・ ジェラート 現代のアイスクリームは、全てイタリアから、のお話

こちらイタリアは先週日曜26日未明から夏時間となり、
正確には夜中の2時が3時に、冬時間はこの逆、となり、

僅か1時間の差とは言え、6時でも未だ暗い朝という事で、
いま暫く慣れるのに日数が必要です。

PC、スマホ、旅行用小時計は自動的に変わってくれますが、
壁時計、腕時計は時間を合わせないといけず・・。

月曜の朝9時15分予約の車の車検に行き、ふっと腕時計を
確かめると8時! 
一瞬わっ、と、自分不信に! この頃この手の事が多く起こるので、はぁ、

まぁ、周囲の皆さんがお仕事に集中されてる姿に安心し、
忘れとった!と焦らずに1時間針を進めましたです。

日本の方のブログ訪問で、桜の満開も楽しませて頂いており、
こちらもモクレン、赤いボケ、白色、薄いピンクの木々、
黄色の山吹も咲き、良い季節となっております。

で、そうなると、
はい、今日の話題は、ジェラート・アイスクリームで、

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美味しそうでしょう?! 


参考にしたサイトは
現代のアイスクリーム、全てイタリアの物語
Il gelato moderno, una storia tutta italiana

ジェラートの歴史、お話  STORIA DEL GELATO


いやぁ、本当に読んでみると、ジェラートの歴史における各時代の
変化、改良に携わっているのはほぼ全部イタリア人で!

お読み頂けると、それが良くお分かりと。 では、どうぞ。


イタリアではすべてジェラート・gelatoと呼び、

メーカーの作る、バール備え付けの冷蔵庫に溢れるこんなのも、
幾つかギアッチョーロ・アイスキャンデー、と呼ぶのも見えますが、

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スーパーで、パスタの並ぶ長~~い棚と同じ位、いや、それ以上に
長~い冷蔵庫には、こんなのが詰まっており、

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写真を探し、こうして見ただけで、それはもう
ジェラートはイタリア人の情熱!の1つ」と言えるもんね、
と納得のshinkai.

という事で、ジェラートのお話を進めさせて頂きたいと思いま~す。


実際、太古の昔から雪や氷で喉の渇きを癒し、それに何かの果物や
ジュース、蜂蜜を加えてみる、事はすべての大陸で一般的で直感的な
方法だったと言えるでしょうし、

聖書には、イサクがアブラハムに雪を混ぜた山羊の乳を差し出した、
と書かれており、
これが我らの歴史の中で最初の飲食の1つになるそうで。

そして、ソロモン王は凍った水の大消費者であったと言い、

アレキサンダー大王はインド遠征の時に、行進や戦闘中に、
蜂蜜や果物と混ぜて食べる雪の継続的な供給を要求したと。

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一部の学者の研究では、ジェラートの起源を紀元前約3000年前迄
遡り、極東、とりわけ中国人の間に追跡でき、

モンゴルの侵略を通じ、ジェラートはギリシャとトルコに到着し、
そして地中海沿岸の他の国に拡大した、のだそうで。


古代エジプトのファラオは、豪華な宴会の一番のコースに、
原始的な形のグラニーテ・granite・カキ氷を含めており、

かのクレオパトラは、チェーザレとアントニウスに、氷を混ぜた果物、
を提供し、成功したのだそうで!

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このクレオパトラ、素敵でしょう?!



ブログ訪問で読む所によりますと、シチーリアの夏の朝食は、
果物味のグラニータにブリオッシュ、だそうですから、

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チェーザレもアントニウスも、軽~くやられたのでしょうねぇ、ははは。



そしてローマの5代目皇帝ネロ、ローマを大火で包んだ悪名高い彼も、

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果物、蜂蜜、雪をベースにした最初のデザートをローマに紹介したのだそう。


つまり歴史資料に残る事柄から見えて来る事は、イタリア人が
現代のジェラートの発明者である、という事なのですが、

このローマ期のニヴァタエ・nivatae・雪が降る、からより進化した形に
移行するには、16世紀迄の長い期間を待つ必要がありました。


そして16世紀のイタリアはフィレンツェに舞台が移り、

フィレンツェの家禽商ルッジェーリ・Ruggeriは、メディチ家宮廷が
主催した、もっとも独創的な料理発明のコンクールで優勝し、

彼の「砂糖と香りの水を加えた氷」は大成功をおさめ、
ジェラートの元、というよりはシャーベットにより近い様に思うのですが、

1533年に後のフランス国王となるアンリ・オルレアン公との結婚式に、
後の王妃カテリーナ・ディ・メディチ(1519ー1589)は、このお菓子を、
いや、お菓子のレシピを持つ製造者をパリに連れて行ったのだそうで。

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このジェラートのお話は世間一般に伝えられているものの、
公式の記録は殆ど無いのだそうで。

で、あれ、この家禽商をカトリーヌがパリに、というのは、
書いた覚えがあるぞ、と探し、
その後ルッジェーリがどうしたか、の後日談もどうぞ。

カトリーヌ・ド・メディシスが、フランスお輿入れに持ちこんだお菓子は
https://www.italiashiho.site/archives/20211204-1.html


で、このルッジェーリと同じフィレンツェ人市民、職業は建築家である
ベルナルド・ブオンタレンティ・Bernardo Buontalentiの2人は、

父子権を争っていた、というのですが・・?! 同じ女性?! むむ。
が、まぁ、ここではひとまず置きまして、(へへ、・・探してみよう~っと)

上記のルッジェーリの勝利とは別に、

このベルナルド・ブオンタレンティ(1531-1608)は、新しいレシピを
コジモ1世に提出。

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牛乳、卵黄、蜂蜜、ワインで作った冷たいクリームにベルガモット、レモン、
オレンジの風味を加えたもので、

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多分こちらが今のジェラートにより近いものではないかと。

フィレンツェを訪れた神聖ローマ帝国皇帝カール5世にも差し上げられ、
圧倒的な成功をおさめたと。


このブオンタレンティという方、姓の意味は「優れた才能」となりますが、
まさに名は体を表すという方で
建築家、彫刻家、画家、軍の技術師、美術監督、と幅広い活躍で、

メディチ家宮廷において、コジモ1世の大宴会における取り仕切り、
またボーボリ庭園に今も名の残るブオンタレンティの洞窟、もあり、

16世紀半ばの重要な芸術家であり、フィレンツェのマニエリズムに於いて
キー・パーソンとでもいう人で、ミケランジェロとの繋がりも強かったと。



所で、当時の大きな技術的問題は氷の生産で、

裕福な階級により贅沢なもの、と見なされていたものの、同時に食品の
保存や、病院活動に不可欠な製品であり、

イタリア半島全体で、貴重な要素を保存する為の努力がされたのですね。

例えばサルデーニャ島では、16世紀から19世紀にかけて、季節労働者は
ドムス・デ・ス・ニエ・domus de su nie・雪の家、に蓄えられ凍った雪を
ゲンナルゲントゥ山地から平原に運び、ブロックで転売し、

シチーリアでは、冬の間、雪はネヴィエーレ・neviereと呼ばれる自然の
空洞に蓄えられ、その後に馬車で町に運ばれ、
灰とシダの層で断熱されたそうで。

トリノの状況は複雑で、街の下層土には街を守るために建設された
トンネルが通っていて、

1753年に遡る地図に、パルタ・パラッツォ地区には、夏にアルプスから
運ばれた氷のブロックが保管され、その後市場の売り手が使用する
区域があったそう。


トリエステのカルソ・Carso・石灰岩地形、トリエステ東の山中
スロヴェニア国境近くのドラーガ、サンテーリアが有名で、
18世紀から発展。

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池の近くに、深い石造りの井戸が掘られ、

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そこから80x20cmの氷のブロックが切り出され、特定の種類の
斧と鉄のフックで抽出され、

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この写真は「ヴェネトの氷」という本の写真。 かって氷河の氷を
切り出し使っていた様子で、やはりこんな鉤・フックを用いた様で。


氷のブロックはジャゼーレ・jazereと呼ばれる井戸近くの貯蔵所に、
乾燥した葉と交互の層で保管を。

当時の1キロの氷は1キロの肉と同じ価値を持つ可能性があり、
最大の買い手は市内最大のビール醸造所のドレール・Dreherと、
病院だったそうで。

氷を積んだ荷馬車は夜明け前に高原を出発しトリエステに向かうのが、
目的地に到着する前に、道路でキャラバンを待っていた肉屋に
全て売り払ったとか!


一方、人工氷の製造は錬金術の問題で!!

中世以来、天然の氷に硝酸カリウムを加えて作られた。 というと、
かさを増す方法かな?

で、もう一つの添加物は二酸化硫黄で、温度を-30度Cまで下げたそうで。

1626年には、サントーロなる男が雪に食卓塩を1:3の割合で加え、
同じ結果を得ることが出来た、というのですが、
塩の値段はどうだったのでしょうかね?

一方1597年に、ガリレオは温度計を発明し、完全な投薬を可能に
したそうで。


そして最初の冷凍機、つまりシャーベット・ジェラートを作る機器は、
コーティングされたテラコッタの円筒状で、中に氷と化学成分が入れられ、

現在残る、小さなもので、

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ジェラートの売り手、1700年。 上のとよく似ていますね、
つまり一番原始的な形かと。

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製品が結晶すると、それをヘラでかき集めたそうで。



こちらは1900年代になってのもの。

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その後、より細かい、口当たりの良いジェラートの製造を容易にする為、
クランク・手回しハンドル、ピストンなどの往復運動を回転運動に替える、
が導入されます。

この写真は、19世紀後半ナポリの、ジェラートと飲み物売りの屋台。

16-gelataio-napoletano-con-la-sua-bancarella-di-_GF.jpg


そして一方、ジェラートの歴史は移民の歴史にも通じ、

有名な所では、シチーリアの漁師だったプロコピオ・デ・コルテッリ・
Procopio de’ Coltelliは、祖父のフランチェスコが発明した氷を作る
機械を完成させた後、飛躍する事を決意し、パリに。

そして1686年、彼はフランスの首都で最も人気のある場所となった
カフェ・ル・プロコーペ・cafè Le Procope をオープン。

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凍った水・グラニータ・カキ氷と、後に定番となったレモンや、オレンジ・
ジュースのジェラート、果物のジェラートが味わえ、

後にアニスの花、シナモン、プルメーリアなどの味も加えられ、

ルイ14世に、この場所にこれらデザート生産の独占的な許可を
与えられ、

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店はレストランも開店し、現在も通りの名は変っても同じ場所に、
ずっと開店している様子。
住所は 13 rue de l’Ancienne Comédie

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こうした大成功の移民とは別に、ヴェネト州のカドーレ一帯からの
住民に代表される貧困による移民は、

19世紀終わりのヴェネツィア共和国の崩壊により、人々は深刻な
経済的危機、および人口危機に直面し、
春から夏の終わりに、オーストリアはハプスブルグ帝国の領土を通り抜け、
屋台を引いた露天商のジェラート屋として北に移住したのでしたが、

彼らはこれまで富裕層向けに意図されていた製品の普及に、大いに
称賛に値する働きをしたのですね。

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実際、我がコネリアーノの町にもしっかりその伝聞が伝わっており、
あの店はオーストリアにもある、とか、今も向こうに店を持っているとか、
たくさん聞きましたし、

あのダムの崩壊で浚われ、壊滅したロンガローネ・Longaroneの町は、
ジェラートの大きなお祭りで有名なのですね。


ロンガローネ、 54年前のダム出水大災害のまとめを
https://www.italiashiho.site/archives/20170727-1.html

ティツィアーノの生家博物館 ・ ピエーヴェ・ディ・カドーレ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467641435.html

ティツィアーノの生まれた町 ・ ピエーヴェ・ディ・カドーレ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461664802.html



ジェラートは18世紀迄は、貴族の好奇心と誇り、でしたが、
新しい植民地時代の飲み物、紅茶、コーヒー、ココアの普及のお蔭で、
その瞬間から黄金時代となり!

チョコレート  ヨーロッパを魅了した高貴な飲み物
https://www.italiashiho.site/archives/20221220-1.html


その後のコーヒー・ハウスはヨーロッパ中に栄え、そこでは新しい飲み物や
ジェラートを味わえ、啓蒙主義の知識人や勇敢なファッショニスタが
出会い、新しい富を築いたのでした。


ヴェネツィアにも「フロリアーン・Caffè Florian」が1720年12月29日に
オープンし、

かのジャコモ・カザノーヴァは回顧録の中で、最も人気のある味は
ココア、コーヒー、レモンであると語っているそうで。

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レモンは、「レモン・フロスト」でもサーヴィスされ、果肉が取り除かれ、
シャーベットが代用されたそうで、これは取り分け夏に人気でしょうねぇ。

更にジェラートは大変な人気で、劇場でも眞熊の間に、露天商により
提供されたと。



が既に17世紀終わりには、スペインのナポリ総督の料理長であった
マルケ出身のアントニオ・ラティーニ・Antonio Latiniが、

「現代の彫刻家・Lo scalo alla moderna」なる、つまり宴会を
上手にアレンジする技術の本を出版しており、

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テーブルへの果物を如何に効果的に見せる切り方、ですねぇ、

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レシピの中には、柑橘系の果物や松の実の古典的なものに加え、
ナスやカボチャの風味などの珍しいものもあり、



また1891年には、美食家のペッレグリーノ・アルトゥージ
Pellegrino Artusi、この方はイタリア料理の父と見なされているそうで、

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「キッチンの科学とよく食べる芸術・La scienza in cucina e l’arte
di mangiar bene」を出版。

この本は、イタリア統一後の最初の地域レシピ集なんだそうで、


デザート辺には、ヌガーや栗のジェラート、泡立つティー、つまり
ティー味のムース、現代のアイスクリーム・ケーキの様な一品も。

こちらは、コーヒー・ムースで。

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写真は1920年頃の、3人姉妹がジェラートを楽しんでいる場面。

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そしてまた一歩進み、歩きながら食べるのにぴったりな、
コーンの発明がありました。

つまりそれまではコーヒー・ハウスでも、露天のジェラートでも、
器に入れたものであり、食べた後は洗う必要があった訳で、


コーンの発明については幾つかの説があり、一番よく知られているのが、
米国に移住したイタリア人、はい、またイタリア人のイタロ・マルキオーニ・
Italo Marchioniが1903年にコーン製造用機械の特許を取得しており、

またジョヴァンニ・トッレ・Giovanni Torre, リグーリア人が最初の
ワッフルを生産する為の最初のオーブンを設置し、
1919年のトリノ博覧会で発表されたと。


shinkaiの記憶にある昔のコーンは、こんな風に薄くパリパリした
感じのが多かったように思うのですが、

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現在のは、殆どこんな風に厚手でがっしり感があり、ジェラートを
食べている間はしっかり崩れない、というのに変わってきた感じで、
こちらが多分ワッフル式の物だろうと。

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でイタリアの店先でジェラートを、あれ、これと注文する時は、
何と何をいくつ、コーンか、カップかを言って注文しますから、
ワッフル苦手感あるshinkaiめは、紙カップの選択を。


こうして1900年代初めから、ジェラートは街中で舐める、ものともなり、
いとも手軽に味わえ、楽しめるものとなったのですね。


ジェラートの味の多様さの研究は今も絶え間なく続き、様々な味、
ゴルゴンゾーラのチーズ味や、木炭味もあるそうで、

人間の食欲への旺盛さは、様々な発展を遂げつつ、高価な貴族用から、
手軽に庶民の手の届く所にもやって来た、という歴史で、

その折々にイタリア人がしっかり頑張った、という、はは、お話でした。

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日本でも様々なジェラートかな、アイスクリームの高価な品々かな、を
皆さんお好みで味わっておられるでしょうが、

イタリアにお出での時は、どの町でも道脇にいくつも店がある、
それぞれの店の手作り、アルティジャーノ・職人のジェラート
安くて美味しいジェラートをお楽しみくださいね!!


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・ フィレンツェ ピッティ宮  メディチ家夏の住い、内部装飾画の凄さ

フィレンツェはピッティ宮で開催中の「エレオノーラ・ディ・トレド展
の後半を、という所なのですが、

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実は会場に充てられていたメディチ家の夏の住居部、というのか、
以前は、今も?の、銀器博物館部分の壁画に魅せられ、
あれこれ撮りましたので、どうぞご覧下さいね。


「エレオノーラ展」会場は、

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右下の緑部分で開催、全部は使っておらずだったと、

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赤の部分は、ラファエッロのファンの方々ご高覧ご愛用の、
ガッレリーア・ピッティ部。

この地図で見ると、赤と緑部が隣り合っておりますが、
緑部は一階入り口を入って内庭の右隅から入り、
ガッレリーア・ピッティには内庭に添っての奥の階段から上がります。



で、エレオノーラ展は、先回見て頂いた入り口部の小さな部屋での
彼女の父君の肖像画、ティツィアーノ作、
そしてコジモ1世の大変穏やかな顔の大理石像を見て、


隣の広い部屋に。 こちらが入り口部からの眺めで、わぉ!

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で、この部屋が第1展示室で、サイトの写真を拝借すると、
こんな風に展示されていたのですね。

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私めは今回ソニーのコンパクト・カメラのみで出かけたのでしたが、
なんと言うか、実際にしっかり撮りたかった絵の細部などは腕の未熟!で。

でも実際に本当に暗めだった部屋内部とか、部屋内の遠景は
良く写っているでしょう?!

実際にはこんなに壁装飾画の色などは見えなかったのですね、へへ。

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で、こちらがこの部屋の展示が無い時の写真で。

7-1-Museo_degli_Argenti_Palazzo_Pitti_Firenze_2008_master_GF.jpg


つまり、先回単純に「だまし絵」とご説明に書いたのでしたが、
それ以上の、未だ見た事のない、か、見ていてもピンと来なかったか、の
迫力ある広がり、的確な建築物描写の凄腕、に驚き、

誰が、いつ描いたかのかを探しまわり、探し回り、見つけましたので!!


まず最初の部屋の天井を。 この天井画の中心をちゃんと撮っておらず、
ピッティ宮のサイトの説明にも載っておらずですが、

どうやら「アレッサンドロ大王の生涯と凱旋」を描いている様で。

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展示物が無く、見えやすかった細部をちょっぴり。

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で、今回ご案内の大広間、見たのは確か3部屋ですが、の装飾は
誰が発注したか、といいますと、


このお2人コジモ3世と、この方は第5代のトスカーナ大公で、
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ、との結婚祝いで、1635年に。

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取り分けヴィットリア・デッラ・ローヴェレは、メディチ家最後の
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの祖母として、

彼女自身もローヴェレ家本家の最後であり、両家の資産を
残し、幼い彼女を教育した人物だった様。

残念ながら2人の結婚は余り幸せではなかったようですが。


アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ公妃が、フィレンツェに残したもの
https://www.italiashiho.site/article/498213935.html


で画家は、アゴスティーノ・ミテッリ・Agostino Mitelli(1609-1660)と

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アンジェロ・ミケーレ・コロンナ・Angelo Michele Colonna(1604-1687)

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の2人で、2人は1632年頃から組んで仕事をしており、ミテッリと共に
スペインでの仕事もで、1660年にミテッリがマドリッドで亡くなるまで
一緒の、良き同僚であった様子。



いわゆる「トランプルイユ・騙し絵」とか、「下から上を眺める」式の
天井画は15世紀後半に発展したもので、

マンテーニャ(1431-1505)の描いた、マントヴァ・ドゥカーレ宮の
天井の丸窓を模したもの、とか、

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ヴェロネーゼ・Veronese (1528 –1588)の描いた、ヴェネト州
マゼールのヴィッラの騙し絵などなどが有名ですが、

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ヴィッラ・バールバロ・ディ・マゼール
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463456543.html

n.1 マントヴァ・Mantovaと、サン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464089512.html

n.2 マントヴァ・Mantovaと、サン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464090033.html

はい、このフィレンツェのピッティ宮に描いた人物の取り込み法などは、
きっとこのヴェロネーゼのマゼールの壁画からヒントを得たのだろうとも
読みました。


そしてこの17世紀となると、バロック期の画家たちが用いた伊語では
クワドラトゥーラ・Quadratura」と呼ばれる、

遠近法と建築空間表現の理論と結びついた技法を使い、
こういう言葉では実際には分かりにくいですが、shinkaiには、へへ、

遠近法を使い、平天井に、実際の建築から続いているように見せる
建築を一点透視図法、で描いたのだそうで、

人物の短縮法、彩色された壁や柱の深い窪み、青空の錯覚を生んだ、と。


確かに、shinkaiめが今まで見た騙し絵よりも、ずっと奥行きが深く、
広い空間を感じさせるダイナミックなもので、驚き、魅せられたのですね。

このピッティ宮のここの壁画が、フィレンツェでは確かこの種の
最初の壁画だったと。


どの順だったのか、少々怪しく申し訳ないのですが、へへ、

この部屋をどうぞ。 多分「個人的な聴聞室、夏のアッパルタメント」と。
この高さ、下にチラッと見えるドアの鴨居の高さの上から広がる
この高さと、重なる部屋の奥行!!

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こんな、眺める貴婦人が居り、実はshinkaiは見逃しましたが、
この婦人の左奥に、使用人らしき男性がおり、

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その下の階では黒人の使用人が、豪華なカーテンを開いており、

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右の端では花鉢の花で遊ぶ少年も。 ピン甘ご容赦。

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そして天井中心の丸窓の青空迄の、この遠近と、天井建築の描き方!

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下に見える部分が、実際の部屋の高さなのですね、この凄さ!!



そしてこちらが確か2つ目の部屋だったと思う、
「公開聴聞室、または 円柱の広間」と呼ばれる部屋。

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この円柱の並びが醸し出す高さ、そして空間! 物凄く高いなぁ、
15m位あるかなぁ、とちょうど居られた管理の人と感心したのですが、はは、

実際は部屋の高さは、上の1枚目の一番下の階、迄だったのでしょうねぇ!


そして、単眼鏡で眺める少年。

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説明に、当時のガリレオ・ガリレイはメディチ家のお抱えというか、
幾らか俸給が出ていた様子なのが、

ちょうど「地球は丸い」説を唱え、棄教した、というのがあり、
知らなかったので、そうだったのか、と。



実は一番初めに、この素晴らしい大理石テーブルを眺めて撮り、

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そしてふっと前を見上げると、この年配のシニョーレがおり、ははは、

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これを見つけて以来、あちこちを探す楽しみが出来たのと、

この目前の壁のフレスコ画の描き方の、如何にもさらっと描きつつ
ぴちっと明暗を決め、人物の肌、衣装の肌合い、物質感の凄さも
改めて眺めたのでした。

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だってフレスコ画というのは、本当に一発勝負式なので、
明暗の色調合だけでも大変だろうと思い、

きっと工房にはたくさんの弟子、小僧を抱え、それ専門の
教育も施しながら、一方で各注文主の希望を聞きつつ、ね。


描いた壁の装飾にも、金線、金塗りで豪華さを際立たせ、

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いやはや、恐れ入りましたぁ!の凄腕の画家作品で、
天井の高さに足場を組み、フレスコ画で、その上に広い空間を作る、
というのは、どれ程の下準備をするのだろう、と!!

サイトによると、フレスコ画で、テンペラ技法の使用も、とあり、
一日に描ける量を考えると、はぁ~と、見る方は溜息を。



そしてもう一つの部屋の天井画を。

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この2人物像は、どこで見つけたのか記憶になく・・。

ですが、ちゃんと彼らの周辺、背後にも空間が広がるのに、はぁ・・。

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そして、サイトで見つけた、shinkai見落としの2少年像を。

オウムと遊ぶ少年と、

27-2-Udienza-privata1_GF.jpg


サルと遊ぶ子。

27-3-udienza-pubblica3_GF.jpg


次回にフィレンツェに、ピッティ宮にお出かけの時は、是非こちらにも
お出かけの上、探し物の楽しさもどうぞ!



先回の「エレオノーラ展」ご案内では、彼女自身の肌着などをご覧
頂きましたが、
今回は、どうやら同時代の他の貴婦人の衣類の再製と思われるのを。

赤い裾引きの、かなり豪華な金糸テープが付いた豪華なもの。

28-DSC00837_01_GF.jpg


そして、同じ布の部屋履きかな、の付いた、黄の縞織衣装。

29-DSC00843_02_GF.jpg

30-DSC00844_01_GF.jpg

ですが、いつも映画でスタイル満点の女優さんが着ているのを見過ぎ、
はぁ、こんな実物が余りカッコ良いとは思えず、申し訳なく。



最後は、フレスコ天井の凄い部屋を過ぎ、裏側の様々な
宝物の間を通り抜け、はぁ、興味がなく、済みませんです、


突き当りの最後の部屋の天井で、こちらは多分もっと後年の物、
ロココ期なのかな、でしょうが、

31-DSC00887_01_GF.jpg



窓の前の造りがこんな風に、つまり部屋の中に泉があり、
窓辺に行く、この段の優しさというか、ロマンチックというか・・!

32-DSC00888_01_GF.jpg



という事で、最初の部屋を再度覗いて、お終いに。

33-DSC00880_01_GF.jpg



ブックショップも覗いた後、内庭の奥から入り口側を。

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外に出て、建物端の柵越しに見える、洞窟・グロッタをちらっと見、

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ピッティ宮前から見えた、ドゥオーモのクーポラ頂上を。

36-DSC00714_01_GF.jpg


長いお付き合い、有難うございましたぁ!

お楽しみ頂けましたように!!


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・ エレオノーラ・ディ・トレド ・ フィレンツェ公爵コジモ1世妃

先週フィレンツェのピッティ宮で開催中の
エレオノーラ・ディ・トレドと、フィレンツェのメディチ宮廷の発明

1-DSC00898_01_GF.jpg

を見に出かけ、ほんの少ししか知らなかったピッティ宮内も再度
見れたチャンスと、
ちゃんと見たかったアーニョロ・ブロンズィーノの絵もしっかりと!



ですが、さてこうしてブログに取り上げるとなると、何を、どの様に、と
悩み、結局余り知らなかった展覧会の主人公であった、
エレオノーラ・ディ・トレドについてのみに絞ろうと思います。

皆さんも、きっとブロンズィーノが描いた彼女のこの肖像画は
ご存じと思いますし、

2-bronzino-ritratto-eleonora-di-toledo-e-figlio-giovanni_GF.jpg

彼女自身もこの肖像画により、不滅になったと思える素晴らしい絵。


勿論shinkaiめもパシャパシャと細部もしっかり撮ったのでしたが、
なにせ照明がきつく、油絵だと反射しやすく、顔の色も違ってきますし、
手持ちのコンパクトで気軽に取れるものの・・、うう~んという出来も多く、

エレオノーラについての記事を探していて見つけた

力の優雅さ。 ブロンズィーノのエレオノーラ・ディ・トレド
L'eleganza del potere. Il ritratto di Eleonora di Toledo del Bronzino

に、まさに私めが軽~く負けた写真があれこれ見つかり拝借を。

他に参考にしたサイト記事は
エレオノーラ・ディ・トレドについて、貴方が知らなかった5つの事
5 cose che non sapevi su… Eleonora di Toledo

エレオノーラ・ディ・トレド:ヴェッキオ宮の最初の女性
ELEONORA DI TOLEDO: LA PRIMA DONNA A PALAZZO DELLA SIGNORIA

そして夫々の細部事項については、例によりウィキペディアより。


エレオノーラ・ディ・トレド・Eleonora di Toledo (1519-1562)
本名はもっともっと長く、スペイン生まれのスペイン人。
 
10歳を過ぎた時、父のペドロ・アルバレス・デ・トレド侯が1532年から
ナポリ総督、スペイン副王として一家はナポリに移住、という経緯。


父君の肖像。 今回の展覧会に展示で、ティツィアーノ作

3-Eleonora-di-Toledo-Uffizi-mostra-_GF.jpg


実はこの方、先回のブログで「シエナ共和国の最後」を書いた時、
フィレンツェ側への兵力応援の件で出てこられた方で!

自身もフィレンツェに来られたのが、その後暫くして亡くなられ、
エレオノーラが即ナポリに、肖像画を注文した、というその実物が
同会場にあったのですが、

それがなんとも、このティツィアーノ作を入り口近くで見た後、
いや、見なくとも、大きいものの、酷い絵で!

逆に改めての、ティツィアーノの絵の良さが際立つ、という事で、
当たり前ながら、いぇえ、勿論撮っておりませ~ん。



エレオノーラ・ディ・トレドが、フィレンツェ公コジモ(1519-1574)と
サン・ロレンツォ教会で結婚したのが、1539年6月30日。

が、コジモ1世が最初から彼女と結婚を、と望んだわけではなく、


最初は、神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王であるハプスブルグ家の
カルロ5世の庶子、オーストリアのマーガレットと、

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先代の暗殺されたフィレンツェ公アレッサンドロ・ディ・メディチの
妃で未亡人、と結婚したいとカール5世に表明したのでしたが、

皇帝は娘の為に別の計画を立てており、コジモにナポリの大変裕福な
副王ペドロ・ディ・トレドの長女イザベッラはどうかと。

所がフィレンツェのナポリ大使からの返事は、「とても醜く、頭脳は
ナポリの嘲笑」とあり、 ・・はは、と笑ってはいけませんが、

次女のエレオノーラは、「美しく、新鮮で、薔薇の様にカラフル」と。

で、コジモは強く次女を希望し、最終的に父君が折れ、という事で!

勿論当時の結婚は政略結婚で、利害関係が最初に来るもので、
実際にエレオノーラの婚資は長女に比して少なくはなったものの、

それでも政治的にも資金が幾らでも欲しいメディチ家当主に、
新生国家の成長に非常に役立つ影響力の大きな親族関係も
もたらした、大きな幸運を運んできた女性であり、

出会った2人の間の愛はすぐ猛烈に燃え上がり、これは当時の
結婚としては大変珍しい事でもあり、良かった、よかった!!

結婚当時の2人は、コジモ20歳、エレオノーラ17歳。
若い2人だったのですねぇ。


となると、当時のフィレンツェ、そしてコジモについてのお話も少し。

彼は、「ルネッサンス最後の傭兵隊長」と呼ばれた軍名名高い
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ・黒旗のジョヴァンニとも呼ばれた
(1498-1526)と、

6-Gian_Paolo_Pace,_detto_l'Olmo_-_Ritratto_di_Giovanni_dalle_Bande_Nere_-_1545_GF.jpg



マリア・サルヴィアーティ(1499-1543)との間の1人息子。

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コジモの祖母、ジョヴァンニの母が、「ルネッサンスの女丈夫」と
呼ばれたカテリーナ・スフォルツァでもあり、メディチ家傍系ですが、

この方の素晴らしい逸話をご存じですよね?

城が包囲され、明け渡さないと人質の息子を殺すぞ、と言われた時、
砦の上に立ち、スカートをパッとめくり、「息子くらい、何人でも生める」
と言ったという方で!!

母方からいうと、マリア・サルヴィアーティの母親が
ルクレツィア・デ・メディチで、
かのロレンツォ・イル・マニーフィコの娘という本家の流れ。


で、アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺された時、
母親のマリア・サルヴィアーティとフィレンツェから離れた山中の
ムジェッロ・Mugelloの要塞で過ごしていた当時17歳のコジモに、
フィレンツェ代表から迎えが行ったのですね。

父親のジョヴァンニは、コジモの顔を見た事があったのかどうか、
という程に戦闘に明け暮れた毎日で、
コジモが僅か7歳の時に鉄砲傷からの破傷風、壊疽で亡くなっており、

フィレンツェの政府側としては、わずかな従者を率いて街に出て来た、
若く、礼儀も良く、大人しそうな若者、
狩りと女に熱中するだけの若者であれば御しやすい、と思ったのでしょうが、

なんの何の、祖母のカテリーナの血、若くして亡くなった父の血と
闘志をしっかり引いたコジモで、

権力を与えられるや否や、アレッサンドロ暗殺に関わったロレンツィーノの
継承権を除外、評議員を追放し、絶対的な権限を継ぎ、
17歳で公爵位を。

19歳のコジモ。 ブロンズィーノ作

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そして、ポントルモ作。 お気に入りの黒い衣装で。

8-1-Pontormo-Portrait-of-Cosimo-Medici-I-768x1009_GF.jpg
 
きっと惚れ惚れする、メディチ家の若様、だったのでしょうねぇ!



こうして3年後に、財産豊かな、若く美しい花嫁を得て、
街の政権も握り、現在のトスカーナの大部分を支配する位置に。

さて、前置きが長くなりましたが、ではいざいざ、ピッティ宮に!

9-1-palazzo_pitti_facciata_GF.jpg

このピッティ宮は、かってのメディチ家に対し謀反の狼煙を上げた敵、
その名の通りピッティ家がメディチ家以上の建物を、という事で建設を
始めたものだそうですが、
結局滅び去ったままになっていたのを、メディチ家が買ったものと。


つまり、どうだ、これでもか、という様な意気込みが感じられるせいか、
あまり好きな建物ではなく、失礼、

9-2-DSC00711_01_GF.jpg


でも上を眺めると、それぞれの石が綺麗に並んでいる訳でもなく、面白く、

9-3-DSC00713_01_GF.jpg


ライオン君達が、それぞれに顔をしかめて見せてくれ、ははは、

9-4-DSC00712_01_GF.jpg



若い新婚の2人は、現在の「メディチ・リッカルディ宮」に住んだものの、
じきに手狭となり、

メディチ・リッカルディ宮 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html



当時シニョーリア宮と呼ばれていた現在の「ヴェッキオ宮」に移住します。

n.1 フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595223.html

n.2 フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595718.html


ダンテの時代よりシニョーリア宮は行政官、執政官のみの住まいで、
女性が足を踏み入れる事は無かったのだそうで、憤慨する者もおり、

が、若い2人は意にも介さず、建物の中はひっくり返され、
修復され、装飾され、
公爵夫人は行政長官のアパートに住み始め、

最上階のテラスは徐々に子供達で埋まり始め、

これは明確な街の市民達へのメッセージ、
「メディチ家は今や唯一の支配者」と。


こうして約10年経ち、エレオノーラの才覚による新たな富により、
さらに拡大する時が来て、

中世の部屋には十分な光や健康的な空気が入らず、街の壁の外、
アルノ河の向こう、田舎のボーボリに引っ越すことが必要となり、

経済的才覚豊かな侯爵夫人は必要な9000フローリンを引き出し購入し、


コジモは修復、建て増し、装飾に必要な芸術家を召喚し、建物は徐々に
庭園とレモンの木立に囲まれて行きます。

10-1-DSC00892_01_GF.jpg



今回の「エレオノーラ展」の会場は、入り口を入って直ぐの左側1階、
「大公、王のアッパルタメント」が会場となっており、

ご覧の様に大変に天井の高い大広間で、全てが騙し絵のフレスコ画で
埋められており!

10-2-DSC00718_01_GF.jpg



こんな風に、エレオノーラのあの肖像画が迎えてくれ、

10-3-DSC00723_01_GF.jpg


部屋の騙し絵の素晴らしさに見惚れましたので、これはまた別のご案内、
という事でお楽しみに!



新婚当時から、コジモは「彼女をとても愛しているので、彼女なしでは
どこにも行けない」

「公爵と侯爵夫人はお互いに恋をしていて、一方が他方なしでいる事は
決してありません」と。


メディチ家に入った最も魅力的で美しい花嫁で、繊細な特徴を備えた
完全な卵型の顔、広い額、細いまつげ、コジモを魅了した目は大きく暗く・・。

金髪で青い目、と書かれたものもあるのですが、
濃い赤毛、かもしれませんが、ブロンズィーノの絵を見る限り茶色の瞳に
描かれており、

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いずれにしても、コジモは恋に落ち、彼女に忠実で、そして尊敬していた、と。

この作品に見える真珠のネックレスは、コジモの母親、(コジモからと
書かれたのもあり)結婚のお祝いに贈られたものと。



彼女はとりわけ真珠が好きだった様で、それについては金細工で有名な
ヴェンヴェヌート・チェッリーニが書き残している面白い逸話があり、

ある時チェッリーニは公爵夫人に呼ばれ、出入りの商人からの何連もの
真珠のネックレスが欲しく、それを公爵に「良いものだからどうぞ」との
口添えをしてくれ、と頼まれたものの、

明らかに大きな欠陥のあるネックレスで、引くに引けず、かといって
嘘を公爵に言う訳に行かず、冷たい目で睨む公爵夫人に背を向け、

公爵に、涙いっぱいの目、低い声で、口添えを頼まれましたが、
これは良いものとは言えません、と言ったのだそうで。

結局公爵夫人は真珠を手に入れたものの、ははは、
夫婦間のもめ事もあり、ははは、

それ以来、チェッリーニがお伺いすると、公爵夫人は留守で、
公爵の方は喜んで迎えたのだそうで!!



そして結婚指輪の無いのに気が付かれましたか?

11-2-dettaglio-mano_GF.jpg


指輪が描かれた肖像画もあるそうですが、素敵な指輪で、
彼女はとても大切にしていたそうで。


所で有名なこの肖像画の衣装ですが、実際にエレオノーラの高価な
衣装であった訳ではなく、

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ブロンズィーノが見本を取り寄せ、意匠を考え描いたのだそうで、

青いバックの色と白は、エレオノーラの家の家紋の色であり、

右下に見えるクッションの赤と金色は、メディチ家の色なのだそう。



子供の衣装も、濃いめの青に金糸の織り込みのようで、

11-4-dettaglio-giovanni_GF.jpg


衣装下のシャツの刺繍なども、専門の職人か、それとも母親自身
大変素晴らしい手芸の技を持っていたと。



妻に対する夫の愛情はともかく、フィレンツェ人の感触は違い、

というのも、彼女は幼い頃から与えられた厳格な教えで、
非常に傲慢な態度を欠く事はなく、

スペイン人のお付きに囲まれ、スペイン語で話しながら、
街を行くのもベルベットのお輿に乗ってで、か、馬に乗ってで、

街の人々と、庶民と交流する事はなく、あっても非常にまれだったと。

そして彼女の子供達の名前も、イザベッラ、フェルディナンド、
ガルツィアと、彼女の母国との妥協点スレスレであり、

フィレンツェ人の目には、彼女が不快で、無関心になった
全ての態度なのですね。


今回彼女についての私めの関心をひきつけたのは、イタリア語を
話さなかった、というのを読んでで、

本当に?!と知りたかったのが切っ掛けだったのですが、

確かに余り喋る事もなく、いつもスペイン人お付きに囲まれていた様子。

最も夫のコジモとの日常会話はイタリア語だったのだろうと想像しますが、
確かな事は分かりません。

かといって、彼女が庶民に対して示した寛大さの証拠には事欠かず、
莫大な施しをし、困窮している少女の持参金を作のを援けたり、
教会、修道院、援助団体への支援も勿論で。


夫との仲は睦まじく、コジモとの結婚中の激しい愛の証拠として、はぁ、
18歳から32歳の間に、11人の子を産みましたが、

その中で長生きできる幸運な子が殆どいなかったのは、不運でした。

ここには8人の顔のみの小品が並んでいて、

12-DSC00754_01_GF.jpg

多分まだオムツの時に亡くなった3人が、ピエロ、アントニオ、
アンナが描かれていないのだろうと。


今回一番に取り上げられている、青の背景の豪華な衣装の肖像画でも、
隣にいる子は、一番上の子ではなく、2番目のジョヴァンニ、で。

フェッラーラ領主との結婚直後に熱で亡くなった、夫の殺害された、
ともいうルクレツィア、

マリーア、ジョヴァンニ、ガルツィアも、母親エレオノーラとのマレンマの
旅行中にマラリア熱で亡くなり、

この時に唯一生き残ったフェルディナンドが、後に兄のフランチェスコ大公の
謎の死の後に大公位を継ぎ、家族の中で唯一長生きをしたのでした。


イザベッラは、家族の中で元気で明るかったのが、パオロ・オルシーニとの
結婚後の、夫の従弟との関係で夫に殺され、
一家の女性達の中では一番の長生きだったものの、結局生き残れず。


今回の展示会の趣旨説明に、エレオノーラは夫と同じくらいに野心的で、
夫と協力し、とありましたが、

確かに模範的は妻であり、母であり、コジモのしばしばの嵐と浮き沈みを
和らげることが出来、

13-bronzino-ritratto-cosimo-i_GF.jpg


公爵の不在時に政府を巧みに管理できる女性で、

例えば長く続いたシエナとの戦争時には、彼女は政治とビジネスの
素晴らしい感覚を示し、

自身でピッティ宮殿と周辺農場の交渉と購入を管理し、
不動産や土地への慎重な投資を通じ、財政を強化するという彼女の
方針に大きく依存。

穀物と資料の取引管理のみでなく、投資を賢明に多様化し、
幾つかの例を挙げると、魚、蜂蜜、絹用の桑栽培、牛乳とチーズ用の
子牛、羊の飼育、鉱山等などと。

家の名を飾る為の金銭でない限り、家計に必要な経費の管理を
きっちりと行い、

小さな近代的な国立銀行の様に、フィレンツェの公的債務の帳簿を
購入する事さえし、

コジモ自身が彼女から多額のお金を借りたそうで!

こうして侯爵夫人は良く推測しつつ運用し、上手く行く時は最大
35%も多く稼ぐことが出来たと!

こうして消耗した家運を、長年かけて上昇させたのは彼女だったと。

これはもう、2人の結婚は単なる男女の結びつきではなく、
鉄の結婚だったわけですねぇ。

コジモ1世メディチの胸像の新発見 と、 ニューヨークでのメディチ家展
https://www.italiashiho.site/archives/20210603-1.html


侯爵夫人は、現在のウッフィッツィ館の建設の始まりを見ましたが、
ヴァザーリ回廊を楽しめる迄生きてはおれず、


この時期の肖像画は彼女の苦しみを示しており、

14-DSC00768_01_GF.jpg

この作品はブロンズィーノの弟子の作品。



何年も肺結核に苦しんでおり、当時の冬の辛さはねぇ!

これは鉄のコルセットで、肺結核治療で使われたものだそう。

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展示されていた絹糸の手編み室内着だったと、それに金糸、銀糸での
クロスステッチ刺繍。

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こちらは衣服の下のシャツ、というか、

19-DSC00805_01_GF.jpg


これにも細かいクロスステッチの刺繍入りで、この襟ぐり部分が
肖像画の襟ぐりの下にチラッと覗く仕組み、のようで。

20-DSC00806_01_GF.jpg



いずれにしても、大変に細かい針目で、膨らみの線も作ったりで、
大変な手仕事!

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こちらは、いわゆる室内履きで、踵がとても高く!

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チョピン、またはショピン、15世紀のサンダル・つっかけは、50cmの高さ迄!
https://www.italiashiho.site/archives/20210628-1.html



他のブロンズィーノの絵もあったのですが、今回は省略させて頂き、

エレオノーラの持ち物として、最後に1品、「金の本」を。

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いわゆる「時祷書」、お祈りの為の小さな本で、掌に乗る
長さ15cm程あるかな、という大きさで、
細密画付きのとても美しい、高価な本で。

撮るのがとても難しく、済みません、ブレ、ピン甘ご容赦。



エレオノーラは、1562年にわずか40歳の若い死を、マラリア熱で
子供3人と共に亡くなりましたが、

喜び、痛み共に大きく、激しい、そして愛に満ちた人生だったのでは
ないかと思います。

24-Cosimo_and_Eleonor_by_Domenico_Compagni.jpg


残された夫のコジモ大公は、彼女の亡くなった後、再婚するも上手く
行かなかったようで、大公位も引き、心臓発作を起こしての不自由な
晩年だった様子。

如何にもの癇癪持ちだったろう表情の、若き日の肖像が
少しの哀れさも伴いつつ、懐かしく感じられたのでした。


*****

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・ フィレンツェ 訪問 3日間 ・ 写真にて要約

先週9日から3日間、久し振りにフィレンツェに出かけて来ました。

第1の目的は、ピッティ宮で開催中の、
「エレオノーラ・ディ・トレドと、フィレンツェ、メディチ宮廷の発明」を、
余り「発明」という意味は分かりませんでしたが、はい、
アーニョロ・ブロンズィーノの絵をしっかり見たく行ったのでした。

そしてもう何年もご無沙汰しているウッフィッツィ美術館を
久し振りにじっくり訪問したく、

ピッティ宮訪問を2回、ウッフィッツィを真ん中の日に挟み、
足が重くなる程行ったり来たり、その間に大聖堂や
サン・ロレンツォ教会にも。

という事で、今日は街中の風景をずらっと並べますので
見てやって下さい!!

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有難い事に、雨の予報が2日目の朝に出会ったのみで、

9日の朝7時50分発の電車で我が町コネリアーノを出発、
10時40分にはフィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅に到着。

11時頃には花のサンタ・マリーア大聖堂前のカフェテリーアで、
なんとまぁ、こんなに多くの観光客が!と驚きつつ、
野菜の小ピッツァと小ビールを飲み元気回復。

鐘楼横の少路を入った所のホテルでチェック・インも出来、
カルツァイオーリ通りを5分程で、シニョーリア広場に。

ヴェッキオ宮。 上の写真は同日午後の写真で、お昼前は曇り空で。


頂上はこんな風に。 アップして見ると、如何にも中世風趣ですねぇ。

2-DSC01090_01_GF.jpg


そうそう、この広場でサヴォナローラが火刑にされたんだったっけ、
場所跡に碑が埋められていたのを、と探し、

下から4行目、FRA GIROLAMO SAVONAROLA と読めます。

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1498年5月23日の事でした。


広場の端、と頭の隅にあったのを、火刑だから、そう隅では無いよね、
と探し、ちょうどネプチューンの噴水のこの位置に。

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ウッフィッツィ美術館の中の通りを突っ切り、アルノ河沿いに出て、

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外の道に出る角に「ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ像」が、
ちょうどの陽差しを浴びて。

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初代トスカーナ大公コジモ1世の父君。 最後の傭兵隊長と呼ばれた、
28歳の若すぎる死でした。



陽を受け、本当に美しいポンテ・ヴェッキオ。 アルノの水が緑に見え。

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ヴェッキオ橋の上から西を。 サンタ・トリニータ橋。

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真ん中飛び出して見えるのが、ウッフィッツィ美術館。

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大勢の観光客が行き来する中、踏まれぬようあっちこっちの鳩君。

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2人のラヴ君が余りにも可愛く、ご主人にOKを貰い撮ろうとすると、
余りにも近より過ぎて、顔だけになってしまったよぉ!

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13時からの予約に12時半過ぎに到着すると、即切符を貰え、
そのまま早めに中に。

「エレオノーラ展」のブロンズィーノの絵もさすがさすが素晴らしく、
会場となった、始めて見た「大公・王家のアッパルタメント」、
入り口左、が物凄く高い天井の部屋、15m程もあるかなぁ、の
騙し絵のフレスコ画が素晴らしく、それが見れたのも儲けものでしたぁ!!

これはまた別にご案内を。

初日は3時間弱で疲れ切り、ぼそぼそと歩いて、ホテル近くの画材店
「ゼッキ・Zecchi」により、羊皮紙1枚と、他の画材もあれこれ買い、



そのままドゥオーモに向かい広場に出て。 

フィレンツェの中心近い道のどこもが、突き当りにこんな風に
ドゥオーモが聳えて見え、

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パカパカと蹄を響かせて、この狭い道を観光馬車が通り。

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今回知った、街中の狭い道を通り抜けるタクシーは、殆どが白い車体と
なっており、クラクションはプ、プ、プ、プ、と鳴り、

パトカーは、木のパーカッション風の、ポコ、ポコ、ポコ、という響き。

一般車もクラクションではなく、音楽風となっており、気付かずのまま
前を歩いており、ははは。


ここに出て来たのはです、この、聖堂一番上の「金の球」が落ちた
場所の白い大理石を見たく!

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1601年1月27日 フィレンツェ聖堂頂上の、黄金の球が墜落
https://www.italiashiho.site/article/498072883.html

を書いた時の写真はネットから拝借で、白い1枚石でしたがぁ、

ほらね、かなりのひび割れが出来ており、やはり落下場所の後に
埋めたのが、下の土埋めが柔らかかったのか、石が薄かったのか、ははは、

今回見たのはかなりの満身創痍でございましたぁ。


位置はこの位置で~す!

20-DSC00917_01_GF.jpg


見えます? 聖堂のここも工事が進んでおり、中には入れましたが、
真ん中の通路のみ通れ、後はロープがしっかり張ってあり、
壁際には行けませんでした。



聖堂前に出てくると、太鼓の音が響き、わぁわぁいう叫びと歌う声!
なんかやってるな、と見に行くと、勿論ね、

どこかのサッカー・チームの応援団が気炎を上げていて、

21-DSC00931_01_GF.jpg

SIVASSPODかな、チーム名が読めず、どこのチームなん? 
と思っていましたら、


翌朝ニュースで、フィレンツェ対トルコのXXは、1-0で
フィレンツェの勝ちと!
フィレンツェ・ヴァ・ファン・クxx、と歌ってたけど、
ダメだったのね、ははは。


その後ろには、15人程もの警察の方々がね。

22-DSC00939_01_GF.jpg


まだ夜ご飯には早いので、ホテルでシャワーを浴び、元気を出し、

メディチ家礼拝堂近くの中華料理屋さんで、味噌ラーメンと、
お豆腐と野菜の焼き炒めを。 元気回復!


メディチ家礼拝堂にはこの近さで、

23-DSC00947_01_GF.jpg


2009年だったか、1週間近く滞在の宿はこの隣で、せっせと
この中華料理屋に通ったのでしたが、

その後に行った店は見つからず、ここは今も健在でしたので、
今回はここに2度。 

年のせいで大食できず、以前の様にイタリアのレストランには
行けずとなり、楽しみが一つ減りましたが、まぁ仕方ありませんね。

口も胃袋も、中華料理屋が良い、と申しますので、ははは。


フィレンツェの以前のご案内はこちらから。
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834440.html


夜の聖堂と、洗礼堂。 まだまだ人々で賑わっており。

24-DSC00949_01_GF.jpg

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翌朝6時半前、雨がやっと上がった様な濡れた道に出て来て、
少路の奥の古い造りの家を撮り、

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歩き出し、角を曲がった途端、パッと街灯が消え、あれマ。


聖堂の向こう角のバールの灯。

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それでも何とか雨上がりなので良しとし、

31-DSC00972_01_GF.jpg


ヴェッキオ宮、ヴェッキオ橋の方角に向かいます。

「古くからの、豚の丸焼き店」のウインドウにゴロンとデカいのが!

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メルカートの屋台店もまだまだ閉まったままで。

33-DSC00983_01_GF.jpg



ヴェッキオ橋の手前に来ると、橋の中ほどにパトカーが停まり、
こちらに向けライトがこうこうと!

立て札で隠して撮りましたが、これで貴金属宝石店は安全ね。

34-DSC00994_01_GF.jpg


鳩ちゃんがひとり。

35-DSC00995_01_GF.jpg



ショーウィンドウの、厳重な店じまい。 中世以来の造りは変わらず、
という所でしょうか?

36-DSC01000_01_GF.jpg



1軒だけ、ウインドウが覗ける店があり、こんなバッグが。

37-DSC01020_01_GF.jpg

如何にもお高そうですが、若い女の子には手が出ずでしょうし、
少しお年が行った方の趣味に合うのかしらん?



橋の先っちょで戻って来て、アルノ河沿いの、ヴァザーリの通路の下の
トンネル・アーチの道。

わぁお、初めて誰ぁれもいない通路を見たよぉ!!

38-DSC01045_01_GF.jpg



上の窓から漏れる光りで、どうやらホテルらしく、素敵な天井画が!

39-DSC01051_01_GF.jpg



アルノ河沿い街灯の足元は、こんなゴツく可愛いアンヨなの、ご存じですね?

40-DSC01055_01_GF.jpg



これは2日目に行ったウッフィツィの3階からですが、

41-DSC01547_01_GF.jpg

ご覧の様に、中の通路が、左側2か所、右1か所と工事だらけ!!

今回の見学で知った様に、内部展示室が素晴らしく広くなり、
有名画家の作品がそれぞれに集められ、XXの部屋、となっており、
きっとその為の整備がどしどし進んでいるのではないか、と。

新しいレストランも出来る、というニュースがありましたから、
きっと素敵でしゃれた、高級レストランが入るのではないか、と・・!


東側の通路は、ずっと長いまま通れるようになっており、

42-DSC01057_01_GF.jpg


こんな風に、突き当りにヴェッキオ宮の壁が。

43-DSC01060_01_GF.jpg



ヴェッキオ宮入り口。  右側の像も現在修復中で。

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はい、ダヴィデ君はお変わりなく。

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広場にある、コジモ1世の騎馬像も現在解体修復中。

46-DSC01087_01_GF.jpg


こんな感じで~す。

47-DSC01738_01_GF.jpg



間の細い通路をず~っと抜けてゆくと、ホテルのすぐ脇に出るので、
大体戻りはこの道を通り、

八百屋さんの店先では、品揃えが始まっており、

48-DSC01091_01_GF.jpg

若い赤毛の女性が素晴らしく美人でしたがぁぁ・・。



最初に通った時、この古い長半円の塔がホテルになっているのは
聖堂の上から見て知っていたものの、この道筋にあるとは!

49-DSC01093_01_GF.jpg



2日目のウッフィツィ美術館は8時半から1時前まで粘り、
カメラのバッテリー2本消耗した所で、空腹と共に引き上げましたが、

ああ、なんと充実した、嬉しい時間だった事!!

ウッフィツィ美術館の新しい整備は素晴らしく良く
と申し上げますです!!


ホテルへの戻り道で買った、魚介の揚げ物が多すぎ、でも美味しくて
しっかり平らげ、小ビールも1本飲み、ゆっくり休み、出かけます。


花のサンタ・マリーア聖堂にまず。 でもですねぇ、表の装飾は何とも
見事で素晴らしいですが、

中は如何にもすっきりし過ぎで、シエナのあの見事な床象嵌を最近
見た目には、あれま、これでお終い? という感じで、はい、正直な所。


鐘楼も、聖堂の上にも既に上がった経験ありで、良かったぁ、
今だったら、きっと辛いよね。 物凄い列だったし!

50-DSC01705_01_GF.jpg



素晴らしい青空でしたが、風がきつく!

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ほらね、上で叫んでる人がいるでしょ? ははは。

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西日を浴びて、あちこちがキラキラ光るのですよぉ。

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聖堂斜め前の、ロッジャ・デ・ビガッロも現在修復中ですが、
その角隣の店のショウウインドウ、派手派手キラキラで可愛いぃ!!

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気に入ったのはこの子。

56-1-DSC01732_01_GF.jpg



お昼に例の中華料理屋に行き、餃子、蟹豆腐汁、エビの甘唐揚げ
を美味しく頂き、


サン・マルコ博物館も暫くご無沙汰だっけ、と行ったのでしたが、
残念、あと15分で閉めます、という時間で入れず、次回には。

意外に、メディチ家礼拝堂、メディチ・リッカルディ宮と道が近く、
戻ってサン・ロレンツォ教会に。

その道筋で見た、ゴミ収集容器にあったポスター。

56-2-DSC01953_01_GF.jpg


近すぎる!」 とあり、何かと思ったら、すぐ横に駐車するのが
近すぎると、ゴミ収集が手早く出来ません、という訴えで。

ご苦労様です! 訴えの写真も可愛く、ちゃんと離れて止めるんで!



夕方のアルノ河の空を撮りたく、またヴェッキオ橋迄。
でもね、黄昏の色が薄めで、それにまだ南に離れての落日で、
どうやら望み薄と思いつつ、待ちます。

57-DSC01755_01_GF.jpg



それにね、まだカヌーの練習にも寒く、やっと1艇のみが行ったり来たり。

58-DSC01758_01_GF_1.jpg

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南側の空には少し色が出たものの、

60-DSC01779_01_GF.jpg



携帯で落日時間を見るとフィレンツェ6時18分とあり、
まぁ25分位まで待ったものの、

空の色が薄れ始めたのを見て、これまでね、と引き上げます。

61-DSC01778_01_GF.jpg



途中のヴェッキオ宮の空の色。

62-DSC01784_01_GF.jpg


という所で、今回はお終いです。

長いお付き合い、有難うございましたぁ!!


*****

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・ シエナ共和国の最後  女たちの小要塞  傭兵隊長さまざま

1月のシエナ訪問は、無知ムチながら知りたがりの私の芽を様々に
引き出したのでしたが、とりわけ驚いたのは、

「シエナ共和国は、どこかでの戦闘、戦争で負け、フィレンツェに下った」
と今迄単純に思い込んでいたのが、そうではなく、

60年余りにも渡った長い抗争、戦闘あり、包囲戦の惨状あり、
3千人ものシエナの女達が要塞を築き戦った逸話もあり、
最後はモンタルチーノに移っての最後の抵抗もあり、
お互いの陣の先頭に立った傭兵隊長のあれこれで、

しかも、「フィレンツェに、トスカーナ大公国に下った」のではなく、
真実は「メディチ家の下に」、という事だったと知りました。


教科書歴史の固いお話ではなく、shinkaiめがあちこちをつついて
知った、逸話の様々のご報告を、という事で、

ゆったりと読んで頂ける様にお願い致しますです、はぁい。

複雑な経過ですので、参考にしたサイト記事は
シエナ共和国の最後
La fine della repubblica di Siena

で、後はそれぞれ個別にウィキペディアのイタリア版、日本版を。

シエナ遠望

1-siena-distanze_GF.jpg


15世紀末に始まったフランスとスペイン間のイタリア半島の支配権を
巡っての争いは、フィレンツェ・メディチ家を支持するスペイン側と、
フランスに援助をすがったシエナ側との間で深刻な状態で続き、


最後は1559年4月にフランスのアンリ2世と、スペインのフェリペ2世との
間で結ばれた「カト-カンブレーシス・Cateau-Cambrésis条約」により、

2-Cateau-Cambresis_GF.jpg

これはどちらがどちらなのか、分かりかね・・! 右下に見える家紋文字から
右がシエナ・フランス、左がフィレンツェ・スペイン で良いのでしょうか?!


こうして約60年間に渡った「恐ろしい戦争」の終わりを告げたのでしたが、
ヨーロッパの歴史に深い足跡を残した銀行家、武士、芸術家、宗教家達の
共同体の最も素晴らしい都市の1つであったシエナの死、でもあり、

実際シエナ共和国は、イタリアにおける最後の共和国だったそうで、
つまり、新しい時代に適応できなかった、と言えるのかも。

中世に遡る憎悪と対立で常に分断されていたイタリアの共和国と領主は、
実際にはキリスト教による支配を危うくしていたヨーロッパ間のゲームの駒で、

この「シエナ戦争」はトスカーナの2つの都市間で何世紀にも渡って続いた
対立の最終章であり、

なりよりもフランスとスペイン間の代理戦争だったのですね。


そして、一方のフィレンツェのメディチ家の未だ不安定な支配権があり、
というのも、メディチ家より古くからの名門家があり、時に同等ほどの
裕福な家系がありで、簡単にメディチ家にすべてを渡したわけでは
なかったのですね。

当時のフィレンツェはメディチ家コジモ1世(1519-1574)の下に。

3-Cosimo_I_de_Medici_in_armour_(1545)__GF.jpg


1552年シエナはスペインのカール5世の帝国軍に占領され、正式な大使、
というか一種の総督、総領事であるディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサが
町の外に要塞建設を開設する事を決定した時、

シエナ人は自分達の国を恒久的な軍事支配化に置く試みと解釈し、
単独では神聖ローマ帝国皇帝権力に挑戦できない事に気づき!
フランスに政治的支援を求め、

シエナの暴動、反乱はフランス軍の介入で調整され、1552年8月に
スペイン軍は去り、

メンドーサの代わりに、フランスのアンリ2世の代表として
イッポリート・デステ枢機卿が総督に就任。

つまりシエナは自由を得ただけでなく、主人を替えたことに。

シエナ、カンポ広場

4-il-palazzo-pubblico-e-la-torre-del-mangia-di-siena-_GF.jpg


勿論スペイン側は戦略的に重要な領土管理をフランスに任せることは出来ず、
メディチ家のコジモ1世も、シエナがメディチ家に敵対する
フィレンツェからの亡命者達の陰謀の拠点になる事は黙認できず、

反撃軍は、コジモ1世の義父、ナポリ副王ペドロ・アルバレス・
デ・トレドによって組織されたものの、

1553年の春、オルチャの谷の小さな村モンティキエッロと、
モンタルチーノの英雄的な抵抗で失敗に!


モンティッキエッロ ・ Monticchiello
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461364302.html

モンティッキエッロ再訪 ・ トスカーナの小さな村
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462396557.html

モンタルチーノ ・ 歴史と、ブルネッロ・ワインと
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461362974.html



こうした経緯を経て翌年1554年1月、戦争の次の段階の劇的な主役と
なる2人の傭兵隊長が登場、

シエナ側にピエロ・ストロッツィ・Piero Strozzi(1510-1558)

5-1-piero-strozzi-che-capitano-le-truppe-della-repubblica-_GF.jpg


ピエロ・ストロッツィは、姓から分かる様にフィレンツェ有数の貴族出身
で、コジモ1世の最大の敵であり、亡命者。

デステ枢機卿に変わり、フランス国王代表としてシエナ軍の指揮を。


こちらの素敵な肖像はフランス風の衣装で、最後はフランスの元帥に
任名されるも、戦場での火縄銃で亡くなります。

5-2-Piero-Strozzi_GF.jpg



そしてフィレンツェ側は、ジャン・ジャコモ・メディチ
Gian Giacomo de’ Medici (1498,1495-1555)

6-gian-giacomo-de-medici-marchese-di-marignano-_GF.jpg


メディチの姓ですが、フィレンツェのメディチ家とは関係なく、幼い頃より乱暴で、
数々の陰謀、冷酷、残虐を積んでおり、1月末にスペイン帝国軍+スペイン軍の
陣頭に現れます。

メデギーノ・Medeghinoと呼ばれ、自分もそう署名していたとも言われますが、
これは彼の背が低かった事からの「小さなメディチ」という意味だそうで、
ミラノから東南方向のメレニャーノ・Melegnano の生まれ、出身。

7-melegnano_GF.jpg


このシエナ戦では、マリニャーノ侯爵となっておりますが、就任経緯も
何やらきな臭く・・。


こうしてシエナ包囲が始まったものの、メディチ側には町を実際に封鎖
するだけの力が不足し、

6月にはピエロ・ストロッツィが主導権を握り、フィレンツェ側領土に侵入し、
目的はフランス国王の派遣約束の、増援部隊と再会する事であり、
また希望として、フィレンツェ内でコジモ1世に対する反乱を引き起こす事も。

が、いずれも達成されず、彼はシエナに戻り、

7月初めにアンリ2世の別の特使の、ガスコン将軍ブレイズ・ド・モンリュック
Blaise de Monlucが到着。 彼は5代の国王に仕えたという、歴戦の強者。

8-blaise-de-monluc-uomo-darme-_GF.jpg


そんな中で包囲されたシエナの町の情勢は悪化の一途をたどっており、

フィレンツェ側のマリニャーノ侯爵軍は支配を強化し、必要な物資をシエナに
もちこむ事はますます困難に。

彼は包囲戦で、平野を焦土とし荒廃させ、町に食料を届けようとする
農民も捉えると絞首刑としたそうで!


こうした情勢下の圧力を軽減する為にも、ストロッツィは7月に再出撃を
決定、軍の大部分を率いヴァル・ディ・キアーナ・アレッツォ方面、に向かい、

モンリュック将軍は守備隊指揮でシエナに留まり、

マリニャーノ・ジャン・ジャコモ・メディチは自然に追撃を開始、ほぼ同数の
歩兵、+500騎の騎兵を。

が、ストロッツィ軍が単純な砲兵からなり、到底反撃できない300人の
「重武装騎兵」を加えており、

1554年8月2日、アレッツォの南30キロ程にあるマルチャーノ
Marcianoの前で両軍が衝突したとき、

戦いの運命を決定したのは、まさに帝国騎兵隊の明らかな優位性で。

ジョルジョ・ヴァザーリ描く、マルチャーノの戦い

9-Giorgio_Vasari_-_The_battle_of_Marciano_in_Val_di_Chiana_GF.jpg


が、しかし、ストロッツィの騎兵隊が敵に攻撃されるとすぐに逃げたのは
臆病なのか、反逆なのか明らかでなく・・、

とありますが、
ストロッツィ軍側、フランス軍旗手のリゲット・デル・カンパーナが、
金貨で満たされた12個のフレスコでフィレンツェ人に買収され、
戦いの開始直後に逃げ、

ストロッツィはメディチ軍騎兵隊が戻って来る前に、自分の歩兵隊で
敵を攻撃して打ち負かす為、

スカンナガッロ・Scannagalloと呼ばれる小川の乾いた川床を渡るのに、
ストロッツィ軍の部隊は混乱を起こし、
つまり衝突は、壊滅的な敗走に!

フランス・シエナ軍は約4000人を野戦上に残し、多くが捕えられ殺され、

スカンナガッロ・Scannagalloの新しい解釈は、galli・雄鶏・フランス人が、
scannare・虐殺された、と!


やはりヴァザーリ描く、シエナに対するメディチ家の勝利。 ヴェッキオ宮

10-il-trionfo-mediceo-su-siena-dipinto-nel-1565_GF.jpg


フィレンツェ・メディチ家側にとっては、素晴らしい勝利だった事でしょう。
騎乗で振り向いているのが、では、ジャン・ジャコモ・メディチかな?

ヴァザーリが、右側人物の入れ様の、こういった絵を描くとは知らずで、
はは、きっと当時の街の名士たちへのヨイショだったろうと。


2つの都市間の戦争はまだ確かには終わっていなかったものの、
今となっては最終的な結果は明らかで、

シエナ側のストロッツィはシエナに戻らず、オルチャの谷の西端に
位置する小高いモンタルチーノ・Montalcinoに保護され、

その間シエナに留まっているフランスの将軍モンリュックは、守備隊と
市民の揺れ動く士気を維持する為、自分で嘘と知りつつ、
大規模なフランス援軍の到着を約束し続けたそうで!

が、真実は外部からの援助の希望が消えており、シエナはますます
侵入不可能な包囲戦に巻き込まれていき、

不足の食料資源への圧力軽減の為、モンリュックは包囲戦の典型的な
手段、いわゆる「役立たない口」の、町からの追放に訴え!

つまり女性、老人、子供、とりわけ貧しい階級の人々、食物を消費したが
防衛に貢献できなかった全ての人々の追放、です。

戦争の非情さで、これを書きつつ、イタリアの隣国の戦争を思い・・。


一方年代記者が定義する様に、「気まぐれで悪性の男」フィレンツェ側の
ジャコモ・デ・メディチ、の反応は、

「それは我らの非常に幸せな軍の兵士に通知され、我らの権限に従う、
彼らがシエナを去るのを見つけた兵士は皆、彼らを殺さなければならない。
追放された人々や自発的に出国した兵士以外は。

女たちは全員盗み、(意味お分かりですね?)シエナに返さなければ
ならない。

もし物資を持って来たり、シエナに行ったりする農民やその他を見つけたら、
取り返しのつかない程に殺し、持ち物をすべて取り上げること」と。


何百人もの絶望的な人々が町から追い出され、また包囲軍により逆に
押し戻され、悲惨な死を迎え、

食物を密輸しようとした農民は、そんな試みを思い留まらせる為に
容赦なく虐殺されたのでした。


この時の1554年から55年の包囲戦でシエナの3000人の女性達が
何をしたか、
小要塞を築き、町の自由を守るために立ち働いたのです!

これは守備隊のモンリュックがシエナの女性を讃える為に書き残しており、
場所は、シエナの町の北方を守る「カモッリア門・camollia」から
数メートル左に、未だうっすらと残っていると。

こちらの記事は
シエナの女性たちの砦・Il Fortino delle donne senesi を主に


まず地図で、カモッリア門の位置を。

11-pianta001_GF.jpg

12-mappa-_GF.jpg


シエナの女性達の先頭に立ったのは、3人の貴族女性で、
ラウドミア・フォルテグエッリ・ Laudomia Forteguerri 1515年生まれ
ファウスタ・ピッコローミニ・Fausta Piccolomini 1525年頃生
リヴィア・ファウスティ・Livia Fausti

一番上のラウドミア・フォルテグエッリは詩人としても有名な女性だった様で、
いずれも肖像画も残っておらず、詳細は分かりません。

このカモッリア門が造られたのは、1527年から32年に掛けてで、
1526年にこの近くの城壁で起こった戦いで、いくつかの弱点が
露呈したのを受け、

彼女たちは、鶴ハシ、シャベル、もっこを担ぎ、当時の多くの支払い証明書
から分かる様に、専門の労働者と石工が建設に取り組んだのでしょうが、

彼女たちは大いに協力し、自分たちの町を、自由を守る為、働いたと!!
要塞の建設工事は、町の売春婦への課税による収益も注ぎ込まれた様で!
これも大きな一助ですよね?!


2005年に行われた歴史考古学調査により分かった事は、
砦は凝灰岩層の上にあり、壁が現在の床の高さから約3,6m下まで続き、

地下の壁にも発射口があり、そこに挿入された大砲が右から左へのより広い
発射角度を持つように、強く広げられており、
  
そして2つの発射命令の分散により、長辺に見える四角形の砲口に軽砲、
火縄銃などを収容する事が可能で、
抜け穴には大砲があり、短辺には大きく見えるそう。

従って、カミッリア門から西側のフォンテジュスタ・Fontegiustaまで
約180度の発射角度をカバーする、巨大な「機関銃」が備わっていた、と。


現在、砦の入り口は閉ざされており、

13-phoca_thumb_l_ingresso-tamponato004_GF.jpg



こちらが3Dによる再構成図。 穴の大きさの違いも分かりますね。

14-phoca_thumb_l_ricostruzione003_GF.jpg


砦へのアクセス方法は、多分崩壊によって中断された地下通路から、
または回路自体の2次扉から、マルタ通りにある、現在は塞がれ、
埋められている場所からで、上の写真に見えますね。



外に見えている小要塞の写真はこれで、再構成図の様に角が。

15-SiFortinoDelleDonneViaMontluc1_GF.jpg



こちらが現在のカモッリア門。 

15-Porta-Camollia-_GF.jpg


シエナのドゥオーモのピッコローミニ図書館のピントゥリッキオの
壁画にも登場していましたっけ。
 

既に何年も前から、この地区イーストゥリチェ・ハリネズミの
コントラーダの女性達が、地区の守護聖人バーソロミューの祝祭の時に
この砦の前で、他のコントラーダの女性と共に、女性のみが参加する
夕食会を開いているそうで、
果敢にシエナを守った女性の先達達への献呈ですね。



こうして厳しい状態の1554年が過ぎ、1555年になると遂に失望の後に
交渉による解決策についての話し合いが始まり、

遂に1555年4月7日、降伏が調印され、

条件は少なくとも明らかに穏やかで、「町とシエナ共和国をその保護と
防衛下に置く」が、「前述の町を共和国に」自由を与えましたが、

それは「監視された自由」だったものの、
モンリュックとフランスの守備隊は軍の栄誉を得て、邪魔なしに町を離れ。

シエナの町人口は、包囲前には約4万人だったのが、約6000人に減少し、

降伏と帝国軍の侵入に続く数日間、勝利者の真の意図に不信感を抱く
多くの人々、約700人がピエロ・ストロッツィが定住したモンタルチーノに去り、

モンタルチーノの城  入り口上にシエナの白黒の紋が見えますか? 

16-dopo-aver-respintmontalcino-divenne-il-ritiro-di-piero-strozzi_GF.jpg


モンタルチーノの下のシエナ共和国」を宣言し、いつの日か、
首都に完全な自由をロ地戻すことを望んで留まったのですね。
4年間!!

ずっと以前、モンタルチーノはシエナに心服し、シエナの敗北後にも
独自の貨幣鋳造を行ったりした、というのを読んだ時は、
この戦争後の事とは何も知らずで、今回、そういう事だったのかと。


1555年5月にカラファ枢機卿が教皇パオロ4世として選出され、
スペイン嫌いの教皇の事と、フランスは再び希望を持ち、

1556年アンリ2世はギーズ公指揮下の軍隊をイタリアに派遣。

が、1557年8月10日、サン・カンタンの戦いでフランスが敗北、
全ての幻想が消え、終焉を迎えたのでした。

サン・カンタンとはどこにある、というと、なんとフランスの最北で、

17-AEON3448_QB41-P5-1559m_GF.jpg

シエナとフィレンツェの対戦が、こんな所で?!
まさにイタリアの2つの町は、フランスとスペインの駒だったのを了解!


ギーズがフランスに呼び戻されただけでなく、モンリュックと
ストロッツィも一緒にイタリアを去り、

遂に1559年4月にカトー・カンブレシス条約が結ばれ、
60余年に渡る「イタリアの恐ろしい戦争・シエナの戦争」も終焉を


1557年7月には早くもコジモ1世が、スペインのフェリペ2世から領地として
シエナを取得、メディチ家の支配下でトスカーナ全土を統一するという
夢を実現した、と言いたいのですが、

トスカーナの地の殆どで、ルッカ共和国が独立を保ち、というのも、
スペインの戦略的理由から、ティレニア海岸一部を留保したからで。


シエナは「フィレンツェの下に」ではなく、スペインがメディチ家に
多額の借金をしており、その支払い代わりに譲られたので、

「メディチ家の下に」領土が入った、という事になり、

これは独立に執着している住民の感情を余り刺激しないようにと、

そうなのです、シエナ共和国の旗には、LIBERTA・自由 と大書あり。

で、代々メディチ家からの統治者がやって来ていた、という事も。

これでシエナのパリオのコントラーダの区画線を、オーストリアから
が決めた、というのも、そういう事だったのか、とすんなり納得、ははは。

「新しい国」としての行政上の自治権も広く認められ、
これはメディチ家が滅ぶ1737年迄続き、

その後は1861年のイタリア統一まで、トスカーナ大公国の一部と。


分かっている気がしたままでずっと来ていたのでしたが、
実際に知ってみると、大変だったんだねぇ、と愛しい気も沸き、
シエナの女性たちの健気さにも感嘆し、

どこの町でも戦時の大変さの下、残された女性たちの逸話が
必ずありますが、それにも心を打たれ、

18-toscana-cosa-vedere-12_siena_GF.jpg


今の平和時に生きれている自分を、心の底から有難く思う気持ちです!

長いお付き合い、有難うございました!!


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・ シエナ ・ シモーネ・マルティーニの「マエスタ」と「天使の手」

1月中旬に訪れた寒い雨のシエナで、

1-1-DSC00529_01_GF.jpg

改めてシモーネ・マルティーニの「マエスタ」に向き合い、

彼の作品の最も著名な一作品というのみでなく、14世紀における
イタリア全体の最も重要な作品の一つと見なされる
その素晴らしさにも感嘆でしたが、

今回はそれ以上に彼が自分の作品に持ち込んでいる優美さ、
豪華さの為の表現技法、
アッシジでジオットの作品から受けた遠近法表現などを確かめつつ、

そして今回会場で知った、彼の「天使の手」なる物を始めて眺め、

マエスタの作品注文を受けた彼が28歳だった事にも改めて驚き、
若さからくる貪欲さ、強気の様な物も感じた、

今回の私自身の驚きであった「マエスタ」について、ご報告を。


上の写真に見えるプッブリコ宮の1階、左のサン・マルティーノの
礼拝堂から2つ目の開いた扉から入ると、

こんな風に周囲が回廊となった内庭があり、正面右にシエナの雌狼が
いて、その左側の下の小さな窓が、切符売り場。

2-DSC00609_01_GF.jpg

マンジャの塔に上がるにも、ここで切符を買い、左手前から上ります。



こちらが右側回廊で、手前に鉄柵が開いている所から入ります。

3-DSC00617_01_GF.jpg


回廊突き当りの扉の内側に劇場があるのを今回知りましたが、
中程に見える顔は、アル・パチーノ。



入り口から暗めの階段を2階に上がり、

こちらが市博物館内地図。

4-1-DSC09928_02_GF.jpg

3.イタリア統一運動の広間・Sala del Risorgimento
4.バリア広間・Sala di Barìa
5.会議室控えの間・Anticamera del Concistoro
6.会議室・Sala del Concistoro
7.礼拝堂控室・Anticappella
8. 礼拝堂・La Cappella
9.世界地図の間・Sala del Mappamondo
10.平和の間・Sala della Pace



という事で、今回のシエナ行き1番の目的は n.10の平和の間
このアンブロージョ・ロレンツェッティの「善政と悪政の寓話」
の壁画が現在修復中の、

4-2-saladeinove_GF.jpg

一応の表面の汚れを落とした後の、今後の修復の対策会議の
2か月間が、一般公開されたのを見に行ったもので、

現在の扉の高さの上全体に床が張られた状態で壁画を見る事が
出来ました。  ガイドの解説付きでよく分かり、
本当に出かけて良かったと満足で、またご案内致しますね。

シエナのプッブリコ宮 「善政、悪政の寓意」の修復現場 公開
https://www.italiashiho.site/article/494857101.html



そして早めに行き、9. 世界地図の間でシモーネ・マルティーニに再会、
今回は軽~くアッパーカットを喰らった、という感じ!だったのでしたぁ。


今回は世界地図の間、つまり大広間に直行、という感じで進み、

この好きな「聖母子像」を見たのみで!   どこにあったんだっけ?

5-DSC00640_02_GF.jpg


8. 礼拝堂

6-DSC00641_01_GF.jpg



9. 礼拝堂控室の天井かな

7-DSC00645_01_GF.jpg



こちらは礼拝堂のベンチの背、嵌め込み細工の素晴らしいもの

8-DSC00643_01_GF.jpg



さてこちらが世界地図の部屋、中程から10.平和の広間の方を。

9-DSC00382_01_GF.jpg

一番上の壁画もシモーネ・マルティーニで、「グイドリッチョ将軍像].
1330年作 340x968cm 


開いたドアから奥が見えますが、左側に仮の壁が作られ、そこの鍵付き
ドアから中に入り、階段を上がり壁画を見るようになっており、
ドアの外にはガードマン! 厳重警備でしたぁ。


shinkaiの好きな画面右端下、御本陣というか、テント村というか・・!

10-DSC00667_01_GF.jpg



大広間との間を区切る横一面の長い壁とアーチの区切り4つ。

11-DSC00677_01_GF.jpg

12-DSC00676_01_GF.jpg



shinkaiめは、自分の見たい物にパッと目が行き、後のブログでの
ご紹介時に、あれま、撮ってなかった、というのがいつもで、

拝借の、こちらが大広場の北壁の「マエスタ」に向かっての方向。

13-sala-mappamondo-siena_GF.jpg

今はこの写真とは照明が変わり、ソファーも壁に添って3つほどのみ。



シモーネ・マルティーニ「マエスタ」 1312-15 763x970cmの大作

14-DSC00352_01_GF.jpg


「マエスタ・Maestà」とは、威厳、尊厳、気高さの意味で、
王や皇帝、陛下に対する呼び名でもあり、
日本語でこの絵を「荘厳の聖母」と呼んでいる通りです。


あれこれ読んでいた時、周囲の縁にある円窓の人物や装飾に
ついてもの説明があり、ああ、ワッチは撮ってなかった、と、反省し、

サイトから拝借の、「マエスタ」像を。

15--Simone_Martini_-_Maestà_-_Google_Art_Project_GF.jpg


シモーネは1312年から製作にかかったものの、約3分の2程出来た時、
一旦放棄し、
アッシジで彼を待っていた「サン・マルティーノ礼拝堂」の仕事に行き、
結局そちらも中断しシエナに戻り、絵の下部を仕上げたそうで。


縁の円窓の下から2番目のすぐ下の位置で、視線を反対方向に
向けて見て頂くと、ちょうど聖母の玉座の下の中ほどに線が見え、

それに沿って、左右の外側の2人づつの守護聖人と内側の天使の、
衣装の色の腰の下辺りの違いが分かりますね。

円窓の中の人物の色、そして間の装飾の色にも違いが見えるのは、
帰って後に採用された描法、おもに乾式塗装による部分が、
現在は大変劣化しているのだそうで。


ご存じの様に、フレスコ画というのは、下塗りをした壁の上に最後の
漆喰の下塗りをし、この表面が乾かないうちに、粉絵具を水で溶き、
描く方法ですね。

つまり1日に描ける分量のみの下塗りをし、下描きの紙に小さな穴を
開け、その上から粉絵具をたたきつけ、目安としての線描きをし、
塗って行きますが、

この分量の広さを「ジョルナータ・giornata」、つまり1日分、と呼び、

描いた場所は乾くとその壁自体と同成分となり、歴史を経ても、
時に陽当たりが良すぎる場所だと色褪せしますが、
大概はしっかり残っていて、現在も見れるフレスコ画なのです。

実際昔フレスコ画を小さい場面に描いた事が2度ほどありますが、
描いているうちに最後の下塗りが乾き始めると、
本当に描く色を吸い込まなくなる、というのを経験したことがあります。

で、当然せっせと急いで描く訳で、仕上がりを見て、ああ、あそこ、と
画家は気になる部分を訂正したい事もあるわけで、はぁ、
その部分を、テンペラ技法で補ったりしたようなのですが、

テンペラ技法、というのは、簡単に言うと、粉絵具を卵の黄身、
または全卵、白身のみと油、と混ぜて描く方法で、

これで描くとその時はOKでも、長い年月のうちに剥落もありうる様で、

この「マエスタ」も、とりわけ下部の描き込みに使われた場所の劣化、
剥落やらの問題がある様子なのですね。



この全部で見える各片側に15人、そして聖母子と全部で32名
人物の上に広がる天幕の前の棒は、前から2列目の左右にいる
聖パオロと聖ピエトロが持っており、後ろ側も支えている人物が見え、

この前から後ろ迄の天幕の広がり、前が広く奥が狭まる、
で奥行きを出し、

と共に、人物も一番前は膝まづき、2列目、3列目と人物の立つ
位置が雛壇状に高くなり、幅を感じさせる、

というのが、いわばシエナ派大家の始祖の位置にある、ドゥッチョには
なかった大きな違いなのですね。


「マエスタ」には中央の聖母子の他に30名もの人物が並びますが、
どの人物が誰なのか、

会場の画面右下にこのような説明板があり、

16-DSC00380_01_GF.jpg


それによると、聖母子の頭の高さに並ぶ、
つまり下から3列目以上の人物の名は不明で、

1. 聖母子

ここから下から2列目の、左から
2. 聖パオロ  剣を持ち、顔が擦れ、
3. 大天使ガブリエレ  青い衣、青い羽根
4. マリーア・マッダレーナ  香油の壺
5. 福音者 聖ジョヴァンニ  福音書を手に

右側に
6. 洗礼者 聖ジョヴァンニ・バッティスタ  毛皮の衣
7. 大天使 聖ミケーレ   手に百合の花
8. 聖ピエトロ   天国への鍵を手に

左側 前列 膝まづく
9. 聖アンサノ  シエナの守護聖人
10. 聖サヴィーノ  シエナの守護聖人
11. 天使

右側 前列 膝まづく
12. 天使
13. 聖クレシェンツィオ シエナの守護聖人
14. 聖ヴィットーレ  シエナの守護聖人

他に、上の列、聖母子の左に、聖ウルスラ と、
右に アレッサンドリアの聖カテリーナ が。



玉座の聖母子像の様子は、

17-DSC00354_01_GF.jpg

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19-DSC00654_01_GF.jpg


聖母はどこも、誰にも視線を合わせず、左腕膝の上に幼児の
キリストを抱き、

背後に見える玉座の金装飾の素晴らしさ!! 

シモーネ・マルティーニが、とりわけ魅かれたアルプスの北、当時の
フランス・ゴシック装飾の素晴らしさを取り入れたもので、

パンチと呼ばれる、当時のシエナの優秀な金細工師の技法に
詳しかった彼が同じ技法で、金箔に打ち込んだものだそう。

これは勿論シエナの顧客たちの高級志向に合わせたのでも
あったでしょうが、経済的にも繫栄していたのを示すものと。

幼児キリストが手にしている紙、これは実の羊皮紙を貼ったもので、

書いてあるのは、
«DILIGITE IUSTITIAM QUI IUDICATIS TERRAM»
地を裁くあなた方、正義を愛しなさい  と。


つまりこの画はかなり政治的、世俗的な性質も持っており、
描かれた人物は宗教的ですが、

描かれた場所が、一番政治的、世俗的な市庁舎であり、
シエナ市民へのメッセージを伝えているのでしょうね。


で、shinkaiが、あれこれ気になった装飾細部、描き込みを
探りますが、

20-DSC00366_01_GF.jpg


聖母の衣装はオリエンタル調の織物の柄だそうで、

聖母の王冠は形が見えますが光っておらず、きっと本来は
燦然と光を放っていた筈と思うのと、
胸元に丸くぷっくりと光るガウンの留め金、

幼児キリストの光輪、背後のあちこちに散りばめられた光る菱形、
光線の加減により黒くも見える形は、前を動くと光り、


聖母の胸元には何が?! と俄然興味を持ってアップし、
現在風に言うと、猫ちゃんの首の鈴式!に光るぷっくりで、

21-DSC00657_01_GF.jpg

私めは金属かと思ったのでしたが、クリスタルなのだそうで!

そして幼児の光輪に、背後に光るものは、ガラスの嵌め込みと!


聖母子を始め、聖人たちの光輪は縁を見ると、かなりの厚さに
盛り上げられており、
これだけ光るというのは、金箔もかなり厚く貼られているのだろうと。



で、聖母の、形のみが残って見える王冠と、

こちら前部で花や果物を捧げる天使の器をどうぞ。

22-DSC00364_01_GF.jpg

所々光りますが、これだけ剥落したのは、きっと金属を貼り付け、
はい、シモーネは金属片の貼り付けもしており、
その上から塗ったものと想像。

それにしても器の右背後に見える柄が、なんとなしに後世の
ウィーンのアール・デコ調で、クリムトを思わせません?!

2人の画家の間には6世紀程もの隔たりがありますが、
絵画の中に装飾要素を豊富に持ち込んだ、という点では
相通ずるものを感じますね。



そして「マエスタ」像の装飾美を確かめていて気が付いた
画面右下の説明板に、シモーネの「天使の手」とあり、

この様な写真と共に、かなりの説明が付いているのを撮り、

23-DSC00369_01_GF.jpg



絵の上部にある、というので見まわし探したものの見つからず。

「世界地図の間」というのは勿論この部屋の事、と思うものの、
見つからずで、隣の部屋やその奥も確かめに行ったものの
見つからずで、どこにあるんやぁ、と

戻って来てふっと見上げると、あったぁ!!

24-DSC00374_01_GF.jpg


ほら、絵の前から1本前の梁の、左右に下がっているでしょう、
はい、これがシモーネの「天使の手」なんですと!!

絵の前と言われると、絵のすぐ前を探し、無い無い、だったのですが、
はい、梁1本前の天井から、高さ約10mの位置に下がった手で、


こちらが向かって左の手で、

25-DSC00375_01_GF.jpg


つまり広間に向かって、左右の手の指を軽く握り、人差し指が
奥側に延びる形なのですが、折れていて、



こちらが向かって右手の形ですが、斜め後ろから撮っていて、
前から撮っておらずで・・!

26-DSC00662_01_GF.jpg


これは説明板にあった写真で、天井の梁に取り付けられた様子。

27-DSC00660_01_GF.jpg


説明文を撮った写真の半分が酷くブレており、情けない、
読めずですが、半分は読めましたのでご説明すると、


奉納のランプを吊るす2本のロープ、または鎖の上げ下げを
支える手、天使の手、としての役割を果たしていたもので、

側壁の近くに多くの滑車が存在し、ロープを動かし、
このロープが天使の掌中をスルスルと滑り、

奉納のランプが絵の前で上下した様子、を想像下さいね!

はい、この絵の前で、宗教的祭日、シエナの町の祭日に灯が
上下し、観衆を沸かしたのだろうと想像しますが、

残念ながら、長年にわたり引き起こされた摩擦で、両手の
人差し指が失われ、そのまま使われなくなったのだそうで。

はい、掌に擦れた跡が見えますね。


この2本の腕は、クルミの木の丸太を半分に割り、梁に接着する
部分を少し四角くしたもので、上の写真には滑車も写っており、

多彩色に塗られ、掌を丸めた形もすらっと美しく、
11個の小さなブリキの袖のボタンもあるのだそうで・・。


という様な、シモーネが作った、おまけの「天使の手」でしたが、
わぁお、ここまで顧客に、はたまたシエナの観衆にサーヴィスする精神、
というのも凄いなぁ、と思った事でした。


皆さんも次回にシエナ、プッブリコ宮ご訪問の時は、是非是非
「シモーネの天使の手」の見物をお忘れなく!!



天井の格子はこんな柄で装飾されており、

28-DSC00650_01_GF.jpg

29-DSC00651_01_GF.jpg

白と黒のみでなく、白の中に赤で明暗の形を作っており、



こちらは床の石の減り具合。 はい、700年の減り具合。

30-DSC00656_01_GF.jpg



広間の東に面した窓ガラス、彩が可愛いでしょう?!

31-DSC00371_01_GF.jpg



ふっと開いていた窓から眺めると、奥に、訪問したばかりの
サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂が見え、おお!

32-DSC00669_01_GF.jpg

33-DSC00670_01_GF.jpg



という、シエナのプッブリコ宮、シモーネ・マルティーニの「マエスタ」
のあれこれのご案内でした。


シエナ  サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話
https://www.italiashiho.site/article/497600507.html

シエナ行き   雨のシエナ
https://www.italiashiho.site/article/497274341.html



2018年5月、春たけなわのオルチャの谷、シエナのクレーターを
巡り、その戻りにシエナに10年振りに寄り、

その時驚いたのが、プッブリコ宮のゴシック様式で埋め尽くされた
フレスコ画の壁で、えぇ、こんなにゴシック満載だったっけ?!と、

その時「シエナ」に対し、新しく目が開いたのだろうと思います。


n.4 シエナのプッブリコ宮  内部の1
https://www.italiashiho.site/archives/20200407-1.html

n.5 シエナのプッブリコ宮 内部の2
https://www.italiashiho.site/archives/20200410-1.html

n.1 シエナのプッブリコ宮 ・ ロッジャ・ディ・ノーヴェ
https://www.italiashiho.site/archives/202003-1.html

n.3 シエナのプッブリコ宮 と カンポ広場
https://www.italiashiho.site/archives/20200404-1.html

n.2 マンジャの塔 シエナ
https://www.italiashiho.site/archives/20200401-1.html

シエナ点描  小路と、黄昏どき
http://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html


そして今、シエナがフィレンツェに下った際のあれこれを知るのに
すっかりはまり込んでおり・・!

その内に「シエナ頑張れ!」式に賛歌を歌い出すかも、がはは、
のshinkaiで~す。


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