・ リッポ・メンミ、 メンモ・フィリップッチョ、そして シモーネ・マルティーニ

今回はタイトルが殆んどカタカナで、読みにくかったですか?!

はい、でも文中では多分大丈夫です、というのも、
shinkaiが先にこんがらかったので、ははは、分かりやすく書く様
気をつけますので。

暫く前にご案内の、シエナのサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂の
記事の中でご案内した、この聖母子の絵・リッポ・メンモ画を

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おおトチリで、へへ、彼はシモーネ・マルティーニのお舅、と書き、
即訂正に行ったのでしたが、

シエナ  サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話
https://www.italiashiho.site/article/497600507.html


その後あれこれ読む内に、上に並べた3名の関係を知り、
つまり、リッポ・メンミ・Lippo Memmi(1290年代-1344)は、

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メンモ・ディ・フィリップッチョ・Memmo di Filippuccio
(1250頃-1325頃)の息子。

彼の顔、が見つからずで、1305~10頃作とされる、
サン・ジミニャーノに残る「聖母子像」を。

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今回は、中世の塔の町・サン・ジミニャーノに残る、彼の作品に
焦点を当ててのご紹介で、はい、何が出ますか、お楽しみに!



一方、シモーネ・マルティーニ・Simone Martini(1284-1344)は、

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メンモ・フィリップッチョから1324年1月~2月に20フローリンで家を買い、
同時に彼の娘のジョヴァンナと結婚した、という記録があり、
年齢から考え、多分リッポの妹と。

で計算すると、シモーネは40歳前後となり、それ以前は?と
勘ぐりたくなるのですけど、へへ、どこにも出ませんで。


と、メンモ家の、親子の姓が一致しないのに最初戸惑ったのですが、
そうか、まだ親の姓を継ぐという時代、家柄、身分ではなく、

息子の名 + 父親の名 という様に名乗り、それで世間が了承、
という事だったのだと納得を。


メンモ・ディ・フィリップッチョはシエナの生まれ、
ドゥッチョ・ボニンセーニャ・Duccio di Boninsegna(1255頃-1318,19)
シエナ派最初の巨匠、に教えを受けた様子。

その後アッシジ聖堂下院の絵の建設現場で働き、ジョットの仕事振りに
大きな影響を受け、そうした話がトスカーナ一帯の画家に伝わったと。

この逸話は、ジョットの凄さに驚いた画家たちが語り伝え、という様子が
目に見える様で、読む方もワクワクと。

ただこれはサン・フランチェスコ聖堂下院のフレスコ画製作現場の話で、
上院のフレスコ画ではありませんで。

確かにあの下院に残るフレスコ画は、当時の有名画家たちが集められ、
その画家達の集中した密度が、今も残る素晴らしい空間で。

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聖堂上院の壁画について n.2 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465045439.html


その後トスカーナに戻り、サン・ジミニャーノで工房を持ち盛んに
活動を始め、最初に記録に残るのは、1305年のコレッジャータ
(サン・ジミニャーノのドゥオーモとも)の正面壁内側のフレスコ画。

写真は聖堂内の様子。

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この仕事ではまだ未成年のリッポ・メンミも一緒に働いていたのが、
きちんと支払いを受けている、という記録が残っており、
既に一人前の素晴らしい腕を持っていた、という事も分かります。

シモーネ・マルティーニとの繋がりは、彼がサン・ジミニャーノで
1310年頃にサン・ロレンツォ・アル・ポンテ教会で、
現在は頭のみが残るマドンナを描いた時に出会ったのであろうと。

そして1312年から15年にシエナのプッブリコ宮でのシモーネの
「マエスタ」の制作で、リッポの助手としての協力に繋がります。


シモーネ・マルティーニのシエナのプッブリコ宮の「マエスタ・Maestà」
については、次回に新しい発見についても、と思っておりますので、
今日は写真整理が間に合わず! 宜しくお願い致しま~~す。



で、3人についてあれこれ資料を集めていた時、サイトでの新しい出会い、
というか再会した懐かしい絵が、なんと、

父親のメンモ・ディ・フィリップッチョのフレスコ画だった、という事を知り、
そうなんです、1989年の夏でしたから、ははは、xxxiii年前の事!!

今回はその再会した絵についてのお話を。


フィレンツェから南西に60km程に位置する、中世そのままに残る
サン・ジミニャーノ・San Gimignanoは訪問された方も多いと思いますが、

右に見えるのが、上に出たコレッジャータ教会で、左に続く太い大きな塔、
そしてその左がコムーネ宮で、この上階の市博物館に続き絵画館もあり、

7-sangimignano-piazza-duomo-_GF.jpg



塔の下に見えるくぐり穴を抜けると中庭があり、

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階段を上ると、ぐるっと回って塔に上がれ、素晴らしい眺望が!


shinkaiは1989年に訪問の後、2014年秋口にもゆっくりめの日程で
出かけたものの、風景狙いで塔には上ったものの他の見学はしておらず・・。

で2014年の写真はしっかり残っているのですが、それ以前の1989年の
写真は日本から来てのフィルム写真はそのままになっており、怠慢!の罪で、
その後どこに仕舞ったか・・、


が、あの懐かしいフレスコ画は、しっかり記憶に残っていて、という訳ですが、
こちら、shinkaiが見た時は、この様にかなり擦れて、という様子でしたが、

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今回見つけたサイト記事で、修復になります、とあり、いつの記事かの
掲載がなく探し回るうちに新しい写真もあれこれ見つかり、

これはしっかり修復が済み、現在はこうなっているんだと嬉しい納得を!

10-Camera-del-Podesta-San-Gimignano-1_GF.jpg


この壁画は、上の写真左側のコムーネ宮から続くトッレ・グロッサ・太い塔内に
あるカメラ・デル・ポデスタ・Camera del Podestàで、

つまり当時のサン・ジミニャーノの司法、執政長官の部屋にある壁画で、
1305年から1311年にメンモ・フィリップッチョが描いた、

結婚についての愛をテーマに、世俗的で道徳的な一連の画面なのですね。

物語には2つの流れがあり、1つは不幸な結末を伴う恋愛エピソードがあり、
狂ったように恋をしている人物が見られ、


この画面右側に見える3人は、左の人物が迎えに来て、彼のバッグを持ち、
衣服を掴み、早く行こう!と誘うのを、
右の母親が息子を心配し、手を引き腰を抑え、出かけぬ様止める場面。

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14世紀も今もまるで変わらぬ、恋愛心情と親の気持ち! ははは。

実は服装から「娘」と思ったshinkaiでしたが、ではなく、「息子」。

これが分かったのは、元がフランス語のサイトで、勿論翻訳ソフトのお蔭!
はぁ、アルプスを越え、美しいオルチャの谷観光にどうぞ、なのでしたぁ。


左は、ああ、やっと来たわね、と娼家の女達が引き込み、



次の場面は、左の天幕の中では、やって来た息子の服装は赤とピンクなので
ベッドの右側に座り、左はテントの外で待っていた中央の緑の娼婦で、
名もフィリデ、とあり、彼のバッグ、財布を奪い、

12-Memmo_di_Filippuccio 2_GF.jpg



そして、上の全体が写っている壁画を参照し、その左に続く場面はこちら。

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左に見えるピンクと赤の息子が攻撃を受け追い払われており、
右には緑のフィリデが息子のバッグを掴んでおり。

つまり甘い言葉に釣られてその気になったものの、遊ばれ、
お金を盗まれ、放り出された姿、でしょうか。

これはアリストテレスのお話にあるのだそうで、shinkaiは例により
知らずで、読んだままに記しています。


もう一度、上の全体写真を見ると、 右にあるのはこの場面で、

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顔が見えないのが残念ですが、これはダンテの「神曲」にも詠われた、
かの「パオロとフランチェスカ」の有名な場面で、

義理の弟パオロと恋仲に陥ったフランチェスカが、本を読んでいる場面と。
つまり誘惑。


n.2 グラダーラ  城 と パオロとフランチェスカ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/470815220.html



で、窓を挟んで左の場面はこちら。 修復前はなんだろ、これ?でしたが、
修復が済んだのを見るとしっかりよく分かり、笑いました。

お馬さん、走れ~、ははは。 これも髭の顔からアリストテレスの逸話と。

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後ろの窓から見る2人もあきれ顔で!
これは「アレクサンダー大王とロクサーヌ」という説明もあり、
ご存じの方お教え下さ~い!


この一連は、いわゆる「放蕩息子」の昔からのお話を描いている様で、
こうならない様に、という戒めですね。


もう一度全体写真、右の画面が良く見えるのをどうぞ。

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物語のもう一つの流れの場面は、上とは対照的に結婚の愛を語り、
精神的な真実を目指した愛が、肯定的な結果と平和な生活に繋がると。


結婚式が行われた後、白い衣装の花嫁が花婿の家に案内され、

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新居に着き、ゆっくりとお風呂を一緒に。 

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そして、お床入りね。

19-Memmo_di_Filippuccio__GF.jpg

落ち着いた花嫁で、これからの長い結婚生活も幸せに、という教えですね。



絵が残っている壁は北側、悪い恋愛、と、東の壁の良い結婚、で、
後は下の面に代々のポデスタを務めた方の家紋が。

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そうそう、読んで知ったのは、ポデスタには「外国人」が、
つまり土地のサン・ジミニャーノの人間は人情、損得の問題が絡むとし、
選ばれなかった様子。


と、「ポデスタの部屋」は、カメラ・ディ・ポデスタ、となっているので、
イタリア語ではカメラは寝室の意味を含み、こういうフレスコ画があるのが
少々不思議だったのですが、

お風呂や寝室場面の背後に見える縞の布、柄が「黄色と赤」ですね。
これはサン・ジミニャーノの自治体のシンボル色だったので、

寝室ではなく、評議会などに使っていた部屋、という認識があるそうです。

で、この一連のフレスコ画は、1921年に何層にも上から白く
塗りこめられた下に発見されたそうで。


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昔見た時は何も知らず、わぁお、何世紀も昔の壁画にこんなモチーフが。
さすがぁ、イタリアだぁ! と単純に喜んだものでしたが、ははは、


長い年月の後こうして再会し、どんな画家だったか、何の為のモチーフか、
等なども分かり、
他に残した作品、彼の息子の作品、そして婿となった画家が
残した作品などを知り、驚きつつ、意義深く感じたのを否めません。

修復もしっかり済んだのを知り、改めてじっくり会いに行きたく思った事でした。


美しき塔の町 サン・ジミニャーノ ・ 塔の上から、そして
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467078009.html

サン・ジミニャーノの朝 ・ 雲海の朝焼け
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466797663.html

サン・ジミニャーノ ・ San Gimignano
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462677013.html

最後のリンク記事は、ブログを始めてじきの時で、買って戻った絵葉書の
裏の説明のまま、間違いの多い事を書いていますが、
今は昔の物がたり! ちゃんちゃん。


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・ ピッコローミニ図書館  シエナのドゥオーモ

今日のご案内は、シエナのドゥオーモの内部奥の左側にある、
ピッコローミニ図書館・Libreria Piccolomini を。

シエナのドゥオーモに行かれた方はきっと中に入られご覧になったと
思われる、素晴らしく絢爛豪華な図書館。

聖堂内の入り口部分はこんな様子で

1-Portale_della_libreria_piccolomini_GF.jpg



上部にチラッと見える壁画と上部真ん中上には、ピウス2世の
戴冠式の浮彫があり、画家はピントゥリッキオ・Pinricchioと他。

2-Pinturicchio,_incoronazione_di_Pio_III,_1503-1508_GF.jpg


ピッコローミニ・Piccolominiという姓は、シエナから南東に約50km
に位置するオルチャの谷のピエンツァ・Pienza、

現在世界遺産に指定されている、自分の生まれた村をルネッサンス風の
理想の町にしようと奮闘した教皇ピウス2世(1405-1464)
の姓がピッコローミニ。


壁画の中にも現れるこのピウス2世の頭上にあるのが教皇冠。

7-Pintoricchio_012_GF.jpg



で、この図書館は、彼の甥で後の教皇ピウス3世(1439-1503)が
シエナの大司教時代に、

叔父ピウス2世が収集した大変貴重な書物収集の遺産を収容する為に
1492年から造られたものなのですね。

教皇ピウス2世は、若い頃は詩人でもあり、人道主義、学者としても
名高い方で、その後に遅く宗教界に入った方で、大司教となって後
3年で教皇選出という、何とも稀な人生を歩まれた方でした。

花のピエンツァ点描 ・ 再訪できた喜び!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461453714.html

ロマネスクの古寺ふたつ ・ ピエンツァ周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461832854.html


そしていわゆるネポティズムと呼ばれる縁故取り立てにより、司教、
大司教、枢機卿となった甥フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキ、
は大変優秀な方で、叔父の引き立てで宗教界に入ったものの、
周囲からの引き立てで教皇ピオ3世に。 

赤い衣は枢機卿位で、余りにも短い教皇で、教皇冠の肖像はなし。

6-PiusIII.jpg



最初の写真の、聖堂内の図書館入り口から入ると、内部はこんな様子で、

3-la-biblioteca-di-piccolomini-_GF.jpg



大変天井の高い煌びやかな細長い広間で、全部で10面のフレスコ画で、
正面には2つの高い窓が。

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フレスコ画製作は、ウンブリア出身画家ピントゥリッキオ(1454-1513)
に依頼され、

当時の彼はローマでのあれこれの制作、システィーナ礼拝堂のぺルジーノの
フレスコ画助手、教皇アレッサンドロの依頼による「ボルジャの間」
等などで成功の大人気画家でしたが、

1502年6月29日の契約書があり、ルネッサンス期に大規模な一連の
絵の契約は珍しいケースだったそうで、

10場面の主題は、ピウス2世の生涯の逸話。

1503年までに最初の準備段階が済み、壁に壁龕と建築用格子が設置。

そして同年9月22日、注文主はピウス3世として教皇に選出されたのが、
なんと26日後の10月18日に亡くなり、工事が中断、という事に。

この早すぎる逝去についてはちょっときな臭い話がありますが、またに。


とはいえ、ピントゥリッキオはシエナに残り、他の仕事をしていたそうで、
ピウス2世の壁画の話が再開されたのは、1505年頃。

で1507年、シエナに留まりつつ、ウンブリアからの他の依頼を
受け入れ始めたので、この仕事は完了したものとみられますが、
支払いは更に数年間続いたそうで。



部屋の中、上部の壁画の下には、手稿細密画の入った本が並んでおり、
これはどうやら楽譜の様ですねぇ。

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とにもかくにも、注文を受けたピントゥリッキオの美しい絵と、その手伝いの
若きラファエッロが大変素晴らしい仕事振りなのが一目で分かる、
豪華絢爛の部屋の一連のフレスコ画の様子をどうぞ!!


まず第1の場面、という事で良いのかと思いますが、若き日の逸話2面。

10-DSC00490_01_GF.jpg


左の画面、中央下の白馬に乗っているのがエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ・
Enea Silvio がピウス2世の本名で、若干26世!
バーゼルの公会議に出かける所。

右の画面は、スコットランド宮廷大使の彼で、君主が左に視線を向けた
先の赤い服を着ているのがエネア・シルヴィオ。



shinkaiめは、左の背景の上空が嵐の描写に興味を持ち写しており、

11-DSC00503_01_GF.jpg


エルバ島とコルシカ島の間で、彼らの船を襲った嵐が、南に方向転換した事、
右から(黄色い)虹がかかるのは、ポルトヴェーネレとジェノヴァ間の
無事着陸と穏やかな帰還を現しているのだそうで。



ですがぁ、サイトで見つけたこの白馬の上の貴公子! いくら26歳とはいえ、

12-concilio-basilea_GF.jpg

注文主の叔父上とはいえ、なんか、凄いヨイショ、ではないですかぁ、ははは。


でも布の表現が、素晴らしく的確で、そのくせ、そう手間がかかっていないなぁ、
で、まぁ、フレスコ画ですので、下描き・下塗りが濡れている間の
仕事で、モタモタしてはおれませんけんね。

で、一旦乾いてからの上からの手入れも、ピントゥリッキオはしたそうで。
この場合は、テンペラで、ですね。



こちらは左に切れているのが上述の、スコットランド宮廷大使の、
君主の覚えめでたい彼の場面で、

13-1-DSC00492_01_GF.jpg


真ん中は、エネア・シルヴィオが皇帝フリードリッヒ3世により、
詩人としての戴冠を受けた、という場面。

13-2--Pinturicchio,_libreria_piccolomini,_GF.jpg



同じ画面の右端前の若者2人。 これも取り分けこちらを向いている方が
ラフェエッロの雰囲気ですよね?

13-3-Pintoricchio_017_01_GF.jpg



この2面は、入り口を入っての上の壁で、前に白いニッキがある中の像は、
楽園追放のアダムとエヴァで、

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左側は、シエナ司教のエネア・シルヴィオが、アラゴン(ポルトガル)
のエレオノーラ王女を、神聖ローマ皇帝フィリードリッヒ3世に紹介の場面。

15-federico_eleonora_GF.jpg


つまり司教は結婚交渉を担当し、1452年2月24日にシエナに2人が到着、
という事だった様で。

でも初対面で肩に手を置いたり、握手したり・・、そこまでするかなぁ?!

後ろで空を見上げている若者など、ぺルジーノかラファエッロか、と思う程。
まさにこの仕事では若きラファエッロがかなりをこなした様子で、
本当に、あちこちに彼の筆使いを感じたのでしたぁ。



こうして見て行くと、背景に風景が入るか、建物があっても、窓を通したり、
脇から遠い風景が見え、大変爽やかな空気を感じさせる工夫がある様で。

これは上の、許婚者2人の背景で、奥に見えるのはお話に添い、
シエナの風景、と言われると、ああ、白黒横縞の鐘楼があるなぁ、と。

左に見える門はポルタ・カモッリア・Camolliaとあり、現在の姿とは違いますが、
シエナ駅前から坂道を上がった辺りかと。

16-DSC00499_01_GF.jpg



こちらはスコットランド宮廷大使の場面背景で、豪華な宮廷内装飾と、
ずっと奥に広がっていく水辺と、遠い丘、山。

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詩人の戴冠式の場面背景。 空飛ぶ大きな、鳥!!

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左画面から、1458年9月3日遂に教皇に選出され、
遂にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの当時の教皇位に。

19-DSC00485_01_GF.jpg

白い司教冠がたくさん見えますが、


場面右手前に2人、どういった人物か、衣服から判断しにくい男性がおり、

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この2人の衣服の光と影の描き方がテンペラ画で使う明暗法なのに
目が留まったshinkaiで、
同時代の他の画家のフレスコ画ではどう描いていたんだろ、と
自分の今後の宿題に。



これと同様に、右端の画面、シエナのサンタ・カテリーナを列聖、では、


左端手前の若者2人、これはもう、如何にもラファエッロの筆で、

おまけにこの2人の上着の開きから見えるシャツのお腹辺り、ね、
まさに影色の描き方が玉虫色のね。

21-Pinturicchio,_libreria_piccolomini,_GF.jpg

自分の撮ったのがブレており、焦って探し回ったのでしたぁ、ははは。


真ん中場面は、1453年のマントヴァの公会議を描いており、ここで
ピウス2世の念願であった、対オスマントルコ戦が議論されたのだそうで。

背景の風景はこちらで、マントヴァの宮殿前のミンチョ河の湖というより、
ガルダ湖のイメージですねぇ、はは。

22-DSC00501_01_GF.jpg

でもね、こういうサラサラっとした木が描けたらねぇ、と憧れてるのですぅ。



この3画面は上と半分ダブっていますが、ピウス2世の最後が右側にあり、
1464年十字軍開始の為、自身が出航の港アンコーナ迄出かけ待つ姿。

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アンコーナの港に集結する船団が背景に見えますが、マントヴァ公会議で
約束されていた船40隻どころか、たったの2隻のみ!

6月にローマを出発、夏の暑い時期、熱狂的に焦りつつ、2か月間
まだかまだかと待ち続け、憤慨した教皇はペストに感染。

8月12日にヴェネツィアから12隻の船団が遂に到着したものの、
教皇は2日後14日に死亡、58歳でした。



最初の3,4枚目の部屋の中に見える「3美神」の像ですが、
サイトから拝借。 

ギリシャのヘレニズム期の彫刻デッサンを基に、ローマ期に彫られた、
ローマのお屋敷のコレクションだったそう。

25-tre_grazie_piccolomini,_III_secolo_da_un_orig._ellenistico_02_GF.jpg



あちこち欠けているのが残念でしたが、部分はとても美しく。

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最初は、ピウス2世の貴重な本のコレクションをここに、と始まった
図書館建設でしたが、遂に本は届かないままになったそうで。


床も中心部は、菱形に、ピッコローミニ家の三日月が入った陶板で、

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こちらは床の端っこ部分と、それに続く2枚は、四角の模様入りが、
上を歩くために模様が擦れてしまったようで。

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奥の2双の窓の内側にも、ピッコローミニ家の三ケ月模様があり、

29-DSC00502_01_GF.jpg


こちらは壁画の合間に描かれた騙し絵的な、
ピッコローミニ家の紋章に、教皇冠が入ったもの。

30-DSC00497_01_GF.jpg



シエナの聖堂内部の、白と濃い緑の縞模様、太く束ねた円柱で
支えられる高い天井、と言ったゴシック様式の雰囲気に続き、

ここに入ると如何にもルネッサンスの香り、柔らかで優美な洗練された美、
それもお金に糸目をつけずに、という豪華さが加わり、

聖堂内の、まさに別世界、の感あるピッコローミニ図書館なのでした。


シエナに行かれる方は、是非少しお時間を取って、
ここの見学もゆっくりとどうぞ!!


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・ アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ公妃が、フィレンツェに残したもの

フィレンツェに行かれた方も、未だの方も、フィレンツェの街が、
イタリアが世界に誇る、世界で唯一のルネッサンスの街であり、

一度訪問したくらいでは到底見切れない、鑑賞出来ない程の
芸術品、それも第一級の芸術品に溢れている事はご存じで、
お認めになられる事と思います。

で、今回タイトルの「アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ・
Anna Maria Luisa de'Medici」(1667-1743)という名前と、

1-Anna_Maria_Luisa_de'_Medici_(1667-1743)_GF.jpg


現在のフィレンツェの街が結びついている事はご存じでしょうか?

多分殆どの方がご存じないだろうと思いますが、
この2月18日は、彼女が亡くなって280年目の命日にあたり、

些かなりと感謝の気持ちを捧げるべく、と
今回はメディチ家最後の公妃であった、彼女についてのお話を。


長兄のフェルディナンド・Ferdinandoと、彼女。 家庭教師と共に。

2-1-Justus_Sustermans_008_GF.jpg

昔は、男の子も幼児の時は、女の子の服を着せられていた様で、
きっと、元気で生き延びる様に、とのおまじないだったろうと。


今回参考にした記事は

アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ、フィレンツェの最後の偉大な後援者
Anna Maria Luisa de' Medici, l'ultima grande mecenate di Firenze

「美しき」フィレンツェは、最後のメディチに永遠の感謝を
Firenze "la bella" ringrazia per sempre l'ultima dei Medici

そしてウィキペディアの、Anna Maria Luisa de' Medici 
他に、あれこれ。

最後は、2月18日はアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの記念日
https://www.firenzeplus.com/anna-maria-luisa/ の写真を拝借です。



まずはメディチ家王朝、最後の後継者達の様子ですが、
父親はトスカーナ大公コジモ3世デ・メディチ(1642-1723)、

3-Giusto_Sustermans,_Cosimo_III_(1660,_palatine_gallery)_GF.jpg

この肖像は1660年のもので、



翌1661年、フランスのルイ14世国王の従妹マルゲリータ・ルイーザ・
ドルレアン(1645-1721)と結婚を。

4-Marguerite_Louise_d'Orléans_as_Grand_Duchess_of_Tuscany__GF.jpg


彼女は従弟のロレーヌ公シャルル5世との結婚を望んでいたものの、
トスカーナ大公の相続人であるコジモ3世と、意に反した結婚をし、

夫を人前でも軽蔑、見下げる、という女性であり、酷い結婚生活に。


1663年に長男のフェルディナンドが生まれたものの、両親の関係は
悪化する一方で、

次の妊娠に気づいた彼女は、馬に乗って大スピードで走り中絶を
試みた、のだそうで!


それでも無事に娘、今回お話のアンナ・マリーア・ルイーザが生まれ、
1671年には3人目の子である次男、ジャン・ガストーネが生まれます。

両親の間はまるで好転せずのまま、母親はアンナ・マリーア・ルイーザが
8歳の時にコジモ3世と別れ、永遠にフランスに戻り、
彼女はその後一度も母親と会う事はなかったと。


こうした家庭環境は落ち着きがなかったものの、国家元首としての頭脳と
誇り高い性格は、彼女を大変賛美していた父親と、

彼女を育てた祖母のヴィットリア・デッラ・ローヴェレに負うといわれ、
美しく、たくましく育ちます。


こちらが1666年の祖父、祖母に当たる、フェルディナンド2世大公と、
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ。 

2-2-1666The_Grand_Duke_Ferdinand_II_of_Tuscany_and_his_Wife_GF.jpg


祖母のヴィットーリア自身も、14世紀からのデッラ・ローヴェレ家の本家筋
最後の人物、だったと知りましたが、1694年に72歳で亡くなっています。


ヴィットリアは、少女にメディチ家の一員であるのを自覚し、義務と名誉を
誇りとするよう教え、

実際、住んでいたピッティ宮殿とその庭園は、王室の血統に相応しい
場所であり、祖母と少女が通る家族のギャラリーには、

フランスの女王となった2人の先祖、カテリーナとマリーアの姿があり、

カテリーナ・ディ・メディチに関しては、良く知られていると思うのですが、

カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と
https://www.italiashiho.site/archives/20210310-1.html

カトリーヌ・ド・メディシスが、フランスお輿入れに持ちこんだお菓子は
https://www.italiashiho.site/archives/20211204-1.html


もう一人のマリーア・ディ・メディチは、フランス語での
マリー・ド・メディシスの名で知られていて、

初代コジモ1世トスカーナ大公の後継のフランチェスコ1世が謎の死を
遂げた後、還俗し、トスカーナ大公となった弟のフェルディナンド1世が、
フランチェスコ1世の娘マリーアを嫁がせ、国王アンリ4世の2番目の妃、
となった女性を指します。


つまりどの様な王侯貴族と、または国王と結婚しても引けを取らずの
メディチ家であり、それだけの頭脳も備わった孫娘は、と
デッラ・ローヴェレ家での祖母がしっかり教育もしたのだろうと。

ラテン語、フランス語、ドイツ語、音楽、歌を学び、何世紀にも渡り
一家が収集した芸術品の中で暮らし、絵画、彫刻、建築に精通し、
評価も出来、

男性同様に馬を乗りこなし、狩りをし、美食も大好きな彼女。
そんな少女の為に、父親は衰退した家系に名声をもたらす程の
結婚相手を探す必要がありました。

16歳の、アンナ・マリーア・ルイーザの肖像。 
まさに花の乙女、ですねぇ。

6-Anna_Maria_Luisa_child_GF.jpg


「彼女は背が高く、色白で、大きく表情豊かな目は髪のように黒く、
小さなふっくらとした唇、象牙色の白い歯を持っています」と。


父親は娘を「イタリアの女王」程にしたかったものの、様々な妨げがあり、
一連の求婚者の後、黄金の相続人のための交渉は、

オーストリアはハプスブルグ家の男寡、強力な選帝侯の
ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・プファルツ・ノイブルク王子に向けられ、
彼は彼女の肖像画を見て恋に落ちたそうで。


選帝侯、という言葉が意味する所が分からず調べましたら、
1356年神聖ローマ帝国皇帝カール4世によって定められた、
神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ、有力な7人の諸侯、とあり、

3人の聖職諸侯、ファルツ(プファルツ)、ザクセン、ブランデンブルグ、
ベーメン(ボヘミア)の4世俗諸侯、という事で、

婿候補となったヨハン・ウィルヘルム(1658-1716)は、プファルツ選帝侯
と呼ばれる、領土はライン河西側一帯にあり、
正式名は「ライン宮中伯」というそうで、・・と何やら雲をつかむ様な!

18世紀後半の領土地図がこちらで、何とも飛び地ばかりの領土ですねぇ。

7-Map_of_the_Oberämter_of_the_Electoral_Palatinate_GF.jpg


こうして選帝侯とアンナ・マリーア・ルイーザは1691年4月29日、
フィレンツェ大聖堂で代理人結婚をし、

その後弟のジャン・ガストーネを伴いデュセルドルフに向かいますが、
待ちきれないヨハン・ヴィルヘルムはオーストリアのインスブルック迄
お迎えにきて、そこで正式に結婚を。

1708年の2人の肖像。

8-1-_van_Douven,_Doppelbildnis_Johann_Wilhelm_von_der_Pfalz_u(1708)_GF.jpg


1692年プファルツに到着した妃は妊娠したものの流産し、
この時に、彼女は夫の梅毒に感染したと考えられており、
これが彼女の不妊症の元になったものと。

幸いな事に2人の関係は穏やかで、心からの愛情と、芸術と音楽への
共通の関心事によって強固なものになり、

イタリアからの素晴らしい花嫁の洗練さを高く評価した新しいドイツの
宮廷での日々は、パーティ、演劇、バレエ、コンサートが続き、

選帝侯妃はモリエールの喜劇を上演する劇場を建設し、夫君と一緒に
ベンスベルクに豪華な城を建設、そこにフラミンゴ、オランダ、イタリア、
ドイツの巨匠を呼び、後援の情熱を発散し、

アンナ・マリーア・ルイーザはずっと父親や叔父、親戚、友人との連絡を
怠る事なく、日は過ぎて行きましたが、
2人の結婚には相続人が出来ずのまま。

9-The_Electress_Anna_Maria_Luisa_GF.jpg


彼女はドイツに住み、多くの村を訪れながらの年月、「これらの町を
美しいと見る為には、フィレンツェに生まれるべきではなかった」と
考え続けており、


こうして25年の結婚生活の後、1716年に夫君が亡くなった時、
彼女はフィレンツェに戻る事に。

兄弟のフェルディナンド、そしてジャン・ガストーネの結婚も同じように進み、
2人とも何とか結婚したものの、


兄は梅毒で父よりも先に1713年に亡くなり、

そうそう、この兄のフェルディナンドとの結婚相手が、

シエナ サンタ・マリーア・デイ・サルヴィ聖堂とパリオのお話
https://www.italiashiho.site/article/497600507.html

でご紹介した、パリオのコントラーダ・区域を定めた、

ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ妃で、

8-2-Violante_of_Bavaria_GF.jpg

シエナの統治者になったのは、フェルディナンドが亡くなって後、幸せな
結婚生活でなかった彼女は兄の城があるミュンヘンに帰りたかったのを、
コジモ3世と、義理の弟ジャン・ガストンが説得し、1731年に死去するまで
シエナに統治者として常駐したのだそうで。


弟のジャン・ガストーネは同性愛者、かなり強硬に結婚させられたものの、
堕落生活のまま。


アンナ・マリーア・ルイーザが夫の死後1年経ちフィレンツェに戻った時、
父親は非常に年を取っていたものの、彼女の帰還を喜び、
息子2人の後継が叶わぬのを見て、何とか彼女を後継者にしようと
全力を尽くし最後に働きかけますが、返事は戻って来ぬままに。

彼女には「トスカーナ大公国のプリマ・ドンナ」の称号のみが残されます。


コジモ3世はメディチ家の歴代当主の中で最も長命な81歳で没し、
在位は53年もの長さに渡ったものの、メディチ家のみならず、
トスカーナ大公国はすっかり衰退し、市民は困窮、2度の飢餓さえ
起こる程になっていたそうで。


こうしてメディチ家最後の後継者、ジャン・ガストーネが52歳で
第7代トスカーナ大公となったものの、

10-Giangastonecoronation_GF.jpg

1737年堕落生活の中で去り、


アンナ・マリーア・ルイーザは、唯一のメディチ家の名を引き継いだ
最後の人物となり、

トスカーナ大公国は、ハプスブルグ家の下、ロレーナ公の支配下に。


ピッティ宮の予備棟に住む事を許されていた彼女は、

11-residenza-dei-medici-a-palazzo-pitti-che-sua-moglie-elenora-di-toledo-aveva-ac_GF.jpg


長い年月にわたり収集された素晴らしい芸術の数々、君主のローヴ、
祖母のヴィットリアから受け継いだウルビーノ公国の財産、
そしてメディチ家の流動資金200万フローリン以上が残され、


謁見の間の黒い縁取りの天蓋の下で客人と会い、テーブルから
衝立迄すべて銀色の家具に囲まれ、暮らした彼女。

8-3-The_Dowager_Electress_Palatine_in_mourning_GF.jpg


彼女にとっての最大の恐怖は、自分の死後に、以前神聖ローマ帝国に
併合された他のイタリアの領土が苦しんだのと同じ運命にフィレンツェが
苦しむ事、

つまり支配していた王朝の絶滅と共に、その全ての宝物が剝奪された、
パルマ、ウルビーノ、フェッラーラ、マントヴァ
で起こった事を避ける為に、

膨大な家族の遺産を保存する事が、彼女の人生の主たる目的になり、

弟、最後のトスカーナ大公ジャン・ガストーネの1737年7月9日の死後、
彼女は自分の「選帝侯妃」という地位を利用し、

高度に文化的で先見の明ある女性は、1737年10月31日に、

最後のメディチ家大公が亡くなって後、僅か110日余り後に

トスカーナ大公領の後継者となったロレーヌ家のフランチェスコとの間で、
家族協定」として知られる協定を規定。

「選帝侯妃は、現在のS.A.R.(殿下)とその後継者である大公の為に、
最も穏やかな王位継承者の全ての家具、効果、希少性を付与、授与、
謙譲します」

ギャラリー、絵画、彫像、図書館、宝石、聖遺物などの他の貴重な物、
および王宮礼拝堂の装飾品など、

国の装飾の為、大衆の利益の為、および外国人の好奇心を惹きつける為
いかなるものも首都から、大公国から、輸送または持ち去られない事を
明確な条件で保持する事を約束する」


この太字にした部分、まさに今現在のフィレンツェの観光事情を
見通していた様で、本当に驚いたのでしたが、


つまりアンナ・マリーア・ルイーザ・ディ・メディチは、文化遺産の保存と
保護に関する法律が制定されるずっと以前に、

それらの作品がフィレンツェであり、フィレンツェ自体がそれらの作品
ある事を、現在と同じ様に、既に知っていたのですね。

家族の協定で、彼女は自分の血統に属し、メディチ家が1つ1つ情熱を
もって創った、または購入したものについて言及し、

メディチ家のコレクションの全ての資産を、街フィレンツェに繋げる
ことを決定し、元の場所から移動したり、販売する事を不可能にし、

それら貴重な宝物を、フィレンツェと、その歴史、その栄光に結び付け、
ロレーヌ家はこの協定を尊重し、メディチ家の美術コレクションを保存
したのみでなく、一般に公開し、


こうしてフィレンツェに最も古く、豊かな美術館の1つである、
ウフィッツィ美術館が誕生し、

12-leonardo-michelangelo-o-botticelli-la-collezione-di-famiglia-oggi_GF.jpg


家族協定の合意は非常に明確だったので、ナポレオンの侵攻時に、
再び重要であることが証明されたのでした。

当時の館長であったトンマーゾ・プッチーニは、芸術作品の殆どを隠し、
ナポレオン軍に引き渡すことを拒否し、
ロレーヌの人達は、それらは市民の物であり、その名前で保管する事を
明らかにし、フィレンツェの芸術遺産を救ったのでした。


アンナ・マリーア・ルイーザ・ディ・メディチの決意と頑固さのお蔭で、
フィレンツェは今日もその芸術作品を保存し、
最高の芸術都市と見做されていますが、

彼女の名前は殆ど知られておらず、ロレンツォ・イル・マニーフィコ
の様な方々の名前の影になっています。

が、彼らが初めた事は彼女が居なければ、今日まで生き残っては
いなかったでしょうし、
妃は、フィレンツェの偉大な最後の後援者と見なされるに相応しい方と。

この像は、サン・ロレンツォ大聖堂にあり、彼女はここに葬られました。

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毎年2月18日は、75歳で亡くなったメディチ家最後の彼女の命日に、
彼女の偉大な功績をたたえ、パレードや式典が行われており、

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また、ヴェッキオ宮殿、サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会、
バルディーニ美術館、ブランカッチ礼拝堂など、
フィレンツェの市立美術館の入場が無料になるそうで。


そして、ウフィッツィ美術館に行った時は、入場してすぐ、チケット売り場の
すぐ上にある、18世紀の衣服を着た美しいブルネットの女性の、
大きな肖像画を見て下さいね。

最後のメディチ家である彼女が、3世紀に渡っての「壮大な」家族の家だった
場所で、あなたを歓迎する準備が出来ているのを見ることが出来ますから、と。

次回行った時は、必ず探してみませんと!

長いお付き合い、本当に有難うございましたぁ!!


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・ シエナの大聖堂  ロマネスク、ゴシック様式のお宝満載

先月中頃に出かけたシエナですが、漸くに写真を整理、
資料も何とか読み、自分が撮ってきた写真が何だったのかの
意味も何とか納得出来ましたので、へへ、
見てやって下さい。


漸くに朝の雨が止み、薄日が斜めに差し掛けた聖堂。
いつ見ても美しいですねぇ!

1-DSC00432_01_GF.jpg


但し、出かけたあの日、あの朝は物凄く寒くて凍え、
どうやら頭の中までも凍ったらしく!
あちこち見ておらず、撮り忘れが多かったのを知りましたがぁぁ、
まぁ、これも次回出かける口実になるかもで、ご容赦を!



ファサード・ファッチャータは大きく2層に、下段、上段に分けられますが、
下段はかのジョヴァンニ・ピサーノによるもので、

上段は、カマイーノ・ディ・クレシェンティーノによるものと。
彼は、シエナ派の有名な彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの父親で、
どうやら上段の中の彫像には、ティーノの作品もある様子。


下段中央の3つの扉。 現在は右端が入場口になっており、

2-DSC00438_01_GF.jpg

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そうそう、切符売り場は聖堂前左をぐるっと回り込んだ奥に。

ロマネスク様式で始まり、じんわりとゴシック様式が取りこまれて行き、
ほら中央の大きな円窓がある両端の垂直線が、下側の位置と違いますね、

そんなこんなの統一感に欠けている、と言われるものの、
この色と装飾の美しさは、イタリア聖堂の美しさで一番美しいものの1つ、
と言われ、このスタイルでの建設でも、最も重要なものであると。

もっとキンキラキンのオルヴィエートの聖堂とも比較されるようですが、
あちらの方が数年遅れて建設にかかっており、
シエナの聖堂を見てから、というのが正しい、とウィキ伊の説明に。


この大きな円窓の前に居られるのは、聖母像で、円窓がいわば光輪に
あたる、という説明で、

4-DSC00442_01_GF.jpg


背後には様々な聖人、預言者たちの像が並びます。
そういった像の下には、色大理石モザイクがそれぞれに収まり、
各人の姿勢と共に、見飽きませんね。


中央の一番上には、「聖母被昇天」図がモザイクで描かれ、

5-DSC00435_01_GF.jpg


はい、このシエナの大聖堂の正式名は、サンタ・マリーア・アッスンタ・
「被昇天のマリア様」に捧げられており、

このモザイク、上部の横共に3画面のモザイクは後世19世紀のもので、
ヴェネツィア製だそう。

一番上には、天使が羽を広げて居られますが、避雷針は大丈夫、と
つい先日来、頭に浮かびます、はは。
https://www.italiashiho.site/article/498072883.html



正面の両脇角には、一番上の派風にまで届く高さの塔があり、

これは向かって右の角、様々な聖人たちと混じり、大動物たちが身を
乗り出し、小さな動物、または鳥たちは雨水吐けとなっており、
こうして近く、横から見ると、かなりの迫力!

6-DSC00419_01_GF.jpg



こちらは向かって左側角の、左の扉上部の半円の層と共に。
馬、牛、ライオンの半身乗り出しが、迫力で!

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雨水吐け・今回知った伊語で、ドッチョーネ・doccione、
動物の形をしたのをこう呼ぶのだそうで。

そうか、あんな雨の日だったのに、本当に動物たちが働いているのかどうか、
見れたのにね、と思うのは、暖かくしてPCに向かっているからで、ははは。


こちらは少し正面向きに位置を変え。 上のライオン君が大口を開け!

8-1-DSC00443_01_GF.jpg

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シエナの聖堂は白と黒の縞、と頭にありましたが、濃い緑色だそうで、
大変すっきりの印象ですが、

それに対し、このファッチャータに添えられたピンク色の優しさ、が
本当にエレガントな趣を添えて、素晴らしいですねぇ。


向かって右の柱の様子の写真が少ないのは、です、 聖堂のある
位置の高さが盛り上げられているのが、幅が狭く、後ろに下がれずで、
つい撮りやすい左側になり・・、と凍えて意気地なしだったshinkai。


両正面角から少し下がった円柱の上に、シエナの雌狼・ルーパ・セネーゼ。

9-1-DSC00425_01_GF.jpg


シエナのシンボルであり、街中のあちこちの円柱の上に見かけますが、
やはりローマの雌狼と同じで、こちらの雌狼のお話はローマの続編伝説。

父親のレムスが、弟のロムルスに殺されたセニオとアスカニオの兄弟は、
(お母さんはどうなったの?)
アポロとディアナが提供した2頭の馬(白と黒、これがシエナの紋章の色に)
に乗り、彼らを養って来た雌狼を連れ、北に逃げ、

定住する事を決めた谷に到着。 ここに町を建設、兄の名をつけ、
セナ・Sena、そしてシエナ・Siena、となったというのですね。

ローマの狼とのスタイルにわずかな違いがあり、ローマの方は横向きで、
シエナの方は前を向いており、

同じ雌狼なのですけど、間接的に呼び起こされるだけで、実際は、
フィレンツェのシンボルであるライオン、に対する図、なのだと!
そうなんですねぇ、このフィレンツェに対するシエナの複雑な感情ね。


こうして正面から見ると、単純にお乳を飲んでいるのと違い、
元気はつらつ、走ろうよ、マンマ、とでもいう感じで、ははは。

10-1-DSC00448_01_GF.jpg



大体は石像が円柱の上に、ですが、一番豪華なルーパは、
パラッツォ・コムーネの中の、黄金のルーパ、という説明に、

あれ、そんなのあったかな、と思い出せず、写真を探し、
コムーネ宮の内部、背景から特定し、
撮っていた、いや、写っていたのを、探し出しましたぁ。

10-2-DSC00649_01_GF.jpg



という所で、シエナのドゥオーモの正面。

12-DSC00455_01_GF.jpg



中央の正面扉の上。 青銅の扉は後年作で。浮彫はマリア様の逸話と。

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入場切符を買った時の、聖堂北側の大理石の象嵌。

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このシエナの大聖堂の建設について、簡単に拾い出しますと、
確実な古い資料がなく、1220年頃始まった、と言われており、

1226年12月に、シエナ共和国が大聖堂の建設と装飾に関する費用と
契約登録を、ビッケルナ・Biccheruna・支出事務所で開始しており、
これが最初の記録なのだそうで。

位置する場所はシエナの町中でも一番高い位置、町を3分割した
その中央部にあたり、

おそらく9世紀からの既存の建物、おそらくミネルヴァの架空神殿の
上に建設が始まり、

正面を西側に向けたバジリカに変えられ、1370年頃に完成。


という超簡単な年代記とは別に、既に古い聖堂建設は始まっており、
1179年11月18日にシエナ人の教皇アレクサンドル3世により、
奉納式が行われた、という記述もあるのですが、

この仕事は完成には程遠く、1196年から市民の特別代理人が
「サンタ・マリーア聖堂建設」とでもいう設置委員会を作り、
1238年から1285年迄、サン・ガルガーノの修道士により管理された、と。

で、この辺りから支出簿記載の記録が始まり、
1227年には、白と黒・濃い緑の大理石に対する一連の支払い記録、

1273年には合唱団席の調度品の支払いが記録され、

1263年にはドーム・円天井の屋根を覆う為の鉛が購入され、
ドームの頂上に置かれた銅のリンゴの代金が支払われ、

高さは、ドーム状の十字架も含め、48m。

という事は、1263年までに、聖歌隊席、中央の6画形、そしてその上の
丸天井が既に建設されていた事になり、


特定されていない資料によると、1280~84年の間に身廊の完成、を
示しているそうで、

14世紀の匿名年代記によると、1284年にファサードの最初の石が
置かれた、とし、

1284年から1297年に掛け、ジョヴァンニ・ピサーノが、下部の建設の
現場監督の長として働いていた事を証明し、

なぜ突然に解任されたか、というのは、ピサーノの浪費、無規律、監督
不行き届き、など設置委員会からの苦情によったらしく、

ピサーノほどの腕がある人間を首にする方もですが、受けて立って、
おう、なら、辞めてやろうじゃぁないか、となったのかも、で、
・・こういう場面は、も少し詳しく知りたいものですねぇ、ははは。

で後を継いで、1299年~1317年頃、彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの父、
クレシェンティーノによって完成したと。

1313年、高さ約77mの鐘楼が完成。

14世紀の年代記によると、1317年5月にファサードが完成し、
東部で拡張工事が始まった事を証言。

東部の拡張工事、というのは、聖堂の東側の低い土地、ここは聖堂の
内・後陣の地下にあたり、ここに洗礼堂を造る工事で、

洗礼堂の屋根が聖歌隊席を支える事により、新しい聖歌隊席も
2つの径間部席が追加され、
また中央身廊も高くなり、新しく完成のファサードに合わせたと。


こうして、新しい建設を見直しながら、次の工事に、という感じにも
見える進捗具合だったのですが、
1339年に突然に中断されたのですね。

この時のシエナは、町の発展の素晴らしさの頂点にあり、
時の大聖堂は、町の大きさには小さすぎると思われたに違いなく、

人口と富が増加し町の生活が拡大し、フィレンツェとその新しい巨大な
大聖堂に負けまい、見習おう、という欲求も成熟、

現在の縦方向の建物が、翼廊と南向きのファサードのみになる様に、
はるかに大きく、進んだ位置で拡張する事が決定されたのですね。


という事で、即新しい計画は発足し、工事が進みかけたのですが、

1342年に疫病の発生、そして飢餓に襲われ、状況は一変し、
1348年のペストの流行と、いくつかの構造的崩壊、
1357年にさらにペストに襲われ、遂に6月に工事中断。

数年後に工事は再開されたものの、1870年の火災もあり、
遂に増築工事は完全に放棄され、

今も残る、ファッチャトーネ・大ファサードと呼ばれる、夢みた大聖堂の
ファサードの壁、そして身廊になる筈だった壁が残ります。

シエナのドゥオーモ博物館 と ファッチャトーネの上から
https://www.italiashiho.site/archives/20180711-1.html


が、大聖堂内部の装飾はその後も着々と進められ、
国際ゴシック、ルネッサンス、バロック様式も混在する美の宝庫に!


という事で、漸くに内部のご案内に。

身廊をずんと奥の後陣まで見通し、

15-1-DSC00458_01_GF.jpg



天井部のアーチの交わる点まで、どれほどの高さになるのだろ?!

15-2-DSC00514_01_GF.jpg

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中ほどの高さに、両側にずらっと並ぶ顔ですが、アップで眺めたshinkai。

特別に余り出来の良い顔とは思えないけど、ここまで並ぶと、
それなりの威圧感、迫力だなぁ、と。

そしてウィキ伊の説明を読むと、なんと、まったく同じ説明があり、
きゃはは、と大笑いしましたが、

なんとこの顔は初代ヴァティカンの初教皇となったサン・ピエトロから始まり、

始まりは後陣の背後中央のキリストの右から始まり、時計回りに進み、
キリストの左で終わる171番目の教皇ルキウス3世まで!

で、本当はこのシリーズは、シエナ人教皇アレクサンドル3世(1159-1181)
で終わる筈だったのが、

ジョヴァンニ8世教皇が、実は男装した教皇ジョヴァンナ、ご存じですよね?
であった事から外す必要が出て、胸像を一つづつずらし、
新教皇を1つ追加する事になり、この様になったのだと!


今回、シエナのドゥオーモについて、ウィキペディアのイタ版を読み、
どう言ったらよいのかな、シエナに対する愛情、悪口はちゃんというものの、
その奥には愛着心ふつふつ、というのを感じ、

今迄ウィキの記事にそういった感情を感じた事が無かっただけに、
これを書いた方はシエナの人かなぁ、なんぞと思ったり、
よく分かる丁寧な説明に援けられつつ、感心したりだったのでした。
また他のシエナの記事を読んでもそうなのか、気を付けてみましょう。


内陣、後陣の様子。 

16-1-DSC00482_01_GF.jpg

上述の歴代教皇様の胸像、真ん中のキリスト様の顔は見えませんが、
頭に金色の柊の王冠をしているので分かりますね。


実はこの内陣、後陣には、最初はドゥッチョ・ブオンニンセーニョの
祭壇画があったのが、
内部の大掛かりな改造が行われ、その時に祭壇画が外され、
フレスコ画と大理石の装飾になったのだそうで。

というのも、シエナの人々もルネッサンス様式に馴染み、魅かれたのと、
かっての中世の物は古臭い、と思うようになったのが原因なのですと。

まぁ、今となると、古くとも出来の素晴らしいのは、ま、少々の出来でも!
古いというだけで価値が決まる事もありますが、失礼、

今回のこの説明は、そうなのか、ドゥッチョの作品でも古くなったのか、と
ちょっとばかり、新鮮な説明の様に受け止めたのでした。

シエナ点描  小路と、黄昏どき
https://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html



が、このドゥッチョがデザインしたステンド・グラスはそのままで、
直径5,6m、 1287-88年に作られた、イタリアで製造された
知られている最古のステンド・グラスなのだそう。

16-2-DSC00481_01_GF.jpg

17-DSC00465_01_GF.jpg

但し実物は、ドゥオモ博物館にあり、聖堂のは画家のフランチェスコ・モーリ
によってコピーされたものだそう。



ドームの下、濃いブルーの地に、金メッキされた星が打ち込まれており、
下を聖人たちが囲みます。

18-DSC00464_01_GF.jpg

21-DSC00469_01_GF.jpg

上に明り取りのランタン部分が見えますが、


凍り付いたshinkaiの頭は、この下右の方の様に、上を狙うのも忘れ・・!

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内陣に向かって左側にある、説教壇。 二コラ・ピサーノ・ジョヴァンニの父、
1265-68年の素晴らしい作品。

23-DSC00471_01_GF.jpg

製作には父のジョヴァンニ、アルノルフォ・ディ・カンビオなどの名も見え、
これほどの作品をカッラーラ産の大理石に彫り込む力量、凄い!
350x200cmという大きさ。


こちらが正面側。

24-DSC00476_01_GF.jpg



そして裏側から。 階段と渡橋があります。

25-DSC00480_01_GF.jpg



聖堂内床面には、全部で56のパネルになった、大理石の象嵌細工が
嵌め込まれており、
その独創性、広さ、モチーフの表現などなど、大変ユニークなイタリア芸術と。

何枚か写したのですが、ここでは一つだけ、シエナのルーパを。

26-DSC00461_01_GF.jpg

周囲を囲む動物たちのモチーフと、その名付けの由来を知りたいもの。

もっとも古い物で14世紀後半から、19世紀迄の物で、
40人以上の作者により、その殆どがシエナ人なのだそう。

古くて摩耗したものなど、何世紀にも渡り復元され、一部は古い作品を
尊重しながら、ゼロから作り直されたものもあるそうで。

で、訪問された時にシートで覆われたのがあり、がっかりされぬよう、

6月末から7月末迄、そして8月末から10月末までは
床が完全に公開されているそうで、それ以外は僅かしか見れません、
というのを訪問時のヒントにして下さいね。

聖堂を上から覗ける 「天国の門」 ・ シエナのドゥオーモ
https://www.italiashiho.site/archives/20180716-1.html


これは確か、内陣に向かって右の壁にあったオルガンで、左にもあり、
古いオルガンを解体し、使える部分をすべて利用した作品なのだそう。

28-DSC00468_01_GF.jpg

オルガンの下に見える小さい額の数々は、信者が祈願して叶ったお礼に
捧げるエクスボートと呼ばれるもの。



逆に入り口側に向かって。  中央の扉を囲んでの装飾が大変美しく。

31-DSC00477_01_GF.jpg

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こちらのステンド・グラスは、最後の晩餐。 1549年作。

33-DSC00509_01_GF.jpg



ふと上を見ると、高く囲われた上で、修復作業に関わる方がおられ、
天井の作業かな、という感じで、大変ですね。

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中央扉の前に、左右対になった素晴らしい聖水盤があり、

35-DSC00516_01_GF.jpg

こちらは、入って右側ので、 左側のがブレてしまい・・!
おまけに説明によると、どうやら左の方が、素晴らしい作品と、うう。



この聖水盤の所から振り返る、右側の側廊。

36-DSC00518_01_GF.jpg



所で、今回の聖堂内の脇の礼拝堂はまるで見ませんでしたが、
ピッコローミニ図書館はちゃんと見学し、写真も撮りましたので、
これは次回にご案内、という事でよろしくお願い致します。

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という事で、全体が明るくなった聖堂の姿で、今回はお終いに。

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2018年の シエナの朝  カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
https://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html


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・ 1601年1月27日 フィレンツェ聖堂頂上の、黄金の球が墜落

フィレンツェはサンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂の丸天井の頂上、

ブルネレスキのデザインした明かり取り・ランテルナの上に円錐形の
小塔があり、その上に黄金の球、そしてその上に十字架がありますが、

1-firenze-florence-italy-europe-161376_GF.jpg


この黄金の球が、1601年1月27日に稲妻に撃たれ、
116m下の地上に!!

という今回のお話で、そう言えばどこかで聞いた、読んだ、という
皆さんも多いかと思いますが、
私めも、そう言えば、と思いつつ、詳細を読みましたのでここに。

1601年1月27日、ブルネレスキのドームから球が地面に投げ出された
27 gennaio 1601: la palla della cupola del Brunelleschi scaraventata a terra


サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の建設については、ブルネレスキが
デザインした大ドゥオーモが、遂に上に掛けられる迄が大変だったらしい!
というのは、皆さんもご存じでしょうが、
こちらにその詳細を

クーポラ登頂と、建設のあれこれ ・ フィレンツェのドゥオーモ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466188299.html


つまりあの大聖堂は1294-5年位から工事が始まり、
クーポラ下の8角形の壁部分は,1314-15年には完了していたらしい、
のですが、

そう、あの上にクーポラが掛かる工事が始まるまでも大変だった様で!
というのも、デザイン募集があり、ギベルティの名も挙がったものの、
結局ブルネレスキ1人で請け負ったのが1425年。


あの聖堂の天井が無いままに、板を渡して雨、雪を防いだのでしょうか、

1世紀間、筒状の聖堂の姿があった訳で!! 

不謹慎ながら、これを思うといつも笑いがこみ上げて・・!


2-d0097427_01125094_GF.jpg


こうして、フィレンツェ人の大~きな辛抱の末に、はは、漸くに
1436年 約10年間の工事の後、クーポラの屋根部分が完成。  
    
  再度待つ事 10年
1446年  頂上の灯台部分の仕事が始まり、
1461年  一番上の円球と十字架が置かれ、
1468年  全ての建設完了。

という次第で、今の素晴らしい大聖堂の姿が現れたのでした。


で、ランテルナの建設デザインもブルネレスキの案が通ったのですが、
1462年に彼は死去し、

実際の黄金の球はヴェロッキオによって、はい、ダ・ヴィンチの
お師匠様で、大きな工房を抱え、絵の制作のみでなく、様々なデザイン、
建設も引き受ける、いわば彼も当時の「万能の人」であった訳で。



地面から見ると、それほど大きな物には見えませんが、
直径2、3m、全体が金で覆われた、優れた品質の銅製で、

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ヴェロッキオは全ての銅を見つけるにも苦労した様子で、
なにせ1800kgにもなる重さで!

必要な量の優れた品質を見つける為に、ヴェネツィアに行き、
銅板を接着、球に仕上げ、そして金メッキを。


で、遂に1471年5月27日、あの頂上に光り輝く金の球が設置され、
フィレンツェ人の誇りと喜びになったのでしたがぁぁ、

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これはドゥオーモの頂上に、稲妻、雷をしっかり呼び寄せるもの、となり、
はい、物凄い数の稲妻のかすり、雷直撃もあったようで、

1822年にベンジャミン・フランクリンが避雷針を発明して後、
70年後の1859年に「電柱」が設置される迄の4世紀間
約30もの稲妻の襲撃を受けたそうで、

リストも長々と続いていましたが、ここでは省かせて頂き、

黄金の球は絶え間のない苦労に晒されることになったのでした!


1461年に取り付けられた球に、1492年4月5日に雷が直撃、
3分の1ほどの被害が出たものの、何とか落下せずで済みましたが、

フィレンツェ人たちは、ロレンツォ・イル・マニーフィコの死の予兆ではないか、
と恐れますが、実際3日後にロレンツォは、痛風による43歳の若い死を。

4-Verrocchio_Lorenzo_de_Medici_GF.jpg


そして遂に、1601年1月26日から27日にかけての夜
金の球が設置されて後130年後、

ヴェロッキオ作の球は、雷雨の間の稲妻の矢に激しい衝撃を受け、
ドゥオーモ広場に落ち、甚大な被害を。

球のみでなく、大理石の破片も多数激しく飛ばされ落下、
東側の広場、聖堂から約20mほどの位置に、球は半ば潰れ欠落。

多分大音響と共に落ちたのでしょうね、
近くに住む人々は、世界の終わりが来たような恐怖に襲われ、
声を一つにして、ただお慈悲を求めていた、と当時の記録に残るそう。



で、現在この落下地点に、白い大理石が嵌め込まれている、というので、
ひょっとして、とイチビリshinkaiはグーグル・マップで見ましたら、

これ、分かりますか、3角の広場のちょうど真ん中辺りに白い小さな〇が。

5--01-30 162511_GF.jpg

6-01-30 162612_GF.jpg

7-palla_GF.jpg


という事で、場所が確定され、次回フィレンツェに行かれる方はお確かめを!
但し白い石のみで、何も碑文はないそうで!



落下した球の再建は非常に迅速に行われ、この時に小さな窓が作られ、

8-by-gabriele-galimberti_GF.jpg

中にいる保全係りの人に光を与え、仕事をする人にも安全さを与えますよね。

フィレンツェの大聖堂 クーポラの金の球の中に
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20210110-1.html



ヴェロッキオ作の球の修復は、当時最も才能ある金細工師の中から
マッテオ・マネッティ・Matteo Manettiにゆだねられ、
骨の折れる忍耐と絶対的な献身を持って、追加を含む長い修復を快復させ、
1602年10月21日に、再建されたのでした。

1859年漸くに避雷針が付けられた後も稲妻の襲撃はあったものの、

サンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂上の黄金の球は、今日迄の
400年間を耐え
今も抵抗し続け、フィレンツェの空に輝いている、という健気なお話でしたぁ!

9-lanterna-cupola-duomo-firenze_GF.jpg



で、最後におまけのお話を加えさせていただくと、 これは
ドゥオーモのランテルナの金の球:400年間の雷、稲妻
La palla d’oro sulla lucerna del Duomo: quattrocento anni di fulmini e saette

2002年に行われたこの金の球の修復は、名門金細工会社の
ジュスト・マネッティ・バッティロロ・Giusto Manetti Battiloroにより
資金提供されたのだそうで。

つまり創業者のルイージは、1820年に創業した会社を息子のジュストに
託し、上記の巨匠マッテオと、ディ・ディアノーラ・ドルチの5代目の
直系の子孫である事を誇りに思っていたそうで、

現在のマッテオ一家は、ヴェロッキオの球の修復をしたマッテオから
なんと15代目の金細工師に当たり、

金の球は何世紀にも渡って不運が続きましたが、偉大な芸術家一家に
幸運をもたらし、彼らが金の球に再びの命を吹き込んだのでした、
というお話で。



この上空からの写真を見ると、びっしり詰まった市街の中に、
ちょこっとの隙間があり、そこに、歴史も、景観もどでかい物が詰められて、

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何とも、フィレンツェはやはり凄いですねぇ!!

夜景も素敵!!



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・ ブロンズィーノの肖像画 高額で売却 と かっての持ち主の人生は

昨年12月半ば頃にお知らせの記事に書いた

ブロンズィーノの肖像画が、サザビーズNYの競売に
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20221215-1.html


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に、年が明けた1月に競売に付される、とあったので、
そろそろニュースが出る頃、と待っておりましたら、はい、
たくさんぞろぞろ出て来まして、というのもです、

大体の所これ位の価格で、というよりもず~っとお高い価格で売却
されたからでして、

これについてはこちら
再発見された「ブロンジーノ」は記録的な価格で売却
Il "Bronzino" ritrovato è stato venduto a un prezzo da record

にかなり詳細に、絵についても、元の持ち主についても書いてあり、
この絵画の変遷についても、絵の内容についてもあれこれ知ることが出来、

はぁ、それは良いのですが、

絵の最後の持ち主の名前や、どの様にして手から離れナチスの下に、
その後正当な相続人の元に戻るまでの様子を少しでも知ると、
もっと正確に詳細を知りたくなる私めの性格から、

これを書き出す直前にまた新しい、これが素晴らしいサイト記事、
ザ・ニューヨーク・タイムスの記事を見つけ、どっぷりと浸かり・・、

でも、これは皆さんにも是非知って頂きたい、書きたい、という内容
ですので、今回また読んで下さいませませ。


まずは、ニューヨーク・サザビースでの競売、売却の様子ですが、
1527年に描かれたと思われるアーニョロ・ブロンズィーノ
Agnolo Bronzino(1503-1572)の、

羽ペンと紙を持った若者の肖像」は、

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300~500万ドルの想定価格の2倍以上の、1070万ドル
売却されたのだそうで!!


この価格は、2015年に同じくニューヨークのクリスティーズでの競売で、
同じブロンズィーノの「本を持つ若者の肖像」が

900万ドルで売却された価格をも軽く上まわったもので、
まぁ、7年経過しておりますしね、それにしても凄いものです。


競売当日の様子は、上向きのレースが5分間続き落札。

新しい所有者の名前は明らかにはされていませんが、
サザビースNYのロシア部門の長が担当していた事は明らかですので、
そちら方面のお金持ちであろうと。

まぁ、絵が少し遠い所に行かれるのは残念ですが、

いわば今迄まるで知られていなかったブロンズィーノの絵の存在が
今回明らかになり、

それ以前のクリスティーズからの写真も無かったのだそうで!


その当時の彼の他の絵と比べて見ると、まぁ、まるで彼以外には
あり得ない、というほどの共通点をshinkaiめにも看て取れ、
嬉しくなる程で。


この点については、カルロ・ファルチーニ・Carlo Falciani教授、
美術史家であり、フィレンツェの美術アカデミーの現代美術史の教授
であるこの方が、

フィレンツェのストロッツィ宮殿での、ブロンズィーノ展 2010~11年、
を監修されたそうで、

それでサザビースからの問い合わせ、画家の確認についてに対し、
ブロンズィーノの作品に間違いない、との答えを出された方。


2-2-971350292Fcarlo falcini_GF.jpg


顔写真を見てお若いのに驚きましたが、
生年月日は出ずですが、フィレンツェで大学を卒業され、パリで、
ハーヴァードでも、という優秀な方の様子。


「ブロンズィーノ、として知られるアーニョロ・ディ・コジモに
関する最近の発見の中で最も興味深いもので、

16世紀の肖像画の傑作であるこの品質の絵画が、科学界に知られて
いなかった事は注目に値します。

その再発見は、画家の最も美しい肖像画の1つを明らかにするだけでなく、
彼の初期の活動についての理解を深めます。

既にブロンズィーノのキャリアの初期において、この肖像画は
言葉とイメージに対する彼の二重の関心を、最も説得力のある表現で
示しました。

彼の芸術的な洗練は、コジモ1世メディチ家の宮廷で働いた
成熟期が典型的ですが、

にも拘らず、この肖像画は、若い頃から同じ文学的、および視覚的観念が
彼の作品の基礎であったことを示しています」と。


はい、この教授の言葉に出て来たブロンズィーノの描いた肖像画の
中の若者たち、今回以外にも、

上記した、「本を持つ若者」もそうですし、

2-1-Agnolo_Bronzino_-_Portrait_of_a_Young_Man_GF.jpg



ミラノのスフォルツェスコ城にある「ロレンツォ・レンツィの肖像」も、
若者は本を、ペトラルカの詩集、を持っており、 

3-1-Bronzino_-_Portrait_of_Lorenzo_Lenzi_GF.jpg

これも今回の肖像画と、ほぼ同じ時期のもので、



私が驚いたのは、この細部の写真に見える、衣装の布の特徴である、
細かい細かいビーズかな、の表現!

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当時のスペインからの流行だったと思われる、黒い衣装に一粒一粒
縫い付けたものでしょうか?!

説明には、ビロードに似たフラシテン、長いケバを持つ絹または木綿、と
あるのですが、ケバではなく、袖には完全に光っている様子が見えますよね?

黒色が地味、なんぞとはまるで裏腹の、素晴らしく豪華な衣装で!!

彼は1516年生まれの詩人、アントニオ・ディ・ピエロ・ディ・アンフリオーネ
(大変裕福なフィレンツェの商人、だった様)の息子で、
枢機卿ガッディが母方の叔父さん、で、教育はこちら側で、とあり・・。



ちょっと脱線しましたが、ええと、カルロ・ファルチーニ教授によると、

今回のブロンズィーノの肖像画と、手の描き方は同じで、それが彼の
スタイルであるのを示しており、

それでも当初はブロンズィーノではなく、ポントルモの作品とされており、

それは、ブロンズィーノの初期の作品の認識がごく最近のものであるので、
未だ一連の作品全体が認識されていないのだ、と。



そしてもう1枚の作品、ウゴリーノ・マルテッリ・Ugolino Martelli 像。
1537-40年作


4-1-Ugolino Martelli 1_GF.jpg


4-2-Bronzino_Ugolino_Martelli_3_GF.jpg


(1519-1592)フィレンツェの貴族、銀行一家の出身で、人文主義者、
言語学者だそうで、

この人物については、UGOLINO MARTELLI からで、


こちらも黒い衣装ですが、左手に持つ一際美しいウルトラマリン色の本、
これはピエトロ・ベンボの本で、ラテン語ではなく、イタリア語方言での
詩編集なのだそう。

多分ブロンズィーノはヴェネツィアとの繋がりもあり、
高価なラピスラズリの入手先もあったろうと思われる、とあり、
多分実際の絵の中で見えるウルトラマリン・群青色が素晴らしいのだろうと。


そして手前に広げ指さしているのは、「ホメロスのイーリアス」の写本、だそう。

2_GF.jpg


袖口からチラッと見えるシャツの袖口がグレイがかった青紫で、ふふ、
絵の背後に広がるのは、彼が住んでいたご自分のお屋敷で、

左端に見える彫像は、ゴリアテの頭を下に転がしたダヴィデ像で、
実際にこのお屋敷にあったそうで!
この絵は現在ベルリンのGemaldegalerie博物館に。



そして本を指す指、という関係で、今回の我らが肖像画をもう一度、

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そして、ブロンズィーノはラテン語で書かれたなぞなぞを、
ここに書いており、

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最初の行には、
「書いているように見えますが、事実は書いていません」と。

さて、これをあなたはどの様に解釈されますか?



で、もう少しで書き忘れそうになった大事な事、カルロ・ファルチーニ教授が
「これはもしかしたら、ブロンズィーニの自画像かもしれない」
と言われている事。

未だ仮説であり、定かではありません、と言われておりますが、


彼が描いたこのラテン語の言葉は、非常に興味深く、

つまり「話す」から、と。 つまりここではブロンズィーノが直接に
鑑賞者に語りかけている、という事かと。

で、書く事と別の方法で自分自身を表現する事の間で、バランスを
取っている人物のイメージがあり、

これはブロンズィーノが他の絵画でもしているゲームである、と。

そして、彼がほぼ60歳の肖像画があり、彼の人生の終わりの肖像画でも、
彼は筆ではなく、ペンと手を持って、自分を描いているのだそうで。


多分教授は、今回のブロンズィーノの新しく発見された絵についての
学術論文を書かれているのではないかと思えるので、
その発表があった時には、もっと詳しい事が分かるかもと。




という所で、この絵の持ち主の変遷について、ですが、
かなり強烈で問題ある歴史を経ており、


ここからの内容は、上記したニューヨーク・タイムスの記事で、
ほぼ無事に彼女はミュンヘンに戻り、絵と命を失いました

サイト上で右クリックすると、日本語翻訳で読めますので、是非!


ブロンズィーノの絵は、最初は英国王チャールズ2世の個人顧問で
あったサー・ウィリアム・テンプル卿が所有し、

そして1824年から1920年にかけてシーモア・コレクションに。

その後アーチストのヒュー・ブレイカーの手に。

そして裕福なドイツの相続人でコレクターのイルゼ・ヘッセルベルガー・
Ilse Hesselbergerが購入したのですが、


今回お話したいのは、この女性についてです。

ユダヤ系の女性で、絵をナチスにいわば脅され売却したものの、
自分の身をそれで救えると思ったのが、結局は強制収容所に送られ、
そこで亡くなった、と知り、もっと詳細をと記事を探したのでした。


まず、彼女イルゼ・ヘッセルベルガーの1921年の写真をどうぞ。

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この写真が見つかった時は、わぁお、見つかった、と!
こうして写真が見つかると、ああ、本当に居られたんだ、
という気になり、ここから記事が見つかり、
これは皆さんにもお伝えを、と思ったのでした。


1938年の夏の終わり、ナチスがドイツのユダヤ人に対する迫害を
強め始めた時、イルゼ・ヘッセルベルガーと娘のトルディ・Trudyは、
親戚を訪ねる為にミュンヘンからミラノに旅行中で、

ミラノから娘は無事に渡米。 イルゼは信仰はプロテスタントでも、
民族的にはユダヤ系であり、ドイツに戻りましたが、

華やかな社交家としての生活が知られていたものの、
帰国後は、ヒトラーの権力の台頭に重要な舞台であったミュンヘンで
祝う事は殆どなく、

ナチスの人種法の下でユダヤ人として識別された彼女は、
すぐに田舎の不動産を売却する事を余儀なくされ、

1927年に購入した、「羽ペンと紙を持つ若者の肖像」を含む
コレクションを失います。


その後ナチの役人は、後にユダヤ人を強制収容所と、死の収容所に
送る為に使用する、つまり選別の収容所建設費を援助するように
圧力をかけ、

歴史家によると、彼女はお金を払えば定住できる、と確信していたのが
その約束は嘘で、

1941年11月、収容所の資金援助の為の10万ライヒスマルクを
回収して後わずか数週間で、他の資料には数日、ともあり、

彼女はそこから始発の列車に乗せられ、ドイツ占領下のリトアニアに
送られ、彼女と他の多くのユダヤ人は5日後に殺害されたのでした。


不動産を売らせ、美術コレクションを売らせ、そのお金をも吸い取り、
その後に、というナチスの残虐な手法だったのですね。


ヘッセルベルガーさんがブロンズィーノの作品を購入した時、彼女は
ミシン工場の財産相続人であり、 

夫君は、1930年代半ばに亡くなったミュンヘンの皮革工場の
オーナー、フランツ・ヘッセルベルガーさん。


ナチスはイルゼの出生記録の最初のページの隅に、彼女がユダヤ人で
ある事を示す「サラ・Sara」という名前のスタンプを追加。

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娘のトルディは、ちょうど間に合うチャンスに逃げ渡米したのが分かり、

というのも、彼女の出国から2か月後に、ユダヤ人保持のドイツの
パスポートは無効となり、

その1か月後、水晶の夜のユダヤ人虐殺が起こり、

12月には、ナチス当局は既に5000ライヒマルク以上の資産登録を求めて
いたユダヤ人に対し、財産、事業、株を、通常より低価格で、
非ユダヤ人に売却する事を強制。


新しく建設のミルバーツホーフェン収容所の件で、ナチス事務所に
召喚され、金を要求された時、既に彼女には選択の余地はなく、

こうして多くのユダヤ人は、自分たちの死に資金を提供させられ、

トルディは別のパスポートを用意するのにお金を払ったそうですが、
それが届いた時はすでに遅く、

ナチスとの約束にも拘らず、ミルバーツホーフェンからの
ユダヤ人を移動させるための最初の列車に乗せられ、

ドイツ政府の記録によると、イルゼは1941年11月20日に
リトアニアのカウナス収容所に強制送還され、

1941年11月25日に殺害、51歳でした。



ブロンズィーノの絵画は、総督博物館のコレクションに含まれ、
これはヒトラーがオーストリアの故郷リンツの為に計画した贅沢な
複合施設の一部でしたが建設される事なく終わり、

戦後アメリカ軍は、この絵画オーストリアの岩塩構内に保管されて
いるのを発見し、ドイツ当局に引き渡され、
過去数十年間にわたり、ドイツ連邦共和国が所有。

ボンの連邦政府の建物にかなりの期間吊るされていたのが、
2022年初め迄に、ドイツ議会教会が使用するベルリンの建物に移動。


こうして絵の裏側には、ヒトラーが計画していた美術館の目録番号、
[1400」のシールが貼られており、その来歴を知る手がかりに。

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数年前、ナチスにより略奪された美術品回収を専門とするニューヨークの
弁護士デビッド・J・ローランドが、イルゼ・ヘッセルベルガーの
相続人に属している可能性のあるドイツの絵画について聞き、

イルゼの娘の財産を担当する弁護士と話し、彼の事務所はすぐに
ドイツの弁護士と共に調査を開始。


2022年初頭、ドイツ政府は、ナチスの迫害により没収された
可能性が非常に高いと結論付けた後、この絵を財団に引き渡し、

財団は、当時ヤコピーノ・デル・コンテの作品、とされていた
この絵をサザビースに委託、

3月に届いた時は、それは土と熱い黄色のニスの層で覆われており、
でも、サザビースの熟練したスペシャリストたちは、
その根底に特別な何かを信じ、
フィレンツェのカルロ・ファルチャーニ教授に写真を送り、
ブロンズィーノの作品であることが結論付けられたのでした。

ファルチャーニ教授はメールの中で、
「手はブロンズィーノの若々しい肖像画と同じ様に描かれ・・
空間における人物の澄んだ光と、立体的な形はまさにブロンズィーノの
ものである」と。


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長い文章を読んで頂き、有難うございます!!

長らくブログを続け、時に草臥れる事もたびたびですが、失礼、

でも時に、「これは書きたい、書かなければ、 読んで欲しい」
と強く思う事柄に出会う事があり、

今回もまさにそれでした。 そんな時に思うのは、
イルゼさんの人生が、私に書かせる何か、みたいに思われ、
自分が知った事柄を大切に心の隅に置き、生きて行こう、と。

有難うございました!


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posted by shinkai at 03:24Comment(0)・欄外