・ マタ・ハリ  元ダンサー、ドイツのスパイ・・、 実際はどんな?

大分前に、今回参考としたサイト記事
「マタ・ハリ、千の顔を持つ女」
Mata Hari, la donna dai mille volti

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を読んだのですが、最初は名前だけは知っている彼女に
ついての単純な興味からで、

ちょうど19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの、大きな
時代の動きの中で身動きままならず、

また政治にはまるで疎かったらしい彼女の、同性として考えると
逆に如何にも女らしい、同情も出来、でも好きではない!
そんな生き方に哀れさも感じ、

ここに載せるのをかなりためらっていたのでした。

でも、きっと皆さんも名前程度は知ってるけど、という感じだろうと、

いわゆるダンサーと言っても、ストリップと大差ない踊り、
それよりもその踊りで、有名なお金持ちの男性を引き寄せる為の
煽情的な踊りで、

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つまり次々と愛人として、高級娼婦として上流社会に出入りし、
世を渡っていた女性が、

いざ第一次大戦が始まると、敵味方となったドイツとフランスにとって、
どちらにも繋がりのある彼女が格好のスパイとして目を付けられ、

お金の提示で使われ、支払われず、そうなっても最後まで見極めが
つかなかった哀れさというか、

逆に嵌められ、最後は有罪判決を受け処刑され消えた女、と
いう次第をここに。

参考にしたのは、上の記事の他に、
日本版イタリア版のウィキ、を。


成り行きがかなり複雑で、関わる人名も多く、彼女の変遷も大きく、
読んで頂くのに、最初の記事を基に、少し端折って行きますが
ご理解願います。


マタ・ハリ・Mata Hari なる名で通じる有名女性ですが、
本名マルガレッタ・ゲルトルーダ・ゼル・Margaretha Geertruida Zelle
1876-1917 オランダ生まれ

名前の読みも日本版ウィキでは、マルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ
となるようですが、ここではマルガレッタと書かせて頂きますね。

勇気があり、聡明で、舌の才能があり、他のオランダの子供達の
色白の肌と金髪の髪の中で、少し浅黒い肌と黒髪、黒い目と際立った
エキゾチックさで目立つ容姿を持っていたそうで。

上の写真、最初のは1910年、2枚目は1906年と。

彼女を溺愛し、高価なプレゼントを浴びせた父親のアダム・Adamは、
1890年に家族を残し他の女性と去り、

自分が望むものを男性に与えさせる最善の方法は、男性を喜ばせる事、
と彼女は幼い時から理解していた様で、

母親アンチェ・Antjeは数年後、マルガレッタが思春期に入った時に
亡くなり、

甘やかされ、性的に早熟な14歳の少女は、教師になる為に学校に
送られたものの、数年後にそこの校長と関係を持ち追放に。

こうして彼女は、オランダ領東インド(現インドネシア)での任務から
戻って来た植民地の役人でいっぱいの街ハーグ・Den Haagで

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名付け親(後見人)と、または叔父と暮らす様に。

この辺りの記録は、あれこれ違いがあるのですが、ご了解を。


18歳の時、退屈し不幸で、冒険に憧れていた彼女は、新聞広告の
「愛すべき性格の女の子」と結婚したい、という、
オランダ将校の1人ルドルフ・マクラウド大尉・Rudolph MacLeod
の広告に反応します。

彼女はインドに住む将校達が豪華な邸宅に多数の使用人と
住んでいるのを知っており、
こういう結婚は、より良い人生の最短ルートと思い、

後年インタヴューで、「私は太陽の下で蝶のように生きたかった」と
答えた様に、反応し、

最初の出会いから6日後に婚約、

1895年7月に結婚を。 19歳。

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が実際は彼女の予想と異なり、夫となったマクラウド(1856-1928)
は21歳年上の、糖尿病とリウマチに苦しむ植民地から回復期休暇の
39歳の男性で、

おまけに殆どお金がなく、多額の借金があり、かなりの数の婚外交渉も!

新婚旅行後、夫婦はアムステルダムのルドルフの妹ルイーズの家に
同居し、1897年1月30日、彼らの最初の男の子ノーマン・ジョン・
Norman Johnが生まれます。

5月に一家はジャワ島に向け出発、島の中心部の村で、
大尉は任務を再開。

彼は以前と同様の不安定な生活を再開、が、彼女は他の男性の
注目を集め、夫は激怒という・・。

そして彼女は夫が、植民地兵士の間では非常に一般的な病気である
梅毒を彼女に伝染させている事を発見。

当時、有効な治療法はなく、有毒な水銀を使った治療が効果が
あると誤って信じられており、

1898年には娘のルイーズ・ジャンヌが生まれたものの、
夫婦関係は改善せず、

翌年マクラウドは守備隊の司令官に昇進、占領地に別の地域に
移動する事になり、家族を離れ、

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2人の子供は恐らく先天性梅毒で、どちらもが病気に。

成人男性の治療になれていた一般開業医は、子供達に過剰な量の
薬を投与し、子供たちは拒絶反応を示し、痛みに身もだえを。

これは辛いですねぇ!!  で、最終的に2歳の男の子が死亡を。

狭い社会の中で、誰もが病気の原因を知っており、スキャンダルは
マクロウドの降格に繋がり、夫婦は相互の憎しみを隠す事さえなくなり、

1900年に少佐でマクラウドは定年退職に達し、10月に陸軍を除隊、

1902年、彼らは祖国オランダに戻り、同年別居、その後離婚に。
マルガレッタ 26歳。

最初は母親に預けられた娘ルイーズ・ジャンヌは、最終的に父親が
親権を持ち、彼の下で育てられます。


離婚後彼女は深く決定的な変化を、それも新しく驚くべき方法で、
新しい自分を再発明する事に。

1903年3月、大都市での冒険を決意し、パリに出て、画家のモデルや
劇場での仕事を探したものの上手く行かず、

一旦オランダに戻ったものの、翌年再びパリに戻り、

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グランドホテルに住み、男爵アンリ・ド・マルゲリー・
Henri de Marguérieの愛人に。


インドネシアで見憶えていた現地の踊りをそれらしく、知り合った
有名な乗馬学校とサーカスのオーナーのモリエール氏・Molierの
家のパーティで披露した所、モリエールは彼女に熱中!

つまり彼女の踊りは、東洋の神シヴァの巫女の踊りであり?! 神への
愛情深いアプローチを真似したもので、
身に纏っていたベールを次々に、殆ど、完全に、脱いで行ったのですね。


こうして次第に人々の話題、視線を集めるようになり、新聞にも載り、
1905年パリにエキゾチックなマタ・ハリなるダンサー、が登場。

マタ・ハリ、マレー語で「夜明け」または「太陽の目」を意味する名で、

東洋美術の中心であるギメ博物館・Guimetでの公演が開かれ、

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招待者は首都の経済エリートの代表者600人。

透明なドレス、宝石が散りばめられたブラ、魅力的な頭飾りに
身に纏い、マタ・ハリは全く新しいダンスを披露したのですね。


他の状況ならわいせつ罪で逮捕されたでしょうが、彼女は慎重に計画し、
各ショーの冒頭で時間を割いて、それらはインドの寺院で学んだ神聖な
ダンスであることを伝え、

ダンスを通して、彼女は欲望、嫉妬、情熱、復讐の物語を語り、
聴衆は熱狂的に見守りました。

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全ての裕福で影響力ある男性が、美しい恋人を傍らに求めていた時代、
マタ・ハリはパリで最も魅力的で望ましい女性と見なされ、

貴族、外交官、金融業者、上級将校、裕福な実業家と一緒に現れ、
彼らは彼女が一緒に居てくれる喜びの為に、毛皮、宝石、家具、
エレガントな家、または馬を贈り、


ヨーロッパ中で彼女は公演し、パリのオデオンでも、イタリアはミラノの
スカラ座でも公演を果たしたのですね。


とはいえ、時と共に彼女の芸術的キャリアは衰退期となり、
が、高級娼婦として引き続き需要があり、上流階級で人気があり、

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1914年7月28日に、第一次世界大戦が勃発しても、
彼女のライフ・スタイルは変わらず、

フランスの家庭でも石炭、リネン類、食料などの基本的必需品が
欠けているのも認識しておらず、

人々は彼女の見せびらかしを、恨みを持って眺め、

何十万もの人々、大人、若者、ティーンエイジャーが戦場に
送られても、安らぎと豊かな生活を続ける人もいるのですね。


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そうした世相の中でも、マタ・ハリは頻繁に旅行を続け、
そんな彼女に傍聴の世界が彼女に照準を合わせます。

1915年の秋、彼女がデン・ハーグにいた時、アムステルダムの
ドイツ名誉領事であるカール・クローマー・Karl Kroemerの訪問を受け、

彼はドイツに有利はスパイ活動を行うために、彼女に2万フラン、
今日では5万フラン以上に相当、を提供する事を申し出、

彼女は戦争勃発時にドイツ人が没収した毛皮、宝石、お金の補償と
考え、金額を受け入れましたが、仕事は受けず。

同年12月、彼女が乗るフランスに向かう船がイギリスの港フォークストーン
に寄港した時、他の乗客と共に諜報員から尋問され、捜索されたものの
罪になる物は何も見つからず、

警官は、「彼女は仏語、英語、伊語、蘭語、そしておそらく独語も
話し、美しく、勇敢なタイプ、ファッションに身を包み」と書きとめ、

彼女についての意見は? 「疑惑から免れません・・英国に戻る事を
許されるべきではない」と。


パリに戻り、戦争の被害を殆ど免れたグランド・ホテルに住んでいた
マタ・ハリは、男性の注目に慣れ過ぎており、少なくとも最初は
自分がフォローされている事に気が付かず、


新しく創設された戦争省の防諜局の責任者であるジョルジュ・ラドゥ・
Georges Ladouxは、 彼の名を記憶におとどめを!

エージェントに、レストラン、公園、ティー・ルーム、ブティック、
ナイトクラブの間を移動する彼女の追跡を命じており、

通信をチェックし、電話での会話に耳を傾け、会合を細心の
注意で記録したものの、
関連情報をドイツのエージェントに送信した、という証拠は
見つからず。


が、1916年、戦争はフランスにとって悪い方向に進み、
ベルダン・Vwrdunとソンム・Sommeの、最も血腥い戦いの
2つで、何か月もドイツと衝突し、

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泥、劣悪な公衆衛生、病気、ホスゲン・ガスの新たな恐怖により、
何十万人もの兵士が倒れ、死亡し、

1916年の夏のフランス軍の士気は非常に低く、一部の兵士の
戦闘拒否も起こり、

ジョルジュ・ラドゥは、大物スパイの逮捕が、フランスの精神を
復活できるかも、と考えたのでした。


マタ・ハリは、彼女の周囲に張り巡らされた陰謀に気づかず、
他の事で気ぜわしく、

つまり、フランスと戦った若くて非常に飾りたてられたロシア士官、
ウラジミール「ヴァディム」マスロフ・Vladimir “Vadim” Maslovに、
狂ったように恋をしていたのですね。

ヴァディムはホスゲン・ガスに晒され、片目が見えなくなり、
完全に失明する危険性もあり、
彼女は彼のプロポーズを熱心に受け入れました。

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ウラジミールが入院している病院への書類パスの取得を望んでいた
彼女は、戦争省で働いていた愛人の1人であるジャン・ハラール・
Jean Hallaureに助けを求めますが、

ハラールは、マタ・ハリは知らなかったものの、ラドゥの防諜局でも
働いており、そちらのオフィスで彼女との約束を。


という事で、罠にかかった彼女はフランスに仕えるスパイになる
約束と引き換えに通行証を与えられ、

彼女は同意すると同時に、100万フランという法外な金額を要求。

これでウラジミールとの結婚後に、彼の家族が拒否しても、
ヴァディムを維持できると考えての要求金額で、

彼女は他の男性との事で、彼を裏切る様にさせられたくなかったから、
と後の供述書かな、に、書いていると。

ラドゥーは、マタ・ハリにスペインに行き、それからデン・ハーグに
船で行き、そこで必要な指導を受ける様にと命じます。

意味深長な事に、ラドゥはマタ・ハリに情報を渡す様にとか、特定の
任務を割り当てたり、彼とのコミュニケーションに必要な手段や
資金の提供はしませんで、

任務中に重要人物を誘惑しなければならない場合に備え、ワードローブ
を新しくする為の前払いを求める手紙を、彼に普通郵便で送ったのは
彼女だったのですね。


マタ・ハリは命令に従いスペインに行き、オランダに向かう船に乗船。
船は英国の港に寄港し、そこで彼女は英国のエージェントの
疑惑を再度引き起こし、ロンドンに連行され、尋問を。

今度も何も発見されないものの、エージェントは本当に彼女が彼女か、
漠然と似ているドイツのスパイ、クララ・ベネディクス・Clara Benedix
ではないかの判断の為に彼女を拘束。

11月16日、マタ・ハリは釈放されようと必死で、フランスに仕える
エージェントで、ラドゥの下で働いている事を告白し、

英国当局がフランス人局長に連絡すると、「何のことか分かりません。
彼女をスペインに送り返しなさい」と。

明らかに上司の裏切りで、英国の記録ではラドゥの完全な答えの
要約は次の様に。

「彼は長い間彼女を疑っており、ドイツ人のために働いていたという
決定的な証拠を得るために、彼女を雇う振りをしており、
彼女の有罪の具体的な証拠が見つかった事を知り、喜んだだろう」と。



マドリッドに戻ったマタ・ハリは、市の軍事機密を調査する事にし、

スペインへの任務中のドイツ外交官アーノルド・カッレ少佐・
Arnold Kalleは彼女の美しさに魅了され、

ドイツの潜水艦がモロッコ沖で、弾薬補充をしていたのを漏らします。

この情報をラドゥに伝え、合意した報酬を要求するのを熱望していた
マタ・ハリは、彼に手紙を書きますが、何の返事もなく、

一方彼女はまたフランス大使館のジョセフ・デンヴィーニュ大佐・
Joseph Denvignesとの関係を維持しますが、

彼は彼女が夕食に出かけたり、他の男性と踊ったりが耐えられず、

彼の嫉妬を宥める為に、ラドゥーの下で働いている事を説明し、
彼女が知っている全ての秘密を彼と共有しますが、

デンヴィーニュは彼女に、モロッコへの上陸計画についてカッレから
更に情報を得る様に依頼。

彼女は試すものの、質問が多すぎ、ドイツの外交官が逆に疑いを。

デンヴィーニュがパリに出発するのを利用し、マタ・ハリは長い
有益な手紙を書き、ラドゥに届ける様依頼します。

1916年12月に、ラドゥはエッフェル塔に設置された局を通じ、
マドリッドとベルリン間の全ての無線メッセージの傍受と制御を命じ、

ラドゥは後の裁判に、傍受されたメッセージにより、
マタ・ハリがドイツのスパイである事が明確に特定できたと主張します。


彼女は仕事の報酬を期待しパリに戻りますが、ラドゥは彼女に
会うのを拒否し、

また彼女がラドゥに、防諜局・Deuxième Bureauについて尋ねると、
誰もそんな名前は知らない、と答え、

なんとか彼と連絡を取れても、デンヴィーニュに託した手紙を
受け取った事を否定。

エッフェル塔での傍受に何か奇妙な事があったのが、後に明らかになり、

フランスの記録文書では、ラドゥが有罪のメッセージを検察官に通知
したのはその年の4月であり、ラドゥが言う様に12月と1月ではなく、

元のメッセージが解読され翻訳される前にメッセージを見たのは、
フランス人局長だけだった様子で、

おまけにこれらが記録から消えている事も明らかに!


そして、これらの内容は、マタ・ハリに対して使われ、彼女に致命的な
結果をもたらしたと言われており、

ラドゥ自身、後にスパイ容疑で逮捕されましたが、彼の拘留は遅すぎ、
マタ・ハリを救う事は出来ませんでした。

こちらが、ジョルジュ・ラドゥ。

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1917年1月の末になると、マタ・ハリはますます緊張し、
というのも、ラドゥは彼女を切り捨てただけでなく、合意していた
金額を支払っておらず、

ウラジミールからも暫く連絡がなく、また負傷したのではと恐れ、

彼女はお金を使い果たし、より安いホテルに引っ越さざるを得ず、

こうして、1917年2月12日、ドイツに有利なスパイ活動の罪で、
彼女に逮捕状が発行され、

彼女は翌日逮捕され、部屋を捜索、所持品も没収。

2月13日の逮捕直後に撮影されたマタ・ハリ。

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タフな男、犯罪容疑者には冷酷で、特に「不道徳な」女性には
厳しいと言われる、第3軍事裁判所の調査判事ピエール・ブシャードン・
Pierre Bouchardonの尋問を受け、

その後サン・ラザール刑務所の独房12号室に監禁。

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そこはノミや鼠がはびこる独房で寝る事を余儀なくされ、体を洗う
石鹸も無く、薬を含む私物を持てず、衣服や清潔な下着、食料を
買うお金、手紙の切手等も奪われ、


勿論軍事裁判の経験もなく、元恋人のエドゥアール・クリュネ・
Edouard Clunetという弁護士と散発的に連絡を取っていましたが、

こちらが、彼女の為に頑張ったエドゥアール・クリュネ。

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時間が経つにつれ、彼女は起訴される事を真剣に恐れるようになり、
非常に不安で、恩赦を願う手紙を書き、弁護士とウラジミールに
会えるよう懇願しますが、

彼らからも、彼女からのメッセージも決して届けられず。


マルガレッタは8つの訴因で起訴され、

1917年7月24日に公聴会が始まり、彼女に対する唯一の証拠は、
今日では操作されたと考えられているラドゥの電報と無線メッセージで、

陪審員を構成した7人の男性はすべて軍人で、その内の一人は回顧録で、
マタ・ハリが提供した情報により、魚雷を発射された船に乗っていた
5万人もの子供たちが死んだ、という噂を信じており、

彼女の生活状態を「不道徳」と判断した軍人で構成され、
裁判中に現れた証拠はどれも、これらの噂を確認するものではなく、

告発は曖昧で、敵に渡された特定の秘密への言及はなく、

パリで彼女を追跡していた警官の1人は、彼女の買い物騒動と、
様々な高位の恋人について語り、

ラドゥは、傍受された(偽の)メッセージが、ドイツに仕える
スパイであると示していると述べ、が、
秘密情報を渡したという証拠は含まれず、

唯一防御を尽くしたのは、弁護士のクルーネットで、

何人かの重要人物に証言を求め、マタ・ハリは魅力的な女性であり、
軍事的な話題について話した事は一度もないと宣言し、

それに唯一、1905年以来フランス外務大臣の秘書で、彼女の
愛人だったアンリ・ド・マルゲリー・Henri de Marguérie男爵、
彼女が2度目にパリに出て来た時に愛人となった彼、が、

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弁護士の主張を、精力的に擁護したのだそうで。

「この女性に対する私の良い意見を損なう事は何もなかった」と宣言、

また「検察官が嘘に基づいている事を知っていながら、事件を
受け入れた」と非難し、

実際、その検察官は後に、十分な証拠がなかった事を告白したそうで。


が、2日間の裁判の後、7人の陪審員はマルガレッタ・ゼㇽに、
ドイツに代わってスパイ活動を行った、として死刑を宣告。

死刑宣告文。

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全ての訴因で有罪判決を受けた彼女は、銃殺刑による死刑となり、

大統領への恩赦の要求と同様、執行を刑務所の実刑判決に減刑
する試みも拒否され、

1917年10月15日の早朝、極秘に執行され、

出席者の中には、彼女の弁護士、彼女の世話をした修道女、刑務所の
医師、そしてカーキ色の制服と赤いフェズ・円筒形の兵士の帽子、の
ズアベス第4連隊の小隊が。

マタ・ハリのパフォーマンスは完璧で、おそらく彼女の人生で最高の
パフォーマンスの1つで、

ポールに縛られる事を拒否し、誇らしげに頭を高く上げて立ち、

小隊の指揮を執った曹長は、「神により!この女は死に方を知っている」
と宣言したそうで!


生きていく道で、様々に愛人を作り、恋人を替え、有名である事、
少々破廉恥ながら、楽な愉しい生活を選んだ彼女ですが、

おそらく自分の裁判を傍聴しながら、悟る所があったのかも、と。


1915年という、彼女の旅行パスかな、やはり美しい女性だったですねぇ。

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少々長くなりましたが、でも、今ここに書き終わり、私めもホッとし、
ブログ・アップできて良かったという気になっています。

彼女の41歳の人生、パリに出てからの14年間が、彼女が本当に
生きた実感を感じ、去って行ったのかも、という気がしています。

皆さんはどの様に思われます?


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posted by shinkai at 03:27Comment(0)・欄外

・ 4月25日 イタリアは開放記念日 そしてヴェネツィアは

はい、イタリアは4月25日は国の祭日で、お・や・す・み、で~す!
というのも、この日は、国の解放記念日、なので~す。


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何からの解放かと言いますと、ナチ、ファシズムから
そして、最終的にファッシスト党没落による専制からの開放です。


1924年4月6日の総選挙により、ムッソリーニ率いるファッシスト党
が最大政党となり、1926年には一党独裁体制となり、
ドイツ、日本と3国協定を結び、国際連盟からも脱退。

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第2次大戦がはじまると、それ迄に既に経済的に疲弊しており、
次第にドイツの援助下となり、

1943年にはムッソリーニは逮捕され、変わったバドリオ政権の元
政府、国王、軍内部の王党派は南イタリアのブリンディシに脱出。


9月に無条件降伏、10月にドイツに宣戦布告をし、連合軍の
一員となるのですが、

幽閉されていたムッソリーニは、ドイツ軍特殊部隊に救出され、
北イタリアのガルダ湖畔のサロに、イタリア社会共和国を樹立。


こうしてイタリアは、ドイツ軍、連合軍、RSI・イタリア社会共和国軍、
イタリア王国軍、これにパルチザンも加わった内戦状態と。


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その後7月にシチーリアに上陸した連合軍の北進、ドイツの崩壊もあり
連合国側に傾き、イタリア社会共和国もパルティジャーニに打倒。

ムッソリーニは1945年4月25日パルティジャーニに拘束され、
4月28日裁判なしで処刑され、その後ミラノのロレート広場に
吊るされたのは、生存説を退ける為と。


実際にドイツ軍がイタリアから引き揚げ始めたのは、1943年7月の
連合軍のイタリア上陸以降ですが、

1926年にイタリア共産党は非合法となり、それ以来反ファッシズム
運動活動を始め、

1943年9月に結成された国民解放委員会のレジスタンス戦争が
始まり、パルティジャーニはイタリア北部から中部にかけて活動。

こうして1945年4月に国民解放北部委員会が、北部の
主要都市でのパルティジャーニの一斉蜂起を成功させた事により、
国土の開放となり、

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反ファッシズム運動が国土を解放した、という意識がイタリア国民に
強く根付き、1946年6月に王政廃止、イタリア共和国となり、

現在も誇りをもって、4月25日イタリア開放記念日 を祝います。


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ムッソリーニ個人についても、パルティジャーニについてものあれこれ、
各局面での展開、動きについても、あれこれ読むと様々な思いが
沸きますし、
表面には出てこないパルティジャーニの逸話を読むと、
動乱の歴史の中で戦い、亡くなって行った人々の哀れさにも胸が
塞がりますが、ここでは簡潔に全体の動きのみを記しました。


イタリアも国力、資源のない国としては日本と同様で、
軍部の独占とはいえ、どんどん戦争から抜け出せない状態に
追い詰められていったのは同じでは、と思うのですが、

日本の8月15日の終戦記念日、との意識、雰囲気の違いはこの辺りかと。



という、4月25日のイタリア全体の祝日、開放記念日なのですが、

と同時にヴェネツィア独特のお祭りボコロ・ディ・ローザ
Bócolo di Rosaというのがずっと昔からあり、

多分この日がカトリックのカレンダーでは、ヴェネツィアの守護聖人
サン・マルコのお祝いの日なので、重ねて、という事なのでしょうが、

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ボコロ・ディ・ローザは、薔薇の蕾 の事で、この日に男性は
愛する女性に、非常に長い茎を持つ薔薇の蕾を贈ります。


サン・マルコ広場に赤十字の屋台が出て、赤い薔薇を売るそうですが、
多分寄付金募集、 

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で、勿論、こんな風に運河沿いでもね。

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この、赤い薔薇を愛する人に、は伝説があり、

ヴェネツィア総督、オルソ1世パルテパーツィオ・Orso I Partepazio
の娘マリーアと、若い庶民のタンクレディ・Tancrediのお話で、

朱赤のフワフワの髪から「ヴルカーナ・Vulcana・火山」と呼ばれた
マリーアは、貴族の家柄の父親が庶民の若者への反対を見て、

父親に、最愛のタンクレディを受け入れて欲しく、彼を説得し、
シャルルマーニュ・カール大帝の軍に参加し、スペインのアラブ人と
戦う勇敢な彼を父親に知って貰おう、と、若者は出発していきます。

そしてある日カール大帝の12人の騎士の1人オルランドがヴェネツィアに
到着し、ヴルカーナを探し、彼女に哀しい知らせを。

彼女の最愛のタンクレディは、サラセンの侵略者と勇敢に戦い、
薔薇園で血を流して倒れており、最後の力で薔薇の蕾を摘み取り、
それをオルランドに手渡し、ヴルカーナに届けてくれるように、と。


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マリーアは悲しい沈黙の中で薔薇を受け取りましたが、
翌日、サン・マルコのお祭りの中で、胸に血まみれの花が飾られた姿
で死んでいるのが発見された、と。

で、それ以来、4月25日に薔薇の蕾を最愛の人に届けるのが習慣に、
という事なのだそうで。


この伝説は歴史的根拠は全くなく、年代順も正しくなく、
ドージェ、オルソ1世は、864年にヴェネツィア市長に選出、881年に
亡くなるまでその職にあり、

それはシャルルマーニュと彼を取り巻く12人の騎士が戦った戦からは
数十年後の事で、

オルランドはまた、ロンセスパンスの戦いでオリファンテ・
Olifanteと呼ばれる多分有名な角笛、軍隊の指揮用かな、を
吹きつつ亡くなった、と。


まぁ、伝説にありがちな年代ごちゃ混ぜですが、戦における英雄の価値、
兵士間の兄弟愛、そして中世ヨーロッパにおける、異なる社会階級間の
愛の難しさ、を解き伝えているのであろうと。


現在の社会においては、こういう逸話は軽く一蹴されそうですが、

でも今なお、「ボコロ・ディ・ローザの日」として、

16-Festa-del-Boccolo-241ad91c_GF.jpg

赤い薔薇の習慣が残っているのが、
愛する人に花を贈る気持ちが続いているのが、素敵だと思われません?!


17--Frecce_Tricolori_2022_GF.jpg


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・ 男達(中世の画家たち)と、金髪女性

今回は、「アート・ジャーナル・Il giornaledellarte」という
サイトの中の「中世の小さな物語」項目内に見つけた、


ああ、そうか、という興味深い納得もあり、皆さんにも。

マリリン・モンローも、バービー人形もブルネットで生まれましたが、
ブロンドとして成功を収めました。 と始まり、

1-Marilyn_Monroe,_Photoplay_1953_GF.jpg


中世の図像では、おそらく茶色の髪だった多くの女性聖人に
同様の運命を与えました、と。

つまり中世の画家たちは、幾人かの殉教した女聖人たちを
金髪に描き、後世の崇拝者たちの信仰心を高めた、と。


ははぁ、成程ね、と思ったのは、shinkaiめも大きな驚きの経験が
ありまして、

トスカーナはアンギアーリ・Anghiari の博物館で、聖母マリア像・
かなり有名な彫刻家作でしたが、間違えてはいけないので省略し、
その木製像、上半身像が金髪だったのですね。

大体マリア像に限らず、聖女性像はベールをかぶっていますよね、
それが無かったか、肩に落ちていたか、金髪そのものが見え、
あの薄暗い博物館内で、かなり強烈な印象を受けたのでした。

で、今回これを読み、やはり金髪というのは目立ち、人目を引き、
男性達のみでなく、その美しさに誰もが目が奪われるのだ、と。

となると、それを描く男性画家たちは、自身の憧れも勿論、
依頼者、教会であろうとも! の共感を得、画家としても評判を
高める為にも、

それはもう、金髪に出来るなら金髪に描くよね?!と。

という事で、明らかに金髪の美しさが描かれている女聖人の例を


プラート・Prato、フィレンツェの北に位置する町の市美術館、
ジョヴァンニ・ダ・ミラーノ・Giovanni de Milanoの祭壇画の
カテリーナ・ダレッサンドリア・Caterina d’Alessandria(287-305)


こちらは殉教のシーンで、長く解けた金髪を首の片方に流し、
処刑人に首を差し出す、というエレガントな彼女の姿を。

2-IMG20230315112620618_1000_GF.jpg



全体はこの様な大きな祭壇画で、1355年、上中央に聖母子像
が描かれ、その下段中央に受胎告知、両脇に従う聖人達の
殉死場面、最下段は、キリストの生涯を。

3-Giovanni_da_milano,_Polyptych_with_Madonna_and_Saints,_prato_GF.jpg


上段一番左に唯一見える女聖人が、アレッサンドリアのカテリーナ
左手を車輪の上に置いていますが、

これは彼女のアイテムで、上の処刑場面にも車輪が見え、
手足を車輪に結び付け転がす、という拷問を命じられたものの、
車輪はひとりでに壊れ、斬首刑にされたというもの。


上の全身像に見える上半身はこの様で、金髪が美しく。

4-giovanni_da_milano_GF.jpg


この図は、「プラートの祭壇画・ジョヴァンニ・ダ・ミラーノ」
という本の出版案内で、

この抄訳を読み、ジョヴァンニ・ダ・ミラーノが僧侶であった事、
当時一流の画家として認められていた事、
この祭壇画は当時のプラートの巡礼者、貧者、病人の救済所で
あった病院建物の拡張時に注文されたもので、

彼にとっても、生涯で重要な仕事となり、病院の支払い記載
にはないものの、何年後かに、病院内の目録に記載ありとの事で、
やれやれ、良かった!



こちらはカルロ・クリヴェッリ・Carlo Crivelli描く、少し時代が下がり、
1430-1440、やはり金髪のアレッサンドリアのカテリーナ。

5-ICCD2987846_4HL0149a_GF.jpg



伝説上の人物で、実在したかは非常に疑わしい、と言われるものの、
大変な信仰者を集めたと言われる、

アンティオキア・シリアに近いトルコ最南部の、聖マルゲリータ
Margaritaも、1540年代には金髪となり、

6-IMG20230315112832322_1000_GF.jpg


ピエモンテ州のヴィッラフランカのサンタ・マリーア・ディ・ミッシオネ・
Santa Maria di Missione a villafrancaにある、

画家はデュサイモ・Duxaymoと呼ばれるイタリアの画家アイモーネ・
ドゥーチェ(記録があるのは1417-1444)が描いたもので、
彼は国際ゴシック画家として活躍した様子。


神聖な処女の殉教者のみならず、聖母は頻繁に金髪で描かれ、

はぁ、上記したshinkaiが見たものも嘘ではなく、はは、

いくつかの「黒い聖母」さえも、12世紀にはオロパ・Oropaの
聖域の黒い聖母も金髪に!

7-Oropa_20_07_2015_05_GF.jpg

少し驚きですが、顔の回りのカーヴした金色の流れが金髪で、
その上からヴェールを被り王冠で、子のキリストも金髪に!


「黒い聖母」像は、スペインのピレネー山中に点在するとか、
私めもフリウリのカステル・モンテの山上の教会にあるという
絵葉書を見たり、

カステルモンテ ・ スロヴェニアとの国境に近い、信仰の村
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462968910.html

このヴェネトの山沿いの教会のマリア様のお顔が少し黒い、
というのも見た記憶があり、
古い信仰の残る教会には、今も居られる様で。


付属の驚きは、オロパの聖域、という場所ですが、
トリノから北に90km程の山中で、車で1時間半ほどの位置。

で、こちらが正面広場で、奥の中庭に面して古い教会があり、

8-Santuario_di_Oropa-prima_Piazza2_GF.jpg

その奥祭壇に「黒い聖母子」で、現在もたくさんの信者達が
集まる様子が、一目瞭然!



さてフィレンツェのウッフィツィ美術館にも、世界に有名な金髪の
聖母がおられますが、

シモーネ・マルティーニの「受胎告知」1333年 聖マリアですね。

9-IMG20230315112918439_1000_GF.jpg

今回読んで、初めて、そう言えば金髪だっけ、と気が付いた程で・・!


全体はこんな様子で、両脇に聖人がおられ、中央左に受胎を
告げる天使ガブリエレと、受ける恥じらいのマリア像。

全体すべてが金色輝く中で、

10-simone-martini-annunciazione_GF.jpg



天使ガブリエレも金髪。

11--simone-martini-annunciazione-part.1_GF.jpg



彼の衣装は、白金色に金の押し模様という、

12-450_b_GF.jpg

これでもか、という程の技巧の幅を見せるシモーネ・マルティーニ
ですが、下品さは欠片もなく、見るこちらをも天国に誘い、
これはまさに極地にある絵画なんだなぁ、と納得を。



最後はマグダラのマリア・Maria Maddalenaの金髪を。

彼女の髪は、改心しキリストに従うようになった後も、しばしば
目立つ金髪に描かれ、

こちらはマサッチョ・Masaccioによる1426年の、磔刑図での
マグダラのマリーア。

15-masaccio-crocifissione-1426_GF.jpg

14-IMG20230315113013264_1000_GF.jpg



そして12年後1438年のフラ・アンジェリコによる彼女。 
貞節な女風に描かれていますが、やはり金髪ぅ!

13-maddalena-1438scheda_GF.jpg



そしてルーカ・シニョレッリ描く、1504年のマリア・マッダレーナ。
金髪どころか、如何にも豊満な肉体を感じさせますねぇ。

17-signorelli-maria-maddalena-1651054939_GF.jpg


ご存じの様に北ヨーロッパでは当たり前に金髪なのでしょうが、
イタリアでは殆どが茶~黒の髪ですから、

ローマ生まれのグレゴリウス1世教皇(540-604)は、
若い金髪の奴隷が売りに出されているのを見て驚き、

「全ての住民が金の髪で輝いている」ブルターニュから来たと
説明され納得したとの事ですが、


やはりイタリア女性も、勿論男性も金髪に(青い目にも)
憧れるようですし、

傍から見ても、やはり騎士物語には、現代のロマンス映画にも
金髪、が似合う気がします。

おまけに「もっとも純粋な金でさえ見栄えが悪くなるほどの、
光沢のある金髪」という言い回しがある様で!

詩人が謳った女性は自然に金髪で、ペトラルカのラウラも、

チーノ・ダ・ピストイア、知りまへん、の最愛の人も、
その三つ編みは、辺り一面を黄金色に、と!


長い時代、多くのブルネットの女性が、様々に金髪になる方法を試し、

ヴェネツィアでは、キャップを切りとった帽子の広いつばに長い髪を
広げ、顔の白さを保護しつつ、太陽に晒し金髪にしたり、
たくさんの染料も試されたらしい過去の世紀ですがぁぁ、

まぁ、今では簡単なヘアーダイがありますからね、

そんなこんなで、

ブルネット、黒髪におさらば、しょうと決めた全ての人に、
幸あれかし!!


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posted by shinkai at 04:08Comment(0)・欄外

・ レオナルド・ダ・ヴィンチの母親  出身と奴隷解放の記録発見

先月3月半ば頃、ウェブに新しい出版物情報がたくさん出回りましたが、

それは「カテリーナの微笑 レオナルドの母親・Il sorriso di Caterina
- La madre di Leonardo」 著者カルロ・ヴェッチェ・Carlo Vecce

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という、ナポリ・オリエンタル大学教授の著者が、長年の探求の後
フィレンツェの国立公文書館で見つけた記録、

「カテリーナ」として知られているレオナルドの母親の、奴隷身分
からの解放は、公証人であったレオナルドの父親ピエロ・ダ・ヴィンチ
により行われた、という記録の発見で、

カルロ・ヴェッチェ教授は、それまでの経緯を自身の考察と史料、
文献調査に基づいての小説「カテリーナの微笑」を、
Giunti出版社から発表した、という事なのでした。

レオナルドの母は奴隷だった:小説が歴史を変える
La madre di Leonardo era una schiava: un romanzo cambia la storia




等など、他にも読みましたが、ここでは、レオナルドの母親、に
ついての事柄に絞る事に致します。

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で、上のニュースを含め、様々を纏めてお伝えしますので、
5世紀前の、1人の女性の旅行記を読む様なお感じで、どうぞ。


私自身、レオナルドの生家と言われ、現在博物館として公開
されているトスカーナはアンキアーノの生家に行って知った
驚きのあれこれ、を2度ブログに書いており、

3-4-547_GF.jpg

4-7-554_GF.jpg


今迄の様子をご存じない方は、こちらを先に読んで頂けます様に!

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017233.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017660.html


その後に発表された、彼のスケッチから採集した指紋からの発表を

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について再度
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20170928-1.html
に書いております。


つまりイタリアのみでなく、全世界における「ルネッサンスの万能の人」
について、父親についてはフィレンツェのやり手の公証人、と
分かっているものの、

母親については「どうやら他の国から来た奴隷身分の女性だったらしい」
カテリーナと呼ばれた人、迄は今迄の様々な研究家により分かったものの、
その実際の身分証明が記録不足で不明のまま、

現在は、奴隷に売られた記録、または自由民にする書類の
発掘を待っている、という、

2016年頃が最後の情報だったのですね。


で今回の「小説」の中で明かされた事は、
私めは本を読んでおらず、かなりの数のサイト記事を読み漁り、
抜き出した事から纏めて書いておりますが、


「カテリーナ」と呼ばれた奴隷からの解放記録は、
1452年11月2日付で、署名はピエロ・ダ・ヴィンチ。

で、レオナルドが生まれたのは、1452年4月15日で、
この2つの日付けにご留意を。


カテリーナは、レオナルドの父ピエロとの子、結婚しておりませんので
庶子の身分の子を産んだのち、

この時の日時、生まれた記録は、ピエロの父親アントニオが
家の聖書の最後のページに書き込んでおり、

5-10-no_GF.jpg

1452年、私の孫、我が息子セール(敬称)ピエロの息子が
生まれた。 4月15日土曜日夜の3時。
名前をリオナルド・Lionardとつけ、ヴィンチのバルトロメーオ教会の
ピエロ神父が洗礼・・。


が、母親・カテリーナの名前はないのですね。

6-9-a1_GF.jpg


カテリーナの名が現れるのは、1457年祖父のboche・台帳?に
父親ピエロの手で書き込まれた

「リオナルド、serピエロの庶子、彼とカテリーナ、現在ヴァッカ・
ダ・ヴィンチのダカッタブリーガ・d’Achattabriga・アントーニオの
妻との間に生まれた、5歳」

と、レオナルド(リオナルド)5歳が彼の息子で、母親は現在
近くの村のアントーニオの妻である、として現れます。

どうやらレオナルド出産の後、暫くして彼女は近郷の村の
アントーニオと結婚させられたらしく、

その結婚前に奴隷身分の解消を、ピエロがしたのではないか、
と推察を。


カテリーナは、多分大変美しい女性だったのではないか、と、
これはもうレオナルドの年老いての自画像を見ても想像できますが、

7-1-3-1_GF.jpg


今回カルロ・ヴェッチェ教授が「小説仕立て」にしたのは、未だ彼女の
本当の身分、状態を証明できずの記録の穴があるのだろうと思い、

著書の中で明かされた「カテリーナ」の、つまりこの名前も彼女の
実名だったのかどうかも不明ですが、

というのも、奴隷にされ働いた家で、呼びやすい名が付けられたそうで、
が、ここでも現在は「カテリーナ」と呼びますが、


教授によると、彼女の生まれは北コーカサスの山脈高地にある
チェルケススの王国の1つを統治していたヤコブ・Yakob王子の
娘カテリーナ。

コーカサスのチェルケスクで検索しましたら、この辺りと出て、

8-caucasu_GF.jpg


で、おそらく韃靼人・北アジアのモンゴル高原とシベリア、カザフ草原、
東ヨーロッパのリトアニアにかけて活動した民族総称、タタール人
に誘拐、奴隷にされ、

ドン河河口にあるヴェネツィア共和国最後の植民地ターナ・Tanaで
売られ、1440年ヴェネツィアに。


地図のターナの位置、黒海が北東に入り込んだ一番奥に位置し、
コーカサス・チェルケスクとは近いことも分かり、

9-tana di don_GF.jpg


ターナで検索すると、大変興味深い記述があり、既に紀元前3世紀
には植民地、交易所があり、
この町はスキタイ人とボスポラス海峡のギリシャ人との取引、
特に奴隷、の重要な商売所となり・・、

自然に適した場所、東に向かい途切れることのない草原、アルタイ山脈
とスキタイに向かう草原貿易に適し、黒海貿易の為のギリシャの港に
囲まれ、進入できないドン河から下って来る毛皮と奴隷の取引に・・。


正直に言いますと、最初はどこかの王家の姫で、という様な言葉に
ちょっぴり違和感を感じたのでしたが、

ここにヴェネツィア共和国の北への最後の植民地があり、
おまけに毛皮と奴隷の取引で栄えており、

13世紀にはヴェネツィア人の大きな到着点となり、ヴェネツィア地区も
あり、勿論ジェノヴァ人の地区もあったものの小さく、彼らはクリミアの
エンポリアムを好み・・、

民族構成は非常に多様で、・・例えばヴェネツィアのコミュニティの
重要な代表者は、混血のヴェネツィア人の非嫡子、側室との子、
例えばタタール人とかロシア人との子で、
ヴェネツィア在の親戚の代理人として活躍していた、と。 わぁ~お。

こんな遠い国の、小さな交易地でのヴェネツィア共和国人の様子が
ひょこっと出てくるなんて、まるで想像しておらず驚き!

でも、ここから南に下ったイスタンブル・かってのコスタンティノープル
での、ヴェネツィア人、ジェノヴァ人の活躍を考えればまさに!で、


はぁ、この辺りで、少し真面目に、へへ、カテリーナの足跡について
読んだのでした。

イスタンブルのジェノヴァの植民地 ガラタの塔から ・ イスタンブル 


このターナの町は、14世紀末に一度タメルレーンによる町の
破壊があり、15世紀にはまた西洋コミュニティが戻ったものの、

その後オスマン帝国がイスタンブルを獲得、権力を握り、
ヨーロッパの船をボスポラスから締め出したため、
このターナの地は忘却の彼方に。

現在残る、かってのターナの遺跡。 街は現在も健在のようで。

10--Excavations_of_Tanais_(1)_GF.jpg


これらを読み、ふむ、大変美しく、品もあり、となると、
誘拐された王家の姫であったこともありうるかも、とも思え始め・・。

こうしてヴェネツィア人に転売されたカテリーナは1440年に
ヴェネツィアに。

そして1442年15歳頃に、フィレンツェに達します。
という事は、ヴェネツィア、イタリアに着いたのは13歳ですか。



最初に調べた「レオナルド・ダ・ヴィンチの母親」についての中で、

奴隷は、14世紀末には黒海、ギリシャ、バルカン諸島が増え、

値段は、年齢、身体条件の他に出身地も関係し、白人、
とりわけコーカサス出身が高かった、

彼女たちは新しい名前を与えられ、カテリーナ、マルゲリータ、
マリーア、マルタ、マッダレーナ、という名が一番多く、
キリスト教に改宗させられ、洗礼を受けたと。

そうなんですねぇ、こうして読んでくると、まるでカテリーナ自身が
辿って来たお話の様で。


ですが、ここでは、公証人ピエロとカテリーナが知り合った家は、
ピエロの友人であった銀行家ヴァンニ・ディ・ニコロであったのが、

今回は、フィレンツェのジネーヴラ・Ginevraとなっており、そこで
使用人、兼乳母をしており、ピエロと知り合った、となっている様で。

女性の名、というのが少し気になりますが・・。


いずれにしても、奴隷からの解放証明書を書いた、書けたという事は、
ピエロが既に奴隷売買の証書を手にしていたという訳で、
上記いずれかより買い取ったかどうかしていた事になりますね。

ピエロとしては、子供を産ませ、他の男に嫁がせ、と好き放題を
した女性に、せめてもの、という所でしょうか。


カテリーナはこうしてヴィンチ村で結婚し、何人かの子供も生まれます。

が1493年、上に出た年代が正しければ、彼女は既に66歳で、
ミラノにいたレオナルドの元に引き取られ、1年後に病気で亡くなります。

彼女の長い遍歴、苦労の生涯から考えると、やっと自分の生んだ、
世間に名の通ったマエストロの元に身を寄せられ、
ほっとした安堵からの疲れが出たのかもしれず、


レオナルドは決して「母親」と記さず、多分そう呼ぶことも無く、
葬式の費用も細かく記しているような男性ですが・・、

でもなんとなし、読む方も「良かった!」とほっと安心する、
最後だった気がします。


11-Ingrediente-segreto-Leonardo-_GF.jpg


「本」は、どうやらキンデルでも読めるのが分かりましたので、
来月、はい、今月は私めの上限いっぱいの買い物があり、へへ、
読みかけもあるので、来月早々に買って読む事にし、

何か目ぼしいことが見つかりましたら、またお伝えいたしますね。



レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年が過ぎましたが、
今もなお、様々な話題で賑わう「万能の天才」の生涯で、

n.1 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 ・ DVDから
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/475042637.html 

n.2 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 ・ DVDから
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/475042881.html 


いつか、彼の生涯系譜に、父はこうで、母親はこうだった、と
明らかに記される日が来るのでしょうか?

楽しみに、研究者達の活躍を願う事に致しましょう!!


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posted by shinkai at 00:37Comment(0)・欄外

・ エドゥアール・マネ と ヴィクトリーヌ・ムーラン のお話

少し以前に見つけたサイト記事で、
美術史におけるラヴ・ストーリー:エドゥアール・マネと
マネの、始めて見た絵の写真に釣られ、はぁ、読んだのでしたが、

1-Edouard-Manet-Chez-le-pere-Lathuille-1879_GF.jpg


絵の裏には、しばしばラヴ・ストーリーが隠されています」とあり、

マネのいわゆる代表作、と言われるのに「草上の昼食」「オランピア」
「笛を吹く少年」、そして「フォリー・ベルジュールのバー」が
上げられますが、
最後の作品は1882年、つまり彼の最晩年の作品になります。


笛を吹く少年」は元より、近衛連隊に属する少年兵なので、
今回のテーマからは外れ、1866年 160x98cm

2-Manet,_Edouard_160x98-_1866_(2)_GF.jpg

ここで私事ですがちょっと失礼し、
この絵に私めは小学校高年期に大きなショックを受け、いえ、
素晴らしさにショック、というのではなく、 ファンの方申し訳ないです、

当時新聞かな、この絵がチラシ程の大きさに印刷されたのが、
「これが西洋の名画」という様なタイトルで家に届き、

長野の小学生だった私めは、到底これが名画とは思えず、信じられず、
そのショックが余りにも大きく、なぜそう思ったのか本人にも不明ですが、
ず~っと大きなトラウマとなって引きずっておりましたのです。

大人になって以降も、この絵と出合うと目をそらすという、はは、
そんな様子だったのですが、

まぁ今回はこうして自分のブログに告白付きで載せる、というまで
大人になった、という事で、へへ、のっけから失礼をば。


他の2作は、かの有名な「草上の朝食」 1863年 208x264cm

3-gettyimages-566419809-1528298471_GF.jpg



オリンピア」 1863年 130,5x190cm

4-Edouard_Manet_038_GF.jpg


という事で、この2作のモデルをしたヴィクトリーヌ・ムーランを取り上げ、
芸術家とモデル、恋人、仲間、妻、に関するお話を。


つまり2人とも同じ師匠、歴史画家のトーマス・クチュール・
Thomas Coutureのアトリエに通い、知り合い、
彼女はそのアトリエで、画家になる、という夢をはぐくみつつ、
モデルをしていたのだそうで。

19世紀から20世紀にかけてのあの時代、如何に女性が画家に、
彫刻家になるのが困難であったか、いくらかお伝えしておりますが、

ロダンとカミーユ・クローデル エロス、芸術、愛、狂気の圧倒的なお話
https://www.italiashiho.site/archives/20221115-1.html

モディリアーニ の絵のモデル、そして同伴者のジャンヌについて
https://www.italiashiho.site/archives/20220911-1.html



ヴィクトリーヌ・ムーラン(1844-1927)
真っ白な肌に際立った赤い髪、薄い唇、安定した視線を持つ、
つまり即、気まぐれな性格、鋭さを持っていたのが想像でき、
ヴィクトリーヌも画家への夢を抱き、アトリエでモデルをしており、

彼、エドゥアール・マネ(1832-1883)の方は、師匠の伝統的な
姿勢に飽き足らず、美術館通いや外国旅行の修業時代もあり、

1860年頃からエドゥアールと彼女の絆は愛と芸術の組み合わせとなり、


1863年には上記の「草上の昼食」が生まれ出たのでしたが、

会話をしている2人の男性の間で、何も身に纏わずゆったり寛ぎ、

彼女1人が、見られている事を自覚し、かなり横柄な表情で
こちらを逆に見つめます。

5-edouard-manet-dejeuner-sur-l-herbe-dettaglio_GF.jpg

で、この作品は「サロンの落選展」に出品されたものの、
風紀に反する、と大非難を浴び、



更に1865年に、これもヴィクトリーヌをモデルに描いた
オリンピア」を出品すると、
  
娼婦を描いたのが明らかな事から前作以上に非難を浴びたのだそうで。

この作品でも、ヴィクトリーヌのこちらを見つめる目は健在!

6-Oberhausen_-_Gasometer_-_Der_schöne_Schein_-_Olympia_(Manet)_02_ies_GF.jpg



草上の昼食」は、ティツィアーノ、またはその師のジョルジョーネ作と
言われる、こちらがモネの画想の下敷きにあり、

7-ティツィアーノ(ジョルジョーネ)作『田園の合奏』_GF.jpg



オリンピア」には、ティツィアーノの「ウルヴィーノのヴィーナス」が。

8-Tizian_102_GF.jpg

ウルビーノのヴィーナス ・ 絵の背景 ティツィアーノ作
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20200422-1.html


きっと彼は、伝統絵画そのままの描き方には納得いかず、時代も違い、
印象派の自由な筆さばきで、自分風の絵を描きたかったのでしょうが、

未だ時代の風紀感を強く持つ審査員にも一般人にも受け入れらず、
容赦なく叩かれ、という所だったのでしょう。

とはいえ、スキャンダルとは逆に美術界の革命を先取りした、と
いう様な空気も生まれつつあったことも確かな様で。


こうした中で、エドゥアールとヴィクトリーヌの関係が終結しつつあり、

1863年10月、かなり以前から恋仲であったらしいスザンヌ・リーンホフ
と結婚し、彼女をモデルにする様に。


そしてもう1枚ヴィクトリーヌをモデルに描いた最後の絵があり、こちら
鉄道、またはサン・ラザール駅」 1873年 93,3x11,5cm

9-edouard-manet-le-chemin-_GF.jpg

以前よりも年数を経ての落ち着きが、とも言えるのかもですが、
どこか彼女の眼ざしはよそよそしくもあり、以前の不敵さ、
強さが感じられませんね。

2人の関係は近くなり遠くなりつつ続いていた、様な説明もありますが、
通りすがりの人を見る目、となっている様な・・。

ですが、この背後を覆う、白い蒸気の描写は素敵ですねぇ。



マネが描いたヴィクトリーヌと、 1862年頃 42,9x43,8cm

10-Edouard_Manet_088_GF.jpg



肖像写真。

11-Victorine_Louise_Meurent_(1844_–_1927)_GF.jpg


最初読んだサイト記事では、「結局彼女は画家になれず、
貧しい悲惨さの中で死んだ」という様な説明でしたが、

なんの何の、あの勝気な目をした女性は、きちんと肖像画家に師事、
絵画を習得、かなりの画家としての生活を長く続け、
1927年83歳で亡くなり、

彼女と同居していた女性の方が長く生きており、残された作品を
焼却したらしく、残ったのは2枚だけという、

その1枚、自画像。

12-Autoportrait-victorine-meurent_GF.jpg

まだ若い頃の作品ですが、やはり強い目つきは健在。

彼女がこうした自画像を残し、彼女が強く生きた証が見れて、
私はとても嬉しかった、のでした! 
描いていた、流されなかった、潰れなかった!!



そして今回最初に見て頂いたマネのこの絵、
ラテュイユ親父の店」 1879年 92x112cm

13-Edouard-Manet-Chez-le-pere-Lathuille-1879 - Copia_GF.jpg

若い男性が身を乗り出し、少し年上にも見える女性を口説く図で、
とても勇んでいる様子に笑えますが、

マネの亡くなる4年前の作品で、このレストランに良く通っていたらしい
彼が見たカップルか、はたまた良いお天気で外の席についていた時の
自分の若き頃の姿も重ねた画想なのか・・。



マネがわずか51歳で亡くなったのを知り驚いたのでしたが、
1880年頃から、ブラジルで16歳で感染した梅毒が悪化し、
左足の壊疽も進み、田舎で療養していたのだそうで。

病気の為、最後の2年間は大きな油彩画を制作できず、パステル画を
多く描いていたものの、


レジオンドヌール勲章を1881年末に受賞し、翌82年にかけ、

最後の大作「フォリー・ベルジェールのバー」を制作。 96x130cm ナンシー美術館

14-Edouard-Manet-Il-bar-delle-Folies-Bergere-1882_GF.jpg


実際にこのバーで働いていた女性にモデルを依頼したそうですが、
どこか虚ろな視線で、これはこの表情に焦点を当てた、と説明があるとも。

なぜ? 自分の体の衰えから?

1883年には衰えが激しく、壊疽の進行した左脚も切断する手術を受け、
が経過は悪く、遂に4月30日に亡くなり。

マネの死後徐々に友人たちの支え、背後からの応援もあり、彼の絵が
次第にルーヴルやオランジェリーに所蔵され、一般にも承認される様になり、
近代絵画の巨匠としての地位が決定的になるのが20世紀後半。

その後のオークッションの高値などは、絵の本当の価値なのかどうかですが、
でも、モネが知ったらきっと大喜びで、報われた事でしょうね。


*****

日曜日9日は、復活祭で~す!

皆さま、ブオナ・パスクワ!!


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posted by shinkai at 01:10Comment(0)・欄外

・ サンティアーゴへの巡礼  中世の巡礼者への危険性は!

いよいよコロナ禍も過ぎたかな、という所で、世界中が
再度旅行熱に取りつかれ始めたかな、という様子なのかも、で、

秋の日本行きの飛行機切符を探し始めたshinkai、
その値段のお高さに驚いている所です。

それはさて置き、
巡礼の危険性:サンティアーゴ巡礼の道
I pericoli del pellegrinaggio: il cammino di Santiago

というサイト記事を読み、昔は凄かったろうなぁ、と想像していた
以上に酷かったらしい事情に、
気の毒とは思いつつも呆れて笑う程で、皆様にもお裾分けを、と
思いご紹介いたしますね。

1-pellegrini-inginocchiati-dettaglio-_GF.jpg

巡礼はしませんでしたが、shinkaiも一度、サンティアーゴ大聖堂と
町訪問はした事がありますので、写真でのご案内をどうぞ。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474113993.html


さて、キリスト教徒にとっての3大巡礼地は、というと、まずローマ、
そしてサンティアーゴ・デ・コンポステーラ・Santiago de Compostela、
そしてローマから船に乗りジェルサレム・Gerusalemme、だそうで、

2-Pellegrinaggi_Medioevali_GF.jpg


各地への巡礼者の標識というか、荷に付けて身分を示す持ち物が
あり、サンティアーゴへの巡礼者の標識は、

ホタテの貝殻と、

3-vieira-e1638265179337-1024x768_GF.jpg

水筒代わりのカボチャ。 はい、瓢箪ではなくカボチャ。


そして何か月も、ひょっとして何年になるかもしれない留守を頼み、

そうやってキリスト教徒の世界から何千人もの信者が毎年、
聖ヤコブ・ジャン・ジャコモ、呼び方は様々ですが、
スペインのほぼ北西端の聖使徒の墓巡礼に歩いたのですね。

ご想像あれ、中世の、当時の道の悪さ、道案内の欠如、
盗賊、そして悪徳宿の主人が、
彼らの旅を、波乱万丈の長旅にしたのでした。

中世にサンティアーゴ巡礼道を制覇する事は大きな挑戦で、
幾ら本質は宗教の旅程、とはいえ、巡礼者が克服しなければならない
困難は、まさに障害物競走にも似て、

おまけに巡礼者たちは単に聖人の墓に詣でるだけでなく、
無事に故郷に戻り、その功績を村人たちに語り伝え、
称賛を受けなければ、意味が無かったのですね。

真実な賛美の中には、スロヴァキアなどの幾つかの土地では、
巡礼者は3回の旅をした証明が出来れば、
永遠の税金免除を受けられたそうで!


長い間の留守も問題でしたが、同時に旅での病気、詐欺、そして
あらゆる種類の盗難、虐待にも対処せねばならず、

おまけに、シラミ、トコジラミ、蚤でいっぱいの犬、極端な天候、
気温、足に合わない靴での困難な道、無数の災害に耐え、

そして、知らない地域、言語の違う場所を横断していくのですね。


フランスの修道士アイメリク・ピコー・Aymeric Picaudは有名な
12世紀のカリクスティヌス写本で、巡礼者が直面した危険についての
証言を残しており、

4-codex-calixtinus-manoscritto-miniato-del-xii-_GF.jpg

「東部のロルカ・Lorcaと呼ばれる場所には、サラド・Saladoという
川が流れているが、お前もお前の馬も立ち止まって飲んではいけない。
この川は致命的な川なのだ」

「サンティアーゴの方向に、岸に座って2人のナバラ人がナイフを
砥いでいるが、それはその川水で死んだ巡礼者を殺す為に
使ったナイフなのだから」

と、危険な流れの川、うっとおしいアブ、だます船頭、暴力的で
意地悪な人々についても警告を。


12世紀以降、スペインのキリスト教王国がイスラム教徒を追放して
以来の、レコンキスタ・再征服、と呼ばれるものですね、

サン・ジャン・ピエ・ド・ポール・Saint-Jean-Pied-de-Portと、
ロンセンバーレス・Roncisvalleから、サンティアーゴ・デ・コンポステーラ
に至る、
フランス道と呼ばれる道が、巡礼者が最もよく利用する旅程になったと。

5-Guida-al-Cammino-di-Santiago_14ed_01_GF.jpg

一日の行程が見積もられており、33日間!


こちらの左上は、標高差を現し、左下に全行程785,4kmとあり、
色付きの円の、黄色は整備された道、緑が小道、グレーが舗装道。

6-Guida-al-Cammino-di-Santiago_14ed - Copia_01_GF.jpg

右側に1日分の距離、kmが見え、初日のサン・ジャン・ピエを
出発してのピレネー越えが26.4kmと、これがキツそう!



サン・ジャン・ピエ・ド・ポールの手前にあるオスタバト・Ostabatには、

ブレターニャ・フランス北西、フランドル・ベルギー、オランダ方面、
ガスコーニュ・フランス南西部、ハンザ、フランク・ドイツ系からの
巡礼者たちが、
何か月も前に自分の故郷を出て集結し、

サン・ジャン・ピエ・ド・ポールで力を取り戻すために立ちどまり、

この出発点の町がこんなに美しいのを初めて知りましたが、

4-2-fiume_nive_a_saint_jean_pied_de_port_francia__GF.jpg


ピレネーを越え、ロンセスバレスに。


彼らは他のヨーロッパの巡礼時の習慣と同じ様に、常にグループで
旅をしようとしたのも、

7-Pellegrini-medievali_GF.jpg

8-41_GF.jpg


ロンセスバジェス・Roncisvalle、レオン・León、ナバラのバルデナス・
Bárdenas della Navarraでは、群盗団が横行し、

モンテス・デ・オカ・Montes de Ocaは犯罪者の巣窟となり、
自治体の民兵では追い出すことも出来ず、

当時の民間の諺に、「盗みたいならモンテス・デ・オカに行け」と
言うのがあったそうで!


こちらはナバラ地区にあるサンタ・マリーア・デ・イラチェ修道院・
Santa Maria de Irache. 巡礼者の為のホステルとなった
最初の修道院だそう。

9-monastero-di-santa-maria-de-irache-fu-il-primo-a-diventare-un-ostel_GF.jpg


道に沿った標識の貧弱さは、特に雪が小道や足跡を覆ってしまう
山道では、最も懸念される問題の一つで、

道の近くに棒や支柱を打ち込むのが慣行でしたが、メンテナンスも
悪く、人々はホステルや避難所の近くにしかおらず、

時折の、嵐が激しい時、霧が非常に深い時は、修道院の鐘の音で
自分の方向を確認し、

また巡礼者たちは日数で距離を測定し、太陽と星に向きを合わせ、
時に古代ローマのマイルストーンや、交差点に出くわす幸運に
恵まれた時は、距離ではなくとも、道を示してくれたのですね。


cammino-di-santiago-1_GF.jpg


ロロス・Rollos、十字架が上にある柱、さらし台など、死刑囚が
晒された構造物、そして交差点は目印として14世紀以来旅人を
援けましたが、

1214年にサンティアーゴへの巡礼をしたと言われるアッシジの
聖フランチェスコによって広まった十字架崇拝にもより、

道の宗教的な特徴を統合するだけでなく、
国境の目印として機能したり、痛ましい逸話の場所を示したり・・。


また鐘楼は、道に迷う危険を冒した巡礼者を導くための地上の
灯台として機能し、

広大な穀物畑の真ん中の丘の上にある小さな村の家々は、
旅行者にとっては視覚的な基準点になり、

遠い距離から見える教会の鐘楼、大聖堂の塔、城、大きな
教会建物も良い道しるべになりました。

そうですねぇ、これはイタリアに住んでいるとよく分かる事で、
まさに各村、町の教会の鐘楼が、方角を知らせる大きな目印ですね。


とはいえ、巡礼者の最大の懸念は、
ピレネー山脈と、聖地の町の間の800kmのルートを確実に
監視する事が非常に困難だった、安全性の欠如だったのですね。


群盗の攻撃は頻繁に行われ、とりわけ巡礼者の通過が最も多く
危険な状況の地域、
例えば上にも出たブルゴスのモンテス・デ・オカ周辺の危険な森などなど。

こういった盗賊に対処する為に、1269年ナバラのテオバルド2世は、
居住地の無い長い道路を避けるエル・エスピナル・El Espinal の
村を建設、
つまり犯罪集団者の仕事のし易さを防ぐ為、とでも・・。



そして、ちょっと見え難いのですが、この図をご覧下さいね。

10-historia-camino-santiago-codice-calixtino-1200x572_GF.jpg

下に並ぶ紋章がこの「フランスからの道」の巡礼達が通り抜ける
様々な国の紋章で、


つまり巡礼者たちは、様々な国を横断して行くのに、その都度
6回か7回両替をしなければならなかった訳で、

両替商の両替率で騙されたり、売り物の重量を替えたり、
あらゆる種類の欺瞞の常習的な犠牲者でもあり、

一応33日の行程、というのが最初にありましたが、33日間で
6回という事は、5日毎に両替しないといけないわけで、
何ともはや、ややこしかったでしょうねぇ。


より簡単に盗めるよう、宿の主人が睡眠薬を飲ませたり!
となると、宿の主人にも注意が必要で、

地元の領主が既に法律で支払いを免除しているにも拘らず、
橋や、川を舟で渡る通行料を強制したり。

詐欺も日常茶飯事で、時々2人の詐欺師が路上で見つけた
金色の鉛のコインを巡る争いを見せかけ、

善意に満ちた巡礼者は、偽の金貨と引き換えに、2人にそれぞれ
自分のコインを提供する事で喧嘩を宥めるために介入したりで!


使徒たちの最後の晩餐図。 右端に巡礼に扮したジャコモが。

14-lultima-cena-dettaglio-di-un-gruppo-di-_GF.jpg


サンティアーゴへの巡礼道は、聖者と奇跡の道であったので、
偽の証書や、偽の遺物を扱う悪党も多く待ち構え、

巡礼者の服装、棒、マント、財布、帽子を身に着けたベテランの
俳優もおり、本物の巡礼者の信頼を盗み、気を散らさせて盗んだり、
旅行者の慈悲をひきつける為に怪我を装ったりしましたが、

これらの悪党の多くが外国人、とりわけイギリス人で、
巡礼者たちが他人に変わって施し物を預かり、服の裏地に入れておくのが
多いのを知っており、盗むのは簡単であるのを知っており、

ナバラ州のエステラとサングエサの地域で、この種の苦情が多かったと!
旅先で盗まれるのは、本当に気の毒ですよねぇ。


こうした巡礼途中で犯される余りにも多くの犯罪や虐待をほって置けず、
国として法的に規制する事となり、

カスティーリアの賢王アルフォンソ10世(1221-1284)の

11-alfonso-x-protettorei-dei-pellegrini_GF.jpg

フエロ・レアル・Fuero Real・王室管轄(王国内の法律を標準化する為に
発行)が確立され、

我々の王国を横断するすべての旅人や巡礼者、特にサンティアーゴに
往き来する人々は安全でなくてはならない。
彼らに、我々の領域に行き来し、滞在する為の安全の特権を与える」と。


また巡礼者が旅に持ってきた品物を所有する事の保証規則も出来、

これは1390年頃、カスティーリア王フアン1世(1358-1390)の治世の
終わりに、

巡礼者は馬丁、速足の馬、雌牛を自由に持ち込み、持ち帰ることが
許可され、
「それらがカスティーリア生まれでない事が証明できれば」となり、


彼の甥のフアン2世(1406-1454)は、旧大陸からの巡礼者に安全な
行動を許可し、国王の臣下と見なされて彼らの商品やその他の財産が
没収されないよう命じ、

更に「フエロ・レアル」で、
「各地の市長が、宿屋の主人のせいで、また他の人から受けた損害を
巡礼者に補償しなかった場合、

嘆願書が巡礼者から提出された後、正義が与えられていない場合、
被った損害とその為に負担しなければならなかった費用の2倍を、
遅滞なく巡礼者に支払う事」と。

またアルフォンソのテキストでは、巡礼道での泥棒と、それ以外の
場所で盗んだ者を区別し、

最初のケース、巡礼者からの窃盗は通常死刑で罰せられたため、
はるかに刑罰が厳しく、

こうした巡礼道途中での暴行に対し、死刑が課されたいくつかの
ケースが記録されており、

1332年巡礼者を襲って逮捕された2人の泥棒のうち、1人は絞首刑、
もう1人は鞭打ちのうえ、耳を切り落とされ、

同じ理由で、サラス・Salasのアストゥリアス聖域から盗んだ
ジェノヴァ人が絞首刑に。 

つまり巡礼者でも、途中で悪事をすると同じ扱いとなったという、
はい、平等ですね。


と、ちょっとおもしろい逸話も見つかり、

アンドレス・Andrésなる男が、巡礼者の荷物とお金を盗み
逮捕された時、
盗みの首謀者である修道院長の兄を非難、告発かな、

修道院長は教会建物が享受している免責から身を守るために
教会に避難したものの、
盗んだ金銭を戻し、許しを得るためにサンティアーゴに2回巡礼
せねばならず、職と利益を奪われた、と。

が、実際に盗んだ弟の方は絞首刑に。 と読みますと、
この判決は正しかったか否や、ちょっと引っかかりません?



そして巡礼者の重要な持ち物の1つはカボチャ、はい、これは日本の
瓢箪と同様、水筒として使われたもので、

12-Conchiglie-zucche-e-bastoni-_GF.jpg


旅行者は途中に作られた泉や水飲み場で水を補給したのですね。


所がこれらの泉は巡礼者が個人の衛生管理の為にもの休憩所としても
機能しており、
一般的に蚤、シラミ、トコジラミがはびこっていたのだそうで!!


今日でもその時代に遡る泉があり、

13-LOS MOLARES-Fuente de la Higuera_GF.jpg

14-the-famous-burga-de-abajo_GF.jpg


その名前は巡礼者たちが使用した事を想起させるのがあり、

ブルゴス周辺では、フエンテ・デ・ロス・ピオホス ・Fuente de los Piojos
(シラミの発生源) ははは、  上の写真は関係ありませ~ん。

イテロ・デル・カスティーヨ・Itero del Castillo、モハパン・
Mojapán(パンを浸す)というのは、

モンテス・デ・オカの上りに添って、旅人が乾いたパンを濡らして
柔らかくする、と言われていたのだそうで。


そしてサンティアーゴから最早僅か10km程しか離れていない時、

15-1-santiago-ente-pellegrino_GF.jpg


巡礼者は伝統的にラバコラ川・Lavacollaで体を洗う必要がありました。


17-Catedral_de_Santiago_de_Compostela__GF.jpg


とはいえ、コンポステーラの大聖堂内は、巡礼者の匂いでいっぱいで、
というのも、一日中開いているのを利用し、中で寝たもので、はい。

悪臭問題は、少なくとも14世紀から存在し、今日大聖堂のシンボルの
巨大な香炉で改善しようとしたのが、始まりなんだそうで。



大聖堂入り口の、栄光のポルティコ。

15-2-portico-della-gloria-nella-cattedrale-_GF.jpg


そして犯罪者の危険は、最後まで巡礼者に付きまとい、
サンティアーゴの路上で、町の宝石商によって広く使用されている偽の石と、
巡礼の完了を思い出させ、証明する偽の貝殻の売り手を避けねばならず、

13世紀に教会は、このコンケイロ・貝殻職人の店の販売管理に、介入
しなければならなかったと。


そして最後に教会の屋根にあるクルス・ドス・ファッラポス
(ぼろきれの十字架)の前で、着てきた古い服を脱いで
燃やすのが通例でしたが、

衣服は中世の貴重な商品であり、燃やされる運命の一部は、
他の貧しい巡礼者に売られるために、道に戻されたそうで、ははは。

最後に巡礼者はアザバケリア広場・Plaza de la Azabacheríaに到着し、
そこで彼は使徒の町に無事到着した事に対する中世の喜びの叫び声、
ウルトレイア!・Ultreia!を叫ぶことが出来たのでした。 おめでとう!!


5255dsk_57b5e6baab2d74f_GF.jpg



今迄の苦労連続の冒険は、巡礼の完了を証明する文書、現在の
コンポステーラ、と、

この写真は、各地での御朱印を押すものなのかも。

18-Diseno-sin-titulo-12_GF.jpg


巡礼者個人が永遠に獲得した個人的、および精神的利益により
報われたのでした。


大聖堂ご本尊のサンティアーゴ聖人像。

16-historia-camino-santiago_GF.jpg


n.1 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474164921.html

n.2 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474165434.html

n.1 サンティアゴの街 ・ 中心広場の周辺を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114344.html

n.2 中世の巡礼の街 サンティアゴの旧市街を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114581.html



中世には何百万人ものヨーロッパ人が巡礼し、大変な繁栄を見た
コンポステーラへの巡礼も、中世後期以降はヨーロッパの戦争、黒死病、
1378年のキリスト両世界の分裂があり、大幅に減少。

そして16世紀以降、修道院のもてなしの消滅があり、巡礼者の姿は
実質的に消えたのでしたが、

20世紀半ばになり、巡礼道復活を目的とした様々な運動が生まれ始め、
国の政権の新たな関心、1980年代の教皇ヨハネ・パオロ2世の訪問、
そして1987年の世界遺産の宣言のお蔭で、

カミーノ・デ・サンティアーゴは、退廃から、西側世界で最も重要な
巡礼地に復活。

現在は世界各地から訪れる年間20万人を超す巡礼者がおり、
コロナ禍でも細々と続いていた様子で、
今年度はきっとまた復活の大きな数字の報告がある事でしょう。


写真で見る広大な平地に憧れつつ、遂にあの道を歩くのは断念ですが、
でもね、薄い宗教心でも、あの風景の中に立つのは、まだOKかも・・、
と思っている私めなので~す。


今回は、本当に驚く程の様々な犯罪的逸話が語られ、逆に興味も
沸いてご案内したのですが、はぁ、

そうね、中世の昔も今も、人間のする事はあまり変わらないのね、と
可笑しくも、感心したのも事実なのでした。


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