・ 映画 「逢引き」 をもう一度 ・ 心揺れ、1人静かな喜びに浸りつつ

いつも昼、夜の食事のお供はヴィデオかDVDですが、
最近本当に何年振りかに見た映画「逢引き」がとても心に沁み、

再度見直し、1945年作、になんとまぁ!と驚き、
どの町が舞台となったんだろう等、とあれこれ振り返る事に。

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そうなんです、この左下に ¥500 のシールが張られた、
昔日本で買った日本語字幕のDVDが私が持っているもので、

あの有名なラフマニノフのピアノ曲がテーマソングに使われている、
中年カップルの切ないロマンス、とは即思い出すものの、
何年も見ておらず、
いざ見始めると、そうだ、そうだと、あれもこれも改めての内容で。


最初に大きく心に浮かんだ印象は、なんと慎ましい恋だったんだろ!
から、当時のイギリス庶民の生活状態にも目が行き、

やはり慎ましい生活、というか、現在の様に派手さがなく、
でもその中に、一家のささやかで親密な楽しみがあり、夫婦の思いやりも。


1945年作のデヴィット・リーン監督作、そう、あの「戦場にかける橋」
が1957年、「アラビアのローレンス」1962年、そして「ドクトル・ジバゴ」
1965年、の監督ですね。

他に「旅情」1955年 「ライアンの娘」1970年があり、
遺作となった1984年「インドへの道」も。

そしてTV放映で見た「大いなる遺産」や「ホブスンの婿選び」も
興味深く見た想い出があります。


この映画「逢引き」は、見ておられない方も多いと思われるので、
ほんの少々ご説明を。

1938年未だ第2次大戦が始まっておらず、普通の家庭の主婦が、
毎木曜に近くの町まで電車で買い物に出かけ、図書館で本を借り、
返し、簡単にお昼を済ませ、

その後は映画を見て、夕方に家にという、安泰した生活の中の
ちょっとした息抜きで出かける習慣の、

2人の子供、家にはお手伝いさんもいる安泰な生活、夫は
平凡ながら優しく、そんな普通の結婚生活をしていたローラが、

駅で目に石炭カスが目に入ったのを、駅の喫茶室で出会った
医者が取ってくれたのが出合いとなり、

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その次の週には街中で偶然に出会い、

そして次の週には、満員の町の食堂で出会い同席となり、自己紹介を。

彼は毎週木曜にロンドンに出かける友人の代わりに、近くの開業している
町からここの病院にやって来る、アレック・ハーヴェイ。

一緒に映画を見て分かれるものの、また次の週に合う約束を。
が次の週に彼は現れず、汽車の時間になり彼は走って現れ、手術があり、
連絡が取れなかった、との事で、次の週の約束を。

そしてまた次の週2人は出会い、詰まらない映画を途中で出て、植物園に。

季節外れのボートを頼み漕ぎ出すものの、2人とも不慣れで彼は池に落ち、
貸して貰ったボートハウスで、彼は「もう気づいているかな」と愛の告白を。


この池の様な、そしてボート・ハウスでしたが、映画の中では枯木。

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帰りの電車の中で、自分も彼に対する感情に気が付いていた彼女は
心が弾み、2人で様々な場所に出かけ2人が楽しむ事を想像するものの、

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家に戻ると、子供が交通事故で怪我をした事を知り、自責の念に。
が子供の怪我は軽く済み、安堵。


もう会うまい、と思うものの、また翌週出会い、上等なレストランで
2人で食事をしていると、知り合いの女性に出会い、心の中はそぞろに。

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午後は彼が借りた車で田舎にドライブを。 2人は思いのたけを
語るものの、お互いの生活では解決の方法はなく、

夜は友達の家に泊まるという彼と、一旦は別れたものの思いきれず
出かけ、

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そこに友人が戻り、裏口から逃げ出す屈辱に。 雨の街中を歩き回り、
最終の電車に間に合う様駅に戻った所に彼も。



電車の窓から身を出す彼女に、彼は「自分を許してほしい、
目のゴミをとった事、丸い目をした君を愛した事・・」と。
「では私も許してほしい」と彼女。

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2人とも今の生活を捨て、家庭を壊す事は出来ず、かといって
新しい今の関係をどう動かしようもなく、

彼は兄が南アフリカで病院を始め誘われているのを受ける事にし、
妻にもまだ言ってないが、2週間後に出発すると。


最後の木曜日。 再びドライブに出かけたものの、話す言葉も少なく、
戻って駅の喫茶室で言葉も無く向かい合っている所に、

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お喋りで無神経な女性の友達がやって来て、勝手に喋り続け、

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彼の乗る電車のベルが鳴ると、「さよなら」と彼は挨拶し、
彼女の肩に手をかけ、その儘、振り返らず喫茶室から出て行き、

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彼女は、忘れ物をした、と戻って来るのではないか、と未練の思いに
駆られるものの、彼は戻る事なく、

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彼女はお喋りの詮索がましい友人と同じ電車で自分の家に。

横顔が大変美しい彼女は、舞台女優出身のセリア・ジョンソン
Celia Johnson という方で、

007・ジェームス・ボンド生みの親のイワン・フレミングの、
お兄さんと結婚されていたとか。


家に戻り夫と居間に落ち着き、ラフマニノフのピアノ協奏曲
第2番をかけ、多分ラジオの音楽番組だったと、
今迄の様々な思い出に沈み込み、

そんな放心した彼女を見つめ、夫は余りにも音が大きいと
ヴォリュームを落とし、


君は何か悲しい事があったんだね、 遠くに行っていた。
帰ってくれて有難う!と。

何週間かの彼女の様子を傍らで見つつ、夫は何かを感じていたのか、

相手の医師のセリフ同様に、
言葉多くはないけれど、とても相手思いの良いセリフだなぁ、と感じ、
それも慎ましく、あの時代はそうだったんだろうか、とも。


とても素敵な良い映画と、静かな全体が改めて心に沁みました!!


1945年作!! 79年前の作品!

最初に見たのは、きっと高校生の頃で、でもよく憶えていたのは
ラフマニノフの音楽と、男友達の言葉「お帰り!」と言ったんだよ、と。


読む本と一緒で、年をとっても読み返したい本、言葉があり、
それは年と共に深みを増す、というのは本当ね、と改めて思い、
このDVDも再発見となり、・・そして、またいつか、ね。


で、あれこれ思い返しながら、舞台となった場所はどこだろ?と考え、
探して分かったのが、
映画の中ではミルフォードとなっていましたが、これは映画の中での
仮の名、と分かり、

そして見つけたサイト、ランカシャー・ライフというイギリスのサイトで、
短い出会い・なぜ古典映画が人々をカーンフォースに引き寄せるのか

そう、映画のオリジナルタイトルは、brief-encounter・短い出会い
イタリア語タイトルも同じで、

今頃の日本語タイトルは、何でこんなタイトルに、というのが多いのと違い、
如何にも美しい、そして少し古めかしい言葉「逢引き」!


この映画は1999年、イギリス映画協会が発表した「20世紀イギリス映画
ベスト100」で、第1位はキャロル・リード監督の「第3の男」1949年
そして2位が、この「逢引き」だったそうで。

アカデミー賞やカンヌ映画祭で賞をとり、大ヒットとなっても、その後
いつの間にか消えていく映画も多い中で、

イギリス映画史のみならず、世界の映画史に残る古典的名作である、と
いうのは、単に切ない中年の恋物語、というのみでなく、

映画としての造りも見事、セリフも、出演俳優も素晴らしい、のを、
これは今回shinkaiも改めて思った事でした。


主役の医師を演じたトレヴァー・ハワード・Trevor Howard、
彼の名も顔もよぉ~く知っているのに、出演映画のタイトルを見ても
役の人物が思い出せず!

「第3の男」「鍵」「戦艦バウンティ」「ライアンの娘」・・、
最後「ルードヴィヒ」となり、ああ、ワグナーの彼だ、と!


脱線ご容赦、 で上記のイギリスのランカシャー州のカーンフォース
Carnforth の駅が映画の舞台に使われ、

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駅名の下に「ヴィジター・センター」と見える様に、


1945年1月から2月にかけ、80年前近く前に2人の映画スターが
ここで撮影したロマンチックな映画を偲び、

受賞し現在の名が「ヘリテージ・センター」に変わり、
毎年200のバス・ツァーを含む約5万人もの観光客が訪れる駅と!


映画の主役が歩いたホームを見つめ、

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1880年代の古い大時計、映画にも何度も登場の大時計の下で
記念撮影をし、

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映画の主たる舞台となった駅の喫茶室、映画同様に設備も変えられ、
観光客の気持ちに添うのだそうで!

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この場面は、駅の「リフレッシュ・センター」のマダムと、駅員に
扮した原作者のノエル・カワード、大変達者な役者で、
マダムに言い寄りつつ、はは、

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こちらでYoutubeの予告編が見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=DjeRTBUr2dY



2人が電車の窓越しに愛を語った場面の模型もあり、衣装を着け、
写真を撮れるそうで。

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このセンターで、実際にプロポーズをした人もいて、彼女がOKすると
傍の全員が歓声を上げたそうで。


映画に登場の当時の蒸気機関車も、時にはこんな風に姿も見せてくれる様子。

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映画上映室もあり、年間1500回繰り返して上演されているそう。

映画の中に何度も現れるホーム連絡の地下通路の写真が見つからず、
残念だったのですが、

こちらの日本語サイト 
で、駅の様子がご覧になれます。


デヴィット・リーン監督は、出来たらロンドンの駅でと思った様ですが、
撮影期間の1954年1月2月という、未だ終戦前では戦争運輸省の
許可が下りず、

遠く離れていて空襲を受けないと考えられたカーンフォースを選び、
撮影は午後10時から午前6時の間に行われ、
これだと駅を通過する軍人の輸送、日中の業務にも支障はなかった、と。


そうそう、映画に出演している喫茶室勤務の若い女性ベルリに扮した
マーガレット・バートンさんは、2018年に92歳にして、英国最高齢の
新婚カップルの片割れとなり、恋愛史に名を残したそうで!!


こうして終戦まじかの真夜中、北イギリスの寒さの中で撮影された
プラトニックでロマンチックな映画は、

その後の映画に様々な影響も残しつつ、その撮影遺物が残る駅は
上等な観光地となり、

久し振りにDVDを見たshinkaiの心をも溶かし、優しいロマンチックな
心に(少しは)変容させ、ブログの記事も書かせた、
という事になったのでしたぁ。

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もしTV放映、レンタル・ヴィデオなどで、ご覧になれるチャンス
ありましたら、是非どうぞご覧下さいね!!


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・ カステッロ・ディ・ソンメッツァーノ ・ 幻の城になりません様に!

皆さん、こんなお城の広間の写真をご覧になった事は?!

1-castello-sammezzano-sala-dei-pavoni-hd-1_GF.jpg


暫く前にソーシャル・メディアにも掲載され、大きな反響を
呼んだという事なので、ご存じの方も多いかも。

私めは実は何年か前にネットで記事を見つけたものの、
何となく、シチーリア辺りにあるお城かな?と思ったまま、

余りにもカラフルで飛んでいて! はは、今頃はなんと言うのかな?
ちゃんと記事を読んではいなかったのですね。

でもウィキペディア・伊の記事もちゃんとコピーしており、
今回改めて、他の様々な記事も読み、現状も理解し、
お伝えを。


実はこの城は、トスカーナ州のフィレンツェから40km程
位置しており!

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Via Giuseppe Garibaldi, 6, 50066 Leccio FI
市はフィレンツェ県のレッジェッロ・Reggelloになります。


こちらがサンメッツァーノ城のある部分で、周囲は元々の
大きな農園内にあり、現在は公園となっている庭園らしく、

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上に囲った箇所のみでなく、城の下・南側にも古くに移植された
大樹が残っている様子。


地図を見ると、上記の住所、地図のレッチョ・Leccio には、
城のこの広大な緑の部分の左から右下、つまり西側から南にかけ、
現在はアウトレットがたくさん並んでいる様子。


お城の正面はこんな様子の、現在のいわゆる本館で、

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1605年にヒメーネス・ダラゴーナ家が建設の大規模な農場を
19世紀にオリエンタリズム様式の折衷的な建築で改修したものと。


元々のこの土地の歴史は古く、ローマ時代に遡ると言われ、
780年にはカール大帝が、息子に教皇から洗礼を受けさせての
帰途にここを通過した可能性があると歴史家が記しているそうで。

城がその一部となっている広大な敷地は何世紀にも渡り重要な
家系に属し、アルトヴィティ家・Altoiti、ジョヴァンニ・ヤコポ・
デ・メディチ家に、

そして最終的に、1595年フェルディナンド1世デ・メディチ大公より
セバスティアーノ・ヒメーネス・Sebastiano Ximenes D’Aragonaに
売却されたと。

そしてこの後1816年に亡くなるヒメーネス・ダラゴーナ家の
最後の相続人のフェルディナンド・Ferdinandoまで受け継がれ、

このフェルディナンドが、1786年オッタヴィアーノ・デ・メディチ家
の管理下に置かれ、つまり最後の相続人が亡くなった後は
あわよくば、だったのでしょうが

が、彼はフランスに逃げ、かの地で1810年に結婚。

1815年フェルディナンドの妹ヴィットーリアの息子レオポルド・
パンチャティーキ、が叔父をフィレンツェに連れ帰り、

きっと母ヴィットーリアが、叔父を連れ戻し、かの資産ある名門
の跡継ぎになったらよかろうと、知恵をつけたのかも、

で、叔父フェルディナンドがレオポルドを跡継ぎにし、
1816年に亡くなります。

こうしてパンチャティーキ家はその家の姓、紋章、称号、を
手に入れた、と。

お分かりですか? つまり、ヒメーネス家の最後のフェルディナンド
の妹ヴィットーリアが、パンチャティーキ家に嫁いでの息子が
レオポルドで、

この方が後継をし、結婚して生まれたのが、
この方。 (1813-1897)

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で、この方の正式なお名前は、
フェルディナンド・パンチァティーキ・ヒメーネス・ダラゴーナ
と間にパンチャティーキ・Panciatichi が挟まれており、

フェルディナンドなるお名前は、きっと連れ戻した叔父さんの
お名前を継いだ、という事になり、

で、この家は1840年には、フィレンツェで4番目に裕福な家系、と
して数えられていた、と。


古文書関係のサイトにこの家系の元からの由来が載っているのを
見つけたので、興味がおありの方は、
Ximenes de Aragona の記事をどうぞ。


お話は続きますが、間に素晴らしいお城の写真を挟んで
ご覧頂く事にしますね。

こちらが多分ロビーとなる、円柱の部屋・Sala di Colonnne

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最期の写真は、下から天井部を見上げての、紋章部分。


という事で、この長~い家系を継いだ、今日の主人公である
フェルディナンド侯爵なる方は、

侯爵は、学位は持っていなかったとしても、建築家、技術者、
植物学者であり、愛書家、起業家、政治家、科学者、写真愛好家
と多面的な知識人でおられたそう。

実際、裕福な資産を様々に生かし、文化的な活動にも支援、
イタリア国王副大臣、という肩書もお持ちの政治家でもあったのが、

なぜこのような田舎の城を、自分の好みに合わせオリエンタル風、
エキゾティズムな城に再建築したのかとなると、

彼が抱いていたようなリベラルな理想が反映されない、
同時代の人々や当時の政治生活にも失望し、党や党の噂、
スキャンダル、失望から遠く離れたここに避難することを好み・・、

という事で。  この項はしっかり覚えておりました。


という事で、フェルディナンド侯爵はご自分の資産の内でも
一番に愛しておられたサンメッツァーノの城の再建に自分の様々な
知識と夢を注ぐために、1853年から約40年間をかけて取り組みます。

ムーア様式、東洋風、様々な様式を徹底的に再考し、真に例外的で
ユニークなものに命を吹き込む為に、

設計、資金全てを請け負い、煉瓦、漆喰、タイルは、適切な訓練を
受けた地元の労働者により「現場」で作られ、

絡み合ったアーチを持つドーム、何よりも色漆喰の大量な使用、
そして石膏、セラミック・モザイクで作られた高度に刺繍された装飾
フリーズ、幾何学的なテーマの精巧な彫刻の装飾・・。

東洋への愛は、城を囲む広大で緑豊かな公園にも、多くの東洋の
樹木も植えられ、が、これは残念な事に今日生き残っているのは
殆ど無く、

噴水、アーチ、橋もやはりムーア式様式で建設されたそうです。



最初にご覧頂いた素晴らしい、というか凄いデコレーションは、
この孔雀の間と呼ばれる部屋の壁でしたが、

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圧倒的な天井がこれ!!

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写真の色の出方で印象が違って来ますが、やはり素晴らしい!



漆喰の部屋

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百合の部屋

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トルコの部屋

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ナーダ・センプレの部屋

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白い円形の部屋

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愛の部屋

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礼拝堂 

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これも素晴らしい部屋ですが、名前が分かりません。

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美徳の部屋 

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平和と自由の広間

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この部屋も名前が分からず。

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如何にご自分の目指す城の、それぞれの趣の部屋に
拘られたかが想像できます。

夢を築かれた侯爵は1度もインドやイスラム社会にお出かけに
ならず、何年かはここでお住まいにもなった様子ですが、

1878年には、イタリア国王ウンベルト1世も滞在されたそうで。


まさにトスカーナの自然の中に、異次元的な、しかも本格的な
驚異の世界を造られたわけですね。

こうして40年を掛けられた城は、最後は未完になった様で、
1897年84歳で亡くなられます。


第2次大戦後は高級ホテルとして使用され、数々の映画の
舞台ともなったようですが、

199年に競売にかけられ、緊急の修復工事が行われたものの、
放置されたままの状態で、

2015年にふたたび競売にかけられたものの、動きはなく、
様々な公的機関が声を上げるものの、結局そのままの状態で、


現在は城は見学できません、というサイト表示のまま。
ただ公園の方は公開されている様子。

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何枚かの写真に見学者が写っていますが、かなり以前に2日程
オープンし、これはフェルディナンド侯爵の墓所の修復費の
為のもので、

つまり2017年頃からは、ずっと閉鎖されたままで、じわじわと
廃墟への道を歩んでいる様子で、


これだけの遺産がそのまま朽ちて行くのか、と思うと情けないですが、

何とか良い方向に向き、いつか訪問できるチャンスがあります様に!!


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と願うばかりです。



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・ 5月19日は、元イギリス女王アン・ブリンの 488年めのご命日

先回に何度か顔を拝見した16世紀のイングランド国王
ヘンリー8世(1491-1547)の、

2番目の妻として有名なアン・ブリン・Anne Boleynが、
ロンドン塔敷地内のサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ礼拝堂前で
処刑されたのが、1536年5月19日。

つまり今年5月19日は488年目のご命日、という事になり、

毎年この日は処刑台に送られた女王アン・ブリンを追悼の
献花が行われるそうです。

こちらがロンドン塔の15世紀の様子。

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テームズ河を隔てての現在の様子で、

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ロンドン塔、というので、てっきり「」のみ、と思っていた
shinkaiめは近年その大きさを知って驚いたのでしたが、へへ、

この敷地内の地図によると、

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1.ホワイト・タワーというのが、上の写真の建物で、
2 が、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ礼拝堂

この塔の前の広場に処刑台が作られ、ここで、という事。


shinkaiめがなぜアン・ブリン女王に興味を持ったかというと、
きっと若く美しい女性で、つまり若く魅力的な宮廷女性に
ヘンリー8世がのぼせ上がったのだろう・・、と単純に思っていたのが、

結婚前ヘンリー8世は求婚しつつ、単に愛人関係には陥らずに、
正式結婚を強硬に求めたアン・ブリンに、7年間のお預けを
食っていたと知り!

ご存じでした?! 彼女が20歳頃に知り合い、その後7年間も
焦らしながらその状態を、というのは凄いではないですかぁ?!

そんなこんなで私めも、あれこれ記事を集めつつ、読みながら、
ブログに書ける日の来るのを、ははは、待ったのでした、冗談。


と、最近の日本語表記は、アン・ブーリン、となっておりますが、
Anne Boleyn の発音をグーグルで聞くと、
ブーリンよりもブリーン、に近い気がし、

アン・ブリンと書かれてもいる、との事ですので、私めもその様に。

と前書きが長くなりましたが、よろしくお願い致します。

今回の参考記事は、
アン・ブリン:女王の斬首
Anna Bolena: la decapitazione di una regina

アンとメアリー・ブリン:ヘンリー8世を魔法にかけた姉妹
Anna e Maria Bolena: le Sorelle che ammaliarono Enrico VIII

其の他他のサイト記事、ウィキペディアの、日本版、イタ版共に。


歴史的な記述によると、ブリン家の姉妹、アンとメアリー
どちらが年長だったのか、という問題もあり、

こちらが現在残るアンの肖像画ですが、元のオリジナルは
残らず、これはコピーとの事。

4-Anne_boleyn_GF.jpg

他のヘンリーと結婚した女性達の肖像画より劣るのが、
ちょっと残念ですねぇ。


アンの生まれが1501年か、1507年か、という所で歴史家の
意見が合わず、今も明らかでない事、

そして、2人の姉妹の内のどちらが姉か、妹か、という事も。

ただ素人の感じとしては、先に結婚1520年、したメアリーが姉、
かっては姉妹は年の順に結婚したという事からも想像し、

それがヘンリー8世の愛人となり、2人の子供を産み、
上は女の子で、とりわけ下の男の子はヘンリーにそっくりと。

そしてその2人の子をヘンリーはとても可愛がっており、特に
下の男児に関しては、父親でなくてはかけられない程の愛情を
見せていた、という事なので、
認知はしなかったものの、間違いないであろうと。

こちらがメアリー。

5-Mary_Boleyn_GF.jpg

アンはフランス宮廷に侍女でいた事もあるものの、フランス側の
史料によると、
魅力に乏しい女性で、国王のお気に入り、という以外にこれと
いった特徴が無かった、と。

それに引き換え、メアリーは金髪で色白、豊満、という当時の
美女の範疇なのだそうで。


それもあり、メアリーはアンが1522年に宮廷に入ると遠ざけられ、

メアリーの様子を見たアンは、自分に熱中するヘンリーの姿を見て、
単なる愛人ではなく、ひょっとして正式に女王になれるかも、と
大きな賭けをしたのではないか、と。


そしてこれはもう皆さまも良くご存じと思う、
ヘンリー8世は兄アーサーの妻であったキャサリン・オブ・アラゴン
(1485-1536) スペインの国王夫妻の娘、神聖ローマ帝国兼
スペイン国王のカルロ5世が彼女の甥、という生まれの方。

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肖像は1530年頃、となると45歳。

大変熱心なカトリック信者であり、イングランド国民にも大いに
愛されていたそうで。

ヘンリーの兄アーサーは婚儀の20週間後に急死し、ヘンリーは
当時10歳、婚約させられたものの結婚は先送りとなり、

結婚できる14歳になった時も彼は大いに抵抗したらしく、
が、父ヘンリー7世が崩御後、 

1509年にヘンリー8世として即位、そして2か月後に
キャサリン・オブ・アラゴンと結婚、18歳


こちらが1509年、結婚した年のヘンリー8世。

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まぁ、キャサリンの方が6歳年上、という事で・・。


そして2人の間には、死産、男子が生まれたものの夭折、流産
の後に、漸くに1516年、メアリー1世となる女子
(ブラッディー・メリー)が生まれます。

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結婚生活は何とか継続していたものの、彼は多くの愛人を持ち、

認知された唯一の息子も生まれているものの、
彼は結婚後に子を残さず、父王より先に亡くなっており、

妻キャサリンの年齢の事もあり、ヘンリー8世は後継者の事を考え、
焦っていたのも分かる気がしますが。



アンの姉妹のメアリーは、キャサリン王妃の侍女となっていたのが
愛人となった様子ですが、

上記した様に、認知はされずのままに済み、その後彼女は1528年
最初の結婚の未亡人となり、

1534年に平凡な兵士と結婚し、これは家族と宮廷にスキャンダルを
巻き起こしたようで、
明らかに、当時すでに王妃となっていたアンに宮廷から追放を。

しかし様々な宮廷内での様子を見、知っていたメアリーは、
地位や名声よりも、単純に愛情を求めての結婚だったのかもで。


メアリーが2人めの子を妊娠中に、ヘンリーは彼女に飽きが来て、
メアリーとはまるで違うアンに夢中になった、という経緯の様で、

これが1526年の事。 彼女は25歳

9-05-11 114650_GF.jpg

アンは当時は純粋に男性的と考えられていた、強い知性と、
優れた政治的洞察力を示し、また非常に頑固で、決意が強く、
これが大いに国王を悩ませたようであり、

彼女は自分に夢中の王の心をおだて、煽り立て、7年間もの間
王の愛人ではなく、妻になるチャンスを捕らえる様頑張ったのですね。

逆に言うと、彼女が様々な難題がらみの離婚をさせ、キャサリンを
妻の座から放ち、カトリック教皇からの束縛から離れ、
イギリス国教の主長となったヘンリーと遂に結婚した時、32歳

いやぁ、意志が強い、という以上の、大変な女性だったろうなぁ、と。
正直言って、私は彼女がもっと若いと思っていましたが・・。


遂に1533年1月25日、アンはヘンリーと結婚を! この時にはさすがの
彼女もヘンリーに最後までノーとは言えず、言わず、妊娠中。

というのも、1532年フランスのフランソワ1世に会いにカレーに
2人で出かけ、結婚の承認を得、秘密裏に結婚、となった様で。

なぜか波乱含みの結婚生活だったからなのか、賑々しい
結婚生活の始まり、的な絵が見つからずで・・!

彼女が宮廷の女王となった時、キャサリンの宮廷時の侍臣、侍女の
数が65人程だったのが、
一挙に250人にもなり、豪奢な宮廷となったものの、財政には大きく
響いたとの事で、
ヘンリー自身も大変に奢侈な生活が好きだったとか。


で、1533年9月7日、エリザベス1世(1533-1603)が誕生に。

13歳のエリザベス。

10-Elizabeth_I_when_a_Princess_GF.jpg

男子誕生を待ち望んでいたヘンリーは落胆し、3年間アンが流産、
死産を繰り返すうち、

宮廷内でのアンの不人気からの醜聞、ブリン家の不人気も伴い、
男子を生まない場合の自分の立場の不利をも心配し、
きっと自分で自分を追い込む様な立場となり、

その間、王の心は離れつつあり、次の王妃、次の結婚を
考え始めただろうと。


1536年1月7日、最初の王妃キャサリンが亡くなると、ヘンリーは
正式に寡となり、カトリック教会側からも再婚が自由になり、


アン女王の失脚は突然に、かつ予期せぬものとして起こり、

つまり5月2日、女王は国王を殺害し、愛人の1人と共に国を統治
しようと企てた、として、姦淫と反逆罪でロンドン塔に投獄に。

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この裁判は国王の法務顧問トーマス・クロムウェルにより準備され、
既に数名が女王の愛人の疑いで逮捕されており、

その中にはアンの弟のジョージ・ブリンも含まれており、
近親相姦の罪も追加。


5月15日、アンは叔父のノーフォーク公爵が主宰する貴族法廷で
死刑を、それも火刑に処せられる大逆罪で有罪判決に。

英国史上前例のない女王の処刑に驚く国民の前に、

国王は、より迅速で苦痛の少ない斬首刑に減刑する為に介入。


ですが、2021年か22年の末に、ヘンリー8世が個人的に作成した
指示を含む文書が公開され、
国立公文書館に保存されているチューダー朝の記録簿の1つで、

その中には今迄見過ごされていた官僚的なメモが満載されており、
ヘンリーの2番目の妻に対する行動が計算され、計画的であった事を
示しており、

イングランド国王の「病的な怪物」というイメージを強化していると。

この文書では、看守ウィリアム・キングストンが「最近大反逆罪で
投獄され有罪判決を受けた元英国女王、元我々の妻」を
死刑にすべき方法と場所を正確に示している:

「我々は…彼女の首を切断するよう命令する。」 ..ロンドン塔の公園で
...そして看守は命令されたことを何も省略しないことを。」


つまり学者らは、この細心の注意は状況の例外的な性質に
よるものだと考えている。 というのも、

このような重大な出来事が国民に混乱を引き起こすのを防ぎ、
できるだけ粛々と控えめな事件にする必要があった
(これが減刑と公の場で行われないという決定の説明になっている)


「現在の我々は良く知っている話である為、女王の処刑がどれほどに
衝撃的であったか忘れがちですが、

責任者が死刑を続行するという考えを過度に怖がる危険性があり、
・・、彼ら自身も、最終的にはそんな事は起こらないだろうと思っており、

これらの指示により、ヘンリーはその通りだと保証した、と。

つまり長年、クロムウェルが非難の犯人であると信じられていたが、
この文書は、全てを計画したのはヘンリーである事を示している」と。


そうなんですよね、大体がヘンリーのお気に入りの、クロムウェルが
全て仕組んだように今迄思っていたのでしたが、

その裏には、もっと緻密なヘンリー自身の計画遂行があったのですね。

トーマス・クロムウェル。

12-Cromwell,Thomas(1EEssex)01_GF.jpg

で、王妃の「首を切り落としてほしい」という国王の具体的な要求は、
その刑が英国で通常使用される斧ではなく、剣で執行されなければ
ならなかったということも示しているが、
斧は最初の一撃では死に至らないことが多かった、からと。

が、この一見寛大な行為にも暗い側面が隠されており、

処刑を担当した剣士は、裁判が終わる前からフランスから派遣
されており、
ヘンリーの決定が明らかにすでに下されていたことが明らかに。

というのですね。

13-enrico-viii-ritratto-nel-1540_GF.jpg


1536年5月19日金曜日の夜明け、女王は最後のミサに一緒に
出席するよう看守キングストンを呼び寄せ、
聖体を受けると、自分は無実であると何度も誓った。

8時に彼女は部屋を出て、わずか3年前彼女はそこで国王との
結婚式の日を待っていたのでした。

そして黒い布と藁で覆われた4人の女性に付き添われ、
塔の中庭を通り処刑台まで付き添われました。

彼女は深紅のペチコートを着て、毛皮のトリミングが付いた
ダークグレーのダマスク織のローブとオコジョのマントを着、
フードは彼女の髪を隠す帽子を覆っており、

キングストンは彼女が絞首台への階段を上るのを手伝った。

しかし、塔の門は時間内に閉まらず、千人が処刑を目撃できました。

女王は彼らに向き直り、自分と国王、そして彼女を非難したすべての
男たちのために祈ってほしいと頼み、

それは感動的な演説であり、自身の無実を再確認しながらも、
国王に向けられるいかなる批判も避けたものでした。

それは確かに国王が娘エリザベスを攻撃するのを防ぐためであり、
おそらくは遅ればせながらの恩赦を期待してのことでもあったろうと。


控訴が終わると、アンナは仲間たちに感謝の意を表し、自分の魂の
ために祈ってほしいと言い、また死刑執行人に許しの言葉を送り、
自分の名前で貧しい人々に配るためのコインの入った袋を彼に差し出し、

そして彼女はオコジョのマントとフードを脱ぎ、髪の毛を帽子の下に整え、
それから彼女はフランスの斬首のやり方で直立してひざまずき、
女性の一人が目隠しで目を覆った。


16-05-11 151251_GF.jpg

剣士は女王が一撃を予期して頭を動かし続けていることに気づき、
女王の注意をそらすために大声で助手に剣を渡すように呼びかけ、

アンナが声の示す方向を向くと、男は静かに彼女に近づき、
一気に首をはねた。

彼女の頭は藁の上に落ち、白い布で覆われていたが、塔の大砲が
発砲されて世界に、そしてその場にいなかった王にも、
数日前までイギリスの女王が命を落とした事を知らせた。

実際には、上の図の様に、左に見える王の臨席はありませんでした。



アン・ブリンの遺体は女性達によって党の礼拝堂に運ばれ、
かって矢が入っていた木製の箱に納められ、

というのも、その前の数日間の多数の「彼女の恋人達」の処刑で、
塔にはもう棺はなかったのだと。

葬儀は行われず、女王は礼拝堂の標識の無い墓に埋葬され、

1876年になって、初めてヴィクトリア女王が建物の修復を
命じた時、その墓所が特定され、碑文のある大理石の板で
覆われたのだそう。


処刑から11日後の5月30日、ヘンリー8世はジェーン・シーモアと
3度目の結婚をし、

14-Hans_Holbein_the_Younger_-_Jane_Seymour,_Queen_of_England__GF.jpg


彼に待望の息子、将来のエドワード6世を授けたのは彼女でしたが、
彼女自身は産褥熱で亡くなり、息子も僅か16歳で亡くなります。

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皮肉な事に、ヘンリー8世が夢みていた王国に安定を与えたのは、

歴史上最も有名なイギリス女王、アン・ブリンの娘エリザベス1世で。

1558年11月20日エリザベス1世即位の日

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ヘンリー自身は、6人目の妻と結婚しますが、アン・ブリン以降にも
姦通罪で処刑した妻が1人おり、

晩年には大食が健康を害し、僅か55歳の若い死を迎えたのでした。



最近と言っても2008年作の「ブリン家の姉妹」という映画も興味深く
楽しみましたが、

17-12012315547_GF.jpg


ずっと以前の「1000日のアン」は、アンの勝気さ傲慢さもよく分かり、
ヘンリー8世とのいわば首位争いの様な結婚生活が、

僅か1000日、3年で消えていく儚さもあり、哀れでした。

18-p389_v_h10_aa_GF.jpg


ご覧になるチャンスがあったら是非どうぞ。


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・ コッド・ピース ご存じですか? その短い歴史と、肖像画を残した方々

先回先先回と、ミラノでのG.B.モロー二展の様子をご紹介
しましたが、

16世紀のベルガモ周辺のほぼ男性方の肖像画が殆んどで、
その中に、皆さんお気づきだったろうと思いますが、

短いズボンの隙間からチラッと、今回の主題であるコッドピース
覗かせた肖像画がありました。

こちらで~す。

1-DSC02845_01_GF_01.JPG

2-DSC02853_01_GF_01.JPG

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時代としては16世紀半ばでも、まだ彼奴は健在だったんだ、と。

正しい名前は? で、実際はいつ頃流行ったんだろ、と検索を
かけると、サイト記事はたくさんあり、読むのに草臥れる程!


で最初に見つけた記事のタイトルが、
上がったものは必ず下がる:コッドピースの簡単な歴史 (!)

という、当時ケンブリッジ大学博士課程にあったビクトリア・
バーテルズ氏の学術的な記事の紹介、大学のサイト、だったのですが、

私めはまずタイトルで笑わせて頂き、そこから入門を、はぁい。


という様なきっかけで、今回は、男性方の下半身の局部を覆った、
約5世紀前の当時には、必須だった男性の服装のアイテム、
につき、ここに取り上げる事に。

とはいえ、学術的研究論文では勿論なく、その辺りは読んだ事を、
はい、そうでしたか、の最低教養で乗り切るしかなく・・、

ご了解いただけます様、あらかじめお願い申し上げますです。


バーテルズ氏の博士論文、並びに歴史のジェンダーに関する会議では、
16世紀の最後の四半世紀に、かっての姿が完全に消滅した様に
見える急速な終焉についても、斬新な説明があった様ですが、

なにせ事柄を示す言葉自体も、口にするのは少し難しく、はぁ、
書くにも躊躇いながら、という感じになると思いますが、
頑張って乗り切る事に!


まずこのパーツは、いつ、どこから始まったか、ですが、
少なくとも当初は男性の謙虚さを保つために考案された、という
実用的な始まりだった様ですが、


15世紀の男性の衣類は、上着用のタブレット・ウェストまたは
ヒップ迄のパッド入りのジャケット、またはチュニック
ファルセット、という言葉もイタリアのファッションでは使われ、

モロー二展の「仕立師」の上着がそれですね。


4-DSC02862_01_GF_01.JPG


下半身用のホース、と衣装の上に着用のマント、で構成されており、

ホースとは、上着に固定された2つの別々のウール、またはリネンの
レギンスだったと。

最初は片方を縫い付けたり、紐で結んだりだったのが、
ボタンホールが発明されると俄然便利に。

こんな感じですかね。 かっこいいお尻!

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それに紳士、貴族でなくとも、ピーター・ブリューゲルの描いた
「農民の婚礼ダンス」1566年作、での賑わいにもしっかり見られ、

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これはやはり説明にある通り、当時の服装の決まりであった様子。



それが上着の丈が短くなり、マントの長さも短くなるにつけ、
男性の秘部の膨らみが下着の下で明らかになり!

これは道徳主義者たちがすぐに非難し、

1463年のイギリスのエドワード4世は、男性が
「自分の秘密メンバーとバットケ・(言葉の正確な意味が見つかりませんが、
大体あそこらへん、ね)をカバーする長さである事」の法律も可決。

但し貴族はこの規則から免除、だったそうで!

で、様々に残る証拠から、初期のコッドピースは、三角形の布片
から作られた事が分かっており、

三角形の下端はホース・レギンスに縫い付けられ、残りの角は
上着に固定され、一種のガセット・服の脇の下や手袋の指の付け根
などにみられるマチ、の事で、立体になる、という訳。

そこから、詰め物とパッドが入った形に置き換えられたのだそうで!


この絵は、画家の名も、モデルも、制作年も分からず、
若者の肖像、とのみですが、説明通りの・・!

5-3--portrait-of-a-young-man_GF.jpg



16世紀のヨーロッパでは、騎士道、名誉、ロマンスの概念と共に
男らしさが重要で、

コッドピースは、最もあからさまな方法で男らしさを証明する
目的で迅速に進歩、変化をし、

最も精巧なバージョンは際立って派手で、肖像画では16世紀
半ばには、コッドピースが壮大な規模に達します!

こちら!

6-1680610511-braghetta-enrico-viii_GF.jpg


イギリスのヘンリー8世の肖像が極めつけで! 1536-37年作、
ハンス・ホルバインが描いた肖像。

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ヘンリー8世というと、離婚を巡ってのローマ法王教皇との衝突、
結婚、離婚、処刑、等などと話題に事欠かず、

ハンス・ホルベインの描いた肖像画は、これはもう伝説的なほどの
見事さで、
「一番豪奢な王様」、という誉め言葉がぴったり!


コッドピースは贅沢なシルク・ベルベットで作られ、宝石が飾られたり、
刺繍が施されたり、

若い男の子でも着用する事が義務づけられていたそうで。



こちらはやはりヘンリー8世、ハンス・ホルバイン作 1540年、
4番目の妻アン・オブ・クレーヴスとの結婚記念と。

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ヘンリー8世の鎧には、金属製のコッドピースを付けたものもあり!!

9-Tower_of_london_812_GF.jpg

これはロンドン塔の博物館に収蔵と。


またコッドピースは武道の強さについての概念と密接に結びつき、
ドイツ、スイスの傭兵が着用する衣装の不可欠な部分でもあったと。


そしてヘンリー8世が離婚、結婚を繰り返した一番の目的であった
嫡子は3番目の妻ジェーン・シーモアとの間に生まれた
後のエドワード6世で、

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こんな未だ幼い少年でも、王ともなると、コッドピースがきちんと
見える衣装ですものね。

この息子は体が弱く、9歳で父ヘンリー8世の後を継ぎますが、
政争の中でももまれ、結核だったか、15歳で世を去ります。

母親はこの子の産褥熱で世を去り、父親も9歳でという、哀れ!



コッドピースを付けての他の肖像画をあれこれ見つけており、
必死で画家の制昨年を調べたりで、


こちらはティツィアーノ作 1533年「犬を連れたカルロ5世の肖像
プラド博物館収蔵

11-Tizian_081_1533-GF.jpg

この作品は実際にモデルを前にしてではなく、オーストリアの画家
ヤーコブ・ザイゼネッガーが描いたカルロ5世の絵から
インスピレーションを得て描いたものだそう。

実際よく似た印象ではありますが、ティツィアーノ作の方が
奥が深い印象で、彼が描く男性像はやはり凄いなぁ、と。

ここに描かれたコッドピースは特別に大きくも目立たせてもいませんが、



パルミジャニーノ描く、ピエル・マリーア・ロッシ・ディ・
サン・セコンド、 1535-38年作

12-Parmigianino-ritratto-di-pier-maria-rossi-di-sansecondo-1535-38_GF.jpg

これはもうパルミジャニーノの凄さが印象強い作品で、


コッドピースも力強く目立ち、上のティツィアーノ作よりも
2,3年の違いでグンと力強い作りとなっており・・。


名前のピエル・マリア・ロッシは、トッレ・キアーラの素晴らしい城を
造った方のひ孫にあたるのだそうで。

サン・セコンドには現在も城が残りますが、平地の余り大きくない城で、
見に行ったものの、ガイドして下さった方は丁寧な説明でしたが、

まるでピエル・マリア・ロッシに関する説明がなく、
今残る城の、私めには余り上等に見えない!あれこれの説明のみでしたぁ。


n.1 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の
https://www.italiashiho.site/archives/20181110-1.html

n.2 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の
https://www.italiashiho.site/archives/20181115-1.html


パルミッジャニーノの作品は今迄余り見る縁がなかったのでしたが、
パルマ近郊のお城で壁画を見て、わぁ~お!と。

n.1 パルマの城 フォンタネッラートと、パルミジャニーノの城
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461920023.html


コッドピースが余りにも大きくしっかりの作りになると、
靴を履くにも不便な位に、という逸話を読んで笑いましたが、
いつの時代でも、御洒落心の行き過ぎはあるのですねぇ。


こちらはアレッサンドロ・ファルネーゼ(1545-1592) 
第3代パルマ、ピアチェンツァ公. 作品は1559年

13-Alonso-Snchez-Coello-Ritratto-del-duca-Alessandro-Farnese 1559_GF.jpg


この方の母親は、神聖ローマ帝国、スペインのカルロ5世の庶子
マルゲリータ・ダウストリア。

つまりカルロ5世の孫でもあり、父方曽祖父がパオロ3世、という血筋。

コッドピースは未だしっかりの大きな形を採っており、



これはジョヴァン・バッティスタ・モロー二描く、
アントニオ・ナヴァジェーロ、1565年作。

14-Pinacoteca-di-Brera-Moroni-Ritratto-di-Antonio-Navagero-1565.jpg


これはもうコッドピースの形と言い、衣装の色と言い、モデルの傲岸さ、
というか・・、
避けて通りたい、知りませんでしたぁ、と言いたい作品なのですがぁ・・。

ヴェネツィアからベルガモに来て、総督を務めたかの方だそうで。
ミラノのブレラ絵画館収蔵と。



この後のコッドピースの形は、一番最初に見て頂いたモロー二描く
3枚の肖像に見える様に、チラッと覗く形に収まりつつ、

男性ファッションは様変わりし、16世紀後半から17世紀にかけて
コッドピースは下方に絞られてサイズが縮小し、

ピースコッド、ピーコッドと呼ばれる、丸みを帯びた先細りの外観となり、
が、コッドピースと同じ程の男らしさの概念が染み込んでいたと言い、
強力な性的象徴でもあったと。


いずれにしても、服装を使って自分の内面の外側のイメージを構築
するのであり、
我々が自分達を飾る為に選んだものには、複雑な文化的イメージが
込められています。

16世紀の男性ファッションの興味深い点は、当時の男性にとって
何が重要だったか、つまり男らしさ、武勇、へのこだわりを明らかにして
いる点が、興味深い所です、 と、バーテルズ氏は言います。


今の時代には、当時の直接的な主張には、ちょっとへどもどさせられる
のですけど、当時の女性にはどうだったのでしょうか、
逆にお尋ねしたい位で・・。


英国のヘンリー8世の写真が3枚も出たので、

最後にフランスのフランソワ1世の、足元までの全身肖像は
コッドピース付きが見つからず、

乗馬姿で、でもコッドピースが少々邪魔みたいなだぁ、でもこちらを
向いて愛想のよいお顔なので。 1540年作。

15Antoine-Jean-Gros-Charles-Quint-recu-Francois-Ier-abbaye-Saint-Denis-1540_0_GF.jpg


という所で、ちょっと迷い込んでしまった主題が漸くにお終いに。
お疲れ様でしたぁ!


*****

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