あっという間に暑くなり、6月に突入! 皆様、如何お過ごしですか?
実は昨年より日本の友人と計画の6月の旅行、ポーランドの
クラコワ、クラコヴィア、クラクフ、呼び名は様々ありますが、
クラコワ、クラコヴィア、クラクフ、呼び名は様々ありますが、
クラコワに2人が現地集合、現地解散の、はは、私めは
4日間の旅行を計画しており、
4日間の旅行を計画しており、
中の1日は、勿論クラコヴィアから1時間半の距離にある
アウシュヴィッツ強制収容所の博物館見学ツァーに申し込み、
アウシュヴィッツ強制収容所の博物館見学ツァーに申し込み、
も一つ私の大きな目的、楽しみは、レオナルド・ダ・ヴィンチの
「エルメリーナを抱いた貴婦人」に会える事、です。
「エルメリーナを抱いた貴婦人」に会える事、です。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」の謎、噂、今どこに展示?
https://www.italiashiho.site/archives/20221125-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20221125-1.html
そして、秋10月早々に始まる広島での個展に備え、
いよいよ絵の仕上げの為のエンジンをかける必要があり、
いよいよ絵の仕上げの為のエンジンをかける必要があり、
この夏はどの様に、と考えた挙句、クラコヴィアから戻ってではなく、
今回のブログを最後に、
絵を発送予定の9月初めまで、夏休みを頂こう!と決めました。
今回のブログを最後に、
絵を発送予定の9月初めまで、夏休みを頂こう!と決めました。
はい、ブログを書く為に、書かずともあれこれ読み、調べるのも、
面倒ながら大好きでついつい取り込まれ、溺れていますが、
面倒ながら大好きでついつい取り込まれ、溺れていますが、
が、個展作品の仕上げの為となると、そうは言っておれませんで、
どうぞご理解頂けますよう、よろしくお願い致します。
どうぞご理解頂けますよう、よろしくお願い致します。
という事で、今回は「クラコヴィア旅行前の予備勉強」も兼ね、
オスカー・シンドラー・Oskar Schindlerについて、
ユダヤ人をクラコヴィアの自分の工場で働かせ、絶滅収容所行き
から1000人以上のユダヤ人を救った、という方、
そしてそのお話を描いたスティーヴン・スピルヴァーグの
感動的な映画
「シンドラーのリスト・Schindler's List」についてあれこれを。
「シンドラーのリスト・Schindler's List」についてあれこれを。
そして他にもウィキペディアの日・伊の記事様々を。
オスカー・シンドラー(1908-1974)は、現在のチェコ、当時
オーストリア・ハンガリー帝国領のツヴィッタウに生まれた、
移住してきたドイツ系で、
国民学校から実科学校に進み、学業優秀でなく、高校の卒業証書も
取得せずだったものの、何とか学業を完了、専門訓練コースに参加、
という経歴で、
取得せずだったものの、何とか学業を完了、専門訓練コースに参加、
という経歴で、
あちこちで働いている時に知り合ったエミリエ・ペルツェルと
20歳前に結婚。
が、彼の不貞のため幸せな結婚生活ではなく、子供も生まれずで。
が、彼の不貞のため幸せな結婚生活ではなく、子供も生まれずで。
1930年に兵役となり、戻ってくるとプラハの銀行に就職。
1935年にアルコール依存症だった父親ヨハンが亡くなり、1年程失業も。
1935年にアルコール依存症だった父親ヨハンが亡くなり、1年程失業も。
その間彼は乏しい経済的資源を利用し政治活動に近づき、
最初は1935年ズデーテン・ドイツ党の党員となり、
翌年にはドイツの軍事特務機関のアプヴェーア・Abwehrに採用、
つまり、スパイに。
1938年9月のドイツ軍のこの地域の占領を予期したチェコスロヴァキア
の鉄道、産業スパイで働き、
の鉄道、産業スパイで働き、
7月18日にチェコ政府に逮捕され、死刑宣告寸前だったのが、
ドイツ軍の占領により、数か月後のミュンヘン条約でチェコの
一部がナチス・ドイツに併合となり、釈放に。
1939年彼は正式にドイツ・ナチ党の党員となり、アプヴェーアで
前途有望なキャリアを積み、
前途有望なキャリアを積み、
ゲシュタポのみでなく、ドイツの産業、経済、政治観環境全体に
影響力のある友情をもたらし、急速な経済的台頭をも。
妻と共にポーランド国境のオストラヴァに移った時に、
後にシンドラーの会社で働いたユダヤ人会計士イツァーク・ステルン・
Itzhak Sternと知り合いに。
ナチスの「人種法」が施行されたにも関わらず、ポーランドの
ユダヤ人コミュニティとの付き合いも続けており、
そして1939年ブレスラウの参謀本部職務から身を引き、
ポーランドへのドイツの侵攻に合わせ、
戦争での一儲けを狙いクラクフに。
スピルヴァーグの映画の中で本人が語る形で、
今迄いろいろやって来ても上手く行かなかったが、不足していたのは
「戦争」だったんだと。
2年前の1937年3月に設立されたキッチン用品工場をユダヤ人
コミュニティから低価格で引き継ぎ、
コミュニティから低価格で引き継ぎ、
つまりユダヤ人は会社経営が許されなくなっているから出来た事で、
ドイツのエナメル製品工場、またはエマリア・Emaliaと改名し、
ユダヤ人コミュニティでも名の通っていたイツァーク・スターン
(1901-1969)を会計士に。
この会社が映画「シンドラーのリスト」にも登場した琺瑯引き容器の
会社で、現在博物館になっており、
会社で、現在博物館になっており、
最近の写真では、素晴らしく整備されたきれいな入口となっており、
内部はクラコワの街の歴史博物館で、単に元のシンドラーの会社内容では
無いとの説明を読みました。
今回スピルヴァーグの映画を再見しましたが、
ポーランド侵攻の後、1939年9月にクラコワ周辺に住むユダヤ人も
皆クラクフに戻り、登録、届を出す事、というお触れが出され、
街はユダヤ人で溢れ、という出だしを思い出しました。
皆クラクフに戻り、登録、届を出す事、というお触れが出され、
街はユダヤ人で溢れ、という出だしを思い出しました。
1938年時点でクラコワには6万4000人を超えるユダヤ人が暮らし、
それはクワコワの全人口の4分のⅠに相当しており、
それはクワコワの全人口の4分のⅠに相当しており、
クラコワのヴァヴェル城に住むポーランド総督任命のハンス・フランクは
大の反ユダヤ主義であり、自主的な、強制的な追放が何度か行われ、
大の反ユダヤ主義であり、自主的な、強制的な追放が何度か行われ、
遂に1941年3月にヴィスワ川の向うに隔離地区・ゲットーが作られ、
それ迄3000人程が住んでいた地区に、15000人が押し込まれ、
それ迄3000人程が住んでいた地区に、15000人が押し込まれ、
3月20日に周囲を壁で囲まれ、封鎖されのですね。
ゲットーに住む為には、ドイツ系の起業家軍需関連の工場労働者で
無くてはならず、
無くてはならず、
これは逆にシンドラーの工場にとっては働く安い人材確保に良く、
労働者にとっても働けるという利点となった様ですが、
労働者にとっても働けるという利点となった様ですが、
クラコヴィアのゲットーがあった場所は、現在この様に広場となり、
もう一度、この地図を。
ゲットーの右、Emaliaと書いた位置にシンドラーの工場があり、
ゲットーからの労働者は通っていた様ですが、
その後右下のPlaszow・プワシュフに1942年12月、強制労働収容所が
作られ、徐々に大きくなり、1944年には面積が81ヘクタールに達し、
作られ、徐々に大きくなり、1944年には面積が81ヘクタールに達し、
少しでも位置が正確にわかれば、と地図を広げましたが、
現在この地には、2つのユダヤ人墓地があり、平地のままの様子で、
慰霊碑があり、
いつでも入れるものの、管理事務所も何もなく、トラムの停留所も
近くにあるものの、行かれる方はご注意、とあり、
一旦は見れるものであれば、と考えたものの、迷っています。
近くにあるものの、行かれる方はご注意、とあり、
一旦は見れるものであれば、と考えたものの、迷っています。
クラコワというと、余りにもアウシュヴィッツ強制収容所との関連が深く、
映画も分かって見ていながらも、時にどこか混乱していたりですが、
プワシュフ強制収容所が、クラコワに一番近い収容所だったのですね。
アウシュヴィッツ強制収容所は、クラコワから西に70km の距離にあり、
ここも後に焼却窯が作られましたが、最初は強制収容所だったのですね。
後に近くに作られた大きなビルケナウの収容所は、最初から絶滅収容所
として造られており、
その違いは、ヒットラー自身がアウシュビッツを造った時の意識の違い、
つまりビルケナウ絶滅収容所は、「ユダヤ人問題の最終解決」方法が
決定した後に建設された、という事なのだそうで。
このプワシュフの強制収容所が、スピルバーグの映画の中で描かれた
かの残酷な「プワシュフの肉屋」と呼ばれたアーモン・ゲース・
Amon Leopold Göth(1908-1946)が所長で赴任してきた所で。
クラクフのゲットーは、1943年3月13日に閉鎖解体され、ユダヤ人は
プワシュフの収容所に移されますが、
プワシュフの収容所に移されますが、
シンドラーはアーモンに掛け合い、自分の工場内に隔離場所を作るから、
という事で引き取り、この数は分かりませんが、
という事で引き取り、この数は分かりませんが、
アーモンとの友人付き合い、勿論莫大な賄賂もで、当初の台所用品
製造工場から軍需工場に変換しての働きも利用しての事で、
製造工場から軍需工場に変換しての働きも利用しての事で、
クラコワの闇市場での、一般人には手に入らない高級品、食料品から
贅沢品に至る迄を彼は大散財しての、高位軍人たちとの交際にも
役立たせた訳ですね。
贅沢品に至る迄を彼は大散財しての、高位軍人たちとの交際にも
役立たせた訳ですね。
映画の中で描かれたアーモンの、朝、テラスからの銃撃場面を覚えて
おられますか? 衝撃の場面でしたが、
実際にこの銃撃は証言があるものの、この家の方が収容所がある
土地よりも低く、このテラスではなく、他の建物だったと。
そして1944年末になると、東から近づいて来るソヴィエト赤軍の
侵攻にせかされ、収容施設の解体、犯罪証拠隠滅の為、
それまでの処刑者の死体を掘り起こし焼却する命令が出され、
映画のこの場面も衝撃的で凄かったですねぇ。
クラクフの街にも灰が、骨灰が雪のように降って来る場面!
この赤いコートの少女が、ゲットーの解体場面で1人で歩き、家の中に
隠れる場面があり、
隠れる場面があり、
そして焼却の場面では死体となって・・。
シンドラーはプワシュフ収容所解体となる前に、様々に彼に力を貸し、
教えてくれた会計士のイツァーク・スターンと共に、
教えてくれた会計士のイツァーク・スターンと共に、
映画のタイトルともなった「シンドラーのリスト」、
援け出すユダヤ人の名を書き出したリストを作り、
彼の生まれ故郷に近い、少なくともユダヤ人にとっても少し安全な土地
であるブリュンリッツ、現在はチェコのブルニェネツ、に買った
であるブリュンリッツ、現在はチェコのブルニェネツ、に買った
自分の工場に連れて行きます。
総勢800人もで、そのうち700人がユダヤ人、300人が女性で、
1944年10月15日に輸送されたと。
1944年10月15日に輸送されたと。
これが現在残る、シンドラーの工場。
この時の輸送に手違いがあり、男たちの乗った輸送車両は無事に
先に届いたものの、女たちの輸送車両が間違ってアウシュヴィッツに。
先に届いたものの、女たちの輸送車両が間違ってアウシュヴィッツに。
髪を刈られ服を脱がされシャワー室に連れていかれ、皆が秘密裏に
聞かされていた話を思い出し、戦慄するものの、
暫くして本当のシャワーであった事に、皆泣き出し・・。
聞かされていた話を思い出し、戦慄するものの、
暫くして本当のシャワーであった事に、皆泣き出し・・。
実際にアウシュヴィッツに到着したユダヤ人は、かの有名な
「選別」を通った人たちは、
髪を刈られるのみならず、全身の毛を刈られ、体に染み込む様な
消毒薬を雑巾で塗られ、
湯と冷水を交互に掛けられるような消毒をされた後に、
粗末な衣類を渡され、それもリサイクルの品が多かったと。
シンドラーはアウシュヴィッツの所長ルドルフ・ヘスにも多額の
賄賂を贈り、彼らは工場に必要な熟練技術者であると押し通し、
そして漸くに家族が載せられた列車が着くのを待ち構え、窓際から
覗く男達、胸が詰まる思いのシーンでした。
覗く男達、胸が詰まる思いのシーンでした。
ウィキの日本版によると、この時アウシュヴィッツからも120人を救出
したものの、鍵をかけられた家畜用貨車で1月の酷寒の中、
食事も水も与えられず、7日間かけてシンドラーの工場に到着。
13人の凍死者が貨車から発見され、他は何とか命を取り留め、
必死の治療を受けたそうで。
必死の治療を受けたそうで。
そしてこの工場では親衛隊は誰ひとり工場への立ち入りを許されず、
凍死者たちの焼却も許さず、ユダヤ教のしきたりに従い、埋葬されたと。
凍死者たちの焼却も許さず、ユダヤ教のしきたりに従い、埋葬されたと。
この最後の工場では、別居していた妻のエミーリエも夫と一緒に
働きますが、戦後はシンドラーは一銭も持たずの不運生活で、
再び別居に。
働きますが、戦後はシンドラーは一銭も持たずの不運生活で、
再び別居に。
最後の最後までシンドラーと共に働き、単なる会計士以上、頭脳部でも、
ユダヤ人コミュニティに関する事でも、大切な大友人であったと
思われるイツァーク・スターンの存在は大変大きく、
こちらは年月が分からないものの、戦後のイスラエルでの2人の語らいと。
映画の中では、単純化してスターン1人、という描かれ方でしたが、
実際にはミーテク・ペンパー、エイブラハム・バンカー、
実際にはミーテク・ペンパー、エイブラハム・バンカー、
マルセル・ゴールドバーグの3人がスターンと共に顕著な活動だったそうで。
こうして戦争が終わるのを待つ様な姿となり、が、工場で作られる
軍需品はいずれも規格に達せずに戻され、
シンドラーは他の工場から買い、穴埋めを、という様な自転車操業で、
一挙に資金が尽きて行きます。
シンドラーは他の工場から買い、穴埋めを、という様な自転車操業で、
一挙に資金が尽きて行きます。
こうして1945年5月7日、ドイツは西側連合国軍に降伏、
5月9日にソ連軍に降伏。 収容所はソヴィエトの赤軍に解放されます。
戦争が終わってみると、ユダヤ人を1000人以上救ったシンドラーは
依然としてナチス党員であり、元アプヴェーア将校であり、戦犯身分。
依然としてナチス党員であり、元アプヴェーア将校であり、戦犯身分。
工場の数人が、多くのユダヤ人の命を救ったと弁護声明を作成したものの
ソ連の理解には疑問が残り、
ソ連の理解には疑問が残り、
5月ユダヤ人コミュニティは家族と共にスイスに逃れるのを援け、
影響力あるユダヤ人の調停で裁判から救われたものの、殆ど無一文に。
1949年には家族とともにアルゼンチンに移り、農民としての
生活を再建しようとするも成功せず、妻と別居。
1957年に西ドイツに戻り定住し、シンドラー・ユーデン・
シンドラーのユダヤ人、たちからの寄付で生き延び、
1962年シンドラーと彼の妻は、ホロコーストの犠牲者を援けたり、
保護したりの非ユダヤ人に与えられる賞
保護したりの非ユダヤ人に与えられる賞
「諸国民の中の義人・Righteous Among the Nationsを授与されます。
1974年10月9日、66歳で彼は亡くなりましたが、
彼の希望により、ジェルサレムのシオン山のカトリック墓地に埋葬
されるという、元ナチ党員に対する異例の賛辞で、
イスラエルは彼に最後の栄誉を授けたのでした。
されるという、元ナチ党員に対する異例の賛辞で、
イスラエルは彼に最後の栄誉を授けたのでした。
「一命を救うもの、全世界を救う」 という聖典、タル・ムートの
言葉が刻まれた指輪が、
工場を去るシンドラーに渡される場面がありました。
いわば悪の世界から英雄へ、と生きた、矛盾した男の人生で、
1939年クラコフに、戦争で一儲けをする心算でやって来た男が
ナチの内部を知るうちに、到底そのままユダヤ人の悲惨さを
見逃すことが出来ずに救出に嵌りこんでいった6年間。
ナチの内部を知るうちに、到底そのままユダヤ人の悲惨さを
見逃すことが出来ずに救出に嵌りこんでいった6年間。
他にもたくさんのユダヤ人救出の物語がありますが、
ここまで徹底して、自分の財産を使い果たしてまで、というのは
他には無いですよね?
ここまで徹底して、自分の財産を使い果たしてまで、というのは
他には無いですよね?
1993年にスティーヴン・スピルバークが映画化した元の小説、
1982年ブッカー賞受賞の「シンドラーの箱舟」を書いた
トーマス・ケニーリー・Thomas Keneallyに、
シンドラーの話を書くきっかけを与えた人物は
レオポルド・フェッファーバーグ(1913-2001)
レオポルド・フェッファーバーグ(1913-2001)
"ポルデク"として知られるポーランド系アメリカ人で、
彼はホロコーストの生き残り。
1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻した時、将校として
ポーランド軍に参加、負傷し野戦病院で助けられ、
ポーランド軍に参加、負傷し野戦病院で助けられ、
後にポーランドが敗北し、ナチス・ドイツとソ連に分割された後、
こっそりとクラクフに戻り、後、クラクフのゲットーに投獄され。
こっそりとクラクフに戻り、後、クラクフのゲットーに投獄され。
が、彼はドイツ発行の文書を利用し、軍病院の兵士たちを見舞い、
また母親を訪ねたのが、シンドラーが新居のアパートの装飾に
インテリア・デザイナーの母親を雇っており、
この縁でシンドラーと知り合ったのだそうで。
また母親を訪ねたのが、シンドラーが新居のアパートの装飾に
インテリア・デザイナーの母親を雇っており、
この縁でシンドラーと知り合ったのだそうで。
その後闇市場でシンドラーの取引を手伝う様になり、
1941年に結婚した女性ルドミラ・ルイソンもプワシュフ強制収容所
と、シンドラー・ユーデンの生存者で、
1941年に結婚した女性ルドミラ・ルイソンもプワシュフ強制収容所
と、シンドラー・ユーデンの生存者で、
こうした繫がりで、シンドラーの工場で雇用され、おかげで彼は
一族近親者も殺害された300万人のポーランドユダヤ人絶滅を
生き延びたのですね。
一族近親者も殺害された300万人のポーランドユダヤ人絶滅を
生き延びたのですね。
2人は「シンドラーのリスト」に載っていたので、他の多くと
シンドラーのブリュンリッツの収容所に移送され、
その間に溶接工の技術を習得、
この収容所のユダヤ人は、1945年5月9日、ソ連赤軍により
解放された後、
解放された後、
一家はブタペスト、ミュンヘンと移り、1948年にアメリカに移住、
彼と妻は1950年ロサンゼルスに移り、
彼と妻は1950年ロサンゼルスに移り、
最終的にビバリー・ヒルズで革製品の店を始めたのだそう。
彼はシンドラーを「現代のノア」と評し、仕事を通じ知り合った
脚本家や映画製作者に、シンドラーとポーランド系ユダヤ人をナチスから
救った彼の行動を映画にするよう何度も試みますが、
1974年のシンドラーの死で、映画化の可能性は途絶えたかに。
が、1980年、トーマス・ケニーリーがブリーフ・ケースの値段を尋ねに
店に来た時、彼が小説家であると知り、
シンドラーに関する膨大なファイルを彼に見せたのだそう。
店に来た時、彼が小説家であると知り、
シンドラーに関する膨大なファイルを彼に見せたのだそう。
ケニーリーが興味を持ち、フェッファーバーグはアドバイザーとなり、
彼に同行しポーランドに行き、クラクフやシンドラー所縁の地を訪れ、
ケニーリーは「シンドラーの箱舟」を彼に捧げ、
「熱意と粘り強さによりこの本が書かれた」と。
フェッファーバーグは、シンドラーを語らせようとする彼の努力の
背後の理由を、
「シンドラーは私に命を与えてくれ、私は彼に不死を与えようとしたのです」
「シンドラーは私に命を与えてくれ、私は彼に不死を与えようとしたのです」
1982年に「シンドラーの箱舟・Schindler's Ark」が出版された後、
スピルバーグの母親との知り合いを利用し、スティーブン・スピルバーグに
本を映画化するよう、
スピルバーグの母親との知り合いを利用し、スティーブン・スピルバーグに
本を映画化するよう、
11年間毎週スピルバーグの事務所に電話をかけた、そうで!
1992年に映画製作にスピルバーグが同意した時、フェッファーバーグは
アドバイザーとして働き、再びポーランドを訪れ、スピルバーグを現場に
案内して回り、
アドバイザーとして働き、再びポーランドを訪れ、スピルバーグを現場に
案内して回り、
彼の名は映画のエンドクレジットに、レオポルド・ペイジという、
かって使っていた名前で登場し、コンサルタントとして記されており、
「シンドラーのリスト」がアカデミー賞を7部門を受賞した夜には、
スピルバーグのゲストで招かれており、
スピルバーグのゲストで招かれており、
最優秀監督賞受賞スピーチで、「ポルデック・フェッファーバーグと
いう名の生存者…私は彼にとても恩義がある。
彼はオスカー・シンドラーの物語を我々全員に伝えてくれた」と感謝。
フェッファーバーグは、人種国籍に関係なく、個人や組織による行為を
表彰する「オスカー シンドラー人文科学財団・
表彰する「オスカー シンドラー人文科学財団・
Oskar SchindlerHumanities Foundation」の創設者となり、
基礎が現実になって初めて、私は義務を果たしたと言えます。
なぜなら、私がもうここにいなくなっても、シンドラーのユダヤ人たちが
ここにいなくても、財団はまだ続くからです。 と。
こうして義務を果たしたフェファーバーグは、2001年3月9日に
ビバリー・ヒルズで87歳で亡くなりました。
ビバリー・ヒルズで87歳で亡くなりました。
この後フェッファーバーグの写真が見つかったものの、ほんとに本人かな、
と探していて見つけたのが、
ミラ・ペイジ、100歳に! 彼女と夫のポールはトーマス・ケネリーに
オスカー・シンドラーの物語を紹介した。
オスカー・シンドラーの物語を紹介した。
という2020年7月のこの写真と共に。
つまりこれがフェッファーバーグ、ここではニックネームのポールとなっていて、
右はスティーブン・スピルバーグと3人一緒の写真で、
右はスティーブン・スピルバーグと3人一緒の写真で、
上にご紹介したそれまでの経緯の要約を短く説明しており、
この記事の3年前に妻のミラはまだお元気で、100歳記念がこの記事。
この記事の3年前に妻のミラはまだお元気で、100歳記念がこの記事。
1994年、スティーブン・スピルバーグがホロコーストの生存者や
その他の目撃者とのインタービューを撮影し保存する為に
この研究所を設立し、
現在65か国、44の言語で行われた、56000を超える視聴覚証言が
保管されれている事、
保管されれている事、
開発したデジタル・コレクション管理技術に関しての、11件の
特許を保有している事、
11万5千時間のビデオ証言が記録されており、すべてのコンテンツ
にはインデックスが付けられ、分単位で検索可能と。
そうなんですね、上のフェッファーバーグ氏も、シンドラーとの
直接の関係を持ったことから、彼の事を後世に伝える為に努力し、
財団を設立し、
そして映画化したスピルバーグ監督は、そこから新たな
自分に課せられた「記録を残していく」為に、
この財団を作ったのでしょう。
そして今回行き会った「死の行進」という言葉に、本当に
「歩いての行進」かとつい疑問に思い、その言葉で検索しましたら、
地図付きの、大変詳しいページに行き当たり!
つまり1945年1月頃の強制収容所、絶滅収容所からの「死の行進」
と出たので、酷寒の雪の中、本当に歩いて?!と思い調べたのですが、
と出たので、酷寒の雪の中、本当に歩いて?!と思い調べたのですが、
まぁ、ほぼ徒歩で、既に極度に衰弱している体で!
小船なども使ったとありますが、これは川があり、渡る、という
場合にみだったろうと。
短期間のちょっとした検索にも、即こうしてヒットする所を見ると、
様々な財団、オルグ等が、記録が消えぬよう努力されているのが分かり、
頭が下がる思いだったのでした。
**
長々と書きましたが、アウシュヴィッツに行く、と話した友人の中から
なぜあんなところに?! という声もありましたが、
なぜあんなところに?! という声もありましたが、
こんなに酷い歴史の中にも、善く生きるべく努力した人々の存在を知り、
感嘆し、励ましを与えられる事はいつもの事で、
感嘆し、励ましを与えられる事はいつもの事で、
中1の時に担任がTime誌を読み、教えてくれ、それ以来芽生えた
アウシュヴィッツ訪問の希望が漸くに叶うのが、
今回叶えてくれた友人にもとても感謝なのです!
実際に見て、何をどう感じるか分かりませんが、知らなければ始まりません。
最後はイツァーク・パールマンのヴァイオリンで、映画のテーマ曲を。
作曲はジョン・ウィリアムス
作曲はジョン・ウィリアムス
長いお休みを明日から頂きますが、
ブログ再開の時にお話しできる事がたくさんあるよう願っています。
皆様にも良い夏であります様に!!
どうぞよろしくお願い致します!
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当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
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