・ 画家ジョヴァンニ・バッティスタ・モロー二、 の「仕立て師」をご存じですか

で、新年早々にご案内した様に、

「ピエロの高さに・All’altezza di Piero」、つまり壁画の保存状態を
調べる為の足場をかける機会を利用し、その上から鑑賞できる様にと、

1月27日から3月12日迄の特別公開が、いよいよ始まります。

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予約がオンラインで発売され始めたのは、12月19日からで、
それが最初のオープンは10日間分だけ! そして2週間後に
次の2週間分、

そして私めが獲得したかった2月22日の午後のは
(この日は午後のみ公開)3回目の2週間分公開に当たり、

既にそれ迄に要領が分かっていたので、公開日の朝に即予約を!

木曜22日は午後のみで、1時間分6人の、午後14時からが
いち早く売り切れになるので、待ち構えておりました、ははは。

予約が取れ払い込みもし、そして列車のキップも購入、
本当に、やった~!! という喜びで、今は来月22日を待つのみ!

今キップ予約のサイトには、赤字でSOLD OUTが見事に並び、
先日のサイトには、イタリア全土からの予約だそうで、
既に10日ほど前に完売となったそう。

こんなチャンスは本当に特別なので、しっかり見て来ようと!

足場がどの様に掛かるのかが気がかりだったのですが、

2日前にチラッと出た写真では、こんな様子で、

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よっしゃぁ、近くからは良く見れそうだけど、対面の壁の見え様は?
とも思うものの、焦っても仕方なく、
もしこの土曜の初日のニュース写真が出れば分るかもと思い、我慢を。



で、実は今回の「アレッツォのピエロ・デッラ・フランチェスカの壁画」
のみでなく、もう1つ、同時期開催の展覧会があり、

今迄諦めていた、今回ご案内の「ジョバンニ・バッティスタ・モロー二展
Giovanni Battista Moroni展」がミラノである、
いや既に12月から開催中で4月1日まで、なのですね。


諦めていたのは、一番見たい「仕立て師」が、ロンドンの
ナショナル・ギャラリー収蔵品で、一度2015年~16年に掛けて
お里帰りをしていたので、

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ロンドンは遠いし、無理だなぁ、と思っていたのが、
なんと、ミラノにお里帰りで、  
モロー二(1521-1580). 彼の時代の肖像画」 という展覧会。

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サイト記事の中に幾つかのヴィデオ、イタリア語ですが、見れます。
https://gallerieditalia.com/it/milano/mostre-e-iniziative/mostre/2023/12/moroni-1521-1580-il-ritratto-del-suo-tempo/


中でも勿論展覧会の主役は、「仕立師・イル・サルト」ですが、

他にもたくさんのモロー二が描いた素晴らしい肖像画が展示の様で、
場所は、「ガッレリーア・ディターリア・Gallerie d'Italia-ミラノ」

えっ、これはどこに、と一瞬驚いたのでしたが、なんとミラノの
ドゥオーモ前からかのガッレリーアを抜けると、スカラ座の前に
広場がありますよね、 その広場の東側に!

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で、なんと大きな名前!と思いましたら、同じ名前のギャラリーが、
ミラノの他に、トリノ、ヴィチェンツァ、ナポリ と4つあり!

持ち主が、インテーザ・サンパオロ・Intesa Sanpaolo という大銀行!
はは~ん、と思った内部の凄さ、広さをどうぞ!

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収蔵作品もきっと多いのでしょうが、はぁ、お金持ちの様子は
まるで知らずで、色々書いてあったのを読むと、たくさんの美術館、
勿論ヨーロッパ圏からアメリカの美術館とも提携し、
貸し借りも含めて様々な美術展を開催している様子。



で、床模様が写っているので、ああ、これが現在の展覧会の様子、
と分った写真を幾枚かどうぞ。

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暗い背景の中に、でもきちんと肖像画全体がしっかりと見える、
きっと照明がLEDの計算された光源なのでしょう。

が、済みません、いつもであれば、これはどこの何様で、と
調べるのですが、今回はご容赦を。

肖像画と宗教画が専門だった様子のモロー二の作品で、ここ迄
出来が素晴らしく迫力あると、

肖像画を依頼する方の位の高さと態度、品格、そしてしっかり
お金のかかった衣装の見事さにも先にヘナヘナとなり、はぁ・・。


が、私めが本当に見たいのは数枚で、その内の1枚がこの少女。

レデッティ家の少女・Ritratto di bambina di casa Redetti
1570-1573年 43,3X33,2cm ベルガモ・カッラーラ美術館収蔵 

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多分5歳位の少女が、まさに大人同様の誇らしげな態度、つまり
既に周囲の大人たちによって自分の将来が決められているのを
知っている少女、なのですね。

白サテンのシャツの上に、濃い緑色の刺繍の入った黄土色の
スペイン風の上着を纏い、

少女の純潔さの象徴、そして将来の結婚生活の貞淑、
忠実のシンボルである真珠のネックレスに指をかけ、
右手の手首に見える赤珊瑚のブレスレットは、子供への
良い縁起を願うお守りであり、

顔を囲む髪のカールが愛らしいこの少女、許嫁者としての
紹介であろうこの様子は、

視線を下げず、大きな青い目でしっかりとこちら、観客者を見つめ、
身に着けた高価な衣装のみならず、性格の強さも示している。


というこの作品は、どうやら彼女の死後の作品らしいのですが、

見る限りには、彼女は確かに生きている人間としか見えず、

これがジョヴァン・バッティスタ・モロー二の主たる特徴である、
依頼者・モデルの性格、魂を把握し、キャンバスに転写する、
出来る方法、技術を持っていた、と。  確かに!!



ジョヴァン・バッティスタ・モロー二(1520-25頃-1578) 
彼の生涯については、あれこれ日本版ウィキにもありますので、
そちらをご覧頂くとして、

彼の生年月日は様々で、というのも、両親が正式に結婚
(1520,11,11)する以前の生まれだった様で、

ベルガモの北東アルビーノ・Albinoの生まれ、1543年頃には
既に独立した画家として活動していた様子ですが、
後に政権争いに巻き込まれ、10年程生まれ故郷に亡命も。

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彼は16世紀の後期ルネッサンスの実力画家と見做されますが、
かのヴァザーリの「偉大な画家列伝」に載るには時代が遅れ、

その為イタリア全土、世界での発見が遅れたものの、地元
ベルガモ周辺の貴族や聖職者たちのエレガントな写実的
肖像画で知られ、

それも従来の公式な肖像画の無味乾燥の固定化ではなく、

依頼者、モデルが身振りをする瞬間の「行動中の肖像画」と
定義できる肖像画を描いた、のですね。


今回特別にご覧頂きたい作品、私めが取分けおめもじを待つのが
この「仕立て師」で、これこそ彼の真骨頂の作品と。

Il sarto・仕立て師 1570年 99,5x77cm 
ロンドン・ナショナル・ギャラリー収蔵

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で、ウィキペディアのイタ版のお助けで、誰が依頼し、モデルは誰か、
のお話を。

確かな依頼者は不明、がまず前提で、 

多分デセンツァーノ・ガルダ湖南 出身のマリノーニ家・
Marinoniの代表者で、暫く前に芸術活動をやめ、
商売の為にヴェネツィアに移住していた、と推定されている方と。


地図で見ると、上のアルビーノの管轄内に含まれる、いわば隣村、と
いう感じでしょうか、
つまりモロー二の評判、作品の出来も良く知っていただろうと思われ、


マリノーニ家、芸術活動をやめ云々、というのは、

1494年の文書に既に存在する画家アントニオ・マリノーニの一家で、
息子達フランチェスコとアンブロージョと共に画家の第3世代が誕生、
第4世代も続き、16世紀に活動を終えた、という、

近隣一帯で活動し続けた画家一家、今も作品があちこちに、
の様子。

ウィキペディアのイタ版に、Antonio Marinoni の記述があります。


で、この作品のモデルを務めているのは、依頼者自身であろうと言い、
この機会にエレガントな衣装に身を包み、手入れの生き届いた髭の
人物の実際は仕立て師ではなく、

多分パンニーネ・pannineと呼ばれる毛織物の売り手だったろうと。

23-Giovanni_Battista_Moroni_001_GF.jpg


実際描かれているのは既製服ではなく、布地を切る動作を描いており、

中世では布の品質は非常に重要な要素で、誰もが高品質の
毛織物で作られた衣類を手に入れる事は不可能で、

衣類は、持ち主死後の遺産分けにも使われた、と読んだ事もあり、
高価な物だったのでしょう。

従って、布販売者は貴族ではなくとも、一定の経済的な楽しみを
享受出来た人だったと。


17世紀のスペイン・ファッションの幅広の膨らみのあるズボンを着け、
首回り、そして袖口から見える手首、には白いプリーツも見える
ファルセット・farsettoと呼ばれる上着を着ていて、


仕立て師は、少し横向きに立ち、手に鋏を持っての仕事中に
誰かに呼ばれて視線を向けた、という様子で、

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その動きの中に、画家はイメージの真実性、市民的であるものの
厳しい仕事をしている人々の視線の真剣さを描き、

描く画家の名声と、作品をも不滅にしたと言えましょう。


それにです、小さな声で言わせて頂くと、
モデルであり、作品依頼者の男性のセクシーな美男ぶりも
きっと人気の1つの要素に違いない、と思うので~す。

このちょっと冷たげな目線も、ね。 
そう思われません?!

23-Giovanni_Battista_Moroni_001_GF.jpg


この絵は元々ヴェネツィアのグリマーニ家が所有していたのが、
19世紀にフィリッツォーニ家・Frizzoni、邸宅は現ベルガモ市庁舎、
の家族の個人コレクションの一部だったそうで、

1862年チャールズ・ロック・イーストレイク・Charles Lock Eastlakeが
ロンドンのナショナル・ギャラリー開館の為に、美術品購入にイタリアに
来た時に購入されたもので、現在も彼の所有となっているそうで。

まぁ、彼の眼識が高かったとはいえ、売ってしまったのですねぇ、
まぁ、イタリアも貧乏だったのでしょうが・・。


ヴェネツィアのグリマーニ家、邸についてのご案内は

n.1 グリマーニ邸 ・ ヴェネツィア、ルネッサンスの館
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472868269.htm

n.2 グリマーニ邸 ・ ヴェネツィア、ルネッサンスの館
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472868405.html


で上記した様に、「仕立て師」のお里帰りは2015-16年にかけてで、
その当時はまるで彼の絵も知らずでして、

今回2度目のお里帰りでおめもじ出来ることになり、ニュースを
知った時の嬉しさは、本当に、わぁ~お!でした。

既に予約も済み、列車のキップも購入し、3月末を待ちます。


上にご紹介の2点以外に関心ある2点は、

29歳の紳士の肖像・Ritratto di gentiluomo ventinovenne
1567年 56x44cm ベルガモ・カッラーラ美術館収蔵

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こちら、ジャン・フェデリーコ・マドゥルッツォの肖像
ritratto diLodovido e Gian Federico Madruzzo  1562
Art Institute of Chicago収蔵 
   
いえ、このイカツイお顔の紳士ではなく、 すんまへん、

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傍に控えるワン君・ロドヴィード・Lodovido という名の、
この目つきを見た途端にお会いしたく・・!! むひひ。 

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という、予告編のご案内でしたぁ。

きっと実展覧会を見た後には、も少し他の作品についての関心も
広がる事であろうと、自分に期待もしておりま~す。



***

と、1月早々「俳優ラッセル・クロウのルーツは」の記事で、
「曽祖父はアスコリ・ピチェーノ生まれ!」とご案内致しましたが、

なんと「パルマの別の村だよ」、というニュースが出て、
今回の下「分家の絵ブログ」でご紹介しております。 ご覧下さいね。


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・ 俳優ラッセル・クロウのルーツ、 曽祖父はアスコリ・ピチェーノ生まれ!

映画ファンの皆様、そして、そうでもない方も、ラッセル・クロウ
Russell Crowe、はい、あの映画「グラディエーター」の主役、
なるとご存じですよね?!

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で、今年の年明け早々から、彼のニュースが携帯に次々と出て、
それが、彼のルーツはイタリアで、曽祖父はマルケ州の
アスコリピチェーノ出身、ルイージ・ゲッツィ・Luigi Ghezziと
分かったというのを、

彼自身が様々に追跡研究し明らかになった事を「X」に
一連の投稿で発表したのだそうで!

今回参考にした記事は
ラッセル・クロウのルーツとイタリア旅行への深い愛情
Le radici di Russel Crowe e il suo grande amore per i viaggi in Italia

彼自身イタリアが好きな様子で、昨年の夏はかなり長い間旅行・
滞在していたらしく、様々な小ニュースが流れました。

エミーリア・ロマーニャ州の大水害の被害救済のためのコンサートをし、
彼は元ロック・バンドをしていた、と読んだ事がありますから、
歌えるのでしょうね、それを寄付したとか、


ネットでこんな古い写真も見つけ、1984年、左側だそうで。

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あれ、これはウッフィッツィ美術館の廊下ではないの?! 

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右の方はウッフィツィの長だったアイク・シュミッツ・
Eike Schmidt氏。

素晴らしい手腕でウッフィツィの展示方法を変え、入場者数を
激増させ、  皆さん、ぜひぜひお出かけを!
昨年末の移動発表で、今はナポリのカポディ・モンティ博物館に。



こちらはローマのナヴォーナ広場だったか、12歳の息子の似顔絵描き、
それも戯画スタイルの画家を探して描いて貰っている所と!

周囲で見ている弟も、観光客も皆大笑いの良き思い出。

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という様な昨年の親密イタリア旅行を書き出しに、

今回のラッセル・クロウのルーツ探し、発見のお話を。

彼は長い間イタリア人の先祖を探していたのが、「民俗学的
家族の物語と、書き間違い」から、「間違った道」に迷い込み・・、

が最終的に、
「1864年にニュージーランドに到着した母方の曽祖父は、
1829年にマルケ州のアスコリピチェーノで生まれた
ルイージ・ゲッツィ・Luigi Ghezziだった」 事が判明したと。


こちらにマルケ州アスコリピチェーノの位置を。

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これは古いご案内で、 ・・後年再訪したのはどこに行ったのぉ?
アスコリ・ピチェーノ ・ クインターナのお祭り
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461029323.html

アスコリ・ピチェーノ ・ 夏の祭り
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461029151.html


で、このルイージは「パルマ生まれのアウグスティーネ・Augustine
(編集者によると、おそらく アゴスティーノ・Agostino)と
アンヌンツィアータ・Annunziataの息子で、

彼はアルゼンチンで働き、その後インドに向かったのが難破し
ケープタウンに辿り着き、そこでメアリー・アン・カーテン・
Mary Ann Curtainと出会い結婚したと。

その後二人はニュージーランドに移住したのだそうで、

何とも大変な、世界を股にかけての冒険、移住物語ですねぇ!!
このご先祖様のニュージーランド到着年は書いてありませんが、


ラッセル・クロウ自身は、1964年4月7日 ニュージーランドの
ウェリントンで生まれています。(もうすぐご還暦!)

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彼は自分の先祖について綿密な歴史的調査を実施し、
「ノルウェー人、イタリア人、スコットランド人、マオリ人」の
祖先を発見し、

近親者からのDNA検査で、「誰を介し、どの様にかは分からないが、
殆どがアイルランド人」であることが判明したそうで。


中には名の残る直接の縁戚者もおり、 
「父の母方で、1841年にニュージーランドに到着した
ジョン(ジョック)・フレーザー・John (Jock) Fraser」 とあり、


何者? 何をした人? という例の好奇心で検索し、分かったのがこの方

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真ん中がジョン(ジョック)・フレーザーで、左は息子のヒュー・Hugh、
サミュエル・Samuel、右という説明。 1870年頃の写真。

右目と頬の様子が少し変に見えるのは、きっと事故か何かで目を失ったのかも。


この写真の方達がラッセル・クロウの指摘した方とは未だ分からずとも、

ジョン(ジョック)・フレーザー  1810-1893
ヒュー・フレイザー  1833年生まれ
サミュエル・フレイザー   1851-1929 
とまで分かりました。

これによると、ジョン(ジョック)・フレーザーは、1814年5月9日
イギリスのスコットランド、インバーネス、ドーレス生まれ

没年は、1893年4月14日 78歳
ニュージーランドのサウスカンタベリー、ティマルにて。埋葬同地。

カテリーネ・フレイザーと、マリー・フレイザーの夫、 
にゃに?! 姉妹と結婚?

ヒュー・フレイザーとジョアンナ・クニングァムの父親。 
あれ、1人女の子が増え、姓も違う、 上のサミュエルはどこに?


と少々驚いたのですが、
ジョン(ジョック)・フレーザーの訃報の説明で納得したのは、

ジョンは1841年11月に「ウィットビー」号に乗って
ニュージーランドのネルソンに到着。
 
彼は4回結婚し、13人の子をもうけました。 で、納得で~す。

これでニュージーランドに到着の日付が、クロウの指摘した年であり、
この人に間違いない事も!


訃報の人物紹介によると、
彼はニュージーランドの初期入植者の1人で、1841年に植民地に
向かう最初の船の内の一隻からネルソンに上陸、
そこに約10年滞在した後、マールボロ、南カンタベリーに。

多くの友人の間でよく知られていた人で、土地を移りながら
息子と共に鉄道の建設に伴う「駅」に関心を持っていたと。
この辺り、建設業者的な仕事だったのかどうかは分かりませんが、

最後はプレザント・ポイント・Pleasant Pointに定住し、
主に家畜取引(牛の様)に従事した。

で今日の午後、この町の墓地に埋葬されます。 という事で、

最後の一行、
俳優ラッセル・クロウと、元ニュージーランドのクリケット選手
マーティン・クロウの三番(人)目の曾祖父、と。
Third great grandfather of actor Russell Crowe and former New Zealand cricketer Martin Crowe.


日本版ウィキにも載っているマーティン・クロウ 1962-2016、
ラッセル・クロウの従弟になる方はこちら。

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アメリカ移住者、開拓者の物語は良く映画で見ますが、
そうなんですねぇ、ニュージーランドも、オーストラリアも入植者の
開拓物語がたくさん、たくさんあるのでしょうねぇ。


で、もう1つクロウが語る「直接に関係があった人物」には、
イギリス・スコットランドの貴族、11代ロヴァット卿サイモン・フレーザー・
Simon Fraser, 11th Lord Lovat (1667-1747.4.9)がおられ、

10-Simon,_11th_Lord_Lovat_GF.jpg

「古狐」と呼ばれたこの方は、全生涯を陰謀と闘いに明け暮れ、
「確執と忠誠心の変化で知られていた」方なのだそうで!

最後は国王に対する反逆罪で有罪判決を受け、その後死刑宣告、
1747年4月9日にロンドン塔で80歳にして処刑に。

最後まで楽観的な態度で臨み、処刑の日に超満員の木の
スタンドが倒壊し、9人の観客が死亡したのを見て笑いだし、
処刑の時にさえ笑い続けていたのだそうで、

これが「(死ぬ時も)大笑いする」の諺の元となったのだそうで!
そしてロンドン塔で、実際に斬首された最後の処刑となったと。

ううん?と思いましたら、19世紀初頭までは多くの囚人が
死後に斬首されていたそうで、


そういえば、ロンドン塔での最後の処刑、というのに、
1941年1月に捕まったドイツ人スパイ、ジョセフ・ジェイコブスが
8月15日にロンドン塔の射撃場で銃殺に、というのを読み、

一体いつ、本当に最後になったのか、を知り納得したのでした。


いずれにしても11代ロヴァット卿サイモン・フレーザー 
については、クロウのご先祖様とどのような経緯があったのか
分かりませんでしたが、

彼に興味を持たれた方、英語のウィキペディアをどうぞ!
大変に破天荒な生涯を知ることが出来ますです。


そうそう、最後にラッセル・クロウの説明で、 
彼の母親の家族では、3世代に渡り、女性はクロウと呼ばれる
男性と結婚した、との事。

イタリア旅行の美しい写真も、多く投稿されている、との事で~す。


彼自身のルーツ発表に伴い、アスコル・ピチェーノの市長
マルコ・フィオラバンティ氏は、既に「名誉市民」として
迎える事を決めて待っているとの事で、

はい、彼はイタリアのあちこちを訪れているものの、
アスコリ・ピチェーノはいまだ訪れた事が無く、

次回にはきっと念願のイタリア系曽祖父の生まれた地を訪れ、
新しく晴れ晴れの素敵な笑顔が見れる事でしょう!


shinkaiは彼の映画も好きで、時々DVDを見直し楽しんでいますが、

昨年早々に見つけたPC技術関係・修理店、どうやら3人の友達で
店を運営しているらしい、その1人の目がクロウそっくりで、ははは、

時に店に行く時は内心とても楽しんでいま~す。


こんな目ね。  

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は~い、あんたは長生きするよ、と皆さんによ~く言われますです。


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posted by shinkai at 01:53Comment(0)・欄外

・ ヘドヴィヒ・ヘンデル、 ルドルフ・ヘス-アウシュヴィッツ収容所長の妻 と、   映画「ゾーン・オブ・インタレスト」

昨年6月にかねての念願であったアウシュヴィッツ訪問が出来ました。

あれこれの感想、そして現地で受けた既にかなり遠い印象もあり、

自分が受けた印象と考えを纏める為にも、少しでも真実に近寄り
知りたく、それぞれの事柄、関係者についてのいくつもの記事を、
出かける前から、そして戻ってからも、本当にあれこれ読みました。

既にアウシュヴィッツ=ビルケナウのご案内は済みましたので、

n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html

n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230924-1.html


今回は最初知った時はかなり驚いた所長ルドルフ・ヘス一家の事、
つまりあの強制収容所のすぐ隣脇に住んでいた所長一家の事、
彼の妻と彼らの生活振りについて知った事を今回ここに。

そして昨年カンヌ映画祭でグランプリを受け、この1月末に日本でも
公開される映画「ゾーン・オブ・インタレスト」が、

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内容は、どうやら私めの疑問に答えてくれる様な映画、と知り、
ああ、漸くに、と思い、昨年春以来公開を待っておりますが、

映画の資料となった現実との違いはない様子ですし、
アウシュヴィッツが舞台とはいえ、おどろおどろしい場面はなく、

1人の女性の生涯、という様な意味でも、彼女の後半人生は
これまたちょっと変わっており、関心をお持ちになれると。


アウシュヴィッツに関しては、所長であったルドルフ・ヘス・
Rudolf Höss(1901-1947)の手記もあり、

45年に渡る生涯を淡々と、ナチのSS軍人として最善を尽くす為に
大車輪で働き、麾下の軍人達の疑問も苦しみも慰め励まし・・、

を始めとし、他にもたくさんの記事が書かれておるものの、

あれこれ読む内に、アウシュヴィッツ強制収容所の地図に見える、
囲いのすぐ脇の所長住居に家族と一緒に住んでいたのが
最初に分かった時はかなりの驚きでした!

赤線で囲んだ収容所のブロックの右上角に見えるのが、所長宅。

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序に言いますと、左の林の区画の端に四角く囲ったのが、ガス室と
ガス窯の建物で、その横の小さな楕円は、ヘスが処刑された台。


こちらが現在博物館となっている、ヘス一家の住んだ元所長宅。

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左側の駐車場らしき横に塀があり、その向こうに見える赤い壁が収容所。



つまりヘスが仕事で転勤になる毎に家族も移り、アウシュヴィッツへの
移転は確か3回目だったか、
つまり彼らの5人の子供の内の4人は幼年期をここで過ごした事に。

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で、あれこれ最初に読んだ記事には、所長ヘスは妻の手料理を
楽しみ、家族を愛し、将来の非難を考え、家族の指紋等が
表に出ぬように気を使っていた、
ガス窯での処刑については妻に隠していた、というのは出ても、

妻なる人物については、出ていないのですね。

一般に人物伝には、X年にXXと結婚、と出るのが普通なのに、
X年に結婚、はあっても相手の名が全然出ないのがおおく、
逆にshinkaiの疑問と好奇心を引き、調べ、

遂に名前を知り、そうなると次々と分かる事も増えたものの、

他にも、彼女はあの収容所の外とはいえ、すぐ近くに住みながら、
塀の向こうで一体どんな感情を持っていたのか、など、
疑問を持つ人の記事も結構見つかり、そう、私も、と。


で、翻訳しつつ読んだサイト記事で知った事を纏めてご案内を。
  
最初に名前が分かり、その後検索したサイトで知った彼女の顔

親衛隊中佐ルドルフ・ヘスの妻 ヘドヴィヒ・ヘンデル
Hedwig Hensel

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1908年生まれ、 1929年8月17日 21歳で結婚。
2人には5人の子が生まれ、

1940年からアウシュヴィッツの所長宅に移り、
1943年迄ヘスはここで家族と共に生活し、ある種の安らぎを
得ていたと。

で、最後の子はアウシュヴィッツで生まれています。

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この家は、バス・ルームとキッチンを除き10部屋あり、

毎日通ってくる使用人が2人、これはエホバの証人の会員である為に
抑留された女性で、教義で労働を掟とするため、ヘスの家のみでなく、
子供の多い家、隊長官舎の清掃も、農場も、まるで心配なく任せられ、

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ヘスの家でも3年以上、2人の年配の女性に家事まかせっきりで、
子供たちの世話も素晴らしく、子供もなついていた、と手記に。

馬に情熱を持っていたヘスは、囚人兵舎よりも設備の整った施設の
厩舎を持ち、優秀な混血馬が収容されていて、

彼によると、疲労し鬱屈があり、そのまま家に帰る気がせぬ時に
馬に乗り走り、鬱を晴らしていたそうで。

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夫婦関係も問題なく行き、妻も特別に彼の仕事に関心を持たず、
夫の仕事場を訪ねる事も勿論なく、

料理上手な彼女は料理に気を使い、勿論上等な食品、ワインに
不足する事は無し、
欲しいものは何でも夫に言うだけで叶い、

素晴らしい花壇も持ち、到着のユダヤ人から没収した素晴らしい衣類、
毛皮なども届き、彼女は「ここはまるで楽園の様」と表現したと・・。

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ヘスが妻には仕事について、とりわけガス処刑については嘘をついていた、
というのは上記しましたが、

ガウライター・大管区指導者なるフィリッツ・ブラハトがアウシュヴィッツを
訪れた時、多分家庭の食卓に招いたものと思いますが、

その時に彼の発言を聞き、ヘスの妻は夫が「ユダヤ人のガス処刑」を
している事を知り、以来夫とベッドをともにする事を拒否した、と。

この事は夫の方も、妻が事実を知って以来、2人の関係は余りない、と
漏らしたそうで・・。
  
妻がアウシュヴィッツの真実の一端を始めて知った驚き・・!


shinkaiが最初に驚いたのは、一家が本当に収容所の塀のすぐ外に
ある家に住んでいたという事で、

ガス焼却窯からの灰が降ったり、すぐ近くを流れる川にはガス窯からの
灰を捨てていた、というし、塀の向こうから銃声も聞こえるだろうし、
そういう場所に平気で住めたんだろうか、と思ったのでしたが、

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が、まぁ、ドイツ民族が優秀で、戦争中で、その囚人たちが塀の向こうに
収監されているのだから、時に逃亡者も出て銃殺される事もあるだろう、
という様に考えれば、真実を知らなければ大丈夫だったのかもだし、


ユダヤ人から没収した上等な毛皮等も、夫のプレゼントと考えたのかと。


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そんなこんなの不足ない、天国のような生活も永遠に続く訳が無く、

1943年11月にヘスは家族をアウシュヴィッツに残し、汚職や、オーストリア
出身の政治犯との愛人問題により地位を解除され、が、
昇進という名目で一旦離れ、

妻の第5子出産も近く、ヘスは過労のため6週間の休暇を山荘で1人過ごし、
1944年5月にはまたアウシュヴィッツに復任しますが、既に敗戦も近く、

1945年4月には、ハインリッヒ・ヒムラーからの生き残るために

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「国防軍に紛れ込め」との命令で、ドイツ海軍兵士になりすましたのが
イギリス軍の捕虜になり、が、イギリス軍は正体を見破れず釈放。

その後は北ドイツで偽名で、農家で働き始めます。

イギリス軍諜報機関は、ベルゲン・ベルゼン収容所の解放と生存者の
尋問ののち、アウシュヴィッツの重要性とヘスの役割に気づき、
ヘスの家族を捜索、居場所を特定、監視下に置き、

1946年3月8日長男と一緒に住んでいた妻のヘドヴィクが逮捕され、
夫は死んだ、とのみで6日間何も話さずで、子供達と一緒にシベリアに
強制送還すると脅され、遂に夫の住所を明かし、

1946年3月11日ヘスは捕らえられ、その後ニュールンベルク裁判には、
証人として出廷し、

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その後身柄をポーランドに引き渡され、最高裁判所に出廷、与えられた
質問に対し簡潔かつ正確に答え、自分の行為を自慢せずに認め、
死刑判決を受け、1947年4月16日絞首刑に。


ニュールンベルク裁判中アメリカ人精神科医の1人レオン・ゴールデンゾーン
はヘスと頻繁に面会し、
ヘスに罪悪感を感じている可能性につき直接質問すると、

「今それは良くなかったことに気づいた」 そして、
「降伏するまでは命令を正しく実行したと信じていた。・・ しかし、
降伏後ユダヤ人の絶滅は言われていた様なものでは無かったという
結論に達し、今日、他の者たちと同じように罪悪感を感じている」と。


アメリカ人心理学者のギュスターヴ・ギルバートの
ハインリッヒ・ヒムラーによる絶滅命令についての質問に対し、

「命令の実行を拒否するという考えすら思い浮かばなかった」と 答え、

「ヒムラーはそれを命令しており、その必要性についても説明していた。
それが悪いことなのかどうかなど一度も自分に問いかけたことはなく、
単に彼にとってそれが必要なことのように思えただけだった」 と。


ルドルフ・ヘスについての、ウィキペディアのフランス語版
ご興味ある方はどうぞ。 優秀記事の印を与えられ、かなり詳細な記事です。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Rudolf_H%C3%B6ss


こうして夫ルドルフ・ヘスが亡くなった後、妻のヘドヴィクと子供達は
どうなったか、ですが、

1945年ロシア赤軍の到着が迫り、家族全員が避難を余儀なくされ、
長男と一緒に住んでいた彼女は、デンマーク国境近くのゴットトルペルで
逮捕されますが、夫の住所を教えた後、子供達と共に釈放され、

その後ヘドヴィヒはドイツ、確かベルリンで働くうちに再婚し、アメリカに。
ワシントンD.C州だった様で、1989年9月15日に81歳で亡くなるまで、
そこで暮らしたと。

娘の1人は「インゲビルデット・ブリギット」と呼ばれ、アメリカでモデル
となり、その後ワシントンD.C のユダヤ人経営のファッション・ブティックで
35年間働いていたそうで、

笑顔の写真を。

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映画の公式ヴィデオをどうぞ。 日本版が見つからずで。
The Zone of Interest | Official Trailer 2 HD | A24

今年度のアカデミー賞も獲得したようですね。

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時代とその変遷、人種、様々な大波小波の激動の時に生きた人々、
良く行った人、悪く行った人、酷い最期を迎えた人々、・・・、

余りにも大きな時代のうねりで、本当に起こったとも思えない様な事で!!


いま私達はあちこちに戦争が起こっている時代に、直接巻き込まれずの
位置に居れる事の幸せを受け取っていますが、

だからと言って、今の位置からの、単純に当時を裁く言葉は慎みたいと
願っています。

どこまでが真実なのか、知る程に事柄が大きくなっていき・・!

様々な人の生き方を知り、眺め、そしてこの年になり、自分の人生を
如何に終えるか、どう望むか、とのみを真摯に考える様になりました。


*****

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・ 映画「イギリス人の患者」のあれこれ、 真実の主人公の姿は

能登一帯の大地震、そして羽田空港の飛行機の衝突、と
思いもかけない災害、事件が年明け早々の日本を襲いましたが、

皆様に心よりのお見舞いを申し上げると共に、
どうぞ、お元気で、復興に向かって頑張って下さいませ!

***


クリスマスとか祭日には、我が家にジュリアーナがやって来て、
一緒に食事をし、その後にDVDを楽しむのが恒例になっており、

この秋日本で頂いて来た美味しい日本酒にじっくりと半ば陶酔し、
その後ゆっくりと「イギリス人の患者」を、となったのですね。

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あの圧倒的なロマンスが繰り広げられる1997年公開の映画は、
9つものアカデミー賞を獲得、勿論他の大きな賞も総なめで、

美しい数々の場面と、背景になったトスカーナはオルチャの谷の美しさ、
そして観客の胸を締め付け、蕩けさす、大迫力ある映画でした。

ですから、あれこれの場面を覚えておいでの方も多いでしょうから、
どうぞ思い出しながら、映画の周辺事情としてお付き合い願います。


なぜこの映画をと言うと、先回ご案内のアレッツォのフランチェスコ聖堂、
バッチ礼拝堂の壁画、ピエロ・デッラ・フランチェスカの描いた壁画を、

映画の中で、主人公の1人看護婦のハナが恋人のキップのロープに
釣り上げられ眺める、という、ロマンチックで素晴らしい場面が
あったのが記憶に残っており、

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それでこの壁画の特別公開を見に行く心算の2人が、
予備学習を兼ね、この映画を見ようという事になったのでした。

所が、一番最初に落胆事を申し上げるのは誠に残念なのですがぁ、

あちこちで「映画のロケーションはどこそこ」というサイト記事を
読んだものの、
皆さんが皆、あれはアレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の、と
書かれておるものの、

我ら2人はパッと壁画のアップが出た時に、何、これ?!と大落胆!

まず、女官の顔がアップに出た時に、これは油絵で雑にパッパッと
描いたもの、と分かり、

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なにせ顔の白のハイライトが、太筆でざっと描かれた顔であり、
それにあの当時の女官が、こんな笑い顔をする筈が無く!


ソロモン王の顔アップも、こんなに下唇を突き出したもの!

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これは映画の中の場面で、 ソロモン王の背が高く描かれ、
シバの女王がとても低くなっていて、

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こちらの実際の図との見比べを。

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ピエロがこれを自分が描いた、として映画に出たのを知ったら、
お墓の中で悶絶するのでは、と心配になりますが・・!


つまりです、shinkaiめが言いたいのは、あれは実際にアレッツォの
礼拝堂で撮影したものではない、という事なのですね。

ロープで吊り下げられ、トーチを持って、あちこちをすぅ~っと回りながら
見学している場面なので、何の事故も起こらぬ様にと予防し、

実物の上に、パネルにそれらしく描いたものを置いて撮影した、
のではないか、と最初考えたのでした。


が、もう一度この写真と、

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こちらの実際の礼拝堂の壁画の正面奥の、2双窓の窓枠の高さを
見比べて下さいね。

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上の写真窓側正面の、上の女性の脚の奥に見える絵は、

「真実の十字架」である事を確かめる為に、井戸に男を吊るして
攻めている場面で、
窓の下枠が上から数えて3本半の位置に、場面下が来ています。


が、下の写真では礼拝堂自体が高く、5本目の下の窓枠がちょうど。


という事は、礼拝堂が実際のものよりも低い教会で撮影したのかも!

かなり昔に一度DVDを見て、その後映画の長さもあり見返しておらず、
昔見た時に、やはりあの場面は気が付いたろうと思うものの、
それもどうだったか忘れた程に長い時が経っており・・。

でも今回この様に明らかに違いが明らかになると、あれはちょっと、
ピエロの名作のコピーにしては、余りにも雑な間に合わせで
ピエロに気の毒でもあり、

それに、映画の他の部分が素晴らしいので、逆に本当に残念で!!!

こちらでヴィデオをご覧になれます。
https://youtu.be/8DlxO2frMPE


という事で、
映画「イギリス人の患者」の周辺あれこれ、その2の話題に。

映画の中に何度も写る、この古い鐘楼を覚えておいででしょうか?

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で、意外と簡単に、  
映画の中で全身に重度の火傷を負い、最初は自分の名も身元も
分からず、この修道院上階で、看護婦に介護される男性・・、
という設定の場所、撮影された修道院、教会が分かりました。

地図をどうぞ。

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赤く囲った、サンタンナ・イン・カンプレーナ・S.Anna in Camprena
がそれで、
ピエンツァから7km程、車で12分ほどの距離に。

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地図の、Cosona・コソナに印をつけましたが、下の赤点はジープや
医療車での移動で、看護婦ハナの友達が「お金を貸して」、と車を
接近させての場面があり、背後に貯め池らしきものが写っていた所で、

それに次ぐ場面で、その友の乗ったジープが先に行き、地雷を踏み
爆発する場面が上の点の辺り、と。

Cosonaを赤枠で囲った辺りには、要塞城も残っている様子で、
多分現在アグリトゥリーズムになっている様子。


ピエンツァは戦争が終わり、夜のドゥオーモ前広場で町の人々が祝っており、
男がトランクス1枚で広場の銅像、これは実際にはありませんが、
に上り、が、これにも地雷が仕掛けられており・・!

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問題のアレッツォですが、ピエンツァからだと北東に向けて峠を越し、
国道に出て北に向かう、1時間ちょっと、59km程の位置に。


映画の中で、サン・フランチェスコ聖堂かな、と思わせる入り口は
ピエンツァから東、オルチャの谷の端モンテプルチャーノのドゥオーモ。

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ピアッツァ・グランデからの眺めで、鐘楼の下部分が見えました。


n.1 モンテプルチャーノ再訪 ・ トスカーナ、丘の上の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462397858.html

花のピエンツァ点描 ・ 再訪できた喜び!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461453714.html

アレッツォ と その周辺 のご案内は
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130357.html



という所で、本題のサンタンナ・イン・カンプレーナ教会、修道院に。

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ここで実正体が分からない「イギリス人患者」がカナダ人看護婦ハナに
看護され、徐々に自分の過去を思い出していく、

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自分がナチにスパイとされ、残酷にも両親指を切断され元の犯人が
「イギリス人患者」である、と見なし、つけ狙うカナダ人男性も寄宿、
そして英国軍の爆弾処理班の、インド人のキップと呼ばれる男性、
看護婦ハナと恋仲になる、男性3人女性1人の濃密な生活模様。


この教会・修道院は、15世紀にモンテ・オリヴェート修道院の
ベネデット派修道士によって設立され、

こうして上からの写真を見ると、右に見える真ん中に小さい池のある
庭が、草ぼうぼうでしたが、良く映画に登場していた事が分かります。

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モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院 ・ トスカーナ・キュズーレ
https://www.italiashiho.site/archives/20190718-1.html


現在この教会・修道院は、モンテプルチャーノ、キゥージ、ピエンツァの
教区が管理する農家となり、その後2004年に一帯が世界遺産の
指定を受け、

現在は上記の教区が管理するアグリトゥリズモとなり、

宿泊者でないと敷地内には入れず。

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ブッキング・コムで見つけた、予約受付。

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ダブルベッド、朝食付きで、1人150エウロか、もう少し、の様子。
写真、絵画、音楽、イタリア語、料理など、さまざまなレッスンの
クラスもあるそうで、多分夏と、
かっての修道士たちの独房で、眠ることが出来るそうで。


こんなオルチャの谷の美しい写真を見ると、はぁ、うずうずしますねぇ!

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私はブッカー賞を受けたこの映画の元の本を読んでおりませんが、

映画はその中の2人、「伯爵ラズロ・アルマシー」と呼ばれる砂漠探検家と
イギリス人の人妻キャサリンとの深い恋愛、不倫とも情事とも、を一番の柱
として描かれていてますが、

原作の中では、シーク族の爆弾処理のベテランの役割がもっと重く描かれ、
彼が広島、長崎に原爆が落とされた事を知り、怒りに駆られる場面も
あったと読んだ友人から聞きました。

という様な事からあれこれ検索をかけているうちに次々と引っかかったのが、
ラズロ・アルマシー・László Almásyなる人物は、本当は映画に
描かれた人物像とは違う、

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砂漠探検家で飛行機乗りのベテランでもあったが、スパイであったかもで、
おまけにゲイで、伯爵では無かった, eccecc。


たくさんの記事が見つかりましたが、一番丁寧な記事と思ったのが、

ラズロ・アルマシー、イギリス人患者の真実の話
Laszlo Alamsy, la vera storia del Paziente inglese

この記事によると彼は、
ハンガリーの、1895年オーストリア=ハンガリー貴族の家庭出身。
が、映画の中で使われていた「伯爵」ではありません。 これは後程。

彼の父親ギョルジ・Gyorgyも探検家だったと言い、1911~1914年を
家庭教師付きでイギリスのべロウ・スクール・Berrow Scuoolで学び、

第一次大戦勃発で国に戻り、弟と共に第11軽騎兵連帯に加わり、
東部戦線でセルビア人、ロシア人と戦い、

1916年に空軍に異動。 1918年3月イタリア戦線での戦闘中に負傷し、
その後飛行教官として過ごし、

終戦後は彼は学業完了にイギリスに戻り、イーストボーン工科大学に
入学、先駆的なイーストボーン飛行クラブの創設メンバーにも。

戦後ハンガリーに戻った彼は、戦後のハプスブルグ家の復興の中心人物の
1人であったソンバトヘイ司教ヤノス・マイクスの私設秘書となり、

1921年ハプスブルグのカルロがハンガリーに帰国し、ブタペスト迄を
司教の運転手を務めた時に、元皇帝が分家の伯爵号の一族と混同し、
「アルマシー伯爵」と呼んだ間違いをしたのを、

ラズロは内々に違法である事を認めつつ利用し、
取り分けエジプトに行ってから「伯爵」と呼ばせたのだそうで。

1921年26歳以降、オーストリアの自動車会社「シュタイアー・オートモービル・
Steyr Automobile」の代表として働き、多くのレースにも参加。

裕福な友人のアンタル・エステルハージ王子・Antal Eszterhazy、
エステルハージケ家とは、ハンガリーの高貴な、豪族、 と共に

車でエジプトのアレクサンドリアからスーダンのハルツーム迄、当時は
車でその様な旅をした人は誰もおらず、

彼の人生の転機となり、アフリカに大きな興味を持ち、何度かアフリカに。


数々の彼の冒険旅行を記すのが目的では無いので、大幅に略しますが、

こちらは1931年、ナンドール・ジシー伯爵・Nandor Zichyとの
飛行機によるリビア砂漠の冒険。 左がラズロ。

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1932年の砂漠の遠征に参加して知り合うロバート・クレイトン卿と
その妻ドロシーが、映画の中でジェフェリー・クリフトンと、
キャサリン・クリフトンのキャラクターの基礎となり、

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ドロシーは作家のキャサリンと同様、おそらくケビール遠征中に
急性ポリオに罹って亡くなった夫とは異なり、実際には飛行機事故で
亡くなったのだそうで。

と、ここでちょっとがっかりというか、まぁね、映画だもんね、と
思うかなのですがぁぁ、

ラズロは同性愛者であった可能性が最も高いそうで、はぁ、ドロシーと
ラズロの恋愛関係は除外されるのではないかと。

彼の手紙の一部には、国防軍将校ハンス・エントルト・Hans Entholt
との関係が明らかなんだそうで、ジャンジャン。


と映画の中で、眺める我々も、わぁ~お!と憧れ、感嘆した
「泳ぐ人々」の壁画の発見も凄いですが、

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これは現在のあの広大なサハラ砂漠も、かって太古の昔には
湧き水の川が流れていた事の証明になるのだそうで!!

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そして他のたくさんのあれこれの発見も、地図の作製も、
確かにラズロの功績が多かったようで、この辺り猫に小判の私めは
申し訳ありませんが省略させて頂きますので、
ご興味がおありの方は、上に記したサイトに行かれ、翻訳されると
詳細が分かると思いますので、宜しくお願い致します。


がしかし1939年に第2次大戦が勃発し、彼の祖国ハンガリーは
ドイツとの同盟関係があり、彼は祖国に戻ります。

戦前のスパイとしての活動の証拠はないものの、リビアでも
エジプトでも当局から歓迎されなくなり、

国に戻った彼はドイツ軍諜報部隊のアブヴェーアに採用され、
ドイツ空軍大尉の制服を着る事が許可され、
その後リビアに移送され、軍の秘密作戦を行ったりも。

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終戦後、共産主義者が政権を握ると、彼は戦争犯罪と外国の軍隊に
参加した反逆罪の容疑で逮捕され、が英国諜報機関の援けで逃亡。

その際のハンガリー当局者に送った賄賂は、エジプトのファルーク王の
従弟が支払ったそうで。

その後イギリスは、偽造パスポートで彼をオーストリア、そしてローマ
に送り、エジプトに戻り、様々な仕事で生計を立てますが、

1951年オーストリア訪問中に、モザンビークへの旅行中に罹った
アメーバ症、赤痢でしょうか、その合併症により、
ザルツブルグの病院で3月22日亡くなり、そこで埋葬を。 60歳。

ずっとスパイ容疑が続き、ロシア側の手が伸びていたとか、
入院中の介護はされなかったと・・。 哀れ。


彼を表現するたくさんの言葉
紳士な探検家、複葉機のエース、日和見主義者の冒険家、同性愛者の
ダンディ、スパイ、贋作師、夢想家、間違いの伯爵、eccecc、

「ナチスだが、少なくともスポーティだった」 は、
ゼルズラ・クラブの古い友人達は彼の事をこう憶えているそう。

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人それぞれの人生は、各方面からの切り取りで、まるで違った人物となり、
傍の人間がきりきり舞いさせられる様な、そんな彼の一生だったのかも。


うん、原作とは違っていても、でも「イギリス人の患者」は、
やはり素晴らしく美しい映画でしたよネ?!

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たくさんの話題で長いお付き合い、本当に有難うございました!


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