・ アレッツォ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ「黄金伝説」壁画、特別公開   「新年のご挨拶・追記を」

横着で失礼致しますが、

新年のご挨拶をさせて頂きます。
皆様、どうぞ本年もよろしくお願い致します!!

今年の年明けは、昨夜からのかなりの雨が止んだものの、
8時前に曇り空が、あっという間に深い霧にとなり、

1-DSC02487_01_GF.jpg


でも東の空、木々の後ろを通る一筋の飛行機雲。

2-DSC02486_01_GF.jpg


これは初日の出は無理、と諦めかけた所に、キラッと一筋の光の筋!
諦めて後々迄心残りになるのは、と急いで出かけた所、

家からの道の突き当り辺りで、綺麗な稲妻型に光が走り、
まだ大丈夫だろう、と先に行くうちに・・! 上がってしまい。

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残念、ほんの、3分の遅れで! 肉眼では見えても・・。


近くの雑木林もこんな感じに。

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2023年の月が残る、オリアーノ村の稜線。

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7-DSC02491_01_GF.jpg

8-DSC02496_01_GF.jpg

今年もまた、様々な話題をお届けしたいと思っております。
ご愛顧のほど、よろしくお願い致します!


*****


はい、今年度も後ほんの少し、となりましたが、
とりあえず新年早々のお楽しみ、のお話を!

アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂のピエロ・デッラ・
フランチェスカの「黄金伝説」の壁画、と言うと、

ピエロの最高傑作であり、そしてまた15世紀イタリア・ルネッサンス
絵画の視点からしても外せない作品ですが、

このバッチ礼拝堂の作品が、礼拝堂の中に足場を組んでの
高い位置、至近距離から見れる、という特別公開が、
2024年1月27日から3月12日迄行われます!!

1-crop_GF.jpg


これは1月10日から始まる壁画のメンテナンス現場への
臨時訪問、少人数(10人程度)でガイド付き、約1時間の訪問。

予約必須、既に12月19日から始まっており、1人35エウロ、
水曜休館、月曜なし、土曜朝9時から9回、日曜13時から6回
他の日は午後14時から5回という変則。

shinkaiは勿論予約するつもりで待っておりますが、
今朝29日から漸くに2月の第2週の予約が始まった所で、
2月下旬と決めている日の予約受付が未だ。

最初の予定受付開始よりずっと、受付日も、数も減っており、
あれこれ受け入れ側も様子を見ながら、という事なのでしょう。

予約受付サイトご案内はこちら。
記事は、https://www.discoverarezzo.com/biglietteria/


12月10日過ぎに、特別公開ニュースを知り、即サイト記事を
確かめ、そして礼拝堂の作品写真を見た所、


これは聖堂内全体の写真ですが、これだけでも、今迄の照明と
まるで違い、クリアで、影が邪魔せずの様子が分かり、

2-Intestazione Interno Basilica di San Francesco_GF.jpg


3-Arezzo (AR) - Basilica di San Francesco, Cappella Bacci._GF.jpg


なんとまぁ、この2年間ほどかけての聖堂外の修復、作品修復、
照明の取り換え、などなどの成果が素晴らしいのを知り、

これは是非、是非!! という様子なので、
皆様にもいささかでものご案内を、と。

でもあり、今回はいつもよりも写真を少し大きめにアップです。

作品の色、壁画の色が今迄の黄みがかった、ぼんやりとは
打って変わり、素晴らしくクリアになったのもお分かりと!

4-affreschi-vera-croce-01_GF.jpg


私めは2014年、ですからもう9年前になるのですね、あの時に
内部の写真を下から撮り、ご案内しましたが、

「真の十字架伝説」 ・ アレッツォのサン・フレンチェスコ教会
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463164668.html

こうした違いを知ると、これはもう、頑張って見に行こう!
となりますよね。


ネットで集めた写真は全ての場面が揃わずですが、
一応、この場面番号に従って、ご覧下さいね。

5-leggenda-croce-big_L_GF.jpg



まず場面2. 右、シバの女王とソロモン王との会見、
左は、後年キリストが磔刑に処せられた十字架となった木への、
女王の参拝図。


6-Piero_della_Francesca_-_Scene_after_and_before_restoration_-_WGA17592_GF.jpg

上側が、現在の修復された色、形で、下が従来の色、形。


素晴らしくクリアで、美しくなったでしょう?! そして剝離した
場所も、手がかりが残る場所は埋められ、とても見易くなっています。


こんな風にソロモン王とシバの女王の場面も、素晴らしく美しく!
白色が本当に美しく映えますねぇ。

8-Piero_della_Francesca_-_2b._Meeting_between_the_Queen_of_Sheba_and_King_Solomon_-_WGA17498_GF.jpg


こちらは、女王の神木礼拝、背後の女官たちの様子、

10-Piero_della_Francesca_-_2a._Procession_of_the_Queen_of_Sheba_(detail)_-_WGA17491_GF.jpg


そしてその背後に待つ、お供と馬たち。 お供の帽子の毛羽立ちも
ちゃんと描かれ、馬の尻尾の毛の流れも。

11-Piero_della_francesca-2a._procession_of_the_queen_of_sheba_detail_13__GF.jpg


場面 4. 中央左下の、受胎告知。

12-Annunciation_-_WGA17578_GF.jpg


マリア様と天使の表情と動きもとても的確に見え、聖母の背後に
見えるのは機織り機の様で、左手に持つのはシャトル、杼・ひ、ですね。
背後のドアと壁の装飾、聖母と天使の衣装の色の繊細さにも見惚れ。


こうして見ると、襟飾りか、下の衣の襟か、白い襞ひだも見え、
青い衣の縁に添った飾りも描かれているのが見え、楽しい!

13-1-Annunciation_-_WGA17581._GF.jpg


場面 8.十字架が発見され、死者の上にかざすと蘇生し、
真の十字架と分かる場面の、左上に描かれた町、アレッツォと。

13-2-1587280086_Arezzo_o_GF.jpg

そう、あの町は本当にきつい坂の町で、歩くのがねぇ!



場面 9.627年のニニヴェの戦い・Ninive. ペルシャの王
コスロエをビザンティン帝国皇帝エラクーリオが破り、
右端に見える、転宗を拒むコスロエを殺害した、という場面。

14-e7b46efdb6cee5571574ef52bddcdd2_GF.jpg

これはビザンティン帝国の、ササン朝ペルシャの戦いの決定的な
ものだったそうですが、


この左端上に描かれた、大混戦の戦闘場面とはまるで雰囲気の
違う王の高座。 
この部分だけ静謐な空気が漂う、如何にもピエロらしい表現で!!

15-Piero_della_Francesca_-_8._Battle_between_Heraclius_and_Chosroes_(detail)_-_WGA17568_GF.jpg

もう一つの向かい側の戦闘場面でも、ほぼ真ん中に清らかな
川が流れる風景があり、それとの対、の感じでしょうか。


10. 「黄金伝説」最後の場面。 アダムの死に端を発した神木の
変遷物語。 皇帝エラークリオは、十字架をペルシャ王が盗んだ
ジェルサレムに戻すことを果たし・・、という場面。

16-Piero_della_Francesca_-_9._Exaltation_of_the_Cross_-_WGA17570_GF.jpg


黄金伝説」は1360年代にドメニコ会派のヤコポ・ダ・ヴァラージネ・
Jacopo da Varagineによって書かれ、中世全体を通じ大変に
広がり大成功を収めた物語なんだそうで、
これを元に画家も何人もが描いているもの。

アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の壁画を描いた
ピエロ・デッラ・フランチェスカは、前任者の没後を引き継ぎ、
1452年から1466年に掛けて描いたもの。


聖堂のバッチ礼拝堂に500年以上も無事に我々の時代迄残り、
今また新しい技術を使っての修復も行われ、次の世代に残って行く、
これは本当に素晴らしい事ですよね!!


しっかり予約状況を見張りつつ、2月中旬に出かける心算で、
戻ってきたら、また新しい聖堂、壁画の様子を見て頂きますね。


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***

という事で、この記事が2023年最後となります。

今年1年、あれこれとお休みを頂きましたが、無事に乗り越えられ、
お陰様で2024年を目指すことが出来ます。

日頃のご愛顧、本当に有難うございました!!

皆様も、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ!!


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・ 冬至(2023.12.22)太陽の陽がカルナック神殿奥に・エジプト ・写真追加

これを書いている今朝、毎朝7時からのニュースを見つつ延長、
8時前に鎧戸を開けると、ちょうど日の出前の真っ赤、真っ黄に
染まった雲、空が見え、

急いでカメラを取に行き、写し、その後机に来て、明日のブログは
何にしようか、と思いつつ、

あれ、そういえば今年の冬至はいつだっけ、とグーグルに尋ねると、
2023年は12月22日と。 つまり今日が冬至と。

ああ、では明日から少しづつ朝が明るくなって行くのね、良かった、
と思いつつ、あれこれブログ用の記事整理をしていると、

なんと「冬至: 太陽がカルナック神殿、ハトシェプスト神殿、
カスル・カルン神殿と一致する」というのを偶然に見つけ、

ああ、では今回は「エジプト神殿と冬至の関係、にしろ」という事ね、
という事で、気持ちが決まったのでしたぁ!

それに、写真がとても素晴らしいので、それも見て頂きたく!

こちらがエジプトのナイル河に沿っての遺跡の地図

1-050_GF.jpg


記事は、上記のタイトル通りで
Solstizio d’inverno: il sole si allinea ai templi di Karnak, Hatshepsut e Qasr Qarun  

なんとサイト名は「古代地中海・mediterraneoantico.it ですと!

では。

我らの半球で、太陽の光の恩恵を最も受けられない日は、慣習的に
12月に設定されている冬至、21日ですが、星の歳差運動により、
天文学的には12月20日か22日に位置します。

つまり冬至は、冬の寒い季節の始まりであり、
と共に太陽の昇りの始まりで、
これ以降は毎日少しづつ我々に光を与えてくれます。
本当に有難い事!!

この為、先史時代から、世界中の、どの時代でも、この日の太陽が
昇る地点を目指し、様々な「作品」が制作されて来たのですね。

この重要な天文現象がナイル河の岸辺で見逃される筈が無く、

カナリア諸島天体物理学年休所のファン・ベルモンテ・
Juan Belmonte博士がエジプトの650の寺院を調査した所、

記念碑や遺跡の殆どが天体の出来事、特に春分と、冬至の日の出
を祝う様に設計されているのが判明した、と。

つまり昼夜平分の分点の、春分の日と、一番冬の長い日の
日の出を祝う様に設計していた、というのですね。

やはり人間にとって過ごし易く、作物の育ちやすい良い季節、
冬が終わり、夏に向かう季節を希望を持って迎える、という事かと。

これは、カルナック神殿・Karnak、ネクタネボ・Nectanebo1世門
から見る、昇る太陽の壮大さ

2-si-innalza-dal-portale-di-Nectanebo-I-a-Karnak_GF.jpg


古代エジプトの最も重要な遺跡、記念碑群の1つのカルナックの
アモン大神殿・Amonもこの「規則」の例外でなく、

その中心軸は恐らく日の出を歓迎する為に東西方向に向けられていたと。

古代の住民にとってこの天空現象は、毎年の洪水の後にナイル河の
水が引いた後の種まきの季節が始まる瞬間を示しており、
つまり再生の概念を現していたと。

従って古代の天文学者や建築家が、冬至の日の出の太陽が、
主軸に添って進む様に神殿を建てさせた、と考えるのは簡単道理で。


カルナック神殿の大通りを渡りながら、暫くの間太陽の光が
列柱ホールの高い柱の間を照らし、

まるで「隠された者・これが彼の名の由来、」のアモンの
神聖な場所を太陽のエネルギーで充電するかの様に、照らします。

3-Il-solstizio-al-Tempio-di-Karnak-ph.-Wesam-Mohamed_GF.jpg



太陽はアモン・ラーの西域に20分間並び続け、その後ナイル河対岸の
ハトシェプスト女王葬祭殿(紀元前約1513年/1507年~1458年、
古代で唯一の女帝だった)に到達します。

A21_3292 - Copia_01_GF_GF.jpg

A21_3330_01_GF_GF.jpg


第18王朝の偉大な統治者も、冬至の間に彼女の寺院の聖域を
一筋の光が照らす様に寺院をちょうせつし、この魔法の瞬間を
祝おうと考えていた様子。


エジプト旅行の時は勿論カルナック神殿も訪問したのですが、
余りに雑然と分からぬままに写真を撮り過ぎ、整理しきらず、
あれこれ後半のご案内は放棄したようで・・!!

今回カルナックの昼間の写真、多分この通りと見つけましたが、
ガイドの説明もほとんど聞かず、撮っており・・。

A21_3403 - Copia_01_GF.jpg

多分正面広場からのこの通りの突き当りにある門を指すものと。


いま左手に見える工事のパイプ組み立ての向こうに、左右に別れ、
この下の像があり、

A21_3409_01_GF.jpg

A21_3411 - Copia_01_GF.jpg


通りの向こうに門が見えますが、どれか区別がつかず・・。

A21_3415_01_GF.jpg


こちらから、shinkaiのブログのご案内に。
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834203.html



サイト記事に戻り、こちらの、素晴らしい写真をどうぞ!

4-Karnak-il-sole-si-allinea-allasse-principale-del-tempio-di-Amonil-solstizio-_GF.jpg


何世紀も経るうち、カルナックでは当時の日の出の光景が、
特殊効果により、徐々に豊かになって来るのですね。

つまり上にも名の出たネクタネボ1世(‥-紀元362年)は、
冬至の夜明けに太陽が続く道のすぐ上に自分の門を建て、その上で、
昼間の星が右に上る様な、暗示的なイメージを与えた、と。

この効果はまさに感動的で!  


そして、光を使った建築的な遊び、つまり地平線を現す門と太陽で
「アケート記号・Akhet」を、

または、太陽円盤を載せた2つの山の砂丘を表す、大きな象形文字を
この門の上に配置形成したい、という願望があったとも。

即、文の意味が分かりませんでしたが、 この写真をどうぞ。

門の上の窪みに、昇る太陽が収まり、ほぼ象形文字「アケト」
形成する、と。

5-Il-sole-si-sorge-sul-portale-di-Nectanebo-I-quasi-a-formare-il-segno-geroglifico-Akhet-ph.-Nile-Magazine_GF.jpg


納得ですね。 
これが紀元前のエジプト王が願った野望、権力もあり、
また富裕な年の再生の象徴、として観たかった冬至の太陽。

それにしても、凄い写真を撮る方がおられますねぇ!!


お陰様で、遠くの我らも、そうか、こんな風になるんだねぇ、と
かってのエジプトの民よりも、詳しく見る事が出来るのですものね!

で、この現象は現在も非常に待ち望まれており、好奇心旺盛な
人々がこの光景を目撃できる様、
カルナック神殿群は朝の6時に特別に公開されるのだそうで!!

この現象は通常午前6時半頃に始まり、6時40分頃ピークに。

6-Lallineamento-del-sole-a-Karnak-ph.-MoA_GF.jpg

7-La-folla-curiosa-accalcata-allingresso-del-Tempio-di-Karnak-nel-giorno-del-solstizio-a-Karnak_GF.jpg

8-Il-sole-si-allinea-al-tempio-di-Amon-a-Karnak-ph.-Ibrahim-Zayed-by-Nile-Magazine_GF.jpg

今回の私めの記事は、カルナック神殿での現象を主にして
おりますが、他の土地、神殿での現象も記しておりますので、
好奇心おありの方は、サイトご訪問の上、翻訳でお読みくださいね。


つまりこれらの太陽の配列に関連する現象は、古代エジプト人や
それ以降の人々の深い天文学的、建設的な知識の素晴らしい
証拠にほかならずで、

古代の人々は、太陽、および星の動きと、地球の周りの
仮想的な動きを完全に認識していたのだと言います。

そしてエジプト人は、この場合の様に、神の誕生に対応する
特定の天文現象を記録する為に、そして

それを祝い、新しい生命エネルギーを呼び、注入する方法として、
天体の動きに関連した神殿を建設したのですね。


と、冬至ではなく、年に2回、春分と秋分の日の出には、
つまり10月と2月の2回、アスワンのアブ・シンデル神殿の奥、
ラムセス2世の像に、太陽の陽が届き、

この「太陽のキス」を見る為に数百人が神殿入り口に集まるそうで!

9-Il-bacio-del-sole-a-Ramesse-II-ph.english.-ahram.org__GF.jpg


あの神殿奥は写真禁止ですが、ちょっとズルし、入り口前の現地人に
撮って貰ったのが、まだ無事に残っているのを確認しましたぁ!


春分、秋分の日に陽が届く、という印は、イタリアの教会でも結構あり、
即思い出すだけでも、ミラノのドゥオーモ、ボローニャも、
フィレンツェもと。


我ら日本人は、元旦お正月に、どこか太陽の昇るのを
見れる場所に行き、新しい年の幸を願い、祈ります。

新しい太陽の昇りに祈り、願うのは、きっと地球上人類の
共通した姿なのでしょうね。


私は夏の間は、朝5時半頃から家の近くを歩きますが、
その途中に良く日の出に出会い、
太陽の昇るのを見、お早うございます!と挨拶出来るのを、
平常の日でもとても気持ちよく感じ、

人間社会が素晴らしく進化しても、こういう体内感覚、時間は
いつになっても、どこの世界でも同じなんだろうな、と、
今回改めて、思い起こした事でした。******


***

写真追加を

22日朝、日の出を撮ったのも一緒に、と思っていたのを忘れ・・!
遅ればせながら、追加を。

スコミーゴ村 東の空 7時50分

S44_2919_GF.jpg

S44_2918_GF.jpg


南の空  7時51分

S44_2922_GF.jpg


2023年12月22日 冬至の朝  8時2分

S44_2927_GF.jpg


8時3分

S44_2929_01_GF.jpg

済みません、冬季はずっと南寄りの、藪の向こうなんで~す!


**


では皆様、どうぞ良いクリスマスをお迎えくださいね!

ブオン・ナターレ!!

idee-albero-di-natale-creativo-10_GF.jpg

あぁん、1人ズルしとるぅ! うん、もう。



ならば2023年度のサン・ピエトロ広場をば、 皆様 ブオン・ナターレ!!

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・ 誕生日も過ぎ・・、年末調整に、アウシュヴィッツの女性オーケストラ

この12日は、私shinkaiのLXXVIII歳の誕生日で、
例の友人2人とピッツァ!を食べに、はい、ご招待頂きまして、
久し振りのピッツァを美味しく頂きましたぁ。

ですがね正直な所、誕生日の少し前から、頭の中、口の奥、
精神には、かなり執拗に「お寿司、刺身」が渦を巻きつつ現れ、

余程に一人で出かけようか、とも思ったのでしたが、
先に「一緒に!」と念を入れられておりましたので・・。

秋の日本で食べた、美味しいお寿司やお刺身、海苔巻きおにぎり
等などが、どうも頭にしっかり残っていた様で・・、くすん。

まぁこちら、我が家のある田舎では寿司屋のメニューの魚は、
サーモン、エビ、トビコ位、味も満足できない事も確かでして。

そんな所に、我が絵の師二木さんの奥様竹ちゃんから届いた
こんなお誕生日カードには、お寿司、美味しい物満載!!

1-誕生日カード2023_GF.jpg


これは広島での個展終了翌々日に、広島から淡路島のお墓参り、
そして新大阪から東京、新松戸と、暗くなって到着した私めを
迎えて下さり、

お寿司を食べたい、私めはスシローと言ってたのですが、ははは、
もっと上等なお寿司屋さんに連れて行って頂いた時に食べた物。

いやぁ、本当に驚いたのは、何を食べたか、よくぞ覚えて!! で、
はぁ、見ながら、そういえば、と思い出しつつ、ああ、こんなのをねぇ。

写真も撮ってないのを、あれを描こう、と思いつかれての夜中に
目が覚め、あれこれ思い出された、というのですが、凄いなぁ!!
私など、これを見ながら、そういえば・・、という感じで、へへ、

今改めて見ながら、よよと泣き崩れ・・、と迄は無いですがぁぁ、
あぁ、次はいつ食べられるかなぁ・・!!

竹ちゃん、有難うございましたぁ!!


*****

という所で、年の瀬も迫り、今年の初夏に出かけて来た
アウシュヴィッツ関係、ホロコーストの名残りをなんとか閉めたいと、

今回は、アウシュヴィッツ強制、絶滅収容所に存在したオーケストラ、
アウシュヴィッツには男性のみの、

第2アウシュヴィッツのビルケナウには女性によるオーケストラが
あった、そのお話を。

アウシュヴィッツには男性のオーケストラがあり、毎日主要門から
働きに出かけ、帰ってくる囚人の為に演奏した、というのは有名ですが、

2-ORCHESTRA-AL-CAMPO-CONCENTRAMENTO4_GF.jpg

単にその時だけでなく、週末のコンサート、ナチの為の音楽会にも
演奏させられたのですね。


そして今回あれこれ読みながら見つけたこの写真は、

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1942年7月、ポーランド人囚人ハンス・ボナレヴィッツが逃亡に失敗、
「私はいつもあなたの帰りを待ってます」という歌と共に
絞首台に、の様子と。

そうなんですね、朝夕のゲート前での演奏のみでは勿論無く、
こういった事は、第2アウシュヴィッツの、ビルケナウ絶滅収容所でも
同様だったと。


n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/article/500789573.html



アウシュヴィッツービルケナウ収容所主席は、終戦後に
アウシュヴィッツで処刑されたルドルフ・ヘスですが、

4-Rudolf_Höß.jpg



ビルケナウでの女性最高位は、マリア・マンドル・Maria Mandl
(1912-1948) オーストリア出身のナチ親衛隊兵士、女性看守。

5-Maria_Mandel_GF.jpg

1938年26歳の時に様々な職業を経た後、SSの女性部隊に入り、
訓練の後、強制収容所の看守に、ラーヘンシュブリュック強制収容所に
配置されて以来、1939年囚人に対する残忍さですぐに頭角を現した、と。

1942年10月に第2アウシュヴィッツ・ビルケナウに配属され、
ここで1943年6月女性囚人者のみの47名構成のオーケストラを組織。

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ビルケナウ絶滅収容所の女性囚人のオーケストラの名を高めたのは、
プロの音楽家が3人参加していた、させられていた事で、

名が残るアルマ・ロゼ・Alma Maria Rosè(1906-1944)は
並外れたヴァイオリニスト。

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父親アルノルドはヴァイオリニスト、ウィン・フィルの
コンサート・マスターを50年間務めた、と言う方、

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母親ジュスティーヌは、かの作曲家グスタフ・マーラーの妹で、
アルマと言う名は、この叔父の妻アルマ・マーラーにちなんで、と。



戦前アルマは非常に成功したキャリアを積んでおり、女性オーケストラ、
ウィーン・ワルツ・ガールズを設立し、非常に高いレベルでの
ヨーロッパ・ツァーで、大変有名だったそう。

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彼女は一度結婚したものの離婚となり、母親は1938年死亡、
1938年にオーストリアがドイツに併合後、父と一緒にロンドンに逃げ、

彼女1人オランダに行き、音楽活動を再開、と思ったものの、
1940年5月にはオランダもナチスに占領され、
オランダ人技師との架空の結婚も、キリスト教者への改宗者、
という名目も彼女を守ってくれず、

フランスに逃亡したものの、1940年6月フランスも降伏、
1942年末にスイスに逃亡しようとした所をゲシュタポに逮捕され、
ドランシー強制収容所で数か月過ごし、1943年7月アウシュヴィッツに。


到着後アルマは病気で重体となったものの隔離され助かり、
アウシュヴィッツ女性オーケストラ・Mädchenorchester von Auschwitz
(ビルケナウ)のリーダーシップを引き継ぐことに。

n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/article/500863140.html


アルマ・ロゼ到着以前は、ポーランド人教師ゾフィア・チャコウスカの
指揮により、主にアマチュア音楽家で構成され、弦楽器のほかに
アコーディオンとマンドリン、低音セクションは無かったと。


オーケストラの主な役割は、アウシュヴィッツの男性オーケストラと同様
朝夕に正門での演奏、囚人到着の際の選別にも、そして囚人や
親衛隊の為の週末コンサート、その他親衛隊の式典、また楽しみに。

時刻、天気に関わらず、いつでもどこでも、命ぜられる時に。

10-orchestra-femminile-di-Auschwitz_GF.jpg

この写真は実際に撮られていたものか、それとも後の映画のシーンか
よく分からないのを、お断りし。


彼女達は、アウシュヴィッツの男性オーケストラも同様と思われますが、

他の囚人達に比べ、より良い食事を与えられ、重労働は免除、
より暖かい衣服を、着崩れが少なく、毎日洗濯でき・・、
つまり一言で言うと、地獄の最深部にある、小さな天国の一郭とも。

ナチス側にはロゼが収容されて以来、素晴らしいファン、かの医者の
メンゲルやヨーゼフ・クラマー・ルドルフ・ヘスの副官もおり、

許される範囲の様々な特権を与えられた事が窺えますが、
カポ・ユダヤ人看守同様に、個室も、と。


ロゼはコンサート中の指揮、そして時にヴァイオリンのソロ演奏、
そしてオーケストラを優れたグループに変える事に貢献し、

リハーサルの時に、メンバーや他の囚人の精神向上のために、
ポーランドとユダヤの作曲家による禁じられた音楽を演奏させたり、とも。

が、こうしたビルケナウでの10カ月後、1944年4月5日彼女は
恐らく食中毒、と言われる急病で37歳の死を。

こうした彼女の努力にもより、オーケストラのメンバー達は
「余命4カ月未満」
と言われた収容所生活を、彼女の任期中も死後も生き残り、
2人のメンバーを除く全員が生き抜き、戦争終結を迎えます。


オーケストラの様々な事情、については、仏人の歌手兼ピアニストの
ファニア・フェネロン・Fania Fénelon(1908-1983)が 詳細に
書き残こしたものが出版されており、

これは「Playing for Time」として映画化も。


11-smadchenorches0000fene_0001_GF.jpg

この本は「アウシュヴィッツの女性オーケストラ」と。


映画の中で主人公ファニアに扮したのは、ヴァネッサ・レッドグレーヴ。

12-Fania-Fénelon_GF.jpg


そして他の一場面。

13-560x420_GF.jpg

shinkaiは昔一度TV放映で見た記憶がありますが、
歌手に扮したヴァネッサの歌の下手さに落胆もし、
こうした状況内でのあり得る事だろう様々な忌まわしさの描写に、
正直少々辟易した事を覚えています。

今見たら、また違った感想かも、ですが。


ファニア・ファネロンは1943年にこのオーケストラに加わった様で、
となると、アルマ・ロゼとどちらもが同じ頃に顔合わせをした事になり、

後年のフェネロンの自伝に描かれたアルマ・ロゼの様子は、

部下に厳しい懲戒規則を課す、これはドイツ人たちを喜ばせ、
良い印象を与える為であり、良く世話をされ、きちんとした服装を
するなどの特権と物質的利益を得るためで、
マチスの要求にすべてを従った、と非難し、

また同じメンバー間のあからさまな恋愛や売春もほのめかし、等と、
ロゼの友人やファンの激しい反応を引き起こしたそうで。

そして映画の主人公に扮したヴァネッサ・レッドグレーヴに対しても、
まず彼女の政治的信条に対し、そして自身は背が低いのに、彼女は
高いなどなど、たくさんの反対意見を強硬に述べていたそうで。


なんと言うのか、2人とも同じ状況にいたのに、死後にあれこれと
先だった者を引き下げる様な言動は、あまり聞き良い物でなく、
・・これは日本人的信条かもしれませんが。

あれこれ読む間に、このビルケナウでの女性オーケストラの記事は
書くのをよそうか、とまで思ったのでしたが、

を読み、フェヌロンの「アウシュヴィッツにはオーケストラがあった」
という本に、
音楽家たちの、肉体的な苦しみもあったものの、それ以上に心理的な
苦しみが描かれ、

特定の特権を享受しているという意識が酷い罪悪感を植え付けたり、
まもなくガス室に送られる他の追放者の前で演奏するのを強制されると
さらに悪化した、のみならず、

オーケストラを存在させてくれた人々に対する物議をかもす
感謝の気持ちが、罪悪感にさらに深い恥辱の感情を加えた、と。

(親衛隊の)残虐行為を知らなかった訳でなく、彼らに出来る限り
最善を尽くして演奏したり歌ったりする生存本能が、
彼女らの名誉意識と自分自身への愛を圧倒し、押しつぶした、と。

アウシュヴィッツ・ビルケナウでは人間は絶滅し、ともに人間の道徳も
消滅し、残るのは、何を犠牲にしても生き続け様とする試みだけ。

囚人同士の残虐行為、他人の痛みに対する鈍感さ、共感力の萎縮。


等などに対し、

アルマとファニアは希望と生存の象徴であり、痛みを伴う
芸術の担い手であり、絶対的な悪であっても、情熱がどの様に生き残るか、
抑圧者の犠牲者に陥る事から情熱がどの様に救ってくれるか、の例である。

と書かれているのに、そうなんだよね、と思い返し、
上の部分を皆さんにも読んで頂きたく、ご紹介いたしました。


14-1-DPSPTM7L_GF.jpg

アルマ・ロゼの急病に対し、かのメンゲル博士自身が世話をし、
残虐者の名を取るマリア・メンデルも彼女の死を悼み、
歴史的前例のない、ナチスはユダヤ人音楽家の追悼式を行ったそうで。


こうしてアルマ・ロゼという強い引率者を失った後は、オーケストラの
指揮者はロシア人の囚人に変わり、選曲も一貫せずで、

1944年11月1日、ユダヤ人メンバーは家畜運搬車でベルゲン・ベルゼン
収容所に送られ、そこにはオーケストラも特別な特権もなく、

1945年1月には、アウシュヴィッツ-ビルケナウは解体され、
オーケストラの他のメンバーはベルゲン・ベルゼン送られ、
2人が死亡、おそらく病気が原因で、

でも他のメンバーは終戦迄生き残り、これこそアルマ・ロゼの
願った事だったのではないでしょうか。


正しい文は記憶に朧ですが、
アウシュヴィッツの女性オーケストラにとって、ヴァイオリンは
シンボルとなり、
また唯一持ち出せる楽器であった、とありました。

15-COPERTINA-2_GF.jpg


ずいぶん昔、リュータイオ・弦楽器制作者になる為にイタリアは
クレモナに留学した方からお聞きした事がありますが、

彼の先生はユダヤ人だったそうで、その思い出に、
 家の一番良い場所にヴァイオリンが常に架けられていた。
 それは何時か他所に行ける時に、すぐ持ち出せるように、と。

という言葉にどこか通じるものとして、今回も一つ私の中に残りました。


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・ 中世の子供たちはどの様に暮らしていたのか

先回の「中世の寝室」に続き、もう一度中世の慣習のお話を。

中世のあれこれについては、なんとなしに分かっている様な、
無い様な・・。 どこか、ホンマかな?という部分が常にあり・・。

今回のお話は、先回同様中世学者のキアーラ・フルゴーニ・
Chiara Frugoni氏の本
中世に生きる  女、男 そしてとりわけ子供達」 を基にした

1-copertina_GF.jpg

今回の記事タイトル通りで、
Come vivevanoi bambini nel Medioevo
https://www.focus.it/cultura/storia/come-vivevano-i-bambini-nel-medioevo
です。


まず、新生児が描かれた絵画でいつも見る、このおくるみ姿!
こちらはジョットの描いた、パドヴァのスクロヴェー二礼拝堂
生誕」場面。 1302-05年作

2-1302-05-midwife_salome_cappella_degli_scrovegni_GF.jpg

さすがキリスト様! 生まれたばかりというのに、シッカリと母上
マリア様を見つめる威厳あるお姿ですが、でもぐるぐる巻き。



そしてこちらもジョット作、1303年 のおくるみ姿。

3-1303_c2bassa_GF.jpg

で、乳母が赤ちゃんの鼻をつまんでいるのは、泣いた時に鼻をつまみ、
肺が開くように、という事なんですと!


説明によると、とにかく生まれるとすぐにおクルミに包まれた様ですが、
それは柔らかい骨は支えられないと変形する、と考えられていたからで、
ですが当時のそれは、まるで拷問に近い行為で!

1256年に医師のアルドブランディーノ・Aldobrandinoは、

4-Aldobrandino_da_Siena._GF.jpg

乳母に、新生児に手足の望ましい位置を獲らせ、必要に応じて折り曲げ
「美しい形を与え」、そして布を巻く。 と書いているそうで。

ウィキペディアの伊版には、イタリアの医師、作家 シエナのパヴィア系
の家庭に生まれ、イスラム医学、サレルノ医学校の教訓に従った
衛生法と栄養学、を出版しているそうなので、これからの教えなのかも。

イタリアに留まらず、フランスにも行き、最後はウィーンで亡くなった様子。

中世のサレルノの医学校は大変に有名だった様で、こちらにちょっぴり

n.1 サレルノの街、ちょっぴり旧市街とドゥオーモ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468060215.html


とにかく、おくるみに包む、というよりも、2mの布が必要だったという、
窮屈なぐるぐる巻きに見えますが、
子供の体を変形させないようきちんと行わなければならないと!


で、布の色は社会階級を示し、貧しい人は黒(麻)、黒というよりも
茶色だったのかも、で、貴族は白、または赤と。

おクルミにする、というのは、オムツの代わりも兼ねていたのでしょうから、
その都度の取り換えもなかなか大変だったでしょうねぇ、
赤ちゃんにとっても!


で、この中世の赤ちゃんのぐるぐる巻きは、いつ頃から自由になったのか、
その辺りは分かりませんが、

中世からルネッサンスへの移行期となると、レオナルドの作品 
岩窟の聖母子」1483-85 にも「赤ちゃんのフリー・スタイル」
が見られ、見る方もホッと。

5-Leonardo_Da_Vinci_Vergine_delle_Rocce,1483-85_GF.jpg



生き残った子は幸運だった

「中世」と呼ばれる時代、通常5~15世紀迄の非常に長い期間を
通し、乳児の死亡率は非常に高く、

一部の歴史家によると、子供の3人に1人は、5歳になる前に亡くなったと。

これは1499年末の子供の埋葬図

6-fig_28_c2bassa_GF.jpg


裕福な階級では、生来の母親が母乳で育てる事は殆ど無く、
むしろ母親が新たに妊娠できる様、父親が「契約」で雇った乳母に
子供を預けるのが普通だったといい、

で、乳母との契約が終了すると、父親の命令で、子供が次の日から
乳母の乳からお粥に変わる事が起こり!

大体にして、この離乳食への移行は早すぎる事が多く、重大な健康
リスクを伴い、ひいては死亡も引き起こしたそうで。



睡眠時の危険性

新生児が陥る可能性のある致命的なリスクの1つは、ベッドからの転落で、
この出来事は決して珍しい事ではなく、シモーネ・マルティーニが描いた
この作品の様に、1324年

7-fig_36_c2bassa_GF.jpg

揺りかごから落ちた子供を、福者アゴスティーノ・ノヴェッロ
救う場面。というか、生き返らせる奇跡の場面。

この絵の揺りかごは、床に置かれた揺りかごではなく、ロープで天井から
吊り下げられたもので、ブランコの様に押される揺りかごですね。


またもう一つの危険は、子供を添い寝させた乳母に、新生児が
押しつぶされて窒息死する可能性もあったと。



そしてもう一つの危険は、野良犬
年長の子供たちが町に出始めた時、もう一つの脅威は犬の攻撃で、

8-fig_64-c4_GF.jpg

余りにも頻繁に起こる為、不注意な乳母が、他の種類の事故を
隠すための「言い訳」として使われる可能性があったそうで。

こちらもシモーネ・マルティーニ作の、福者アゴスティーノ・ノヴェッロが
犬から子供を救う場面。


福者アゴスティーノ・ノヴェッロの奇跡を描いた絵画、実物大はこちらで、

9-Beato Agostino Novello e quattro suoi miracoli, dalla chiesa di Sant'Agostino (Siena), Pinacoteca Nazionale di Siena_GF.jpg

真ん中に福者アゴスティーノ(1240-1309)、耳元で囁く神の声の天使。

左側の下は、2階のテラスから落ちた子供を救っている場面で、
右上は、これは旅人が山道で落馬したのを助けられたのか、子供では
無いと思うのですが、
子供を助けた奇跡により、福者として崇められている方。

シエナのサン・タゴスティーノ教会に元はあった祭壇画で、現在は
シエナの国立絵画館に収蔵。

サン・タゴスティーノ教会、ってどこにあったっけ、と地図を見ていて、
建物だけは、谷越しに見ていた事に気が付きました。

シエナ  サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話
https://www.italiashiho.site/archives/202301-1.html



で、再び、中世の子供たちの大変さ、に戻りまして、

家庭内での教育 

子供が幼い間は、現在でも同じ様な、家庭内で果物の名前から
文字を教えたり・・。

10-570xN.4253563670_hqp2_GF.jpg

この図は現在のものですから、当然当時は無かった果物も多いですが、
きっと野菜を調理しながら名前を教え、皮をむきつつ切り取ったり、も。
これも現在と同じですよね。


アルファベットの文字を装飾に使った、こんなカップなどもあった様子。

11-fig_82_c5bassa_GF.jpg



アベチェーダリオ・abecedario と鞭

そして裕福な家庭の子供たちが成長すると、痛み、がやって来ます。
つまりご褒美に基づいた家庭内教育から、罰と刑罰で構成される
教師による教育に移行するわけで。

12-fig_90_c5bassa_GF.jpg

この絵からもわかるように、教師はしばしば鞭と関連付けられており!
現在ウィーンに保存されている1273年の原稿、だそう。

読む事を学ぶ為に生徒たちはアルファベットが書かれた石膏下地が
塗られた木の板を、
上端近くに穴があり、それを紐で腕にぶら下げて運んだそう。

文字は板面に、1行に4文字ずつ配置され、子供達は一日に4文字を
学ぶように推奨されていたのだそう。

で、初日は a b c d の文字に捧げられ、

そこから abecedario・アベチェダーリオ という言葉が付けられたものと。
なるほどぉ。


この話題だと我々はすぐ、寺子屋、を思い出しません?
悪さをしたり、怠けたりすると、時には拳骨位貰ったかもですが、
鞭とはねぇ! 


で、子供たちの学ぶ姿、という図をパッと思い出したのが、
ヴェローナのサン・フェルモ・マッジョーレ聖堂・San Fermoで、
こちらを。 

13-20060621214653_t_t_GF.jpg

先生は高い席に座り、子供達を監視し、子供達はしっかり聞く子も
ボケ~っとしている子も、ははは。


クリプタへの階段脇にあったのも記憶どおりでしたが、こんな感じで。

14-IMG_20190116_163017_GF.jpg

n.2 ヴェローナ 中心部 ・ Verona Centro
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462246409.html


で、撮った写真がどこに紛れたか見つからず焦りましたが、旧ブログの
記事の説明ではよく分からず、サイトを見に行き、

なんとも凄い見事な木組み天井と、

15-San Fermo - Soffitto-2_GF.jpg



マンテーニャの有名な祭壇画がある教会、というのも思い出しました。

16-V29_8298_GF.jpg


2度行ったのに、祭壇画はともかく、天井の木組は見てない!
のです。 情けなぁ、どこに目が付いているんだぁ!! 出直さんと。



皆で遊ぶ

このピーター・ブリューゲル・父 が1560年から製作したこの絵の中に、

Pieter_Bruegel_the_Elder_-_The_Painter_and_the_Buyer,_ca._1566_-_Google_Art_Project_GF.jpg



子供から少し上の若者まで200人以上が、100以上の遊びを
しているのだそうで!

17-fig_123_c6bassa_GF.jpg

でも今の時代から見ても、当時の子供達との遊び自体は余り変わって
いない様ですねぇ。

左下角・女の子2人が向き合って白い物を投げ上げている、距骨とあり、
つまり羊や雄羊の踵の上の短い骨、を投げ上げて、何の動物かを
当てるゲーム、だそうで、まぁ、これは今はしませんねぇ。

傍らの戸口内では、人形で遊んでおり、 最初の2人の女子の背後の
テーブルでは、右に鳥かごを作りつつ、鳥と遊んでいる子がおり、

真ん中の水色の子は、シャボン玉、の様で、壁際の少し大きな子は、
真ん中の棒にプロペラ状のものをつけ、下で糸を引き、それを回し。

壁に添って上を見ると、多分目隠しの鬼ごっこと。

上方には、花嫁ごっこ、行列しており、 馬飛びをしたり、 竹馬も見え、
鉄棒ならぬ、横木で遊んでいたり、 左上のテラスではこま回し、
一番下手前では、輪回しも、 ecc.ecc.


それ用に作られた玩具は殆ど無いようですが、子供達は自分達で
なんとかやって楽しんでおり、

何よりも当時の子供時代は、非常に短い期間だった、と。

このブリューゲルの「子供の遊び」はウィーンの美術史美術館に。



男子向けのゲーム

男の子達は主に屋外で、独楽・コマ、輪、羽・テニスなどを使って遊び、

18-fig_114_c6bassa_GF.jpg

実際には、羊飼いが上から群れを統御し、家畜の間を素早く移動する
為に使われた竹馬もあり、

冬が近づき豚が屠殺されると、子供達はその膀胱を貰え、膨らまし、
風船のようにして遊んだりも。



人形

小さな女の子が遊んでいる姿を描いた中世の作品は殆ど無く、
人形を持って描かれた小さな子供達は、より高い社会階級に属します。

19-fig_96_c6bassa_GF.jpg


下層階級の女の子たちは、おそらく人間の形を真似た木片で遊ぶのに
満足していたでしょうが、それにしても一般的に少女達には殆ど無かった
に違いなく、

家に居る事が多く、母親の役割を学び、家事の手伝いをした、というか、
させられたのですね。

そして上流階級の女の子の持つ人形は娯楽以上に、彼女を待つ
未来を形作る役割を示し、つまり妻や母親、あるいは修道女。

そうなんですね、女子が多いと上の子は結婚しても、持参金の問題も
ある為、修道院に閉じ込められた様で・・。


上の肖像画の2歳の女の子は、完全にドレスアップした人形を持ち、
オーストリアの将来の女王イザベッラ(エリザベート)・Isabella,Elisabet

1502年作 ウィーン、聖ジョージ・ギルドのマスターの祭壇画に。



という所でサイト記事は終わっているのですが、このオーストリアは
ハプスブルグ家出身のイザベッラ、とその周辺について調べると、
かなりの驚きがあったので、お話しますね。

彼女、将来のデンマーク王妃、ノルウェー王妃、スウェーデン王妃と
なった方ですが、(1501-1525)僅か23歳で亡くなるという・・。

20-Elisabethofdenmark_GF.jpg


父は美公フィリップ4世ブルゴーニュ公、母がカスティーリア女王ファナ・
狂女ファナの次女として生まれ、神聖ローマ皇帝カール5世の妹、
という一家の出身。

母、カスティーリア女王ファナ

21-Juan_de_Flandes_003_GF.jpg


母親が精神に異常をきたし養育が出来ない状態であったので、
他の兄弟姉妹と共に、叔母のマルグリットがネーデルランドで養育。


1515年14歳のイザベッラはデンマーク王クリスチャン2世の妃として
嫁ぎますが、クリスチャン2世は粗暴で残虐極まりない人物!

こちらが夫となったクリスチャン2世(1481-1559)
かなりの年の差、20歳ほどの違いが。

22-_2659415518863163392_n_GF.jpg


政治面でもかなりの残虐さを見せた様子ですが、ここでは夫婦関係に絞り、

1507年頃からオランダ人少女ディヴェケ・シグブリッツダッター・
Dyveke Sigbritsdatter、(1490年頃生まれー1517.9.21)
皆さん、一度で発音OK、この名?!

美しい普通の少女、というのですがぁぁ、彼女が17歳位から
クリスチャンの愛人となり、彼にとってはとりわけ重要な関係となり、

23-DyvekeSigbritsdochter_GF.jpg


正式の婚姻関係を結んだイザベッラを顧みず、大変に厚遇していたのが、
彼女の母親が娘を煽り、自分の兄弟や従兄弟たちもデンマークに
呼び寄せ、政治の中枢に据え牛耳った、ともあり、

オーストリアのハプスブルグ家にとって非常に大きな国際政治ゲームの
1つとなり、デンマークの貴族を利用しての「ディヴェケの毒殺事件」に。
この貴族トーベン・オックスは、有罪証明は無かったものの、死刑に。


2人の物語は当時の世論に衝撃を与え、人気物語となった、と
ありましたが、はぁ、さもあらん、ゴシップは大きい方が面白いですものね。

王妃イザベッラは、クリスチャン2世が失政し王位を失い、亡命を
余儀なくされた後も、国に戻ることなく、死ぬまで暴虐な夫と共に生き、

貞淑な妻、とは思っても、経済的にも大変だったらしい生活、を読むと
気の毒であり、王妃の名のみの、抑圧され続けた人生だったんだろうな、と。

中世も終わりに近い、ルネッサンス間近な、ヨーロッパのお話でした。


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posted by shinkai at 02:25Comment(0)・欄外

・ 中世の寝室で、睡眠以外に、行われていた事すべて!

朝スマホをつけた時に入って来るニュース以外に、ピピっと響く
興味ある記事があると、PCで見に行き、
そこからリンクしている記事にも飛びで、あれこれたくさん貯まります。

ええと、つまり私めは興味があるとコピーして置くからでして、
ブログの記事はそんな中から、その時の自分の気分に合うのから
選びます。

今回のタイトルはちょっと物思わせ気味でもありますが、
実際にサイト記事のタイトルのままで~す。
  
中世の寝室で行われていたすべてのこと(睡眠以外)
Tutto quello che nel Medioevo si faceva in camera da letto (oltre a dormire)

今週火曜の朝に酷い目まいに襲われ、前日に食べた物が当たった様で、
水曜の夕方までぐったりしておりましたが、何とか回復。
がお陰様で、昨日金曜には無事プール体操にも復活出来ました。

そんな気分低調な時に選んだもの、とご了解くださいませませ、ははは。
で、今回の記事には、次に見える最初の写真しかなく、
shinkaiは自分の知識も広める為、ははは、せっせと写真を集め、
それを一緒にご覧いただきますね。

では。
1-letto-medioevo---nascita-di-maria_1020x680_GF.jpg


中世において、貧乏人も、お金持ちも、王様も共通点が1つ、
それは、たくさんの事が行われる場所が寝室だった事!

つまり料理をし、来客を迎え、時に殺人事件なども組織する、
そんな何でもできる、した、日常生活の場が寝室だった、と。

上の細密画は、マリアの誕生、1476年 トリノ国立図書館蔵

という事で、現代の生活からかなり離れた「中世」と呼ばれる
社会に忍び込み、「当時の寝室」がどんな役割だったかを探ってみる事に。

つまり「中世における寝室」は、家の最も重要な部屋、暖炉がある部屋で、
現在の我々の様に夜だけ使用するだけでなく、
家族の経済状態の指標だったのですね。


中世におけるベッドは、我々のベッドよりも短くて、広かった事!
これは彼らは体調が短く、とりわけ完全に横たわらず、
胴体と頭を高い枕で支えて、半分座った状態で横になっていた為で、

これは消化を促進し、不適切は食生活によって多くの人が苦しんでいた
胃食道逆流症(現在はこう呼ばれているそうで)を避ける為の姿勢と。


このベッドが短い、というのは、古いお城の寝室を見学して何度か
目にしていますから、大いに納得です。
こちらはパルマのフォンテネッラートの城、要塞にあった寝室のベッド。

2-16-fo8_GF.jpg

済みません、きっと前にグループがおり、ちゃんと写っておらずですが、
頭部側と足元の支柱の空き具合を見て下さいね。

n.1 パルマの城 フォンテネッラートと、パルミジャニーノの壁画
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461920023.html


家具が備え付けられている古い城、要塞は結構あるのですけど、
フォンテネッラートの城は、近年までご子孫が住んでおられ、
市に売却したというので、家具が元々備わっていたものである、と
思えるのですが、

かっての古い家具を寄せ集め、というのが多いので、見学の時の
解釈にご注意を。


そしてもう1つ、こちらはパドヴァに近いブレンタ川沿いの
ピサーノ家のヴィッラ、にあるナポレオン1世のベッド。

3-65553_4cafe69262_b_GF_GF.jpg


こちらはもう中世では無いものの、豪華でもやはり長さが短いのですね。

ヴィッラ・ピサーニ  ・ リビエーラ・ブレンタの、ヴィッラの女王  n.1
https://www.italiashiho.site/article/451355497.html


で、中世のベッドは長さが短くとも、幅に関しては全く違ったと!

当時一人で寝る人は殆どおらず、同じ毛布の下には夫や妻、子供達、
時には著名な客人さえも!

例えば?

14世紀のプラートの裕福な商人フランチェスコ・ダティーニ
Francesco Datini と、その妻マルゲリータのベッドの幅は3,5m!!
まさに練兵場、と言える広さ。

練兵場、という言葉は、shinkaiではなく、記事からで~す、ははは。


こういった幅の広いベッド、なんぞは当然古いままのが残っておらず、
ちょっと想像できませんが、
有難い事にこのフランチェスコ・ダティーニ(1335-1410)という方、

4-Filippo_lippi,_madonna_del_ceppo,_1453-52,_da_pal._datini,_04_francesco_datini_GF.jpg


裕福な商人、どころか物凄く裕福で、おまけに素晴らしく立派な、と
いうのか、全財産を貧しい人々に残し、この目的で財団を設立し、
後々までも様々に貧しい人々を救うために役立った、というのですね。

現在彼の家は博物館・パラッツォ・ダティーニ として残っており、

ここでは到底彼のすべてを記せませんので、
ウィキペディアの日本語版、フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニなり、
お読み下さる様お願い致します。
 

彼が40歳になり結婚した16歳のマルゲリータ・Margheritaについては、
当時の女性の生き方、として感銘を受けましたので、
今回の分家・絵のブログの方に書く事に。


という事で本筋に戻り、

現在残る、パラッツォ・ダティーニと、その前の彼の彫像

5-palazzo_pretorio_statua_datini_prato_GF.jpg

7-Palazzo_datini,_camera_terrena_a_due_letti_02_GF.jpg


当時の幅の広いダティーニ家のベッドは、当然残っておりませんが、
現在博物館になっている1階にある寝室
ダブルベッドの部屋、として写真があり、

7-Mapcarta_GF.jpg

大きなダブル・ベッドが、2つあったとしても驚かない部屋ですねぇ!



そして壁のフレスコ画。

8-1-Palazzo_datini,_camera_terrena_a_due_letti_GF.jpg

確かに、お客人を迎えおもてなしをし、夜も一緒にお休みになった、
と言われても驚かない部屋の装飾ですねぇ。



そして、別にも寝室があり、こちらにはベッドが1つと。

8-2-Palazzo_datini,_camera_terrena_a_un_letto_00_GF.jpg



こちらは壁に聖クリストフォロの壁画が見える階段脇。

9-20230224164138_museo-di-palazzo-datini_4_GF.jpg

階段脇の吹き抜けに壁で囲まれて膨大な彼の記録、帳簿、書類、
手紙などなど15万点が保存状態が良く残されていたのが、
19世紀になった初めて発見され、

これが14世紀の経済生活の情報源となり、学者たちの研究源となり、
離れた生活の中で交わされた夫婦の手紙150通もあるそうで!


フランチェスコ・ダティーニについて出版されている本
プラートのパラッツォ・ダティーニ・千年続くように、造られた家

10-ZNkdnMFL._AC_UF1000,1000_QL80__GF.jpg


再度、本筋に戻りまして、はは、

共有、のベッドには、息子や娘、家の使用人達、時には僧侶達も、
旅館の客達が利用し、

大きな町では、ベッド毎に最大6人、が利用したそう!で、

病院では患者たちが一緒に寝ていたそうで!!



イタリアの中世学者、として有名なキアラ・フルゴーニ
Chiara Frugoni (1940-2022)の著書の、

11-Chiara-Frugoni_GF.jpg



中世のベッド・どの様に、誰と」 の中に、

12-cover-a-letto-nel-medioevo-frugoni_GF.jpg


「衣服は通常、鼠からもかなり離れた壁の間に張った棒に、投げる」と。
つまり当時の文献資料や細密画もこれを証明している様に、

シーツの下には、何も着ておらず、(虱やノミが取り付かぬように)

が、頭に帽子を、白い布製のキャップを被るのは絶対的なもので、
これはファッションでも気まぐれでもなく、
虫よけ、寒さ避け、だった様で。

13-a-letto-nel-medioevo-1-1775909_GF.jpg


こうして細密画に描かれたベッド、人々は、上流階級クラスの様で、
ちょっとばらしますと、上の絵は貴族の様で、

帳で囲まれたベッドの、右側の隙間から使用人が覗いており!


下の絵は、赤ちゃんが届いておりますねぇ、おめでとうさんです。



そして夜になると、寝室にしかなかった家の暖炉が、他の蝋燭と同様
注意深く消され、これはもう未だ木製の家が多かった時代の
火事の危険を恐れたためで、

夜の寒さから身を守るためには、帽子だけでなく、永遠の冬の様に、
ほぼすべての季節、暖かい毛皮とシーツの上に、毛布を何枚も敷く
必要があったと。

実際夏の日本と違い、ヨーロッパの夏は乾燥しており、夜になると
夏でも肌寒い程ですし、

当時の暖房システムが不十分だった時代、隙間風は緩んだ窓枠
からも、天井の木の梁の隙間からも侵入し、
人々の寒さに苦しむ感情は、きっとしっかりと植え付けられた感覚で
あったろうと。

と、もう1つの敵は湿気で、家の中の床は打ち込んだ土間であり、
煉瓦は危険は残り火を避ける為に囲炉裏の周囲とその少し周辺に
のみあったのですね。


当時の貧しい農家のベッドは、こんな感じに近かったのかも、ですね。

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とか、こんな風に納屋造りの小屋の中に、一番奥にはきちんとした
ベッドが見えますが、他は、手前の小屋の端に長く付けられた棚状の
上に藁を敷き、薄物を敷いて寝ていたのかも!

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そして時代が少し下がり、裕福な人々にとってベッドは裸の床から
隔離され、厚い木製の台の上に置かれ、その上に羊毛か、
鵞鳥の羽の詰め物マットレスが敷かれるようになり、

一方貧しい人々は、裸のマットや質素な藁のマットレスで寝ており、
通常は頭に帽子さえ被っていませんでした。

こうした状況を考えると、中世において安らかに眠る為には、ベッドの
温かさとしっかり保護された頭がいかに重要であったかが分かり、

当時の幾つかの年代記が書いている様に、
良き妻は、夫のために美味しい夕食を用意するだけでなく、
温かい夫婦の「ベッド」を用意し、頭に帽子を正しく被る事も心配
しなければならなかったのでした。


逆に、時代がも少し遡り、大聖堂の時代、と呼ばれる中世12,3世紀
には、寝室は現代のリビング・ルームと同様に、眠る為だけの部屋でなく、

昼食をとったり、来客を迎えたり、ゲームをしたり、勉強したり、
日中もいつも賑わった部屋でした。

ベッドのある、暖炉のある部屋では、暖炉を使って暖を取りながら
料理をする事がよくあり、


細密画にも見える様に、壁には棚や流し台、皿、グラス、
水差しを備えた食器棚がありました。


もう1枚、細密画の「聖マリアの誕生」をどうぞ。
部屋の一番奥に見えるのは、今は火が見えませんが暖炉で、
多分真ん中に下がっているのは、肉を焼くために吊るす金具で、

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左側には食器棚が見え、その手前には何か入った鍋が置かれ・・。



最初に見て頂いた「聖マリアの誕生」にも、奥に置かれたテーブルには
水差しやら、調理鍋が見え、

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右の壁の暖炉の横には、どうやら水で洗いものを、つまり流しらしきもの、
もある様に見えますね。



これらの細密画は15世紀のものですから、いずれも寝室の定義は
様々な事が一緒に行われていた部屋、となりますね。


で、食事をする時は、人々は衣類やその他のものを入れる箱・櫃に
もたれ掛かるか、取り外し可能なテーブル板、食事の後は壁に対し
垂直に置かれる架台の上に置かれる単純な板を使い、

皆が座ったベンチも、背もたれ用の取り外し可能な板が付いていたそうで。


そして寝室は、訪問者を迎えるのにも理想的な場所で、これは暖炉の
暖かさと、ソファの先祖であるベンチやチェストに置かれたクッションの
柔らかさ、との両方で。


そしてこれらは社会の梯子を上れば上る程に、部屋はより快適になり、
貴重な布地で覆われたクッションや、
街路の悪臭を覆う方向が備え付けられ、大切な客にも最適で。

従ってチェスをしたり、個人的な会話の為に寝室に招待する事は
今日に思われる程曖昧では無く、

出産、病気、死亡後だけでなく、日中寝室で人々を受け入れるのは、
通常の習慣であり、
実際時には重要な問題が議論されたりも、と。



最後に登場される方は、フランス国王ヴァロワ家のシャルル6世
Carlo VI Valois、(1368-1422)

1380年11歳で、父王シャルル5世没により、戴冠式。

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20歳で摂政を終わらせ、親政を開始、「親愛王」と呼ばれたものの、
20代半ばに精神病を発症し、すぐ「狂気王」の名も、という方で!

彼はカーテンから掛け布、天蓋に至る迄を強烈な青色の布地で完全に
覆われた豪華な王室のベッドの半分もたれ掛かりながら、
顧問たちを迎える習慣があったそうで!

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15世紀、リット・ド・ジャスティス・lit de justice・正義のベッド
と呼ばれる特別に整えられた環境で、大きな裁判が行われた、と。

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四角な席の一番奥、斜めの奥に、全部ブルーに、フランス君主の象徴
である百合の花柄と同じ衣装で、迷彩色様のシャルル6世!!
見えますかぁ?!


謁見や公式儀式のための部屋には、訪問者に感動を与える為の
特別に豪華なベッド「パレード・ベッド」もあったそうで、
父王シャルル5世のパレード・ベッドは、およそ40平方mだったと。


という事で、寝室は中世以降、明確な社会的指標となり、
13世紀のロマンス小説(「ランスロット・デル・ラーゴ」の名が)、
14世紀のボッカッチョ、その他多くの文学の中で「ベッド」が
際立っているのは、日常生活において最も重要だったことを語っており、

それらのベッドの幾つかが、陰謀、罠、合法的及び禁断の愛
殺人、秘密交渉に関わったのを語ったのは、偶然ではないので~す。

という事で、元の記事に引き回されつつ、ははは、
今回のお終いとさせて頂きま~す。


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posted by shinkai at 03:01Comment(0)・欄外