1月のシエナ訪問は、無知ムチながら知りたがりの私の芽を様々に
引き出したのでしたが、とりわけ驚いたのは、
引き出したのでしたが、とりわけ驚いたのは、
「シエナ共和国は、どこかでの戦闘、戦争で負け、フィレンツェに下った」
と今迄単純に思い込んでいたのが、そうではなく、
と今迄単純に思い込んでいたのが、そうではなく、
60年余りにも渡った長い抗争、戦闘あり、包囲戦の惨状あり、
3千人ものシエナの女達が要塞を築き戦った逸話もあり、
最後はモンタルチーノに移っての最後の抵抗もあり、
お互いの陣の先頭に立った傭兵隊長のあれこれで、
3千人ものシエナの女達が要塞を築き戦った逸話もあり、
最後はモンタルチーノに移っての最後の抵抗もあり、
お互いの陣の先頭に立った傭兵隊長のあれこれで、
しかも、「フィレンツェに、トスカーナ大公国に下った」のではなく、
真実は「メディチ家の下に」、という事だったと知りました。
真実は「メディチ家の下に」、という事だったと知りました。
教科書歴史の固いお話ではなく、shinkaiめがあちこちをつついて
知った、逸話の様々のご報告を、という事で、
ゆったりと読んで頂ける様にお願い致しますです、はぁい。
で、後はそれぞれ個別にウィキペディアのイタリア版、日本版を。
シエナ遠望

15世紀末に始まったフランスとスペイン間のイタリア半島の支配権を
巡っての争いは、フィレンツェ・メディチ家を支持するスペイン側と、
フランスに援助をすがったシエナ側との間で深刻な状態で続き、
フランスに援助をすがったシエナ側との間で深刻な状態で続き、
最後は1559年4月にフランスのアンリ2世と、スペインのフェリペ2世との
間で結ばれた「カト-カンブレーシス・Cateau-Cambrésis条約」により、
間で結ばれた「カト-カンブレーシス・Cateau-Cambrésis条約」により、

これはどちらがどちらなのか、分かりかね・・! 右下に見える家紋文字から
右がシエナ・フランス、左がフィレンツェ・スペイン で良いのでしょうか?!
右がシエナ・フランス、左がフィレンツェ・スペイン で良いのでしょうか?!
こうして約60年間に渡った「恐ろしい戦争」の終わりを告げたのでしたが、
ヨーロッパの歴史に深い足跡を残した銀行家、武士、芸術家、宗教家達の
共同体の最も素晴らしい都市の1つであったシエナの死、でもあり、
共同体の最も素晴らしい都市の1つであったシエナの死、でもあり、
実際シエナ共和国は、イタリアにおける最後の共和国だったそうで、
つまり、新しい時代に適応できなかった、と言えるのかも。
つまり、新しい時代に適応できなかった、と言えるのかも。
中世に遡る憎悪と対立で常に分断されていたイタリアの共和国と領主は、
実際にはキリスト教による支配を危うくしていたヨーロッパ間のゲームの駒で、
実際にはキリスト教による支配を危うくしていたヨーロッパ間のゲームの駒で、
この「シエナ戦争」はトスカーナの2つの都市間で何世紀にも渡って続いた
対立の最終章であり、
対立の最終章であり、
なりよりもフランスとスペイン間の代理戦争だったのですね。
そして、一方のフィレンツェのメディチ家の未だ不安定な支配権があり、
というのも、メディチ家より古くからの名門家があり、時に同等ほどの
裕福な家系がありで、簡単にメディチ家にすべてを渡したわけでは
なかったのですね。
裕福な家系がありで、簡単にメディチ家にすべてを渡したわけでは
なかったのですね。
当時のフィレンツェはメディチ家コジモ1世(1519-1574)の下に。

1552年シエナはスペインのカール5世の帝国軍に占領され、正式な大使、
というか一種の総督、総領事であるディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサが
町の外に要塞建設を開設する事を決定した時、
シエナ人は自分達の国を恒久的な軍事支配化に置く試みと解釈し、
単独では神聖ローマ帝国皇帝権力に挑戦できない事に気づき!
フランスに政治的支援を求め、
フランスに政治的支援を求め、
シエナの暴動、反乱はフランス軍の介入で調整され、1552年8月に
スペイン軍は去り、
スペイン軍は去り、
メンドーサの代わりに、フランスのアンリ2世の代表として
イッポリート・デステ枢機卿が総督に就任。
つまりシエナは自由を得ただけでなく、主人を替えたことに。
シエナ、カンポ広場

勿論スペイン側は戦略的に重要な領土管理をフランスに任せることは出来ず、
メディチ家のコジモ1世も、シエナがメディチ家に敵対する
フィレンツェからの亡命者達の陰謀の拠点になる事は黙認できず、
反撃軍は、コジモ1世の義父、ナポリ副王ペドロ・アルバレス・
デ・トレドによって組織されたものの、
1553年の春、オルチャの谷の小さな村モンティキエッロと、
モンタルチーノの英雄的な抵抗で失敗に!
モンティッキエッロ ・ Monticchiello
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461364302.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461364302.html
モンティッキエッロ再訪 ・ トスカーナの小さな村
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462396557.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462396557.html
モンタルチーノ ・ 歴史と、ブルネッロ・ワインと
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461362974.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461362974.html
こうした経緯を経て翌年1554年1月、戦争の次の段階の劇的な主役と
なる2人の傭兵隊長が登場、
シエナ側にピエロ・ストロッツィ・Piero Strozzi(1510-1558)

ピエロ・ストロッツィは、姓から分かる様にフィレンツェ有数の貴族出身
で、コジモ1世の最大の敵であり、亡命者。
デステ枢機卿に変わり、フランス国王代表としてシエナ軍の指揮を。
こちらの素敵な肖像はフランス風の衣装で、最後はフランスの元帥に
任名されるも、戦場での火縄銃で亡くなります。
任名されるも、戦場での火縄銃で亡くなります。

そしてフィレンツェ側は、ジャン・ジャコモ・メディチ・
Gian Giacomo de’ Medici (1498,1495-1555)

メディチの姓ですが、フィレンツェのメディチ家とは関係なく、幼い頃より乱暴で、
数々の陰謀、冷酷、残虐を積んでおり、1月末にスペイン帝国軍+スペイン軍の
数々の陰謀、冷酷、残虐を積んでおり、1月末にスペイン帝国軍+スペイン軍の
陣頭に現れます。
メデギーノ・Medeghinoと呼ばれ、自分もそう署名していたとも言われますが、
これは彼の背が低かった事からの「小さなメディチ」という意味だそうで、
ミラノから東南方向のメレニャーノ・Melegnano の生まれ、出身。
これは彼の背が低かった事からの「小さなメディチ」という意味だそうで、
ミラノから東南方向のメレニャーノ・Melegnano の生まれ、出身。

このシエナ戦では、マリニャーノ侯爵となっておりますが、就任経緯も
何やらきな臭く・・。
何やらきな臭く・・。
こうしてシエナ包囲が始まったものの、メディチ側には町を実際に封鎖
するだけの力が不足し、
6月にはピエロ・ストロッツィが主導権を握り、フィレンツェ側領土に侵入し、
目的はフランス国王の派遣約束の、増援部隊と再会する事であり、
また希望として、フィレンツェ内でコジモ1世に対する反乱を引き起こす事も。
また希望として、フィレンツェ内でコジモ1世に対する反乱を引き起こす事も。
が、いずれも達成されず、彼はシエナに戻り、
7月初めにアンリ2世の別の特使の、ガスコン将軍ブレイズ・ド・モンリュック・
Blaise de Monlucが到着。 彼は5代の国王に仕えたという、歴戦の強者。
Blaise de Monlucが到着。 彼は5代の国王に仕えたという、歴戦の強者。

そんな中で包囲されたシエナの町の情勢は悪化の一途をたどっており、
フィレンツェ側のマリニャーノ侯爵軍は支配を強化し、必要な物資をシエナに
もちこむ事はますます困難に。
もちこむ事はますます困難に。
彼は包囲戦で、平野を焦土とし荒廃させ、町に食料を届けようとする
農民も捉えると絞首刑としたそうで!
農民も捉えると絞首刑としたそうで!
こうした情勢下の圧力を軽減する為にも、ストロッツィは7月に再出撃を
決定、軍の大部分を率いヴァル・ディ・キアーナ・アレッツォ方面、に向かい、
モンリュック将軍は守備隊指揮でシエナに留まり、
マリニャーノ・ジャン・ジャコモ・メディチは自然に追撃を開始、ほぼ同数の
歩兵、+500騎の騎兵を。
が、ストロッツィ軍が単純な砲兵からなり、到底反撃できない300人の
「重武装騎兵」を加えており、
1554年8月2日、アレッツォの南30キロ程にあるマルチャーノ・
Marcianoの前で両軍が衝突したとき、
戦いの運命を決定したのは、まさに帝国騎兵隊の明らかな優位性で。
ジョルジョ・ヴァザーリ描く、マルチャーノの戦い

が、しかし、ストロッツィの騎兵隊が敵に攻撃されるとすぐに逃げたのは
臆病なのか、反逆なのか明らかでなく・・、
臆病なのか、反逆なのか明らかでなく・・、
とありますが、
ストロッツィ軍側、フランス軍旗手のリゲット・デル・カンパーナが、
金貨で満たされた12個のフレスコでフィレンツェ人に買収され、
戦いの開始直後に逃げ、
金貨で満たされた12個のフレスコでフィレンツェ人に買収され、
戦いの開始直後に逃げ、
ストロッツィはメディチ軍騎兵隊が戻って来る前に、自分の歩兵隊で
敵を攻撃して打ち負かす為、
敵を攻撃して打ち負かす為、
スカンナガッロ・Scannagalloと呼ばれる小川の乾いた川床を渡るのに、
ストロッツィ軍の部隊は混乱を起こし、
ストロッツィ軍の部隊は混乱を起こし、
つまり衝突は、壊滅的な敗走に!
フランス・シエナ軍は約4000人を野戦上に残し、多くが捕えられ殺され、
スカンナガッロ・Scannagalloの新しい解釈は、galli・雄鶏・フランス人が、
scannare・虐殺された、と!
やはりヴァザーリ描く、シエナに対するメディチ家の勝利。 ヴェッキオ宮

フィレンツェ・メディチ家側にとっては、素晴らしい勝利だった事でしょう。
騎乗で振り向いているのが、では、ジャン・ジャコモ・メディチかな?
ヴァザーリが、右側人物の入れ様の、こういった絵を描くとは知らずで、
はは、きっと当時の街の名士たちへのヨイショだったろうと。
2つの都市間の戦争はまだ確かには終わっていなかったものの、
今となっては最終的な結果は明らかで、
今となっては最終的な結果は明らかで、
シエナ側のストロッツィはシエナに戻らず、オルチャの谷の西端に
位置する小高いモンタルチーノ・Montalcinoに保護され、
位置する小高いモンタルチーノ・Montalcinoに保護され、
その間シエナに留まっているフランスの将軍モンリュックは、守備隊と
市民の揺れ動く士気を維持する為、自分で嘘と知りつつ、
大規模なフランス援軍の到着を約束し続けたそうで!
大規模なフランス援軍の到着を約束し続けたそうで!
が、真実は外部からの援助の希望が消えており、シエナはますます
侵入不可能な包囲戦に巻き込まれていき、
侵入不可能な包囲戦に巻き込まれていき、
不足の食料資源への圧力軽減の為、モンリュックは包囲戦の典型的な
手段、いわゆる「役立たない口」の、町からの追放に訴え!
手段、いわゆる「役立たない口」の、町からの追放に訴え!
つまり女性、老人、子供、とりわけ貧しい階級の人々、食物を消費したが
防衛に貢献できなかった全ての人々の追放、です。
防衛に貢献できなかった全ての人々の追放、です。
戦争の非情さで、これを書きつつ、イタリアの隣国の戦争を思い・・。
一方年代記者が定義する様に、「気まぐれで悪性の男」フィレンツェ側の
ジャコモ・デ・メディチ、の反応は、
「それは我らの非常に幸せな軍の兵士に通知され、我らの権限に従う、
彼らがシエナを去るのを見つけた兵士は皆、彼らを殺さなければならない。
追放された人々や自発的に出国した兵士以外は。
彼らがシエナを去るのを見つけた兵士は皆、彼らを殺さなければならない。
追放された人々や自発的に出国した兵士以外は。
女たちは全員盗み、(意味お分かりですね?)シエナに返さなければ
ならない。
ならない。
もし物資を持って来たり、シエナに行ったりする農民やその他を見つけたら、
取り返しのつかない程に殺し、持ち物をすべて取り上げること」と。
取り返しのつかない程に殺し、持ち物をすべて取り上げること」と。
何百人もの絶望的な人々が町から追い出され、また包囲軍により逆に
押し戻され、悲惨な死を迎え、
押し戻され、悲惨な死を迎え、
食物を密輸しようとした農民は、そんな試みを思い留まらせる為に
容赦なく虐殺されたのでした。
容赦なく虐殺されたのでした。
この時の1554年から55年の包囲戦でシエナの3000人の女性達が
何をしたか、
何をしたか、
小要塞を築き、町の自由を守るために立ち働いたのです!
これは守備隊のモンリュックがシエナの女性を讃える為に書き残しており、
場所は、シエナの町の北方を守る「カモッリア門・camollia」から
数メートル左に、未だうっすらと残っていると。
まず地図で、カモッリア門の位置を。


シエナの女性達の先頭に立ったのは、3人の貴族女性で、
ラウドミア・フォルテグエッリ・ Laudomia Forteguerri 1515年生まれ
ファウスタ・ピッコローミニ・Fausta Piccolomini 1525年頃生
リヴィア・ファウスティ・Livia Fausti
一番上のラウドミア・フォルテグエッリは詩人としても有名な女性だった様で、
いずれも肖像画も残っておらず、詳細は分かりません。
いずれも肖像画も残っておらず、詳細は分かりません。
このカモッリア門が造られたのは、1527年から32年に掛けてで、
1526年にこの近くの城壁で起こった戦いで、いくつかの弱点が
露呈したのを受け、
彼女たちは、鶴ハシ、シャベル、もっこを担ぎ、当時の多くの支払い証明書
から分かる様に、専門の労働者と石工が建設に取り組んだのでしょうが、
から分かる様に、専門の労働者と石工が建設に取り組んだのでしょうが、
彼女たちは大いに協力し、自分たちの町を、自由を守る為、働いたと!!
要塞の建設工事は、町の売春婦への課税による収益も注ぎ込まれた様で!
これも大きな一助ですよね?!
これも大きな一助ですよね?!
2005年に行われた歴史考古学調査により分かった事は、
砦は凝灰岩層の上にあり、壁が現在の床の高さから約3,6m下まで続き、
地下の壁にも発射口があり、そこに挿入された大砲が右から左へのより広い
発射角度を持つように、強く広げられており、
そして2つの発射命令の分散により、長辺に見える四角形の砲口に軽砲、
火縄銃などを収容する事が可能で、
火縄銃などを収容する事が可能で、
抜け穴には大砲があり、短辺には大きく見えるそう。
従って、カミッリア門から西側のフォンテジュスタ・Fontegiustaまで
約180度の発射角度をカバーする、巨大な「機関銃」が備わっていた、と。
現在、砦の入り口は閉ざされており、

こちらが3Dによる再構成図。 穴の大きさの違いも分かりますね。

砦へのアクセス方法は、多分崩壊によって中断された地下通路から、
または回路自体の2次扉から、マルタ通りにある、現在は塞がれ、
または回路自体の2次扉から、マルタ通りにある、現在は塞がれ、
埋められている場所からで、上の写真に見えますね。
外に見えている小要塞の写真はこれで、再構成図の様に角が。

こちらが現在のカモッリア門。

シエナのドゥオーモのピッコローミニ図書館のピントゥリッキオの
壁画にも登場していましたっけ。
既に何年も前から、この地区イーストゥリチェ・ハリネズミの
コントラーダの女性達が、地区の守護聖人バーソロミューの祝祭の時に
この砦の前で、他のコントラーダの女性と共に、女性のみが参加する
夕食会を開いているそうで、
この砦の前で、他のコントラーダの女性と共に、女性のみが参加する
夕食会を開いているそうで、
果敢にシエナを守った女性の先達達への献呈ですね。
こうして厳しい状態の1554年が過ぎ、1555年になると遂に失望の後に
交渉による解決策についての話し合いが始まり、
交渉による解決策についての話し合いが始まり、
遂に1555年4月7日、降伏が調印され、
条件は少なくとも明らかに穏やかで、「町とシエナ共和国をその保護と
防衛下に置く」が、「前述の町を共和国に」自由を与えましたが、
防衛下に置く」が、「前述の町を共和国に」自由を与えましたが、
それは「監視された自由」だったものの、
モンリュックとフランスの守備隊は軍の栄誉を得て、邪魔なしに町を離れ。
シエナの町人口は、包囲前には約4万人だったのが、約6000人に減少し、
降伏と帝国軍の侵入に続く数日間、勝利者の真の意図に不信感を抱く
多くの人々、約700人がピエロ・ストロッツィが定住したモンタルチーノに去り、
多くの人々、約700人がピエロ・ストロッツィが定住したモンタルチーノに去り、
モンタルチーノの城 入り口上にシエナの白黒の紋が見えますか?

「モンタルチーノの下のシエナ共和国」を宣言し、いつの日か、
首都に完全な自由をロ地戻すことを望んで留まったのですね。
4年間!!
首都に完全な自由をロ地戻すことを望んで留まったのですね。
4年間!!
ずっと以前、モンタルチーノはシエナに心服し、シエナの敗北後にも
独自の貨幣鋳造を行ったりした、というのを読んだ時は、
この戦争後の事とは何も知らずで、今回、そういう事だったのかと。
独自の貨幣鋳造を行ったりした、というのを読んだ時は、
この戦争後の事とは何も知らずで、今回、そういう事だったのかと。
1555年5月にカラファ枢機卿が教皇パオロ4世として選出され、
スペイン嫌いの教皇の事と、フランスは再び希望を持ち、
1556年アンリ2世はギーズ公指揮下の軍隊をイタリアに派遣。
が、1557年8月10日、サン・カンタンの戦いでフランスが敗北、
全ての幻想が消え、終焉を迎えたのでした。
全ての幻想が消え、終焉を迎えたのでした。
サン・カンタンとはどこにある、というと、なんとフランスの最北で、

シエナとフィレンツェの対戦が、こんな所で?!
まさにイタリアの2つの町は、フランスとスペインの駒だったのを了解!
まさにイタリアの2つの町は、フランスとスペインの駒だったのを了解!
ギーズがフランスに呼び戻されただけでなく、モンリュックと
ストロッツィも一緒にイタリアを去り、
遂に1559年4月にカトー・カンブレシス条約が結ばれ、
60余年に渡る「イタリアの恐ろしい戦争・シエナの戦争」も終焉を。
60余年に渡る「イタリアの恐ろしい戦争・シエナの戦争」も終焉を。
1557年7月には早くもコジモ1世が、スペインのフェリペ2世から領地として
シエナを取得、メディチ家の支配下でトスカーナ全土を統一するという
夢を実現した、と言いたいのですが、
トスカーナの地の殆どで、ルッカ共和国が独立を保ち、というのも、
スペインの戦略的理由から、ティレニア海岸一部を留保したからで。
スペインの戦略的理由から、ティレニア海岸一部を留保したからで。
シエナは「フィレンツェの下に」ではなく、スペインがメディチ家に
多額の借金をしており、その支払い代わりに譲られたので、
「メディチ家の下に」領土が入った、という事になり、
これは独立に執着している住民の感情を余り刺激しないようにと、
そうなのです、シエナ共和国の旗には、LIBERTA・自由 と大書あり。
で、代々メディチ家からの統治者がやって来ていた、という事も。
これでシエナのパリオのコントラーダの区画線を、オーストリアから
が決めた、というのも、そういう事だったのか、とすんなり納得、ははは。
「新しい国」としての行政上の自治権も広く認められ、
これはメディチ家が滅ぶ1737年迄続き、
これはメディチ家が滅ぶ1737年迄続き、
その後は1861年のイタリア統一まで、トスカーナ大公国の一部と。
分かっている気がしたままでずっと来ていたのでしたが、
実際に知ってみると、大変だったんだねぇ、と愛しい気も沸き、
シエナの女性たちの健気さにも感嘆し、
どこの町でも戦時の大変さの下、残された女性たちの逸話が
必ずありますが、それにも心を打たれ、
必ずありますが、それにも心を打たれ、

今の平和時に生きれている自分を、心の底から有難く思う気持ちです!
長いお付き合い、有難うございました!!
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