

この18日、19日にシエナに行った時は残念ながら、雨の予報通り、
雨、小雨、一転して薄日が射したり、また雨、それも酷い雨、霙、
とお天気がころころと変わりましたが、

それでも隙間を縫い、4,5年振りのシエナを楽しんで来ました!

最初の写真は、フィレンツェからのバスから見えたモンテリッジョーニ。

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ここの小さな村、城壁に囲まれた様子は遠くからでもすぐ分かり、
どうやら修復中らしい塔と城壁も。

モンテリッジョーニ ・ 塔の冠を戴いた、トスカーナの珠玉の町
https://www.italiashiho.site/article/479843207.html


フィレンツェからのラーピダ・特急のバスは、1時間10分程で行けますが、
電車だと駅は丘の下、町の中心迄が歩くには遠く不便。

フィレンツェ駅前西にあるバス駅から乗ると、シエナの街中北端に
あるサン・ドメニコ聖堂脇に到着するので、
この往復は久し振りにこのバスを利用しました。片道8,4エウロだったかな。


で、シエナに入ってから狭い道を回りながら、到着直前、谷の向こうに
ドゥオモが見えた時、雲の隙間から青空がチラッとこの家並みに陽が射し込み、

素晴らしい景色が、お出でやす、とばかりに迎えてくれ!

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既に降りる準備で撮れず、バスを降りてからまた戻ったのですが、
残念、すでにお日様は隠れ。



既に1時前だったので、すぐ横にあったバール兼食事処で、
「胡椒のピーチ・ウンブリア、トスカーナでお目にかかる太饂飩式のパスタ」を。

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場所柄とにかくお昼ご飯が食べれたら、と思い期待してませんでしたが、
むっちりとしたパスタに胡椒が適当に効いて美味しかった!



カンポ広場に近い、5年前に見つけた宿に寄り、荷物・全部リュックに
まとめたのを置き、必要品はすべてポケットに分け、はは、
曇り空の下を出かけます。


カンポ広場に着く頃にはポツポツと降り始め、ざざぁーと来始めたので
広場のバールに避難。

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ココアを頼み、のんびりと風景を楽しみつつ、雨が小やみになるのを待ち、



ガイアの泉には、この作品はどなたかな、明るくて、可愛くて、それにシエナ
と言えばやはり「お馬ちゃん」ですものね。

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今回のシエナ行きは、パラッツォ・プッブリコのフレスコ画、
アンブロージョ・ロレンツレッティの「善政、悪政の寓話とその様子」の
修復中なのが、

2か月間限定で一般公開、というのを知り、即決め申し込んで
やって来たのでした。

シエナのプッブリコ宮 「善政、悪政の寓意」の修復現場 公開
https://www.italiashiho.site/article/494857101.html


初日の今日は15時半からの予約が取れ、そろそろ博物館に。
この見学については、写真は禁止でしたが、翌日も予約が取れ、

都合2回で1時間、ガイドさんのお話も大変熱のこもった、
今まで気が付かなかった絵の様子、知らなかった事様々で、
本当に行って良かった!!と納得でした。

という事でまた博物館内の様子は他の事も含め、見て頂きますね。


16時過ぎに出てくると、広場周辺の開いているバール、レストラン
には灯が灯り始め、

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初めて撮れた、はは、ワイド写真、イェイ。


 
我が師二木さんにリクエストされていた下り坂の写真を撮りに行き、

緩やかな坂道を上りヴィア・バンキ・ディ・ソプラに戻って来ると、
ピアッツァ・サリンベーニ・Salinbeni. 既にうす暗くなり始め、

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名前通り、かってはこの通りには銀行、というか両替屋が並んでいた
という通りを宿の方に向かい、


雑誌や小物がずらっと並ぶ小さな店が良い雰囲気で。

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こちらは通りを逆に眺め、

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皆さんは「ナンニーニ・Nannini」という姓をご存じでしょうか?!

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shinkaiめがまだ若い頃、はは、ジャンナ・ナンニーニという
渋い声を持った女性歌手がたくさんヒットを放ち、彼女のお兄さんは
FIパイロットで有名、そして生家が、ここシエナ繁華街の
ジェラート店で有名でした。

久し振りに気が付いてみると、あちこちに店が出来ており!



左奥に見えるのは、ロッジァ・デッラ・メルカンツィア・
Loggia della Mercanziaと呼ばれる、かって街の商人達の組合の建物。

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ここまでの通りはヴィア・バンキ・ディ・ソプラ・上通り、で、
ここから先はヴィア・バンキ・ディ・ソット・下通りとなり、
ヴィア・デッラ・フランチージェナの街道筋ともなっていた通り。

明るい色が見えるのは、


こんなイルミネーションの黄色と赤色が動きを醸しており、

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まだ寒い古いイメージの多い街中に、広場のお馬ちゃん同様に、
こんなのも良いなぁ、と。


この通りからカンポ広場に降りる通りは何本もあるのですが、

ロッジャの先まで行き、見下ろすカンポ広場。 

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サン・マルティーノの礼拝堂に見える
明るい矢印は、「お馬さん」同様の色彩豊かな「流れ星」


この近くで、出来合いのピッツァを一切れとビールを1缶買い、
宿に帰り、朝7時からの移動で轟沈。



夜中に雨音で一瞬目が覚めたものの、また寝て、朝もゆっくり、
9時半過ぎに荷を預け、宿を出て、ゆっくりとバンキ通りを進むと、

時に右横に開く少路の先に、ドゥオーモの鐘楼の先と、
下に聖堂の壁が覗き。

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シエナのシンボル、2人の人間の子に父を飲ます雌狼の
円柱の横で折れ、

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ゆっくりの坂を上ると、シエナの聖堂の前に。

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はい、最初は少し曇っていたのが、北の空が晴れ、陽も射しはじめ!


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ここにも雌狼の母さん。

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今年の春に購入したSONYのコンタクトが余りにも頭が良すぎ、
shinkaiは触らせて頂いても、その動きがまるで呑み込めずだったのが、
はぁ、鈍いのと、アナログ人間とで!

が、この聖堂にトライした後、午後に漸く、ああそういう事か、と
ちょっとわかる部分があり、やれやれなのですがぁ、

でも、このドゥオモの細部に挑んだ時は、まだまだで、
触らないで良いフォーカスを触っていたりで! ああ~ン。


見て下さる皆さんは、この青空の色に惑わされるかもですがぁぁ、
物凄く寒く、風も冷たく、指がかじかみ、指無し手袋の先から出る
指の感覚がなくなる程で!!

マッチ売りの少女や、家なき子、フランダースのネロ少年でしたっけ、
その不幸な主人公を思い出すほどで、ははは、と今は笑えますが、

まぁ、お腹がすいている訳じゃないもんね、と我を慰めつつ、きゃはは、
回らない頭で考えつつ何枚か撮り、


即、道の先に見えたカフェに退散。 
またカフェ・ラッテと、クロワッサンを食べ、元気を盛り返し、
道をカンポ広場に戻ります。


この高さにこんな席が設けられており、ああ、パリオの時に良いなぁ!

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ピアッツァ・デル・カンポに出て来て、

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人が少ないのを幸い、広場の傾斜が分かるかな、と。
左上が貝殻型に広がり、右のパラッツォ・プッブリコ・市役所側が低く、

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時の9人政府を象った9の細長い3角形に分けられた広場で、



市役所側の真ん中に、広場全体の水はけ口が。

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パラッツォ・プッブリコの正面と、

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後に下ったフィレンツェの、メディチ家の6つ玉の紋章と、
白黒の紋は、シエナの色。

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この後、カンポ広場の端からの道をずっと辿り、小高い位置にある
サンタ・マリーア・デイ・サルヴィ教会を訪ね、
この教会前からの素晴らしい景色もまたご覧いただきますね。


戻りに、カンポ広場に近いレストランで、早めのお昼を。

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私め一人で、へへ、大きなガラス窓の外を眺め、壁の写真を眺め、
特別な装飾もない店でしたが、でもなかなかセンスが良く、

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この写真、この朝偶然にshinkaiめも撮っていた場所で。

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注文したのは、トスカーナの古くからの家庭料理「リボッリータ」。

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余った野菜と古いパンを一緒に煮込んだもので、寒いしちょうど良い、
と頼んだのでしたが、

パン一切れと玉ねぎの薄切り、チーズと付いて来て、
一見少なめに見えるのもしっかり底が深く、良く煮込まれて味よく、
美味しく戴きましたぁ。

ヴェネトでもアーゾロ辺りで食べた事がありましたが、煮込み不足で、
これほど美味しくはなかったので、やっぱりなぁ、と。

もうたくさん食べられず、グラッパ入りのカフェのみで、
デザートは残念ながら。

リボッリートの美味しい記憶がしっかり残ったので、レシピを探し、
今回の分家、絵ブログに載せました。 
下でリンクしてますので、トライして見て下さいね。


食べている時に見えた、またパラパラの雨が、途中から霙に変わり、
店を出て来ても、温度が低いせいか、そのまま残っており、

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カンポ広場に戻ってくると、また一段と強い雨となり、

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なかにはこの雨の中、彼女をパラッツォ・プッブリコと一緒に写す為、
最初は膝を折る程度だったのに、最後は自分の傘を横に置き、
雨に打たれつつの彼の姿もあり、 ・・愛情とは言え、ご苦労様です! 



シエナのパリオの時、お馬さんたちが発走前の休憩に使う建物内、
その内庭の奥が切符売り場になっているので、そこで雨を避けながら
2日目の見学時間まで待って居るうち、


雨がやみかけ、陽が射して来たのが分かり、いぇ~イ、

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雨でぬれている煉瓦敷の広場が光り、

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窓に反射する光が煉瓦の広場に強い照り返しに!

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小さな水溜りに、建物の壁が。
‥うん、ヴェネツィアには負けるけどね、ははは。

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ほら、光も強く、その幅が広くなっているよ。

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パラッツォ・プッブリコの隙間から射しこむ光。

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空の雲はまだ厚くて、濃いグレイでも、

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広場に射し込む光が繋がって広くなり、

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これで夕方も大丈夫かな、と思い、見学の時間より少し早めに
上の階に他の絵を見に行ったのでしたが、


がぁぁ、戻りのバスに乗り込む前にまたちょっと酷い振りとなり、
それも大きめ、直径5㎜より大きいかもの霙がバラバラと振り、
あっという間に道一面に雪のように白く溜まり、

発車のバスを探し、ぐしゅぐしゃの道を歩き回り、乗り遅れたら!と
大いに焦った最後の一幕が。

でも無事、家に戻ることが出来、やれやれでした。

あれこれ他のご報告もお楽しみにどうぞ!!


*****

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・ アンブロジナーナ絵画館 訪問 ・ ミラノ

12日のミラノ行では、一番の目的だった「ボッシュと他のルネッサンス展」
の後、ドゥオモのテラスに上ったのは先回見て頂きましたが、

その後出かける前に地図を見て知った「アンブロジアーナ絵画館」
訪問をし、建物内の豪華さと共に、その収蔵作品の多さに
頭がいっぱいに! 

1-09013334 - nuovo_GF.jpg


どの様な作品があるのかとざっと見ると、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品
がある、というのが一番のお宝の様で、それだけでOKと思ったのですが、

が、上の写真でお分かりの様に、カラヴァッジョの「籠の果物」も!
という事で、他にも知らずだった作品も数多く、ご覧頂きますね。

shinkaiめは、「アンブロージョ」と読んだ時、未だ知らない、憧れの
アンブロージョ聖堂、ミラノ中心からは離れている、と一瞬混同し、
驚いたのでしたが、

ここには、パラッツォ・アンブロジアーナ・Palazzo Ambrosinana の
建物の中に、図書館、絵画館、そしてアッカデミア、と総合収蔵の、

1618年創設の、いわば総合教育文化会館とでもいう、しかも図書館は
誰でもが入れ、書物が読める公開図書館!
17世紀当時、ヨーロッパで3番目に入る、素晴らしい図書館だったと。


まずはどこにあるか、地図をどうぞ。
ドゥオモ前の広場を西に突っ切り、斜めにカステル・スフォルツェスコ・
スフォルツァ城に行く道を行き、ヴィア・チェザーレ・カントゥ・
Via Cesare Cantùを左折、突き当りに。

2-1-01-11 180438_GF.jpg


簡単でしょ、道を間違える心配もいらずです、はは。
ここはドゥオモと共通チケットで20エウロ、但しドゥオモ上のテラスは別料金、
図書館は無料で、絵画館の案内パンフレットが上の写真でした。


ご覧頂くと左の地図でお分かりの様に、入り口が右下、左折して来た道で、
内部をぐるぐる回り、階段を上り、下り、内庭側に出て、また建物内に入り、
最後は1階の一番奥に当たる、レオナルドの作品がある部屋に至り、
そこから出口になるのですが、

3-Biblioteca-Ambrosiana-ingresso_GF.jpg

地図でお分かりの様に、建物の真後ろが出口で、見える道は角々に
あったものの、迷わぬ様にぐるっと入り口まで外回りで戻り、でしたが、
その時は手に持ったまま、まるで見なかった案内図に、へへ、

隣に教会もあり、しかも古い歴史を持つ教会があり、
後にこの建物、施設を創設したボッローメオ家の、
はい、マッジョーレ湖であれこれご案内のボッローメオ家が購入した、と
いう事で、この敷地内に含まれている事、

他にも教会の地下・クリプタとか、フォロ・ロマーノとか、あるのも知りました!
写真右に写っている像が、このアンブロジナーナ図書館、絵画館を
創設された、フェデリコ・ボッロメーオ・Federico Borromeo枢機卿
(1564-1631)

5-1-FedericoBorromeo.Cardinal_GF.jpg


フェデリコ・ボッローメオ枢機卿は、3歳の時に父親が亡くなり、それ以降、
ミラノでペストが蔓延した時、ご自分の財産を売り、救出を
されたりで「聖人」になられている、従弟のカルロ・ボッロメーオ枢機卿、
1560年生まれ、から様々に精神的ガイドで導かれたのだそうで。

そういう事からも、一般公開の教育、文化施設を、という事だった様。

この一帯はいわばミラノの古い一帯に含まれるのだそうで、写真に見える
部分は改装され新しいのですが、
教会の正面はこの様に!

4-4-esterno_GF.jpg

このすぐ横の出口から出ながら、ぐるっと横を通りながら、まるで見ていない
我ら2人! まったくねぇ、ははは。



という事で、では絵画館内部のご案内に。
例により先に道草で、へへ、済みません、 こちらが正面入り口
左の垂れ幕にカラヴァッジョ、 右にレオナルド。

5-2-150510_01_GF.jpg



入り口を入り、2階にどうぞ、という事で上がった広間の奥に、
カラヴァッジョの「籠の果物」   1594-98 31x47cm 

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かなり驚いたのが、この背景の色で、これは私めの安物スマホの色で、
キンキラ豪華な額を見て下さいね。


で、こちらがサイトで引いた絵。

7-Canestra_di_frutta_(Caravaggio)_GF.jpg


どちらかというと、この黄色でもなく、も少し上の暖かい色が入った感じ。
でも濃い色ではなく。

いつも印刷された、一番最初の写真の色に近い色で見ているので、
あれ?!と、その色の薄さに大いに驚いたのでした。

初めて実物にお目にかかり、しげしげと目を近づけて見ましたが、
極細密、で、超迫力!

背景の明るい黄ベージュの下塗り色は、濃い緑か、チャコール・グレイかが
垣間見え、長年の間に色味がすこし吸われたのかな、とも。


前に立って眺めていると、隣に来たシニョーラが、立ち去る前に私を見て、
ペルフェット!・完璧!と。 シー! と言いつつ、

自分の個展に来て下さった方にお褒めを頂いた時みたいに、はは、
有難うございます!と言う所だったじゃん、と自分で突っ込みを、がはは。



こちらはピントリッキオ。 

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修復されたそうで、明るく美しく、ピントリッキオ好きのshinkai好み。



顔色は実際はもっと白く、両目の間がかなり離れ、そのせいか穏やかな
美しいお顔で!

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ボッティチェッリ。

10-151741_01_GF.jpg



ギルランダイオ。

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「聖家族」がモチーフの絵の中では、いつも父のヨセフが少し憂い顔の
様に見えるのは、窺いすぎ? 
この子は本当の俺の子? とでもいう様に画家が描いたのかなぁ、と
shinkaiは勘ぐったりし・・、へへ。



ラファエッロの「アテネの学堂」の下絵、カルトーネ・Cartoneと呼ばれる
木炭で描かれた下図で、5x7,7mの大画面。 1509-11年作。

12-152659_01_GF.jpg


描かれた形を決める線には、本画用の位置を確かにする為に、タンポンで
印をつける小穴が開いているそうで、というのも、目には見えずで、

木炭での色もかなり全体に薄くなっており、500年を経たのを実感。


何枚もの紙が繋がれ、裏からキャンバス地が張られていたのを剥がし、
新しく一枚の画面にする制作過程のヴィデオもあり、
これらを見れたのも素晴らしかった!

こちらYoutubeで、下図の修復の様子がご覧になれます。
Il cartone della Scuola di Atene di Raffaello | I fori da spolvero


現在ヴァティカン美術館のラファエッロの間にある、こちらが本画。

13-Raffael_058_GF.jpg



なにも疑いを持たず、はは、内庭に向いた回廊に出たのですが、

14-154718_01_GF.jpg

これも今になってパンフレットの地図を見て、回廊に出る前の細い小さな
部屋が並ぶ部分に、「ルクレツィア・ボルジャの金髪」が挟まれたガラス板、
があった様で!

まぁ、shinkaiめはピエトロ・ベンボ展をパドヴァで見た時にお目にかかって
いますので、悔しい!と思わずに済みましたが、ははは。

ピエトロ・ベンボとルネッサンスの創造展 ・ パドヴァ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461921616.html



覗き込む内庭部分。 左の煉瓦壁部がサン・セポルクロ教会の背後。

15-4735_01_GF.jpg



そして改めて入った部屋が、わぁお、この部屋、写真で見たっけ!
「エセードラの部屋」と言い、正面がキラキラの懐古調モザイクで、

16-1-12154941_01_GF.jpg

18-2-Pinacoteca_Ambrosiana_-_Sala_dell'Esedra_GF.jpg

エセードラ・esedraというのは、ローマ期のこうした半円形にかたどり、
柱廊をめぐらし、長椅子を置いた屋外の部屋、だそうで、
これを初めて知ったのが、アクイレイアの遺跡を訪ねた、ン十年前で、
我ながら覚えていたのに驚き! はい、昔はねぇ。


で、こうして柱廊を思いつつ上に上がると、

17-112155027_01_GF.jpg



上の部屋の中からの眺めがこれ!! うわ~お!

18-1-112155931_01_GF.jpg

これを贅沢と言わずして何というか、という感じで、この建物は元は
どなたかのお屋敷だったんだろうか、なんぞと思い、最後のレオナルドの
部屋に居られた方にお聞きし、そうではなかったのを知ったのでした。



この辺りはかなり後の画家たちの部屋となっており、
ティエポロ、小品でしたが、いつも感じる通りの達者な筆さばきと勇壮さで。

19-12160240_01_GF.jpg



こちらはモゼ・ビアンキ。 モンザに行った時に町の教会脇に彼の銅像があり、
モンザ出身と知ったのでしたが、この方も素晴らしく達者な絵でいつも感嘆。

20-12160700_01_GF.jpg

モンザの中心ちょっぴり ・ 聖堂 鉄の王冠 王宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/469194993.html



3階から見下ろす内庭。 上のとは逆の方角から。

21-112160613_01_GF.jpg



最後、矢印に従い、あちこちを上がり下がり、階段を一番下まで。
ここがレオナルド関係の部屋。

23-15_09062757_01_GF.jpg



この作品は何年か前レオナルドの真筆と認められた、と記事になった記憶が
ありますが、ここでは、肖像、または貴婦人像、とあり、レオナルド作とは無し。

24-Ambrogio_de_Predis_-_Ritratto_di_una_dama_GF.jpg


そうですね、以前記事を読んだ時は、そうか、と思っただけでしたが、
先日久し振りにこの絵の写真をここのサイトで見て、ああ、これは違う、と。

というのも、レオナルドの作品は「殆どが斜め横から」ですよね?
真正面、真横から、という様なのはない気がしますし、

顔の描写も、こうはっきりくっきりではなく、余韻を感じさせますものね。
なので、多分腕の良い弟子が描いたのに、ちょっと手を入れたのかも。



「音楽家の肖像」 レオナルド作。 ベスト風上着の色が少し濃く出て。

25-12161325_01_GF.jpg



この写真は、髪の毛の形のかたどりや、ベストの向かって左の肩の
奥への折れ曲がりがはっきり見えるので、ここに。

26--Léonard_de_Vinci_-_Portrait_d'un_musicien_GF.jpg

というのも、shinkai程度の物が見て、あ、あそこ、と気になる部分は、
とっくに大巨匠は気が付いておられる筈で、

多分こちらの作品も顔には手を入れられたのでしょうが、首、
ベストの折れ曲がり、つまり肩の厚さで、手にも訂正の線が見えますし・・、
お弟子の作品に手を入れられたのかも、と。

この絵画館には物凄い数の作品があり、コレクションも多いのですけど、
元々はこの施設に「アッカデミア」と付いている通り、
絵画も教えていたのだそうで、学ぶ為に積極的に模写も、という事で
そういった作品も残されており、

レオナルドの「岩窟の聖母」模写もありましたが、
正直な所、ちょっと、うう~ん、と言いたいような作品もあり、
その辺が気になった事も事実です。

でもこのアッカデミアは、ミラノに、ブレラのアッカデミアが
1776年に開設後に閉鎖されたそうで。

いずれにしても、裕福なご実家ボッローメオ家出身の枢機卿が、
学びたい者たちに大きな門戸を開いた、素晴らしい施設で、
そうそう、図書館には印刷所もあったそうで。



隣の広い部屋の両脇壁いっぱいに本が並び、上写真の手前右端に見える
頑丈そうな木の錠付きの囲いは、レオナルドの「アトランティック手稿」と。

27-1-0112161855_01_GF.jpg


27-2-0112162825_01_GF.jpg



そして下の写真に見えるように、その手稿が何枚か展示されており。

28-112162006_01_GF.jpg

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私めはヴェネツィアのアッカデミア美術館所蔵の手稿を見に行った事があり、
レオナルドのデッサンの、あの細くて繊細な線をまた見れて幸せでした!



この復興された時計は、隣にデッサンを起こしている等のヴィデオもあり、
意味がよく分からず、おられた係りの方に尋ねました。

30-112162246_01_GF.jpg

で、今はもうない教会と鐘楼がこの近くにあり、当時レオナルドがミラノに
来た時はまだあったので、多分時計の仕掛けに興味があったのでしょうね、
見に行き、そのデッサンが残っており、

そこから設計図を起こし、こうして新しく時計を復活出来たのだそう。
そう、レオナルドの考えた図からの復興はあれこれありますものね。



こちらは部屋の隅にあった、木彫の「お祭りの衣装のXX像」と。

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まだ少年期の、細い脚が上着の下から見えているので、上着部だけにし、
色がさめていますが、元はきっと催事用の赤い上着だったのでしょうね。

フランコ・ゼッフィレッリの映画「ロメオとジュリエッタ」の
宴会シーンを懐かしく思い出したのでした。



朝はボッシュ展を見て、ドゥオーモの上にも上がり、そしてこの絵画館で
頭がいっぱいになる程の作品も見て!
2人で、もういいから、カフェに行こうよ!と表通りに出て来て振り返ると、


道の突き当りに大きく、威容を見せるスフォルツェスコ城の塔。

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ミラノの様なモダンな大都会であっても、ドゥオモやこのお城、
そして他の教会も、古いどっしりとした建物類が要所要所を締め、

それが住む人々にも気持ちの余裕を与えているのだろうな、と
思った事でした。


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・ ミラノ の ドゥオモ   写真少な目ですが・・

昨日12日、日帰りでミラノに出かけて来ました。
ジュリアーナと2人で、朝6時半の電車、メストレ乗り換え、
9時半着が20分以上遅れミラノ・チェントラーレ駅着。

ミラノのドゥオーモ広場東南にあるパラッツォ・レアーレで開催中の
「ボッシュと他のルネッサンス」が目的だったのですが、

前々日迄「雨」の予報が一転し、前日から「晴」となり、
一旦は、雨だとドゥオモ上のテラスに行くのは止めね、でも
ドゥオーモは内部をよく見てないから、というジュリアーナの希望で。

ミラノのドゥオーモ、正面をどうぞ。

1-1-DSC00284_01_GF.jpg


地図を見ていて「図書館・絵画館・アッカデミア・アンブロジアーナ・
Biblioteca Pinacoteca Accademia Ambrosiana」が
ドゥオーモ広場から5分の位置にあるのに気が付き、

夕方6時45分発の戻りの電車までの時間がたっぷりで、
おまけにドゥオーモとアンブロジアーナ絵画館がカップルの切符で
安くなるのも知り、チッケット売り場で確かめて行ってもいいね、と。


とまずは10時半予約のボッシュ展に、ちょうどの滑り込みで入り、

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展覧会の様子はまた見て頂くとして、実際に来ていたボッシュの絵は
10枚程かな、で、入場者も多く、絵の描写から皆が傍によって
目を近づけてみたい作品ばかり。

で、なかなか思う様には見れませんでしたが、それでも初めてこれだけの
絵を纏めて見れたので満足! やはり素晴らしかった!!



12時過ぎに出て来て、まず隣の建物にあるドゥオモのチケット売り場に。
アンブロージョ絵画館+ドゥオモ入場+博物館切符=20エウロ
+エレベータでドゥオーモ・テラス、15エウロ を2時に予約し、
歩いて上るのは12エウロだったと。


その時にちょうど光と影の関係が良かったドゥオーモの様子を。

まず今回驚いたのが、ここミラノのドゥオーモも大修復中で、
ほらね、テラスの上も、

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とりわけマドンニーナ像の周囲も、建材に取り囲まれており!



こちらはチケット売り場前の、ドゥオーモの、正面から向かって右翼部。

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壁の様々な像も、それぞれが物語を語るのでしょうが、重厚な良い作品。

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壁から身を乗り出す、雨水吐けの動物たち、ちょっと遠すぎましたけど。

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場所により、既に洗われて石の肌、明るさが戻っている部分もあり。

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まずお昼を食べに行こうよ! 何せ朝5時半に食べたのみで、お腹ぺこぺこ。

ドゥオーモ北横の辺りで簡単に食べよう、と歩いていると客引き女性に
声をかけられ、この上4階にあるレストラン・ピッツェリーアは如何?
じゃぁ、それにしよう、と上に上がると、広く、悪くはなく、ビール小瓶と
どこで食べても美味しいメランザーネ・アッラ・パルミッジャーノを。


先に出て来た突き出しが、これ、ズッキーニに何チーズを混ぜたのと、
パンの焼いたの。 軽いお味で、

9-1-DSC00285_01_GF.jpg



ビールを飲みつつ待ち、ナスのパルミッジャーノのグラタンが来て、
これがですねぇ、普通はナスとモッツァレッラ、トマト・ソース、
パルミッジャーノを交互に重ねた2~3層のオーブン焼きなのが、

これは下の土台がパンで! 味も手抜きも甚だしい作り。

9-2--DSC00286_02_GF.jpg


shinkaiはお腹がすいているので全部綺麗に食べましたが、
ジュリアーナは文句を言いつつ、ははは、半分ほど残し、

後でお皿を引きに来た女性が「気に入った?」と聞くと、
それでも彼女は悪くは言わないのですよね。
私めは全部食べましたけど、勿論美味しいとは思いませんでしたから、
「ノン・タント、いいえ」というと、逆にジュリアーナが驚き!!


大都会ですねぇ! ミラノの一番のチェントロで、高い家賃を払い店を出し、
如何にも美味しい店の様にシェフの大きな写真が壁にかかっていて、
一体いくら払って顔写真を使わすのか、と言いたい程の店でした。

値段は特別な事もありませんでしたが、
次回には、そして皆さんも、急ぐから、簡単に、というのには
大いに気をつけましょうね!!


という所で、ご報告とお知らせなのですが、

実はボッシュ展の最後の部屋で、彼の作品の登場人物、動物を使っての
かなり長いヴィデオがあり、色鮮やかで動きもあり、
これを作った人、大変だったろうなぁ、と思える様々な変化の面白さもあり、
ついついパシャパシャとやったのですけど、

それでお昼ご飯を撮った所で
バッテリー切れとなり、大丈夫、控えの電池がある、と思ったものの、
ああ、家に置いて来たぁ!という例のトンマで!!

近くにカメラ屋はないかと、ガッレリーアを出た所まで行き、市役所前にいた
警察官にも尋ねましたが、この近くにはないなぁ、ひょっとしてドゥオーモ広場の
西端にあった店がどうなったかなぁ、というお返事で探しに行きましたが無し。

もうこれは仕方がない、と思い、でもまぁ、写真が無いよりはマシかも、
と、これ以降は、shinkaiめの安いスマホの、上等でない写真ですが、
どうぞ、ご勘弁くださいませませ!!

修復が済み、洗われ、綺麗な石目が見えたり、明るさを取り戻した所は、
ホントにカメラが無かったのが残念でしたぁ。


ドゥオモの背後に回り、北角にあるエレベータ乗り場から上に上がり、
午後のうららかな空の下の尖塔の先の聖人像たち。

10-IMG20230112140343_01_GF.jpg



天使像が担ぐ台座の上の聖人様。

11-IMG20230112140819_01_GF.jpg



北の空には、新しいビル群が東から西に広がって並んでおり、
これは東端。  西に広がる列も撮ったと思っていたのですがぁ。

12-IMG20230112140842_01_GF.jpg

右手前に見える、屋根の下のタンパン部に浮彫が見えるのは、
一瞬スカラ座かな、と思ったのでしたが違い、位置的にはガッレリーアの
中央の屋根よりももっと東で、ドゥオモに近い位置に。

ご存じの方がおられましたら、お教えください!


以前のご案内を。
ミラノのドゥオーモ ・ Duomo di Milano
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460940205.html

年明け早々の、ミラノの街 散歩
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460939254.html

ミラノ・チェントロ ・ ドゥオモ広場
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460938870.html


エレベーターで北東の端に上がり、屋根の端上部分をず~~っと歩き、
最後に細い階段を上り、テラスの上に出る行程で、


屋根幅の一番端に立ち並ぶ尖塔と像が続き、
左3本は、聖堂左角の位置となり、ここも既に洗われていて美しく。

13-IMG20230112141045_01_GF.jpg



クーポラの上位置に立つマドンニーナ像、ここの石もアイボリー色に
白く美しく、その上に金色燦然と煌めくマドンニーナ像。

14-IMG20230112141214_01_GF.jpg

15-IMG20230112141353_01_GF.jpg

手前に見える円形の飾りなどはまだ黒いままですから、その違いは歴然と
分かりますよね。


これは上で見て頂いた、左角の2本の尖塔と像、空に浮かびます。

16-IMG20230112141255_01_GF.jpg



最後は細い石段を、はぁはぁ、と小さく言いながら登り、遂に上のテラス。
ね、この高さにマドンニーナ像があり、周囲はぐるりと囲まれて。

17-IMG20230112142134_01_GF.jpg


ジュリアーナと2人、テラスの上の一番西端に腰を下ろし、2人で暫く
眺めつつ、綺麗ねぇ、素晴らしいねぇ、これらを造るのに、一体どれ程の
人間が働き、何年位かかったんだろう、なんぞと、
いたってまともな事を感嘆しながら喋りました。

shinkaiが初めてこのテラスに登ったのは確か1985年で、人も少なく、
このテラスの上でカップルがキスをしたら、管理人が来て、
ここは聖なる場所ですよ、と怒られているのを見ましたっけ!

今回は4回目になりますが、初めてのジュリアーナは、上る価値がある、と
あんたに言われてきたけど、来て良かった、と。

はい、まだ行かれた事のない方、是非一度どうぞ!


空を背景のマドンニーナ像。 脇手前の2本の尖塔の色も美しく白く、

19-IMG20230112143441_01_GF.jpg

これはいつか全ての修復が済んだ時に、また来てみたいなぁ、と。


じゃぁ、降りようか、という時に、ジュリアーナがこっち、と出口とあるのを
指し、そのまま降り、あれ、こっちじゃなかったがなぁ、とおもいつつ
屋根勾配の南側端に出て、

あれ、これは歩いて降りる行程だよ、と言ったものの、まぁ、ここまで来たら
もうこのまま降りよう、という事で。


でも、こちら側の聖堂上側の壁部分の修復の済んだ白い壁も見れ、
小路の小父さんたちが働いている姿も見れ、それもまた見所でしたね。

で、そんなに大した階段数でもなく、何せフィレンツェのドゥオモの上に
行くのは凄い階段ですし、鐘楼の上にもね、あちこち上っていますし、
それに比べると、降りるだけなら、大した事なかったなぁ、と。


で、すとんと降りて出た所が、内陣の向かって右端位置。
明るい光が射し込んでいる事もあり、結構明るく見え、

20-IMG20230112144618_01_GF.jpg


ここは右の脇廊から、突き抜けに見えた左の脇廊部。
天井に明るくネットが張られていて、つまり天井部が剝がされ修復中で、
ベンチに座っていると、ドンドン、と上からの音が筒抜けに!

21-IMG20230112144640_01_GF.jpg



正面奥が内陣、後陣ですが、こちらにも工事の足場が見えますねぇ。
開いているのは、オルガンの扉で、左右両方に。

22-IMG20230112144816_01_GF.jpg



これが中央廊で、奥に内陣、後陣ですが、明るくステンドグラスが。
一番奥にステンドグラス、というのは気が付かなかったです、今迄。

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上が丸いドーム型になっている中央のは、香炉と思うのですが。
ご存じの方、これもお教えを!



明るい光の射し込みで、床の大理石模様も一際くっきりと。

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出て来た所で、右がガッレリーアの入り口と、左に広がるドゥオーモ広場。
たくさんの人々が良い光の午後を楽しんでいて、

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この後アンブロージョ絵画館に行き、たくさんの絵画や建物も見てまわり、
内部行程が、誰かのお屋敷の中みたいに曲がって、また曲がり、
階段を上り、降り、一旦中庭を望む回廊に出て、また中に入り、という感じ!

この後ドゥオーモ博物館にも行けるチケットあったものの、
もう頭がいっぱいになったね、止めとこか?
どうせドゥオーモ博物館のような所は、聖人様の遺物とか、祭具よね?
という事になり、
ドゥオーモ広場に戻り、ゆっくりカフェでもして、駅まで戻ろうよ、と。


傾きかけた午後の柔らかい光に照らしだされるミラノの聖堂。

26-IMG20230112164710_01_GF.jpg

ね、やはり素晴らしく美しいですよね?!



カフェには、この位置のモッタ・Mottaのテラス式に囲った席で。

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ジュリアーナは上にチラッと見える生のオレンジジュースで、
私めは手前のココアを。 これがたっぷりと濃厚で、美味しかった!

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真ん中に見えるのは、まるで食前酒かカクテルを頼んだ様な、ははは、
塩味のおつまみ類が来て、ほんとに一杯やりたくなりましたっけ!



という事で、最後、夕暮れ迫る聖堂像を。 

29-IMG20230112172555_01_GF.jpg

こうなると、私めのスマホではマドンニーナ像が何か分からなく写り、
残念。

また来ますよぉ! 3時間ちょっとで来れるのですものね。


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・ ウィスキー 「命の水」、 幸せなお話 

年明け早々「ビールと魔女」 そして「ウィスキー、命の水」と
飲んべえブログの様になっておりますが、いぇいぇ、そうではありませんで、

どちらも読んで見ると、長い人類の歴史にしっかり根着いており、
お互いが愉しみ、寄り添い、助け合っての、ははは、
長い道程を築いて来た事がよく分かり、

これからもよろしく!という事で、今回のウィスキーのお話を。

参考の記事タイトルは上と同じで、
Whisky, "acqua della vita": una storia felice

スコットランドの国民的飲み物は、15世紀の修道院で生まれ、
イギリス人お気に入りのアルコール飲料となりました。

という事で、お気楽に、宜しくお願い致しま~す。

1-istockphoto-187714439-_GF.jpg


英国料理を批判するのは常に当たり前でしたが、
・・いぇ、これはshinkaiが書いたのではなく記事にあり、本当で~~す、
記事の最初に。

が、アルコール飲料に関しては、英国人の味の趣味、良さについては
誰も疑問視しません。 はい、はい。


既に8世紀に、イギリス人の聖ボニファシオは、島の多くの住民が
アルコール飲料に関心を持っている事を非難しており、

2-St_Boniface_-_Baptising-Martyrdom__GF.jpg

はぁ、キリスト教宣教に生涯を費やされ、最後はオランダで殉教され、
ドイツの守護聖人でもある方が、
既に8世紀に、イギリス人は酒に興味を持ちすぎておる、と。

これは快楽にしろ悪癖にしろ、フランク人も、ロンバルド人も、ローマ人も、
ギリシャ人も陥らなかったことなのですと。 ホンマかな?!


ですが、次第にあらゆる緯度のグルメ達が、この英国トレンドの恩恵を
受けるようになり、

というのも、英帝国の仲立ちなしでは、実際にボルドー酒、ポート酒、
マデイラ酒、シェリー酒も今日の様に世界に行き渡らなかっただろうし、

イングリッシュ・ジンと、スコッチ・ウィスキーという2つの国民的飲み物も
世界的な反響を呼ばなかった事でしょう、と。

つまり大英帝国の陽が沈む事はない、と世界中に植民地を持っていた
英国が豪語していた様に、世界中に各国のお酒が行き渡ったと。


年間何億ケースも!!販売されているウィスキーは、
「幸せな物語」だったとお考えかもですが、

この蒸留酒の多様性は、その成功の継続性を保証している如くで、

確かにウィスキーの純粋主義、シングル、モルトご愛飲者が驚く程の
多数のブレンド・ウィスキーもあり、

飲み物としては非常に単純で、少なくとも理論的に飲み物としては悪くなく、

つまりウィスキーとは、発酵させた穀類から蒸留したアルコールを、
木製の樽で熟成させたもので、

単純な言葉でいうと、所謂「ビールの蒸留酒」と!

これには吹き出しましたが、ははは、そう言えばそうですね。

初期の蒸留器

3-1-Alambik1_GF.jpg


なんぞと偉そうな口を叩いておりますが、あれこれ基本的な事を間違えない様、
お酒にはどんな種類がある? もっとお酒を楽しむ為の基礎知識を紹介
というサイトが分かりやすく書いておられるのを大いに参考にしました。

なぜと言うに、いつもは分かっている気でいても、いざ書くとなると、
文章として綴れずのいい加減な知識しかないを実感し、で!


「ウィスキー」という言葉からすぐにスコットランドを連想しますが、
これは「スコットランド人が最初に発明した様に見える」からだけではなく、

単純な蒸留ビールがスコットランドで作られた時、土、水、火、空気 の
全ての要素で強化された飲み物が出来たからで、

複雑さ、卓越性、という点で、最も洗練された複雑さに達する事が出来る、
というスコットランドの土地、ですね。


4-landscape-540115_1920_GF.jpg

この写真素敵でしょう?!

この写真を見つけて、このサイトに行き、
スコッチ・ウィスキーの6つの州・Le 6 regioni del whisky scozzese
 
スコットランドの6州の各ウィスキーの特徴、蒸留所などの説明を読み、
とてもよく納得する説明で、スコットランドへの興味も増したのでした!


ウィスキーの起源については諸説あり、

ビール芸術の真の認識者であったエジプト人に帰する人がいて、
また、ギリシャの蒸留器を挙げる人も。 というのも、

ワインを蒸留して出来るブランデーは既にアリストテレスの時代、
紀元前4世紀には生産されていたのだそうで!


アラブ人から輸入したシチリア人によって完成された蒸留器は、軟膏、
エチルアルコールを含む、甘みと芳香で飲みやすくした水薬のエリキシル剤、
エッセンシャルオイルなどなど、

錬金術師や修道士により何世紀にもわたり使用された器具で、
香水、医薬品、注射水の製造、そして蒸留アルコール飲料製造に。


ヒースの花咲く、スコットランドの野

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ですが、1500年以前の歴史的証拠は殆どなく、さらに原始的なウィスキーが
現在のウィスキーに似ていたとは考えにくいのだそうで、

15世紀になり、ゲール語で「生命の水」を意味する「uisce Beatha」
なる言葉が記録にあるのだそうで。

が、この用語がブランデーを指すのか、一般的なリキュールを指すのか、
が分からず。

現在の我々が知っている「ウィスキー・Whiskey」 についての最初の言及は、
18世紀半ばのアイルランドの雑誌にあるのだそうで、

それまでは、僧侶、店主、そして田舎の人々の飲み物だった、と!


この絵は、19世紀のスコットランド人の生活の一部にウィスキーがあった、を
描いているのだそう。  6人と4匹、いや5匹かも!

3-2-il-whisky-faceva-parte-della-vita-degli-scozzesidel_GF.jpg


とはいえ、ウィスキーなる飲み物が少なくとも1400年頃から
スコットランドの土地で、長い間蒸留されていた事を排除するわけではなく、

ひょっとしてそれが、今の我々の知っているウィスキーの遠い親戚だった、
としても、経済的重要性は常に大きかった、というのも、

1506年に王が、エジンバラの理髪師と外科医のギルドに、その準備の独占を
許可したという事実があるのですね。

「準備の独占」とは、販売までのウィスキー製造、という事だろうと想像し、

エジンバラはスコットランドの首都、では未だ英国と合併していなかった
この時のスコットランド王は?と調べましたら、

はい、この方ジェームス4世 在位1488-1513年

3-3-James_IV_of_Scotland_GF.jpg

イカツイお顔に見えますが、大変有能な統治者で、反乱を鎮圧し、
芸術を奨励、銃器製造や造船業などにとりわけ力を注いだ、との事で、

民の欲する飲み物が儲けを生む、と目を付けたのはさすが、ですね。

イングランドと1502年に平和条約を結び、合併は1707年まで待つ必要が、
ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと1503年に結婚。


とはいえ生産は厳格な管理を受けており、飢饉の時代には、
穀物を食料とせずに蒸留に割り当てるという事実は贅沢な事で、

ウィスキーの生産は貴族の特権、つまり国王が親族に与える扶持、
となったそうで。

ですが、こうしたすべてがスコットランド人の国民的飲み物への愛着を
弱める事は出来ず、ウィスキーに対する最大の関心は税務署員によって示され、


つまり1644年「命の水」ウィスキーの生産と精製が課税対象となり始め、

スコットランドとイングランド間の政治的連合により、飲み物への税金を通じて、
全ての行われた戦争に資金を提供する様になり、

これはウィスキーのみでなく、穀類や蒸留酒も同様に課税対象と!

こういう課税方法だと、俺が飲むのは祖国の為だ!という言い訳が
出そうに思うのは、間違ってます?


そして最後、1781年に個人の蒸留が禁止され、
1816年に是正され課税が停止されても、違法な消費と生産は厳しく罰せられ、
1983年になり、漸くに英国政府当局による蒸留所での生産管理が終了した、

というので、我が国の様子は知りませんが、かなりの締め付けだったのですね。


とはいえ、これらの障害は相反する効果もあり、
スコットランド人は蒸留器と樽の隠し場所を考案する努力を!!

最も鋭敏な国務長官でも、「羊の消毒剤」と表示の樽にウィスキーが
入っているとは考えも出来ずで、ははは。

それに禁止はまた、密輸を増加させるだけだった、とは、
これはもうどの国でも、ね。

農場での蒸留で使った蒸留器

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何世紀にもわたって王室の訪問が無かったスコットランドに、1822年
ジョージ4世・1762-1830 が到着した時、

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この国王は贅沢で、無責任で利己的で、新しい形のレジャー、スタイル、
趣味のパトロンで、魅力と教養から褒めそやされたものの、放蕩な生活、
妃との関係の悪さで王家の名声が落ちた、と日本版ウィキに。

彼が乾杯したウィスキーは、皮肉にも違法品だったそうで! 
わざとやったんだぁ!


スコットランドの蒸留所を背景に。

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ウィスキーの歴史が真に「幸せ」になったのは、この時から、と。

18世紀の英国大衆によるあらゆる混乱と不穏の原因と考えられていた
ジン・ginの悪い評判とは全く異なる考察を獲得し、

というのも、大麦、ライムギ、ジャガイモなどを原料とした蒸留酒のジンは、
価格が安い代わりにアルコール度が高く、酔いが早いため、
労働者や庶民の酒、から健全なものの飲む酒ではない、とされており、

ウィリアム・ホガースの「ジン横丁」。 対しては健康的な「ビール横丁」なんですと。

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一方、ウィスキーはイギリス王室の支持享受、ヴィクトリア女王は
スコットランドで休暇を過ごすファッションを創り出し、
旅行にウィスキーのボトルを忘れる事はなく!

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ロックナガー蒸留所に「王室ご用達」の称号を与える為に、一方では
アルコール依存症を予防する為の「禁酒同盟」を大いに指示したのでした。

はい、分かりますです、ウィスキーの悪い評判が立たない様にですね。


イギリスのヴィクトリア女王と、 従僕ジョン・ブラウンの・・
https://www.italiashiho.site/archives/20201202-1.html


そしてまたその時から、大英帝国は軍艦で、五大大陸にウィスキーを
運ぶようになったのだそうで!


19世紀後半に、フィロキセラ・葡萄根油虫、葡萄の葉や根に瘤を生成し
生育を阻害、やがて枯死に至らせる昆虫で、

品質改良の為移入したアメリカ原産の葡萄樹に付着しており、抵抗力を
持っていないヨーロッパ葡萄に全滅に近い被害を及ぼし、多くの歴史ある
ワイナリーが葡萄畑と共に失われた、という疫病の広がりがあり、

ブランデー市場の崩壊を引き起こし、これはウィスキーの新しい成長に
絶好の機会を提供した、という事も起こったそうで。



20世紀幕開けには、ウィスキーはエレガントな飲みものになり、当時の
広告によると、「頭や肝臓にさえ害を及ばさない」、健康的なもので、



ダンディな国王エドワード7世・1841-1910 ヴィクトリア女王の息、の
ウィスキーに対する情熱は、さらにウィスキーの名声を高め、

10-King-Edward-VII__GF.jpg

国王がそれを水で薄めて飲み始めた時、彼に仕える周囲の多くは
このシックな習慣を模倣したそうで。


よく読むのは、イギリスでは余り飲み物を冷やさないとか、氷を使わないとか。
今もそうなのか疑問ですが、はぁ、水を入れたのですねぇ、国王様が。


常に自らを再発明する能力を備えたウィスキーは、1943年には一滴も
蒸留されませんでしたが、2つの世界大戦を生き延び、

20世紀の70~80年代にかけてのブレンデッド・ウィスキーの優位性に
対抗する目的で、
ウィスキー・クリームやモルト・ウィスキー・大麦の麦芽のみで
造られたウィスキー、の導入のお蔭で少しづつ新しいスペースを獲得。


こちらはスコッチ・ウィスキーの「年代物」でしょうか?

11-1-manifesto-con-una-bottiglia-di-whisky-scozzese_GF.jpg

「スコットランド人を幸せにする」この飲み物は、今日のオークッションで
1本あたり数十万ユーロの値が着く事があるそうで!



ここでスコットランドの6州の地図をどうぞ。

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ハイランド、  

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ローランド、  

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スぺイサイド、 

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アイラ島、またはキャンベルタウンでは、

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より塩気のある、またはよりミネラル感のあるウィスキーで、
金色の色調、またはマホガニーの反射があり、

ウィスキー愛好家は、千ものバージョンの中から、お好みのウィスキーを
選択することが出来ます!と。


が、スコットランドの歴史家デイビッド・ダイチェス・
David Daiches氏が断言する様に、

すべてが、文明への乾杯、文化の継続性への賛辞、そして
自分の感覚を十分に楽しむという、人間の宣言、声明を表する、
という特徴を共有している、と。


上記したサイトの
スコッチ・ウィスキーの6つの州・Le 6 regioni del whisky scozzese

で大いに納得したのは、6つの異なる州に分けられたスコットランドの地域で、
同じ蒸留というルーツを共有しつつ、その地域の気候に大いに依存する
特徴あるウィスキーが出来上がる、という事で、

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記事に挙げられた蒸留所の名、製品名を読みつつ、またウィスキーを
ちょっぴりづつ味わいたい、という気持ちが湧きあがりました。


「ウィスキー・ツァー」なる世界でも唯一のユニークな、モルト・ウィスキーの
ツァーがスぺイサイドで行われているそうで!

ウィスキーの味わいもさることながら、英国で唯一の樽工場である
スペイサイド・クーパレッジ・Speyside Cooperageへの訪問も含まれ、
ここではウィスキー樽を作る古代技術を目の当たりに見ることが出来るそう。

そして女性が経営する唯一のカルドゥ蒸留所・Cardhuも見学可能、という事で、

読みながら好奇心旺盛なshinkaiは、サイト記事を読んで初めて、
という程に旅心を、スコットランドへの風景とウィスキーを産する土地への
大いなる興味を刺激されたのでした!

paisaje-escocia-1024x577_GF.jpg

どうぞ、右クリックして日本語訳でお楽しみくださいね!


ウィスキーは余り嗜まれない方でも、きっと、次回のチャンスには
ちょっと舐めてみようかな、と思われるかも・・!!

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・ 魔女がビールを作っていた時  ビール作りの起源は?

皆さま、  遅ればせながら

新年明けましておめでとうございます!

本年もどうぞよろしくご愛顧のほど、お願い致しま~す!!


年明け早々、PCのインターネット・セキュリティの期限切れ間近。
古い使っていないメール・アドレスの為オンラインで延長できず、
新しく購入したものの、古いアクセスが邪魔で自分で更新できず、
へへ、アナログ人間、例の如くで!

焦って2日月曜朝から開いている店に電話、持ち込み、
でも綺麗に片付けて頂き、15エウロのお安い料金で無事延長OK。

いつもお願いしている店よりも近く、コネリアーノのジュリアーナの家
のすぐそば、次回からここに?と年明け早々心揺れる・・、ははは。

***

で、今年最初の今回は、
タイトル通り 魔女がビールを作っていた時
Quando le streghe facevano la birra

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皆さんもビールお好きでしょう?!
はい、私めも大好きで、とりわけ夏の暑い時の冷えた一杯は
こたえられませんねぇ!

家の近くの大スーパーに行くと、サッポロの500ccかな、があり、
美味しいのですけど、他のビールに比べ、2倍から3倍のお値段!

で、この頃は少し飲み量が減っており、あれこれ品定めをしていて、
北から来ているヴァイキング・ビールなんぞは13度以上の物もあり!
・・なんぞと遊んでおりますが、

今日の内容は、

かってのイギリスでビール作りをしていた女性達は、
現在我々が「魔女」と聞いてイメージする、猫、箒、先の尖った帽子、
は、ビール作りの世界に起源をもっている可能性があるのですよ、
というお話です。 


魔女=猫、箒、尖がり帽子、暗い色の服、水薬用の大鍋。

で、集合的想像力の一部であるこれらの要素は、こうではなく、

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こうであった可能性も強いですよね?

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つまり実際には、ビールの製造と販売に専念する女性の姿の特徴、
つまりイギリスのエール・ワイフ・alewifes」であった、と。


そして「魔女狩り」は通常、中世に関連つけられていますが、
実際はより多くの魔女裁判が行われたのは近代であり、

主にプロテスタント・カトリックに対しての新教信仰諸国だった、
というのですね。

北ヨーロッパとアメリカの植民地の幾つかのコミュニティでは、
女性の醸造者が醸造物に「水薬」を混ぜていると非難され始め、

おそらくその様な告発の原因は、実際に魔女であるかどうかよりも、
個人的な競争相手を排除する為の簡単な方法だった可能性があり、

告発された人が常に有罪判決を受けるとは限らなくとも、
その瞬間から疑いの目で見られ、コミュニティから疎外され、
どんどん状況が厳しくなっていったのであろうと。


ここでビール醸造の歴史についてちょっと触れますと、

歴史的に、醸造は家庭領域に属し、女性の仕事と見做されており、
中世の間、居酒屋や宿屋は女性の存在が最も大きな活動の場であり、
飲み物の製造も、非常に頻繁にその建物、場所の管理も含め、
全ての世話をしていたのですね。

その幾つかはとりわけ有能で、高品質のビールを生産し、
市場でも販売しました。

こうして幾らかの余分なお金を稼ぐことが出来、未亡人の場合は
家族の幸福をあがなう事も出来ました。


というこの辺りの説明で、実際に醸造者としての女性、魔女に関係する
全ての特徴が一致し、

つまり暗い色の服は、緊縮が説教されたプロテスタントのコミュニティで
一般的な女性の衣服で、

こちらはアーミッシュの女性

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肖像画に残る、高貴な方も含まれるフランドル地方の女性達

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で、先の尖った帽子はもっと実際的な理由で、つまり市場の喧騒の中で、
潜在的顧客によって簡単に識別できるわけで、

大鍋、はビール瓶の無い時代の容器ですし、


箒は、家の前の穴から箒を突き出し、または箒を家の前に吊るし、
ビールが出来た事を示す方法だったと。 1300年頃。

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こうしてビール醸造は、近世に至るまで主として主に女性の活動で
あり続けたのですが、


16世紀初め、プロテスタントによる宗教改革が行われ、
「まともな、正しい」女性にふさわしい活動について、伝統的なカトリック、
キリスト教よりもはるかに厳しい考えが広まり、

とりわけ、改革によると、女性の大部分はアルコールから離れなければ
ならなかったのですね。

こうしてビール生産をする女性は、何よりも疑いの目で見られ、
というのも、この活動に伴う経済的自立の為、彼女たちの多くは
未婚、または未亡人であり、

つまり男性の支配から解放されていた、からなのですね。


当時醸造業界は活況を呈しており、競争は厳しく、
一部の生産者は、女性生産者が魔法を実践し、水薬を準備、
男性の生産者に頼る顧客を失うようにした、と非難し、

女性生産者の周囲で発生した噂は、非常に迷信的なコミュニティで
山火事の様に広まり、

こうして我々が今日持っている魔女のイメージは、プロテスタントの
世界で形になり始め、

当時の印刷物の上で、魔女を主人公とする物語が即人気を博し、
暗い色の服を着て尖がり帽子、猫、箒を持った女性の肖像が描かれ、
つまり、かっての女性醸造業者の古典的な姿が、魔女の特徴と
なったのでした。


ではなぜ猫が? ビールや魔術とどのような関係が? とお尋ねに?
これのお答えには何世紀も遡りますが、

ビールは何千年もの間、人気のある飲み物で!
メソポタミアの最初の都市文明で、既に工場規模で生産されており、

シュメール人にはビールの女神ニンカシ・Ninkasiがおり、
「口を満たし、心を潤す彼女」と。

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古代エジプトでもビールの女神テネネット・Tennetがおり、
不可欠な飲み物であり、宗教的価値も持っていたと。

こちらは女神テネネットの管理の元、働く女性醸造業者。
当時パンとビールを準備するのは、女性の自家醸造者の責任だったと。

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人口の殆どが食べて生き残るのに苦労していた歴史的時代に、
ビールは重要なカロリー源であり、しばしばハーブと混ぜ、薬として使用も。

そうそう、当時はまだビールにホップは使われておらず、ハーブの様々を
利用していたのだそうで。

そして中世の修道院でも作られたビールの、ハーブ・ミックスの
レシピは厳重に秘匿されていたそうで!

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が、ビール製造に携わる人々の宿敵は、ネズミとげっ歯類!
貯蔵された穀物を食べるだけでなく、病気の媒介者でもあり、

このために通常、各醸造所には一匹以上の猫がおり、鼠たちを
遠ざけていたのですね。

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確かにビールの生産と普及に最も貢献した古代エジプトでは、
これらの猫は神聖な動物とされていたのは、皆さんも良くご存じと。

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そして何世紀も経た中世の醸造所でも鼠との長く厳しい戦いを続け、
穀物の安全の為にやはり猫の援けを求めていて、

その為に「猫」は、醸造所の主人と同じ汚名を着せられ、
実際に猫たちは悪霊、または変身した魔女であると信じられており、

黒い毛の猫が通常、魔女に関連する猫であると考えられるのは、
多分この毛色が飼い猫の中で最も一般的であったという事実に由来
していたのだろうと。


という様な事で、魔女伝説と、中世の女性醸造業者との繋がり、の
由来がお分かりいただけたかと。


私めも最初、かっての女性醸造業者の存在を考えた事もなく、
知らずで、それと魔女伝説がまるで繋がらなかったのですが、
読んで見ると、成程という感じで、

つまりは、男性側の本気の醸造業界から、家内工業的発生の
女性醸造業者の締め出しが、魔女狩りに結び付いたのですね。


読みながら、また情報集め、サイト記事集めであれこれ読んだ中で
興味深かったのは、こちら、

エール・ワイフ、魔女、それとも醸造家?
Le Alewife, streghe o birraie?

魔女とビール:歴史が伝説を超える時
Streghe e birra: quando la storia supera la leggenda

どちらも記事上で右クリックし、日本語訳でお読み頂けます。

こうして読んでいると、やはり引っ掛かりが出てくる「魔女裁判」ですが、
今回は敢えて単純に述べるだけにしました、ご了承を。 


そしてなんとなしにビールに欠かせないとよく聞く「ホップ」を
思いつつあれこれ見ていて引っかかったのが、

ロンバルディーア州の北のヴァルテッリーナ・Valtellinaで自家製ビール
製造を夢み、ホップの製造から始め、何年もかけて遂に醸造所に頼み
自家製ビールを作った、という記事を見つけました。

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スティリア ー 現代の”魔女”のお話
Strìa – La storia di una “strega” moderna

魔女ならぬ男性、パオロ氏の何年もかけた情熱物語で、
ホップも1年毎に徐々に栽培を増やし、やはり土地で栽培された
古代のライ麦と大麦、というオーガニック・ビールの生産で、

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小規模の醸造所なので、過剰生産無し、レシピも共同研究し、
この記事では、テスト試飲会も済ませ、翌年2015年10月に
生産され、メンバーから好評を受けたというビール。

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きっとこの後、毎年自家栽培ビールが生産されている事でしょうが、


最後に、
イタリアの法律では、1996 年以降、製造されたビールが販売されず、
家庭内で個人消費や来客用にのみ使用される場合に限り、
消費税を支払うことなく自家製ビールの製造が許可されています。

とあり、ははは、と愉快になったのでした。


今年が良い年になります様に、カンパ~イ!!

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