・ n.2 G・B・モロー二展 ミラノ  語り掛ける人物像 細部の見事さ

ミラノで開催されたジョヴァン・バッティスタ・モロー二展
の様子を、先回に続きご覧下さい。

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先回ご案内した全身黒ずくめの男性像も少し残るものの、
鮮やかに着飾った女性肖像や、男性達も見事な色の
着こなしを見せて下さりで、

単なる気難しい肖像画に対面するのとは違う、各人が
見守る我らの対面から、

こんなのどう? どんな様子に見える? で?等と
話しかけてくる様子が一段と感じられる肖像画、の数々をどうぞ!



まず最初に、ジョヴァン・バッティスタ・モロー二(1520-1579)
は肖像画同様に宗教画にもすぐれた作品を残しており、

その内の1枚 サンタ・カテリーナの神秘の結婚 1568-70作

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このサンタ・カテリーナは、シエナのカテリーナ・白薔薇を持ち、
白と黒の僧衣ではなく、

荷車の車輪と手に持つ王冠、そしてマリーア様の頭にかかる
花嫁のヴェール、が、アレクサンドリアのサンタ・カテリーナを示し。

キリスト教に改宗し、夢の中で、聖母マリーアが幼子キリストと
婚約させた、という幻視体験をし、


聖母の被る薄いヴェールがたなびく様子! 幼子キリストに
カテリーナを指さして示す様子。

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全体の色調がしっとりと落ち着き、彼の絵の師モレット・Morettoの
描いた同様のテーマと比べ、

登場人物が3人に絞られ、師のは多数、で、如何にも
「神秘な結婚」主題に相応しいと。


モロー二展の予告、彼本人、そして会場風景などのお知らせは、
画家ジョヴァンニ・バッティスタ・モロー二、の「仕立て師」をご存じですか
https://www.italiashiho.site/article/502194185.html



先回ご覧頂いた黒い衣装の男性達の肖像画は、
1550年代に流行したスペイン風の衣装で、その時代に描かれた
作品でもあったのですが、

今回もまだ男性達の衣装は黒が残り、
ジョヴァンニ・アントーニオ・パンテーラ・Giovanni Antonio Pantera 
詩人 1558-60頃の作

読書中にふっとこちらを見、という感じで、本のページに指を挟んでおり、

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Monar di Christo・「我らの主イエス・キリストの君主制」と読める
手に持つ本を著したのが、上記名の方、という事ですが、

この作品はジャン・ルイージ・セラドバティ・Gian Luigi Sradobati 
と、今回の展覧会場では示されており、

整理で気が付いた、写真禁止の印付き! 会場内は大変鷹揚で
他にも何枚か! フィレンツェのウッフィツィからの出品でした。



そしてこちら2枚は、横の掲示を撮っておらず・・、

この紳士の示す意味など、知りたかったのに。

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こちらは足元まである肖像で、優しそうな雰囲気が素敵でしょ?

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で、この女性像。 余りにも緻密な描き込みに驚き、掲示を撮らず。

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髪にも飾り、リボン、首の高いフリル、ブラウスの繊細な刺繍、
赤い上着もお高い柄布、そしてこのたくさんの装飾品!!

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描いたモロー二が気の毒になる程の、いっぱいいっぱいの装飾品を
身に纏い、モデルになったこの女性。

裕福な貴族の奥方でしょうが、でもこんなの全部身に着け描かせ、
見せびらかせたい女性など・・、 
あなたお好き?! と思ったのでしたぁ!


この目つき!   ・・ ははは、失礼をば。

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で、こういう細かい装飾品も描く画家モロー二には、工房に
細部を描かせる弟子がいたんだろうか? どの位の時間が
掛かったんだろう? 等などと、疑問も湧いたのでしたぁ。



こちらは有名な イゾッタ・ブレンバーティ・Isotta Brembati
(1533-1586) ベルガモの貴族家出身、詩人 1554-57年頃作

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制作年から計算すると、この彼女は21~24歳位ですが、
落ち着き、ゆったりと。


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shinkaiめは、この白とピンクのフワフワのぷっくりが、バッグかな、
と思っていたのでしたが、

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はぁ、扇、なんだそうで! これで仰ぐと、温かい香水の香りが
ふわ~っと届きそう、と思われません?


彼女はいわゆる才女で、ラテン語、フランス語、スペイン語を話し、
音楽と歌にも深い知識を持ち、

出身家、そして後にベルガモの重要な貴族家との再婚は、
彼女の能力を公にする機会となり、当時の貴族が集まるサロン
として有名だったと。


会場の展示はこんな風で、右に見えるのも彼女の肖像で、

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はい、確かに見たのでしたが、撮っておらずで、サイトから拝借を。

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こちらはやはりモロー二の描いた彼女で、制作年が1550-55年、
だと、彼女は17~22歳となり、

髪の装飾に真珠がある事などからもセッコ・スアルディ・Secco Suardi
との結婚後の姿であろうと。

彼女はこの結婚により4人の子をもうけますが、その後夫が亡くなり
未亡人で過ごします。


で亡き夫の妹が亡くなり、寡となったジャン・ジェローラモ・グルメッリ
Gian Gerolamo Grumelli(1536-1610)と1561年に再婚を。



で、展覧会場の様子はこんな風で、右にイゾッタ・ブレンバーティの
肖像があり、真ん中の大きな肖像がジャン・ジェロラモ・グルメッリ、
という配置になっておりました。

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そうなんですよね、出品作品、その背後関係を知っている方には、
ああ、この人、この方ね、と大いに納得できたでしょうね、という・・。


はい、この肖像画は、描かれた主の名でも勿論呼ばれるものの、
バラ色の騎士」と言う名でも有名な様子で!
1560年作 216x123cmの大作。

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このバラ色はピンク色とは違い、コ-ラㇽ・ピンクというのか、
当時24歳の彼の頬の赤さがなお目につく、はは、

それにしても何とも見事な色と布地の豪華さで!

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描かれたのが1560年で、1550年代の黒一色の流行とは
変わって来ており、このスタイルもまたスペイン風とはいえ、
さぞ人目を引いた事でしょうね。


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これはピン甘でよく見えないのを先にお許し願い、
半ズボンに合う、長ストッキングをはいた姿で、リボン飾りの
ついたストッキング止めをつけ、  男性方の流行にね、ははは。

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そしてストッキングの上部はちゃんとニットの網目が分かるのを、
嬉しがりのshinkaiが、おお、おお、と撮ったもので~す。


裕福なお家のお遊びお坊ちゃま、という印象が強いのですけど、
なんの何の、当時のベルガモにおいて大変重要な家柄であったは
勿論ですが、

パドヴァ大学で法律の勉強を終えベルガモに戻って来た所で、
生涯で数々の公職を果たした役割は大変に大きかった様子。

パドヴァから戻った1960年に結婚したフランチェスコ・セッコ・
ダラゴーナの娘マリアは突然に亡くなり、

上記した様に1561年にイゾッタ・ブレンバーティと再婚、5人の子が
生まれますが、最後の2人の男児は生後数か月で亡くなったとあり、

妻のイゾッタは1586年、夫と食事中に突然に亡くなったそうで、

夫のジャン・ジェローラモは2度目の寡となったものの、翌1587年
ブレーシャのカミーラ・ペドロッカと再婚を!


裕福な貴族家系となると、結婚相手に似合いの相手となる人も
なかなか見つからず、亡くなった相手の兄弟姉妹からであったり、
見つかったら即結婚、という事も大いにあり得たろうなぁと。



同1560年頃作、プロスペーロ・アレッサンドゥリ・Prospero Alessandri
の肖像。  ウィーンのリヒテンシュタイン美術館蔵

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ゆったりした態度のこの男性は、どの様な、何をされていたのかと、
あれこれ検索しましたが、絵についてのみで他は分からず残念。 

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ただこの素敵なスペイン風のたっぷりの半ズボンが、織の技術の向上
からの産物で、サテンやタフタの贅沢な品を生み出したのだ、という
ファッション関係の記事から見つけました。


そうなんですよぉ、このズボンの折り目の端から、糸目が出ており、
何と贅沢な布だ、と驚き撮ったものの、へへ、少々ピンボケで・・。

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それに両袖が見えるブラウスの手の込んだ洒落たデザインと、渋い色。
黒のベスト・上着とピンクのズボンですものねぇ、

それに髪の毛も、長めを後ろで括っているのではないか、という感じで、
何をしていたのか、知りたくなるでしょう?!

額が白いから、いつもは帽子を被っている軍人だったのかも、ですね。


体の左下に見える碑文には、分からずのまま記します。
  恐怖と希望の間
  貴族のプロスペロ・アレッサンドロ・デル・フヴェ・ノービレ・
  ジェロニモ 1580
  ドンナ CVI 高貴な淑女イザベラ・デル・フブ
  ノーブル・ペドロ・ゴッツィ

1580 という数字で、画の制作が1580となっているのもありますが、
既に1978年にはモロー二が亡くなっており、その後の追記かも。



こちらのモデル名は、ガブリエル・デ・ラ・クエヴァ
Gabriel de la Cueva 1560年作 ベルリンの州立ドイツ美術館収蔵

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名前だけでは様子が分かりませんが、実は公爵様で! 1515年に
スペインのクエヤル生まれ、肩書が物凄い数並びますが、すべて略。

兄が2人居り、後継者の望みはないと軍事騎士団に入っていたのが、
兄達が死に、訴訟を起こし公爵位に。
 
自国の王であり、領土の領主でもあり、ナバラ副王の副官も務め、
当時ミラノ一帯はスペイン領だったので、
1564年にミラノ総督兼総司令官に任命され、


ミラノにいる間にこの肖像画が描かれたのでしょうが、
1571年に後継者がいないまま、ミラノで亡くなっています。 



で今になり気付いたのが、上のプロスペーロ・アレッサンドゥリの
服装と似た感じのデザインの服装と思われませんか?

となると、上の彼もミラノ総督の下の軍人だったのかも! 
で、なるほど。



で、お待たせいたしましたぁ。  今回の一番のお宝、ロンドンの
ナショナル・ギャラリーからお里帰りの、仕立て師・Il Salto.

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こうして改めてみると、会場で見た他の肖像画とのかなりの差が
思い出され、
モデルの服装の色のみならず、逆に服装、色の派手さはないものの、

描く目の冷徹さというか、モデルの方も画家の力量を見極める様子
というか、 

これはモデルは誰か、と書いた記事を読んで頂きたく
  
代々画家であった一家の、家業を畳み、ヴァネツィアで布商人
をしていた人らしい、という事からも、

モロー二の腕の見事さを知っての依頼で、彼も逆に凝視している訳で、
この絵の空気だけが、一種特殊だったのをとても強く感じました。


たくさん、記憶に残したいのと、見返した時に、との思いで
あれこれ撮ったのが、近くの照明の反射が強く、斜め取りになったり、
油彩の筆使いの後が細かく光ったりで、

上の1枚は部屋の入口から撮り何とか大丈夫だったもの以外の
2枚は、サイトから色が大丈夫なのを探したのをご覧下さい。

32-Giovanni_Battista_Moroni_001.jpg

33-id919_crop4_3c_t1646222937_GF.jpg



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いやぁ、モロー二の絵をこの様に纏めて見る事が出来たのは
本当に幸せでした!!

これ程に凄い、とはそれ迄見ていた写真ではとても考えられず、
未熟なのでしょうが、

それに、会場の肖像画の方から、自分が見つめられる
思いをしたのも初めての事でした!!


モデルの服装が凄く精密に描かれ、というのはフィレンツェに行き
ブロンズィーノ展でも見つめたのでしたが、
その人物自体がこちらを見返す鋭さは、感じなかった、という違い。

この違いは物凄いものがあり、繰り返し思い出します。


1-DSC02864_01_GF.jpg



ベルガモのアッカデミア・カッラーラ博物館には、何枚かの
モロー二の作品が展示されており、


またベルガモの町の西側にあるパラッツォ・モロー二には、
元の伯爵邸、「ピンクの騎士」などもあるらしく、

34-Palazzo-Moroni-a-Bergamo-e-giardini-cosa-vedere-affreschi-scalone-donore_GF.jpg



今回会場に来ていなかった、 出し惜しみめ! 
レデッティ家の少女」に会いに行きたいと願っております。

35-Giovan_Battista_Moroni,_Portrait_of_a_child_of_the_House_of_Redetti_c._1570.__GF.jpg


ミラノからベルガモにお出かけの皆ささま、どうぞお時間を取って、
アッカデミア・カッラーラ博物館訪問を是非どうぞ!!


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・ n.1 ジョヴァン・バッティスタ・モロー二展・ミラノ 作品細部・絵の背景

先月末にミラノに「ジョバン・バッティスタ・モロー二展」を観に
行って来ました。

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とにもかくにも、余りにも圧倒的な、今迄これ程の熱中感を
覚えた事の無い展覧会で、

写真は一応整理したものの、肖像画が殆んど、他に宗教画、と
いう、言葉のみで言うと地味な展覧会で、

が、実質内容は上記の通り、何とも濃厚な展覧会でしたので、

多分日本では公開された事の無い画家の、しかも
何点かの作品を除き「ほぼ黒ずくめの衣装の肖像画」でして、


どの様にご案内したら良い物か、絵の背景、肖像画の主など、
あれこれ私自身が知る為にも読みだすと、つぎつぎとで・・、

どうぞ、パッと見の地味さを通り抜け、少しでも画家の真実、
技量、素晴らしさを知って頂きたく

じっくりとご覧下さる様お願い致します!!


上で見て頂いた会場、ガッレリーア・ディタリアの入り口に掛かる
細長い絵のポスター、

一番左は、shinkaiがこれを見たくて行った「仕立て師」ですが、
右の2枚は、実はご夫婦、と知った事などなど、も含め、
あれこれご説明して行きたいと思います。


会場、展示の様子、についての予告はこちらをどうぞ。

元々は銀行だった建物の会場で、小さめの部屋もありましたが、
広さ、高さも悠然たるもので、はい、

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こちらは、モロー二の師匠であった、通称モレット・Morettoと
(1948頃-1554)呼ばれたブレーシャの画家の作品

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見ると実際傾向が良く似ており、また同じ主題で描いている
宗教画が2点展示されておりましたが、

並べてみると、やはり違う、モロー二の方が主題追及が深く、
余分を省いているなぁ、と感じました。



会場の様子をサイト写真から。

5-2-25 153752_GF.jpg



こちらは主展示の隣の部屋にあった作品で、横の作品名などを
撮っておらず、

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そうなんです、この後にあれこれ見始めてすぐ気が付いた
モロー二の作品の凄さに至る一過程というか、

この絵では背景の描き方で、白い襟のレース飾りは、既に。 
これについては後程。



そして、何、どうしたの?と思った絵が、なんとティツィアーノ、はい、
ティツアーノ・ヴェチェッリオの作品で、米のフィラデルフィア美術館蔵。

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大変珍しい作品とあり、フィリッポ・アルキント・Filippo Archinto、
最終的にはミラノの大司教になられた方。

が、当時の宗教改革の余波から宗教改革者とみられ、ミラノではなく
ベルガモに居住せざるを得ず、1558年ベルガモで亡くなったと。

絵の制昨年は1554-56年とみられ、ベルガモ在住の時なので、
その時の世情を考慮し、という事からでしょうか?!



続いての2点は、肖像の依頼主の名を撮っておらず・・。

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驚いたのがこの作品。1566頃の作 バルトロメーオ・コッレオーニ
Bartoromeo Colleoni(1395-1475) 

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傭兵隊長としても名高く、ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・
パオロ広場に、ダ・ヴィンチの師匠ヴェロッキオ作の騎馬像がある方。

10-2-Bartolomeo_Colleoni_Verrocchio_GF.jpg


ベルガモ一帯の領主であり、有名なコッレオーニ礼拝堂もベルガモの
サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂の横に。


で、この肖像の顔が検索するとパッと出るので、えっ、なんで?!と。
はぁ、描いたのがモロー二、とは知らずのまま過ごしていた訳でして。

下に見えるラテン語献辞は、意味が分からずのまま、ここに。
  リリジーは私たちに寛大であることを望んでいます
  彼は敬虔さを崇拝する人です、今彼は一つの愛を崇拝しています



ベルガモのご案内はこちらに。

n.3 ベルガモ行き 世界遺産の街 ・ S.M.マッジョーレ聖堂~下の街に

n.2 ベルガモ行き 世界遺産の街 ・ まぐさ市場~コッレオーニ広場
https://www.italiashiho.site/archives/20190331-1.html

n.1 ベルガモ行き 世界遺産の街 ・ ロッカ、ベルガモ歴史博物館
https://www.italiashiho.site/archives/20190318-1.html



そしてこの肖像は、なんとなしにふっと笑みを浮かべている男性、と
思って眺めていたのですが、

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こうして見ると、じっとこちらを見つめている眼である事が分かり!

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肖像は、ラテラノ大聖堂参事会員バジリオ・ザンキ・Basilio Zanchi
1558年頃

参事会員、というのは、司教を補佐もしくは代行する聖職者の組織
の事だそうで、やはり髪型どおり、宗教界に籍を置く方ですね。



会場に入り、並んだ肖像画を見始めてすぐ気が付いたのは、
モロー二の作品の凄さは、物凄い熱中さが溢れており、ふっと見始めても
その虜になる凄い力を持っており、

他によく見る、こちらを真っすぐ眺める今迄の肖像とは違い、
ふっと力を抜いた姿の様でも、なぜこんなに?と思う程、
取り付かれるのですね。


それが何枚か見だした時に、襟からはみ出す白いシャツや、
この方の上着の襟に見える細かい細かい刺繍の見事さ、美しさが
見逃せないほどに目につき、

多分黒一色の衣装、当時イタリア上流社会に流行していた
スペイン風の黒い衣装の、この素晴らしく細かいシャツの襟刺繍が、
単純さを失くし、わぁ~という程に力を発揮し、

勿論人物の顔表現の見事さ、衣装を描き分かる技量の凄さと共に
絵の迫力を持ち上げ、見る人を惹きつけるのだろうと!


正直言い、これ程凄いとは思わずに出かけ、見たい絵は2,3点、と
思っていたのがなんとなんと、行きつ戻りつ、見惚れ続けたのでした。


大体開かれる展覧会は、マスコミなどの前評判が素晴らしく、
行って見たら、案外そうでもなかったなぁ、という作品が多いのは、
皆さんも良くお判りでしょう?

が、今回のモロー二展は、本当に、真実、本物だと思った展覧会でした。



こちらは肖像主の名を撮っておらずで、なんと凄いなぁ、と見たのが、

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こちら机の上に広げられた書類の描写で・・!

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で、ついでにご覧頂きたいのが、モデルが座っている椅子で、

この写真にはサヴォナローラ風、と書かれているものの、
ダンテ風とあり、どちらも同じ様式なのだそうで、

14-2-Meluzzi sedie alla Savonarola _1__GF.jpg


モロー二の絵の人物、座っている人物像には、同じ椅子が登場し、
小物も同じものが登場、背景も良く見るとアトリエの一部に
設えられた一郭であると想像でき、

肖像依頼主は、自分の衣装でアトリエにやって来て、
後はモロー二のアトリエの椅子に座ったり、窓辺に立ったり
したのだろうな、と想像し、別の楽しみも味わいました。
  


見たいと願っていた肖像、1567年作、単純に「29歳の肖像」

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まだまだ澄んだ目をした優しそうな若い男性で、まっすぐこちらを
見つめ、

白い刺繍された襟のフリルが全体を引き締めるアクセントとなり・・。

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参事会員 ピエトロ・ブレシャーニ・Pietro Bresciani氏 1564頃

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こちらも、白い襟、白髭の表現も見事ですが、

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上手く撮れておらず、こういう時は家に戻って後、馬鹿が!と
思うのですが、

この手が凄いなぁ!と、欲しかった1枚なのでした。

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手が凄いなぁ!と感嘆した絵はもう1枚あり、いや、他にもですが、

まず是非画家ジョバン・バッティスタ・モロー二を知って頂きたく、
ティツィアーノの言葉として残っている逸話のご紹介を。

ティツィアーノは、彼の才能を、肖像画においても更に特異で
ユニークな点を非常に尊敬しており、

ベルガモは1428年からヴェネツィア共和国の統治の下にあったので、

ヴェネツィアからベルガモに移る行政長官や、学長や総長にも、
彼らの真の自然な肖像画がモロー二によって描かれるでしょう、と
言っていたそうで。

ベルガモのアルバーニ家出身の紳士がヴェネツィアでティツィアーノに
肖像を描いて貰いに行き、どこの出身かと聞かれ、ベルガモ出身と
答えると、

ベルガモであなたのモロー二から得られる肖像画よりも、私から
より良い肖像画を得られると信じているのか、

彼の作品は私のものより価値があり、より特異なものである事を
保証するので、彼に予約して下さい、と。

こうしてベルガモに戻り、モロー二にティツィアーノの言葉を伝え、
現在にも残っているものと。


で、こちら、アルバーニ家の貴族の肖像、1568-70年 として
残りますが、ジョヴァンニ・ジェローラモ・アルバーニ
Giovanni Gerolamo Albani であろうと言われ、(別の説もあると)

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少しブレがあり、失礼を。


手と、毛皮の質感が何とも素晴らしかったのがブレ、
こちらはサイトから写真を拝借です。

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描かれた年代からして、息子の1人にしては若すぎ、胸に付けた
十字架にサン・マルコのライオンを象った勲章が、
黄金の騎士の爵位に相当するものと。



描いた年が問題となるのは、1563年4月1日、ベルガモの
サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂において、
長年のベルガモ貴族間の確執があったアルバーノ家の息子達の
雇った刺客が、

相手のブレンブラーティ家のアキーレ・Achille Brembratiを、
仲直りをと呼び出してのミサの最中に、火縄銃と短銃で殺害。

息子達は即遠方に逃げ、父親のジョヴァンニ・ジェローラモも
逮捕され、無実を主張したものの、
家族全員がベルガモから追放宣告を出されます。


shinkaiは聖堂内で火縄銃を使った、というのに驚き、火種を持って
教会内に? どうやって? 撃つのに時間がかかるだろうに、とか、
火縄銃の仕組みや、実際に見せる様子のヴィデオを探したり・・!

16世紀ですから、銃もかなり進んでおり、既にモスケット銃に
移行していたらしい、とも分かりましたぁ。


あれこれ読み分かった事は、いわば騙し討ちの形で、殺害された
アキーレ・ブレンブラーティは、長男と思われる逃げたもう1人の
兄弟と違い、大変に温和で良い人柄だったそうで、

なおの事、この事件はベルガモの人々の驚愕と憎しみを誘い、

アルバーニ家に親しく出入りしていたモロー二も憎しみを買い、
彼自身も生まれ故郷のアルビーノに戻らざるを得なかったと。


で、捕まった刺客たち12名、いわば雑魚達はヴェネツィアで見せしめの
酷い処刑を受けたものの、 (拷問、処刑斬首、四分の一、と)

家長のジョヴァンニ・ジェローラモも含め、逃げている息子達を
かくまうイタリア、フランス、スペインの各方面からの援助、
ヴェネツィア共和国への様々な諭し、・・ええと、なんという言葉が
良いのか、即出ませんが・・、


と、かってベルガモで厳しい異端審判を行っている時、ヴェネツィアの
秘密警察員に襲われた司教を援け、自分の領地の要塞に隠し、

後にローマに逃したアントニオ・ギスリエーリAntonio Ghislieriが、
なんと教皇ピオ5世として選出される事態となり!

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かっての命の恩人であるジョヴァンニ・ジェローラモを
遠島からイタリアはアンコーナ領の総督に任命、1566年、

続いて枢機卿に1570年に任命という事に。各息子達も安泰無事に。

出されていた判決も無効となり、ブレンブラーティ家も
イヤでも従わざるを得ない状況に、つまり泣き寝入りに・・。


と、長々と様子を書きましたのも、

彼が1570年に枢機卿となっての肖像画であれば、彼も朱赤の衣装と
なっていたでしょうし、という事なのですが、


これはティツィアーノ描く、パオロ3世の肖像 1543年

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手が似ている、という説明もありましたので。



1568年モロー二はベルガモに、おそらく肖像画を描く為に
呼び戻され、彼はその招待に応じ、
おそらく彼の最高傑作の肖像画の1枚と言える作品を制作したと。

つまり、描きかけていたままのものを仕上げたのか、
新しく描いたのかは特定しておりませんが、

多分ティツィアーノが言ったモロー二に対する評を受け止め、
肖像画を依頼され描き始め、その後1563年の事件が起こり、

その儘になっていた肖像画について、ヴェネツィア政府に
伝えた事からの事ではないかと。

で、描きかけとはいえ、本人を前にせずに、あれ程の肖像画を
仕上げる事が出来る、というのは、凄い技量ではありませんか?!

デッサンがあったとしても、現在の様に写真も何もない時代ですし、
そんな事をあれこれ考え、

絵を前にして圧倒的な力を感じた事を思い出し、凄いなぁ!! 
とばかりを思っています。


会場内の様子を最後に。

23-Moroni_4704_GF.jpg


これでモロー二展のご紹介 n.1 を終わりとします。

重い話も続き、shinkaiもちょっと疲れましたが、多分皆さんもで、

次回は、女性像も、仕立て師の像もで、色付きが多くなりますので、
ははは、お楽しみにお願い致しま~す。


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・ ラ・パスタ ・ 貴族と平民を平等にする料理 の歴史をちょっぴり

皆さんもきっとパスタ料理が大好き、スパゲッティも、ラザーニャも!

と思いますが、その長~い歴史の中での変遷をちょっぴり、
という事で、よろしくお願い致しま~す。

今回参考にした記事は、上のタイトルと同じ、
La pasta, cibo che livella nobili e popolani


イタリアの乾燥パスタ類。 これはもうホンの一部で~す!

1-David_Adam_Kess_(pic.2)_GF.jpg


パスタ、というと如何にもイタリア、イタ飯、というイメージですが、
「麺類」となると、日本にもお蕎麦があり、饂飩がある様に、
世界中で何千年もの間食べられてきた食物ですね。

ギリシャ人は小麦粉とソースをベースにしたパスタ、を食べましたが、

ローマ人は水と小麦粉から作られ、オーブンで調理された大きな
生パスタ、ラガナエ・Laganae、後に現在のラザーニャとなった、を
食べていたそうで。


ですが実際のパスタには、一般的なパンやお菓子に使われる
軟質小麦と違う「硬質小麦・デューラム小麦」と呼ばれる穀物を使い、

こちら左側が硬質小麦からのセーモラ・セモリナで、

2-3473841-768x404_GF.jpg

右が軟質小麦のファリーナ・普通の小麦粉。 粗さと色の違いを。


硬質小麦を粉砕したデュラム小麦から粗びきの小麦粉セモリナが
得られ、これを水で練って様々な形に成形したのがパスタで、

この加工品を乾燥させることにより、長期保存でき、
これがパスタ食品の大きな発展の元となったのでしょうね。

デュラム小麦のパスタ文化は中世のイスラム世界で発展し、
ペルシャからもたらされた可能性もあると言い、


中世のパスタの普及に関する重要な証拠は、シチーリア島の
ルッジェーロ2世・RuggeroII(1095-1154)の宮廷に、

3-Roger_II_Sicily_GF.jpg


18年間仕えていたアラブの地理学者ムハンマド・アル・イドリーシ
Muhammad al-Idrisi により提出されており、

12世紀半ばのシチーリア島には、既にパスタを大量に生産する
粉引き場、すなわちパスタの生産工場があったと。

上のルッジェーロ2世という方は、1130年に初代シチーリア王と
なられた方で、 
シチーリア王国はイタリア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人などが
民族的、宗教的寛容により融和した多民族国家で、
地中海の支配権を握り、ヨーロッパの強国の1つとなったのだそうで。


と、ちょっと横道にそれますが、
アラブの地理学者ムハンマド・アル・イドリーシがルッジェーロ2世に
命じられ、1138年頃から15年間かけて作った世界地図をどうぞ。

4-TabulaRogeriana_GF.jpg

これを見て、なんじゃ、これ、と思われるでしょ? 実はこの上が南、
つまり上下が逆さになっており、



5-TabulaRogeriana_upside-down_GF.jpg

こうして見ると、わぁお、ヨーロッパ大陸が南北に狭いけど、イタリアも
一応ちゃんと見え、アフリカ大陸も大きく、
中近東辺りはとても正確な気がしません?!


この地図は「ルッジェーロの書」と呼ばれ、700年以上後の地図と
大きな違いがないそうで!

で、地図の正式な名は「世界横断を望む者の慰みの書」 または
諸地方を旅行したいと願う人の気晴らしの書」というのだそうで!!

12世紀に生きた賢人の、大きな夢を語る声が聞こえそう!!



という事で、パスタの歴史に戻りますが、

多分穀物は北アフリカから到着、1072年迄アラブ人が支配していた
シチーリア島からヨーロッパ大陸に到達したものと。


この細密画は、15世紀頃のパスタ作りの2つの段階、
水で捏ね、細く伸ばして乾燥させる工程を示し、

6-la-miniatura-mostra-due-fasi-della-preparazione-xv-secolo_GF.jpg



という変遷で、マルコ・ポーロが中国から長い旅を戻って来た
1269年には、

7-marco-polo_GF.jpg


イタリアでは既に何世紀間か、パスタが現実世界に溶け込んでおり、
ヴェルミチェッリ・細パスタの他に、マカルーニ・つまりショート・パスタ
の総称、があったと。

説明が必要なのは、現在の「スパゲッティ」なる語は18世紀からで、
マカルーニ・ラテン語のマカレに由来すると思われ、生地を圧縮する、
つまりショート・パスタの意味と。


いずれにせよ、13世紀以降のイタリアでは、パスタ料理への言及が
ますます頻繁になっており、

ジョヴァンニ・ボッカッチョの著した「デカメロン」1353年では、

8-decameron-boccaccio-parmigiano-reggiano_480x480.jpg

パルミッジャーノで出来た山の頂上で、何人かの料理人がマカロニや
ラヴィオリを、カッポーネ・去勢した雄鶏 のスープで調理し、
大食漢、食いしん坊たちが満足できる迄下に投げつけた、と!


14世紀の作家フランコ・サケッティは、2人に友人がマカロニを
食べる為に集まった様子を、この様に描写。

当時の習慣として彼らは共有の一皿で提供され、その一人は友よりも
お腹が空いている事を示し、

 「ノッドはマカロニをかき混ぜ始め、包んで押し付け、彼は既に
  大6口をのみ込んでいたが、
  ジョヴァンニはまだ最初の一口をフォークに乗せていて、
  盛大に湯気を立てているのを見て、口を近づける勇気がなかった」  


目の前にど~んと、こんな感じかな、ははは。 分かる様な気もしますが・・。

9-pan-macaroni-cheese-8_GF.jpg


中世、さらに16世紀になると、パスタ料理は現在と異なる特徴を持ち、
調理時間が長いだけでなく! スパイスの甘さと風味が混ざった、
今では驚くべき食材が添えられていたのだそうで。

つまりまだパスタは、金持ちの料理と考えられており、

1279年公証人ウゴリーノ・スカルパが起草した兵士ポンツィオ・
バストーネの遺言書には、
相続人に、「籠いっぱいのマカロニス」を、と!


ほぼ同時期に、パスタに関する最初のレシピが、ナポリのアンジュー王
カール2世の宮廷で発行されており、


実際の乾燥パスタを使ったレシピについては、高位聖職者や
フォルツァ家に仕え、15世紀で最も重要なシェフと見做されている
マエストロ、マルティーノ・ダ・コモによる 

料理の芸術本」が。

10-martino da como-GF.jpg


彼の料理は、中世のスパイスを乱用する方法をやめ、材料の本来の
味を回復させた事で、レシピも正確、詳細、即自的で、

このラテン語で書かれたレシピ本はヴァティカンの使徒図書館長官の
バルトロメオ・サッキのお蔭で、ヴァティカン図書館に1冊残っており、
こうして彼の料理がヨーロッパ全土に普及したのだそうで。



そして16世紀半ばの教皇シェフ、バルトロメオ・スカッピは、

11-Scappi_GF.jpg


茹でた豚の内臓、子牛の乳房、ロースト・ポーク、パルミッジャーノ、
フレッシュ・チーズ、ハーヴ、スパイス、レーズンの混ぜ物のラヴィオリ、
を添えた茹でた鶏肉、

という、晩餐会用の料理の発明を!


現在のアート・ラヴィオリなる写真を。 ずっと美味しそうで、見た目もすっきり!

13-artistic-plating-gourmet-ravioli-stuffed-GF.jpg

14-Ricetta-Ravioli-di-porro-chef-Peter-Girtler-GF.jpg


で、もっと激しい、はは、マエストロ・スカッピのレシピ、
マッケローニ・アッラ・ロマーナ」なるものは、

小麦粉とパン粉をヤギの乳と卵黄と混ぜ合わせたものを用意し、
それを伸ばして生地のシートを形成し、それを薄い細片に切り、
マカロニを形成。

当時のマカロニは、必ずしも筒状ではなく、非常に変化したそうで、

それを乾燥させた後、マカロニを水で30分茹で、水気を切り、
チーズ、バター、砂糖、シナモン、そして水牛の乳から作られた
プロヴォラ・チーズのスライスで覆い、

最後に、少量の薔薇水を加えオーブンに30分入れ、
チーズを溶かし、マカロニにスパイスの風味を染み込ませた、と。

こうなると、出来上がりの姿、食べた時の感覚も想像できず、
食材に時間と手間をかけただけが特徴、みたいだと思われません?!



が僅か1世紀後、少なくともナポリでの様子は大きく変わって行きます。

パスタが人気料理となり、一般的な栄養の基礎になりますが、

ナポリとシチーリア王国の広大な穀物農園が比較的低価格で
穀物を提供した事、
一般の人々の生活水準では肉食が少なかった事、

多分宗教的動機も影響し、肉の禁止日にはパスタが理想的な食事
だったろう事、

そして多分パスタ普及の主な理由は、17世紀以降プレス機、延伸機
などの機械により工業生産が発展し、

ロング・パスタ、細いパスタ、そしてショート・パスタの調理が可能に
なった事だろうと。


17世紀 マカロニ・パスタの一皿  南イタリア

15-maccheroni-piatto-del-sud-italia-xvii-secolo_GF.jpg


ナポリ国王フェルディナンド4世も、マカロニを大喜びで食べたそうで。


が、一般庶民は「それらを指でつかみ、くるみ、伸ばし、貪欲に
口に運び、ナイフ、フォーク、スプーンの使用を非常に寛大にも軽蔑した」と。

19世紀初頭、ナポリ人のマッケローニを食べる様子

16-napoletani-che-mangiano-maccheroni-acquerello-di-saverio-della-gatta-iniziodel-xix-secolo_GF.jpg


この指で掴んで口に入れる図は、他にも見た事がありますが、
熱くなかったのか、と心配するのと同時に、

白いパスタ、つまりバターと、あれば上からチーズかな、と想像しますが。


白いパスタ・パスタ・ビアンカは、今でもたくさんのイタリア人が食べますし、
好きな人もたくさんおり、
こんな感じ。

17-pasta-burro-e-parmigiano-1-1200x675_GF.jpg



19世紀末のナポリのパスタ売り。 奥で製造、店頭で乾燥と。

18-venditori-di-pasta-a-napoli-fine-del-xix-secolo-GF.jpg


この時代となると、店の前での写真も残り、こんな様子。 ナポリ。

それにしても、如何にもの、はは、やらせ写真ですねぇ!

19-Sommer,_Giorgio_(1834-1914)_-_Napoli,_mangiamaccheroni_GF.jpg


こちらは、シチーリアのパレルモ、と。  同じカメラマンの名で。

20-1-Sommer,_Giorgio_(1834-1914)__Palermo_-_Fabbrica_di_maccheroni_GF.jpg


こちらは現在のナポリの食料品店、店頭を飾る様々なパスタ類。

20-2-Napoli_-_Negozio_di_prodotti_tipici_Campani_GF.jpg



で、決定的に変わったのはパスタの味付けで、

トマトが、特にイタリアとの国際交流の中心地である、スペインの
セヴィリアに最初に到着したのでしょう。 

そう、トマトも、ジャガイモも、コロンブスのアメリカ発見後
1492年10月12日、ヨーロッパに到着。

1544年イタリアの薬草学者ピエトロ・アンドレア・マッテオーリが、
トマトの黄色い果実を[マーラ・アウレア・黄金のリンゴ」と定義し、
1554年に「赤いトマト」について語った、のだそうで。

21-pomodori-gialli-pomodori-rossi-GF.jpg


そして同年、オランダの薬草学者ドドエンスが、詳細な説明を行い、
その果実は媚薬、としての評判を得ますが、


トマトが料理の材料として徐々に使用されるようになったのは、
18世紀になってからの事で、


我々が良く知っている最も古いナポリタンのレシピは、
スペイン風トマト・ソース」で、その起源は1692年にまで遡ると。

今回、分家の絵のブログで、このレシピをお教えしますね。


ああ、漸くにshinkaiが好きなトマト・ソースのパスタ、の登場!で、
最後に心置きなく、
  
スパゲッティ・ボロニェーゼ

22-Spaghetti-Bolognese_GF.jpg



スパゲッティ・アッロ・スコーリオ、 イェーイ!

23-spaghetti-allo-scoglio_GF.jpg



スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ

24-Spaghetti-alla-carbonara-1_GF.jpg



そしてサイト記事には記述なしでしたが、これ、チーズの王様、
パルミッジャーノ・レッジャーノ、が欠けては落ち度になりますけんね、
こちらを!

25-.jpg

パルミジャーノ・レッジャーノ ・ イタリア・チーズの王
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461919691.html



ではでは、皆様も、パスタを発展させてきた歴史に感謝しつつ、

大口を開け、美味しいパスタをお召し上がり下さ~い! ボナアペティ!

26-Alberto_Sordi_-_scena_degli_spaghetti_-GF.jpg



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・ ミラノのスカラ座 博物館見学とマリーア・カラス展  そして未来のスカラ座

先月末のミラノ行では、まずミラノのスカラ座博物館見学に。

1-Teatro-Alla-Scala-e1679754795845_GF.jpg


一緒したアンナリーザは、3年前かな、通信講座やレポート提出等など、
いや、その前にボローニャ大学のその学部に入る為の試験勉強があり、

まぁ年月がかかっても、と思って始めた所、1年過ぎる前にOKだったかの、
素晴らしい頑張りと頭脳の持ち主!

実際に学び始めると、とても楽しい、と喜んでいたのが、見事に昨年卒業。

彼女にとっては2つ目の大学で、中学生の娘2人、働きつつの44歳かな、
舞台活動もしていた彼女の、演劇に関する追求勉学で、

自分の夢に向かってどこまでも進んでいく姿にほれぼれなのです。

で、スカラ座博物館は彼女からの提案で、私も未訪問でしたので
喜んでOK、という事だったのでした。

ちょうど雨降りでもあり、ドゥオモ前、ガッレリーアの通り抜け、
そしてすぐ前と、面倒な距離も無く、楽~に楽しむ事もでき、


こちらがスカラ座博物館入り口。 上の写真右の正面出っ張り部の
左側、アーケードが見える下がった部分の一番右に。

2-Milaan_Scala__(4)_GF.jpg

彼女が予約していてくれた時間より約30分も早かったのですが、
ちゃんと、どうぞ、と入れてくれ、

階段を上がり、2階だったか、3階だったか、へへ、こちらは大広間の
横の円柱で仕切られた部分、奥からの写真。

3-1-medium_GF.jpg

公演の歴史の写真パネルが並び、右奥に見えるディスプレイには、
舞台のリハーサルが映っており。



今回の写真は、私めの写真が少なく、はぁ、初めてのご対面で、
何に本当に自分が興味があるのかつかめておらず、という有様で!

右下にサインのあるのが私の撮ったもので、他はミラノ座のサイトや
ネットから拝借を。


こちらがディスプレイの様子。 実際に見る迄意味が良く掴めずで、
その後、実際に舞台を覗く事が出来たのでした。

3-2-DSC02735_01_GF.jpg


この素晴らしいシャンデリアが、上の廊下側と、中の広間に下がり、

4-DSC02731_01_GF.jpg


大広間、ここにも説明写真のパネルが。肖像はプッチーニと。

5-1-IMG_0116-scaled_GF.jpg



今朝届いたアンナリーザからの写真で、広間の奥からの写真を追加。
正面に見える扉から、奥の博物館に。

5-2-20240328_111826_01_GF.jpg



広間にあったスカラ座の建築図。 右上半分の位置に見える舞台、
観覧席、そして左に延びる建物部は、古い建物部分と思うのですが、

5-3-DSC02730_01_GF.jpg

既に半分から奥全体の高い、モダンな部分は新しい増築部で、現在は
右奥にまた増えている様子を最後にご覧頂きますね。



写真のディスプレイに見える、左側中程に見える黒の蝶ネクタイが
スカラ座でのマリア・カラスとの公演を何度も手掛けたゼッフィレッリ・
Zeffirelli. 彼の斜め正面のマリア・カラスが見えますか?

6-DSC02736_01_GF.jpg

説明には、
  
劇場、 大家族
 幼い頃から、この劇場はフランコ ゼフィレッリにとって
 選ばれた家の様なものでした。  
 それは決して単なる仕事の場ではなく、屋根の下で愛情が
 生まれる家でした。
 ここで彼を懐かしむような、情熱的な人間関係が築かれました。

 彼の劇場は、アンナ・マニャーニからマリア カラスまで、
 お気に入りの歌姫たちだけでなく、
 小道具デザイナー、機械オペレーター、裁縫師、電気技師らの
 劇場でもあり、彼は全員を名前で呼び、特別な役割を与えました。

 写真には、彼がパフォーマー、エキストラ、そして舞台裏の
 労働者たちに、抱擁、笑顔、ふざけてウインクするなどして
 どのようにアプローチしたか示されています。

 スカラ座の舞台裏には、彼を最も寛大な対話者として
 覚えている人がたくさんいるゼフィレッリは、
 彼の温かさのおかげで素晴らしいパフォーマンスを生み出し、
 同僚から最大限の恩恵を受ける事ができました。

 彼は舞台上だけでなく、小道具デザイナー、裁縫師、大工たちと
 常に一緒にいて、職人たちの大家族の一員として彼らの努力に
 参加し、彼らの熱意を呼び起こしました。


こちらも若いゼッフィレッリが左から2番目、その横にマリア・カラス。

7-DSC02732_01_GF.jpg


そして広間の通路側から抜けると、この通路。 ここからずらっと並んだ
各ボックス席の幾つかが開放されており、そこに入って見学でき、

8-DSC02734_01_GF.jpg


こんな様子の、ほぼ斜めに仕切られた、これは小さな平凡な部屋!

9-Milano_Teatro_alla_Scala_interior_lodge-690x362_GF.jpg


こちらも少し狭いものの、装備が少し豪華となり、鏡も豪華!

10-Nei-Palchi-della-Scala-e1573462891298_GF.jpg

そうなんですね、考えてみたら、幅狭く奥の方だと、鏡が必要なのかも!
舞台を見るだけでなく、他の観客とのお付き合いもあったでしょうし!!


こちらは、舞台正面にあたる貴賓席。

11-teatro-alla-scala-foto-repertorio-interno_GF.jpg


こんな感じで横に6人座れ、 写真は2022年のスカラ座の幕あけ。

12-il-palco-reale-prima-della-scala-2022-1760159_GF.jpg

一番左ミラノ市長、EU会長フォン・デル・ライアン氏、
マッタレッラ大統領、伴侶を務める娘様、上院会議長、そして
現メローニ首相。


こちらが劇場緞帳。

13-k_8121_GF.jpg


そして劇場側からは、こう見える訳ですね。

14-la-scala-milano_GF.jpg

こうして考えると、我ら2人が入り込んだ暗いボックスは2階でした。


舞台では、ちょうどオーケストラとものリハーサル中で、
舞台のみが明るく、全ての明かりが消された中で、ぼわっと
浮かぶ右側の6階までのボックス席。

音楽、歌声のみが聞こえる中での、この迫力ある舞台とボックス席!
何とも素晴らしい瞬間でした!!

音楽自体の素晴らしさもありますが、やはり実際に演じられる
舞台との迫力の違いでしょうね。

この眺めは本当に撮りたかったのですけど、入り口に撮影禁止、
とあり、後ろの通路を行ったり来たりの管理の方の姿が、
席の前のガラスに写るので、

これは開かれているボックス席に臨時にはめ込まれているガラスか
アクリルと思われ、やはりね、諦めたのでしたぁ。


下から上に、層をなす観客席。

15-40433490_1821843977884078_5373567406616608768_n_GF.jpg



この舞台は、スカラ座のサイトから、ちょうどリハーサル中だった
オペラが「ラ・ロンディネ・燕」だったと知りました。

16-la rondine-04-05 155711_GF.jpg

背景の波が素晴らしく美しい色で、我らが見た時は突堤の手前で
恋人が2人、そして突堤の奥にパラソルの若い女性が1人。

なんと言うオペラだろ、と思ったのでしたが、タイトルが分かり簡単に。


プッチーニの「燕」 1917年ボローニャで初演。

La_rondine.jpg

19世紀半ばを背景としての、若者たちの恋への憧れ、戯れ・・かな?
日本版ウィキにありますので、お知りになりたい方、どうぞ。


広間を出て、博物館への入り口扉。  突き当りに見える像は?

17-DSC02737_01_GF.jpg


博物館、となっている建物は、以前何の建物だったか、改装されたか、
そう大きくもない部屋ですが、かなり贅沢な装飾を施されており、

18-DSC02738_01_GF.jpg


珍しいこんな楽器類とか、

19-DSC02739_01_GF.jpg

20-1-DSC02741_01_GF.jpg

20-2-DSC02751_01_GF.jpg


ピアノの前身、と言われるチェンバロですが、珍しく蓋が開いており、
ご覧の様に、蓋の内側に描かれた絵や、弦の様子も見れる様に。

21-DSC02742_01_GF.jpg


内側に開けられた音響の為と思われる穴にも、細かい細工が。

22-DSC02743_01_GF.jpg

実際に鍵盤を弾いた時に、どの様に金属弦が弾かれるのか、
見たいものでしたぁ。


壁の油彩画や、この様な小さな人物像など、あれこれ展示があり、

23-DSC02744_02_GF.jpg

24-DSC02745_02_GF.jpg

様々にオペラ上演に関わった方々の逸話に関するものでしょうが、
そこまで詳しくはないので、こういうのが「猫に小判」かな、と。

肖像をはめ込んだメダルなど、小物の展示もあったのですが、
撮っておりませんで。



この部屋の造りなども、家庭音楽会用なのかな、とも。

25-DSC02746_01_GF.jpg



廊下突き当りの肖像は、この方、ロッシーニ様でした。

26-DSC02750_01_GF.jpg

むか~し、こちらに来てから、ロッシーニの自伝的映画を見た事があり、
女を連れて旅行し飽きが来て、ワインをたくさん飲ませて酔わせ、
寝込んだ所をほって逃げ出す、という様な所はよく覚えており、ははは、

大マエストロになり、客人が来ると、大きなどっしりの椅子に、
これまた大きな犬が座り込み・・、という様な、ははは、でした。


ヴェネツィアの テアトロ・ラ・フェニーチェ ・ Gran Teatro La Fenice
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473061323.html




そしてあちこち小さい部屋を繋ぎ、中にはヴィデオを見れる部屋もあり、
開かれていた、「ファンタズマゴリア・カラス」 
千変万化のマリア、とでも?

27-DSC02756_01_GF.jpg


20世紀最大のソプラノ歌手、と称えられた彼女、1923年生まれの、
生誕100年を記念しての展覧会なのだそう。

彼女はここスカラ座で、1950年から1961年にかけて28回の公演、
6シーズンのオープニングを含む23のオペラ上演だったと。


こちらは「ドン・カルロ」の衣装と、彼女。

28-DSC02753_01_GF.jpg


この見事な朱赤の衣装、というか、パフォーマンス、というか、
アルマーニ作と。

29-DSC02755_01_GF.jpg



このカラスの様々な表情に、まつ毛に銀のスパンコールを付けた
たくさんの写真。

30-DSC02754_01_GF.jpg


ルキーノ・ヴィスコンティと組んで「アンナ・ボレーナ」を上演。

31-Visconti_Callas_1957_GF.jpg


スカラ座の舞台からの、カーテン・コール。

32-DSC02752_01_GF.jpg


ヴィデオも全部ではないですが、上のたくさんの顔写真の
パフォーマンスをされた方だったと思うのですが、彼女について、

 「彼女は、”ラ・トラヴィアータ・椿姫”だった、と思う。 
  一見、全てを持っている様に見られていても、結局欲しいのは
  何もなく、探し求め、彷徨っていたんだ」と。

彼女のオペラを全曲聞いた事も無く、私めはそこまで深く考えた事も無く、
当時の録音技術にもよるかと思われる、あのちょっと金属的にも聞こえる
歌声に、特別に魅かれる事も無しで来たので何も言えませんが、


高校に入って直にどこかで読み、マリア・カラスなるオペラ歌手の
名を知り、おデブちゃんだったのを、彼女の才能に惚れ込んだ男性が
面倒を見、痩せさせ、勉強させ、一流のオペラ歌手に育て上げた、と。

今これを書きながら計算してみて、どうやら1956年頃ですから、

彼女がヴェローナのアリーナで歌う為にイタリアにやって来て、
オペラの大愛好家で、裕福な実業家、後の夫となる
ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニと会ったのが1947年で、
間違いありませんね。

結婚したのが1949年4月、彼はマリアより30歳程も年上でした。

34-1-Callas_Meneghini_1957_GF.jpg


彼女のキャリアも成功も上向き、そして結婚後事業を売り払い、
イタリアに帰化したマリアに付き添っての10年程は上手く行った
結婚生活も、

彼女と、ギリシャの大富豪船舶王オナシスとの出会い、1959年夏、
に一転し、彼女は夫と別れる決心を。

1m72cmの身長で、1952年のスカラ座公演では92kgだった
体重が1954年には64kgに、そして1957年には54kgにまで。

33-Maria_Callas_1958_GF.jpg


と共に、彼女の声の黄金期は1957年頃を境に変わりつつあり、
私などが知ったげに言う事は出来ませんが、

痩せて美しく優雅になったものの、声の力強さと、声域の
多彩な色彩を失ったという代償を払った事になり、

逆に、彼女の歌と演技は舞台美術に大きな影響を与えた、とも。

声の衰えから、1965年7月のエリザベス2世女王ご臨席の元での
ガラ公演のみで、全編オペラを歌ったのはこれが最後となり、

1966年自分のキャリアを良い形で終わらせたい願いから、
ギリシャ国籍に戻り、オナシスとの結婚を望んだものの、

彼は結婚を拒否したのみならず、
1968年にジャクリーン・ケネディと結婚を。


屈辱から彼女はうつ病に陥ったものの、映画出演や
ジュゼッペ・ディ・ステーファノとのワールド・ツァーを開始、
これは1974年11月に札幌で終了、
これが彼女の公での最後の公演となったそうで。


1974年は様々な問題と共に、彼女にとって重要な父親が亡くなり、
1975年3月にオナシスが、11月にピエル・パオロ・パゾリーニが殺害、
1976年3月にルキノ・ヴィスコンティが亡くなり、

そして彼女自身が、1977年9月16日にパリで亡くなります。

心停止が唯一の死因、であると医療報告書が示し、それに至る
様々な若い頃の線機能不全、急激な体重減少、慢性的な
不眠症による薬物摂取等など、挙げられるそうで。


そうかも、やはり彼女は「ラ・トゥラヴィアータ」かも、と。

このタイトルのオペラは日本では「椿姫」ですが、
原題の意味は、「道を踏み外した女」と。

自分が欲しい物を必死に追いかけ、でも得られなかった、のかもと。
その激しさが受け入れられず、の所もあったのでしょうね。

オペラに生き、恋に生き ・ プッチーニの家博物館
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465781145.html




で、次代、未来のスカラ座、とタイトルに書きましたが、

この写真、正面の建物背後に見える、左の楕円形はちょっと見えますが、
右側に大きな四角いのが見えますね。

34-2-Teatro alla Scala foto Pino Musi_GF.jpg


様々な技術革新に伴い、それに対応する為、また様々なリハーサル
に必要な広さの需要もある様子で、


そして着実に舞台内部の姿も変わっており、この舞台の奥行は70m!
にもなっているのだそうで、踊りやバレーのシーンが素晴らしくなり、

35-1-Teatro alla Scala foto 7 Pino Musi_GF.jpg


アンナリーザが言ってたのは、本当は奥の作業場なども見たいのだけど、
そっちはグループなどの申し込みでないと受け付けていない様で、と。
多分専門グループの受付なのかも、ですね。


そして背後の四角いのも、既にもう一つ、奥に出来ているのですね!

35-2--2023-10-09-teatro-scala-verdi-mariobotta_6_GF.jpg


単に古くからのオペラ上演劇場スカラ座、というだけでなく、
どんどん内部からの改革もあるのではないかな、という気が強くしました。



最後のこの写真は、スカラ座の一番新しい背後の建物がありませんが、

36-Teatro alla Scala foto Pino Musi_GF.jpg

スカラ座前の広場を横切り、ガッレリーアを抜けると目の前に
そびえるドゥオーモ。

14世紀から既に6世紀を経て現在に至る祈りと美術芸術の宝が、
こんなに近い位置で一緒に写る、って素晴らしいではありませんか。

アンナリーザと、また何かあったら来ようね!!と言った事でした、はぁい。


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