・ n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産

失礼し、 まず10月4日から9日まで開催の広島三越での
個展の御案内を見てやって下さいませ。

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私めは29日にヴェネツィアを発ち、日本に参りますので、
会場で皆様にお目に掛かれるのを楽しみにしております。

出品作の様子は絵のブログの方でご覧頂ける様、このページの下から
リンクしておりますので、よろしくお願い致します!

 
*****

6月中旬にかねてからの念願、まさに50年以上の願いであった
アウシュヴィッツ訪問が出来ました。

博物館も土地も、少し整備され過ぎかも、という感想は持ちましたが、
やはり現場を見て、その空気の中で説明を受ける、のは大変に重く・・。

出かける前から、戻ってからも、そして今もブログに書く為に、あれこれ
何度も様々なサイト資料や本を読み続けております。

なぜなら、余りにも大きく酷い酷い悲惨さで、自分流の考えでは到底
追いつけない、なんでそんな事が?!という事ばかりで、

ちょっとやそっとでは咀嚼できず、かといって放り出すことも出来ず、
知れば知る程に、新しい資料と巡り合い、終わりが見えない状態で・・。


いずれにしても、見て来た事を自分の写真で、またもっとよく分かる
サイトから拝借の写真でご覧頂こうと思います。

たくさんの方が訪問し、たくさん書かれておりますので、皆さんにも
分かりやすいかとも思い、

ああ、あの酷い場所ね、知ってるよ、と放り出されぬ様にと、願っています。 


6月22日の朝8時に、クラコフの中央市場の有名ホテルの前で、
申し込んでいた、アウシュヴィッツ・ツァー、ホテル送迎、昼食付、の
お迎えに拾って貰い、

イタリアのアドリア海岸のカットーリカだったかな、からの4人組、姉妹の
母親とその娘10歳か11歳、と同乗し、アウシュヴィッツに向かいます。

クラクフを出て暫くすると、こんな感じの長閑な美しい風景が広がり、
様々な緑色の美しい事!

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クラクフからアウシュヴィッツの記念博物館に行くには、70km程の距離、
1時間半ほどかかり、

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途中は山の林の中か、という印象の細い道も通り、



遂に見えた標識、一番下に「アウシュヴィッツ博物館・2550m」と。

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近くには、マクドナルドの店も見えましたが!


上空からの「アウシュヴィッツ博物館」の眺め、ウィキペディアの写真
拝借で、いつの写真か分かりませんでしたが、

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今回行きましたら、前面部がかなりの整地、改装がされており、

一番手前に見える茶の大きな建物の前、駐車場との間に切符売り場や、
その奥に、切符と手荷物検査、本人確認、X線の通過アーチもあり、
そして駐車場の左側に新しい無料トイレも出来ておりました。

この辺り、ご一緒したミ~タさんのルポに写真もありますのでどうぞ。
2023年 ポーランド・ドイツ ちょっとヘヴィーな旅 その3


つまり、この掲示板の図に見える様に、赤印の自分の位置辺りで、
当日のガイドさんに出会い、挨拶し、建物を抜けると、
図の、その奥に、三角の矢印みたいなものが見えますね。

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そこがこんなトンネルとなっており、

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ここを抜けると、こういう感じで地上に出て行き、

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かっての強制収容所の建物群、に出会うという設定になっています。

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入り口がトンネルに、またはコンクリートの高く、狭い通路に、は、
トリエステのサン・サッバ強制絶滅収容所もその様になっていた事を
思い出しました。
イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461762321.html


大変綺麗に整備されており、広々とした土地に大きな木がたくさん、
赤いレンガ色の建物、と、
まるでかっての凄惨な場所だった思い込みのイメージを一掃する様で。


1940年6月14日

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1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し、僅か2週間だったかで
ポーランドは陥落しますが、

ドイツ軍は元々はポーランド軍の陸軍兵舎だったこの地の建物を接収、
捕虜収容所に変え、最初はポーランド人政治犯が殆んどであったのを、

1940年5月20日、ドイツ人犯罪者30人が職員として収容所に連れてこられ、
サディズムの評判が確立した収容所となり、

1940年6月14日、カトリック司祭やユダヤ人を含むポーランド人男性
政治犯728名が、最初の大量輸送として到着したのだそうで、

この日が、このアウシュヴィッツ強制収容所のいわば開設日だったと。

最後に読んだウィキペディアの英語版が、良い記事、改造から保護、の
印の付いた、大変詳細な記事で、日本語に翻訳出来ますから、ご一読を! 
Auschwitz concentration camp  


我らは他の参加者も加え12人となり、オーディオ装置が配られ、
聞きながら、いよいよ、かの有名なゲートに向かいます。

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ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)の門をくぐり、

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こんな風に煉瓦積みのしっかりした建物(見掛け)がきちんと並び、
道もちゃんと整備されている姿だけ見ると、「死の強制収容所」の
イメージからは遠く・・。

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ゲートを振り返り。 ぞろぞろと途切れずにたくさんのグループが
通り過ぎて行きますが、ちょうど誰もおらず。

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こちらがアウシュヴィッツの唯一の日本人のガイドである、中谷剛さんの
ガイドブックから拝借の、内部の地図。

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長さ約1000m、幅400mの囲まれた土地に、最初は22棟のレンガ造りの
建物で、その内の8棟は2階建てだったのが、
1943年に他の建物も2階建てとなり、新しい8つのブロックが追加建設に。

赤線で囲った場所の確認をどうぞ。  左上にある「所長住居」は
この収容所の所長であったルドルフ・ヘスが、家族と一緒に、
妻と5人の子と住んでいた家。



グーグル地図で上空から見るとこんな様子で、
四角くきちんと並んだ感じの建物・ブロックと、外側右上が
所長ヘス一家の住んでいた家。

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ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス
Rudolf Franz Ferdinand Höß 1901年11月25日 - 1947年4月16日

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アウシュヴィッツ強制収容所の所長、如何にも残酷で、人間ではない、
と表現している記事もあり、皆それぞれの感想を持たれると思いますが、

私は彼の妻についてあれこれ探し回って読み、ちょっと思惑が違った感じも
受けましたので、またご紹介を、と思います。



そして地図左上の赤い四角が、最初は強制収容所で無かったのが、
1942年5月に設置されたガス窯と焼却炉の位置。
そしてその横の小さな丸が、所長ルドルフ・ヘスが処刑された絞首台。



ゲートを入ってすぐ右側にあった写真で、アウシュヴィッツの音楽隊
朝労働に出かける囚人たちを行進曲で送り出し、帰りには迎えたと。

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行進曲は、囚人たちが歩調を合わせられるように、また数を数えやすく
する為だったそうで。  写真は1941年。

このアウシュヴィッツのオーケストラは男性だけですが、
ビルケナウ絶滅収容所には、女性のみのオーケストラがあったのも
知りました。
そのご案内もしないといけませんね。


上の内部地図に見える、「点呼広場」での様子。 描いたのは
収容されていた囚人で、解放後に描いたものと。

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下の説明文を全部撮っておらずで、見えるのは、グーグル・レンズに
よると、「収容所生活の苦痛の1つは点呼でした」 とあり、


毎朝男性受刑者は午前4時半、冬は1時間遅く、女性は
それより早く始まり、

ブロックの監督がゴングを鳴らし、洗面所とトイレを使わせ、
がトイレは不足、きれいな水も不足で、

朝はコーヒーの代替品、またはハーブティーが0、5リットルのみ。

2度目のゴングが点呼を告げ、囚人たちは外に10人の列に並び、
天候に関係なく、点呼のためにSSが来るのを待たねばならず、

看守の気分と逃走や処罰を招く様な出来事があったかどうかにより、
立っている時間が変わり、

手を頭の上に上げ1時間しゃがませられたり、殴打や拘束、
何度も数え直されたり。

そして漸くに点呼が済むと、囚人は5人並んで労働に出かけ、
通常11時間働き、夏には長く、冬は短く、休憩時間は無かった。

昼食は正午に4分の3リットルの水っぽいスープ、中には肉が週に4回、
野菜が、主にジャガイモとルタバガ・キャベツと蕪の仲間で、
ややいびつな形、が3回。

ルタバガ。 聞いた事が無く探し。

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2度目の点呼は夕方7時。 囚人は絞首刑か鞭打ちを受ける
可能性があり、
誰かが行方不明となった場合、見つかるか、不在理由が判明
するまで立ったまま。

1940年7月に一人が脱走した為に、点呼は19時間続いたと!

点呼の後にブロックに戻り、夕食はパン300g、多くの場合カビが生え、
大S1のチーズかマーマレード、あるいは25グラムのマーガリンかソーセージ。
 
大部分の囚人は、その一部を翌朝用にとって置いた、と。
重労働に従事する囚人には追加の食料も。

その後ユダヤ人でない限り、トイレの使用、郵便物も受け取れ、
自由時間が。

門限「夜の静寂」は9時のゴング。



こちらが我らのグループのガイド、マルゲリータさん。 

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イタリア語が大変見事で聞き取りやすく、良いガイドさんでした。
日本人ガイドの中谷さんも良くご存じで、お寿司をご馳走になったとか。

彼女になぜガイドに、と聞きましたら、2人の祖父がレジスタンスだった、と。


ポーランドの近世の歴史は、123年間に渡るロシア、プロシャ、
オーストリアの3分割で国の名が地図から消えた後、1918年漸くに独立
したと思う間もなく
ナチス・ドイツの占領下、続きソヴィエトの下にと続き、
現在の漸くの独立は1989年。

国名が地図から無くなったポーランドの人々の精神はどんなか、と
考えさせられましたが・・、
逆にイタリアは、アルプスで遮られた半島で本当に良かった!



アウシュヴィッツと、ビルケナウの関係図。 どちらも
ポーランド国立博物館、アウシュヴィッツ I、アウシュヴィッツ II 
とされており、

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車で10分もかからない様な位置ですが、元々のアウシュヴィッツは
強制収容所で、ガス窯が後に追加設置されたものでしが、
ビルケナウは、最初から「絶滅収容所」として建設されたのでした。


こうして「バラック4・絶滅」と示されたバラックから見学が始まります。

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が先にご説明すると、ガイド付きで見学したバラックは全部ではありませんで、
こちらは「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館の公式ガイドからの抜粋
からの地図で、この様に回る、という順番が一応決まっている様子。

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主な展示  見た場所を太字で
4 絶滅
5 犯罪の証拠
6 囚人の生活
7 住居と健康状態
11 「死のブロック」

博物館の最も重要な部分
a ガス室と火葬場 n 1
b 「死の壁」
c 「ジクロン B」倉庫と囚人から略奪された所持品
d 点呼広場、集団絞首台
e 収容所のキッチン
f 収容所長の家
g コマンドダントゥール
h 管理事務所 SS兵舎
i SS病院
j 政治部門 (ゲシュタポ収容所)
k SS 監視所および収容所所長室
l SS ガレージ
m 管理兵舎
n 収容所囚人受付棟
10 滅菌実験棟
19、20、21、28 囚人病院

これ以外に、13~27のバラックがヨーロッパ圏の国ごとの
展示室、となっている様子で、
その国からのグループには見せる、という事と。

イタリアから送られた囚人数7500人は他国に比し少なく、
特別な展示館は無く、

上で記した通りに、4,5,6,死の壁、絞首台、ガス室、火葬場
と見たのでしたが、

はぁ、正直、それで頭はいっぱいになりました。
この後ビルケナウもありましたし。


ここからの展示写真は、事柄がアウシュヴィッツII ビルケナウの写真も
一緒に展示されておりますが、

アウシュヴィッツが、いわばヨーロッパのちょうど真ん中にあり、
鉄道便も良く、各国からのユダヤ人の輸送貨車が直接に来れ、参集し、
こうしてユダヤ人絶滅作戦のシンボルになったと。

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こちらはここで絶滅させられた方々のお骨の一部が入れられた骨壺、
1940-1945 

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アウシュヴィッツI、IIで殺戮されたユダヤ人の数は未だに議論があるそうで。

様々な残った記録と、列車時刻表とを参照しての数は110万人程
あったろうというのが、大体認められている数と。
(済みません、数字の桁を間違えていたのを訂正しました!)

つまりヨーロッパ全体で消滅させられたユダヤ人600万人の内、
約6%がここアウシュヴィッツIとIIで亡くなったのですね。



写真の左上から右に、
ピティヴィエの通過キャンプ、1942年。  
ドランシーの通過収容所のユダヤ人、1942~1944年。 
地名はどちらもフランスと。

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左下 リッツマンシュタットのゲットー、1944 年
右下 テレージエンシュタット・ゲットーからのユダヤ人の国外追放、1943年



左上 テッサロニキ、1942 年 7 月。 
右上 ブダペストのゲットーへのユダヤ人の再定住、1944 年。

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左下 アムステルダムからウェスターボルク中継キャンプまで、1942年。
右下 ヴュルツブルクからのユダヤ人の国外追放、1942年から1944年。


クラコフのユダヤ人達の移動のさせられ方を読んだだけでも、あっちへ、こっちへ。
その度に環境、状況が悪くなり、国外追放なんぞとなると、
住んでいる国、都市から追放され、隣の国境は閉じられ入れて貰えない、
という悲惨な事もあった様で。



ここからは、アウシュヴィッツII ビルケナウの写真で、
ハンガリーからのユダヤ人の輸送の到着  1944年。

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アウシュヴィッツ II  ビルケナウ 1944 年。  選択の準備。

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アウシュヴィッツ II  ビルケナウ 1944年。 
ハンガリーから追放のユダヤ人の選択。

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アウシュヴィッツ II ビルケナウ 1944年。 選択後、死への道中。

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この子供達、お母さんに抱かれた赤ちゃんが・・。



アウシュヴィッツ II ビルケナウ 1944年。  選択後。

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これからの2枚は、レジスタンスを通して秘密に運び込まれたカメラで
写されたビルケナウの写真、

ビルケナウ 1944年。 ガス室に送られるユダヤ人女性。
戸外で衣類を脱いで、ガス室に。

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こちらは、大量のガス室での犠牲者を、戸外で焼却、1944年。

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上の2枚は勿論違法に撮られたもので、撮ったのはゾンダー・コマンド
呼ばれた特別部隊のユダヤ人

若く頑強なユダヤ人を特別に選び出し、ナチスは彼らに「遺体処理」を、
ガス室で殺害されたユダヤ人の死体処理をさせた、のでした。



これは「ブロック4・絶滅」の室内。

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たくさんの見学者がおり、説明を聞きながら通り過ぎていくので、
左側の写真展示は見て撮りましたが、右側の展示は見ておりませんで。



外に出ると、例え目の前に高圧ヴォルトの電線が張られていても、ほっと一息。

今の平和な世の中でこんなに緑が綺麗だと、見て来た展示が如何にも遠く!

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続いて、「ブロック5・犯罪の物的証拠

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これはガス室がどの様な建設で、どの様に利用されたかという模型で、

上の説明は、 アウシュヴィッツ第2ビルケナル強制収容所、1943年3月から
1944年11月まで稼働したガス室と、第2火葬場の模型 とあり、

消毒とシラミ駆除、という口実で誘導し、脱衣させ、下のガス室に。

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左下は、ガス室と火葬場の平面図、 右の写真は、焼却窯が並びます。



ガス室の死者をエレベーターで上階に運び、そこでゾンダー・コマンド隊が
眼鏡、義肢を外し、女性の髪を刈り、宝石、指輪、金歯、詰め物を抜きとり、
それから遺体を焼却したのですね。

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収容所によっては、女性の髪を先に刈る所もありましたが、
アウシュヴィッツでは後に刈ったのだそう。



ガス室の天井上の小さな開口部から放り込まれたツィクロンB。

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白色粉状で、投げ込まれ空気に接すると即効性の致死性ガスに変わる、
元々は害虫駆除剤だったもので、
ガス室に詰め込まれた人間が亡くなるのに、通常10分から20分かかったと。



眼鏡のツル。

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カップ、食器類。 

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収容所の写真に写っている人々が、殆ど必ずカップを腰から下げており、
飢えに対しての恐れからと思われる姿に、shinkaiは喉が詰まります。



恐ろしい程の靴の山!! 赤い靴、女性用サンダルの元の持ち主は・・。

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後で届けるから、名前と住所をトランクに書くように、と貨車に乗り込む
前に言われたそうで・・。

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継ぎを当てた子供服、そしてヨレヨレの子供の靴。 肌着。 この子は・・。

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7トンとか8トンの、女性の髪の毛が、発送を待つ袋で発見されたそうで。

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女性の髪の毛の展示もありましたが、ここは写真禁止。 
三つ編みの金髪も見えましたっけ。 髪の毛は毛布やロープに。



夜のアウシュヴィッツ I の光景。  

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写真も多く、酷い説明も多いので、n.1をここで終えますね。


酷い光景ですが、目を背けるのではなく、やはり知るべき、見るべき事と。

知る事により、自分の考えを定めることが出来ますし、
今後の自分の行方を、どの様に生きるかを探る事が出来ると。

上手く言えませんが、
観光地ではありませんので、単純に見に行くのではなく、
覚悟を決め、それなりに知ろうという気持ちで行くべき、と思ったのでした。


同じツァー参加となった、イタリア人母娘2組に、まだそんなに小さいのに
大丈夫ですか、と始まる前に尋ねましたら、

学校で「ホロコースト記念の日」の授業もあるし、大丈夫、との事で、
最後までしっかり小学校高学年の子が付いて来ておりました。

良かった、親子共に立派だ、と思った事でした。


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