・ フィンツィ・コンティーニの庭園、小説と映画、 そしてフェッラーラの

今回ご覧頂くお話、ネタを何にするか、どの様に展開するか、
本当に迷い、決めかね、あれもこれもと調べ読みました。

というのも、以前13,4年前の2月フェッラーラに確か2泊で出かけ、
あっちこっち見て歩き、その写真をブログに3回ほどアップしたのが、

ブログの引っ越しでさっぱりと消え! いぇ、写真は残っているものの
書いた記事が消えたので、記録庫に残る「フェッラーラ」関係が
消え、はぁ、私めの頭の中の記憶も曖昧至極に・・!

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再挑戦を、と思うままに過ぎており、
先回「ヘルムート・バーガーの追悼」に出た
「フィンツィ・コンティーニの庭園」をどの様に、と決めかね、

漸くに昨夜ベッドの中で、小説と映画に絞り、その関連で
フェッラーラに於けるユダヤ人コミュニティの事を少し、と。

とはいえ、私めも今回このフェッラーラのユダヤ人について初めて
かなり詳細に知った訳で、

中世以降400年に渡ってフェッラーラを統治したエステ家が
例え経済的利点からにせよ、ユダヤ人を保護する方向で働いており、

16世紀末最後のアルフォンソ2世の跡継ぎが無く、エステ家は
エステに移され、その後の教皇領への移譲から、
ユダヤ人に対する危機が始まった、と考えられ、

そしてファッシスト党も最初はムッソリーニが避けていた問題も、
ナチス・ドイツとの連携が強くなり、遂に1937年の「人種法」に基づき
迫害が始まり・・、という事なのでした。


という事で、魅力あるフェッラーラについては次回に、
宜しくお願い致します。

元の小説
フィンツィ・コンティーニの庭園・Il giardino dei Fenzi-Contini

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1962年に出版されたジョルジョ・バッサーニ・Giorgio Bassaniの作で、
私は読んでおらず、映画を見たのみで詳細については読んだままを。

ジョルジョ・バッサーニ 1916-2000
ボローニャ生まれ、ユダヤ家系でフェッラーラで育った作家、詩人、政治家

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1930年代からのイタリアの激動期、ナチス・ドイツとのファッシスト
政権下における「人種法」が、フェッラーラのユダヤ人コミュニティの
家族、若者たち、人々を押しつぶした悲劇的運命を描いたもの。


フェッラーラに於けるユダヤ人コミュニティの歴史
Storia della comunità ebraica di Ferrara

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で知った事は、フェッラーラのユダヤ人コミュニティは恐らく13世紀前半の
記録に登場し、これは土地購入、というので驚いたのでしたが、

以下少し長くなりますが、フェッラーラのちょっと特徴的と思われる
ユダヤ人社会が置かれていた状況、そしてその変化の様子を
知って頂くと、小説、映画内容も納得できると思われるので、
説明させて頂きますね。


15世紀になるとエステ家の下に着実に成長し始め、宗教礼拝の行使と
立法上の自治権も与えられ、
ボルソ・デステ、そしてエルコレ1世とは個人的関係も結ぶほどになり、

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15世紀末にはスペインから排斥されたユダヤ人の受け入れをし、
エルコレ1世は、キリスト教徒患者にも医術実践、薬局経営などの
権利なども譲渡し、
荷物を持ち込み、家族とともに定住する人に対する減税、と!

が一方、カトリック聖職者側からの反対の悪化もあり、ユダヤ人の
銀行活動に反対する目的で、モンテ・ディ・ピエタ・公的質店の誕生が
1507年に。

1534年には他のイベリア移民の定住も認められ、
1541年にはナポリから追放のユダヤ人もフェッラーラは受け入れ、
1550年には、ヴェネツィアから追放の、ポルトガル系「コンヴェルソ・
異端変換者」の受け入れも。

こういう厚遇が変わったのは、最後のエステ家のアルフォンソ2世
教会権力と異端審問の圧力に抵抗できずで、
おまけに後継者が無く、1597年にフェッラーラーは教皇領に。


デルタ・デル・ポー ・ ポー河が海に出あう所
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463259026.html


1590年の飢餓中での国勢調査によると、市内には2000人の
ユダヤ人と、200人のコンヴェルソがいたそうで。

そしてその後、不動産購入、税金類の管理、家賃の徴収は許可
されずとなり、
男性、女性共に、ユダヤ人が帽子などに黄色、オレンジ色のベールを
標識をつける様定められ、

1626-27年にはゲットーが設立され、つまり他の都市のユダヤ人扱い
と同じ条件となっていたのですね。

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そしてフランス軍、ナポレオンがイタリア国王となっていた1796年には、
「フェッラーラのユダヤ人が、他の国民と同じ権利を享受する」ことを布告、
新たな歴史が始まり、

とはいうものの、なかなかの変遷があり、再度教皇領となったりと
一喜一憂が長く続きますが、

遂にイタリア国家の成立となり、1860年完全な身分開放となります。
フェッラーラのユダヤ人達は、それに応じ愛国心を発揮し報いますが、

1937年には、イタリアにおけるユダヤ人の積極的存在が終焉を迎え、
政府自体がユダヤ人を公職から追放、9月にはすべての公立学校が
ユダヤ人種生徒の入学を禁止、ユダヤ人教師は全員追放に。
次々とこうした布告が続き、

1938年2月政府は「ユダヤ人はイタリア人種ではない」との声明を。

こうしてユダヤ人生徒が公立学校から追放された後、ボランティア教師に
よる私立コースが設立され、
ジョルジョ・バッサーニもボランティア教師となったのだそうで。


緊迫した世情がひしひしと押し迫って来ていたフェッラーラを
舞台に「フィンツィ・コンティーニの庭園」が描かれます。

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で、このフィンツィ・コンティーニ庭園はどこにと言いますと、

地図をどうぞ。

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左下に近い場所に見える城の北から真っすぐ延びるのが
コルソ・エルコレ1世通りで、


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コルソ・ロセッティ・Rossetti、コルソ・ポルタ・マーレ・Porta Mare 
との十字路の左下角にあるのが、パラッツォ・ディアマンテ・Diamante、

壁を一面に覆う四角く尖った壁面が特徴で、

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地方美術館になっていたのかな、内部は知りませんで。



で、その斜め向かいの建物が、地図にはありませんが、映画の中で
フィンツィ・コンティーニ邸があったとされており、

夏の朝、ユダヤ人の若者達が自転車で集まって来て、邸宅、テニス・コート
への門を開けてくれと門番に頼むと、

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コートへの門は、あちらに回って、と言われ、

回るのが、現在の実の公園、地図の十字路の背後に大きく広がる
パルコ・マッサーリ・Massariの入り口。

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が映画の中で、広く美しい庭園を若者たちが自転車で走り、見える邸宅は
ロンバルディーアのブリアンツァ・Brianza、モンザにあるんだそうで!

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また幾つかのシーンはローマの植物園とも。



未だ庭園にいる間は平和な空気で、のんびりと仲間で楽しみつつ、
が、話の中に不安が滲む感じでもあり、

左がヘルムート・バーガーのアルベルトと、大学が一緒だったブルーノ。

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君はまるで外に出る事が無いの? そう、出ない。それに出ても行く所が
無いし、誰かが話すと、軽蔑されているように感じる、というアルベルト。



アルベルトは病弱で、妹のミコール(ドミニク・サンド)と。 

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世情が厳しくなり、図書館でユダヤ人は閲覧できないとジョルジョは締め出しを。

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遂に、戦争が始まる、と走ってくる人々。

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フェッラーラの町を9km以上に渡って囲む城壁内の道を走っていて、
フェンツィ・コンティーニ家への壁を乗り越える近道に気が付くジョルジョ。

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夜中にたまらずに紛れ込んでいくと、庭園の端っこにある東屋で、
彼が愛しているミコールと、ブルーノとの逢引き場面に。



ブルーノとミコールの事はさておき、ブルーノを友人として尊敬している
ジョルジョの、お城の堀端の場面。

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その後ロシアへの派遣軍に加わって出征したブルーノは帰らずのままに。


アルベルトは白血病で亡くなり、ユダヤ人墓地の立派な家族の墓に
葬られますが、

その後一家は全て逮捕され、アウシュヴィッツに送られ戻らぬままとなり、
一家の墓にはアルベルトのみが。


アルベルトは何とかスイスの親戚の家だったかに避難し戦争を逃れ、
10年前一緒に過ごした友人達は皆どこへ?!

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当時を回顧する様子だったかな、で映画は終わります。


小さな画面で見難く、当時の感じもあまり伝わらなかったかもですが、


こんな茶色にくすんだ写真が如何にも、あのフェッラーラの町の、
勿論中心地から北に向かっての、かってのエルコレ1世が改革した
広い丸石舗装の道路、一帯を思い出させます。

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この小説は大ヒットとなり、映画は1970年ヴィットリオ・デ・シーカ
監督によって製作されましたが、

アカデミー賞最優秀外国映画賞を受けました。

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上の地図の、上の右端、赤線の城壁内部に見えるのがユダヤ人墓地で、

大変立派な広いもので、イタリアで3つの内の1つとかで、
現在も使われていると。


このお墓、フィンツィ・マグリーニ・Fenzi Magriniと見えますが、

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このマグリーニ・シルヴィオ・Magrini Silvio、という方が
ジョルジョ・バッサーニがイメージを受け、小説に描いた方だそうで、

ドイツのドルトムンドの東にあるバッド・アロルセン・Bad Arolsen
にあるナチのアーカイブに記録が保管されているのが見つかり、
赤十字がヘッセンの町の学者たちに公開したものだそう。

「父:モゼ。 母:ファウスタ・アルトム。 1881年8月1日、
イタリアのフェッラーラに生まれる。 宗教:ユダヤ教。
ドイツに追放。 プロトコル番号 598504」

この方が、彼の描く物語の家族の長で、ミコールの父、エルマンノ・
フィンツィ-コンティーニの人物像にインスピレーションを与えた男性。

「マグリーニ・シルヴィオ、1943年10月16日に逮捕、12月に
フォッソーリのラガーに到着」と。

フォッソーリの収容所は、アウシュヴィッツに送られる前の
一時収容所として機能したもの。


フェッラーラの素晴らしい庭園は家族のもので、愛想のよい教授は
図書館で何時間もすごした後に、庭に現れた、と。


1942年リンパ肉芽腫で亡くなったアルベルトのみがフェッラーラの
家族の墓に葬られ、

次女のジューリア、父のエルマンノ教授、母親オルガ、そして
オルガの母親、高齢で麻痺のあるレジーナも、
全員1943年秋にドイツに強制送還され・・。

マグリーニ家は、フェッラーラのボルゴ・レオーニ通り76番地に
住み、ユダヤ人コミュニティの主要な核の1つを構成しており、

小説フィンツィ・コンティーニの正確なレプリカとなり、
大きな犬のヨル・Yorも登場しますが、
悲劇的に家族全員が消えたのでした。


バッサーニは小説の骨格に実在人物の一家を当てましたが、
映画に美しく描かれた緑豊かな公園は、フェッラーラではなく、

ラツィオ州セルモネータ・Sermonetaにある、カエターノ家の
ニンファの公園からインスピレーションを受けたのだそうで。

カエターノ家の最後の公爵だったか、音楽家の・・、ファイルが紛れ、
そのイギリス人の妻が雑誌を出版しており、バッサーニはその方に
ニンファの公園の事を聞いたのだそうで。

成程、あの公園も、中世に大いに栄えた街道筋の町だったのが、
疫病と、新しいアッピア街道が出来て大きな廃虚となったのを、
イギリス式庭園に生まれ返させた、という事でしたから、

寂れのイメージがどこか繋がったのかも、と思った事でした。

ニンファの庭園 ・ 中世のポンペイ+イギリス式庭園
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471630054.html

n.2 セルモネータ ・ カエターニの城
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471637108.html


この小説、映画となった作品は、余りにもフェッラーラの町の
描写が的確でイメージがはっきり残り、また当時のイタリアの事情、
ユダヤ人迫害の歴史を語ったものから、

町を訪れ、フィンツィ・コンティーニ邸、また庭園を探す人々が多く、
とりわけ外国人に多く、ははは、shinkaiも地図とサイト記事を
漁りましたものね、

深い郷愁と痛惜さ、というのか、忘れられない想いを運びますが、

そんな愛読者、ファンの方に、ジョルジョ・バッサーニ財団が
アリオストの家・Casa Ariosto」 via Ariosto 67 の1階に
土曜と日曜の朝10時から12時半まで、博物館を公開しているそうで、

金曜午後も16時から18時とありますが、ずっとかどうか分かりません。

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バッサーニの生家は残っているものの、彼は逮捕され、投獄された後
釈放された時に逃亡し、そのままイタリアに戻らずだったそうで、
家はその後売られ、現在は公開されておらで、こういう形で。


日本でも「フィンツィ・コンティーニ家の庭」として、アマゾンのページで
見つけましたが、数が、値段がどの程度か、分かりませんでした。

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かっての自宅を訪問された時の、ジョルジョ・バッサーニの姿を最後に。

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取り組んだ主題が大きすぎ、実際にお伝えしたかったことが上手く
行ったかどうか気になりますが、

フェッラーラの想い出と共に、何とか何とかと辿って見ました。

またいずれ、町の方のご案内も。 有難うございました!


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・ さようなら ヘルムート・バーガー、 ヴィスコンティの想い出と共に

先日5月18日、スマホのニュースに一斉に出まわった
ヘルムート・バーガー・Helmuto Berger 78歳で逝去
ニュースに、ああ、遂に、の感が沸きました。


暫く前ヴィスコンティの記事で、映画「地獄に堕ちた勇者たち」
や「ルードヴィッヒ」に主演した彼の姿も強く思い出し、
彼の記事やら、写真も集めたのがそのままになっていたのでしたが、

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死去の報と共に、あれこれたくさん新しい写真が出回り、
自分が見た映画にも彼の姿があったのを見逃していたりを知り、

かっての彼の姿を驚嘆の目で見つめた一映画ファンとして、
ささやかな追悼の念を贈りたく、ここに。

参考にした記事は
ヘルムート・バーガー:忘れられた「呪われた天使」
Helmut Berger: l'”Angelo Dannato” Dimenticato

他に、ウィキペディアの日本語版、イタリア語版のそれぞれを。

「ヘルムート・バーガー」と読まれても、若い方には 誰、それ?!
と知らない方の方が多いかもですが、へへ、

1970年代には世界で最も美しい男と定義され、彼を発見した
ルキノ・ヴィスコンティのお蔭で素晴らしい仕事も出来、
いわば神話的な俳優、男性だったのですね。

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1944年5月29日オーストリアはザルツブルグの温泉地バート・イシュル
のホテル、レストラン経営者の息子として生まれたものの、関心なく、

役者志望を父親の大反対から、18歳で故郷を離れロンドンに。 
モデルとして働き、
その後イタリアはペルージャの外国人大学の演劇コースに。

1964年、20歳の時にイタリア文化の試験の為ヴォルテッラを訪れ、
たまたまヴィスコンティの「熊座の淡き星影」の撮影を見物
していたのを、ヴィスコンティが見つけ、

単純に見物人の一人に過ぎない彼に、寒い時期の撮影であり
助監督にマフラーを持って行かせた、と、日本版ウィキにあり、

イタリア版には、ペルージャからローマに移り、モデルの仕事や
映画助手として働いていた「熊座の・・」撮影時に
ヴィスコンティに出会った、と。

いずれにせよ、2人にとっては私的にも職業的にも運命の出会いとなり、
38歳もの年の差がある2人がお互いに一目ぼれ、だったそうで!


ヴィスコンティの監督したオムニバスの一話に、ほんの脇役で出演
したのが彼にとっての最初の映画、1966年の「華やかな魔女たち
でのデヴューと。

彼はドイツ語、英語、フランス語、そしてイタリア語が話せ、
おまけにこの美貌ですから、願ってもない大物新人の登場という訳で、

翌年、翌翌年の他の監督の主演映画と続き、


ヴィスコンティとの1969年の「地獄に墜ちた勇者ども」で
真の成功を掴み、ゴールデン・グローブ賞にもノミネートを。

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ナチス台頭の1330年代、当時の実在の鉄鋼一族で、後にティッセンと
合併したクルップ社がモデルの、ナチスとの協調路線を選ぶ事の一族内の争い、
そして凋落していく様子を描いた映画。


女装し、マレーネ・ディートリッヒの「嘆きの天使」を演じるシーンでは、
完璧主義で有名な監督は、撮影時に彼に完璧なコピーを要求し、
つまり、そうやって育てられたのですね。

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マレーネ・ディートリッヒからお褒めの手紙が届き、彼は嬉しく
ずっと保管していたと、後に出版した自伝に書いているそうで。


この映画内で彼の演じる人物、扮装をみると、如何に監督が彼を
可愛がり、彼の魅力を引き出し、見せる為に工夫したか分かる様で!

単なる甘い美貌というのではなく、どこか冷たさもあり、
底知れない感じも受けますが、それが監督にとっては魅力だったのかも。


この映画はまだ広島にいた頃、はぁ、xxx年以上前に見ており、はは、
その時は難しい時代背景を到底全部が分かったとはいえず、
が、強烈でとても興味深かったのをよく覚えており、

今回あれこれ読んでいるうちに、もう一度ちゃんと見たい、と
次に登場の「ルードヴィヒ」共々、即DVDを注文した所で~す。


ヴィスコンティはヘルムートに様々な文化的教養も身に付けさせ、
世界の著名文化人にも会わせ、逆にまた嫉妬深く、夜遊びにも規制を。

が彼は、誰よりも師として尊敬し、時には父親以上に父親の存在で、
そして「恋人」でもあったと。


当時は未だ同性愛はタブー視されており、最初の頃は関係を隠そうと
していたものの、じきに公に知られるようになり、

彼の両性具有的な美しさとバイセクシュアリティは、俳優自身の
側面として、映画のみでなく、雑誌、写真家の世界でも
引っ張りだこの有名人、一躍の著名人となり、映画にも連続し。


1970年には、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「悲しみの青春」に。

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当時イタリアで大ヒットの小説「フェンツィ・コンティーニ邸の庭」
を映画化したもので、

第2次大戦下の、イタリアでもユダヤ人排斥が起こる直前の
フェッラーラの町で、ユダヤ人の若者たちが大富豪のユダヤ人邸宅の
テニス場に集まり楽しんでいる様子が描かれ、そして・・という物語。

デ・シーカ監督はこの作品でアカデミー賞を取ったそうで。


この真ん中がヒロインで、右が彼女を愛する彼、そして左が
ヘルムート扮する兄、という設定。

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映画を見て、フェッラーラを2,3度訪問し場所が分かるだけに、
どこが実際に?と地図を探し回ったり・・、で、
他の資料も見つけましたので、また別にご案内を。


他にヘルムート出演の映画はあれこれあるのですが、私めが見たのに
一応限らせて頂き、


1971年にはヴィスコンティの「べニスに死す」があり、 
これは見ており、

タッジューに扮した美少年、ビヨン・アンデルセンがその美しさで
大評判となりましたが、

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何年か前に、誠に失礼ながら、老年になった彼の余りの落差に驚き、
恐ろしくなる程で、また彼がヴィスコンティが自分の将来を壊した、
という様な事を書いたか、言ったか、というので、

他人事ながら、ヘルムートもひょっとして、と恐れを感じたりで。



1973年にはヴィスコンティの「ルードヴィッヒ」。

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ドイツ・バイエルンの「狂王」と呼ばれたルードヴィッヒ2世を描いたもので、


はい、かのノイシュバンシュタイン城を造られ、

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ワーグナーの音楽に魅せられ、芸術を愛し、浪費に満ち、国庫を圧迫、
遂には国会より退位を迫られ、謎の水死を遂げられた王様。

この映画の始め、戴冠されての登場場面で、如何にも「白皙の貴公子」
の凛々しい姿に、わぁ~お!と痺れた、未だ若きshinkaiめで、ははは。


ですがぁ、今回実際のルードヴィッヒ王は、と写真を見ましたらぁぁ、
なんとまぁ、

どちらが美男、と言えない程の美男でいらっしゃり・・! 恐れ入りましたぁ。

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ですが、次第に酒に、怠惰な生活に溺れ、はい、この王も同性嗜好だったそうで、

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甘い物にも目が無く、若くして歯も抜ける様な生活の果てに、40歳で!

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この「ルードヴィッヒ」の撮影は済んだものの、これから編集を
という1972年7月27日、ヴィスコンティは脳卒中に見舞われ、
過酷なリハビリの後も左半身に麻痺が残る状態に。


が、その後2本映画の撮影を行うことが出来、

1974年に「家族の肖像」。
ヴィスコンティの「山猫」主演のバート・ランカスター、そしてヘルムートも
主演しており、

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シルヴァーナ・マンガノ、「ベニスに死す」のタッジューのマンマ、
とヘルムート。 

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これは見ておりませんが、ヴィスコンティの死後に公開された日本で
大ヒットだったそうで!



そしてヴィスコンティ最後の作品「イノセント」1976年。

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これも素晴らしい映画でしたね。


撮影中のヴィスコンティの姿、う~ん、かなり痩せておられますね。

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そして同年3月17日、ローマにてヴィスコンティは69歳で亡くなります。

実の貴族家出身ならではの、華麗な背景の描き方は独特で、
という映画が続き、その美意識と儚さ、剛腕と繊細さが見事でした。


ヴィスコンティ家の 香り付きおしろいと、香水のお話 そして
https://www.italiashiho.site/archives/20220612-1.html


が、彼の死後ヘルムートは大変な個人的危機に陥り、
深酒、麻薬に落ち込み、公衆の面前で立ちショxを、という様な
写真も見た記憶があり、

ヴィスコンティの亡くなった1年後のその日に、彼は自殺未遂をはかり、
極限状態で救われたそうで、

自分自身を「わずか32歳の未亡人」と呼んでいたという、
彼らの12年間の重みが想像されます。




それ以降のニュースは知らずのままでしたが、

今回の彼の逝去の知らせと共に、その後の仕事状態も分かり、
当時に比べると細々と、という感じですが、

周囲の友人に助けられつつ、という状態ながら仕事が続き、
やはり出演すると、それなりの存在感で消えずに残り、


暫く前TVで見た、フォード・コッポラの「ゴッドファーザー、n.3
1990年に、スイスの銀行家として出ていた、と知り、

登場人物はすぐ分かったものの、顔を見ていたのにまるで
分からずだった彼の写真を探しました。

何年も前に大ゴシップで出た、ヴァティカンとマフィアの関係で
ロンドンのテームズ河で死体が発見された実在人物を模した様で、

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この時は、彼は鬘で禿頭に していたそうで!



こちらは映画以外のスナップの様ですが、上と同年代でしょうか。

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その後も彼自身の記録映画等もあった様ですが、深酒、乱れた生活
等も写っており、ヴェネツィア映画祭での上映では問題になったとか。


もっと年配の写真も見つかりましたが、一ファンとして上の写真を最後とし、


冒頭で述べましたように、この5月18日、79歳の誕生日の前夜
午前4時にザルツブルグで亡くなったそうで、
ドイツのマスコミによると、彼の死は「予期せぬ」ものだったと。



アッディオ、ヴィスコンティのお気に入りだったヘルムート・バーガー.

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若く美しく、そして素晴らしい作品は永遠にあなた方の名と共に残り
幾世代もの人々が憧れる存在として、いつまでも。 アッディオ!!


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・ ミケランジェロの ダヴィデ像 の 困難な生涯

分家ブログに先回から2度、イタリアにおける芸術品の破壊行為
についてアップしていますが、

知る都度、行われた破壊行為に大いなる憤りを感じつつ、
またそれに対応する修復者達の献身に感謝の念を抱き、

とりわけ今回のn.2に載せた、パドヴァのエレミターニ教会の
オヴェターリ礼拝堂のマンテーニャの壁画と、

そして今回取り上げるミケランジェロのダヴィデ像については、

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作品が誕生以来辿って来た事件経緯、について読み、
知らない事ばかりなのはいつもの事ながら、

読みつつ憤慨したり、呆れたり、感嘆したり、で、
是非皆さんにも、と思い、取り上げる事に致しました。

記事の一番の基本、起こった順について参考にしたのは

・ミケランジェロのダヴィデの冒険
 LE AVVENTURE DI DAVID DI MICHELANGELO
 

そしてその細部については、こちらのいくつもの記事
・シニョーリア広場にあるダヴィデ像の、オリジナルの貴重な写真
 Le rare foto del David originale in Piazza della Signoria
 
・ダヴィデ像と、像を損なった修復作業
 Il David e gli interventi che l’hanno rovinato
 
・シニョリーア広場からアッカデミア美術館に
 Da Piazza della Signoria alla Galleria dell’Accademia
 
・1873年7月31日 ダヴィデ像 シニョーリア広場からアッカデミア美術館への引っ越しが始まる
 31 luglio 1873: inizia il trasloco del David verso la Galleria dell’Accademia
 
という事で、イタリア・ルネッサンスの1つの象徴であり、
世界彫刻の傑作、と万人が認める、ミケランジェロ作のダヴィデ像、

約3年間をかけての制作の後、1504年9月8日に公開されたもので、
誕生後既に510年余りを経ている訳ですね。

1873年、シニョーリア広場からアッカデミア美術館に移送され、

天窓のある特別の観覧席から、全世界からやって来る観客を
迎え、一見安泰な様子に見えるダヴィデ像です。

が、ここに至る迄にかなり様々な冒険を乗り越え、危険な目にも
遭って来たのですね。

ミケランジェロの制作について、またフィレンツェのシニョーリア広場、
ヴェッキオ宮入り口に設置された経過については、
ウィキペディアにも詳しいので、どうぞ。


で、ここでは、シニョーリア広場に設置されていたダヴィデ像の、
かっての懐かしいオリジナル写真をまずどうぞ!

まず残っている一番貴重な写真はこちら、1860年以前のもの。

2-1-david-prima-1860_GF.jpg


そしてもう一枚、上に素朴な屋根が差しかけられたもので、
1857年だそう。

2-2-19800864733755_2145196899902374522_n1_GF.jpg

ですがご覧になってお気づきですか?
この写真裏焼きになっていて、つまり陰画を裏返しで焼いていて、
フィルム時代にもチョイチョイ見かけましたっけ。


そして1860年3月15日以降のものが、2枚あります。

3-fld0010556x_p-1_GF.jpg

4-originale-1_GF.jpg

上の1枚と、この下の2枚を見分けるのは、背後に写っている
額縁に収まった碑文の存在有無で、

実はこれ、1860年3月15日に行われた国民投票の結果を
示したもので、結果のみをお伝えすると、
この国民投票により、イタリア王国が成立した、という物。

5-plebiscito_GF.jpg


これと同じ掲示を同じトスカーナのオルチャの谷で見かけた事があり、
当時興味津々で調べた事をこちらに、はは。

カスティリオーネ・ドルチャ ・ Castiglione d'Orcia
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461363281.html


つまりここでは、背後に写っているこの掲示で、年代を確かめ得た、
という事なのでしたが、


それにしても、体つきは、そうねぇ、ダヴィデ君ね、と思うものの、
ほら、最初に目につくのが、イチジクの葉で隠されている事!

それに全体に薄汚れ、とりわけ顔の目の周辺の汚れが目立ち、
「おいたわしや!」とほろっとなりそうですが、

でも、以前にあった屋根は見えずで、粗末な造りで壊れ、
片づけられたのか、どうかかな。


この様に、ダヴィデ像の出会った様々な災害は既にずっと続いており、

ミケランジェロにより1504年に完成した像は、制作された大聖堂
博物館の中庭から、木製の檻の中で滑らない様に監視されつつ、
40人以上の男達によりシニョーリア広場まで4日間かけて輸送
されたのでしたが、

夜の休憩中に、当時追放されていたメディチ家派の若者グループが、
共和党政府の象徴としてすでに認められていたこの像に石を投げたり
もあったそうで。

まぁ、無事に広場に到着し、ミケランジェロは右足後ろの
木の幹を金で塗装し、頭と吊り紐を囲む金銅の葉が付いた
真鍮の花輪をその場で追加し完成させたのだそう。

設置する位置にあったドナテッロの「ジューディット」は
6月8日に斜め横のロッジャに移され、

像の為の台座が委託され、遂にその年9月8日ダヴィデは、
すべてを備えて裸のまま」設置された、とあるので、

はい、最初は現在と同様、ミケランジェロが制作したままの姿、
だった訳で、
いつ、イチジクの葉をつけられたのか、まだ突き止められず・・。

で、ミケランジェロには、400フローリンが支払われたと。 
現在の価値では?


そして、このダヴィデ像は登場して以来、力強い男らしい姿と、
それを表現する為の解剖学的研究のお蔭で、当時の美的嗜好
をも変え、
ルネッサンスの理想的な表現としての地位を確立し、称賛を得ます。


が、1512年、像の基部に落雷があり、足首の崩壊が懸念された
のでしたが、最終的には修復不可能な損傷はなく済みます。


でも現在見る写真では、この様に亀裂が入っているそうで、
右上が右足後ろの幹で、右下が左脚部分。

7-b5f188cd6eaae9bc8b7a0df3f40807f8_GF.jpg



1527年4月26日、フィレンツェからメディチ家の2回目の追放中に
市内で暴動が発生。

共和主義者のグループが敵対者から身を守る為、ヴェッキオ宮の
窓から石やその他の重量物を投げつけたのが、

ダヴィデの上にも落ち、彼の左腕、下に延びている方、は3つに砕け
投石器は肩の高さで欠け・・。

ミケランジェロの崇拝者であるジョルジョ・ヴァザーリと、同様に
画家のフランチェスコ・サルヴィアーティは像の破片を収集し、
サルヴィアーティの家に保管。

で、コジモ1世の帰還後に、

6-Bronzino,_Portrait_of_Cosimo_I_de'_Medici_in_armour,_1545_(Uffizi)_GF.jpg



像は修復されたものの、傷跡は残り。

5-michelangelobuonarroti-davidparticolare1_GF.jpg


1813年右手の中指が、理由が明らかでない事故で欠け、再建。


そうなんですね、このダヴィデ像が彫られた大理石は、
ミケランジェロがダヴィデ像を委託される40年ほど前から
放置されたままで、

余りにも長く、細すぎる、というので、ミケランジェロ以前にも
2人委託を受けた彫刻家はじきに放棄した石で、
まぁ、力不足もあったのでしょうが、

既に言われていたのは、大理石の質の悪さの脆さ、多数の亀裂や
穴の存在、そして大理石の本質的な結晶の凝集力の喪失が言われ

特に現在の左腕の下部分のもろさから、彫った後に足だけで重量を
支えられるかが心配されていたのだそう。


現在の像の高さは台座108cmを含み520cm、重量は5572kg!

どうやら彫像を作っていた時の地面が重みで傾き、重心が28cm
ズレているとか、怖い話も読みました、はぁ。


ミケランジェロは、大理石の亀裂や穴を石灰モルタルで満たして覆い、
初期の彫刻の表面に典型的は滑らかさを復元したそうで!

見事だったでしょうねぇ!! 
初めてこの彫像を見た人々の感嘆した顔が想像されますねぇ!

5世紀後に眺めたshinkaiも、あれこれいっぱい予備知識もあったのに、
わぁ~ぉ!!と思ったのですものねぇ。
 

そして、ここからが憤慨の修復のお話ですが、

1843年長年のヴェッキオ宮前に置かれたダヴィデ像の汚れ、保存法に
漸くに心配が始まり、

「レジー・ファッブリカ」の所長、彫刻家ロレンツォ・バルトリーニは
ダヴィデ像の修復をアリストデーモ・コストリ・Aristodemo Costoriに
依頼し、コストリは大変大雑把、疑わしい方法で修復を。

カサブタ、つまり重なり積もった汚れを取り除くために、50%の塩酸ベース
の液と、鋭利なアイロン(刃物状)を使用し、
最も抵抗力のある大理石の外皮を、深さ2mmも削り取り、
傷つけたのですね。

なんとも呆れるほどの大胆、大雑把な仕事で、この清掃の影響で、
既に非常に懸念されていたダヴィデ像の保護状態に更に悪い影響を!

可哀想なダヴィデ! 既に何世紀もそとの風雨にさらされ、肩や
カールした髪の毛などを侵食していたのが、
金属ブラシでこすったりもしたのだそうで!

読んだだけで、本気で大悪口を言いたくなりましたぁ!!


1846年8月29日トスカーナ大公レオポルド2世は、素晴らしい
アイディアを思いつき、クレメンテ・パーピなる彫刻家に、
ダヴィデ像の石膏模型を作らせたのですね。

パーピは即ワックス鋳物でダヴィデを覆う作業に取り掛かり、
その後にはブロンズ鋳物も作る事を視野に入れており、

ミケランジェロ広場のダヴィデ像は、
この時の基礎から作られたものだそうで。


ですから、今回の冒頭でご覧頂いたシニョーリア広場の痛めつけられた
ダヴィデ像は、この時のコストリの野蛮な清掃と、
ワックス鋳物でやっつけられた以降の像で! ますます惨めな様子に。


が、まだ暫く決定を待たねばならず、遂に1872年、不安定な保存状況
を考慮し、彫刻家バルトリーニ・Bartolini の関心と圧力のお蔭で、
長い議論の末、アッカデミア美術館に保管する事に決定。

建築家エミーリオ・デ・ファブリス・Emilio de Fabrisは、
ダヴィデ像を迎える為の特別なスペースを作る任務を負い、

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トゥリブーナ・貴賓席と呼ばれる建設工事は1873年に始まり、
1882年迄完成せずだったのですが、


ダヴィデ像の長く困難な引っ越しは1873年7月31日に始まりました。

同年5月に巨人像の輸送を調整する微妙な仕事は上記のファブリスと、
エンジニアのポッラ・Porraに委任され、
これも貴重な写真で、輸送用の木製の檻に入れられたダヴィデ君!

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写真に、ALINARI とマークが入っていますが、これは上でご覧頂いた
野ざらしのダヴィデの写真と同じ、アリナーリ兄弟3名、
レオポルド、ロムアルド、ジュゼッペが1854年に会社を設立したもので、

後にフラテッリ・アリナーリ・アリナーリ兄弟、として世界中で有名になり、
イタリア写真の歴史を切り開いたのだそうで。

今回ご案内の古い写真は全てこのアリナーリ兄弟社のものですね。


で、1860年代中頃に、雨風を防ぐ為の小屋が作られた、という文があり、
shinkaiめは、上の四角い棒4本、の写真かと思ったのですが、

これを書きつつ、写真を眺めていて気が付いたのが、ほら、檻の背後、
ヴェッキオ宮の壁に添って縦に細長い木製の小屋があるじゃん!!

そうか、これがダヴィデがアッカデミアに移る前の10年かそこらを
過ごした小屋だったんだ、と気が付きましたぁ、良かった、分かって。



そうなると、ウッフィッツィ宮の間の通路の写真の年が不明確な、
バンディネッリの「ヘラクレスとカクス像」の後ろに、
ダヴィデの小屋が!

12-david-ingabbiato_GF.jpg

住人が既に引っ越し後の空の小屋をいつまでも置いとく筈はなく、
今またこれを書きつつ、バンディネッリのこの2人像はいつの作?
と調べましたら、1535年! 

すでに出来ていた像をここに移したのかもで、
バッチョ・バンディネッリの生涯も1488-1560、となると、

あれこれ教えて下さったサイト記事の説明自体が曖昧で、
ダヴィデは、まだ中にお住いの時期だった、というのもあり得、
1860年代の半ばの写真、なのかもですね。

やはり面倒でも自分でちゃんと調べ、確信をもって書く事なり!!

さて、ダヴィデ君のお引越し、1873年7月31日のDディに後少し、
木製のワゴンに、小屋から少なからぬ労力を費やし、台座なしの
ダヴィデを垂直に配置。

横隔膜の部分まで木箱のなかで、台座の部分、膝の高さ、脚の一番
高い部分で、しっかりと固定。

移動時の衝撃や振動の影響を軽減する為、サスペンション装置には
頑丈な鋼製ゼンマイ・バネを採用、

ワゴンがレールの上をゆっくりと進むように、レールも作られ、
街角で必要なカーヴに対応する為に回転床も設置。

こうしたアッカデミア美術館迄運ぶのを可能にした全ての
機械装置は、ローマの鉄道作業場で作られたのだそうで。

フィレンツェ「ブオナロッティの家博物館」に保存の、
ワゴンのモデル。

11-carro_GF.jpg


そうそう、そしてヴェッキオ宮前でダヴィデが上にいた台座は、
破壊するしか無く、

ラテン語で「Exemplum salutis publicae cives posvere・
国民に公共の安全の模範を示す事」という、どこか皮肉な碑文の
入った台座は、永遠に消えたのでした。



移動には1873年7月31日から8月4日までの5日間掛かり、
移動には朝の4時から11時まで働き、というのも、それ以降は本当に
暑くなるので働くには困難だったからで!

出発の模様を描いたスケッチで、台車はこちらに向かっています。

13-illustrazione-della-partenza-da-piazza-della-signoria-da-_GF.jpg


この事業がフィレンツェの人々にとって、如何に壮大な出来事の
体験だったのがよく分かるスケッチで、

ダヴィデが少しずつ動くのを見るチャンスを逃すまいとする
見物人で道はいっぱい、

アッカデミア美術館の壁に特別に開けられた開口部から、
ダヴィデは凱旋入場したと!

が、アッカデミアの貴賓室はまるで完成しておらず、ダヴィデ君は
またワゴンのまま、9年間の辛抱をする事になったのだそうで!!


が、多分この待ちの期間中、様々な長い年月の汚れも落とし、
修復もされたのでしょうし、


14-restauro-david-michelangelo_GF.jpg

こうして見ると、本来はきっとカールした髪の毛は、頭の上が平らで、
きっと悪修復で削り取られたのだ、と分かりますね。



現在はこうして新しい照明の下、

15-Galleria_dell_Accademia_di_Firenze__GF.jpg


常に定期的に状況診断を受け、お掃除して貰い、
一応快適な生活を送っておられるとは思うのですが、

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破壊工作10件のn.2、今回取り上げている、1991年9月14日の
足の指3本の損傷事件もあったので、


どうぞ、どうぞ、これ以上不測な事態が起こらぬよう、地震なども
起こらぬよう、願います!!

このダヴィデ像は、長生きし、芸術の最高の美を末永く、
全世界の皆さんにも伝えて欲しいのです。



この写真は、今回あれこれ見ていて気が付いた、

ダヴィデ君の瞳は、なんとハート型になっているのですよぉ!!

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そして「3月8日、女性の日」のおめかし、なんですと、可愛いぃ。

20-a8-marzo_GF.jpg


ミケランジェロ様、貴方ご自身は最後の最後まで制作を続け、
まさに芸術家の名に相応しい人生を全うされました。
心から、尊敬しております! 

どうぞ、
生み出されたダヴィデの人生も、見守ってやって下さいませ!!


*****

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・ ポール・ゴーギャン 自らの独創と自由、発想を求め、南海の果て迄

自分のいつもの生活を続ける中で、時に出会う様々な人々。

歴史の中に、一粒の何かを残している人々の生き方
または亡くなり方に、
いつもは名を知るだけですれ違うたくさんの人々の中に、
時に何となく気になり、引かれ、読み始め、知り始め・・、

という新しい人々との出会いがあり、
きっと自分がそうした人々に惹かれるのは、孤軍奮闘しながらも
自分自身である事に拘っていた人々だったからと思い、

その生き方を通そうとし、やり遂げる人もあり、上手く行かずの
人にも、何か、を与えられるからなのだろうと。

なので、つまりは上手く行き、おとぎ話の様に、
「満足し、幸福に生きました」ではなかった人々だった訳で、

今回出会った、フランスの画家ポール・ゴーギャンの人生も同様で、

1885年 ゴーギャン37歳の自画像

1-paul-gauguin-autoritratto-1885-GF.jpg


参考にした記事は
ポール・ゴーギャン 落ち着きのない放浪の精神
Paul Gauguin, spirito inquieto ed errabondo

他に、ウィキペディアの日本版イタリア語版も。
  

彼の記事はこう始まります。

1903年5月8日 独創的な自由と純粋さを求め続け、
地球の反対側で発見したフランス人画家が亡くなりました。 と。

彼の人生については、サマセット・モームの「月と6ペンス」が
余りにも有名で、私も半ば彼の人生と混同していたような部分があり、
それで「知っている」気になっていたのでしたが、

今回粗筋だけを再読した所では、やはり自分の想い出とはかなり違い、
そんなこんなで、興味を持って読み、ウィキペディアでも確かめたのでした。

いつもは余り熱心に見ない彼の絵も、お陰様で改めて見ての
自分ながらの感想も得ることが出来、良かったと。


ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン・Eugène Henri Paul Gauguin
1846-1903 54歳没

彼の父はクローヴィス・Clovis、共和主義思想のジャーナリスト
母親はアリーン・シャザール・Aline Chazal、彫刻家の娘

1848年6月7日に彼らの息子としてポールは生まれましたが、
当時の政治情勢はかなり混乱しており、

この為父親は生後僅か1歳のポールと妻、妻の親戚の何人かと一緒に、
または、1851年のナポレオン3世のクーデター時に父親が職を失い、
ポールが3歳の時、という説もあり、南米のリマに引っ越すことに。

というのも、母親の母、つまりポールの祖母はスペイン系ペルー人の
出身で、フェミニストの知識人フローラ・トリスタン・Flora Tristan。

2-Flora Tristan 1803-1844_GF.jpg


リマには資産家の叔父がおり、一家はそれを頼りに海を渡りますが、
その航海の最中に父親は亡くなり、母親アリーンと2人に。

ペルーで4年間過ごし、自然との接触と、ヨーロッパの社会的偏見が
存在しない環境で生きた事は、
彼の後のライフ・スタイルと芸術を永遠に調節させる元となったかもで。

4年後に母親がフランスに戻ることを決め、戻ると彼を寄宿学校に
入れますが、

スペイン語で育ってきた彼はフランス語に慣れず、おまけに環境が以前と
非常に異なる、厳格で格式ばったもので、学校成績はまるで振るわず。

その後将来の方向性に確信が持てずとなり、13歳の時海軍兵士として
の試験に失敗、オルレアンの学校に戻り卒業。

17歳で商船に乗り込み、実質的に世界中を旅する長い旅に。

リオ・デ・ジャネイロ、インド、そして再びペルーに。また北海の海岸にも。

母親のアリーヌが1867年7月に亡くなったのも、数か月後にインドで
姉からの知らせを受け取るまで知らず。

兵役で1868年にフランス海軍に入隊、2年間勤務の後1871年
23歳でパリに戻り、

母親との交際相手・結婚した裕福なギュスターヴ・アローザの口利きで、
パリの証券取引所での働くように。

母親の早すぎる死にショックを受け、また彼自身の生活を
「落ち着いた」生活に替えることを決心したか、


1870年代は落ち着きのない精神が落ち着き、典型的な中産階級の
男性に変身したかのように見え、

仕事は彼に素晴らしい収入を保証し、1879年には株式仲買人として
3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を。

こうした落ち着いたブルジョワ生活は11年間続きます。


彼はデンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド・Mette-Sophie Gad
(1850- 1920)と1873年に結婚、家も購入。

後にエミール、アリーヌ、クローヴィス、ジャン・ルネ、ポール・ロロン
の5人の子供が生まれます。

ゴーギャン夫人の肖像 1880-81年

ゴーギャン夫人の肖像』1880 - 81年頃_GF.jpg


子供の頃過ごしたペルーのリマの自然の色と、まばゆい太陽の輝きは
想い出となり。


が、継父ギュスターヴがとりわけ好んだカミーユ・ピサロ・
Camille Pissarroの影響もあり、この時期に芸術への情熱が芽生え、

絵画収集を始め、仕事のない日曜日に絵を描く事に専念し始め、
1871年に彼は最初の風景画を。


ヴォジラールの庭 1881年

ヴォージラールの庭』1881年_GF.jpg

その瞬間からすべてが変わり、芸術は彼にとって不可欠なものとなり、
ある日彼は「これ以降、毎日描きます」と宣言し、

画家達との付き合いを始め、ピサロとも知り合い交際し、サロンに入選も。
家を引っ越し、アトリエも持ち、印象派展にも不評だったものの出品を。

が、1882年パリの株式市場が大暴落、絵画市場も収縮。

ゴーギャンの収入は急減し、彼は徐々に絵を本業とする事を望み始め、
1883年、彼は職を失うものの、より多くの時間を絵に捧げれる事で
特に深刻に感じられず、

家族と共に生活費の安いルーアンに移ったものの自分の絵は1枚も
売れず、貯金を使い果たし、生命保険を清算、多くのコレクションした
作品を手放さずを得ざるとなり、

妻のメッテは、夫が始めたこうした生活に落胆、コペンハーゲンの
家族の元に戻り、翻訳者や教師の仕事を見つけることに。

彼もまたこの方法で上手く行くことを望み、妻を追いコペンハーゲンに
行ったものの、期待は裏切られ、

妻からも完全に疎外され、1885年6月に息子のクローヴィスと共に
デンマークを離れ、イギリスに3か月定住、その後パリでポスター貼りの
仕事に就くものの、収入は1日5フランのみ!


こうした状況下でもゴーギャンは既に絵を諦める状態を超えており、
1886年5月、第8回目の最後の印象派展に18点の絵画を展示。

この年の展覧会では、スーラの「ラ・グラン・ジャット島の日曜の午後」
が一般の人々と批評家の注目を引き寄せたそうで、

既に印象派の衰退を非難していた自分の作品について、
内的に研究し始め、


1887年画家の友人チャールズ・ラヴァル・Charles Lavalと共に
パナマに向けて出発し、少し離れた小さな島タボガを旅行したり。


が熱帯気候は健康にとって致命的であり、絵も一枚も売れず、
パナマで建設中の運河で働くために雇われ、1か月以上堀削機の
仕事という恐ろしい経験の後、

アンティル諸島にあるフランスの植民地マルティニーク島の西海岸、
サン・ピエールに移住。

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ゴーギャンはこの地に熱中し、誰もが切望していた地上の楽園を認識、
植物と地元の人々の活気に刺激され、
遂にそれを自分の絵画に取り入れられた!と。


1887年11月マルティニークの後再度フランスに戻り、新しい芸術的
インスピレーションを求め、まずブルターニュに、次にプロヴァンスに。

ヴィンセント・ファン・ゴッホ・Vincent Van Goghとの、有名な、
苦悩に満ちた共存は、実にこの時期なのですね。


1887年のゴッホと友人達との写真。 左から3人目が
パイプを口にゴッホ、一番右端がゴーギャン。

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ゴーギャンは、ゴッホの弟テオから説得され、ゴッホが夢みていた
芸術家のコミュニティを作るという、「アルルの黄色い家」に
一緒に引っ越しを。

ゴーギャンは2人に気質の大きな違いを認識しており、余り確信が
持てずだったものの、

テオからの条件が、毎月1枚の絵画と引き換えに150フランの給料と、
アルル滞在に関する全ての費用に支払い、という物で、

それ程の多額の金の受け取りに慣れていないゴーギャンは断れず、
1888年の夏、契約を交わし、同年10月29日にアルルに到着。


ゴーギャンが描いた、ヒマワリを描くゴッホ 1888年

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描かれたゴッホは、絵を観て困惑し、狂人として表現されたと
主張したそうで。


実際アルル滞在は両者にとって困難を伴うもので、ゴッホは地中海風景を
高く評価し、新しい伴侶に多大な称賛を示したものの、

ゴーギャンはプロヴァンスに深く失望、風景も人々も全てが小さく意地悪、
と感じ、ゴッホは友人の傲慢さに絶えず苦しみ、

ゴーギャンは、テオに、2人の間柄は、ある種の性格の不一致と
仕事の為の静けさの必要性を考慮すると、決して平和に並んで
暮らす事は出来ません、と手紙を書き、

ゴッホは発狂し、左耳たぶを切り、その後精神病院に収容。

ゴーギャンは深く動揺し、苦しむ友人を見捨て、パリに急ぎ戻ります。
9週間で終わった、2人の共同生活でした。


この悲劇的な出来事に責任を感じていない一方で、ゴッホの祈りに
耳を傾け、
「私たちの小さな黄色い家の悪口を言う」ことを避けただけでなく、
「友人ヴィンセント」に対する非常に良い思い出と、ゴッホへの多大な
尊敬の念を持ち続けたそう。


美しいアンジェラ 1889年 

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プロヴァンスのポン・タヴァンのホテル経営者マリー・アンジェリック・
サトルを描いており、彼女が非常に美しい女性である事を考慮し、
肖像画を描きたかったのが、女将は全く気に入らずだったそうで!



ゴーギャンは、有毒なもの、と考えていたアルルから逃れパリに戻り、
約2年間滞在。

その間、子供の頃から彼を魅了し、彼を見捨てなかった異国情緒
への欲求がますます強く彼の中に戻って来、

新しい創造的な刺激の必要性と、先祖代々の幸福の形を見つける
為の場所の絶え間ない探求が身をもたげ、

1891年43歳の時、今では画家として評価されていたものの、
彼は自分の人生を完全に変えることを決心。


2月3日有名なオテル・ドゥルーオ・Hôtel Drouotで展覧会を開催、
約30点の絵画を販売、収益に一部でタヒチへのチケットを購入。

デンマークで家族に別れをつけ、当時妊娠中の若い恋人の
ジュリエットを捨て、故郷での名声を捨て、

4月24日彼はマルセイユからポリネシア行の船に

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が、島への最初のアプローチは失望で、先住民との接触を試みた事で、
地元のヨーロッパ人と先住民との両方から不信の目で見られ、

彼が持ってきたお金と画材はすぐに無くなり、作品の幾つかがフランスで
販売された事を知っていたものの、誰もお金を送ってくれず・・。

しかし芸術観念からは、おそらく自分が探していたものを見つけたものと。


この最初の時期の作品は、それまで生きて来た窒息する社会的条件と
切り離された、自由と独特な純粋さを表現する原始性の次元で
特徴付けられますが、

一方ゴーギャンは借金と孤独に悩まされ、パリに戻る事を考えるものの、

遠足中に知り合った13歳の先住民女性テハアマ・Teha'amanaと
愛人関係、およびお気に入りのモデルとなり、留まります。


ヴァヒネ(愛人の)テ・ティアレ 1891年

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「花を持つ女」としても知られるこの作品は、タヒチで最初に
制作した作品だそう。



テハアマの肖像  1891年

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死者の魂が見守る  1892年

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しかし結局、彼は少女を捨てることを決心し、

「私のタヒチへの旅行は、なんと馬鹿げた、悲しく、醜い冒険だったろう!」と。


1893年6月4日、マルセイユに向け出航、結局2年間のタヒチ滞在。

この時ゴーギャンはフランス政府の資金援助で、「地域の性格と光を修復する」
ためタヒチへの旅行を命じられた形で、補助金を受け取っており、

戻るのに、本国送還命令を取得し、経済的にも肉体的にも大きな困難を
抱えつつ、が、

かなり豊富な経験と、芸術的価値において非常に貴重と考えた数多くの
絵画を持って戻ったのですね。


幸いに、物事は最良の方向に進み、最初の彼の伝記作家からの送金、
叔父からも遺産準備のお蔭で、借金を返済してパリに戻れ、
漸くにフルタイムで芸術に専念できるように。

モンパルナスのハイチ風アトリエに移り、ウェイトレスとして
フランスに来た13歳の混血のアンナと、彼女の猿タオアと一緒に
暮らし始めますが、

アンナと猿のタオア  1893年

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1894年5月強烈な郷愁に駆られ、アンナとブルターニュに行った時、
船員が彼女と子猿に対し下品な事を言い、憤慨したゴーギャンは
酷く反応したものの、殴られて足首を骨折、長い入院を。

足は永遠に不便となり、戻った時、アンナがお金を盗み逃げた事、
猿が死んでいた事、妻のメッテが彼の手紙に応えるのを拒否した事などなど。


こうして2年後の1895年9月9日、彼は2度目のタヒチ、パペーテに出航、
決してヨーロッパには戻らない事を決意し。 47歳。

自画像 1889年

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健康問題が続き始めます。
足の痛みを宥めるために多量のラウダナム・アヘンチンキの摂取で
心臓の問題が発生し、しばしば病院で長期間過ごすことに。

アヘンチンキというのは、アヘン末をエタノールに浸出させたもので、
モルヒネが高濃度で含まれており、鎮痛と咳止めに主として使用され、
常習性が強く、現在では厳しく制限されているそうで。

喫煙によるアヘン摂取と違い、アヘンチンキは腸を経由する為、
常習性はあったものの、廃人となる事はそう多くなかった、と・・。

未解決の足首の骨折、脚の無数のただれ、非常に多い皮膚の発疹、
売春婦との出会いで感染した梅毒、と健康状態は損なわれており、


1896年に同棲していた14歳のパフラ・Pafuraが子供を産んだものの、
その子は僅か1年しか生きられなかった事、

1897年3月妻からの便りで、前年1月に発生した肺炎で、最愛の娘
アリーヌが亡くなった知らせを受け取り、

この瞬間からゴーギャンは家族の消息を知らなくなります。


タヒチ時代の一種の自伝である「ノア・ノア」がフランスで出版され
腹を立て、借金を背負い、絶望的に孤独となった彼は自分自身を
毒殺しようと、ヒ素の入ったフラスコを持ち山に行ったものの、

摂取した量が多すぎ、自発的に毒素を吐き出し、一人残され、
耐えがたい痛みに、山を下り、村の医者の治療を受け。


この時期のゴーギャンを包み込んだ無気力を、最も完全に絵画的に
表現した、記念碑的な作品

「我々はどこから来たのか? 何者か? どこに行くのか?」

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1897年 キャンバス・油彩 139x374,5cm


約1か月で仕上げたという大作で、
「私の全てのエネルギー、この様な酷い状況でのその様な痛みを
伴う情熱、早熟の痕跡がなく、生命が直接そこから流れ出る程に
明確で正確なビジョンを伝えました」と。

自然の中で、3人の女性が見守る小さな子供、を含む12人の人物。
果物を集める青年と、偶像、そして老婆。

ゴーギャンの精神的遺言、とも考えられている、彼の最も有名な
作品の1つで、

この様なタイトルが付けられるだけでも、素晴らしい! と。


2人のタヒチの女 1899年

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赤い花と乳房、または、マンゴーの花を持つタヒチの女性、など
さまざまなタイトルで知られ、

熱帯の楽園を想起させる、胸を露出した2人の女性が静かに
こちらに、花や果物を持ち歩きますが、視線は異なる方向に。

ヌードであっても、快適で純真な女性達は、地上の楽園の原始的な
無邪気さを呼び起こします、と。



1901年ゴーギャンはより刺激的なエキゾチックな環境を求める
必要性を感じ、マルケサス諸島のヒバ・オア島に引っ越しを。
タヒチの北東約1400km。

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この島でゴーギャンは継続的に執筆し、絵の意図を説明するだけでなく、
彼の実存についても命を吹き込み、

辛辣に、宗教者や憲兵を非難したりで、
1903年3月31日、裁判所は彼に罰金、懲役3か月を。


が、5月8日の朝牧師が、ベッドに横たわった彼が死んでいるのを発見。
梅毒を患っていた彼の体は、既に限界だったのでしょう。

無名の埋葬を許可されたものの、参列した現地人は殆どおらず、
すぐに忘れられ、20年後に墓が発見され、

墓石に「ポール・ゴーギャン 1903年」と。

54歳の、まだまだ若い死、でした。


これは今の墓の横にある「オヴィリ像」 ゴーギャン作。

Paul_Gauguin,_1894,_Oviri_(Sauvage),_partially_glazed_stoneware,_75_x_19_x_27_cm,_Musée_d'Orsay,_Paris_GF.jpg



黄色いキリスト 1889年  

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ブルターニュに住んでいた時代の最も有名な作品の1つ。


晩年1902年から、1903年の、追いついたイメージが見られる作品を。

扇を持った若い女 1902年

扇を持った若い女1902_GF.jpg



海辺の旗手たち  1902年

海辺の騎手たち1902_GF.jpg



1903年 多分、最後の 自画像

自画像1903_GF.jpg



彼は印象派風から始め、徐々に彼自身の内に潜んでいた原始的な美
の表現に魅かれ始め、
インスピレーションを求め、南太平洋の真ん中タヒチにまで。

が、その作品はフランス国内の一般、批評家たちの求めるものとは
違いすぎ、多色で、装飾的で、エロチックで、エキゾチックすぎ、
ごつごつした表現で、と、彼の生前には報われなかったものと。

絵も、彼の生涯と同様、激しいですものね。

が、今こうして改めてじっくり見ると、当時の先端というか、次に来る
絵画の流れを先取りしており、
逆説的かもしれませんが、美しいフランス的な作品と思います。

日本ではゴッホの作品が大変好まれますが、ゴーギャンはイマイチな様で、
それが少し残念な気もする、

そんなこんなを感じた、今回でした。


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posted by shinkai at 04:01Comment(0)・欄外

・ 青空の下のスコミーゴ村  葡萄の新芽、花盛りの野はら

日本の方のブログを拝見すると、どこもゴールデン・ウィークの
話題でいっぱい!

一方こちら北イタリアは雨、しかもエミーリア・ロマーニャには
豪雨被害が出る程だったのですよ。

少し寒くもあり出かける気になれず、僻み根性が、ははは、
出そうだったのですけど、

4日には前日の雨も上がり、朝から良い日和になりそうで、
そうよ、私だって出かけるもんね、と、久し振りに一眼を持って、

はぁい、スコミーゴ村一周ツァーにね、がはは。


9時頃に家を出ると、もう既に輝くような強い陽射しで、

家を出てすぐの坂道を下ると、こんな風な並木道。

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右はなんの木か知りませんが、分かります?
一番手前はほぼ木全体に芽が出ているのですけど、
奥に行くにしたがってまだ下の方にちょこっと。

真ん中に上まで育って見えるのは、奥の別の木で、
こちら手前に家並みがあるので北風が防がれて、の影響と!

左手前に見えるシナノキの並びも同様で、
先に進むほど、葉の茂りが遅いのです。


でもね、葉の茂りの中を覗くと、一時とても良い香りの小さな黄色の
花が咲いたのが、今はこんな風に小さな実になりかけで。

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これが実ると結構固い小さな実となって、風が吹くと爆弾、に。


シイノキの足元、隣の草原には野草の花が咲いており、
綺麗な青紫のサルビア種が。

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射し込む陽の光に輝いて。



こんな風に、陽の光強し!

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小さな白い花が、木いっぱいに今が盛り。

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突き当りにある葡萄畑。 芽が伸び始め、もう葡萄の赤ちゃんも!

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これは新しく植え替えられた苗からの、新しい芽。 20cm程の高さです。

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生垣から顔を出す、まだ堅い薔薇の蕾。

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と思ったら、1軒先のお庭には、真っ赤な薔薇一輪。 これ1つだけね。

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大樹に育っていた桑の木がバッサリ枝を落とされ、でもめげずにね。

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隣村のオリアーノの教会。 スコミーゴから一旦下っての丘の線。

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向こうの丘の稜線がオリアーノ村で、手前がスコミーゴ村、なので~す。

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この畑の畝の間は、綺麗に草が刈られていますが、



中にはこんな草ぼうぼうの場所も結構あり・・。

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トウダイ草かと思い写したのですけど、葉の形が違い、何だろ?
ご存じの方、お教えください。

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野原入り口の金網の中は、この混乱状態! 

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サルビアの集合地もあり、

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キンポウゲのかたまり。

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この小さい花、好きなのですけど・・、  名前をお教え下さ~い!

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このピンクの小さい花も、調べると似たような花はあるものの・・。

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ヒメオドリコ草、と名を知ったついでに、ヨーロッパ原産、というのも。
色付く葉も可愛く、花の色がほんのりで。

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ああ、まだオオイヌノフグリがあった、と思ったら、ついでにテントウ虫も。

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こちらは何となし、バットマン風の顔を背中に付けて!

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これはなんだろ? 茶黒に白の点々。

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草原に入り込み、振り返るスコミーゴ村の鐘楼と、奥にそびえる
ネべガル・Nevegalの山並み。  

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あの山の向こうにベッルーノがあり、いわば屏風の働きで、こちらは
雪も殆どなく、冷え込みも酷くない、という訳で~す。



草原を入り込んでいくと、奥は左右に葡萄畑があり、
風を避ける為か、新芽の伸びも早い感じ。

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葡萄の新芽の柔らかいピンク色が、本当に可愛く、愛おしく!

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東側の丘の形に添い、上って下り。

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これは一番端のコンクリの支えの柱の外側にある、太い古い幹から、
頑張って芽を出した子たち。 農家の人は相手にしないのですけど・・。

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如何にも「春の野原」らしい色でしょう?

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草原を入って来ての、一番奥の端っこにちょこっと残された小さな林。
残念、今年は来るのが遅く、色が既に同じ緑色になってしまったよ。

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今回より少し早い春の色は  スコミーゴ村 春の色たけなわ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/476963709.html

スコミーゴ村に羊の群れ 到着!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/476879971.html

スコミーゴ村 春近し ・ 馬 葡萄畑 野草の花 犬
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/476879777.html

我が愛する  スコミーゴ村の四季  と その周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460835296.html



林の前に何本か残っていた、野生のリンゴの木の花盛り。
秋には、小さな小さな実をつけます。

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林の足元を探し回り、1つだけ見つけた、種を持ったクリスマス・ローズ。

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同じように枯れたのは3つほど見つけたものの、種は無し。
今頃は林もどんどん刈り取られつつあるので、いつか消えていくものと。



以前来た時、この細い湧き水の流れが枯れていたので驚き、
雨も降ったし大丈夫とは思ったものの、やはり実際に見る迄は・・。

はい、水音を立てて、流れておりましたぁ。

水草で埋まっており、余り流れている様には写りませんでしたが、

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ほら、こちら、少し上に行くと、こんな風に、水紋も出ているのが
お分かりと。

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今回は、この湧き水の流れに沿って、野原の端っこを少し上まで
歩いてみたのでしたが、上の方は葡萄畑の端っこを掘り返しており、
この流れはもっと端っこになるので見えずとなりましたが、

いつかどこが湧き水の位置か、分かると面白いと思っています。


水枯れをブログのどこかに書いた筈、と探しましたが見つからず、
昨年の夏はイタリアは大変な乾期となり、おまけにこの冬も
雪が降らずだったので、今年もか、と心配しておりました。

実際、ポー河も少々の雨ではやはり干上がりかけ、という様な
TVニュースもあったのでしたが、

先日は上記した様にエミーリア・ロマーニャで2日間連続で
土砂降りが続き、道を埋め、家にも入り込み、という大被害!

おまけにポー河の土手はヌートリアというのか、あれの巣で穴だらけ、
という様な事で、どこかで土手からの浸水もあった様で。

長年の堆積でポー河の川底は大変高くなっており、きっと
ちょっとの大雨でも土地家屋への浸水が起こるのでしょうが、
これも本当に大変で、住民の方がお気の毒です。



下の林の方から上り勾配になっているのをそろそろ上がって来ると、

西から北にかけての空に雲が。

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本当に久し振りの、朝からのからっと晴れた輝く青空の下、
様々な野草の色とりどりの花の咲き誇る姿に気分爽快となり、
1時間ちょっとのツァーから引き揚げます。


電線から見下ろす鳩、これはトルトラと呼ばれるキジバトの種と。
ちょうど下から上がって来る飛行機・軍の、を待って撮ったので~す。

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最後、これはグィ~ンと上がったのを。 

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ひこうきぃ~!! と喜ぶのが、昔ありましたっけね、ははは。


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・ ダ・ヴィンチ 発明のケーブル・フェリー 16世紀から現在も

日本はゴールデン・ウィークですねぇ。 ええよぉ!(広島弁で羨み)

こちらは5月1日はメーデーで祭日、ローマでは組合主催の
毎年恒例の大コンサートも開かれましたが、雨!

こちら北イタリアも曇り空、2日は雨で肌寒く、3日から曇り空、
時に太陽、という予報ですが、週末にはまた雨模様にと。


で、日本の皆さんがゴールデン・ウィークに気分ウキウキな所に
アップするネタは何が良かろうか、と、
昨日アルマナッコ・almanacco、年代記・暦、を眺めていて、

5月2日はレオナルド・ダ・ヴィンチが、1519年のこの日、
504年前に亡くなった日、と知りました。

1-Francesco_Melzi_-_Portrait_of_Leonardo_GF.jpg

このデッサンは、最後まで付き添った弟子のフランチェスコ・メルツィ作。


はい、生年月日は1452年4月15日、571年前。  67歳で、
フランス国王フランソワ1世から贈られたアンボワーズの城で、
安らかにお亡くなりに。

という事を知り、思い出した彼に関する記事をここに!


彼は現在の我々に静謐な気持ちを与えてくれる何枚かの、
はい、決して多くはない、名画を残してくれましたが、

他にたくさんの研究、その為のスケッチ、発明品を残しているのは
皆さんも良くご存じと思いますが、

レオナルド・ダ・ヴィンチの発明になる、ヴェネツィア式製材所の見学
https://www.italiashiho.site/archives/20180921-1.html

デルタ・デル・ポー ・ ポー河が海に出あう所
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463259026.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの発明した物、考案したもの
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461685811.html

ガラタ橋は、釣り人天国 ・ イスタンブル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461093420.html


今回のはそんな彼の発明品の1つ、というよりも水力原理の研究で
効率良いタイプの、ケーブル・フェリー・引き綱ボートを、
という事と理解しましたが、


ロンバルディア州のインベルサーゴ・Imbersagoにあり、アッダ川・
Addaを渡り、対岸のヴィッラ・ダッダ・Villa d'Addaとの連絡を、
16世紀以来続けています。

2-il-traghetto-di-imbersago-durante-una-traversata__GF.jpg


今回参考の記事は、16世紀から続く「レオナルドのフェリー」
Il "traghetto leonardesco" in funzione dal Cinquecento

地図をどうぞ。

3-traghetto map_GF.jpg

4-tragetto map_GF.jpg

ミラノからだと40kmちょっとで58分、ベルガモから44分、30kmと。


木製の小さな舟ですが、両岸に張られたケーブルの利用で、
人と物がいっぱいのボートを操縦する1人の人間の力でokなのだそう!



このレオナルドのスケッチは、「ヴァープリオ・Vaprioの港」として有名で、
ヴァープリオ、というのは、ここより南に20km程下った所の地名。

5-1-leonardo-da-vinci_traghetto-imbersago_fiume-adda_GF.jpg


このボートの起源は、アッダ川の両岸、現在はロンバルディーア州の
レッコ県とベルガモ県の属するのが、かってはミラノ公国とヴェネツィア共和国
の下にあった16世紀以前に遡り、

イタリア文学の古典アレッサンドロ・マンゾーニのプロメッシ・スポージ・
婚約者、を含む様々な文学作品中に登場しているそうですが、

それ以上に最も重要な証言として、

16世紀初めにミラノ公国に滞在し、ナヴィッリ地域での水力研究に
専念したレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチがあるのですね。

というのも、15~16世紀にかけ約25年間を過ごしたミラノ公国で、
ダ・ヴィンチはイル・モーロから、船の航行性についての問題を
解決する様に、
水面の高低差から川底の凸凹迄、を依頼されていたのだそうで。



現在、ヴァープリオにある「エコムゼーオ・アッダ・ディ・レオナルド・
レオナルドの環境博物館」があり、

5-3-Vaprio-dAdda-Casa-del-custode-e-stabilimento-VELVIS-Mario-Donadoni_GF.jpg

5-2-vaprio d'adda ecomuseo adda di leonardo_GF.jpg


ここには彼の発明した、水面の違いを克服する水のくみ上げ水車、
等も残っており、こういった事も現地視察をしながらの研究結果
なのでしょうね。

5-4-vaprio-dadda-la-ruota-idraulica_GF.jpg


上記したナヴィッリ地域、というのは、北のコモ湖・東側と、マッジョーレ湖・
西側、から南下するそれぞれの川から、ミラノ迄の運河を引き込み、
通商交易に利用していたもので、

レオナルドはその水力の分解原理に基づき、機能を研究したのだそうで、
はぁ、書かれたままを写しておりますが、へへ、

話が上下して申し訳ありません! 何せ出てくる土地の名が多く、
その名の時に関連するお話を、と思うもので・・。


で、元に戻り、

ボートは横に並べて配置され、全長に添って固定された2つのキール・
竜骨で構成され、小さな船室が上に乗ったはしけの形に。

6-traghetto_windsor_part_GF.jpg

反対側には、帆の無い帆柱があり、その上に太いロープが走る
2重ローラーがあり、ロープは両岸の間に張られ、

出航するには、渡し守がロープを引いて船を川の中心に向ける為に、
グイっと引っ張るだけで十分で、

後は川の流れが残りを処理し、ボートの両側に等しい力を与え、

総舵手は金属棒をロープに引っ掛け、キール・竜骨の傾きを調整
するだけで、ボートを反対側の岸に押し出す力の組み合わせを
調整する事が出来る、のですと。

スケッチに見える、船の上に乗せられた牛たち、が如何にも
レオナルドのサーヴィスらしく、笑いが来ますね。


で、この人力要らずのボートの存在は15世紀半ば、つまり
レオナルドがミラノに到着する以前に遡るのが、

アッダ川のフェリーの歴史と変遷を再構築したエルミーニオ・ボナノーミ・
Erminio Bonanomiの著書にあり、というので探し、

2005年出版の
Vivi Adda. Itinerario storico naturalistico per il tempo liberoと。

最初の証言は、マルテザーナ号船長パオロ・アミゴーニが署名の
1454年の手紙で、
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ公爵が、サン・マルティーノ渓谷の
住民に与えた渡し船使用の許可を、多分、違法な人身売買に
使ったらしく、取り消しを要求しており、

それについての仮説の中で、それを知ったレオナルド自身が、
インヴェルサーゴの港を構想した可能性が述べられていて、

流れの自然な水力を利用し、フェリーが川に対し垂直に動く事を
可能にする水力の分解の法則を研究したのではないか、と。


この図は、ボナノーミの「アッダのトラゲット・フェリー」からで、
縦線が、川の幅  水平線は、川の流れの方向、 
斜線、船の中心線。

7-schema-delle-forze-che-permettono-il-funzionamento-del-traghetto-tratto-da-traghetti-sulladda_GF.jpg


別の1575年に遡る文書は、インベルサーゴの北11kmにある
オリジナーテ・Oliginateの物で、

同様のボートは、当時疫病の深刻な影響を受けたミラノ地域から、
ヴェネツィア共和国領土の岸まで乗客を輸送する為に特別な
注意を払って活動していた事を記し、

他にも2つのフェリーが、トレッツォ・ダッダ・Trezzo d’Addaと
カプリアーテ・Capriate、そしてブリーヴィオ・Brivio と
チザーノ・ベルガマスコ・Cisano Bergamasco を結んでいたそうで。


この2つ目の渡しについて、ボナーノミが 
「1499年にフランス軍に敗れたルドヴィーコ・イル・モーロにより、
ボッロメーオ家に譲渡され、ミラノの著名な家族に慈悲を得る為に贈った」と。

そしてその後、「貪欲なスペイン総督に押収され、1567年に通行権
を売却、1577年にそれを償還し、翌年には年間320リラで再度
賃借した」と。


ルドヴィーコ・イル・モーロは、1455年-1508年の生涯で、
上記のフランス兵に敗北し、スイス傭兵の裏切りにより捉えられ、
(1500年のノヴァーラの戦いで)投獄され、そのまま獄死、
という事なので、

8-Pala_Sforzesca_-_detail_01_GF.jpg


その後の「貪欲なスペイン総督に押収」云々は、ボッローメオ家が
蒙った事なのですね、 はは、時にこんな逸話が飛び出すのが・・!


こうした水路は、ポー渓谷の住民にとって非常に重要な資源で、
地域の商業活気は、16世紀の文書によっても証明されており、

川釣り、製粉所、小職人の現実がミラノの貿易を刺激し、近隣の
領土の生存を保証し、

フェリーで移動する、「荷物を持った男達、馬、ラバ、荷車」・・、

これらそれぞれに、乗船時に支払われる確立した通行料があり、

各自治体間での協定で、無料で通行できる代わりに、村と港を結ぶ
道路区間の維持管理を行う事と引き換えだったり、

少なくとも300年間、ケーブル・フェリーが、物理的、商業的に
唯一の「公共の」接続手段であり、

アッダ川にはこのタイプの船が5隻あったのが、つまり5か所あったのが、

1889年にパデルノ・ダッダ・Paderno d'Addaに最初の橋が建設され、
これらの船は消滅する運命となったのでした。


こちらがパデルノ・ダッダ橋、またはサン・ミケーレ橋と呼ばれる、

9-ponte-di-paderno-adda_01_mario-donadoni_GF.jpg

この写真、素晴らしく美しいでしょう? この写真に魅かれ、アッダ川に
添った各町の案内サイトを読んだのが、元々の始まりだったのです。

アッダ川に沿った町には、特有の古い趣を残すものがあれこれあり、
美しいアッダ川の佇まいが趣を添える、防御のヴィスコンティ家の
城等など、またご案内致しますね。


19世紀の鉄製の266mの長さで、鉄道とベルガモへの州道の
2重橋で、

10-bergamo_pontesanmichele_GF.jpg

鋼、鉄、鋳鉄が人類の進歩の真の象徴であった時代の
最も興味深い証言、の橋、なのだそうで!



ですが、インベルサーゴのこの木製のフェリーは、
時の流れを生き残った唯一の船、として残り、

11-Traghetto_di_Leonardo_-_Il_traghetto_GF.jpg

環境保護の防波堤として、逆に時代の先駆者としての地位を再確認、
しているのですね。

この緑に囲まれたアッダ川をほんのちょっとの人力で渡る、
かのレオナルド様が水力研究を極めた渡し船。

いつかチャンスを見つけて乗って見たい、と思っているのですが・・。


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