・ ロシア皇帝・ロマノフ朝より生まれた、貴重な宝石卵、のお話

今年2024年は3月31日が復活祭・イースター。 
はい、日本は時間差で既に。
 
復活祭・イースターのシンボルというと、卵! 様々に色付けされたり、
料理の献立の一品ともなる卵、ですが、

今日の話題は、復活祭のブログにはこれを、と温めていた、は~い、
生の卵ではなく、金や様々な宝石で飾られ、しかも意匠に驚き!!
が含まれた貴重で高価な卵。

最初に参考にしたサイトは
ファベルジェの卵:ロシア皇帝のために作られた貴重な宝石の物語
Uova Fabergé: la storia degli inestimabili gioielli realizzati per gli Zar Russi


19世紀末1885年に、ロシア皇帝アレクサンドル3世により依頼され、
妃のマリーア・フェドロヴェナへの復活祭のプレゼントに作られた、

ロシア宮廷ご用達宝石商のピーター・カール・ファベルジェ作の卵、
現在も「ファベルジェの卵」と呼ばれ知られ、
オリジナル作のコピーや新作なども出回っている様子。


まず、その「第1作の卵・1885年」をご覧下さい。

1-uovo-faberge-primo-alessandro-zar-1885-1645550788_GF.jpg


ロシア伝統のマトリューシカ人形の様に、次々と生まれ出る仕組みで、

外側は不透明な白い琺瑯で覆われた金の卵の中に、金の卵黄が
含まれ、その中には目がルビーの鶏がいて、大きさは実際の卵程と。

鶏もまた首の下から羽に細い線が見える所で割れる様になっていて、


かってはこの鶏の中に、ダイアモンドが並ぶ王冠と、赤いルビーの
ネックレスが隠されていたのだそうですが、その後の年月のうちに紛失。
こちらの卵は現在の所有者の名もわかっており、


この小さな写真も見つけましたが、手前の鶏、王冠、ルビーの
ネックレスは、近代のコピーと思われ、とりわけ鶏の姿は
上の写真とかなり違うのにご留意を。

2-1886uovo_faberge_large.jpg

ただファルベジェの卵で調べると、失われた2作目の卵に
「鶏の卵とサファイア」というのがあるので、
これが第2作の卵のコピーかも。


という幕開けですが、

復活祭の「ファベルジェの卵」と呼ばれる、貴石を使った高価な卵の
誕生は、ロシア、ロマノフ朝皇帝最後から2人めのアレクサンダー3世・
AlwxanderIIIが、

デンマークからお輿入れの妃・マリーア・フェドロヴナ・
Maria Fëdorovna、この名はロシアに来て後の正教に改宗後の名で、
彼女の郷愁を慰める為のプレゼントと。


こちらが1888年、とある皇帝ご一家の写真。

3-1888._Семья_императора_Александра_III_GF.jpg


身長が190cmもあったというアレクサンダー3世と、その背後に
長男のニコライ・次期皇帝、とその左が皇妃マリーア、そして子供達。


ご成婚が1866年、写真当時ほぼ20周年近い結婚生活で、
長男のニコライ、こちらが次期のロシア皇帝となり、ロマノフ王朝の
最後ともなったロシア革命の中で、一家惨殺の悲劇の方を含め、

未だ一家に不幸の影はなく、5人の子も無事に育ちつつあった時代で、
高価な卵のプレゼントも夫君の優しい心遣いから始まったのでしょう。

皇帝と皇妃の仲は大変睦まじく、夫の浮気も無く、家族に心を砕いた様子。
大富豪ではあるものの倹約も心掛け、幸福な様子だったと。



実はマリーア・フェドロヴナ皇妃は、最初はアレクサンダー3世の兄、
ニコライ皇太子と許婚の間柄だったのが、1年経たずの1865年
彼は亡くなり、

彼の最後の頼みが、弟の次期皇太子アレクサンダーとの結婚を、
だったと言い、

アレクサンダーには結婚相手と決めた女性がおり、最初拒否したものの
父皇帝から一喝され、しぶしぶとデンマークに会いに行ったのだそう。


こちらがお2人の許婚の時、1866年6月。

4-Tsarevich_Alexander_Alexandrovich_of_Russia_and_Princess_Dagmar_of_Denmark_GF.jpg


彼女の出身は、当時の彼女の父は1863年からクリスチャン9世王
としてデンマーク王位にありましたが、

元はデンマーク王室諸分家の跡取りでもない公子の1人だったのが、
妻のルイーゼがクリスチャン8世王の姪で、王位継承権を持っており、
彼は1852年に王位推定相続人に!

そして1863年義理の従弟フレゼリク7世の崩御により、王位に!
という方だったのですね。

自身の子女と欧州諸王室の縁組の成功により「ヨーロッパの義父」と
あだ名されたのだそうで。  この辺り、ウィキの日本版に詳細に。

で、彼女の長兄はデンマーク王を引き継ぎ、その息子の1人は
ノルウェー王室の祖、となったそうで!

そのせいかどうか、マリーアがロシア王室にお輿入れ、ご成婚には、
両親のデンマーク国王夫妻は経済的事情から出席できず、
長兄が出席したのだそうで。


彼女は大変な美人で、サンクトぺテルブルグの冬宮のバルコニーで、
最初にロシアの民衆に紹介された時に、その笑顔とお辞儀の所作で
人民の心を掴み、大変な熱狂で迎えられたそうで。

まずはロシア語の習得を最優先事項と心得、政治問題に介入せず、
もっぱら家族の世話や慈善事業に、皇太子妃としての役目を果たし、
という、大変賢い女性でもあった様子。


アレクサンダー3世は、1881年に父王アレクサンダー2世が爆弾テロ
により崩御され、皇帝となりますが、


アレクサンダー3世とマリーア皇后の戴冠式 1883年5月

5-Alexander_III_and_Maria_Fedorovna's_coronation_by_G.Becker_(1888,_Hermitage)_GF.jpg


ここでは彼の政治については省き、

残念な事にアレクサンダー3世皇帝は1888年10月28日、御召し列車が
脱線し、一家が食堂車にいる時で、崩れる屋根から子供達を助ける為に
覆いかぶさり逃がしたものの、

この時の怪我が原因で腎不全となり、
1894年11月 妃の腕の中で崩御、49歳の若さでした。


そしてこの後のニコライ2世の皇帝即位、残されたマリーア皇后と、
嫁のアレクサンドラとの確執、皇太子アレクセイの血友病、
怪僧ラスプーチンの暗躍というかなんというか・・。

第1次大戦が始まり、国内では革命が起こり、ニコライ2世の退位、
遂にはロマノフ王朝の最後となる激動が続き、

その後の10年間をマリーア・フェドロヴナ皇后は、自国デンマークで。



で復活祭の卵作成者、王室宝石ご用達ピーター・カール・ファベルジェ
Peter Carl Fabergé(1846-1920)なる方は、

6-peter_carl_faberge_at_his_d_461230296_GF.jpg


父の宝石商グスタフ・ファベルジェ一族は元々フランス出身のユグノー・
プロテスタント信者であったのが、ルイ14世による1685年のナントの
勅令廃止後にフランスから逃れ、
ドイツ近辺、そして現在のラトビア、さらにロシア地域に移住。

父親のグスタフはサンクトペテルブルグで修練し、店を持っていたのも、
商売を信用できるマネージャーに任せ、1860年妻や子と共に
ドレスデン・ドイツ中央東、に引退。


ピーター・カールは多分ドレスデンで学び、1864年18歳でヨーロッパの
各地の金細工師の下で修業し始め、パリでは商業カレッジのコースも。

26歳でサンクトペテルブルグに戻り、結婚。 その後の10年間は父代
からの職人頭の下で、次代の経営者修行をし、

1882年、会社運営の全てを引き継ぎ、彼の評価は非常に高く、
弟のアガトンは想像力豊かな優秀なデザインで、

1882年のモスクワの全ロシア博覧会で大評判となり受賞も。
ピーター・カールはこの年36歳、アガトンは20歳。


そしてこの博覧会でロシア皇帝アレクサンダー3世の大評価、信頼を
受け、エミルタージュ宮にファベルジェ工房の作品展示を命じ、
工房の宝石販売対象はロシア宮中に絞られ、

1885年にはロシア皇室特別ご用達に指名し、
今回初頭に出た復活祭卵の作成を、さらに翌年も。

信頼、そして高い評価を受け、作品はどんどん自由に、精巧に
作られ復活祭の伝統となるものの、

依頼者の皇帝もデザインは知らされず、唯一の条件は、卵には
思いがけない仕掛けを、というものだったそうで。


1887年の時計付き卵-個人蔵、 1888年ケルビーノの馬車
1889年化粧道具 の2点は消失、
1890年デンマークの邸宅・王室関係かな は個人蔵、


1891年 アゾフの想い出の卵  王室のヨットですね。

7-Uova-Faberge-1891-4_GF.jpg



1892年 ダイアモンドの網の卵 

11-1-1892-Diamond_Trellis_Egg_GF.jpg

これは翡翠の卵に、ダイアモンドの埋められた網がかけられ、


その卵の中に、こんな小さな宝石がいっぱい付いた象さんが。

11-2-Surprise_Fabergé_Diamond_Trellis_Egg_(1892)_(cropped)_GF.jpg



この年にアレクサンダー3世が亡くなり、



皇帝がロマノフ王朝最後のニコライ2世となっても、復活祭の豪華な
卵の注文、作成は続き、

リストを見ますと、母皇后マリーアへの卵、自分の妃アレクサンドラへも
卵の贈り物、と2個づつに増えており! 

ファベルジェ兄弟の工房の仕事はより美しく、豪華で、精密な作品と
なって行きます。


写真を全部集められませんでしたが、ウィキの日本版、イタ版にも
リストがありますので、どうぞ。


1899年 百合の卵

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1900年 シベリア鉄道の卵

9-Uova-Faberge-1900-3_GF.jpg


1903年 ピヨートル大帝の卵

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1906年 クレムリンの卵 

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1909年 ヨット、スタンダールの卵

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〃1909年 アレクサンダー3世騎乗の卵

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1913年 ロマノフ王朝300年記念卵

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ロシア20世紀初頭  ロマノフ王朝最後の大舞踏会の美しい女性たち
https://www.italiashiho.site/article/478345334.html


最後は1917年作、 星座の卵、カレッリアの白樺の卵 と。

写真が見つからずで。



そして1917年の革命で、ボルシェヴィキにより皇帝一家が
殺害され終わりに。

作られた卵の数は情報源により異なるものの、
合計で約60個ある筈で、それぞれが貴重な宝石、様々な石で作られ、
それも明らかにロシア帝国の象徴に関連している驚きも!


ファルベジェの工房、店はどんどん成長し大きくなり、従業員500人、
ロシア最大の宝石商となり、ロシアの外にも店を持っていたものの、

10月革命により、従業員委員会に引き継がれ、翌1918年国有化、
工房は消滅。


14-Karl_Gustavovich_Faberge_GF.jpg


カール・ファルベジェは国営化された後、リガ行き・北方3国のリトアニアの
最後の外交列車でサンクトペテルブルクを離れ、そこにも革命が近づくとドイツに。
そしてヴィスバーデンに。

彼の長男は母親と共に暗闇の中を橇や徒歩で、雪に覆われた平野を抜け、
1918年12月にフィンランドに到着。
 
1920年6月にヴィスバーデンに渡り、父と共にスイスのローザンヌに近い
ピュイーに亡命。 ここのホテルには一族が避難していたのだそうで。


ピーター・カール・ファルベジェは自分が愛された国に起こった惨事の
ショックから立ち直れないまま、1920年9月24日スイスで死去、74歳。



ファベルジェ・ブランドの復興には曽孫達が協力したそうですが、
実際現在どの様に運営されているのかは、よく分かりません。

が、確かにオリジナルのコピーとみられる品々がたくさん見られ、
が、それもどの程度の価値あるものかは知りませんが、
人気な品々であるのは確かな様子。


かってのロシア帝国時代の貧富の差については、革命が起こる程!
だったと認識しておりますが、
生まれた優雅な貴重な文化、品々については、やはり素晴らしかった!!と。


時代が変わっていく狭間にあり輝き、逆に落ちる運命も、と

今回華麗で豪華な「復活祭の卵」を見て、しみじみと思ったのでした。


***

皆様、良い春をお迎えくださいね。  ブオナ・パスクワ!!


*****

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・ かっての「西部劇」の騎兵隊の馬たちは、どの様に消えて行ったの?

皆さんも「西部劇映画」はよくご存じで、余りお好きではなくとも、
有名な古い映画等はご覧になられておいででしょ?

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で、あれらの映画に登場し活躍していた、たくさんの騎兵隊の騎馬たちは
いつ、どの様に消えて行ったか、ご存じか、
たまた考えられた事はおありですか?

今回は、何年も前に見た映画の印象が深く残り、その後はどうなったのかと
暫く前から頭に浮かび、あれこれ読み、知った事の様子、周辺事情を。

あれこれ知りたくなった発端は、この映画「遥かなる栄光」のタイトルで、
日本でも配信されたのかも。1995年作。

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元々はTV用映画だった様子ですが、出演者もドン・ジョンソン、
ロッド・スタイガー等の出演で、最初はTV放映で映画自体の出来も
良く、素晴らしいと思い、後にDVDを買い何度か繰り返し・・。

内容は、1932年、深刻な経済問題もあり、ヨーロッパの戦争気運への
成り行きからアメリカもいざ戦争参加となった事を考えると、当時の
アメリカには戦車はたったの10車!という有様で、

マッカーサー将軍はテキサス州駐屯の、第12騎兵隊の騎馬509頭の
殺戮を命じたのが、若い士官とそれに従う4人の軍曹が最初の100頭の
抹殺の哀れさを見て、

到底命令に従う事は出来ないと拒否し、残る400頭を引き連れ脱走
北に進路を取り、追尾してくる軍との厳しい追いかけごっごになるものの、

3000kmアメリカ大陸を縦断、最後はカナダとの国境の川を越え逃げ込む、
という筋でした。

雪山を越える、蹄鉄がチビて付いて行けなくなった馬達の辛い殺戮、
4人の内1人は、追いついて来た兵に撃たれ死亡。

それでも最後の最後は、追尾して来た軍がわざと大砲の射程を長くし、
馬達がその下を走り抜け川を渡り、向こうで待つカナダの守備兵の元へ、
という、
動物好きのshinkaiなどウルウルの、映画だったのですね。


で、改めて今回あれこれ追跡してみると、この出来事は公の記録は
何も無く、残らず、誰それの話では、誰かから聞いた話では・・、
という様子なのだそうで!

まぁ、「一切記録にない」というのが、「実際に無かった事ではない」、
というのは大いにありうる事で、はぁ、それはさておき・・、


実際の所、いつ、どのように騎兵隊が消えたのか、騎兵隊の馬達が
消えたのか、という事があれこれ分かりましたので、ここにご報告を。


まず上手く引っかかってくれた 米のテキサスはオースティン州の、
Stephen f. Austin State University、スティーブン・F 州立大学のサイト記事2014年10月

騎兵隊の最後の馬  リッキー・ロバートソン・Rickey Robertson 

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かっての騎兵隊の馬を懐かしみ、騎兵隊も偲び、追悼の気持ちも深い
とても良い文章なので、中断しながらですがご紹介しますね。

  1941年のルイジアナの大演習の時を生きた人は、誰でもトラックと
  戦車の長い隊列、行進する歩兵部隊の長い列、干し草畑に着陸する
  可能性のある小さなバッタ飛行機、大きなキャンプ、野営地は
  テントと兵士でいっぱい、  
  ですが誰もが話題にするのは騎馬隊の事。

  ルイジアナ演習中、第1騎兵師団と第2騎兵師団の2つの
  完全騎兵師団に加え、他の幾つかの騎兵連帯が
  サビーヌ演習地域全域で活動しました。

地図をどうぞ。 サビーヌ・済みません, a が抜けましたが、
へへ、分かりますよね。
ついでにお隣テキサス州の幾つかの街の特定、Austin の位置も。

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ダラスとサン・アントニオの半ばに見えるフォート・カヴァーゾス
Fort Cavazosは、
現在も騎兵隊の名が残る「大1騎兵師団」の本拠地で、

2023年迄はフォート・フッドの名でしたが、
現在は馬は儀礼用のみの歩兵師団との事で、この大1騎兵師団は
第2次大戦以来全ての戦争に参加を。


  埃をかぶった騎兵の長い縦列が何時間にも渡って通り過ぎるのを
  見るのは良くある事で、騎馬隊の長い縦隊は昼夜を問わず移動し、
  しばしば騎馬に水を飲ますためだけに立ちどまる事が多かった。

  住民らは、顔に飼料の入った袋を吊るした騎馬隊が縦隊を組んで、
  オート麦やトウモロコシを食べながら移動している姿を覚えている。

  多くの田舎の人々は、騎馬用に追加のトウモロコシを手に入れようとした、
  農家のトウモロコシの飼料場で兵士を捕まえたと報告しており、

  騎兵は自分の必要よりも先に騎馬の世話をし、騎兵の最も貴重な
  軍事備品は馬だったのです。


1941年ルイジアナ大演習中の、忠実な騎馬とその騎兵。

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ーーー  騎馬部隊が演習の前後に使用され、馬の病気や負傷も多く、

  補給セクションはルイジアナに、数百頭のラバと共に、800を超える
  代替えの騎兵騎馬が使用可能な状態での補給所を設け、

  これらの馬とラバは即使用できる状態になっており、
  つまり既に基本訓練を受け、馬達は全ての動きと全てのターンを知り、

  そしてそう、彼らは全ての軍隊ラッパの音色を知り
  その音色を聞いた時に何をすべきかを正確に知っていました。


そうなんです、上にご紹介の映画でも、散らばって草を食んでいる時でも
ラッパの音を聞くと、皆が一斉に顔を上げ、音の方向を見、そして
次のラッパで一斉に歩き出し、次のラッパで速足に、そして次に走り出し・・、
という、

見ているこちらの背筋がすっと寒くなる様な場面があり、あのシーンは
時々思い出す程。


-- そして時代は確実に動き、変わって行くのですね。 
 
  そしてアメリカ軍内には新たな事が起きていました。
  戦車、ハーフ・トラック、その他の装甲車両の登場により、

ハーフ・トラックとは何か、と調べましたら、 
戦車とトラックの良いとこ取りの姿。

5-1-large_181017_half_05_GF.jpg


 
  騎兵隊は段階的に廃止されなければならず
  そんなことはあり得なかったのが、が、確かにそれは起こった


この写真は、騎兵から機械化部隊へのバトンタッチ、という訳で。

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  南北戦争、インディアン戦争以来、1941年迄騎乗していた有名な
  騎兵連隊は、その名の知られた騎馬を放棄しなければならなかった。

  ルイジアナ作戦の終わりに、愛されていた騎兵騎乗は機械化された
  車両に交換されましたが、

  騎兵・騎士にとって騎乗馬は自動車よりも信頼できるものでした。

  ベテランの騎兵なら、鞍に乗り、装備を騎乗に置き、3分半以内に
  隊列を組む事が出来ます。

  陸軍の騎馬部隊は演習中に素晴らしいパフォーマンスを発揮しましたが、
  高速の機械化部隊に取って代わられつつあり、

  部隊がテキサス州ニュートンのコートハウス・スクエアの基地に戻る途中、
  ルイジアナ演習場を離れると、多くの部隊が解散し、愛馬を引き渡し始めた。


  しかし、これらの部隊が馬を引き渡すと、アメリカ陸軍補給官課は
  16歳以下の全ての騎兵馬を売り払い始め、

  他の古い騎馬は全て、カンサス州フォート・ライリー・Fort Riley
  輸送され、基地内で放牧されました。


つまりこの1941年のルイジアナ演習が、実の騎兵隊の姿が見られた最後で、

それ以前1921年9月に第1騎兵師団に配置され、が、騎兵としての
訓練を続けており、
上にご紹介のルイジアナでの大演習は、1941年8月8日から
10月4日までの大規模なものだったとも分かりました。

この第1騎兵師団なるものは、歴史を鑑み騎兵師団と名を残すものの、
歩兵師団で、上記の通り、第2次世界大戦からずっと戦争に参加。

名の出たカンサス州のフォート・ライリーというのは、
地図でご覧頂くとこの地にあり、

6-1-Fort Riley, nel Kansas-19 095123_GF.jpg


米軍の、フォート・ライリーと第1歩兵師団の歴史 を読み、これまで
良く分からなかった、いわゆる騎兵隊の成り立ちが漸くに何とか!

つまりこのフォート・ライリーという基地は、西に移動する人達の移動と
交易保護の為、戦略的要所に多数置かれた軍事駐屯所の1つで、

1853年1月に陸軍省によって承認されたこの場所が、軍隊を組織し、
訓練し、装備するのに有利な場所として、6月にフォート・ライリーとなり、

「フォート・ライリー」砦の名付け親となった、ベネット・C・ライリー少将

6-2-Maj-Gen-Bennett-C-Riley-091026-R-FR000-001.jpg


徐々に拡張され、南北戦争1861~1865、インディアン戦争1866-1871、
軍隊が投入、駐屯、移動し・・という流れを繰り返しますが、



このフォート・ライリーに1866年、後にリトル・ビッグ・ホーンの
インディアンとの戦いで全滅したジョージ・A・カスター名誉少将が
到着し、新しい連隊の指揮を執った、というのもここの歴史に入ります。

7-G_a_custer_GF.jpg


彼はインディアン戦争にここから出かけ、長引くと、妻に会う為
無断でフォート・ライリーに戻ったりで、軍法会議にかけられ、1年間の
停職処分を受けたりも、はは、あったそうで。

現在にも名の残る騎兵連隊の将でありましたが、様々な物議を
醸した人物でもあった様子ですね。



で、1866年9月21日カスター中佐の指揮の元第7騎兵隊
フォート・ライリーで組織されたのが、
我々が名を良く知る「騎兵隊」なるものの起こりと漸くに納得!


8-7CavRegtCOA.jpg

済みませんです。 分からない事の疑問に中途で出会うもので、
その都度何度も読み返したり、探したりで・・! 
ゆっくり読んでやって下さいませませ。


この星条旗は、1876年のカスター将軍のリトル・ビッグ・ホーンの
戦いの後に見つかったものだそうで、現在と星の並び方が違いますね。

9-Flag_of_U.S._7th_Cavalry_Regiment_in_Battle_of_the_Little_Bighorn_in_1876_GF.jpg



そして最初のフォート・ライリー砦はこんなだったのが、

10-1-building_fort_riley_GF.jpg


測量技師の撮った、フォート・ライリーの全景が見える1866年の
一番古い写真と言われる姿となり、

10-2-FortRiley-fall1866-090429-R-FR000-017_GF.jpg  



1890年の版画では、この様に。

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毎年入植地が西に延びるにつけ、砦は次第にその重要性の一部を失い、
他に大規模な軍隊が駐屯する砦も出来てきます。


1880年代後半第7騎兵連隊が20年の空白を経てフォート・ライリーに戻って来た時、
その連隊の重要なメンバーの1人はこの騎馬コマンチ・Comanche

11-2-Commanche-090429-R-FR000-004_GF.jpg

コマンチはリトル・ビッグ・ホーンの戦い、カスター将軍の指揮下で
唯一生き残った第7騎兵隊員で、第1部隊指揮官マイルズ・E・キーオ大尉の
騎馬だったのだそう。

この馬は殺害された兵士の遺体の中に立っていたのを発見され、
7つの傷を負い、その内の3つは重傷だったのを、騎兵たちによって
介護され健康を取り戻し、儀式の任務に割り当てられたと。

コマンチは戦闘後更に15年間生き、1891年に30歳で亡くなり、
彼は最終的に複製にされ、現在はカンサス大学キャンパス内の
ダイチ自然史博物館に展示と。


インディアン部族との敵対が弱まるにつれ、多くの辺境の砦が閉鎖され、
フォート・ライリーは1884年「陸軍騎兵隊司令部」となり、
残ったのだそうで、

騎兵たちの黄金時代、と言われる次の時代、彼らは乗馬スキルと能力を
磨き、継続的にテストし、ロシアン・ライドと呼ばれるこんな訓練も。

12-Cavalry-School-090429-R-FR000-024_GF.jpg

馬と騎手の関係を改善するにも良く、優秀な騎馬兵士となり、その評判は
世界の騎馬学校と肩を並べる程にもなったと。

ヒヨドリ越え、も出来そう!



そして、ここでまた最初に引用していた記事「最後の騎馬隊の馬」に
戻りますね。

カンサス州のフォート・ライリーに移された古い騎馬たちは、

  長い年月に渡り、これらの馬たちは徐々に死んでいき、1頭だけが
  米陸軍の目録とその役割に残されました。

  チーフ・Chief、大きな栗毛の去勢馬は、フォート・ライリーに
  住んでいた最後の騎馬。

  1932年生まれ、1940年に州の購買代理店により、代替え馬として
  163ドルで購入され、

  ネブラスカ州のフォート・ロビンソンで就役し、初期訓練の後1941年
  4月3日にフォート・ライリーの第10騎兵連隊に配置され、

  彼は様々な部隊や騎兵に配属されるためにフォート・ライリーに到着した
  6000頭の騎馬の内の1頭だったのですね。


  こうして1941年のルイジアナの大演習の後に騎馬騎兵部隊が
  解散した後も、チーフ・Chiefを含む3頭が現役として残りましたが、

  チーフは1949年半ばに退役し、1958年初めに最後の現存する
  騎兵として完全に退役し、

  残念な事に、1968年5月26日、最後の騎乗馬である彼が亡くなり、
  36歳まで生きたものの、これは人間の年齢に換算すると108歳!


こちらがアメリカ陸軍最後の騎馬、チーフ。

13-Scan_Pic0549_GF.jpg



こちらは、完全は騎兵装備を見に着け、フォート・ライリー獣医師事務所の
前に立つチーフ。

14-Scan_Pic0550_GF.jpg


   チーフの特別な葬儀と埋葬はフォート・ライリーで行われ、彼の為に
   特別な棺が作られ、チーフはその中に立ったまま安置され、

   フォート・ライリーの司令官は、チーフとその米陸軍での勤務について
   スピーチをし、

   米軍楽隊が「ブーツ・アンド・サドルズ」を演奏する中、葬列はチーフを
   墓にまで運んだ。


フォート・ライリーには、建物正面にオールド・トルーパー・古参騎兵士
の像があり、その前に葬られた、と読みましたが、この像ではなく、

15-Proj_Fed_FtRiley_Hero1_GF.jpg



別の通りの新しい像の前に、最後の騎兵隊騎馬は葬られている様子。

16-21 092103_GF.jpg

特別の、立ったままの姿で埋葬、というのに米陸軍の心を感じ、

時代の流れの中に消えて行った騎兵隊とその騎馬を思い、
ちょっと心が締め付けられた感じを。


ーー 騎馬のこの素晴らしい名残は残っているのでしょうか?

  はい、それはサビーヌ・大演習のあった場所、ヴァーノン・Vanon,
  ナキトシュ・Natchitoches教区に存在し、

  ピーソンリッジ軍事保留地・Peason Ridgeには、今でも野生馬の
  大群がいて、

  これらの馬を見れば、その祖先が騎兵隊騎馬だったのがすぐ分かります。

17-Scan_Pic0562_GF.jpg

  政府のリストには載せていないかもしれませんが、あの素晴らしい馬を常に
  思い出させてくれる、彼らの先祖がまだいます。


長くなりましたが、かっての馬たちの雄姿を思い出して頂けたら、
shinkaiめもとても幸せで~す。


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・ 「若者の肖像」 ・ 英 ロイヤル・コレクション 作品周辺あれこれ

今回は初めて知った「若者の肖像画」、それも英国はウィンザー城
の現博物館に所蔵との事で、

1-ritratto-di-un-uomo-del-romanino_GF.jpg


画家は誰、モデルは、どの様な経過で、等など、その周辺も
様々知った事のご案内を。

最初に読んだのは、
ウィンザー城には、国王たちを「スパイ」し、現在は観光客を「スパイ」する

記事のサイト元はブレーシャ新聞で、読者呼びに「スパイ」だのと、
ちょっと言葉で煽っておりますが、

その後ウィキペディアの伊版に、も少し詳細に書かれているのを
見つけましたので、どうぞ。
Ritratto di giovane (Romanino)


最初に目が留まったのは、モデル自身はかなり着飾っているものの、
若者独自の目の表情の描かれ方がとても優れている、と思ったからで、

2-ritratto-di-un-uomo-del-romanino_GF.jpg

衣類と帽子も上品、帽子に白いダチョウの羽が更にエレガントな
味を添え、赤みがかった金髪の髭、

そして帽子のつばの下に見えるのは金色のネット・スクフィオット・
これは髪を纏めるのに使用され、当時とりわけ軍隊で髪を長め、
バイキング風にするのが習慣だったからだそうで。

更にこの若者が単なる兵士には見えず、衣服の豪華さから考え、
貴族出身であったろうと。


で、この作品は長い間国王の着替え室に展示されていたそうで、
そもそも1846年にヴィクトリア女王の王配・夫 アルバート公が購入。

こちらがお2人。

3-Cover-P1_GF.jpg

お2人の仲は良く9人もの跡継ぎに恵まれたものの、アルバート公は
42歳の若さで亡くなり、ヴィクトリア女王は40年間の寡婦生活を。

イギリスのヴィクトリア女王と、 従僕ジョン・ブラウンの・・
https://www.italiashiho.site/archives/20201202-1.html


アルバート公は優れたセンスをお持ちでしたが、美術の専門ではなく、
「ジョルジョーネ」の作品として購入されたものの、


1909年に作品はジョルジョーネではなく、ジローラモ・ロマニーノ
Girolamo Romanino(1484頃-1566)ブレーシャ出身 
の作品と判明したのだそうで。


そして最近の修復により、以前考えられていたよりも保存状態の
良い絵画の表面が明らかになり、
パネルの一部の破損や、所々の色の喪失にも拘らず、
作品はまばゆいばかりの元の色に戻ったそう! 素晴らしい!


ジョルジョーネ・Giorgione はご存じですね? ヴェネツィアのアッカデミアに
嵐・テンペスタ」の秀作がある、ヴェネトのカステルフランコ出身の画家で、

4-16711825_giorgione3_GF.jpg


彼は何枚か素晴らしい青年の肖像画を残しておりますが、その1枚を。

5-Giorgione,_ritratto_di_guerriero_con_uno_scudiero,_detto_il_gattamelata,_1501_ca._(uffizi)_01_GF.jpg

6-1-Giorgione,_ritratto_di_guerriero_con_uno_scudiero,_detto_il_gattamelata,_1501_ca._(uffizi)_02_GF.jpg


こうして見て頂くと、今回の主人公の作品との、画家の肌合いが
違うのがお判りいただけるかと。

いずれにしても両者ともヴェネツィア共和国内出身で、年代も近く
ヴェネツィア滞在のあったドューラーの影響も認められるとの事。


カステルフランコの町 ・ ジョルジョーネ展
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522712.html


で、イギリスにおけるロマニーノの作品は珍しく希少で、それもあって
今回記事(今年3月)になったのかもで・・。
こちらがイギリス・バークシャー群にあるウィンザー城

6-2-il-castello-di-windsor-nella-contea-del-berkshire-in-inghilterra_GF.jpg


絵画約7000点、4万点の水彩画、そしてタペストリー、陶器などの
豊富なロイヤル・コレクションの一部となり、
英国王、女王の所有する様々な邸宅に分けられているのだそうで。


もう一度こちらの写真を。

7-ritratto-di-un-uomo-del-romanino - Copia_GF.jpg


帽子のつばを抑える白と金色のリボン! 髪抑えのネットは上記、

ジャケットは金の刺繍が施され、多分チュニックとして長いサイオーネ・
saione、その上にシャツの上にファッショナブルに開いた非常に
大きな暗色のマント、

胸の前には、短刀を身に着けているだろうレースが見え、というのですが、
どれがレースなのか分からず、短刀の柄の事だろうか・・。

右腕に見えるバッジはまだ特定されていないものの、

ヴェネツィアのカルツァ同胞団・Compagnie della Calzaに属して
いたのを示す可能性があると。

カルツァとは、ほら絵画の中によく見る、若い男性たちの脚を覆う
長靴下、両脚同色、または色違いの2色とか、のあれで、

ウィキの説明によると、様々な一団があり、カルツァの色と、
複雑な刺繍マークで区別されており、
カルネヴァーレの時など貴族向けのショーや娯楽を促進した団体と。

ただカルツァ同砲団、というのは、どうやら1段高い位置にあり、
1574年のフランス国王アンリ3世の様な君主訪問の祝賀会とか、
毎年恒例の重要な昇天祭・センサ、の時に動員されたと。


フランス国王アンリ3世のヴェネツィア訪問
ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html


で、ウィキの説明では、同様の上着のサイオーネは、ラファエッロの
描いたフレスコ画「ボルセーナのミサ」の兵士や、
クレモナ大聖堂のロマニーノのフレスコ画にも登場人物が
着用しているのが見つかる、との事で、早速に。

ボルセーナのミサ・Messa di Bolsena」 ラファエッロ 1512-14
ヴァティカンの「ラファエッロの間」の一部

8-Massatbolsena_GF.jpg


ボルセーナとはボルセーナ湖・Bolsena、ラツィオ州ヴィテルボ北に。

お話は1263年教皇ウルバヌスの時代に、ボルセーナの教会
サンタ・クリスティーナで起きたという「聖体の奇跡」を描いており、

ええとです、「聖変化」の教義を疑っていたボヘミアの司祭が、
ミサを行いつつ、
一体この「聖餅」が神の肉身であろうかと思っていると、

聖餐のパンが血を流しはじめ、流れでた血がテーブルの布上に
「十字架」を形作り、司祭は信仰に立ち返った、というお話。


で時代が流れてのフレスコ画で、壇上右に膝まづいておられるのが、
時の教皇ユリウス2世。

9-Messa_di_bolsena_05_GF.jpg


嫌がるミケランジェロに、かの「システィーナ礼拝堂」の天井画も
描かせた偉い方。 「描かんとぶっ叩くぞ!」と脅しつつ、ね。


この時の布の聖遺物を収める為に建立されたのが、かのオルヴィエートの
聖堂なんですと。 これも知らなんだ。


で、右下に固まっている一団が、ほら、上の青年と同じ様な衣装を
着けていますね。 ユリウス教皇が制定したスイス衛兵なのだそう。

で、真ん中奥でこちらを向いているのが、ラファエッロの自画像と。

10-Raffael_089_GF.jpg

頭にターバンを巻き、なんとなしお風呂上りか、シャワー後みたいに
見えて笑いましたが、ははは。


うん? スイス衛兵の制服、ってこんなんだったの?
昔はこうだったの? とまたウィキ先生を検索すると、

元々のスイス衛兵は、教皇ユリウスが1505年、臨時の傭兵
制度を止め、常備軍として創設したのだそうで、
教皇が負担した創設費はかなりのものになったと!

200人の希望が結局150人、1506年1月22日にスイス衛兵
がポポロ門から入り、教皇に迎えられたそう。

1527年5月のローマ劫掠の時には189人のスイス衛兵の内
147名が戦死!とか、教皇領が1860年に解体した時には、
雇用する財源がなく、衛兵達がレオ13世に対し反乱を起こしたり、
様々な経緯があったものの、

ピウス10世(1903-1914)の時に、スイス軍からの折衝もあり、
スイス衛兵は維持される事に。

そして16世紀ルネッサンス時代の制服が復活。

11-Obama_Clementine_Hall_2009_GF.jpg

世界で一番重い、何百という程のパーツの縫い合わせの制服で、
オリジナルはミケランジェロのデザインと。

やっぱりカッコ良いなぁ!! 

チラッと写っているオバマ元大統領に気が付かれましたか?
彼もカッコ良かったですねぇ。

スイス衛兵の現在は、スイス軍の希望者からの選抜派遣となり、
給料は薄給でも、はは、住宅、食、免税もあり、様々な職業技術も
学べ、スイスに戻る時は、この制服が頂けるそうです。


***

最初は、短いサイト記事の「青年の肖像」から出発したのでしたが、
あれこれ次々検索しつつ知り、大いに楽しみました。

読んで下さった方々にも、どうぞ楽しんで頂けましたように!


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posted by shinkai at 01:57Comment(0)・欄外

・ イタリアで美しい夕暮れが見れる, 7つの場所は・・

既にイタリアへのご旅行を計画され、出発の日を待ち望んで
居られる方も多いと思うのですが、

旅先でほんの少し自由がききそう、では美しい夕暮れを!
と思われる方に、
イタリアで美しい夕陽、黄昏が見れる場所のご案内を。

今回参考にした記事は
イタリアで最も美しい夕陽7選・I 7 tramonti più belli d’Italia


イタリア旅行では、大体どの町でも美しい夕陽、夕暮れが
楽しめると思うのですが、・・まぁ、夕食の時間と重ならなければ!

でも、ここを!というお勧めの場所を知られているとまた別なので、
ご一読をどうぞ!


1.ストロンボリ島 (シチリア島)・Stromboli

1-669741592_GF.jpg


地図をどうぞ。  

2-stromboli-03-08 180728_GF.jpg

夕陽を見るのにお勧めの場所は、東側のカラーブリア州の
トロペーア・Tropea、そしてニコペーア・Nicopea辺りまでの海岸と。
 
地図の下から尖って延びるのは、シチーリア島の先っちょ、です。



で、島の形を上から見ると、

3-Escursioni-Stromboli-da-Tropea-1024x602_GF.jpg

そうなんです。 この島は現在も活火山の様子で、


4-146_GF.jpg


むか~し、イングリッド・バーグマン主演の映画で「ストロンボリ」
というタイトルで、確か噴火を扱った映画があったのをうっすらと。


記事の説明によると、イオーニア海のこのストロンボリ島は、
ユネスコの世界遺産候補になっているそうで、


夕陽の火の玉はゆっくりと火山口に向かって下降し、
一瞬火口に飲み込まれそうに!

5-tramonto-stromboli_GF.jpg

6-tramonti-di-ulisse-2019-scaled_GF.jpg

この瞬間の儀式に参加するのは大きな幸運です、と。

確かに。 季節により、天候、時間が大いに関係するでしょうね。
行かれる方に幸運を!



2.カナゼイ・Canazei (トレンティーノ・アルト・アディジェ州)

7.shutterstock_1469469716_GF.jpg

この一帯は冬のスキー観光地として有名な場所ですが、
夏でも美しい夕陽を見せてくれるそうで。


地図をどうぞ。

8-canazei-03-09 082717_GF.jpg

ボルツァーノ・Bolzanoから、車で1時間程の距離に。


太陽が徐々に周囲を囲むドロミーティの山々に沈むにつれ、
その日の非常に明るい月の様な白色(ドロミーティは淡い山とも
呼ばれそうで)
から、ピンクと紫、そして燃える様な赤色、と様々に色を変えると。


見つけた写真は全て雪山でしたが、ご勘弁を。

9-2-Val-di-Fassa-2009-52_GF.jpg


これは2019年大晦日の落日と。

9-1-2019.Bar Funivia Pordoi-2_GF.jpg

この様な現象をエルフ語・ファンタジー登場のエルフが使うとされる架空語で、
つまりラディン語・イタリア北部ドロミーティで話されている言語では、
エンロサディーラ・enrosadìra、と呼ぶのだそう。


ちょうどこの言葉を使っていた写真が見つかり・・。

10-enrosadìraDSC7005_GF.jpg



3.ポリニャーノ・ア・マーレ・Polignano a Mare (プーリア州)

11-shutterstock_1356233981_GF.jpg

プーリア州は確かにイタリアで最も美しい場所の1つで、
最近とりわけ観光の目玉になっている様子。
つまりまだ手付かずの自然がたくさん残っているのでしょう。

上の写真は余り魅力的ではありませんが、グーグル地図で
位置を探していてちょうど見つけた素晴らしい写真を!

13-polignano a mare-03-09 083421_GF.jpg

まるで同じ場所ではないものの、‥となると、この素敵な入り江、
素晴らしい海の色の小さな浜がたくさんあるという事でもあり!


地図をどうぞ。

12-polignono a mare-03-09 083232_GF.jpg

バーリ・Bariから40km程、車で40分程の近さの様子。



ご自慢の夕日はこんな風に激しく、色鮮やかに!

14-1193905_GF.jpg


そしてサイト記事の単なる誉め言葉よりも、shinkaiが軽~く
釣られたローカル食。  お、お、い、ち、ちょぉ!!

15-Pescaria-Polignano-a-Mare_GF.jpg



4.チェルヴィア・Cervia (エミリアロマーニャ州)

16-shutterstock_1032113725_Pier-Giorgio-Carloni_GF.jpg

この地はアドリア海に接しての古くからの塩田があり、
暫く前にて別のサイトで見つけ、いつか、と願っている場所!


地図をどうぞ。

17-cervia-03-09 095138_GF.jpg

ラヴェンナから南に30分もかからずの距離の様子。


干潟に住み着いているピンクのフラミンゴ、サギ、トキ、白鷺が
美しい自然と共存し、

20-riserva-naturale-salina-di-cervia_GF.jpg

なおの事土地の特殊な美しさを盛り上げる、素晴らしい夕陽との
共演なのでしょう。

18-Natura-spettacolo.-Il-tramonto-alle-saline-di-Cervia-nella-sera-di-san-Lorenzo_articleimage_GF.jpg

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今回土地のサイトを見つけ、その中に「塩田の夕陽を小船で」と
いう催しもある事を知りました。

現在もかっての技法で塩田が続けられ、保存されている様子で、
行けるチャンスの前に調べてみたいと思っています。



5.ヴェネツィア・Venezia (ヴェネト州)

21-1-shutterstock_557374438_GF.jpg

ヴェネツィア。 カナル・グランデの真ん中に位置するリアルト橋の
上から見る、黄昏近い太陽の光。


まぁ、ご存じない方はおられないとは思うものの、地図をどうぞ。

21-2-venezia-03-09 083807_GF.jpg

赤点で示されたヴェネツィアの領域を見て、一瞬笑いが、ははは。
だって、ここも、ここも、み~んなヴェネツィアなんだぜぇ!とでも
主張している様で。

そうで~す、 そして赤線で囲った、つまり干潟の島々での夕陽、
黄昏時の美しさは、ここ全部からが素晴らしく美しく、魅惑的で~す!!



本島の南、サン・マルコ聖堂の横にあるヴェネツィアの正面玄関口。

23-aperitivo-barca-venezia-tramonto-_GF.jpg

これは斜め前に位置する、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の
聖堂前から。





6.サン・クイリコ・ドルチャ・San Quirico d’Orcia (トスカーナ州)

24-shutterstock_1751987072_GF.jpg

2004年からユネスコの世界遺産に登録されたオルチャの谷。
信じられない程の広さ、美しさの、素晴らしい自然が広がります。


地図をどうぞ。

25-san quirico-03-09 084149_GF.jpg

東はピエンツァの先から、西はモンタルチーノまで、その中心に
位置するサン・クイリコ・ドルチャからまた南にも続きますが、

点在する小さな町村はいずれも由緒ある歴史を誇り、取り囲む
大きくうねり起伏するオルチャの谷の素晴らしさが趣を添えます。

上の写真に見える糸杉の林は、地図のサン・クイリコの西に囲った
カメラの印のある場所で、

サン・クイリコからの道は自動車道なので、車がないと無理な位置
ですが、一度はご覧になれると良いなぁ、と願います。



上の穏やかな夕陽の色と違い、黄昏がも少し進んだ夜に近い激しさも
見え、感じる、素敵な色の黄昏ですねぇ。

26-3317538_GF.jpg


ヴァル・ドルチャとその周辺ご案内
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834418.html



7.ローマ・Roma (ラツィオ州)

27-shutterstock_1523083874_GF.jpg

28-roma-03-09 084422_GF.jpg

イタリアの首都、伝説では紀元前753年4月21日に都市国家
として建国されたというので、実に2000年以上の歴史ある首都!

TVニュースに登場する時は細部のみが見えすぎ、またかぁ、と
思うのみですが、
時に空からの眺めが写ると、おお!! 美しい!!と見惚れます。

本当に!! ゴチャゴチャしてはいるのですけど、その間に有名で
大きな建物が挟まり上手く収まっており、と共に、新しいガラスの
高層建築が無いのも、美しく見えるのかも。

そう、まさに「ローマは永遠の都!

そして、たくさんの見るべきものがあるのに殆ど知らない、
というのが実情で、

いつか、いつか、ゆっくりとあちこちを訪ねたいなぁ!!

こんな夕陽の写真を撮りながら、うん、朝日もね。

29-Colosseo-al-tramonto_GF.jpg



スコミーゴ村 ・ 冬の夕暮れ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465337915.html

イタリアの夕陽 ・ あちこち
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463097646.html



◆ お知らせ ◆

我が絵の師であり友の、二木(ふたつぎ)さんの個展が、
3月13日から26日迄、松本市の井上百貨店6階にて、
二木一郎 日本画展」が開催されます。

2024年3月井上個展DM1_GF.jpg

2024年3月井上個展DM2_GF.jpg

松本は二木さんの生まれ故郷。  長い研鑽の積み重ねと
画歴をお持ちで、それは画面をご覧頂けるとどなたにも十分に
納得頂ける、説得力ある作品群と思います。

今回はほぼ旧作30点以上の出品だそうですが、
残念ながらご本人は、来店されませんので悪しからずとの事です。

どうぞご時間をご都合の上、ご高覧頂ける様お願い申し上げます。

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霧の朝・ヴェネト 途中経過と、 シバの女王の脚の謎、ソロモン王との関係は
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・ n.2「ピエロの高さから」 アレッツォ-サン・フランチェスコ教会壁画 特別公開

先回に続き、トスカーナ州はアレッツォのサン・フランチェスコ教会で
この12日迄特別公開されている、
ピエロ・デッラ・フランチェスカのバッチ礼拝堂「聖十字架黄金伝説」
の壁画を見て来ましたので、その様子をご覧下さいね。


サン・フランチェスコ教会は、アレッツォの駅前から真っすぐに
10分程も歩くとすぐ前に行ける近さにあり、

内部一廊式の正面にあるバッチ礼拝堂は、現在壁画状態検査の
為すっぽりと囲われており、

1-1-DSC02536_01_GF.jpg


この内部はパイプ足場が4層に組まれ、一番上の層は上れずで、

1-2-DSC02659_01_GF_1.jpg

ヘルメットをかぶり3層迄上がり、説明を聞きつつ、眺めつつ、
下まで降りる、という見学方法でしたが、
1回1時間の予約、見学者が6名+ガイドさん2名、で、

目の前直前にピエロの壁画が見れた事は、本当に幸せでした!!


壁画の題材は、中世に大人気だったという、13世紀ジェノヴァの
大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが書いたという聖人伝、奇跡や
伝説の物語の中にあった「真の十字架伝説」。

アダムとイヴのお話の「アダムの死」から始まり、一緒に埋葬した
木の種が大木に育ち、どうやっても建物に使えず、橋の梁に
使われていたのを、ソロモン王に会いに行くシバの女王が直感から礼拝。

その梁で十字架刑になる人間がジェルサレムを滅ぼす、という
霊感を受け、
それを聞いたソロモン王は、地中深くに埋めさせるものの、
そこから水が湧くようになり、万病に効く池となり・・。

壁画の1つに、梁が掘りだされ3人が担ぎだす所がありましたが、
この部分で、この梁は「キリストの磔刑」に使われたのでしょうか?
この辺り、よく分かりません。

が、いずれにしてもキリストの十字架刑の後、この梁は再度
行方不明となり、200年以上が経過し・・。


こちらが壁画全体画の説明で、打ってある番号で時代順に繋がる、という事に。

教会内陣、後陣など、また礼拝堂内などにあるシリーズ物の壁画は、
大体左上から始まり、右に延び、そして端で一段下がって、
今度は右から左に、という感じに続くのですが、

この度は大幅にこの形式が違っており、お話の内容の年代を掴んで
置かないと、ちょっと話が分からない、という部分もありますので、
気をつけて見てやって下さる様、お願い致します。

2-leggenda-croce-big_L_01_GF_GF.jpg

右側上からの 1.アダムの死、 2.シバの女王聖木礼拝・左、
シバの女王とソロモン王の会見・右 

ソロモン王在位は、紀元前971年 - 紀元前931年、とあるので、
シバの女王との出会いもその間、絵のモチーフとなったのもその間、
と言えるだろう、と思います。

そして窓を挟んでの 3.梁の持ち上げ、はソロモン王の逸話後で、
4.受胎告知、があり、 キリスト誕生、と続き、

多分紀元後30年位となる、キリスト磔刑が続き、

5.コスタンティーノ帝の夢、戦勝の為の十字架の教えがあり、


ここから先回飛ばしてしまった、

6.コスタンティーノ帝とマクセンティウスのミルヴィオ橋の戦闘

3-2-Constantine's_Victory_over_Maxentius_-_WGA17514_GF_GF.jpg


これは312年10月28日、と記録が残る2人のローマ皇帝の間の
戦を指します。

こちらが前夜夢に天使が現れ、この小さな十字架を持っていると勝つ、
というお告げの通り、


先頭に十字架を示しながら進むコスタンティーノ帝がおり、

4-Constantine's_Victory_over_Maxentius_(detail)_-_WGA17515_GF_GF.jpg

黄土黄に黒い鷲のローマ軍の旗印を従え進み、


こちら右側は逃げるマクセンティウスの軍勢。

5-DSC02655_01_GF_GF.jpg



ええと、shinkaiはです、実はこの真ん中をくねりながら流れる、
清い川が挟まれているのが、何とも好きでして!
戦の絵というのに、そのど真ん中に清い、青い川が流れている!

6-DSC02654_02_GF_GF.jpg

という、こういう構図を考えつくピエロ・デッラ・フランチェスカ
なる画家の頭脳、精神が何とも冴えて貴く思え・・!

これはしっかり撮らないと、と思い、眺め、撮ったのですがぁぁ、

で、左側の軍勢の写真はまるでとるのを忘れてしまい・・、と
いう有様で! お笑い下さい、へへ。


ですがね、見ていて気が付いたのは、S字形に流れる奥の左の2軒の
前の道に、黒い旅人が、左に1人、白馬1頭と、荷を背に積んだ
2頭のラバ、と思うのも馬より小さいので、と、
その奥に竿かな、はたまた長槍かな、案外白馬の騎士の従者、がおり、

7-1-DSC02654_02 - Copia_GF.jpg

水面に影が映っているのも芸が細かく!

そしてこちら一番手前には、白鳥の親子が、親が1羽、子が3羽。
何とも長閑で静謐で、素敵な絵になっているなぁ、と。


で、ふっとミルヴィオ橋ってどこにあったの?と検索すると、
ローマ近郊で、とは書いてあったものの、近郊どころか、ははは、

こんなに近いテーヴェレ川、まるでローマの市街でないですか!

7-2-ponte milvio180805_GF.jpg

右下近くに見えるRomaの右下に囲ったのが、ローマ・テルミネ駅。



で、おまけに写真もあり、これです。 
アドリア海に抜けるフラミニア街道に掛かる巨大な石橋、と説明も。

7-3-Ponte_Milvio-side_view-antmoose_GF_GF.jpg

こんなの見ると、ここでホンマかな、と見に行きたくなりません?!


コスタンティーノはこの戦に勝ち、ローマ帝国の基礎を造る事となり、
一方、マクセンティウスは逃走の時に川に落ち溺れたとか、
泳いで逃げるのに甲冑の重さに耐えられず溺死したとも。


上の壁画全図の右横にチラッと見える小さいのがこちらで、

3-1-DSC02622_01_GF_GF.jpg

両肩の背後に見える形からしてきっと天使で、白い衣に白の柄、
そして背後の暗い紺色に抽象的な柄、というのも素敵でしょ?

顔は、これはもう、ピエロの描く顔、頬、唇ですねぇ。



で、中央奥の左側の下 4・受胎告知

こちらが全体像で、左上に神さまがおられ、

8--nnunciation_-_WGA17578_GF.jpg


こちら白髪、白髭の神さま。 両掌から右下に立つマリーアに
黄金の光線を送っておられ、  見えるかな?

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マリーアの足元が切れ、おまけに右から工事の覆いも出ており、
すんません。

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マリーアはちょっと当惑したような眼ざしにも見え・・。

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それでね、たまたまこの近くに止まっていた我ら3人だったか女達が
思わず笑った、この左手に持つ本の、読みかけのページに人差し指!

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ピエロの状況設定の細かさが思いやられましたが・・。



そして大天使ガブリエレ。大体白百合ですが、ここでは棕櫚の葉で、

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左背後の布らしき柄は、上に載せた脇の天使の背後と同じ柄で、
扉の四角い柄分けが丁寧で、面白いでしょう?


それと、白い衣装の上に巻いている灰ピンク、とでも呼ぶのか、
この色のなんとも渋く、不思議で美しい色、ですねぇ。

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裏地に使われチラッと見える、これまた渋い緑色がよく合いますねぇ!



中央の窓左の上は、 7.ユダの拷問

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ミルヴィオ橋で勝利したコスタンティーノ帝は、キリスト教を
国教とし、彼の母親のヘレナは熱心なキリスト教徒で、

320年頃、キリスト磔刑に使われた十字架を探しにジェルサレムに。

3世紀程も経ており、誰も知らず、教えようとせずのユダヤ人達の中から
ユダと言う名の男を見つけたものの、知らない、というばかりを、
涸れた井戸に放り込み1週間! やるなぁ! そして引き上げた所、

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ユダはゴルゴダの丘に案内し、女神ウェヌスの神殿前で祈ると大地が
振動し、妙なる香りが。

ヘレナは神殿を破壊し、一帯の地面を掘り返させた所をユダが掘り返し、
地下20歩の所に3つの十字架を見つけたものの、



8.十字架の発見と、真の十字架の証明

1枚の絵の中に、2つの場面が描かれており、

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左のグループ先頭に立つ黒い衣服が、コスタンティーノ帝の母
ヘレナで、今2つ目の十字架が掘りだされた所。

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奥上に見える背景の町が、ジェルサレムに見立てたアレッツォの町。


見守るヘレナと、その手前に見える帽子の人物は、
この人。 
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当時は宮廷の道化役を務めていたという小人ですが、
今回初めて、近くで見ていてこの人物が描かれているのを発見!



こちらが真の十字架の証明

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どれが真の十字架か、神の御助けを待つために町の広場に置き
待つことに。

午後3時頃、という時間もはっきり書かれている、というのが逆に笑え、
死んだ若者の葬儀が通りかかり、1本目、2本目と十字架を
かざしたものの何も起こらず、

3本目の十字架で、死者はたちまち生き返り、真の十字架の証明が!

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死んだ若者の上にかざした十字架により、蘇る死者。



左端で、見守る皇帝母ヘレナと女官たち。

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こうしてヘレナは真の十字架の破片と、磔の時の「聖釘」、
そして脇腹を刺した槍も発見、3博士の遺骸も、マリーアが使ったという
キリストを生んだ時の飼い葉おけのまぐさも、となると・・・!!



全体図で左端に見える小図3枚、3つとも撮りましたが、
1番上のキューピッドが可愛いので、どうぞ。

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9.ヘラクリウス帝と、ホスロ王との闘い 628年

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ペルシャ王のホスロがジェルサレムに攻め込み、聖十字架を奪い去り、
ローマ帝国皇帝ヘラクリウスとの戦いとなり、聖十字架の奪還に成功。
敗れたホスロ王はキリスト教への改修を拒否し、斬首に。


凄まじい戦闘の様子が描かれており、地面に転がる死体、今にも
突き刺そうと髪の毛を握る男、等など白兵戦の残酷さ、凄さが
描かれます。

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隊長らしき年配の男性の背後の若者は、額に剣を受け・・!

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まさに迫撃戦の凄まじさ、

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右下の男の目が見えるので、これを。

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これはまさに喉を突かれた若者と、突き射す男ですが、
若者の兜の美しさ!

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画面上で光が割れている様に見えるのは、光線の当たり具合で、
絵が折れている訳ではありません。


描かれるモチーフはすさまじい戦いではあるものの、どこかクール、
というか、時が止まっている様な、そんな感じがしません?

ピエロが描いている戦闘図は、記録している絵巻図の様で、
残酷さを感じさせない、というのか、そんな印象を受け、


この右下に、負けて捕らえられたホスロ王が引き据えられ、この後
斬首、なのですけど、一陣のそよ風みたいでもあり・・。

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上に見えるアーチは、


王の玉座であり、優しい薄いピンクの几帳が背後に見え、

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ここにも優雅な柄が使われているのですね。

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対面のミルヴィオ橋の戦闘図の真ん中を流れるテーヴェレ川と同様の、
何とも静謐な空間がある一郭、という感じで、恐れ入り。



これは手前が「受胎告知」の天使で、壁の角から左に、この戦闘図が
広がる、下から見た時は何とも思わなかった、不思議さを見つけました。

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こちらは第4層の足場の上にあり、我らは上がれず、見れなかった、

10. ヘラクリウス帝のジェルサレム入城

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皇帝ヘラクリウスは奪還した聖十字架を持ってジェルサレムに戻すべく、
城門に近づくと、城門の上に天使が現れ、

「主キリストはかってこの門を通り受難の地に赴かれる時、慎ましく
ロバに乗り、質素な衣類に身を包んでおられました」と諭し、

皇帝は愛馬から降り、靴を脱ぎ、豪華な衣装も脱ぎ、聖十字架を
高く掲げて入城し、それを見たジェルサレムの市民達が一行を歓迎した、

という場面で、ここに「真の十字架、黄金伝説」のお終いと。


足場が組まれ、狭くもあったのですが、それでもなお、
目前で見れる近さの圧倒感は素晴らしく、

下から見上げる高さでは思いもしない物も見れ、それも大きな喜びで、
こんなチャンスに巡り合えたことが嬉しく、有り難く、
今後ずっと忘れられない思い出となるだろうと思います。


これから新しく訪問される方にも、お家でご覧になられる方にも、
こんな風にピエロは描いていたんだ、とお知りになる一端にでも
なれば、と思います。


先回の1回めを見て下さった私の絵の師匠でもあり、友人の
二木一郎さんがメールを下さり、

 写真の細部までしげしげと眺め
 やっぱりピエロだなぁと、つくづく思いました。

 ピエロがあの時代に生まれてきたのは少し早過ぎたと思うくらい
 清新でモダンだという印象を持っていますが、まさにその通りだと
 思いました。
 生まれてくるのが早過ぎた、と言うより
 時代を超えて評価される要素がふんだんにあるということでしょうね。

 技術的にも、盛期ルネサンスの巨匠たちほどではありませんが
 もしピエロがレオナルドほどの描写力を持っていたとしても
 それはピエロには相応しくないと思いますね。

 あの、ちょっとぎこちない表現が、まさにピエロの真価を高めている
 と思います。
 ぎこちない表現ですが、人物には古代ギリシャ・ローマ彫刻の持つ
 気品のようなものが感じられます。

 写実と理想化の極致であるギリシャ・ローマとは全然違いますが
 それらに通じるような気高さを感じるのはなぜでしょう、不思議です。

 中略

 ピエロは特別好きな画家というわけではないのですが
 彼の作品を再び見直すいい機会になりました。
 
とありました。  はい、本当に私も思っていた通りで、大いに納得で、
見れてよかった、写真が撮れて良かった、と思った事でした。

体の線でもちょっとぎこちないというか、硬いというか、そんな感じが
逆に如何にもピエロの素晴らしさというか、彼の本質を引き出して
いる様に思われ、

というのも、時代が下がり、もっともっとデッサンの凄い、
描ける画家がどんどん出て来ていますが、

かといって、上手く描ければ良い、だけでないのが絵の不思議さで、

上手く描ければ描ける程、逆にいやらしさが見えてくることもあり・・、
を思った事でした。


***
   
ちょうど、二木(ふたつぎ)さんの個展が松本でありますので、
ここにご案内を。

3月13日から26日迄、松本市の井上百貨店6階にて、
二木一郎 日本画展を開催されます。

2024年3月井上個展DM1_GF - Copia_GF.jpg

2024年3月井上個展DM2_GF - Copia_GF.jpg

松本は二木さんの生まれ故郷。  長い研鑽の積み重ねと
画歴をお持ちで、それは画面をご覧頂けるとどなたにも十分に
納得頂ける、説得力ある作品群と思います。

今回はほぼ旧作30点以上の出品だそうですが、
残念ながらご本人は、来店されませんので悪しからずとの事。

どうぞご時間をご都合の上、ご高覧頂ける様お願い申し上げます。


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