・ コアッツォーネ  ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の髪型

未だ「奈良・斑鳩の里」の写真整理が済んでおらず、暫く放浪の旅に、
いゃ、いぇ、ちょっと話題を変えさせて頂きます、へへ。

             
ええと、実は レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」の時に、
作品背景の黒塗りや、髪に掛けたヴェールの塗り直し、などの点から
モデルのチェチーリア・ガッレラーニの髪型が気になり調べました。

1-_pala_di_san_vincenzo_ferrer,_1493-96,_01.jpg


ミラノではコアッツォーネ・coazzoneコアゾンと呼ばれる髪型で、
カタルーニャ三つ編み、またはスペイン三つ編みとしても知られ、

15世紀末の四半世紀のロンバルディア州、ミラノの貴族女性、
またその発祥の元であるスペインに於いて、
非常に人気があった髪型だった事を知りました。

ですが改めて読んでみると、髪を真ん中から分けて後頭部で纏め、
三つ編みにして背中に垂らす、のではなく、

つまり本物の三つ編みではなく、後頭部で纏め、通常は色付き、
または黒のリボンを巻き付け一連のXを作って出来た尻尾で、
最後を閉じた髪型、と知りました。


その説明がよく分かるのが、このジャン・クリストフォロ・ロマーノ・
Gian Cristofolo Romano(1456-1512)の作った
ベアトリーチェ・デステ・Beatrice Deste(1475-1497)像。

フェッラーラ生まれ、16歳でミラノ公爵ルドヴィーコ・スフォルツァ、
イル・モーロ・生来の色黒からムーア人という仇名の持ち主、と結婚。

短い結婚生活の後、21歳で亡くなった彼女の胸像(1485-90)で、

側面の様子から

2-1-Busto_di_Beatrice_d'Este,_01_GF.jpg


真ん中で分け背後で纏め、後頭部に帽子を置き、
レンザ・lenza、またはスレンザ・slenzaと呼ばれる額を囲む
薄い絹のリボンで留められ、額にはしばしば真珠や宝石が。


この像と、こちら1494年とある細密画に描かれた肖像に見える、
頬に掛かる巻き毛は、ベアトリーチェの考案と。

3-Miniatura_di_Beatrice_d'Este_contorno_ritagliato_GF.jpg



メダルに見える別の彼女のコアゾンは、額のカールした髪型も。

4-Milanese_15th_Century,_Beatrice_d'Este,_2_GF.jpg



こちらは背後の様子で、後頭部で纏めた髪を纏め、X状にリボンを
巻きつけて尻尾にしているのも良く分かりますね。

5-Busto_di_Beatrice_d'Este_02_GF.jpg


同じ髪型のバリエーションとしては、トレンツァーレ・trenzale、
またはトリンツァート・trinzatoと呼ばれる軽い布地で包まれ、
首筋から毛先迄を覆い、しばしば真珠の紐で結ばれたそうで。



もう一度、レオナルド描いたチェチーリア・ガッレラーニの肖像、
髪型がよく見えるのを見つけました。

6-Particolare-acconciatura-protagonista-_GF.jpg


後頭部の帽子を押さえる黒色のレンザ・紐は分かりますが、その下に
眉に触れる位置に金色の刺繍が見えますね。

これが彼女の場合、非常に薄い透明な帽子のベールが
後頭部を覆い、上部の黒いレンザで結ばれているのだそうで、
実際頭頂部には中程で区切りが見えますし、

半分の手前側の髪の毛は顎の下を通っている事も見えますが、
これは当時大変独創的なものだった、と。


となると、ドラクロアでしたっけ、背景を黒色に替え、髪の上に
グレイで大雑把にベールを描いた後世の修正は、

頬に掛かる部分の髪にもザっと塗っており、金色の刺繍の紐跡が
斜めにうっすらと見えますし、
当時の女性の髪型について知らなかった、のでしょうね、

という事で、最初にこの絵について書いた時以来疑問だった点も、
漸くに納得したのでありましたぁ。



蛇足ながら付け加えると、主人公の向かって右側の肩に掛かる
ブルーの絹薄物は、スベルニア・sberniaという、元々アラブの
女性の薄い羽織りもの、

7-_pala_di_san_vincenzo_ferrer,_1493-96,_01 - Copia.jpg

レオナルド様は、絵の焦点が複雑になり過ぎるのを避け、
通常両肩に、というのを簡略化したのだそうで。

       
今回参考にした記事は、ウィキペディア伊版 Coazzone と
この記事は参考写真が多く、よく分かり、楽しめます。

15世紀:「白貂を持つ貴婦人」の美しい髪型
‘400: la Bella Acconciatura della “Dama con l’Ermellino”


という所で、この15世紀四半世紀後半に大変人気のあった髪型
現在も肖像画に残る美しい女性達の様子をご覧頂きますね。


後頭部の小さな帽子を押さえる為の額の紐、多くは宝石などが
付いた高価な紐は、当初はレンザ、スレンザ、と呼ばれていたのが、
時代が下がるにつれ、フェッロニエーレ・ferroniere、と呼ばれ、

多分フェッロ・鉄、金属が含まれるので、金属製の鎖となったと推測を。


ダ・ヴィンチ描くこの有名作品(1490-1497・ルーヴル蔵)は伝統的に
ラ・ベル・フェロニエール」と言う名で知られており、

9-La_belle_ferronnière,Leonardo_da_Vinci_-_Louvre_GF.jpg

以前は直訳し「金物商人の美しい妻」とも! これは18世紀後半の
目録制作時の間違いで。


で、こちらにご親切に集めて頂いた写真があり! 横顔のみで
誰かすぐ分かる女性は何人?というクイズにもなりそうで、ははは。
「ラ・ベル・フェロニエール」は上から2段目の左に。

10-Ferroniere_in_Renaissance_portraits_-_collage_by_shakko_GF.jpg


この女性に大もてとなった髪型はいつ、どこから、となりますが、
勿論元々はスペイン宮廷で盛んだったのが、おそらく1477年に
当時スペイン領であったナポリに、と。


というのも、この年ナポリのアラゴン王フェッランテ・Ferrante d'Aragona
と結婚したジョヴァンナ・ダラゴーナ・Giovanna d'Aragona、
正確にはジョヴァンナ・ディ・タラスタマーラGiovanna di Trastámara
(1455-1517)
というのですが、彼女の肖像画が見つからず。

近い時代に何人もの「ジョヴァンナ・スペイン読みでファナ」がおられ・・!

で、この新女王は生涯通じて自国の流行に合わせた服装をし続け、
ナポリにもその流行を広めるのを好んだ、と言い、

まぁ、既にナポリは1442年にアルフォンソ5世により征服されており、
スペインの習慣が色濃く染み込んでいた都市であり、

コアッツォーネ・コアゾンは、その後イタリア半島の他の様々な地域に
広く拡散していった様子です。


ミラノでは1488年、ナポリ王フェッランテの姪であるアラゴンの
イザベッラ・Isabella d'Aragona(1470-1524)が、

11-Isabella_d'Aragona_di_Napoli,_lunetta_GF.jpg



ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ公爵・Gian Galeazzo Sforza
(1469-1494)と結婚。

12-Gian_Galeazzo_Maria_Sforza,_Duke_of_Milan,_early_1490s,_NGA_128_GF.jpg


彼はメダルでも分かる様に、大変優雅で美しい男性だった様で、
でも政治にはあまり関心がなく、

7歳にして父ガレアッツォ・マリーアを暗殺され、一旦は母親ボナの
摂政の元に第6代ミラノ公となったものの、

1480年には叔父のルドヴィーコ・イル・モーロに牛耳られ、叔父が
摂政となり、実質的なミラノ公に。

イザベッラ・ダラゴーナとの結婚も余り上手く行かなかった様子ですが、
跡継ぎは残し、25歳であれこれ不審な死を。


で、イザベッラはかなり強烈な性格で権力欲も強かった様ですが、

夫の叔父で摂政イル・モーロの若き愛人チェチーリア・ガッレラーニを
気に入り、彼女にカタルーニャ風の衣装を贈った事が、
エステ家の大使トロッティの年代記に記されているそうで。

となると、チェチーリアが髪型もスペイン風にコアッツォーネに
結ったのは、確かにレオナルドの肖像画に残る通り、となりますね。



そして文字通りコアッツォーネがミラノで流行となったのは、
1941年1月にフェッラーラのエステ家からルドヴィーコ・イル・モーロに
お輿入れのベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Este(1475-1497)
がやって来て以来。

13-1-Beatrice_nella_Pala_Sforzesca_GF.jpg


ベアトゥリーチェはフェッラーラで、エルコレ1世とエレオノーラ・
ダラゴーネの間に生まれたものの、幼い時期の8年間を母親の郷ナポリで、
祖父のフェッランテに育てられ、養子縁組も。

ジャン・ガレアッツォと結婚したイザベッラとは、従妹の間柄。
つまりカスティーリア風に装う事に子供の頃より慣れ、生涯維持し、
結婚後にはミラノ貴族の女性全員に広めたのだそう。

フェッラーラでコスメ・トゥーラが描いた、10歳のベアトゥリーチェ。

13-2-Beatrice_d'Este_di_Cosmè_Tura_GF.jpg


このベアトゥリーチェは、ルネッサンス史上大変有名な
イザベッラ・デステの妹で、当時のミラノの公爵ルドヴィーコと結婚し、
政治的なセンス良く、気性も激しく、夫を完全に操縦した女性だった様。

周囲もその意味で大いに認めていたのが、わずか21歳で、3人目の
子の出産で世を去ります。


ナポリでスペイン宮廷の空気を吸い育ち、という詳細も知らず、
肖像画に見る余り冴えない美貌に、失礼、興味も持てずでしたが、
今回あれこ出会ったニュースに、かなり驚いて読みました。

実際彼女の若い死に打ち砕かれたかの様に、あれ程に極めた
イル・モーロもその3年後に戦場で裏切られ投獄、1508年に獄死と。

ルネッサンスを代表する女性の代名詞の様な姉のイザベッラですが、
今回は、もし妹のベアトゥリーチェが生きていたら、と思った事でした。

まぁ歴史には、「もし・・」も「でも・・」は無い、とは言いますが・・。



ジャン・ガレアッツォの妹のビアンカ・マリーア・スフォルツァ
Bianca Maria Sforza(1472-1510) もそのスタイルを取り入れ、

14-1-Ambrogio_de_Predis_-_Bianca_Maria_Sforza_GF.jpg

ハプスブルグ皇帝マキシミリアン1世(1459-1493)と結婚したものの、
どちらも再婚、余り上手く行かず、跡継ぎもなく・・。



もう1人美しい、レオナルド作、とされた、ホンマかな? の
ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァ・Bianca Giovanna Sforza
(1482-1496)
ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子で、後に正子に。

14-2-Profile_of_a_Young_Fiancee_-_da_Vinci_GF.jpg


美男で偉丈夫の夫ガレアッツォ・サンセヴェリーノ・
Galeazzo Sanseverino(1460-1525) イル・モーロのお気に入りで、
幼いビアンカと婚約、1496年に漸く6月末に結婚したものの
病気となり、11月下旬に死亡。



こうしてミラノから始まったコアッツォーネの普及も、
エリザべッタ・ゴンザーガ・Elisabetta Gonzaga(1471-1526)
マントヴァ生まれ。

15-Adriano_Fiorentino,_elisabetta_gonzaga,_post_1502,_recto_GF.jpg


イザベッラ・デステの夫のフランチェスコ2世ゴンザーガの妹で、
ルネッサンス期のイタリアの、教養と美徳を備えた貴婦人と。

ウルビーノのグイドバルド・ダ・モンテフェルトゥロ(1472-1508)
と結婚するも跡継ぎが生まれず、
モンテフェルトロ家はデッラ・ローヴェレ家に引き継がれます。



そして、リミニのヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
Violante Bentivoglio(1505-1550)に、引き継がれている様子が窺え。

右の緑のドレスが彼女ですが、夫はリミニのマラテスタ家最後の
パンドルフォ4世。

16-838_GF.jpg


彼女の結婚の様子は
n.2 リミニ ・ 絵画館、マラテスタ家のあれこれちょっぴり
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468933499.html


つまりコアッツォーネの髪型の流行の移りは、どうやら宮廷から、
貴族女性のお付き合いに寄って、の様子がよく分かります。

まぁ、現在と違い週刊誌もTVも何もなかった時代ですから、人々の
口伝えのニュース、お便りによっての話で、

参考の写真ももっとたくさん載っているのですが、余り有名人でなく、
まるで知らない人だと興味も持てないでしょうし・・、


という事で、最後はかのルクレツィア・ボルジャ・Lucrezia Borgia
(1480-1519) のコアッツォーネに結ったメダルを。

17-Lucrezia_Borgia,_1480-1519,_GF.jpg

教皇アレッサンドロ6世の娘として、兄チェーザレ・ボルジャの
政治的な道具として、結婚させられ引き離された
彼女の3度目の結婚は、
フェッラーラのアルフォンソ1世デステ・Alfonso d'Este.

彼はイザベッラ・デステの弟にあたり、イザベッラの夫
フランチェスコ2世と不倫関係を持っていたとも。


彼女の墓所はフェッラーラのコルプス・ドミニ修道院にあり、
一度拝見したのですが、 クラウズーラ・生涯外に出ない
修道女様方の修道院。

薄暗い部屋の中の幾つか並ぶ墓碑の前で、探しても見つからず、
遂に、修道女様が部屋から出て来て! 教えて下さった、
申し訳なくも、有り難い思い出が残りますです。


15世紀末の独特な髪型のお話のつもりが、様々な人生模様が
絡み・・、   何せ皆さま上流階級にお住まいで、
それぞれの人間関係を知ろうとすると、たくさんに浮かびいでて・・!


花の命は短くて苦しきことのみ多かりき


18-20230726_1973307_GF.jpg  

・・だったのでしょうか?

・・だけでは無いですよね?!


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posted by shinkai at 04:50Comment(0)・欄外

・ 二月堂 参内   素晴らしいお天気、 良き眺め!

さて、いよいよ二月堂の裏参道を通っての参内、もうすぐの坂道。
見事な大屋根、舞台、素晴らしい石段道、惚れ惚れの美しさ!

1-DSC02225_01_GF.jpg



イタリアに戻って後、グーグル地図でこの一帯を広げながら
あれこれ確かめつつ、

2-11-17 172050_GF.jpg

左上に囲った場所「入江泰吉撮影場所」という文字を見つけ、
おっ! まさに上の写真を撮った場所!と勝手に感嘆、はは。

その後あれこれネットを探し、彼の写真はも少し右に寄った場所、
手前左の塀の内から咲いた木蓮が延びている構図、だった様子。

そう、この美しい道はどの季節でも、絵になる構図を訪れる人皆に
提供してくれるなぁ、と思った事でした。



坂道を上り切り、右から延びる二月堂の建物様々の塀の内、
お水取りの燃え尽きたお松明が顔を覗かせ。

3-DSC02233_01_GF.jpg



そして、登廊・のぼりろう、が口を開け。

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ここから二月堂舞台に続く石段を、お松明が次々と上る場所で、
建物は修二会儀式に参加の練行衆たちの参篭所の様子。


でも大体この石段は、舞台からの眺めを堪能した後、退出する
人々が降りて来る石段で、

暫く粘ったものの、人がまるで入らずの場面を撮ることが出来ず・・!

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道を進み、いつも登る南側の石段前に。 美しい屋根の勾配、
豪壮な舞台。

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7-DSC02240_01_GF.jpg


振り返って見る「閼伽井屋・あかいや」。 修二会の
お香水汲みの井戸が中に。

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右奥に、登廊が見えます。



二月堂の張り出す大屋根。 組木の先、切り口の先が白く塗られ、
全体が華やかに見えませんか。

9-DSC02243_01_GF.jpg


大屋根の丸瓦の紋は何だろうか、とアップしてみると、
3つの円があり、その中に、東、大、寺、の文字が。

10-DSC02243_01 - Copia_01_GF.jpg


二月堂参内の、南の石段。

11-DSC02250_01_GF.jpg

 
実はこの石段に、模様が刻まれている、というのをこちらで知り
その心算で見つけたのがこちら。

下からの3段に、流水、亀甲、唐草。

12-DSC02248_01_GF.jpg


上にもある、との事で、見つけたのがこちら。 一番上の3段に、
上段から、菱、網代、青海波。

13-DSC02252_01_GF.jpg

これは上の段から下を見ており、何せお天気が良すぎて、下からだと
陰が入るので上から。

中の段には模様はなく、「マスかけ模様・四角の中にx」が
どこかにあり、それを踏むとご利益が、と言われているそうですが、
shinkaiには見つからず、はぁ、御利益なしね、ははは。


ヴェネツィアのドゥカーレ宮の「巨人の階段」には、上り面に
美しい象眼模様が施されているのと、同じ感覚かも、と。

ヴェネツィア ・ ドゥカーレ宮、 サン・マルコ広場
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464579939.html



石段を登り切った所の、ちょっとした広場。 陽射しが厳しいぃ。

14-DSC02255_01_GF.jpg



見晴らす大仏殿、そして一連の堂、坊・・。

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石段を上がって来た突き当り、手水舎。

16--DSC02256_01_GF.jpg



そして舞台の上を囲む、吊り灯篭? 正しい言葉は?

17-DSC02259_01_GF.jpg



堂を囲む板戸。 古びてもなお奥ゆかしく、白い障子が映えます。

18-DSC02263_01_GF.jpg



舞台に向かって広がる、内陣の格子扉。

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外人さんもお参りを。 

21-DSC02275_01_GF.jpg

22-DSC02270_01_GF.jpg

この二月堂はいわばいつも開けっ放し、参拝したい人はいつでも、
という事で、それもとても庶民的だなぁ、と。

今頃はどこのお寺も拝観料が必要な、博物館式になっているのに、
当たり前みたいな感覚になっていましたが、そんな事も思ったのでした。



ふっと気が付くと、舞台から内陣側との仕切りが1段の高さがあり、
そこにはかなり厚い鉄板が打たれており、そうねぇ、ちびるよねぇ、と。

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四月堂。 

20-DSC02261_01_GF.jpg

アップして眺めましたら、内に参拝客や、縁に腰を掛けて休んで
おられる方やら。 自分は一度も中を覗いた事も無かったなぁと。



石段の下を眺め。 小さな神社の向こう、少し斜めの建物が
お水取りの「閼伽井屋」。

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修学旅行生が鹿と遊び、

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大仏殿の屋根の上。   遥か向こうは生駒の山並み?

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右の方、屋根の向こうに、やって来た裏参道の道角が。

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登廊。  お松明の時は、この石段を何十キロもあるお松明を
肩に、練行衆が上って来るのですものねぇ!

28-DSC02276_01_GF.jpg


むか~し一度お水取りを見に来て、ちょうど籠松明登廊の日で、
長さ約8m、重さが70キロ程の一際大きな籠松明。

舞台に一列にお松明が並び、振り回される火の粉の雨、
籠松明どうしがぶつかり、ボ~ン!と大きな音を立てた事など、
あの時の感激はずっと忘れず、

CQATJWYAZJPLXKPVVJSQUEXE24_GF.jpg

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その様子が自分の中で大きく育ち、松明を肩に、
大きな掛け声と共に、走り上がって来る、と思い込んでいましたが、

これはどうやら先駆けの小さな松明だったらしく、
籠松明はひときわ大きいので登廊の屋根を焼かない様、
ずっと下向けで、しずしずと上がって来るのだ、と
今回あれこれ読んだ記事で改めて知りました。


752年に始まり、戦争中も一度も絶えることなく、連綿と現在まで
1272回続いて来た、続けて下さった、お水取りに関する様々な
記事を読み、改めてその歴史の重さと尊さに頭が下がります。

様々に様子を語って下さるブログがありますが、写真も多いこちらを!

真夜中に行われる「お水取り」行事の様子もどうぞご覧に。


そして、修二会行事の始まる前に、観音様の前に捧げられる
椿の花の造り花、紅花で染めた深紅、梔子の黄色、そして白の
3色で作られる椿の花と、

cl2-1_GF.jpg

生の椿の枝に付けて行く作業などなど、こちらから。



修二会の行事当日、今頃は物凄い観客で場所取りも大変な様子。
となると、少し訂正の上で、思い出をずっと大事にね、なのかも!


舞台の北の端から。

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様々な奉納額を眺めつつ。

30-DSC02281_01_GF.jpg


北に続く様々な建物の屋根瓦の入れ込み具合、鬼瓦を眺め、

31-DSC02284_01_GF.jpg


鬼瓦の顔の様子を。 現場でアップで撮ればもっと良かったのに!

32-DSC02284_02_GF.jpg


こちらは一番手前の瓦で、二月堂、と鮮やかに。 

33-DSC02284_01_01_GF.jpg

一番下は渦巻き紋、内陣前の紫幕にも見えましたが、火災予防の
紋ですよ、と法隆寺で尋ねた時に教えて貰いました。

この二月堂も、1667年お水取りの際の失火で焼失した事があるそうで、
木造建築の日本ではやはり一番怖いのは火災ですものね。



今回行った時は、舞台を回って出た所でガガガガと工事が進んでおり、
奥の茶所に行くのも忘れ、即、登廊の石段に。
それも少し降りた所から写真を!

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少し降りた所から、舞台の下の木組みの様子を。

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この位降りてくると、狙うのも結構厳しく、はは。 
でも豪壮でしょう?!

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降りて来て、また最初同様、登廊の入り口を。

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横の参篭所にはめ込まれたかの様にある、鬼子母神さん。

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何でここに? とも思い、なぜかごちゃ混ぜで庶民的だなぁ、とも。

なぜって子供の頃何度も母親から、「鬼子母神さん」は他人の子を
獲っては食べちゃった事、お釈迦様に諭され、それ以来子供の守り神
となった事、お釈迦様はザクロの酸っぱさを、子供と同じ味だから
ザクロを食べる様に、と教えた、などと聞かされて育ち、はぁ、

今でもザクロを見ると「鬼子母神」を思い出すshinkaiなので~す。


自分へのお土産に、二月堂横の龍美堂で行法味噌を買って戻り、
ちびちびと舐めてますが、もうじき終わりそう・・・。

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posted by shinkai at 02:44Comment(0)・欄外

・ 二月堂 裏参道  緩やかな、古き良き面影ただよう小径

東大寺開祖の良弁僧正の御遠忌法要、そして大仏殿内部と
様子をご覧頂きましたが、
その後東大寺の東、小高い丘の上にある二月堂に。

この写真は2日目の午後、良いお天気で晴れ渡った午後
もう一度二月堂に行った時のもの。

1-1-DSC02197_01_GF.jpg



右の鏡池の真ん中に設えられた舞台では、前日午後、
かなりの雨の中で「能」が演じられており、

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演者も奏者もまるで揺るがず、能の事はまるで知らずとも
雨の下での奉納には感嘆しましたが、
ちょうど終わる間際で、最後ゆるゆると、背後の幕の中に
去って行かれ、奏者も後を追い、こちらもホッと・・。



二月堂行きには、東大寺中門前から続く緩やかな坂道を
真っすぐ、でも行けますが、

こちらの地図をどうぞ。

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ちょうど大仏殿の建物の東側辺りに「猫段」と呼ばれる石段があり、
はい、途中からかなり急な石段、古いせいか歩きにくい石段で、

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「猫段」と呼ばれるのは、昔は「猫坂」と呼ばれた事もあるそう。
途中に山猫たちが住んでいたとかで、
雨の時にでも滑って転ぶと「猫」になった、という言い伝えから
「猫段」と呼ばれるようになったとか・・。



上から石段と東大寺を眺めた所。

4-IMG20231015144821_01_GF.jpg

ほら、石段の石が同じ大きさの揃った石ではなく、一応きちんと
敷かれてはいるものの、歩きにくい印象を。

でも、こうして時に眺める東大寺の見事さ、美しさ!!



猫段を上がって来ると、この広場に「奈良太郎」とも呼ばれる
東大寺の「鐘楼」、鎌倉時代の1207~11に再建があり、

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重さ26,3トンもある国宝の梵鐘は東大寺創建当初のもので、
鐘声の振幅が非常に長く、日本三名鍾の1つなんだそう!

現在でも毎日、修二会・お水取り、の時期を除き毎日20時に
撞かれているそうで、(時間は変更あり)近くでも聴けるそう。

はぁ、大体いつも自分の目的に直行するshinkaiめは、この鐘楼、
大鐘も見たのみで、こうしてブログに書くのに改めて読むと、
あれま、と思う事ばかり。 またチャンスがあったら、と慰め、はい。



ここから地図で再度お確かめを。 
鐘楼の背後に回ると、鉄柵の付いた狭い石段があり、そこを下ります。

下った所はちょうど窪地のせいか、左側はこんな風にシダの葉で埋まり、

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右側は小さな池に。 初回にはこの池に白鷺がおり、
大きな亀さんが生息している様子も。

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で、池の向こう側に、こんな由緒正し気な大きな建物。

10-DSC01956_01_GF.jpg

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立札には、重要文化財 大湯屋 東西8間 南北5間

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奈良時代の創建 温室あるいは大湯屋・おゆやともいう。

治承4年(1180)の兵火で罹災 建久8年俊乗上人再建
応永15年惣深上人修理を加え 昭和12年解体修理を行う
内部に鉄湯船あり  中古の洗浴の貴重な遺構である、と。

東大寺のサイトの説明によると、
東西に長い建物の内部を3区分し、前面を湯室の前室、
中央が浴室で、風呂屋形を造り、
その中に重源の命で鋳物師の草部是助・くさべこれすけ、が
建久8年(1197)に造った大きな鉄製の湯船(重要文化財)
が据えられている。

後面は土間で窯場、となっている。 往時は風呂屋形の中に
簀の子を敷き掛け湯したとされる中世の浴室の様子を伝える
貴重な遺構である。


(非公開)とあり、どんなか見たいものの諦めていたのが、
2017.7.1に特別公開されたという写真と記事も見つかり、

風呂屋形なるものの形も分かる、素敵な写真!

11-東大寺大湯屋内部_GF.jpg

鉄湯船・てつゆぶね なるものは、口径232cm、高さ76cm。

別の窯で温めた湯を樋を使って鉄湯船に注ぎ、湯船に浸からず、
掛け湯や蒸気での入浴方法で、
一見お釜にも見えるものの、中央に湯を抜くための孔16cmが
開いているそうで。

つまり儀式前の僧侶たちが身を清める為に使った、掛け湯、と
考えるのが正しい様子。

こちらで公開時のヴィデオも見られます。


で、前を通りすぎ、

12-DSC01968_01_GF.jpg

写真手前小さな三角形に道が分かれ、そこに地蔵様と呼ばれる
小さな石の形が幾つかありますが、撮っておらず、

shinkaiの関心はもっぱら御湯屋の建物に続く素朴な土塀に。



まず最初の建物角の水路造りに、こんな風に瓦が使われており、

13-DSC01961_01_GF.jpg

東大寺の再建などでの余った瓦の利用、というのも読みましたが、
成程なぁ、少し大きめの古い瓦かも、と。


如何にも素朴で頑丈な土壁が長く続き。 一番下は石が詰まれ、
大きな丸石も嵌め込まれたり、修理の後も。

14-DSC01963_01_GF.jpg

15-DSC01962_01_GF.jpg



道と行き当たり、角を回り込むと、こんな風に稲田があり、結構広く、

16-DSC01970_01_GF.jpg

17-DSC01975_01_GF.jpg

単純に、わぁ、こんな所に田んぼがある!と感嘆したのですが、

説明にはここは「二月堂供田・くでん」と呼ばれる田んぼで、
お水取りの行事で使われるお供えの餅などを作る餅米を
栽培しているのだそうで!

そういえば、しっかり鳥の被害を防ぐ為の網がかかっており、
結構広いですが、これも検索で知ったのは、1反だろう、との事。

はぁ、1反、と言われても一体どの位の取れ高になるの?と
再び検索すると、気候、品種、栽培法によるものの、
1反・約990平米で、600~800kgのお米、およそ30~40俵、
に相当する、と分かり、

ははぁ、ではお供えには多分十分な取れ高で、お仕えの僧侶方、
お参りの善男善女のお口にも、と、思った事でした、ははは。

ついでに、先ほど土塀に見えた茶色の板の門は、田んぼへの通用口と。



東大寺のサイトの写真は、こんなに美しい田植えの後の様子が。

18-oyuya00_GF.jpg



そしてこの道が、「奈良に寄って・・」と考えた時からshinkaiの
頭の中にドカッと座り込んだ、奈良、二月堂裏参道。

19-DSC01973_01_GF.jpg

20-1-DSC02201_01+4_GF.jpg

手前右に見えるのは宝珠院。 何とも素敵な道でしょう?!

この道は、逆向きにずっと西に続き、東大寺の裏、北側を通り、
正倉院の前も通るので、次回のチャンスには。



少し先から振り返るとこんな様子で、緩やかな坂道が続きます。

20-2-DSC02209_01_GF.jpg



上の写真にも見える、多分古い瓦を入れ込んだろう、土塀。

21-DSC02311_01_GF.jpg



そして道は、こんな風に二股に別れ、右は二月堂に、

22-DSC02207_01+6_GF.jpg

そして左奥にはお寺関係か、はたまた民家がある様子で、時たま
足取り軽く通って行かれる方も。


右の道に入り込み、振り返る別れ辻。

23-DSC02219_01_GF.jpg



左に見える門は中性院、見事な土塀が続き、何段かに別れての
石段を辿る一番奥に二月堂が。

24-DSC02218_01_GF.jpg


中性院。 洒落た、というか洒脱な筆跡で。

25-1-IMG20231015140254_01_GF.jpg


門の鬼瓦と、丸瓦の、対火災の渦巻き紋。 

25-2-DSC02223_01_GF.jpg



門の中を覗くと、根の残るたくさんの鉢、そして見事な藍の鉢。

26-DSC02227_01_GF.jpg


分かれ道の角から続く、左の白壁の様子。

27-IMG20231015135953_01_GF.jpg



こちら側に続くお家の前の柵、門には、それぞれ面白い飾りがあり、
この木彫の小さな像も面白く眺めましたが、

29-DSC02229_01_GF.jpg


も少し上の素敵なお家の屋根の上には、

30-IMG20231015140743 (1)_01_GF.jpg


こんな、女性像が横下を向いて、あっかんベー、をしているのかな、
という様なのも、ははは。

31-IMG20231015140800_01_GF.jpg


ね、こんな坂道は、石段を上がる毎に期待が高まる気がしません?!

32-DSC02215_01_GF.jpg


ああ、もう着いた。 二月堂!

33--DSC02225_01_GF.jpg

34-DSC02231_02_GF.jpg



二月堂の南隣が3月堂ですが、いつもチラッと見るだけで・・!

35-IMG20231015144029_01_GF.jpg

次回は2月堂に参内を。


*****

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posted by shinkai at 01:24Comment(0)・欄外

・ 東大寺 n.2  大仏殿(東大寺金堂)内部

先回ご覧頂いた「東大寺開山、良弁僧正1250年忌法要」も無事済み、
ああ、素晴らしかった、良かった!と満足しつつ奥の大仏殿に。

1-1-DSC01673_01_GF.jpg



現在我々が見る大仏殿、つまり東大寺金堂は奈良時代に創建
されて以来、2度の兵火で焼失後、江戸時代に再建された物で、

天平、鎌倉時代の大仏殿は幅が11間・約88mあったのが、
財政困難の理由で7間・57.012mと縮小されてはいるものの、

それでも奥行き・50.480m、高さ・48.742mは創建時のまま、
世界最大級の木造建築物!

1-2-daibutsuden00 - Copia_GF.jpg

写真は、東大寺のサイトから拝借を。

そう知っただけでもなぜか知らず誇りが湧いて来る不思議さは、
きっと長い歴史を経て、なおかつ美しい建物が眼前に!
という事なんだろうと。

今回斑鳩の里でも感じたこの畏れにも似た、飛鳥、天平の里の
美しさに何の違和感もなく感嘆する己の血、日本人の血を
改めて感じたのでした。



黒、白、赤、黄、緑の5色の大きな幔幕(天幕との違いを
調べましたら、縦に色違いの布を継ぎ合わせるのは幔幕と)
そして幟もあちこちで風に揺れ、何とも華やかな大仏殿の姿。

2-DSC01863_01_GF.jpg



余りにも多い観光客の姿に少々恐れをなしつつ、入り口に向かうと、
おお! 屋根の上にある飾りの鴟尾・しび、ってこんなに大きいの?!

3-DSC01864_01_GF.jpg



入り口から回り込み進みながら、大仏様のお顔が見え、

4-DSC01868_01_GF.jpg


お姿が見え、

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光背が見え、手前の菩薩様も。

6-DSC01875_01_GF.jpg

7-DSC01896_01_GF.jpg



大仏様の前に広がる部分の柱の組み、そして天井格子。
様々な組みの支えの交差に目が行きます。

8-DSC01874_01_GF.jpg


人々が行き来する床の石。 四角なだけで無く、色も違い。

9-DSC01878_01_GF.jpg



こちらは大仏様の左横、 太い円柱が並び、奥に像が見え、

10-DSC01870_02_GF.jpg

手前左に、上に続く細い梯子段。


これ、上るのは何とか上れても、降りるのは怖いだろうねぇ!

11-DSC01881_01_GF.jpg



正面奥、広目天。 足の下に敷いているのは、鬼?

12-DSC01890_01_GF.jpg


傍に寄り、一番手前に突き出している彫りの鑿の後、木目が
見える削りの豪快さに惚れ惚れ!!

13-DSC01891_01_GF.jpg


そして一転、革製の甲冑らしい、模様の細かさにまた惚れ惚れ!

14-DSC01893_01_GF.jpg


と共に、如何に木片を繋ぎつつ、彫ったのかにも目が行き、驚き。

15-DSC01894_01_GF.jpg


巻物と筆を持つ広目天。 西方を護る四天王の1人で、
巻物と筆は天平時代作の特徴なんだそうで。

16-DSC01895_01_GF.jpg


改めて大仏様に。 

17-DSC01907_01_GF.jpg



こうして写してみると、改めて、ああ、そうなんだ、お顔も四角い片で
鋳造し、継いであるんだ、と気が付きます。
鼻の先が、別の色と形に見えるのは、きっと鋳造の時代が違うのかも。

18-DSC01908_01_GF.jpg


鎌倉期の大仏殿、大仏様の補鋳等を経て、鎌倉期の盛事があり、
が室町時代には昔日の勢いを失くし、そして1567年の兵火で焼失。

大仏様は補修されたものの仮屋も失くし、100年以上風雨に
晒されたのだそうで。

その痛ましい姿に再建の志を抱いた公慶上人が江戸幕府に願い、
1684年から大仏鋳造、仏頭と蓮弁18枚を補鋳、1692年に
開眼供養と。


仏前左右に大きな花壺と蓮の花が生けられてますが、

19-DSC01904_01_GF.jpg



壺に大きな蝶が止まり、しかも足が8本! 理由がある様で。

20-DSC01902_01_GF.jpg


こちらが大仏様の座を囲む蓮の花弁が前に置かれている物で、
素晴らしく細かい彫りが全体を覆い。

21-DSC01899_01_GF.jpg



良弁僧正の御遠忌の間は、中門からの白布を引かれた道がまっすぐ
大仏様の前まで届いている為、この間は真正面に行けずで、

横に開いている窓から見た中門。 幟が風に舞い。

22-DSC01897_01_GF.jpg


大仏様の背後の光背の厚さ、を見つつ、

23-DSC01885_01_GF.jpg



こちらが背後から見る光背。

24-DSC01917_01_GF.jpg



本来は四天王像、という事で4体造られる筈が左右の2体で終わり、
この増長天と、持国天の二天は白木の頭部のみが残った、と。

25-DSC01910_01_GF.jpg



こちらは奥にある一連の大仏殿の模型で、まずは鎌倉期再建のもの。

1180年平重衡の軍により大半を焼失、1185年に大仏開眼、
1195年落慶供養されたもの。

26-DSC01919_01_GF.jpg

規模は創建時とほぼ同じ大きさながら、様式は大仏様式、だそうで。
作品は平成16年度全国矯正展に出品され法務次官賞を受賞した
奈良少年刑務所制作の50分のⅠの大きさと。



そしてこちらが現代の、江戸期再建の50分のⅠ模型。 

28-DSC01921_01_GF.jpg

盧舎那仏の開眼1250年目にあたる平成14年(2002)に合わせ、
奈良少年刑務所の受刑者、木造建築科、木材工芸科の訓練生
30名が精魂込めて制作、法務大臣賞を受賞の作品。

素晴らしく精巧な模型で、職業訓練生とは言え、若さ故の一途な
情熱が感じられ、感嘆でした。



こちらが最初の東大寺の大きさ規模を示すもので、左右に塔がある
広大な敷地の模型。

27-DSC01916_01_GF.jpg

到底一枚に収まらず、きっとワイドで撮ったものと・・。
でもちゃんと撮れていないのが切ないなぁ。



東奥を護る多聞天像。 西側にある広目天と共に高さが5m近いと!

29-DSC01927_01_GF.jpg

こうして今見ると、金塗りもされていた様で素晴らしい物ですが、

なにせすぐ近くに柱の穴潜りがあって大賑わい! で、
細部を撮り紛れましたぁ。


これが例の「大仏様の鼻の穴と同じ大きさの、柱の穴潜り」!

30-DSC01923_01_GF.jpg

31-DSC01922_01_GF.jpg

果敢に、多くの外人さん達も挑んでおり、挑戦するは良し、
とはいえ、どう見ても、無理よねぇ!という体格の女性もね。
う~ん、猫ちゃんと違い、頭が通れば大丈夫、とは言えんねぇ、はは。



表に回って、大仏様の向かって右側の如意輪観音さま。

32-DSC01930_01_GF.jpg

説明に「脇侍」と書いてあるのも見つけ、えっ、と思ったものの、
「わきざむらい」ではなく、「きょうじ・わきじ」と読むのだそうで!



こちら左側のお顔も拝見し。

33-DSC01932_01_GF.jpg



髪の毛の巻き方も見届け、はい。

34-DSC01933_01_GF.jpg


手と指の柔らかさ。 鋳造はとても難しかったでしょうねぇ。

35-DSC01934_01_GF.jpg


こちら側の蓮の花は彩が美しく。 こうして見ると、背後の蓮花弁の
高さにも驚く程で。

36-DSC01939_01_GF.jpg


改めて大仏様にお礼の一礼をし、外に。
 
幔幕、上りの翻り、鬼瓦が、如何にも天平の典雅さを偲ばせます。

37-DSC01944_01_GF.jpg

38-DSC01943_01_GF.jpg

聖武天皇が廬舎那仏建立を思い立ったのは、天然痘、政治の
混乱等など様々に困難な世相を、仏教を基に、何とか纏めて
行ける様にと願っての事と知りましたが、

今に伝わり残る様々な遺物、文化は、如何にも平和さ、柔和さを
醸し偲ばせ、我ら以降の人々にも同様に伝わる様に、と願います。



大仏殿の横の流れに浮く、散華の花びら。 白、黄、薄緑、ピンク・・。

39-DSC01942_01_GF.jpg


翌日午後再び二月堂にやってきた時、大仏殿横道を歩いていると、
横の肩ほどの高さの石垣の上に、ひらっと一枚落ちて来たのが、

如何にも、ほら、お前に上げるよ、という感じでやって来て、
喜んで頂き、持って帰りました。

濃い目のピンクで、材質は何かな、濡れても大丈夫な様で、

片面に「東大寺開山 良弁僧正 千二百五十年御遠忌法要」

img20231022_09511569_01_GF.jpg


もう片面に「華厳宗大本山 東大寺」 と印刷が。

img20231103_09195355_01_GF.jpg


当日はかなりの風で飛び散り、手に入らず残念だったのが、
無欲で歩いていると、やって来てくれた、と何かの教えの様で、はい、

今小さな白い額に入り机の上、奈良の想い出と共に目の前に。


*****

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