・ n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産

◆ お知らせとお詫びを ◆

先回アップした後、最後に28日に、ルドルフ・ヘスの事やその妻家族、
そしてどちらの収容所にもあった音楽隊の事を書きます、と
終えたのでしたが、
済みません、PCの光ファイバーへの変換でちょっとややこしくなり、
時間が取れずで、日本から戻ってからの事にさせて下さいませ。

決して草臥れて行き倒れ!ではありませんで、戻りましたら
また、よろしくお願い致しま~~す!! では。

*****


失礼し、 まず10月4日から9日まで開催の広島三越での
個展の御案内を見てやって下さいませ。

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私めは来週29日にヴェネツィアを発ち、日本に参りますので、
会場で皆様にお目に掛かれるのを楽しみにしております。

出品作の様子は絵のブログの方でご覧頂ける様、このページの下から
リンクしておりますので、よろしくお願い致します!


*****

先回ご覧頂いた、ナチスのユダヤ人絶滅作戦の一番のシンボル
ともなったポーランドはクラコフ郊外に位置する、
アウシュヴィッツ強制収容所 その2 を。

ポプラの緑色が美しいですが、これは囚人達が当時植えたそうで、
既に80年を経て、手前の木々など、少し枯れかかっている様で、
改めての植林も始まっているそうで。

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この右に見える道と右に広がる広場は、点呼広場。

朝と夕に必ずここに集合し、監視人に点呼をされ、きちんと人数が
合うまで何度も点呼が繰り返され、時に何時間も立ち続けだったと。



そして今回は「バラック6・収容所の生活」の部分を。

これは部屋全体に隙間なく薄いマットレス敷き詰め、寝床になっており、
マットレスと言っても狭い小さなもの、中の詰め物もきっと藁か何かと。

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上に掛ける毛布、毛布と言っても紙袋の中に藁が入っていたと。


そしてこちらは隣の、まさに床に藁が敷かれた部屋。

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廊下の両側の壁全体に、この様に収容された人々の写真が。

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名前が登録された人々の、髪を刈られ、囚人番号を腕に入れ墨され、
縞のお仕着せを着た、記録に残っている人々の写真が並びます。

長く狭い廊下の両側の壁にずらっと並ぶ肖像写真に、上から
眺められながら通って行くのにも、かなりの圧力を感じました。

「登録された人々」というと、当たり前じゃん、と思われるかもですが、
駅のホーム到着時に選別される様になると、労働の為に残された
人々のみが登録され、

他の人々は直接に「シャワーを浴びる」からと誘導され、
その儘帰らぬ人となったのでした。


こういう名も、記録も残っていない人々が100万人程もおり、
イスラエルの「ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記憶のための国立機関」
では、各人の記憶を保存するし追悼する為に創られ、働いているのだそう。



こちらはご覧の様にトイレ。 ですが、到底収容者数には到底不足でしたし、
決められた時間以外は利用できなかったそうで・・!

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洗面台。 こちらも到底数が足らず、きれいな水も不足していたそう。

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カポ・囚人役人、頭の部屋。 1人部屋、ベッドも机も箪笥、洗面台も。

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囚人達は親衛隊のメンバーだけでなく、収容所当局が任命した、
いわゆる囚人役人によっても監督され、

これら任命された囚人たちは多大な権力を有し、仕事を遂行する為、
仲間の囚人を容赦なく監督し、圧力をかける手段は数多くあったと。



こちらは3段ベッドで、一段に2人ずつ。

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ここで「ブロック6」を出て、外の空気を吸い、深呼吸を。

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私は「ブロック11・抵抗者のブロック、死」を見ていないと思ったのが、
撮って来た写真と、写した時間も確かめ、見ていた事が分かりました。

ここの廊下は、大勢の人にまみれて歩き、自分で確かめておらず、
写真の順番も後先混ざり、頭が混乱したのでした・・!


ブロック11は、地下室が囚人の刑務所となり、かのコルベ神父が
閉じこめられ餓死させられた部屋もある、
実際にそれらの部屋は見ておらずですが、廊下に展示の写真を
撮っておりました。


この部屋はここに勤務する親衛隊士官の部屋。 で、彼はゲシュタポ・
秘密警察、の略式法廷でしばしば判決を執行した、と。

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この部屋に見える説明によると、ここはブロック11の1階の部屋。

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ここには収容所の囚人ではなく、警察囚人、ゲシュタポの囚人が
略式裁判に出席し、略式裁判所が彼らに死刑を宣告するのが
一般的で、このアウシュヴィッツに収容される判決は殆ど無かった。

つまり彼らはゲシュタポの、占領下のポーランドにおけるナチス・テロ
の犠牲者であったと。

つまり政治犯としてゲシュタポに逮捕された囚人達がこの部屋に拘禁
されていた、という事なのでしょうね。

右手前に見えるのは、厳重に鍵が掛かっているようですが、何だろ?
ストーブかな、とも思いますが、きっと火は点けられていないと。



この流し、洗面台で、死刑を宣告された囚人が服を脱いだのだと。

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この辺りの写真、すべて反射して見難いのですが、ご容赦。 部屋の
入り口は全てアクリル板で仕切られ、中に入れない様になっていて。



これはブロック11の地下の様子。右上は壁に残された名前と番号、

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下半分の右は、下から入り込む監房。 上に5cm角程の小さい
空気穴があり、この狭い部屋に4人が入れられたとか。

中の小写真は、死刑判決を受けた囚人の身代わりとなった
コルベ神父が入れられ、餓死させられた部屋。



こちらの左は「ブロック10・実験病棟」で、ご覧の様に全ての窓が
外から塞がれており、

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右奥に見える壁が、死の壁、つまり処刑に使われた壁。

ブロック内から処刑が見えない様に塞がれたのか、実験病棟の中を
見たり、叫び声を聞かせない為か・・。



一番奥の塀の前の「死の壁」。 

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かなり薄い切り石を積んだ様で、横の段面でも分かる様に、
丸太を積み、支え、クッションに。

この収容所に各国からの賓客を迎えたり、慰霊祭があると、
この壁の前に花輪が供えられます。



死の壁の処刑を描いた場面。 ここでは後頭部からの銃殺刑。

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収容されていた囚人が描いたそうで、これなど多分絵のプロの方と。

この絵で壁の色が黒いのに気が付かれましたか? 
実は私も見つけた写真に、壁の色が黒いのがあったので、
以前は塗られていたのではないか、と想像しています。



こちら、悪の人体実験等を行った「バラック10」。立ち入り禁止。

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外に張り出されていた内部の写真。  左は暗い廊下、でしょうが、
右の部屋の中に見えるのは、ひょっとして診療台?

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出て来た点呼広場の、これは点呼管理と数について電話をかけて
報告するブースでもあり、悪天候時のSS隊員の避難場所と。

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その横にある、集団絞首刑台。 背後の建物は厨房で、
壁に見える説明に誰と誰がここで・・、と。

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こちらは上でも見て頂いている、囚人だった方達が描いた絵で、
左は、女性囚人たちが靴の整理作業を。

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右は、作業用手押し車を押す男性囚人達。



こちらはユーモラスであり切なくもある、「こぼれたスープを集める」

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画家は、上の「死の壁」と同じ、ヴワディスワ・シウェク。



高電圧の通っていた電線の柵、 そして碍子。

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ここなど囚人達のバラック全部の、一番外側の見張りの道だったと。

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柵の外に出て、これはアウシュヴィッツ所長のルドルフ・ヘスが
1947年4月16日、絞首刑に処された台。

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彼は1946年3月11日、隠れて農園で働いていたのをイギリス軍に
逮捕され、ニュールンベルグ裁判では弁護人側の証人で出廷。

その後ワルシャワに送還され、ポーランド最高裁判所で裁判を受け、
死刑判決を受けたのでした。

彼について、また彼の妻、家族については別にご案内をと。



そして最後、その横にあるガス室、の見学に。

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隣の部屋にある焼却窯。 

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ドイツ軍は退却の時に証拠隠滅で他と同様に爆破して行き、
この2基は復元されたものと。


アウシュヴィッツ強制収容所は、元々政治犯、ロシア軍捕虜の収容所、
として始まり、次第にユダヤ人強制収容所となって行きましたが、
最初はガス窯を備えた絶滅収容所では無かったのですね。

それがナチス政権のユダヤ人に対する対処法の変更に伴い、どの様に
多量のユダヤ人を殺害するか、その後の処理をどうするか、
という問題が起こり、

このアウシュヴィッツでもツィクロンBのガスによるテストが、
ブロック11の地下室で行われ、その効果には満足(!)されたものの、
建物の密閉性に問題があることが分かり、

少し離れたここにガス室、そして焼却窯が設置されたのでした。



こうして我々はアウシュヴィッツIの見学を終え、
高圧線の巡らされた柵の外に出て、

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クラコフからの車に乗り、アウシュヴィッツII・ビルケナウに。

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この眺めを見ながら、午後の見学に備え、道端で渡されていたお弁当、
チーズ・サンドウィッチ2片と、リンゴ、クッキー、水、をもぐもぐと。
その後、入り口付近で先のガイドさん、グループ・メンバーたちと再会。



上空からの写真。 この雲をつかむ様な広大さには驚きのみですが、

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入り口の塔の右上に見えるバラック群は、オリジナルではなく、
戦後の博物館のための計画に従い、後方のバラック群から使える
木材を集め、再建されたものと。

後方遥か彼方に見える木々、林、その一帯迄が敷地だった訳で、
農家があったのを接収し、沼地で、冬は零下20度を超す寒さの中、
土地の整備も施設建設も全て囚人達の強制労働で造り上げたもの。

建設は1941年9月頃より始まり、囚人たちは飢餓、極度の疲労、
低体温、個別の処刑、殴打等により、数週間で死亡したと言います。

同時に収容されていた囚人の数は、最大で10万人!を超えており、
ナチスが目指していた最大20万人には達しなかったと。


ユダヤ人問題の最終解決、すなわちガス室と焼却窯による消滅、
そしてユダヤ人絶滅問題を政府の優先事項とする事を再確認した
1942年1月20日のヴァンゼー会議後、

1944年末まで、貨物列車がドイツ占領下のヨーロッパ全土から
130万人がここ、アウシュヴィッツII・ビルケナウに送られ、
110万人が殺害され、

貨車到着のホームでの選抜により、ユダヤ人96万人の内、
労働不適格と、直接ガス室に送られれたのは86万5千人と。


ヴァンゼー会議については、ミ~タさんの記事こちらを。



あの監視塔を備えた門の下を潜り、引き込まれた鉄道線。

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この先で3車線に分岐し、線路の間のホームを歩いている人々が
見える場所が、選抜場所、でした。



こちらが再建されたバラックで、この木材は元々厩舎用のプレハブで、
ドイツから運ばれた木材だったそう。

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ちょっと分かりにくい地図ですが、右上の下に黄色く囲まれた部分が、
現在残っている再建された部分で、

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左の大きな地図の白く見える位置に。



こちらが全体のマップ。 左上に色分けした凡例があり、日本語で追加
しましたが、地図に赤線でも囲った、ガス窯はガス室の書き間違いで、

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上の鉄道線引きこみの最後に跨る様になっている所が、ガス室、窯II、
右に見える囲いが、ガス室、ガス窯III。 

ガス室、ガス焼却炉のIは、アウシュヴィッツの上記で見たのを指します。

薄いピンクの焼却場、が塗り忘れられたのか見つかりませんが、
確か左のIIの近くにあった、農家跡の敷地に掘られた堀だったと。

一日のガス窯の焼却能力は2000体。 ガス窯での焼却が間に合わず、
露天でも焼却されたそうで、それを指します。

上方真ん中のバラックの水色、下側にも見えますが、
これは略奪した品や、死者たちから奪った品の倉庫。
  
カナダ、との追記は、カナダの国が資源豊富、という事から
こうした倉庫をアウシュヴィッツIでも「カナダ」と
呼び習わしていたと!



こちらがバラックの中で、元々は上記した通り厩舎用、51頭の馬用
のバラックをこの地に建てたものだそうで、

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真ん中に見えるのは暖炉で、


この様にバラックの内部をずっと煙突が続き、向こう側に煙が
抜ける様になってはいるのですが、

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これはジュネーヴ条約の捕虜扱いに準じて造っただけで、
一度も利用された事は無いのだそう!



こちらはトイレのあるバラック内で、単純に穴が開いているだけ、
そして使う時間が決められていたと。

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ガイドさんの話を聞き、付いて歩くとつい写真がおろそかになりますが、
あの写真を、と探したもので、

木の3段ベッドがあるバラックの、床の様子が分かるのを探したもので、
床の部分が少し窪んでいるのが分かりますか。

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ここは汚水の流れ道で、トイレの使用時間は決められていたので!
バラック内の衛生状態、臭気などご想像を!

体力が無くなり、上の段から落ちる事もあり、
零下何十度にもなる冬の様子も想像するに余りあります。



これは1945年1月のロシア赤軍による解放後のバラックの様子で、
ここに400人以上の囚人が収容されていたそう。

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今は単純にバラックの真ん中を通っていた煉瓦の煙突だが残る敷地。
ここでもやはり高電圧の電線が境を警備、分けていたのですね。

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一台残る、貨車。 日陰で説明を聞いているのは、イスラエルからの
巡礼団と。

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大変な暑さの日で、あの当時ヨーロッパ中が酷暑でしたが、ここもで、
奥にあるガス室、焼却炉の破壊跡は、下がコンクリになっていて更に
暑いので、行かない様にガイドさん達にお達しが出ていたそうで、
我々は途中のバラックの陰で説明を聞きましたが、



向こうの道を奥のガス室、焼却窯の痕に向かう先ほどの巡礼の方たち。

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奥の木々の手前、小さな三角屋根が見える辺りが廃墟後で、
その手前に鉄道線の遮断位置が見えます。



こちらはサイトから探した、ガス室、焼却炉、などの廃墟。

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亡くなった方々への慰霊碑。 ガス室、窯 III 近くにある様子。

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20歳の頃大阪で、1960年にアウシュヴィッツを見学の大江健三郎氏
の講演を聞いた事があり、彼は風呂敷包みを抱え登場し、早口で
つっかえながら、様々見て来た、ひどい話を聞かせてくれました。

その時の残っている印象はこれだけで、

今回あれこれ探しましたが大江氏の書かれたものは見つからず、

当時ご一緒だった開高健さんの様々な見学記が、私めは彼の大ファン
だったのでこちらにも持って来た本、全集から見つかりました。

で、今回我らが見せて貰ったものが、如何に少なく、見学に無難な物、
と分かりました。  「“夜と霧”の爪跡を行く」 をどうぞ。


この事はもう、最初に入り口を入った時に察した事ですが、
既に80年を過ぎ、世界中の多くの人が訪問する博物館を分かりやすく
見て貰うためにも必要な事かもしれずで、仕方ないとは思いますが。

ずいぶん昔、こちらイタリアのTV番組で見た博物館の品々、
見た後は随分長い間、夜寝る時に頭に浮かび眠れなくなった品も、今は
多分きっと奥に秘蔵され、単純な博物館見学では見れないのだろうな、と。

怖いもの見たさで望むのではありませんし、それが妥当なのかもしれず、

少しずつ風化しながら、歴史の一齣に、なって行くのでしょうね。

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***

今回でアウシュヴィッツI と II のご案内は終わりますが、
あれこれ読んでいるうちに出会い、もすこし知りたくなった

アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻の事、
そして、どちらの収容所にも存在した音楽隊・オーケストラについて、

出発前に纏めて置きたく、来週木曜28日、
最後にアップできる様頑張りますので、よろしくお願い致します!


*****

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・ n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産

失礼し、 まず10月4日から9日まで開催の広島三越での
個展の御案内を見てやって下さいませ。

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私めは29日にヴェネツィアを発ち、日本に参りますので、
会場で皆様にお目に掛かれるのを楽しみにしております。

出品作の様子は絵のブログの方でご覧頂ける様、このページの下から
リンクしておりますので、よろしくお願い致します!

 
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6月中旬にかねてからの念願、まさに50年以上の願いであった
アウシュヴィッツ訪問が出来ました。

博物館も土地も、少し整備され過ぎかも、という感想は持ちましたが、
やはり現場を見て、その空気の中で説明を受ける、のは大変に重く・・。

出かける前から、戻ってからも、そして今もブログに書く為に、あれこれ
何度も様々なサイト資料や本を読み続けております。

なぜなら、余りにも大きく酷い酷い悲惨さで、自分流の考えでは到底
追いつけない、なんでそんな事が?!という事ばかりで、

ちょっとやそっとでは咀嚼できず、かといって放り出すことも出来ず、
知れば知る程に、新しい資料と巡り合い、終わりが見えない状態で・・。


いずれにしても、見て来た事を自分の写真で、またもっとよく分かる
サイトから拝借の写真でご覧頂こうと思います。

たくさんの方が訪問し、たくさん書かれておりますので、皆さんにも
分かりやすいかとも思い、

ああ、あの酷い場所ね、知ってるよ、と放り出されぬ様にと、願っています。 


6月22日の朝8時に、クラコフの中央市場の有名ホテルの前で、
申し込んでいた、アウシュヴィッツ・ツァー、ホテル送迎、昼食付、の
お迎えに拾って貰い、

イタリアのアドリア海岸のカットーリカだったかな、からの4人組、姉妹の
母親とその娘10歳か11歳、と同乗し、アウシュヴィッツに向かいます。

クラクフを出て暫くすると、こんな感じの長閑な美しい風景が広がり、
様々な緑色の美しい事!

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クラクフからアウシュヴィッツの記念博物館に行くには、70km程の距離、
1時間半ほどかかり、

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途中は山の林の中か、という印象の細い道も通り、



遂に見えた標識、一番下に「アウシュヴィッツ博物館・2550m」と。

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近くには、マクドナルドの店も見えましたが!


上空からの「アウシュヴィッツ博物館」の眺め、ウィキペディアの写真
拝借で、いつの写真か分かりませんでしたが、

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今回行きましたら、前面部がかなりの整地、改装がされており、

一番手前に見える茶の大きな建物の前、駐車場との間に切符売り場や、
その奥に、切符と手荷物検査、本人確認、X線の通過アーチもあり、
そして駐車場の左側に新しい無料トイレも出来ておりました。

この辺り、ご一緒したミ~タさんのルポに写真もありますのでどうぞ。
2023年 ポーランド・ドイツ ちょっとヘヴィーな旅 その3


つまり、この掲示板の図に見える様に、赤印の自分の位置辺りで、
当日のガイドさんに出会い、挨拶し、建物を抜けると、
図の、その奥に、三角の矢印みたいなものが見えますね。

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そこがこんなトンネルとなっており、

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ここを抜けると、こういう感じで地上に出て行き、

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かっての強制収容所の建物群、に出会うという設定になっています。

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入り口がトンネルに、またはコンクリートの高く、狭い通路に、は、
トリエステのサン・サッバ強制絶滅収容所もその様になっていた事を
思い出しました。
イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461762321.html


大変綺麗に整備されており、広々とした土地に大きな木がたくさん、
赤いレンガ色の建物、と、
まるでかっての凄惨な場所だった思い込みのイメージを一掃する様で。


1940年6月14日

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1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し、僅か2週間だったかで
ポーランドは陥落しますが、

ドイツ軍は元々はポーランド軍の陸軍兵舎だったこの地の建物を接収、
捕虜収容所に変え、最初はポーランド人政治犯が殆んどであったのを、

1940年5月20日、ドイツ人犯罪者30人が職員として収容所に連れてこられ、
サディズムの評判が確立した収容所となり、

1940年6月14日、カトリック司祭やユダヤ人を含むポーランド人男性
政治犯728名が、最初の大量輸送として到着したのだそうで、

この日が、このアウシュヴィッツ強制収容所のいわば開設日だったと。

最後に読んだウィキペディアの英語版が、良い記事、改造から保護、の
印の付いた、大変詳細な記事で、日本語に翻訳出来ますから、ご一読を! 
Auschwitz concentration camp  


我らは他の参加者も加え12人となり、オーディオ装置が配られ、
聞きながら、いよいよ、かの有名なゲートに向かいます。

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ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)の門をくぐり、

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こんな風に煉瓦積みのしっかりした建物(見掛け)がきちんと並び、
道もちゃんと整備されている姿だけ見ると、「死の強制収容所」の
イメージからは遠く・・。

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ゲートを振り返り。 ぞろぞろと途切れずにたくさんのグループが
通り過ぎて行きますが、ちょうど誰もおらず。

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こちらがアウシュヴィッツの唯一の日本人のガイドである、中谷剛さんの
ガイドブックから拝借の、内部の地図。

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長さ約1000m、幅400mの囲まれた土地に、最初は22棟のレンガ造りの
建物で、その内の8棟は2階建てだったのが、
1943年に他の建物も2階建てとなり、新しい8つのブロックが追加建設に。

赤線で囲った場所の確認をどうぞ。  左上にある「所長住居」は
この収容所の所長であったルドルフ・ヘスが、家族と一緒に、
妻と5人の子と住んでいた家。



グーグル地図で上空から見るとこんな様子で、
四角くきちんと並んだ感じの建物・ブロックと、外側右上が
所長ヘス一家の住んでいた家。

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ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス
Rudolf Franz Ferdinand Höß 1901年11月25日 - 1947年4月16日

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アウシュヴィッツ強制収容所の所長、如何にも残酷で、人間ではない、
と表現している記事もあり、皆それぞれの感想を持たれると思いますが、

私は彼の妻についてあれこれ探し回って読み、ちょっと思惑が違った感じも
受けましたので、またご紹介を、と思います。



そして地図左上の赤い四角が、最初は強制収容所で無かったのが、
1942年5月に設置されたガス窯と焼却炉の位置。
そしてその横の小さな丸が、所長ルドルフ・ヘスが処刑された絞首台。



ゲートを入ってすぐ右側にあった写真で、アウシュヴィッツの音楽隊
朝労働に出かける囚人たちを行進曲で送り出し、帰りには迎えたと。

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行進曲は、囚人たちが歩調を合わせられるように、また数を数えやすく
する為だったそうで。  写真は1941年。

このアウシュヴィッツのオーケストラは男性だけですが、
ビルケナウ絶滅収容所には、女性のみのオーケストラがあったのも
知りました。
そのご案内もしないといけませんね。


上の内部地図に見える、「点呼広場」での様子。 描いたのは
収容されていた囚人で、解放後に描いたものと。

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下の説明文を全部撮っておらずで、見えるのは、グーグル・レンズに
よると、「収容所生活の苦痛の1つは点呼でした」 とあり、


毎朝男性受刑者は午前4時半、冬は1時間遅く、女性は
それより早く始まり、

ブロックの監督がゴングを鳴らし、洗面所とトイレを使わせ、
がトイレは不足、きれいな水も不足で、

朝はコーヒーの代替品、またはハーブティーが0、5リットルのみ。

2度目のゴングが点呼を告げ、囚人たちは外に10人の列に並び、
天候に関係なく、点呼のためにSSが来るのを待たねばならず、

看守の気分と逃走や処罰を招く様な出来事があったかどうかにより、
立っている時間が変わり、

手を頭の上に上げ1時間しゃがませられたり、殴打や拘束、
何度も数え直されたり。

そして漸くに点呼が済むと、囚人は5人並んで労働に出かけ、
通常11時間働き、夏には長く、冬は短く、休憩時間は無かった。

昼食は正午に4分の3リットルの水っぽいスープ、中には肉が週に4回、
野菜が、主にジャガイモとルタバガ・キャベツと蕪の仲間で、
ややいびつな形、が3回。

ルタバガ。 聞いた事が無く探し。

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2度目の点呼は夕方7時。 囚人は絞首刑か鞭打ちを受ける
可能性があり、
誰かが行方不明となった場合、見つかるか、不在理由が判明
するまで立ったまま。

1940年7月に一人が脱走した為に、点呼は19時間続いたと!

点呼の後にブロックに戻り、夕食はパン300g、多くの場合カビが生え、
大S1のチーズかマーマレード、あるいは25グラムのマーガリンかソーセージ。
 
大部分の囚人は、その一部を翌朝用にとって置いた、と。
重労働に従事する囚人には追加の食料も。

その後ユダヤ人でない限り、トイレの使用、郵便物も受け取れ、
自由時間が。

門限「夜の静寂」は9時のゴング。



こちらが我らのグループのガイド、マルゲリータさん。 

19-DSC00273_01_GF.jpg

イタリア語が大変見事で聞き取りやすく、良いガイドさんでした。
日本人ガイドの中谷さんも良くご存じで、お寿司をご馳走になったとか。

彼女になぜガイドに、と聞きましたら、2人の祖父がレジスタンスだった、と。


ポーランドの近世の歴史は、123年間に渡るロシア、プロシャ、
オーストリアの3分割で国の名が地図から消えた後、1918年漸くに独立
したと思う間もなく
ナチス・ドイツの占領下、続きソヴィエトの下にと続き、
現在の漸くの独立は1989年。

国名が地図から無くなったポーランドの人々の精神はどんなか、と
考えさせられましたが・・、
逆にイタリアは、アルプスで遮られた半島で本当に良かった!



アウシュヴィッツと、ビルケナウの関係図。 どちらも
ポーランド国立博物館、アウシュヴィッツ I、アウシュヴィッツ II 
とされており、

20-DSC00272_01_GF.jpg

車で10分もかからない様な位置ですが、元々のアウシュヴィッツは
強制収容所で、ガス窯が後に追加設置されたものでしが、
ビルケナウは、最初から「絶滅収容所」として建設されたのでした。


こうして「バラック4・絶滅」と示されたバラックから見学が始まります。

21-DSC00275_01_GF.jpg



が先にご説明すると、ガイド付きで見学したバラックは全部ではありませんで、
こちらは「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館の公式ガイドからの抜粋
からの地図で、この様に回る、という順番が一応決まっている様子。

21-mappa-campo-di-sterminio_GF.jpg


主な展示  見た場所を太字で
4 絶滅
5 犯罪の証拠
6 囚人の生活
7 住居と健康状態
11 「死のブロック」

博物館の最も重要な部分
a ガス室と火葬場 n 1
b 「死の壁」
c 「ジクロン B」倉庫と囚人から略奪された所持品
d 点呼広場、集団絞首台
e 収容所のキッチン
f 収容所長の家
g コマンドダントゥール
h 管理事務所 SS兵舎
i SS病院
j 政治部門 (ゲシュタポ収容所)
k SS 監視所および収容所所長室
l SS ガレージ
m 管理兵舎
n 収容所囚人受付棟
10 滅菌実験棟
19、20、21、28 囚人病院

これ以外に、13~27のバラックがヨーロッパ圏の国ごとの
展示室、となっている様子で、
その国からのグループには見せる、という事と。

イタリアから送られた囚人数7500人は他国に比し少なく、
特別な展示館は無く、

上で記した通りに、4,5,6,死の壁、絞首台、ガス室、火葬場
と見たのでしたが、

はぁ、正直、それで頭はいっぱいになりました。
この後ビルケナウもありましたし。


ここからの展示写真は、事柄がアウシュヴィッツII ビルケナウの写真も
一緒に展示されておりますが、

アウシュヴィッツが、いわばヨーロッパのちょうど真ん中にあり、
鉄道便も良く、各国からのユダヤ人の輸送貨車が直接に来れ、参集し、
こうしてユダヤ人絶滅作戦のシンボルになったと。

22-DSC00276_01_GF.jpg


こちらはここで絶滅させられた方々のお骨の一部が入れられた骨壺、
1940-1945 

23-DSC00278_01_GF.jpg

アウシュヴィッツI、IIで殺戮されたユダヤ人の数は未だに議論があるそうで。

様々な残った記録と、列車時刻表とを参照しての数は110万人程
あったろうというのが、大体認められている数と。
(済みません、数字の桁を間違えていたのを訂正しました!)

つまりヨーロッパ全体で消滅させられたユダヤ人600万人の内、
約6%がここアウシュヴィッツIとIIで亡くなったのですね。



写真の左上から右に、
ピティヴィエの通過キャンプ、1942年。  
ドランシーの通過収容所のユダヤ人、1942~1944年。 
地名はどちらもフランスと。

24-DSC00282_01_GF.jpg

左下 リッツマンシュタットのゲットー、1944 年
右下 テレージエンシュタット・ゲットーからのユダヤ人の国外追放、1943年



左上 テッサロニキ、1942 年 7 月。 
右上 ブダペストのゲットーへのユダヤ人の再定住、1944 年。

25-DSC00284_01_GF.jpg

左下 アムステルダムからウェスターボルク中継キャンプまで、1942年。
右下 ヴュルツブルクからのユダヤ人の国外追放、1942年から1944年。


クラコフのユダヤ人達の移動のさせられ方を読んだだけでも、あっちへ、こっちへ。
その度に環境、状況が悪くなり、国外追放なんぞとなると、
住んでいる国、都市から追放され、隣の国境は閉じられ入れて貰えない、
という悲惨な事もあった様で。



ここからは、アウシュヴィッツII ビルケナウの写真で、
ハンガリーからのユダヤ人の輸送の到着  1944年。

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アウシュヴィッツ II  ビルケナウ 1944 年。  選択の準備。

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アウシュヴィッツ II  ビルケナウ 1944年。 
ハンガリーから追放のユダヤ人の選択。

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アウシュヴィッツ II ビルケナウ 1944年。 選択後、死への道中。

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この子供達、お母さんに抱かれた赤ちゃんが・・。



アウシュヴィッツ II ビルケナウ 1944年。  選択後。

30-1-DSC00293_01_GF.jpg



これからの2枚は、レジスタンスを通して秘密に運び込まれたカメラで
写されたビルケナウの写真、

ビルケナウ 1944年。 ガス室に送られるユダヤ人女性。
戸外で衣類を脱いで、ガス室に。

30-2-DSC00294_01_GF.jpg



こちらは、大量のガス室での犠牲者を、戸外で焼却、1944年。

30-3-DSC00295_01_GF.jpg

上の2枚は勿論違法に撮られたもので、撮ったのはゾンダー・コマンド
呼ばれた特別部隊のユダヤ人

若く頑強なユダヤ人を特別に選び出し、ナチスは彼らに「遺体処理」を、
ガス室で殺害されたユダヤ人の死体処理をさせた、のでした。



これは「ブロック4・絶滅」の室内。

30-4-interno-blocco-4_GF.jpg

たくさんの見学者がおり、説明を聞きながら通り過ぎていくので、
左側の写真展示は見て撮りましたが、右側の展示は見ておりませんで。



外に出ると、例え目の前に高圧ヴォルトの電線が張られていても、ほっと一息。

今の平和な世の中でこんなに緑が綺麗だと、見て来た展示が如何にも遠く!

31-DSC00269_01_GF.jpg



続いて、「ブロック5・犯罪の物的証拠

32-DSC00302_01_GF.jpg



これはガス室がどの様な建設で、どの様に利用されたかという模型で、

上の説明は、 アウシュヴィッツ第2ビルケナル強制収容所、1943年3月から
1944年11月まで稼働したガス室と、第2火葬場の模型 とあり、

消毒とシラミ駆除、という口実で誘導し、脱衣させ、下のガス室に。

33-DSC00298_01_GF.jpg

左下は、ガス室と火葬場の平面図、 右の写真は、焼却窯が並びます。



ガス室の死者をエレベーターで上階に運び、そこでゾンダー・コマンド隊が
眼鏡、義肢を外し、女性の髪を刈り、宝石、指輪、金歯、詰め物を抜きとり、
それから遺体を焼却したのですね。

34-DSC00299_01_GF.jpg

収容所によっては、女性の髪を先に刈る所もありましたが、
アウシュヴィッツでは後に刈ったのだそう。



ガス室の天井上の小さな開口部から放り込まれたツィクロンB。

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白色粉状で、投げ込まれ空気に接すると即効性の致死性ガスに変わる、
元々は害虫駆除剤だったもので、
ガス室に詰め込まれた人間が亡くなるのに、通常10分から20分かかったと。



眼鏡のツル。

36-DSC00303_01_GF.jpg



カップ、食器類。 

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収容所の写真に写っている人々が、殆ど必ずカップを腰から下げており、
飢えに対しての恐れからと思われる姿に、shinkaiは喉が詰まります。



恐ろしい程の靴の山!! 赤い靴、女性用サンダルの元の持ち主は・・。

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後で届けるから、名前と住所をトランクに書くように、と貨車に乗り込む
前に言われたそうで・・。

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継ぎを当てた子供服、そしてヨレヨレの子供の靴。 肌着。 この子は・・。

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7トンとか8トンの、女性の髪の毛が、発送を待つ袋で発見されたそうで。

42-DSC00301_01_GF.jpg

女性の髪の毛の展示もありましたが、ここは写真禁止。 
三つ編みの金髪も見えましたっけ。 髪の毛は毛布やロープに。



夜のアウシュヴィッツ I の光景。  

44-2-IMG20230622130351_01_GF.jpg


写真も多く、酷い説明も多いので、n.1をここで終えますね。


酷い光景ですが、目を背けるのではなく、やはり知るべき、見るべき事と。

知る事により、自分の考えを定めることが出来ますし、
今後の自分の行方を、どの様に生きるかを探る事が出来ると。

上手く言えませんが、
観光地ではありませんので、単純に見に行くのではなく、
覚悟を決め、それなりに知ろうという気持ちで行くべき、と思ったのでした。


同じツァー参加となった、イタリア人母娘2組に、まだそんなに小さいのに
大丈夫ですか、と始まる前に尋ねましたら、

学校で「ホロコースト記念の日」の授業もあるし、大丈夫、との事で、
最後までしっかり小学校高学年の子が付いて来ておりました。

良かった、親子共に立派だ、と思った事でした。


*****

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・ サンタ・マリーア聖堂  クラコフ・ポーランド

クラコフの中央広場、中世から様々な市の取引で賑わい、
中央には織物会館と呼ばれる歴史ある大きな細長い建物が残る、
中央広場ですが、

その北東角に聳え立つ、2つの塔のサンタ・マリーア聖堂
今回のご案内です。

1-DSC00126_01_GF.jpg

情けない事に、左側の塔の先端がちょん切れており・・!
同じ構図で撮ったのがありませんで、ご容赦です。


これを撮ったのは、初日の午後チャルトリスキ博物館見学で
レオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱いた貴婦人」にお目通りし、

気分良く出て来た所で、この姉妹に手を振って貰い、

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一層気分良く、ミ~タさんと晩御飯はどこにしようか?と通りの
レストランのメニューを覗きながら中央広場に出て来て、

休憩しよう!と広場を眺める織物会館前に並ぶカフェのテーブルに。

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それぞれジュースとビールを頼み、ふっと後ろを見て気が付くと、
J.Noworolski・J.ノヴォロルスキーという店。

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アーチの下に見える1910年という通り、ここに当時現在の名のカフェが
オープンしたのだそうで。

クラクフのエリート層、芸術家、教授たちの間で人気が高まり、著名人の
たまり場となっていたのが、ナチス占領中に接収され、ドイツ人のみが
利用できる店に。

戦後はロシア共産主義により国有化され、名前も変わっていたのが、
共産主義崩壊後1992年に漸くに家族に返還され、今の姿。

という事で、まさにポーランドの変遷をそのまま辿った店なのでした。

ビールを注文するのに、大ジョッキだとxx値引き、と見たものの、
到底大を飲む程ではなく頼まなかったのが、
その後若いボーイさんが来て、大ジョッキだと‥、と勧めたのには
笑いましたっけ。 
何語だったのかも朧ですが、こういうのはちゃんと分るのが不思議!

今は朝食と、真夜中過ぎの食事が出来る様で、昼はカフェのみの様子!!



こちらが広場北側の建物の流れ。

5-DSC00176_01_GF.jpg


午後遅めの時間の太陽の下で気持ちよく休憩しながら、
あっ、まだ、サンタ・マリーア聖堂が開いている時間だね、と
気が付き、じゃぁ、行こう!と。


こちらが広場の北東隅に斜めに位置する聖堂の、ちょっと飛び出した
入り口ですが、

6-DSC00127_01_GF.jpg
       
   
扉を開け入りかけ、ミ~タさんが「この入り口は信者さん用」と言い、

そう、今回の2人の旅行で気が付いたのは、彼女は本当に予習が
素晴らしい方で、パッと入りかけ即気が付いた、というのもその一つ。


グーグル・マップで上からの写真を切りとったのでご説明すると、

7-s.m 1_GF.jpg

聖堂の広場側に入り口があり、一般観光客はこちら側に回り、張り出した
部分に扉が見えますね、 あそこから入ります。

で、入ると、切符を向かい側で買って来て、と言われ、はぁい、と、
建物自体が斜めになっている、聖堂入り口の真向かい辺りで切符を。

ついでにご説明すると、こちら側の右角の上、黒い屋根に塔のある部分が、
聖バルバラ教会

16世紀に教会でのお説教をドイツ語からポーランド語で、となり、
この時に来るクフのドイツ系の大きな共同体が、こちらの小さな
聖バルバラ教会に移したのだそうで。


で、こちらの入り口から聖堂内に。

8-sm 2_GF.jpg

入った途端に管理人らしい方が、日本人か? と聞いて来て、はい、と
いうと、何の言葉だったっけ、日本語で迎えてくれ・・!
ははぁ、団体の日本人観光客が教えたんだ、と想像を。



一廊式の細長い天井の高い聖堂で、長さ100m、幅約40m、高さ80m、
わぁお、と声が出る程のびっしりの装飾で、天井にも金の星が煌めき。

9-DSC00129_01_GF.jpg

中程に見えるのが、内陣との境で、十字架上のキリスト像が。



奥に見えるのが、有名なこの聖堂のお宝ファイト・シュートス・
Wita Stwoszaの祭壇画、木製彩色の15世紀後半のもの。

10-DSC00130_01_GF.jpg

この聖堂は「聖母被昇天教会」が正式名で、ポーランド・ゴシック様式の
建築物の好例なのだそうで、

元々の聖マリア聖堂は1221-22頃に設立され、13世紀に3度に
渡ってのモンゴル侵攻により破壊され、

その廃墟の上に1290-30年に再建され、1320年に聖別。

完全な再建は1355-65年で、内陣が伸ばされ、背の高い窓が出来、

1395-97年に、新しいヴォールト・穹窿と共に中央部分が完成。

が、1442年の大地震により、内陣、ヴォールトは崩壊、とあり、
現在のはその後の再建なのですね。

と次々に新しく姿が変わっていき、

15世紀に今も特徴ある姿を見せる2本の塔が出来、
高い81mの北塔が、街全体の監視塔、時計塔として、とは言え
時計は無く、

1時間毎にトランペットで知らせるヘイナウ・Hejnał と呼ばれる、
招集、知らせが行われ、

13世紀のモンゴル襲来で警笛を鳴らしていたラッパ兵が喉を射られ、
途中で中断、という逸話に従い現在も中断を、私めも聞きましたです。

重さ350kg、直径2,4mの金の王冠が尖塔上方に捧げられ、

低い方の塔は69mで、ルネッサンス様式の丸天井を持ち、
鐘楼として機能していると。



こちらは上の写真の、内陣との境の左手前に見えている説教壇。

11-DSC00143_01_GF.jpg


では後陣背後の見事なステンドグラスも気になるのですが、
徐々にお宝の祭壇画に近寄って頂き、

12-DSC00131_01_GF.jpg

13-1-DSC00149_01_GF.jpg

木彫刻、彩色、金メッキを施した5枚の木製パネル。 5枚とは、
翼の裏側に、キリストと聖母マリアの生涯の12の場面があるのだそう。

1489年に奉納された、高さ13m、幅11m、翼を広げた状態で、
と、この種の作品では中世の最大作品の1つだそうで。

中央下はマリア様が亡くなり、今、天上に昇天される所で、

中央上に、キリストとマリア様が天使達に囲まれており、



13-2-DSC00151_01_GF.jpg

ボケ写真ご容赦。 その中央枠上に、マリア様の戴冠場面、
周囲は聖人たち、という姿。



でshinkaiは、この中央のマリア様の姿、とりわけ手の表情に?!となり、
「昇天される所」とピンと来ず、執拗に撮っておりまして・・!

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でもこうして細部が見えると、衣服の襞の流れ、布の表情も見事ですし、
周囲の聖人達の手の表情、静脈がしっかり彫られているのにも感嘆!

マリア様の顔の右上のお髭も凄いですが、左上の、どなたかな、の
額にちょっぴり残った髪も可愛いでしょ?! はは。



こちらは左右の扉部分、左側の上から、受胎告知、生誕、3博士礼賛。

14-DSC00148_01_GF.jpg


右側上から、キリスト復活、キリスト昇天、聖霊降下。

15-DSC00150_01_GF.jpg

3本の、主としてシナノキの幹から彫られ、他はオーク材、背景は
カラマツ。

ファイト・シュートス(1447-1533 ニュールンベルク)がこの主祭壇の
制作でクラコフに呼ばれたのが1477年30歳の時!

途中短い中断を挟んだものの、約12年の歳月をかけて仕上げられ、
2000ギルダーを超える制作資金は、クラクフ市民が出資したそう。

ナチス・ドイツの占領下に、この祭壇画はドイツに持ち出されたものの
無傷で生き残り、1946年にポーランドに返還、
1957年に漸く聖マリア教会に戻されたのだそうで、良かった!


ファイト・シュートスの生涯について読みましたら、

16-1-Veit_Stoß.jpg

後年、詐欺的な債務者に騙され、請求書を偽造したのが発覚、
有罪判決を受け、頬に焼き印を押されたのだそうで、

この受けた恥辱は長年にわたり、芸術家の精神的、経済状態に
影響を及ぼした、とあります。

かなり激しい性格でもあったようですが、こういう事件は本当にお気の毒。


1518年になり、初めてニュルンベルクのサン・ロレンツォ教会の
受胎告知の記念碑群の彫刻を再開した、とあり、

16-2-Nürnberg_St_Lorenz_Veit_Stoß_Engelsgruß_GF.jpg

これ、素敵でしょう?!

クラクフの後、徐々に彼は自分のスタイルを和らげた、ともあるので、
不幸な事件の後、自分に折り合いをつけての新しいスタイルを
見つけていた事を願います。



こちらは元に戻り、クラクフのサンタ・マリーア教会の合唱団席と。

19-DSC00146_01_GF.jpg


内陣側から見る天上の煌びやかさ。

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パイプ・オルガン席。 この装飾もちょっと飛んでいる感じで・・。

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各時代の改装により、装飾のスタイルも違い、混然としているのが
面白くもあり、摩訶不思議な世界ともなり。

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こちらは脇の礼拝堂。 はい、クラコフ出身の教皇ヨハネ・パオロ2世様。

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こちらの装飾は、中央部の入り口を入った辺りと。

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という所で、聖堂を出て、こちらが上のグーグルの地図で書きました、
ドイツ系の住民たちが移ったという、お隣の聖バルバラ教会。

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中をちょっと覗き。 確かに小さく、でも明るいですね。

30-DSC00171_01_GF.jpg


これは聖堂横広場にあった、聖堂の模型で、

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別の日の朝、聖堂の背後を歩いた時の姿を。

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高い方の塔の尖塔部。

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そして中央広場から。

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中央入り口の上の、円筒部内のマリア像。 天井にもやはり金の星。

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こちらは、中央広場に面したお高いアパートにお泊りのミ~タさん
のお部屋に呼んで頂き、夜空の広場のあれこれを撮った時の1枚、

織物会館越しに見える、ライトアップされた2つの塔。

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*****


** 10月の広島個展のDMが出来ました! **

10月4日から9日までの、広島三越展のDMが出来上がりました。

39-広島DM-作品面_GF.jpg

印刷の色合いが少し暗くなった様でもありますが、

この夏の外のプール体操で、私め自身も真っ黒になっておりまして。

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どうぞお出かけ、ご高覧頂けます様、お願い申し上げると共に、

会場でお会いできる事を楽しみにしております。


*****

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・ バルバカン・要塞化された前哨基地 そして城壁 クラクフ

6月のポーランドはクラクフ旅行で関心を持って見て来たものを。
日本からはかなり遠い国でお出かけになるチャンスは余り多くない
だろうとも思われ、実際私めも同様でしたので、
自分なりにあれこれ調べ、纏めてご紹介をと思いますので、
宜しくお願い致しま~す。

まずは初日の午後、ダ・ヴィンチの作品を見に行った
チャルトリスキ博物館・Czartoryski近にある、

城壁外のバルバカン・Barbakan、街の北の要でした。

1-DSC00055_01_GF.jpg

クラクフのこのバルバカンは15世紀末に建設されたもので、
ヨーロッパでも数少なく残っているものの1つと。

13世紀に続けて起こったモンゴルの再襲撃、トルコの脅威
をも恐れ、街の防御強化の為の建設ですね。

直径25m、内径24,4mの円形を持ち、壁の厚さは3m以上、
円形と6角形の7つの塔が交互に配置されたゴシック様式。

背後の、街の防御壁の北のフロリアンスカ門を守るためで、
かっては長い「首」で繋がっており、このアーケードの上には内側の
貯蔵庫もあった様子。


実はモンゴル軍によるポーランド、いやヨーロッパ侵攻、というのに
取り分けこちらの歴史に弱いshinkaiはあれこれ読みながらも、
一度ではのみ込めずの苦戦で!

つまり1241年2月から始まったトゥルスクの戦い、3月18日に
フェルニクの戦い、4月9日にはレグニツァの戦い、といずれも完敗!

クラコフの街も包囲され焼き払われたのだそうで、

そしてなんとこれらの戦いの軍本隊は、ジンギス・カンの長男の
次男バトゥ、つまり孫、が率いていたそうで!

この戦いではモンゴル軍は占領せず、略奪して去った、というものの、
後の戦いでは2万人の捕虜を連れ去ったとかで、

いずれにしてもヨーロッパには大きな戦慄であったでしょうし、
これによって街の防御についての大きな転換があった様子。

英語ではバービカンと呼ぶようですが、地図にもBarbacanと
あるので、この言葉でご案内を。


地図でご覧の様に、クラコフの旧中心街を囲むプランティと呼ばれる
緑地公園がありますが、これがかっての街を囲む城壁跡で、

2-1-map 1_GF.jpg

上記のモンゴルを始め、トルコからの襲撃に対しての建設が
始まり、最終的に17世紀末には8つの街の門と(7門、というのも)
47の監視塔が!

が時代が下り、攻撃の武器も強大な力を持つ重火器に代わると、
古い薄い城壁の高さだけでは守り切れなくなり、
経済的にも維持するのが大変な重荷となり、
遂に19世紀初頭、城壁は解体されたのだそうで。


こちらがかっての街の防御壁の図で、真ん中に見える建物と塔は
旧市庁舎と塔で、ここも塔のみを残し、都市計画の一環として
1820年に取り壊しになったそうで。

2-2-DSC00067_01_01_GF.jpg 


今回ご紹介のバルバカンは、街の北を守る城壁から突き出した
前哨基地ですが、後には貴賓の街入場の儀式が行われる場所ともなり、
これを読んでいて、大変可笑しな逸話を思い出しましたので、後程。

街全体を囲む城壁の、かって8つ、または7つあった街の門
で現在唯一残るフロリアンスカ門・Floriańskaに続き、

これが先回も見て頂いた、街の中心広場のサンタ・マリーア聖堂
寄りから真っすぐ北に通じる、
13世紀からのフロリアンスカ通りの突き当りに見える門。

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一番下に小さく見えるアーチを通って出ると、今回のバルバカン。

4-Krakau_-_Barbakan_GF.jpg

shinkaiは、心急いでいたのか、斜め前からのこの様に前部を・
首、と呼ばれるかってはフロリアンスカ門に繋がる通路の一部を、
おまけに跳ね橋があったという入り口、堀にも目を止めておらず、

煉瓦壁が修復再築されたせいでしょう、余りにも新しく見え、それに
いささかがっかり、興味が半減された事もありご容赦。

何せイタリアで見る中世以降の物は、殆どがそのまま保存された
趣あるものが殆んどで、それに慣れてしまっており・・でして。



なので、後ろの半円形に突き出した部分の、東からの眺めは
こんな感じで、なかなかの趣あるのも見ておらず、・・くやちい、

5-Barbakan-WidokZUlicyBasztowej-POL,_Kraków_GF.jpg



古い絵葉書、1909年12月19日も見つかり、

6-19091219_krakow_rondel_i_brama_floryanska_GF.jpg

当時は市電も要塞の東側を通り、門のすぐ傍まで行ってたのですね。
1909年、というと、未だ第一次世界大戦も少し遠く、ヨーロッパは
平和時だったのでしょうか。



そして半円形に突き出した西側に、入り口・出口の門があり、
ここにも跳ね橋が架かりますが、現在はそのままの様ですね。

7-barbacana_GF.jpg



要塞内は、上部に上がるのはガイド付きで時間も決まっていますが、
1階内部を見るのは自由で、1人で見ながら写真を撮りましたが、

一階をぐるっと取り囲むアーチ内には、説明の図、絵が付いており、

こんな風にこの要塞の図で、街の城壁の周囲もめぐる堀、
塔の様子も分かりやすく、

8-1-DSC00061_01 - Copia_01_GF.jpg



城壁の右から2つの塔、そしてフロリアンスカ門、数字23の塔まで、
街の防御壁はこの部分200mのみが残されており、

上記の通り、フロリアンスカ門から今回のバルバカンに続く、
「首」と呼ばれる接続部は現在はありません。


で、ここは現在緑の公園を背景に、街中でたくさん見かける
2頭立て馬車の休憩所となっており、

8-2-DSC00052_01_GF.jpg

なぜか御者台にはお2人で、背後に乗り合い席が繋がる、という
ちょっと変わった仕立てでしたが、たくさん撮っていますので、
またご覧に。
で、お馬ちゃん達の毛並みも、色々な柄が多く・・。



こちらが入り口部から入って、北に向かっての位置で、

9-DSC00056_01_GF.jpg

左寄りの位置にすらっと明るく見えるのが、


これ、矢狭間というか、鉄砲打ちの為のスリット。

10-DSC00060_01_GF.jpg


入り口横から奥に。 で、上の写真にも見える門が、上の図で
見えた堀に掛かる橋の出入り口だったのですね。

11-DSC00057_01_GF.jpg

跳ね橋のかかる堀ですが、幅24m、深さ3,5mという、
本格的なものだった様子。



一番奥の北から逆に入り口方面を見た所。

12-1-DSC00065_01_GF.jpg


防御の要塞の内庭が、クラコフの街と国全体の重要な儀式に
用いられる意味を持つようになり、

国全体の重要な儀式、云々は、1596年にワルシャワに王宮邸が
移され、1611年に正式にポーランドの首都となる迄、
クラコフが国の首都だったからで、

この内庭で、教皇特使、将来の王の妻たちが厳かに歓迎され、
勝利を収めた指揮官の凱旋劇も行われ、

新君主の戴冠式はも少し北にあるサン・フロリアノ大学教会で
行われ、この中庭で市議会議員達に歓迎され、
フロリアンスカ通りには様々なギルド、同胞団、聖職者たちが集まり、
そこを通って君主の行列がヴァヴェル城迄向かったのだそう。

戴冠式はヴァヴェル城で、と書いたのもあり、その方が確かそうですが、

戴冠式(前)の要塞への入場は、フランス王子アンリ・ヴァロワ
Henry Valoisによって始まった、とあり、

あっ、あの王子だ、と思い出し、

フランス国王アンリ3世 (1551-1589) 

12-2--Quesnel_Henry_III_of_France_in_Polish_hat_GF.jpg

この方はアンリ2世と、イタリアからお輿入れのカテリーナ・ド・
メディシスの4男として生まれたものの、次々に兄の国王継承者が
亡くなり、

ポーランド国王に選ばれて行き、戴冠式も行ったものの、じきに
上の兄が亡くなった知らせを受け、夜中に逃げ出しフランスに帰った、
という方で、

短いポーランド国王様でしたが、こちらに詳細を。
ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html


左側に見える小さなアーチ、そして通り抜けのどちら部分にも
階段が見え、上階との連絡部と。

この階段ですね。 ここの段石は綺麗に大きさも揃ってますが、

13-Barbakan-KlatkaSchodowaNaBalkon-POL,_Kraków_GF.jpg

思い出したのが、中心広場で頑張って上った市庁舎の塔は、
今迄経験した事がない程のめちゃくちゃに段の高さ、広さが違う
石段で出来ており、

横に鉄鎖が付いているのが、やれやれ!という酷い階段で、
若い男の子が目の前でつまづいたり! ははは、
何せ13世紀末の建設だもんなぁ、と。 またのご案内をお楽しみに!



こちらは上階の兵士のパトロール窓。

14-Barbakan-PrzejścieWKrenelażu-POL,_Kraków_GF.jpg


そして上の図のご説明で、現在は200mほどの城壁と、3つの塔、
1つの門が残っていると書きましたが、

フロリアンスカ門の西側を、城壁内側から見るとこんな様子で、

15-due torri_GF.jpg

手前側が家具職人の塔で、奥にちょっと見える塔が大工の塔

塔の名前の由来は、街の防御は市民達の各ギルドに任されており、
それにより尚のこと責任感が増したのだろうと。


城壁にある各塔の間隔は約50mと言い、これは矢が届く距離、
から出ているのだそうで。


この部分の塔の前には建物があるので見えにくいですが、背後の
公園部から撮った写真が見つかりましたので、

こちらがフロリアンスカ門に寄った家具職人の塔で、

16-torre interno_GF.jpg


右横から始まり、大工の塔の左に迄延びている建物は、アルセナーレ
市の武器庫、16世紀の建設で、現在は博物館に。

武器庫の1階にはいわゆる大砲とか銃の武器が置かれ、火薬は
深い地下倉庫に保管されていたそう。
幸いにも地下の火薬庫は19世紀の城壁破壊から無傷で姿を現し、
博物館目的とし、王家のチャルトリスキ王子に寄贈したのだそうで、

グーグル地図の武器庫にポイントを合わせると、確かに博物館で見た
像や壺が見え、謎が解けた事でした。


そして殆どアルセナーレの壁に隠れた「大工の塔

17-torre e arsenale_GF.jpg



そしてフロリアンスカ門から続く、内側の城壁の道。 見学で上がれる様子。

18-muralla-cracovia-interior_GF.jpg

良く似た城壁の見張りの道に上がった事があり、
グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.2

グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.1 



そしてフロリアンスカ門の東にもう一つ残っている塔は、こちら、
小間物商のギルド、だそう。

19-muralla-cracovia_GF.jpg

最初は靴職人、そして通行人のギルドに、とあり、一瞬?でしたが、
案外街に出入りする商人達からの通行料徴収かな、と。



そして門が、正しくは門の跡が残っている、として分かったのが、

上に載せたクラクフの地図、東のプランティの中ほどに書き込んだ
肉屋の」というのがあり、

20- 154924_GF.jpg

現在は[ドメニカーノ会派姉妹修道院」とでも呼ぶのか、
その修道院の壁に組み込まれているのだそうで。



古都として栄えたものの、近代に何とも残酷な歴史に見舞われたポーランド、
そしてクラコフですが、歴史を少し探ろうと思うと、とても深く深く・・、
今回は少々頭の体操に疲れましたぁ。 ああ、年だぁ!

21-cracovia-posti-curiosi_GF.jpg


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