先週フィレンツェのピッティ宮で開催中の
「エレオノーラ・ディ・トレドと、フィレンツェのメディチ宮廷の発明」

を見に出かけ、ほんの少ししか知らなかったピッティ宮内も再度
見れたチャンスと、
ちゃんと見たかったアーニョロ・ブロンズィーノの絵もしっかりと!
ですが、さてこうしてブログに取り上げるとなると、何を、どの様に、と
悩み、結局余り知らなかった展覧会の主人公であった、
エレオノーラ・ディ・トレドについてのみに絞ろうと思います。
悩み、結局余り知らなかった展覧会の主人公であった、
エレオノーラ・ディ・トレドについてのみに絞ろうと思います。
皆さんも、きっとブロンズィーノが描いた彼女のこの肖像画は
ご存じと思いますし、
ご存じと思いますし、

彼女自身もこの肖像画により、不滅になったと思える素晴らしい絵。
勿論shinkaiめもパシャパシャと細部もしっかり撮ったのでしたが、
なにせ照明がきつく、油絵だと反射しやすく、顔の色も違ってきますし、
手持ちのコンパクトで気軽に取れるものの・・、うう~んという出来も多く、
なにせ照明がきつく、油絵だと反射しやすく、顔の色も違ってきますし、
手持ちのコンパクトで気軽に取れるものの・・、うう~んという出来も多く、
エレオノーラについての記事を探していて見つけた
力の優雅さ。 ブロンズィーノのエレオノーラ・ディ・トレド
L'eleganza del potere. Il ritratto di Eleonora di Toledo del Bronzino
力の優雅さ。 ブロンズィーノのエレオノーラ・ディ・トレド
L'eleganza del potere. Il ritratto di Eleonora di Toledo del Bronzino
に、まさに私めが軽~く負けた写真があれこれ見つかり拝借を。
そして夫々の細部事項については、例によりウィキペディアより。
エレオノーラ・ディ・トレド・Eleonora di Toledo (1519-1562)
本名はもっともっと長く、スペイン生まれのスペイン人。
10歳を過ぎた時、父のペドロ・アルバレス・デ・トレド侯が1532年から
ナポリ総督、スペイン副王として一家はナポリに移住、という経緯。
父君の肖像。 今回の展覧会に展示で、ティツィアーノ作

実はこの方、先回のブログで「シエナ共和国の最後」を書いた時、
フィレンツェ側への兵力応援の件で出てこられた方で!
フィレンツェ側への兵力応援の件で出てこられた方で!
自身もフィレンツェに来られたのが、その後暫くして亡くなられ、
エレオノーラが即ナポリに、肖像画を注文した、というその実物が
同会場にあったのですが、
同会場にあったのですが、
それがなんとも、このティツィアーノ作を入り口近くで見た後、
いや、見なくとも、大きいものの、酷い絵で!
いや、見なくとも、大きいものの、酷い絵で!
逆に改めての、ティツィアーノの絵の良さが際立つ、という事で、
当たり前ながら、いぇえ、勿論撮っておりませ~ん。
当たり前ながら、いぇえ、勿論撮っておりませ~ん。
エレオノーラ・ディ・トレドが、フィレンツェ公コジモ(1519-1574)と
サン・ロレンツォ教会で結婚したのが、1539年6月30日。
が、コジモ1世が最初から彼女と結婚を、と望んだわけではなく、
最初は、神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王であるハプスブルグ家の
カルロ5世の庶子、オーストリアのマーガレットと、

先代の暗殺されたフィレンツェ公アレッサンドロ・ディ・メディチの
妃で未亡人、と結婚したいとカール5世に表明したのでしたが、
妃で未亡人、と結婚したいとカール5世に表明したのでしたが、
皇帝は娘の為に別の計画を立てており、コジモにナポリの大変裕福な
副王ペドロ・ディ・トレドの長女イザベッラはどうかと。
副王ペドロ・ディ・トレドの長女イザベッラはどうかと。
所がフィレンツェのナポリ大使からの返事は、「とても醜く、頭脳は
ナポリの嘲笑」とあり、 ・・はは、と笑ってはいけませんが、
ナポリの嘲笑」とあり、 ・・はは、と笑ってはいけませんが、
次女のエレオノーラは、「美しく、新鮮で、薔薇の様にカラフル」と。
で、コジモは強く次女を希望し、最終的に父君が折れ、という事で!
勿論当時の結婚は政略結婚で、利害関係が最初に来るもので、
実際にエレオノーラの婚資は長女に比して少なくはなったものの、
実際にエレオノーラの婚資は長女に比して少なくはなったものの、
それでも政治的にも資金が幾らでも欲しいメディチ家当主に、
新生国家の成長に非常に役立つ影響力の大きな親族関係も
もたらした、大きな幸運を運んできた女性であり、
新生国家の成長に非常に役立つ影響力の大きな親族関係も
もたらした、大きな幸運を運んできた女性であり、
出会った2人の間の愛はすぐ猛烈に燃え上がり、これは当時の
結婚としては大変珍しい事でもあり、良かった、よかった!!
結婚としては大変珍しい事でもあり、良かった、よかった!!
結婚当時の2人は、コジモ20歳、エレオノーラ17歳。
若い2人だったのですねぇ。
若い2人だったのですねぇ。
となると、当時のフィレンツェ、そしてコジモについてのお話も少し。
彼は、「ルネッサンス最後の傭兵隊長」と呼ばれた軍名名高い
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ・黒旗のジョヴァンニとも呼ばれた
(1498-1526)と、
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ・黒旗のジョヴァンニとも呼ばれた
(1498-1526)と、

マリア・サルヴィアーティ(1499-1543)との間の1人息子。

コジモの祖母、ジョヴァンニの母が、「ルネッサンスの女丈夫」と
呼ばれたカテリーナ・スフォルツァでもあり、メディチ家傍系ですが、
この方の素晴らしい逸話をご存じですよね?
城が包囲され、明け渡さないと人質の息子を殺すぞ、と言われた時、
砦の上に立ち、スカートをパッとめくり、「息子くらい、何人でも生める」
と言ったという方で!!
母方からいうと、マリア・サルヴィアーティの母親が
ルクレツィア・デ・メディチで、
かのロレンツォ・イル・マニーフィコの娘という本家の流れ。
かのロレンツォ・イル・マニーフィコの娘という本家の流れ。
で、アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺された時、
母親のマリア・サルヴィアーティとフィレンツェから離れた山中の
ムジェッロ・Mugelloの要塞で過ごしていた当時17歳のコジモに、
フィレンツェ代表から迎えが行ったのですね。
父親のジョヴァンニは、コジモの顔を見た事があったのかどうか、
という程に戦闘に明け暮れた毎日で、
コジモが僅か7歳の時に鉄砲傷からの破傷風、壊疽で亡くなっており、
フィレンツェの政府側としては、わずかな従者を率いて街に出て来た、
若く、礼儀も良く、大人しそうな若者、
狩りと女に熱中するだけの若者であれば御しやすい、と思ったのでしょうが、
若く、礼儀も良く、大人しそうな若者、
狩りと女に熱中するだけの若者であれば御しやすい、と思ったのでしょうが、
なんの何の、祖母のカテリーナの血、若くして亡くなった父の血と
闘志をしっかり引いたコジモで、
権力を与えられるや否や、アレッサンドロ暗殺に関わったロレンツィーノの
継承権を除外、評議員を追放し、絶対的な権限を継ぎ、
17歳で公爵位を。
継承権を除外、評議員を追放し、絶対的な権限を継ぎ、
17歳で公爵位を。
19歳のコジモ。 ブロンズィーノ作

そして、ポントルモ作。 お気に入りの黒い衣装で。

きっと惚れ惚れする、メディチ家の若様、だったのでしょうねぇ!
こうして3年後に、財産豊かな、若く美しい花嫁を得て、
街の政権も握り、現在のトスカーナの大部分を支配する位置に。
さて、前置きが長くなりましたが、ではいざいざ、ピッティ宮に!

このピッティ宮は、かってのメディチ家に対し謀反の狼煙を上げた敵、
その名の通りピッティ家がメディチ家以上の建物を、という事で建設を
始めたものだそうですが、
結局滅び去ったままになっていたのを、メディチ家が買ったものと。
その名の通りピッティ家がメディチ家以上の建物を、という事で建設を
始めたものだそうですが、
結局滅び去ったままになっていたのを、メディチ家が買ったものと。
つまり、どうだ、これでもか、という様な意気込みが感じられるせいか、
あまり好きな建物ではなく、失礼、

でも上を眺めると、それぞれの石が綺麗に並んでいる訳でもなく、面白く、

ライオン君達が、それぞれに顔をしかめて見せてくれ、ははは、

若い新婚の2人は、現在の「メディチ・リッカルディ宮」に住んだものの、
じきに手狭となり、
じきに手狭となり、
メディチ・リッカルディ宮 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html
当時シニョーリア宮と呼ばれていた現在の「ヴェッキオ宮」に移住します。
n.1 フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595223.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595223.html
n.2 フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595718.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595718.html
ダンテの時代よりシニョーリア宮は行政官、執政官のみの住まいで、
女性が足を踏み入れる事は無かったのだそうで、憤慨する者もおり、
が、若い2人は意にも介さず、建物の中はひっくり返され、
修復され、装飾され、
公爵夫人は行政長官のアパートに住み始め、
公爵夫人は行政長官のアパートに住み始め、
最上階のテラスは徐々に子供達で埋まり始め、
これは明確な街の市民達へのメッセージ、
「メディチ家は今や唯一の支配者」と。
こうして約10年経ち、エレオノーラの才覚による新たな富により、
さらに拡大する時が来て、
中世の部屋には十分な光や健康的な空気が入らず、街の壁の外、
アルノ河の向こう、田舎のボーボリに引っ越すことが必要となり、
アルノ河の向こう、田舎のボーボリに引っ越すことが必要となり、
経済的才覚豊かな侯爵夫人は必要な9000フローリンを引き出し購入し、
コジモは修復、建て増し、装飾に必要な芸術家を召喚し、建物は徐々に
庭園とレモンの木立に囲まれて行きます。
庭園とレモンの木立に囲まれて行きます。

今回の「エレオノーラ展」の会場は、入り口を入って直ぐの左側1階、
「大公、王のアッパルタメント」が会場となっており、
ご覧の様に大変に天井の高い大広間で、全てが騙し絵のフレスコ画で
埋められており!
埋められており!

こんな風に、エレオノーラのあの肖像画が迎えてくれ、

部屋の騙し絵の素晴らしさに見惚れましたので、これはまた別のご案内、
という事でお楽しみに!
という事でお楽しみに!
新婚当時から、コジモは「彼女をとても愛しているので、彼女なしでは
どこにも行けない」
「公爵と侯爵夫人はお互いに恋をしていて、一方が他方なしでいる事は
決してありません」と。
決してありません」と。
メディチ家に入った最も魅力的で美しい花嫁で、繊細な特徴を備えた
完全な卵型の顔、広い額、細いまつげ、コジモを魅了した目は大きく暗く・・。
完全な卵型の顔、広い額、細いまつげ、コジモを魅了した目は大きく暗く・・。
金髪で青い目、と書かれたものもあるのですが、
濃い赤毛、かもしれませんが、ブロンズィーノの絵を見る限り茶色の瞳に
描かれており、

いずれにしても、コジモは恋に落ち、彼女に忠実で、そして尊敬していた、と。
この作品に見える真珠のネックレスは、コジモの母親、(コジモからと
書かれたのもあり)結婚のお祝いに贈られたものと。
書かれたのもあり)結婚のお祝いに贈られたものと。
彼女はとりわけ真珠が好きだった様で、それについては金細工で有名な
ヴェンヴェヌート・チェッリーニが書き残している面白い逸話があり、
ある時チェッリーニは公爵夫人に呼ばれ、出入りの商人からの何連もの
真珠のネックレスが欲しく、それを公爵に「良いものだからどうぞ」との
口添えをしてくれ、と頼まれたものの、
真珠のネックレスが欲しく、それを公爵に「良いものだからどうぞ」との
口添えをしてくれ、と頼まれたものの、
明らかに大きな欠陥のあるネックレスで、引くに引けず、かといって
嘘を公爵に言う訳に行かず、冷たい目で睨む公爵夫人に背を向け、
嘘を公爵に言う訳に行かず、冷たい目で睨む公爵夫人に背を向け、
公爵に、涙いっぱいの目、低い声で、口添えを頼まれましたが、
これは良いものとは言えません、と言ったのだそうで。
これは良いものとは言えません、と言ったのだそうで。
結局公爵夫人は真珠を手に入れたものの、ははは、
夫婦間のもめ事もあり、ははは、
夫婦間のもめ事もあり、ははは、
それ以来、チェッリーニがお伺いすると、公爵夫人は留守で、
公爵の方は喜んで迎えたのだそうで!!
公爵の方は喜んで迎えたのだそうで!!
そして結婚指輪の無いのに気が付かれましたか?

指輪が描かれた肖像画もあるそうですが、素敵な指輪で、
彼女はとても大切にしていたそうで。
彼女はとても大切にしていたそうで。
所で有名なこの肖像画の衣装ですが、実際にエレオノーラの高価な
衣装であった訳ではなく、
衣装であった訳ではなく、

ブロンズィーノが見本を取り寄せ、意匠を考え描いたのだそうで、
青いバックの色と白は、エレオノーラの家の家紋の色であり、
右下に見えるクッションの赤と金色は、メディチ家の色なのだそう。
子供の衣装も、濃いめの青に金糸の織り込みのようで、

衣装下のシャツの刺繍なども、専門の職人か、それとも母親自身
大変素晴らしい手芸の技を持っていたと。
大変素晴らしい手芸の技を持っていたと。
妻に対する夫の愛情はともかく、フィレンツェ人の感触は違い、
というのも、彼女は幼い頃から与えられた厳格な教えで、
非常に傲慢な態度を欠く事はなく、
非常に傲慢な態度を欠く事はなく、
スペイン人のお付きに囲まれ、スペイン語で話しながら、
街を行くのもベルベットのお輿に乗ってで、か、馬に乗ってで、
街の人々と、庶民と交流する事はなく、あっても非常にまれだったと。
そして彼女の子供達の名前も、イザベッラ、フェルディナンド、
ガルツィアと、彼女の母国との妥協点スレスレであり、
フィレンツェ人の目には、彼女が不快で、無関心になった
全ての態度なのですね。
全ての態度なのですね。
今回彼女についての私めの関心をひきつけたのは、イタリア語を
話さなかった、というのを読んでで、
本当に?!と知りたかったのが切っ掛けだったのですが、
確かに余り喋る事もなく、いつもスペイン人お付きに囲まれていた様子。
最も夫のコジモとの日常会話はイタリア語だったのだろうと想像しますが、
確かな事は分かりません。
確かな事は分かりません。
かといって、彼女が庶民に対して示した寛大さの証拠には事欠かず、
莫大な施しをし、困窮している少女の持参金を作のを援けたり、
教会、修道院、援助団体への支援も勿論で。
莫大な施しをし、困窮している少女の持参金を作のを援けたり、
教会、修道院、援助団体への支援も勿論で。
夫との仲は睦まじく、コジモとの結婚中の激しい愛の証拠として、はぁ、
18歳から32歳の間に、11人の子を産みましたが、
その中で長生きできる幸運な子が殆どいなかったのは、不運でした。
ここには8人の顔のみの小品が並んでいて、

多分まだオムツの時に亡くなった3人が、ピエロ、アントニオ、
アンナが描かれていないのだろうと。
今回一番に取り上げられている、青の背景の豪華な衣装の肖像画でも、
隣にいる子は、一番上の子ではなく、2番目のジョヴァンニ、で。
フェッラーラ領主との結婚直後に熱で亡くなった、夫の殺害された、
ともいうルクレツィア、
マリーア、ジョヴァンニ、ガルツィアも、母親エレオノーラとのマレンマの
旅行中にマラリア熱で亡くなり、
旅行中にマラリア熱で亡くなり、
この時に唯一生き残ったフェルディナンドが、後に兄のフランチェスコ大公の
謎の死の後に大公位を継ぎ、家族の中で唯一長生きをしたのでした。
謎の死の後に大公位を継ぎ、家族の中で唯一長生きをしたのでした。
イザベッラは、家族の中で元気で明るかったのが、パオロ・オルシーニとの
結婚後の、夫の従弟との関係で夫に殺され、
結婚後の、夫の従弟との関係で夫に殺され、
一家の女性達の中では一番の長生きだったものの、結局生き残れず。
今回の展示会の趣旨説明に、エレオノーラは夫と同じくらいに野心的で、
夫と協力し、とありましたが、
確かに模範的は妻であり、母であり、コジモのしばしばの嵐と浮き沈みを
和らげることが出来、
和らげることが出来、

公爵の不在時に政府を巧みに管理できる女性で、
例えば長く続いたシエナとの戦争時には、彼女は政治とビジネスの
素晴らしい感覚を示し、
素晴らしい感覚を示し、
自身でピッティ宮殿と周辺農場の交渉と購入を管理し、
不動産や土地への慎重な投資を通じ、財政を強化するという彼女の
方針に大きく依存。
不動産や土地への慎重な投資を通じ、財政を強化するという彼女の
方針に大きく依存。
穀物と資料の取引管理のみでなく、投資を賢明に多様化し、
幾つかの例を挙げると、魚、蜂蜜、絹用の桑栽培、牛乳とチーズ用の
子牛、羊の飼育、鉱山等などと。
子牛、羊の飼育、鉱山等などと。
家の名を飾る為の金銭でない限り、家計に必要な経費の管理を
きっちりと行い、
きっちりと行い、
小さな近代的な国立銀行の様に、フィレンツェの公的債務の帳簿を
購入する事さえし、
購入する事さえし、
コジモ自身が彼女から多額のお金を借りたそうで!
こうして侯爵夫人は良く推測しつつ運用し、上手く行く時は最大
35%も多く稼ぐことが出来たと!
35%も多く稼ぐことが出来たと!
こうして消耗した家運を、長年かけて上昇させたのは彼女だったと。
これはもう、2人の結婚は単なる男女の結びつきではなく、
鉄の結婚だったわけですねぇ。
鉄の結婚だったわけですねぇ。
コジモ1世メディチの胸像の新発見 と、 ニューヨークでのメディチ家展
https://www.italiashiho.site/archives/20210603-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20210603-1.html
侯爵夫人は、現在のウッフィッツィ館の建設の始まりを見ましたが、
ヴァザーリ回廊を楽しめる迄生きてはおれず、
ヴァザーリ回廊を楽しめる迄生きてはおれず、
この時期の肖像画は彼女の苦しみを示しており、

この作品はブロンズィーノの弟子の作品。
何年も肺結核に苦しんでおり、当時の冬の辛さはねぇ!
これは鉄のコルセットで、肺結核治療で使われたものだそう。

展示されていた絹糸の手編み室内着だったと、それに金糸、銀糸での
クロスステッチ刺繍。
クロスステッチ刺繍。



こちらは衣服の下のシャツ、というか、

これにも細かいクロスステッチの刺繍入りで、この襟ぐり部分が
肖像画の襟ぐりの下にチラッと覗く仕組み、のようで。
肖像画の襟ぐりの下にチラッと覗く仕組み、のようで。

いずれにしても、大変に細かい針目で、膨らみの線も作ったりで、
大変な手仕事!
大変な手仕事!

こちらは、いわゆる室内履きで、踵がとても高く!

チョピン、またはショピン、15世紀のサンダル・つっかけは、50cmの高さ迄!
https://www.italiashiho.site/archives/20210628-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20210628-1.html
他のブロンズィーノの絵もあったのですが、今回は省略させて頂き、
エレオノーラの持ち物として、最後に1品、「金の本」を。

いわゆる「時祷書」、お祈りの為の小さな本で、掌に乗る
長さ15cm程あるかな、という大きさで、
細密画付きのとても美しい、高価な本で。
撮るのがとても難しく、済みません、ブレ、ピン甘ご容赦。
エレオノーラは、1562年にわずか40歳の若い死を、マラリア熱で
子供3人と共に亡くなりましたが、
子供3人と共に亡くなりましたが、
喜び、痛み共に大きく、激しい、そして愛に満ちた人生だったのでは
ないかと思います。
ないかと思います。

残された夫のコジモ大公は、彼女の亡くなった後、再婚するも上手く
行かなかったようで、大公位も引き、心臓発作を起こしての不自由な
晩年だった様子。
如何にもの癇癪持ちだったろう表情の、若き日の肖像が
少しの哀れさも伴いつつ、懐かしく感じられたのでした。
少しの哀れさも伴いつつ、懐かしく感じられたのでした。
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