今年2024年は3月31日が復活祭・イースター。
はい、日本は時間差で既に。
復活祭・イースターのシンボルというと、卵! 様々に色付けされたり、
料理の献立の一品ともなる卵、ですが、
今日の話題は、復活祭のブログにはこれを、と温めていた、は~い、
生の卵ではなく、金や様々な宝石で飾られ、しかも意匠に驚き!!
が含まれた貴重で高価な卵。
生の卵ではなく、金や様々な宝石で飾られ、しかも意匠に驚き!!
が含まれた貴重で高価な卵。
最初に参考にしたサイトは
ファベルジェの卵:ロシア皇帝のために作られた貴重な宝石の物語
Uova Fabergé: la storia degli inestimabili gioielli realizzati per gli Zar Russi
ファベルジェの卵:ロシア皇帝のために作られた貴重な宝石の物語
Uova Fabergé: la storia degli inestimabili gioielli realizzati per gli Zar Russi
19世紀末1885年に、ロシア皇帝アレクサンドル3世により依頼され、
妃のマリーア・フェドロヴェナへの復活祭のプレゼントに作られた、
妃のマリーア・フェドロヴェナへの復活祭のプレゼントに作られた、
ロシア宮廷ご用達宝石商のピーター・カール・ファベルジェ作の卵、
現在も「ファベルジェの卵」と呼ばれ知られ、
現在も「ファベルジェの卵」と呼ばれ知られ、
オリジナル作のコピーや新作なども出回っている様子。
まず、その「第1作の卵・1885年」をご覧下さい。
ロシア伝統のマトリューシカ人形の様に、次々と生まれ出る仕組みで、
外側は不透明な白い琺瑯で覆われた金の卵の中に、金の卵黄が
含まれ、その中には目がルビーの鶏がいて、大きさは実際の卵程と。
含まれ、その中には目がルビーの鶏がいて、大きさは実際の卵程と。
鶏もまた首の下から羽に細い線が見える所で割れる様になっていて、
かってはこの鶏の中に、ダイアモンドが並ぶ王冠と、赤いルビーの
ネックレスが隠されていたのだそうですが、その後の年月のうちに紛失。
こちらの卵は現在の所有者の名もわかっており、
この小さな写真も見つけましたが、手前の鶏、王冠、ルビーの
ネックレスは、近代のコピーと思われ、とりわけ鶏の姿は
上の写真とかなり違うのにご留意を。
ただファルベジェの卵で調べると、失われた2作目の卵に
「鶏の卵とサファイア」というのがあるので、
これが第2作の卵のコピーかも。
という幕開けですが、
復活祭の「ファベルジェの卵」と呼ばれる、貴石を使った高価な卵の
誕生は、ロシア、ロマノフ朝皇帝最後から2人めのアレクサンダー3世・
AlwxanderIIIが、
誕生は、ロシア、ロマノフ朝皇帝最後から2人めのアレクサンダー3世・
AlwxanderIIIが、
デンマークからお輿入れの妃・マリーア・フェドロヴナ・
Maria Fëdorovna、この名はロシアに来て後の正教に改宗後の名で、
彼女の郷愁を慰める為のプレゼントと。
彼女の郷愁を慰める為のプレゼントと。
こちらが1888年、とある皇帝ご一家の写真。
身長が190cmもあったというアレクサンダー3世と、その背後に
長男のニコライ・次期皇帝、とその左が皇妃マリーア、そして子供達。
ご成婚が1866年、写真当時ほぼ20周年近い結婚生活で、
長男のニコライ、こちらが次期のロシア皇帝となり、ロマノフ王朝の
最後ともなったロシア革命の中で、一家惨殺の悲劇の方を含め、
最後ともなったロシア革命の中で、一家惨殺の悲劇の方を含め、
未だ一家に不幸の影はなく、5人の子も無事に育ちつつあった時代で、
高価な卵のプレゼントも夫君の優しい心遣いから始まったのでしょう。
高価な卵のプレゼントも夫君の優しい心遣いから始まったのでしょう。
皇帝と皇妃の仲は大変睦まじく、夫の浮気も無く、家族に心を砕いた様子。
大富豪ではあるものの倹約も心掛け、幸福な様子だったと。
実はマリーア・フェドロヴナ皇妃は、最初はアレクサンダー3世の兄、
ニコライ皇太子と許婚の間柄だったのが、1年経たずの1865年
彼は亡くなり、
彼の最後の頼みが、弟の次期皇太子アレクサンダーとの結婚を、
だったと言い、
だったと言い、
アレクサンダーには結婚相手と決めた女性がおり、最初拒否したものの
父皇帝から一喝され、しぶしぶとデンマークに会いに行ったのだそう。
父皇帝から一喝され、しぶしぶとデンマークに会いに行ったのだそう。
こちらがお2人の許婚の時、1866年6月。
彼女の出身は、当時の彼女の父は1863年からクリスチャン9世王
としてデンマーク王位にありましたが、
元はデンマーク王室諸分家の跡取りでもない公子の1人だったのが、
妻のルイーゼがクリスチャン8世王の姪で、王位継承権を持っており、
彼は1852年に王位推定相続人に!
妻のルイーゼがクリスチャン8世王の姪で、王位継承権を持っており、
彼は1852年に王位推定相続人に!
そして1863年義理の従弟フレゼリク7世の崩御により、王位に!
という方だったのですね。
という方だったのですね。
自身の子女と欧州諸王室の縁組の成功により「ヨーロッパの義父」と
あだ名されたのだそうで。 この辺り、ウィキの日本版に詳細に。
あだ名されたのだそうで。 この辺り、ウィキの日本版に詳細に。
で、彼女の長兄はデンマーク王を引き継ぎ、その息子の1人は
ノルウェー王室の祖、となったそうで!
ノルウェー王室の祖、となったそうで!
そのせいかどうか、マリーアがロシア王室にお輿入れ、ご成婚には、
両親のデンマーク国王夫妻は経済的事情から出席できず、
長兄が出席したのだそうで。
両親のデンマーク国王夫妻は経済的事情から出席できず、
長兄が出席したのだそうで。
彼女は大変な美人で、サンクトぺテルブルグの冬宮のバルコニーで、
最初にロシアの民衆に紹介された時に、その笑顔とお辞儀の所作で
人民の心を掴み、大変な熱狂で迎えられたそうで。
まずはロシア語の習得を最優先事項と心得、政治問題に介入せず、
もっぱら家族の世話や慈善事業に、皇太子妃としての役目を果たし、
という、大変賢い女性でもあった様子。
もっぱら家族の世話や慈善事業に、皇太子妃としての役目を果たし、
という、大変賢い女性でもあった様子。
アレクサンダー3世は、1881年に父王アレクサンダー2世が爆弾テロ
により崩御され、皇帝となりますが、
アレクサンダー3世とマリーア皇后の戴冠式 1883年5月
ここでは彼の政治については省き、
残念な事にアレクサンダー3世皇帝は1888年10月28日、御召し列車が
脱線し、一家が食堂車にいる時で、崩れる屋根から子供達を助ける為に
覆いかぶさり逃がしたものの、
この時の怪我が原因で腎不全となり、
1894年11月 妃の腕の中で崩御、49歳の若さでした。
そしてこの後のニコライ2世の皇帝即位、残されたマリーア皇后と、
嫁のアレクサンドラとの確執、皇太子アレクセイの血友病、
怪僧ラスプーチンの暗躍というかなんというか・・。
第1次大戦が始まり、国内では革命が起こり、ニコライ2世の退位、
遂にはロマノフ王朝の最後となる激動が続き、
遂にはロマノフ王朝の最後となる激動が続き、
その後の10年間をマリーア・フェドロヴナ皇后は、自国デンマークで。
で復活祭の卵作成者、王室宝石ご用達ピーター・カール・ファベルジェ・
Peter Carl Fabergé(1846-1920)なる方は、
父の宝石商グスタフ・ファベルジェ一族は元々フランス出身のユグノー・
プロテスタント信者であったのが、ルイ14世による1685年のナントの
勅令廃止後にフランスから逃れ、
プロテスタント信者であったのが、ルイ14世による1685年のナントの
勅令廃止後にフランスから逃れ、
ドイツ近辺、そして現在のラトビア、さらにロシア地域に移住。
父親のグスタフはサンクトペテルブルグで修練し、店を持っていたのも、
商売を信用できるマネージャーに任せ、1860年妻や子と共に
ドレスデン・ドイツ中央東、に引退。
商売を信用できるマネージャーに任せ、1860年妻や子と共に
ドレスデン・ドイツ中央東、に引退。
ピーター・カールは多分ドレスデンで学び、1864年18歳でヨーロッパの
各地の金細工師の下で修業し始め、パリでは商業カレッジのコースも。
各地の金細工師の下で修業し始め、パリでは商業カレッジのコースも。
26歳でサンクトペテルブルグに戻り、結婚。 その後の10年間は父代
からの職人頭の下で、次代の経営者修行をし、
からの職人頭の下で、次代の経営者修行をし、
1882年、会社運営の全てを引き継ぎ、彼の評価は非常に高く、
弟のアガトンは想像力豊かな優秀なデザインで、
弟のアガトンは想像力豊かな優秀なデザインで、
1882年のモスクワの全ロシア博覧会で大評判となり受賞も。
ピーター・カールはこの年36歳、アガトンは20歳。
ピーター・カールはこの年36歳、アガトンは20歳。
そしてこの博覧会でロシア皇帝アレクサンダー3世の大評価、信頼を
受け、エミルタージュ宮にファベルジェ工房の作品展示を命じ、
工房の宝石販売対象はロシア宮中に絞られ、
受け、エミルタージュ宮にファベルジェ工房の作品展示を命じ、
工房の宝石販売対象はロシア宮中に絞られ、
1885年にはロシア皇室特別ご用達に指名し、
今回初頭に出た復活祭卵の作成を、さらに翌年も。
信頼、そして高い評価を受け、作品はどんどん自由に、精巧に
作られ復活祭の伝統となるものの、
依頼者の皇帝もデザインは知らされず、唯一の条件は、卵には
思いがけない仕掛けを、というものだったそうで。
1887年の時計付き卵-個人蔵、 1888年ケルビーノの馬車
1889年化粧道具 の2点は消失、
1890年デンマークの邸宅・王室関係かな は個人蔵、
1891年 アゾフの想い出の卵 王室のヨットですね。
1892年 ダイアモンドの網の卵
これは翡翠の卵に、ダイアモンドの埋められた網がかけられ、
その卵の中に、こんな小さな宝石がいっぱい付いた象さんが。
この年にアレクサンダー3世が亡くなり、
皇帝がロマノフ王朝最後のニコライ2世となっても、復活祭の豪華な
卵の注文、作成は続き、
卵の注文、作成は続き、
リストを見ますと、母皇后マリーアへの卵、自分の妃アレクサンドラへも
卵の贈り物、と2個づつに増えており!
卵の贈り物、と2個づつに増えており!
ファベルジェ兄弟の工房の仕事はより美しく、豪華で、精密な作品と
なって行きます。
なって行きます。
写真を全部集められませんでしたが、ウィキの日本版、イタ版にも
リストがありますので、どうぞ。
リストがありますので、どうぞ。
1899年 百合の卵
1900年 シベリア鉄道の卵
1903年 ピヨートル大帝の卵
1906年 クレムリンの卵
1909年 ヨット、スタンダールの卵
〃1909年 アレクサンダー3世騎乗の卵
1913年 ロマノフ王朝300年記念卵
最後は1917年作、 星座の卵、カレッリアの白樺の卵 と。
写真が見つからずで。
そして1917年の革命で、ボルシェヴィキにより皇帝一家が
殺害され終わりに。
作られた卵の数は情報源により異なるものの、
合計で約60個ある筈で、それぞれが貴重な宝石、様々な石で作られ、
それも明らかにロシア帝国の象徴に関連している驚きも!
それも明らかにロシア帝国の象徴に関連している驚きも!
ファルベジェの工房、店はどんどん成長し大きくなり、従業員500人、
ロシア最大の宝石商となり、ロシアの外にも店を持っていたものの、
10月革命により、従業員委員会に引き継がれ、翌1918年国有化、
工房は消滅。
工房は消滅。
カール・ファルベジェは国営化された後、リガ行き・北方3国のリトアニアの
最後の外交列車でサンクトペテルブルクを離れ、そこにも革命が近づくとドイツに。
そしてヴィスバーデンに。
彼の長男は母親と共に暗闇の中を橇や徒歩で、雪に覆われた平野を抜け、
1918年12月にフィンランドに到着。
1920年6月にヴィスバーデンに渡り、父と共にスイスのローザンヌに近い
ピュイーに亡命。 ここのホテルには一族が避難していたのだそうで。
1920年6月にヴィスバーデンに渡り、父と共にスイスのローザンヌに近い
ピュイーに亡命。 ここのホテルには一族が避難していたのだそうで。
ピーター・カール・ファルベジェは自分が愛された国に起こった惨事の
ショックから立ち直れないまま、1920年9月24日スイスで死去、74歳。
ショックから立ち直れないまま、1920年9月24日スイスで死去、74歳。
ファベルジェ・ブランドの復興には曽孫達が協力したそうですが、
実際現在どの様に運営されているのかは、よく分かりません。
実際現在どの様に運営されているのかは、よく分かりません。
が、確かにオリジナルのコピーとみられる品々がたくさん見られ、
が、それもどの程度の価値あるものかは知りませんが、
人気な品々であるのは確かな様子。
が、それもどの程度の価値あるものかは知りませんが、
人気な品々であるのは確かな様子。
かってのロシア帝国時代の貧富の差については、革命が起こる程!
だったと認識しておりますが、
生まれた優雅な貴重な文化、品々については、やはり素晴らしかった!!と。
時代が変わっていく狭間にあり輝き、逆に落ちる運命も、と
今回華麗で豪華な「復活祭の卵」を見て、しみじみと思ったのでした。
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皆様、良い春をお迎えくださいね。 ブオナ・パスクワ!!
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