先回に何度か顔を拝見した16世紀のイングランド国王
ヘンリー8世(1491-1547)の、
ヘンリー8世(1491-1547)の、
2番目の妻として有名なアン・ブリン・Anne Boleynが、
ロンドン塔敷地内のサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ礼拝堂前で
処刑されたのが、1536年5月19日。
処刑されたのが、1536年5月19日。
つまり今年5月19日は488年目のご命日、という事になり、
毎年この日は処刑台に送られた女王アン・ブリンを追悼の
献花が行われるそうです。
献花が行われるそうです。
こちらがロンドン塔の15世紀の様子。

テームズ河を隔てての現在の様子で、

ロンドン塔、というので、てっきり「塔」のみ、と思っていた
shinkaiめは近年その大きさを知って驚いたのでしたが、へへ、
shinkaiめは近年その大きさを知って驚いたのでしたが、へへ、
この敷地内の地図によると、

1.ホワイト・タワーというのが、上の写真の建物で、
2 が、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ礼拝堂。
この塔の前の広場に処刑台が作られ、ここで、という事。
shinkaiめがなぜアン・ブリン女王に興味を持ったかというと、
きっと若く美しい女性で、つまり若く魅力的な宮廷女性に
ヘンリー8世がのぼせ上がったのだろう・・、と単純に思っていたのが、
ヘンリー8世がのぼせ上がったのだろう・・、と単純に思っていたのが、
結婚前ヘンリー8世は求婚しつつ、単に愛人関係には陥らずに、
正式結婚を強硬に求めたアン・ブリンに、7年間のお預けを
食っていたと知り!
正式結婚を強硬に求めたアン・ブリンに、7年間のお預けを
食っていたと知り!
ご存じでした?! 彼女が20歳頃に知り合い、その後7年間も
焦らしながらその状態を、というのは凄いではないですかぁ?!
焦らしながらその状態を、というのは凄いではないですかぁ?!
そんなこんなで私めも、あれこれ記事を集めつつ、読みながら、
ブログに書ける日の来るのを、ははは、待ったのでした、冗談。
ブログに書ける日の来るのを、ははは、待ったのでした、冗談。
と、最近の日本語表記は、アン・ブーリン、となっておりますが、
Anne Boleyn の発音をグーグルで聞くと、
ブーリンよりもブリーン、に近い気がし、
アン・ブリンと書かれてもいる、との事ですので、私めもその様に。
と前書きが長くなりましたが、よろしくお願い致します。
其の他他のサイト記事、ウィキペディアの、日本版、イタ版共に。
歴史的な記述によると、ブリン家の姉妹、アンとメアリーの
どちらが年長だったのか、という問題もあり、
こちらが現在残るアンの肖像画ですが、元のオリジナルは
残らず、これはコピーとの事。
残らず、これはコピーとの事。

他のヘンリーと結婚した女性達の肖像画より劣るのが、
ちょっと残念ですねぇ。
ちょっと残念ですねぇ。
アンの生まれが1501年か、1507年か、という所で歴史家の
意見が合わず、今も明らかでない事、
そして、2人の姉妹の内のどちらが姉か、妹か、という事も。
ただ素人の感じとしては、先に結婚1520年、したメアリーが姉、
かっては姉妹は年の順に結婚したという事からも想像し、
かっては姉妹は年の順に結婚したという事からも想像し、
それがヘンリー8世の愛人となり、2人の子供を産み、
上は女の子で、とりわけ下の男の子はヘンリーにそっくりと。
上は女の子で、とりわけ下の男の子はヘンリーにそっくりと。
そしてその2人の子をヘンリーはとても可愛がっており、特に
下の男児に関しては、父親でなくてはかけられない程の愛情を
見せていた、という事なので、
認知はしなかったものの、間違いないであろうと。
下の男児に関しては、父親でなくてはかけられない程の愛情を
見せていた、という事なので、
認知はしなかったものの、間違いないであろうと。
こちらがメアリー。

アンはフランス宮廷に侍女でいた事もあるものの、フランス側の
史料によると、
魅力に乏しい女性で、国王のお気に入り、という以外にこれと
いった特徴が無かった、と。
史料によると、
魅力に乏しい女性で、国王のお気に入り、という以外にこれと
いった特徴が無かった、と。
それに引き換え、メアリーは金髪で色白、豊満、という当時の
美女の範疇なのだそうで。
美女の範疇なのだそうで。
それもあり、メアリーはアンが1522年に宮廷に入ると遠ざけられ、
メアリーの様子を見たアンは、自分に熱中するヘンリーの姿を見て、
単なる愛人ではなく、ひょっとして正式に女王になれるかも、と
大きな賭けをしたのではないか、と。
単なる愛人ではなく、ひょっとして正式に女王になれるかも、と
大きな賭けをしたのではないか、と。
そしてこれはもう皆さまも良くご存じと思う、
ヘンリー8世は兄アーサーの妻であったキャサリン・オブ・アラゴン、
(1485-1536) スペインの国王夫妻の娘、神聖ローマ帝国兼
スペイン国王のカルロ5世が彼女の甥、という生まれの方。

肖像は1530年頃、となると45歳。
大変熱心なカトリック信者であり、イングランド国民にも大いに
愛されていたそうで。
愛されていたそうで。
ヘンリーの兄アーサーは婚儀の20週間後に急死し、ヘンリーは
当時10歳、婚約させられたものの結婚は先送りとなり、
当時10歳、婚約させられたものの結婚は先送りとなり、
結婚できる14歳になった時も彼は大いに抵抗したらしく、
が、父ヘンリー7世が崩御後、
が、父ヘンリー7世が崩御後、
1509年にヘンリー8世として即位、そして2か月後に
キャサリン・オブ・アラゴンと結婚、18歳。
キャサリン・オブ・アラゴンと結婚、18歳。
こちらが1509年、結婚した年のヘンリー8世。

まぁ、キャサリンの方が6歳年上、という事で・・。
そして2人の間には、死産、男子が生まれたものの夭折、流産
の後に、漸くに1516年、メアリー1世となる女子
(ブラッディー・メリー)が生まれます。

結婚生活は何とか継続していたものの、彼は多くの愛人を持ち、
認知された唯一の息子も生まれているものの、
彼は結婚後に子を残さず、父王より先に亡くなっており、
妻キャサリンの年齢の事もあり、ヘンリー8世は後継者の事を考え、
焦っていたのも分かる気がしますが。
焦っていたのも分かる気がしますが。
アンの姉妹のメアリーは、キャサリン王妃の侍女となっていたのが
愛人となった様子ですが、
上記した様に、認知はされずのままに済み、その後彼女は1528年
最初の結婚の未亡人となり、
最初の結婚の未亡人となり、
1534年に平凡な兵士と結婚し、これは家族と宮廷にスキャンダルを
巻き起こしたようで、
明らかに、当時すでに王妃となっていたアンに宮廷から追放を。
巻き起こしたようで、
明らかに、当時すでに王妃となっていたアンに宮廷から追放を。
しかし様々な宮廷内での様子を見、知っていたメアリーは、
地位や名声よりも、単純に愛情を求めての結婚だったのかもで。
地位や名声よりも、単純に愛情を求めての結婚だったのかもで。
メアリーが2人めの子を妊娠中に、ヘンリーは彼女に飽きが来て、
メアリーとはまるで違うアンに夢中になった、という経緯の様で、
これが1526年の事。 彼女は25歳。

アンは当時は純粋に男性的と考えられていた、強い知性と、
優れた政治的洞察力を示し、また非常に頑固で、決意が強く、
これが大いに国王を悩ませたようであり、
彼女は自分に夢中の王の心をおだて、煽り立て、7年間もの間、
王の愛人ではなく、妻になるチャンスを捕らえる様頑張ったのですね。
王の愛人ではなく、妻になるチャンスを捕らえる様頑張ったのですね。
逆に言うと、彼女が様々な難題がらみの離婚をさせ、キャサリンを
妻の座から放ち、カトリック教皇からの束縛から離れ、
イギリス国教の主長となったヘンリーと遂に結婚した時、32歳!
妻の座から放ち、カトリック教皇からの束縛から離れ、
イギリス国教の主長となったヘンリーと遂に結婚した時、32歳!
いやぁ、意志が強い、という以上の、大変な女性だったろうなぁ、と。
正直言って、私は彼女がもっと若いと思っていましたが・・。
遂に1533年1月25日、アンはヘンリーと結婚を! この時にはさすがの
彼女もヘンリーに最後までノーとは言えず、言わず、妊娠中。
というのも、1532年フランスのフランソワ1世に会いにカレーに
2人で出かけ、結婚の承認を得、秘密裏に結婚、となった様で。
なぜか波乱含みの結婚生活だったからなのか、賑々しい
結婚生活の始まり、的な絵が見つからずで・・!
彼女が宮廷の女王となった時、キャサリンの宮廷時の侍臣、侍女の
数が65人程だったのが、
一挙に250人にもなり、豪奢な宮廷となったものの、財政には大きく
響いたとの事で、
ヘンリー自身も大変に奢侈な生活が好きだったとか。
数が65人程だったのが、
一挙に250人にもなり、豪奢な宮廷となったものの、財政には大きく
響いたとの事で、
ヘンリー自身も大変に奢侈な生活が好きだったとか。
で、1533年9月7日、エリザベス1世(1533-1603)が誕生に。
13歳のエリザベス。

男子誕生を待ち望んでいたヘンリーは落胆し、3年間アンが流産、
死産を繰り返すうち、
死産を繰り返すうち、
宮廷内でのアンの不人気からの醜聞、ブリン家の不人気も伴い、
男子を生まない場合の自分の立場の不利をも心配し、
きっと自分で自分を追い込む様な立場となり、
男子を生まない場合の自分の立場の不利をも心配し、
きっと自分で自分を追い込む様な立場となり、
その間、王の心は離れつつあり、次の王妃、次の結婚を
考え始めただろうと。
1536年1月7日、最初の王妃キャサリンが亡くなると、ヘンリーは
正式に寡となり、カトリック教会側からも再婚が自由になり、
正式に寡となり、カトリック教会側からも再婚が自由になり、
アン女王の失脚は突然に、かつ予期せぬものとして起こり、
つまり5月2日、女王は国王を殺害し、愛人の1人と共に国を統治
しようと企てた、として、姦淫と反逆罪でロンドン塔に投獄に。
しようと企てた、として、姦淫と反逆罪でロンドン塔に投獄に。

この裁判は国王の法務顧問トーマス・クロムウェルにより準備され、
既に数名が女王の愛人の疑いで逮捕されており、
その中にはアンの弟のジョージ・ブリンも含まれており、
近親相姦の罪も追加。
5月15日、アンは叔父のノーフォーク公爵が主宰する貴族法廷で
死刑を、それも火刑に処せられる大逆罪で有罪判決に。
英国史上前例のない女王の処刑に驚く国民の前に、
国王は、より迅速で苦痛の少ない斬首刑に減刑する為に介入。
ですが、2021年か22年の末に、ヘンリー8世が個人的に作成した
指示を含む文書が公開され、
国立公文書館に保存されているチューダー朝の記録簿の1つで、
その中には今迄見過ごされていた官僚的なメモが満載されており、
ヘンリーの2番目の妻に対する行動が計算され、計画的であった事を
示しており、
示しており、
イングランド国王の「病的な怪物」というイメージを強化していると。
この文書では、看守ウィリアム・キングストンが「最近大反逆罪で
投獄され有罪判決を受けた元英国女王、元我々の妻」を
死刑にすべき方法と場所を正確に示している:
投獄され有罪判決を受けた元英国女王、元我々の妻」を
死刑にすべき方法と場所を正確に示している:
「我々は…彼女の首を切断するよう命令する。」 ..ロンドン塔の公園で
...そして看守は命令されたことを何も省略しないことを。」
...そして看守は命令されたことを何も省略しないことを。」
つまり学者らは、この細心の注意は状況の例外的な性質に
よるものだと考えている。 というのも、
このような重大な出来事が国民に混乱を引き起こすのを防ぎ、
できるだけ粛々と控えめな事件にする必要があった
(これが減刑と公の場で行われないという決定の説明になっている)
できるだけ粛々と控えめな事件にする必要があった
(これが減刑と公の場で行われないという決定の説明になっている)
「現在の我々は良く知っている話である為、女王の処刑がどれほどに
衝撃的であったか忘れがちですが、
衝撃的であったか忘れがちですが、
責任者が死刑を続行するという考えを過度に怖がる危険性があり、
・・、彼ら自身も、最終的にはそんな事は起こらないだろうと思っており、
・・、彼ら自身も、最終的にはそんな事は起こらないだろうと思っており、
これらの指示により、ヘンリーはその通りだと保証した、と。
つまり長年、クロムウェルが非難の犯人であると信じられていたが、
この文書は、全てを計画したのはヘンリーである事を示している」と。
そうなんですよね、大体がヘンリーのお気に入りの、クロムウェルが
全て仕組んだように今迄思っていたのでしたが、
その裏には、もっと緻密なヘンリー自身の計画遂行があったのですね。
トーマス・クロムウェル。

で、王妃の「首を切り落としてほしい」という国王の具体的な要求は、
その刑が英国で通常使用される斧ではなく、剣で執行されなければ
ならなかったということも示しているが、
斧は最初の一撃では死に至らないことが多かった、からと。
が、この一見寛大な行為にも暗い側面が隠されており、
処刑を担当した剣士は、裁判が終わる前からフランスから派遣
されており、
ヘンリーの決定が明らかにすでに下されていたことが明らかに。
ヘンリーの決定が明らかにすでに下されていたことが明らかに。
というのですね。

1536年5月19日金曜日の夜明け、女王は最後のミサに一緒に
出席するよう看守キングストンを呼び寄せ、
聖体を受けると、自分は無実であると何度も誓った。
出席するよう看守キングストンを呼び寄せ、
聖体を受けると、自分は無実であると何度も誓った。
8時に彼女は部屋を出て、わずか3年前彼女はそこで国王との
結婚式の日を待っていたのでした。
結婚式の日を待っていたのでした。
そして黒い布と藁で覆われた4人の女性に付き添われ、
塔の中庭を通り処刑台まで付き添われました。
彼女は深紅のペチコートを着て、毛皮のトリミングが付いた
ダークグレーのダマスク織のローブとオコジョのマントを着、
フードは彼女の髪を隠す帽子を覆っており、
フードは彼女の髪を隠す帽子を覆っており、
キングストンは彼女が絞首台への階段を上るのを手伝った。
しかし、塔の門は時間内に閉まらず、千人が処刑を目撃できました。
女王は彼らに向き直り、自分と国王、そして彼女を非難したすべての
男たちのために祈ってほしいと頼み、
男たちのために祈ってほしいと頼み、
それは感動的な演説であり、自身の無実を再確認しながらも、
国王に向けられるいかなる批判も避けたものでした。
国王に向けられるいかなる批判も避けたものでした。
それは確かに国王が娘エリザベスを攻撃するのを防ぐためであり、
おそらくは遅ればせながらの恩赦を期待してのことでもあったろうと。
おそらくは遅ればせながらの恩赦を期待してのことでもあったろうと。
控訴が終わると、アンナは仲間たちに感謝の意を表し、自分の魂の
ために祈ってほしいと言い、また死刑執行人に許しの言葉を送り、
自分の名前で貧しい人々に配るためのコインの入った袋を彼に差し出し、
そして彼女はオコジョのマントとフードを脱ぎ、髪の毛を帽子の下に整え、
それから彼女はフランスの斬首のやり方で直立してひざまずき、
女性の一人が目隠しで目を覆った。
それから彼女はフランスの斬首のやり方で直立してひざまずき、
女性の一人が目隠しで目を覆った。

剣士は女王が一撃を予期して頭を動かし続けていることに気づき、
女王の注意をそらすために大声で助手に剣を渡すように呼びかけ、
女王の注意をそらすために大声で助手に剣を渡すように呼びかけ、
アンナが声の示す方向を向くと、男は静かに彼女に近づき、
一気に首をはねた。
一気に首をはねた。
彼女の頭は藁の上に落ち、白い布で覆われていたが、塔の大砲が
発砲されて世界に、そしてその場にいなかった王にも、
数日前までイギリスの女王が命を落とした事を知らせた。
発砲されて世界に、そしてその場にいなかった王にも、
数日前までイギリスの女王が命を落とした事を知らせた。
実際には、上の図の様に、左に見える王の臨席はありませんでした。
アン・ブリンの遺体は女性達によって党の礼拝堂に運ばれ、
かって矢が入っていた木製の箱に納められ、
かって矢が入っていた木製の箱に納められ、
というのも、その前の数日間の多数の「彼女の恋人達」の処刑で、
塔にはもう棺はなかったのだと。
塔にはもう棺はなかったのだと。
葬儀は行われず、女王は礼拝堂の標識の無い墓に埋葬され、
1876年になって、初めてヴィクトリア女王が建物の修復を
命じた時、その墓所が特定され、碑文のある大理石の板で
覆われたのだそう。
処刑から11日後の5月30日、ヘンリー8世はジェーン・シーモアと
3度目の結婚をし、

彼に待望の息子、将来のエドワード6世を授けたのは彼女でしたが、
彼女自身は産褥熱で亡くなり、息子も僅か16歳で亡くなります。
彼女自身は産褥熱で亡くなり、息子も僅か16歳で亡くなります。

皮肉な事に、ヘンリー8世が夢みていた王国に安定を与えたのは、
歴史上最も有名なイギリス女王、アン・ブリンの娘エリザベス1世で。
1558年11月20日エリザベス1世即位の日

ヘンリー自身は、6人目の妻と結婚しますが、アン・ブリン以降にも
姦通罪で処刑した妻が1人おり、
姦通罪で処刑した妻が1人おり、
晩年には大食が健康を害し、僅か55歳の若い死を迎えたのでした。
最近と言っても2008年作の「ブリン家の姉妹」という映画も興味深く
楽しみましたが、
楽しみましたが、

ずっと以前の「1000日のアン」は、アンの勝気さ傲慢さもよく分かり、
ヘンリー8世とのいわば首位争いの様な結婚生活が、
僅か1000日、3年で消えていく儚さもあり、哀れでした。

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