
を読んだのですが、最初は名前だけは知っている彼女に
ついての単純な興味からで、
ついての単純な興味からで、
ちょうど19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの、大きな
時代の動きの中で身動きままならず、
時代の動きの中で身動きままならず、
また政治にはまるで疎かったらしい彼女の、同性として考えると
逆に如何にも女らしい、同情も出来、でも好きではない!
そんな生き方に哀れさも感じ、
逆に如何にも女らしい、同情も出来、でも好きではない!
そんな生き方に哀れさも感じ、
ここに載せるのをかなりためらっていたのでした。
でも、きっと皆さんも名前程度は知ってるけど、という感じだろうと、
いわゆるダンサーと言っても、ストリップと大差ない踊り、
それよりもその踊りで、有名なお金持ちの男性を引き寄せる為の
煽情的な踊りで、
それよりもその踊りで、有名なお金持ちの男性を引き寄せる為の
煽情的な踊りで、

つまり次々と愛人として、高級娼婦として上流社会に出入りし、
世を渡っていた女性が、
世を渡っていた女性が、
いざ第一次大戦が始まると、敵味方となったドイツとフランスにとって、
どちらにも繋がりのある彼女が格好のスパイとして目を付けられ、
どちらにも繋がりのある彼女が格好のスパイとして目を付けられ、
お金の提示で使われ、支払われず、そうなっても最後まで見極めが
つかなかった哀れさというか、
つかなかった哀れさというか、
逆に嵌められ、最後は有罪判決を受け処刑され消えた女、と
いう次第をここに。
いう次第をここに。
成り行きがかなり複雑で、関わる人名も多く、彼女の変遷も大きく、
読んで頂くのに、最初の記事を基に、少し端折って行きますが
ご理解願います。
読んで頂くのに、最初の記事を基に、少し端折って行きますが
ご理解願います。
マタ・ハリ・Mata Hari なる名で通じる有名女性ですが、
本名マルガレッタ・ゲルトルーダ・ゼル・Margaretha Geertruida Zelle
1876-1917 オランダ生まれ
名前の読みも日本版ウィキでは、マルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ
となるようですが、ここではマルガレッタと書かせて頂きますね。
となるようですが、ここではマルガレッタと書かせて頂きますね。
勇気があり、聡明で、舌の才能があり、他のオランダの子供達の
色白の肌と金髪の髪の中で、少し浅黒い肌と黒髪、黒い目と際立った
エキゾチックさで目立つ容姿を持っていたそうで。
色白の肌と金髪の髪の中で、少し浅黒い肌と黒髪、黒い目と際立った
エキゾチックさで目立つ容姿を持っていたそうで。
上の写真、最初のは1910年、2枚目は1906年と。
彼女を溺愛し、高価なプレゼントを浴びせた父親のアダム・Adamは、
1890年に家族を残し他の女性と去り、
自分が望むものを男性に与えさせる最善の方法は、男性を喜ばせる事、
と彼女は幼い時から理解していた様で、
と彼女は幼い時から理解していた様で、
母親アンチェ・Antjeは数年後、マルガレッタが思春期に入った時に
亡くなり、
亡くなり、
甘やかされ、性的に早熟な14歳の少女は、教師になる為に学校に
送られたものの、数年後にそこの校長と関係を持ち追放に。
送られたものの、数年後にそこの校長と関係を持ち追放に。
こうして彼女は、オランダ領東インド(現インドネシア)での任務から
戻って来た植民地の役人でいっぱいの街ハーグ・Den Haagで
戻って来た植民地の役人でいっぱいの街ハーグ・Den Haagで

名付け親(後見人)と、または叔父と暮らす様に。
この辺りの記録は、あれこれ違いがあるのですが、ご了解を。
18歳の時、退屈し不幸で、冒険に憧れていた彼女は、新聞広告の
「愛すべき性格の女の子」と結婚したい、という、
オランダ将校の1人ルドルフ・マクラウド大尉・Rudolph MacLeod
の広告に反応します。
彼女はインドに住む将校達が豪華な邸宅に多数の使用人と
住んでいるのを知っており、
こういう結婚は、より良い人生の最短ルートと思い、
こういう結婚は、より良い人生の最短ルートと思い、
後年インタヴューで、「私は太陽の下で蝶のように生きたかった」と
答えた様に、反応し、
答えた様に、反応し、
最初の出会いから6日後に婚約、
1895年7月に結婚を。 19歳。

が実際は彼女の予想と異なり、夫となったマクラウド(1856-1928)
は21歳年上の、糖尿病とリウマチに苦しむ植民地から回復期休暇の
39歳の男性で、
は21歳年上の、糖尿病とリウマチに苦しむ植民地から回復期休暇の
39歳の男性で、
おまけに殆どお金がなく、多額の借金があり、かなりの数の婚外交渉も!
新婚旅行後、夫婦はアムステルダムのルドルフの妹ルイーズの家に
同居し、1897年1月30日、彼らの最初の男の子ノーマン・ジョン・
Norman Johnが生まれます。
同居し、1897年1月30日、彼らの最初の男の子ノーマン・ジョン・
Norman Johnが生まれます。
5月に一家はジャワ島に向け出発、島の中心部の村で、
大尉は任務を再開。
大尉は任務を再開。
彼は以前と同様の不安定な生活を再開、が、彼女は他の男性の
注目を集め、夫は激怒という・・。
注目を集め、夫は激怒という・・。
そして彼女は夫が、植民地兵士の間では非常に一般的な病気である
梅毒を彼女に伝染させている事を発見。
梅毒を彼女に伝染させている事を発見。
当時、有効な治療法はなく、有毒な水銀を使った治療が効果が
あると誤って信じられており、
1898年には娘のルイーズ・ジャンヌが生まれたものの、
夫婦関係は改善せず、
翌年マクラウドは守備隊の司令官に昇進、占領地に別の地域に
移動する事になり、家族を離れ、

2人の子供は恐らく先天性梅毒で、どちらもが病気に。
成人男性の治療になれていた一般開業医は、子供達に過剰な量の
薬を投与し、子供たちは拒絶反応を示し、痛みに身もだえを。
薬を投与し、子供たちは拒絶反応を示し、痛みに身もだえを。
これは辛いですねぇ!! で、最終的に2歳の男の子が死亡を。
狭い社会の中で、誰もが病気の原因を知っており、スキャンダルは
マクロウドの降格に繋がり、夫婦は相互の憎しみを隠す事さえなくなり、
マクロウドの降格に繋がり、夫婦は相互の憎しみを隠す事さえなくなり、
1900年に少佐でマクラウドは定年退職に達し、10月に陸軍を除隊、
1902年、彼らは祖国オランダに戻り、同年別居、その後離婚に。
マルガレッタ 26歳。
マルガレッタ 26歳。
最初は母親に預けられた娘ルイーズ・ジャンヌは、最終的に父親が
親権を持ち、彼の下で育てられます。
親権を持ち、彼の下で育てられます。
離婚後彼女は深く決定的な変化を、それも新しく驚くべき方法で、
新しい自分を再発明する事に。
1903年3月、大都市での冒険を決意し、パリに出て、画家のモデルや
劇場での仕事を探したものの上手く行かず、
劇場での仕事を探したものの上手く行かず、
一旦オランダに戻ったものの、翌年再びパリに戻り、

グランドホテルに住み、男爵アンリ・ド・マルゲリー・
Henri de Marguérieの愛人に。
インドネシアで見憶えていた現地の踊りをそれらしく、知り合った
有名な乗馬学校とサーカスのオーナーのモリエール氏・Molierの
家のパーティで披露した所、モリエールは彼女に熱中!
つまり彼女の踊りは、東洋の神シヴァの巫女の踊りであり?! 神への
愛情深いアプローチを真似したもので、
愛情深いアプローチを真似したもので、
身に纏っていたベールを次々に、殆ど、完全に、脱いで行ったのですね。
こうして次第に人々の話題、視線を集めるようになり、新聞にも載り、
1905年パリにエキゾチックなマタ・ハリなるダンサー、が登場。
マタ・ハリ、マレー語で「夜明け」または「太陽の目」を意味する名で、
東洋美術の中心であるギメ博物館・Guimetでの公演が開かれ、

招待者は首都の経済エリートの代表者600人。
透明なドレス、宝石が散りばめられたブラ、魅力的な頭飾りに
身に纏い、マタ・ハリは全く新しいダンスを披露したのですね。
他の状況ならわいせつ罪で逮捕されたでしょうが、彼女は慎重に計画し、
各ショーの冒頭で時間を割いて、それらはインドの寺院で学んだ神聖な
ダンスであることを伝え、
各ショーの冒頭で時間を割いて、それらはインドの寺院で学んだ神聖な
ダンスであることを伝え、
ダンスを通して、彼女は欲望、嫉妬、情熱、復讐の物語を語り、
聴衆は熱狂的に見守りました。
聴衆は熱狂的に見守りました。

全ての裕福で影響力ある男性が、美しい恋人を傍らに求めていた時代、
マタ・ハリはパリで最も魅力的で望ましい女性と見なされ、
マタ・ハリはパリで最も魅力的で望ましい女性と見なされ、
貴族、外交官、金融業者、上級将校、裕福な実業家と一緒に現れ、
彼らは彼女が一緒に居てくれる喜びの為に、毛皮、宝石、家具、
エレガントな家、または馬を贈り、
彼らは彼女が一緒に居てくれる喜びの為に、毛皮、宝石、家具、
エレガントな家、または馬を贈り、
ヨーロッパ中で彼女は公演し、パリのオデオンでも、イタリアはミラノの
スカラ座でも公演を果たしたのですね。
スカラ座でも公演を果たしたのですね。
とはいえ、時と共に彼女の芸術的キャリアは衰退期となり、
が、高級娼婦として引き続き需要があり、上流階級で人気があり、

1914年7月28日に、第一次世界大戦が勃発しても、
彼女のライフ・スタイルは変わらず、
彼女のライフ・スタイルは変わらず、
フランスの家庭でも石炭、リネン類、食料などの基本的必需品が
欠けているのも認識しておらず、
欠けているのも認識しておらず、
人々は彼女の見せびらかしを、恨みを持って眺め、
何十万もの人々、大人、若者、ティーンエイジャーが戦場に
送られても、安らぎと豊かな生活を続ける人もいるのですね。

そうした世相の中でも、マタ・ハリは頻繁に旅行を続け、
そんな彼女に傍聴の世界が彼女に照準を合わせます。
1915年の秋、彼女がデン・ハーグにいた時、アムステルダムの
ドイツ名誉領事であるカール・クローマー・Karl Kroemerの訪問を受け、
ドイツ名誉領事であるカール・クローマー・Karl Kroemerの訪問を受け、
彼はドイツに有利はスパイ活動を行うために、彼女に2万フラン、
今日では5万フラン以上に相当、を提供する事を申し出、
今日では5万フラン以上に相当、を提供する事を申し出、
彼女は戦争勃発時にドイツ人が没収した毛皮、宝石、お金の補償と
考え、金額を受け入れましたが、仕事は受けず。
考え、金額を受け入れましたが、仕事は受けず。
同年12月、彼女が乗るフランスに向かう船がイギリスの港フォークストーン
に寄港した時、他の乗客と共に諜報員から尋問され、捜索されたものの
罪になる物は何も見つからず、
に寄港した時、他の乗客と共に諜報員から尋問され、捜索されたものの
罪になる物は何も見つからず、
警官は、「彼女は仏語、英語、伊語、蘭語、そしておそらく独語も
話し、美しく、勇敢なタイプ、ファッションに身を包み」と書きとめ、
話し、美しく、勇敢なタイプ、ファッションに身を包み」と書きとめ、
彼女についての意見は? 「疑惑から免れません・・英国に戻る事を
許されるべきではない」と。
許されるべきではない」と。
パリに戻り、戦争の被害を殆ど免れたグランド・ホテルに住んでいた
マタ・ハリは、男性の注目に慣れ過ぎており、少なくとも最初は
自分がフォローされている事に気が付かず、
新しく創設された戦争省の防諜局の責任者であるジョルジュ・ラドゥ・
Georges Ladouxは、 彼の名を記憶におとどめを!
エージェントに、レストラン、公園、ティー・ルーム、ブティック、
ナイトクラブの間を移動する彼女の追跡を命じており、
ナイトクラブの間を移動する彼女の追跡を命じており、
通信をチェックし、電話での会話に耳を傾け、会合を細心の
注意で記録したものの、
注意で記録したものの、
関連情報をドイツのエージェントに送信した、という証拠は
見つからず。
が、1916年、戦争はフランスにとって悪い方向に進み、
ベルダン・Vwrdunとソンム・Sommeの、最も血腥い戦いの
2つで、何か月もドイツと衝突し、

泥、劣悪な公衆衛生、病気、ホスゲン・ガスの新たな恐怖により、
何十万人もの兵士が倒れ、死亡し、
何十万人もの兵士が倒れ、死亡し、
1916年の夏のフランス軍の士気は非常に低く、一部の兵士の
戦闘拒否も起こり、
戦闘拒否も起こり、
ジョルジュ・ラドゥは、大物スパイの逮捕が、フランスの精神を
復活できるかも、と考えたのでした。
復活できるかも、と考えたのでした。
マタ・ハリは、彼女の周囲に張り巡らされた陰謀に気づかず、
他の事で気ぜわしく、
他の事で気ぜわしく、
つまり、フランスと戦った若くて非常に飾りたてられたロシア士官、
ウラジミール「ヴァディム」マスロフ・Vladimir “Vadim” Maslovに、
狂ったように恋をしていたのですね。
ヴァディムはホスゲン・ガスに晒され、片目が見えなくなり、
完全に失明する危険性もあり、
彼女は彼のプロポーズを熱心に受け入れました。
彼女は彼のプロポーズを熱心に受け入れました。

ウラジミールが入院している病院への書類パスの取得を望んでいた
彼女は、戦争省で働いていた愛人の1人であるジャン・ハラール・
Jean Hallaureに助けを求めますが、
彼女は、戦争省で働いていた愛人の1人であるジャン・ハラール・
Jean Hallaureに助けを求めますが、
ハラールは、マタ・ハリは知らなかったものの、ラドゥの防諜局でも
働いており、そちらのオフィスで彼女との約束を。
働いており、そちらのオフィスで彼女との約束を。
という事で、罠にかかった彼女はフランスに仕えるスパイになる
約束と引き換えに通行証を与えられ、
彼女は同意すると同時に、100万フランという法外な金額を要求。
これでウラジミールとの結婚後に、彼の家族が拒否しても、
ヴァディムを維持できると考えての要求金額で、
彼女は他の男性との事で、彼を裏切る様にさせられたくなかったから、
と後の供述書かな、に、書いていると。
ラドゥーは、マタ・ハリにスペインに行き、それからデン・ハーグに
船で行き、そこで必要な指導を受ける様にと命じます。
意味深長な事に、ラドゥはマタ・ハリに情報を渡す様にとか、特定の
任務を割り当てたり、彼とのコミュニケーションに必要な手段や
任務を割り当てたり、彼とのコミュニケーションに必要な手段や
資金の提供はしませんで、
任務中に重要人物を誘惑しなければならない場合に備え、ワードローブ
を新しくする為の前払いを求める手紙を、彼に普通郵便で送ったのは
彼女だったのですね。
を新しくする為の前払いを求める手紙を、彼に普通郵便で送ったのは
彼女だったのですね。
マタ・ハリは命令に従いスペインに行き、オランダに向かう船に乗船。
船は英国の港に寄港し、そこで彼女は英国のエージェントの
疑惑を再度引き起こし、ロンドンに連行され、尋問を。
今度も何も発見されないものの、エージェントは本当に彼女が彼女か、
漠然と似ているドイツのスパイ、クララ・ベネディクス・Clara Benedix
ではないかの判断の為に彼女を拘束。
漠然と似ているドイツのスパイ、クララ・ベネディクス・Clara Benedix
ではないかの判断の為に彼女を拘束。
11月16日、マタ・ハリは釈放されようと必死で、フランスに仕える
エージェントで、ラドゥの下で働いている事を告白し、
エージェントで、ラドゥの下で働いている事を告白し、
英国当局がフランス人局長に連絡すると、「何のことか分かりません。
彼女をスペインに送り返しなさい」と。
彼女をスペインに送り返しなさい」と。
明らかに上司の裏切りで、英国の記録ではラドゥの完全な答えの
要約は次の様に。
要約は次の様に。
「彼は長い間彼女を疑っており、ドイツ人のために働いていたという
決定的な証拠を得るために、彼女を雇う振りをしており、
彼女の有罪の具体的な証拠が見つかった事を知り、喜んだだろう」と。
決定的な証拠を得るために、彼女を雇う振りをしており、
彼女の有罪の具体的な証拠が見つかった事を知り、喜んだだろう」と。
マドリッドに戻ったマタ・ハリは、市の軍事機密を調査する事にし、
スペインへの任務中のドイツ外交官アーノルド・カッレ少佐・
Arnold Kalleは彼女の美しさに魅了され、
Arnold Kalleは彼女の美しさに魅了され、
ドイツの潜水艦がモロッコ沖で、弾薬補充をしていたのを漏らします。
この情報をラドゥに伝え、合意した報酬を要求するのを熱望していた
マタ・ハリは、彼に手紙を書きますが、何の返事もなく、
マタ・ハリは、彼に手紙を書きますが、何の返事もなく、
一方彼女はまたフランス大使館のジョセフ・デンヴィーニュ大佐・
Joseph Denvignesとの関係を維持しますが、
Joseph Denvignesとの関係を維持しますが、
彼は彼女が夕食に出かけたり、他の男性と踊ったりが耐えられず、
彼の嫉妬を宥める為に、ラドゥーの下で働いている事を説明し、
彼女が知っている全ての秘密を彼と共有しますが、
デンヴィーニュは彼女に、モロッコへの上陸計画についてカッレから
更に情報を得る様に依頼。
彼女は試すものの、質問が多すぎ、ドイツの外交官が逆に疑いを。
デンヴィーニュがパリに出発するのを利用し、マタ・ハリは長い
有益な手紙を書き、ラドゥに届ける様依頼します。
1916年12月に、ラドゥはエッフェル塔に設置された局を通じ、
マドリッドとベルリン間の全ての無線メッセージの傍受と制御を命じ、
マドリッドとベルリン間の全ての無線メッセージの傍受と制御を命じ、
ラドゥは後の裁判に、傍受されたメッセージにより、
マタ・ハリがドイツのスパイである事が明確に特定できたと主張します。
彼女は仕事の報酬を期待しパリに戻りますが、ラドゥは彼女に
会うのを拒否し、
また彼女がラドゥに、防諜局・Deuxième Bureauについて尋ねると、
誰もそんな名前は知らない、と答え、
誰もそんな名前は知らない、と答え、
なんとか彼と連絡を取れても、デンヴィーニュに託した手紙を
受け取った事を否定。
エッフェル塔での傍受に何か奇妙な事があったのが、後に明らかになり、
フランスの記録文書では、ラドゥが有罪のメッセージを検察官に通知
したのはその年の4月であり、ラドゥが言う様に12月と1月ではなく、
したのはその年の4月であり、ラドゥが言う様に12月と1月ではなく、
元のメッセージが解読され翻訳される前にメッセージを見たのは、
フランス人局長だけだった様子で、
フランス人局長だけだった様子で、
おまけにこれらが記録から消えている事も明らかに!
そして、これらの内容は、マタ・ハリに対して使われ、彼女に致命的な
結果をもたらしたと言われており、
結果をもたらしたと言われており、
ラドゥ自身、後にスパイ容疑で逮捕されましたが、彼の拘留は遅すぎ、
マタ・ハリを救う事は出来ませんでした。
マタ・ハリを救う事は出来ませんでした。
こちらが、ジョルジュ・ラドゥ。

1917年1月の末になると、マタ・ハリはますます緊張し、
というのも、ラドゥは彼女を切り捨てただけでなく、合意していた
金額を支払っておらず、
ウラジミールからも暫く連絡がなく、また負傷したのではと恐れ、
彼女はお金を使い果たし、より安いホテルに引っ越さざるを得ず、
こうして、1917年2月12日、ドイツに有利なスパイ活動の罪で、
彼女に逮捕状が発行され、
彼女に逮捕状が発行され、
彼女は翌日逮捕され、部屋を捜索、所持品も没収。
2月13日の逮捕直後に撮影されたマタ・ハリ。

タフな男、犯罪容疑者には冷酷で、特に「不道徳な」女性には
厳しいと言われる、第3軍事裁判所の調査判事ピエール・ブシャードン・
Pierre Bouchardonの尋問を受け、
厳しいと言われる、第3軍事裁判所の調査判事ピエール・ブシャードン・
Pierre Bouchardonの尋問を受け、
その後サン・ラザール刑務所の独房12号室に監禁。

そこはノミや鼠がはびこる独房で寝る事を余儀なくされ、体を洗う
石鹸も無く、薬を含む私物を持てず、衣服や清潔な下着、食料を
買うお金、手紙の切手等も奪われ、
勿論軍事裁判の経験もなく、元恋人のエドゥアール・クリュネ・
Edouard Clunetという弁護士と散発的に連絡を取っていましたが、
こちらが、彼女の為に頑張ったエドゥアール・クリュネ。

時間が経つにつれ、彼女は起訴される事を真剣に恐れるようになり、
非常に不安で、恩赦を願う手紙を書き、弁護士とウラジミールに
会えるよう懇願しますが、
彼らからも、彼女からのメッセージも決して届けられず。
マルガレッタは8つの訴因で起訴され、
1917年7月24日に公聴会が始まり、彼女に対する唯一の証拠は、
今日では操作されたと考えられているラドゥの電報と無線メッセージで、
今日では操作されたと考えられているラドゥの電報と無線メッセージで、
陪審員を構成した7人の男性はすべて軍人で、その内の一人は回顧録で、
マタ・ハリが提供した情報により、魚雷を発射された船に乗っていた
マタ・ハリが提供した情報により、魚雷を発射された船に乗っていた
5万人もの子供たちが死んだ、という噂を信じており、
彼女の生活状態を「不道徳」と判断した軍人で構成され、
裁判中に現れた証拠はどれも、これらの噂を確認するものではなく、
告発は曖昧で、敵に渡された特定の秘密への言及はなく、
パリで彼女を追跡していた警官の1人は、彼女の買い物騒動と、
様々な高位の恋人について語り、
様々な高位の恋人について語り、
ラドゥは、傍受された(偽の)メッセージが、ドイツに仕える
スパイであると示していると述べ、が、
秘密情報を渡したという証拠は含まれず、
唯一防御を尽くしたのは、弁護士のクルーネットで、
何人かの重要人物に証言を求め、マタ・ハリは魅力的な女性であり、
軍事的な話題について話した事は一度もないと宣言し、
それに唯一、1905年以来フランス外務大臣の秘書で、彼女の
愛人だったアンリ・ド・マルゲリー・Henri de Marguérie男爵、
彼女が2度目にパリに出て来た時に愛人となった彼、が、
愛人だったアンリ・ド・マルゲリー・Henri de Marguérie男爵、
彼女が2度目にパリに出て来た時に愛人となった彼、が、

弁護士の主張を、精力的に擁護したのだそうで。
「この女性に対する私の良い意見を損なう事は何もなかった」と宣言、
また「検察官が嘘に基づいている事を知っていながら、事件を
受け入れた」と非難し、
受け入れた」と非難し、
実際、その検察官は後に、十分な証拠がなかった事を告白したそうで。
が、2日間の裁判の後、7人の陪審員はマルガレッタ・ゼㇽに、
ドイツに代わってスパイ活動を行った、として死刑を宣告。
死刑宣告文。

全ての訴因で有罪判決を受けた彼女は、銃殺刑による死刑となり、
大統領への恩赦の要求と同様、執行を刑務所の実刑判決に減刑
する試みも拒否され、
する試みも拒否され、
1917年10月15日の早朝、極秘に執行され、
出席者の中には、彼女の弁護士、彼女の世話をした修道女、刑務所の
医師、そしてカーキ色の制服と赤いフェズ・円筒形の兵士の帽子、の
ズアベス第4連隊の小隊が。
医師、そしてカーキ色の制服と赤いフェズ・円筒形の兵士の帽子、の
ズアベス第4連隊の小隊が。
マタ・ハリのパフォーマンスは完璧で、おそらく彼女の人生で最高の
パフォーマンスの1つで、
パフォーマンスの1つで、
ポールに縛られる事を拒否し、誇らしげに頭を高く上げて立ち、
小隊の指揮を執った曹長は、「神により!この女は死に方を知っている」
と宣言したそうで!
生きていく道で、様々に愛人を作り、恋人を替え、有名である事、
少々破廉恥ながら、楽な愉しい生活を選んだ彼女ですが、
おそらく自分の裁判を傍聴しながら、悟る所があったのかも、と。
1915年という、彼女の旅行パスかな、やはり美しい女性だったですねぇ。

少々長くなりましたが、でも、今ここに書き終わり、私めもホッとし、
ブログ・アップできて良かったという気になっています。
ブログ・アップできて良かったという気になっています。
彼女の41歳の人生、パリに出てからの14年間が、彼女が本当に
生きた実感を感じ、去って行ったのかも、という気がしています。
生きた実感を感じ、去って行ったのかも、という気がしています。
皆さんはどの様に思われます?
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