未だ「奈良・斑鳩の里」の写真整理が済んでおらず、暫く放浪の旅に、
いゃ、いぇ、ちょっと話題を変えさせて頂きます、へへ。
いゃ、いぇ、ちょっと話題を変えさせて頂きます、へへ。
ええと、実は レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」の時に、
作品背景の黒塗りや、髪に掛けたヴェールの塗り直し、などの点から
モデルのチェチーリア・ガッレラーニの髪型が気になり調べました。
モデルのチェチーリア・ガッレラーニの髪型が気になり調べました。
ミラノではコアッツォーネ・coazzone、コアゾンと呼ばれる髪型で、
カタルーニャ三つ編み、またはスペイン三つ編みとしても知られ、
カタルーニャ三つ編み、またはスペイン三つ編みとしても知られ、
15世紀末の四半世紀のロンバルディア州、ミラノの貴族女性、
またその発祥の元であるスペインに於いて、
非常に人気があった髪型だった事を知りました。
またその発祥の元であるスペインに於いて、
非常に人気があった髪型だった事を知りました。
ですが改めて読んでみると、髪を真ん中から分けて後頭部で纏め、
三つ編みにして背中に垂らす、のではなく、
つまり本物の三つ編みではなく、後頭部で纏め、通常は色付き、
または黒のリボンを巻き付け一連のXを作って出来た尻尾で、
最後を閉じた髪型、と知りました。
または黒のリボンを巻き付け一連のXを作って出来た尻尾で、
最後を閉じた髪型、と知りました。
その説明がよく分かるのが、このジャン・クリストフォロ・ロマーノ・
Gian Cristofolo Romano(1456-1512)の作った
ベアトリーチェ・デステ・Beatrice Deste(1475-1497)像。
フェッラーラ生まれ、16歳でミラノ公爵ルドヴィーコ・スフォルツァ、
イル・モーロ・生来の色黒からムーア人という仇名の持ち主、と結婚。
イル・モーロ・生来の色黒からムーア人という仇名の持ち主、と結婚。
短い結婚生活の後、21歳で亡くなった彼女の胸像(1485-90)で、
側面の様子から
真ん中で分け背後で纏め、後頭部に帽子を置き、
レンザ・lenza、またはスレンザ・slenzaと呼ばれる額を囲む
薄い絹のリボンで留められ、額にはしばしば真珠や宝石が。
レンザ・lenza、またはスレンザ・slenzaと呼ばれる額を囲む
薄い絹のリボンで留められ、額にはしばしば真珠や宝石が。
この像と、こちら1494年とある細密画に描かれた肖像に見える、
頬に掛かる巻き毛は、ベアトリーチェの考案と。
頬に掛かる巻き毛は、ベアトリーチェの考案と。
メダルに見える別の彼女のコアゾンは、額のカールした髪型も。
こちらは背後の様子で、後頭部で纏めた髪を纏め、X状にリボンを
巻きつけて尻尾にしているのも良く分かりますね。
巻きつけて尻尾にしているのも良く分かりますね。
同じ髪型のバリエーションとしては、トレンツァーレ・trenzale、
またはトリンツァート・trinzatoと呼ばれる軽い布地で包まれ、
首筋から毛先迄を覆い、しばしば真珠の紐で結ばれたそうで。
またはトリンツァート・trinzatoと呼ばれる軽い布地で包まれ、
首筋から毛先迄を覆い、しばしば真珠の紐で結ばれたそうで。
もう一度、レオナルド描いたチェチーリア・ガッレラーニの肖像、
髪型がよく見えるのを見つけました。
髪型がよく見えるのを見つけました。
後頭部の帽子を押さえる黒色のレンザ・紐は分かりますが、その下に
眉に触れる位置に金色の刺繍が見えますね。
これが彼女の場合、非常に薄い透明な帽子のベールが
後頭部を覆い、上部の黒いレンザで結ばれているのだそうで、
後頭部を覆い、上部の黒いレンザで結ばれているのだそうで、
実際頭頂部には中程で区切りが見えますし、
半分の手前側の髪の毛は顎の下を通っている事も見えますが、
これは当時大変独創的なものだった、と。
これは当時大変独創的なものだった、と。
となると、ドラクロアでしたっけ、背景を黒色に替え、髪の上に
グレイで大雑把にベールを描いた後世の修正は、
頬に掛かる部分の髪にもザっと塗っており、金色の刺繍の紐跡が
斜めにうっすらと見えますし、
当時の女性の髪型について知らなかった、のでしょうね、
斜めにうっすらと見えますし、
当時の女性の髪型について知らなかった、のでしょうね、
という事で、最初にこの絵について書いた時以来疑問だった点も、
漸くに納得したのでありましたぁ。
漸くに納得したのでありましたぁ。
蛇足ながら付け加えると、主人公の向かって右側の肩に掛かる
ブルーの絹薄物は、スベルニア・sberniaという、元々アラブの
女性の薄い羽織りもの、
ブルーの絹薄物は、スベルニア・sberniaという、元々アラブの
女性の薄い羽織りもの、
レオナルド様は、絵の焦点が複雑になり過ぎるのを避け、
通常両肩に、というのを簡略化したのだそうで。
通常両肩に、というのを簡略化したのだそうで。
15世紀:「白貂を持つ貴婦人」の美しい髪型
‘400: la Bella Acconciatura della “Dama con l’Ermellino”
‘400: la Bella Acconciatura della “Dama con l’Ermellino”
という所で、この15世紀四半世紀後半に大変人気のあった髪型で
現在も肖像画に残る美しい女性達の様子をご覧頂きますね。
後頭部の小さな帽子を押さえる為の額の紐、多くは宝石などが
付いた高価な紐は、当初はレンザ、スレンザ、と呼ばれていたのが、
時代が下がるにつれ、フェッロニエーレ・ferroniere、と呼ばれ、
多分フェッロ・鉄、金属が含まれるので、金属製の鎖となったと推測を。
ダ・ヴィンチ描くこの有名作品(1490-1497・ルーヴル蔵)は伝統的に
「ラ・ベル・フェロニエール」と言う名で知られており、
以前は直訳し「金物商人の美しい妻」とも! これは18世紀後半の
目録制作時の間違いで。
目録制作時の間違いで。
で、こちらにご親切に集めて頂いた写真があり! 横顔のみで
誰かすぐ分かる女性は何人?というクイズにもなりそうで、ははは。
誰かすぐ分かる女性は何人?というクイズにもなりそうで、ははは。
「ラ・ベル・フェロニエール」は上から2段目の左に。
この女性に大もてとなった髪型はいつ、どこから、となりますが、
勿論元々はスペイン宮廷で盛んだったのが、おそらく1477年に
当時スペイン領であったナポリに、と。
当時スペイン領であったナポリに、と。
というのも、この年ナポリのアラゴン王フェッランテ・Ferrante d'Aragona
と結婚したジョヴァンナ・ダラゴーナ・Giovanna d'Aragona、
正確にはジョヴァンナ・ディ・タラスタマーラGiovanna di Trastámara
(1455-1517)
と結婚したジョヴァンナ・ダラゴーナ・Giovanna d'Aragona、
正確にはジョヴァンナ・ディ・タラスタマーラGiovanna di Trastámara
(1455-1517)
というのですが、彼女の肖像画が見つからず。
近い時代に何人もの「ジョヴァンナ・スペイン読みでファナ」がおられ・・!
で、この新女王は生涯通じて自国の流行に合わせた服装をし続け、
ナポリにもその流行を広めるのを好んだ、と言い、
ナポリにもその流行を広めるのを好んだ、と言い、
まぁ、既にナポリは1442年にアルフォンソ5世により征服されており、
スペインの習慣が色濃く染み込んでいた都市であり、
スペインの習慣が色濃く染み込んでいた都市であり、
コアッツォーネ・コアゾンは、その後イタリア半島の他の様々な地域に
広く拡散していった様子です。
ミラノでは1488年、ナポリ王フェッランテの姪であるアラゴンの
イザベッラ・Isabella d'Aragona(1470-1524)が、
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ公爵・Gian Galeazzo Sforza
(1469-1494)と結婚。
(1469-1494)と結婚。
彼はメダルでも分かる様に、大変優雅で美しい男性だった様で、
でも政治にはあまり関心がなく、
でも政治にはあまり関心がなく、
7歳にして父ガレアッツォ・マリーアを暗殺され、一旦は母親ボナの
摂政の元に第6代ミラノ公となったものの、
摂政の元に第6代ミラノ公となったものの、
1480年には叔父のルドヴィーコ・イル・モーロに牛耳られ、叔父が
摂政となり、実質的なミラノ公に。
摂政となり、実質的なミラノ公に。
イザベッラ・ダラゴーナとの結婚も余り上手く行かなかった様子ですが、
跡継ぎは残し、25歳であれこれ不審な死を。
跡継ぎは残し、25歳であれこれ不審な死を。
で、イザベッラはかなり強烈な性格で権力欲も強かった様ですが、
夫の叔父で摂政イル・モーロの若き愛人チェチーリア・ガッレラーニを
気に入り、彼女にカタルーニャ風の衣装を贈った事が、
エステ家の大使トロッティの年代記に記されているそうで。
気に入り、彼女にカタルーニャ風の衣装を贈った事が、
エステ家の大使トロッティの年代記に記されているそうで。
となると、チェチーリアが髪型もスペイン風にコアッツォーネに
結ったのは、確かにレオナルドの肖像画に残る通り、となりますね。
そして文字通りコアッツォーネがミラノで流行となったのは、
1941年1月にフェッラーラのエステ家からルドヴィーコ・イル・モーロに
お輿入れのベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Este(1475-1497)
がやって来て以来。
お輿入れのベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Este(1475-1497)
がやって来て以来。
ベアトゥリーチェはフェッラーラで、エルコレ1世とエレオノーラ・
ダラゴーネの間に生まれたものの、幼い時期の8年間を母親の郷ナポリで、
祖父のフェッランテに育てられ、養子縁組も。
祖父のフェッランテに育てられ、養子縁組も。
ジャン・ガレアッツォと結婚したイザベッラとは、従妹の間柄。
つまりカスティーリア風に装う事に子供の頃より慣れ、生涯維持し、
結婚後にはミラノ貴族の女性全員に広めたのだそう。
結婚後にはミラノ貴族の女性全員に広めたのだそう。
フェッラーラでコスメ・トゥーラが描いた、10歳のベアトゥリーチェ。
このベアトゥリーチェは、ルネッサンス史上大変有名な
イザベッラ・デステの妹で、当時のミラノの公爵ルドヴィーコと結婚し、
政治的なセンス良く、気性も激しく、夫を完全に操縦した女性だった様。
周囲もその意味で大いに認めていたのが、わずか21歳で、3人目の
子の出産で世を去ります。
子の出産で世を去ります。
ナポリでスペイン宮廷の空気を吸い育ち、という詳細も知らず、
肖像画に見る余り冴えない美貌に、失礼、興味も持てずでしたが、
肖像画に見る余り冴えない美貌に、失礼、興味も持てずでしたが、
今回あれこ出会ったニュースに、かなり驚いて読みました。
実際彼女の若い死に打ち砕かれたかの様に、あれ程に極めた
イル・モーロもその3年後に戦場で裏切られ投獄、1508年に獄死と。
イル・モーロもその3年後に戦場で裏切られ投獄、1508年に獄死と。
ルネッサンスを代表する女性の代名詞の様な姉のイザベッラですが、
今回は、もし妹のベアトゥリーチェが生きていたら、と思った事でした。
今回は、もし妹のベアトゥリーチェが生きていたら、と思った事でした。
まぁ歴史には、「もし・・」も「でも・・」は無い、とは言いますが・・。
ジャン・ガレアッツォの妹のビアンカ・マリーア・スフォルツァ・
Bianca Maria Sforza(1472-1510) もそのスタイルを取り入れ、
ハプスブルグ皇帝マキシミリアン1世(1459-1493)と結婚したものの、
どちらも再婚、余り上手く行かず、跡継ぎもなく・・。
どちらも再婚、余り上手く行かず、跡継ぎもなく・・。
もう1人美しい、レオナルド作、とされた、ホンマかな? の
ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァ・Bianca Giovanna Sforza
(1482-1496)
ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子で、後に正子に。
ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァ・Bianca Giovanna Sforza
(1482-1496)
ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子で、後に正子に。
美男で偉丈夫の夫ガレアッツォ・サンセヴェリーノ・
Galeazzo Sanseverino(1460-1525) イル・モーロのお気に入りで、
幼いビアンカと婚約、1496年に漸く6月末に結婚したものの
病気となり、11月下旬に死亡。
こうしてミラノから始まったコアッツォーネの普及も、
エリザべッタ・ゴンザーガ・Elisabetta Gonzaga(1471-1526)
マントヴァ生まれ。
イザベッラ・デステの夫のフランチェスコ2世ゴンザーガの妹で、
ルネッサンス期のイタリアの、教養と美徳を備えた貴婦人と。
ルネッサンス期のイタリアの、教養と美徳を備えた貴婦人と。
ウルビーノのグイドバルド・ダ・モンテフェルトゥロ(1472-1508)
と結婚するも跡継ぎが生まれず、
モンテフェルトロ家はデッラ・ローヴェレ家に引き継がれます。
そして、リミニのヴィオランテ・ベンティヴォーリオ・
Violante Bentivoglio(1505-1550)に、引き継がれている様子が窺え。
右の緑のドレスが彼女ですが、夫はリミニのマラテスタ家最後の
パンドルフォ4世。
パンドルフォ4世。
つまりコアッツォーネの髪型の流行の移りは、どうやら宮廷から、
貴族女性のお付き合いに寄って、の様子がよく分かります。
貴族女性のお付き合いに寄って、の様子がよく分かります。
まぁ、現在と違い週刊誌もTVも何もなかった時代ですから、人々の
口伝えのニュース、お便りによっての話で、
口伝えのニュース、お便りによっての話で、
参考の写真ももっとたくさん載っているのですが、余り有名人でなく、
まるで知らない人だと興味も持てないでしょうし・・、
まるで知らない人だと興味も持てないでしょうし・・、
という事で、最後はかのルクレツィア・ボルジャ・Lucrezia Borgia
(1480-1519) のコアッツォーネに結ったメダルを。
教皇アレッサンドロ6世の娘として、兄チェーザレ・ボルジャの
政治的な道具として、結婚させられ引き離された
彼女の3度目の結婚は、
フェッラーラのアルフォンソ1世デステ・Alfonso d'Este.
フェッラーラのアルフォンソ1世デステ・Alfonso d'Este.
彼はイザベッラ・デステの弟にあたり、イザベッラの夫
フランチェスコ2世と不倫関係を持っていたとも。
彼女の墓所はフェッラーラのコルプス・ドミニ修道院にあり、
一度拝見したのですが、 クラウズーラ・生涯外に出ない
修道女様方の修道院。
一度拝見したのですが、 クラウズーラ・生涯外に出ない
修道女様方の修道院。
薄暗い部屋の中の幾つか並ぶ墓碑の前で、探しても見つからず、
遂に、修道女様が部屋から出て来て! 教えて下さった、
申し訳なくも、有り難い思い出が残りますです。
遂に、修道女様が部屋から出て来て! 教えて下さった、
申し訳なくも、有り難い思い出が残りますです。
15世紀末の独特な髪型のお話のつもりが、様々な人生模様が
絡み・・、 何せ皆さま上流階級にお住まいで、
それぞれの人間関係を知ろうとすると、たくさんに浮かびいでて・・!
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
・・だったのでしょうか?
・・だけでは無いですよね?!
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