・ ポーランド・クラコフ イーグル薬局、シンドラーの工場、アルプス越え      そして、ブログのお休みを

今月末から開催の、大阪での二人展のお知らせを、トップに。
会場にてお目に掛かれるのを、楽しみにしております!


7月25日から30日迄 大阪の igu_m_art・イグエムアートで、
広島からの絵の友人ミノ ヨシコさんと2人展を開催させて頂きます。
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2人が、わぁお、素敵!と喜んだDMも出来、お互いの作品傾向が違う、
面白い二人展になるかも、という空気ですが、

さて、どの様な会場となりますか、
どうぞお時間を取ってお出かけ下さる様、よろしくお願い申し上げます



*****

先回に続き、1年前の6月に訪問したポーランドはクラコフ
ナチスの残した残虐な痕跡を訪ねた様子の2回め、

ユダヤ人ゲットーの中に唯一残り、貧しい人々、ゲットーからの
逃亡者も援けた、現在は博物館のイーグル薬局、

映画「シンドラーのリスト」の舞台となったオスカー・シンドラーの
エナメル工場、現在は「戦時下のクラコフ博物館」を。

そして最後はイタリアに戻る飛行機からの、アルプス越えの
様子をご覧頂きますね。


私にとってのこの旅は、中学1年以来の長い願望、というのも、
当時担任が英語の先生だった事から、TIME誌だったかに載った
アウシュヴィッツ、そして「アンネの日記」について聞かせてくれ、

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それ以来の何十年にも渡る、ずっと心の奥底で願っていた念願が、
ちょうど旅行を計画していると教えてくれた友人のお蔭で叶った訳で、
本当に有り難いチャンスを頂けたのでした。

戦後の長い時を経て見たアウシュヴィッツ・ビルケナウは、
どこか整理され過ぎた感じがしたのでしたが、

それでも今年春に見た映画「関心領域」には、収容所長の
ルドルフ・ヘス夫婦の在り方に、ああ、そういう感じだったのか、と
思った程度で、

振り返ってみて、長い時が過ぎたアウシュビッツ関係跡の痕跡を、
やはり見ていたからだろうと思った事でした。

そんなこんなで、1年後に漸く纏められた簡潔なご案内となりますが、
どうぞご覧下さる様、お願い致します。


先回最後にちょっと書きました、クラクフのゲットーの中に位置した
イーグル薬局」の写真を少し。

タデウシュ・パンキェヴィッチ・Tadeusz Pankiewicz、右端の方。

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実際の薬局の後をそのまま博物館に保管しており、



場所は写真の「英雄広場」の南西奥で、この広場は「ゲットー消滅」
に至る1942年から43年にたくさんのユダヤ人が殺害された広場で、
見える椅子の彫刻は、殺害されたユダヤ人に放置された、シンボルと。

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この道角の建物角で、

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入り口を入るとこの様に。 整然と薬瓶が並び、見えるポスターにも
時代を感じます。

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奥に入ると、こんな感じの調合室や、

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様々な写真展示が下がっており、

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寝室が一番奥角だったと。

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なんとなしアール・ヌーヴォー風の装飾の洗面器があり、

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こういう場面では珍しい犬の写真ですが、
ゲットー清算後にタデウシュ・パンキェヴィチに引き取られた犬
という説明が横にあり、

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もう1枚の説明には、
飼い主に見捨てられた彼らは、一日中その地域を歩き回り、食べ物を
探した。何か食べるものを見つけると、彼らは元の場所に戻ってきた」
[...]
夕方になると、一匹の犬がひっきりなしに薬局に来て、しばらくすると
友人を夕食に連れてきた。

とあるので、飼い主に残された犬の一匹だったのでしょう。
拾って貰えて良かったね!



そして先回のプワシュフ強制労働収容所を短時間ながら見て回った後
訪問した「オスカー・シンドラーのエナメル工場跡」。

現在は「クラコフ戦時下の博物館」となっており、
円柱形の向こうが博物館入り口で、右の広い門がかっての工場入り口と。

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見える多数の写真は、きっとこの工場で働いていたユダヤ人達と。



クラコフの戦時下、つまりナチス占領下の街の様子全般の展示であり、
映画の中で見るのとはまた別の印象の、鉤十字の旗

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ポーランドがナチス・ドイツの元に下ったのは、1939年9月12日。

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そして東半分を占領したのは、密約によって9月17日にソ連軍が。

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帝国クラクフ総督として就任したのがハンス・フランクで、
大のユダヤ人嫌い。
11月7日に到着し、城への儀式訪問、厳粛な式典、と。

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塔の上にも「鉤十字」が翻り、

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ちょっと驚いたのですが、こんな小さな戦車も当時あったのですね。

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建物の床自体が煉瓦敷になっており、中にこんな市電も!
暗い照明で、それだけでも少し陰鬱な印象で!!

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長靴で闊歩するドイツ兵。  左上に見える上の欄の写真真ん中に、
ユダヤ人の長くしたもみあげを切りとる兵士の姿が。

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かと思うと、風景スケッチのドイツ兵もおり。

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クラコフ駅の看板 と、

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こちら、手で回してみる時刻表。 どこかで似た様な物を見たっけ・・。

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市民達の残された写真。 圧倒的に結婚式、そして平和な時!

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これは見学した、ポモルスカ通りにあるゲシュタポ博物館の一室で、

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壁に見える汚れはきっと血と思い、係員に尋ねましたら、
分からない、と。



写真奥に見える扉によく似た扉が、こちらの博物館の地下だったかに
あり、下って行くとこの扉で、覗ける様になっているのですが、

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こういうのは、怖がりshinkaiの得意ではなく、到底覗けず退散。



ユダヤ人かどうか、一般のポーランド人にも大変辛い時だったろうと
思われる写真が何枚もあり、

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この2人はきっと両親が亡くなっての、路傍生活だろうと。

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この博物館で、いや他も含めて、一番私めに強烈だった1枚です。
この小さな男の子、どこに向かっているの?!  何度も思い出しては・・。

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この3枚はクラクフ・ゲットーの3か所の門で、上のイーグル薬局も
主人以外は通いだったので、許可証を持ち出入りを。

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で、見える様に市電が走っていたのが、ゲットーが出来て後、
乗客が窓から食料品をゲットーに投げ込んだのだそうで。 
で、即、線路側の窓は全て煉瓦で塞がれたと。


この写真は、ゲットーが徐々に削除され、プワショフの強制収容所に
ユダヤ人が送られた時に、持ち物が道路に散らばった様子。 

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先日DVDの「シンドラーのリスト」を再見していましたら、
ユダヤ人をアウシュヴィッツに送る時など、駅で安心させる為に、
鞄に名前と住所を書くように。後で届けるから。と書かせ、
発車した後、即鞄を開け没収、だったのですね。



シンドラーの工場開き、でしょうか。

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建物2階の多分シンドラーの事務室があったのだろうと思う部屋の
一郭に、工場で作っていた製品が見れる様に展示が。

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彼の机があり、タイプ・ライター、電話なども。

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馬が好きだったという彼の写真も。 右上は?

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入り口に戻り、シンドラーの写真と、記されている言葉は、

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誰かを救える限り、人生には意味がある   ーシンドラー
一人の命を救う者は全世界を救う   ーこれは映画の最後にも出ましたね。



シンドラーの工場から南に下った、ゲットーの一番南端にあたる位置に、
唯一残ったゲットーの壁がある、というので、見に行きました。

高さ3m、というのですが、傍で見るとそう高くもなさそうでしたが、
こうして人の身長と比べると、やはり3mあるなぁ、と。

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半円が上に見えるのは、ユダヤ人のお墓の形を模しているものと。



碑文。
   
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ここで彼らは生き、苦しみ、そしてヒトラーの手先により死にました。
ここから、彼らの死の収容所への最後の道が続く。
ユダヤ人ゲットー  1941 ~ 1943 年

ここに残っているゲットーの壁は、この長さで、
あと一か所、ここから少し先の小学校かの、庭の裏側に少しと。



4日間の旅程を無事終え、空港まで戻り、

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滑走路の明かり。 

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ヨハネ・パオロ2世空港。 また雨が来るような空。

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雲の上に出ると、この青空! そして、飛行機雲。

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南西に飛び、

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ミュンヘンで一服。  そして離陸。

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アルプス越え。 北側の山はまだ白い!

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そして少し茶系となり、

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夕暮れが迫ります。

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アルプスを越え、雲海迄降りて来て、

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クラコフから、 そして78年前から、イタリアに戻りました。

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クラコワ訪問前の オスカー・シンドラーと、映画「シンドラーのリスト」
https://www.italiashiho.site/article/499564686.html

n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html

n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/article/500863140.html

アウシュヴィッツの女性オーケストラ
https://www.italiashiho.site/article/501782208.html

ヘドヴィヒ・ヘンデル、 ルドルフ・ヘス-アウシュヴィッツ収容所長の妻 と、映画「ゾーン・オブ・インタレスト」
https://www.italiashiho.site/article/502056644.html

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」


こうして、この1年間引きづって来た旅行でもありましたが、
漸くに納得、自分の内に納得した感じも持つようになり、
行けて良かった、と思っています!! 

Hatanoさん、改めて、有難うございました!!


*****


そして、タイトル通り、この回で一応ブログのお休みを、
9月末迄夏休み、とさせて頂きます。

来春の東京での個展の準備もあり、どうぞお許しを!

宜しくお願い致します。


*****

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ピエンツァ 朝 途中経過と、 大阪二人展の作品  夏休みを 
をアップしています。 ご訪問よろしくどうぞ!


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・ プワショフ強制労働収容所の、跡地とその周辺 ・ ポーランド・クワコフ

昨年6月にポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする
ナチスの残虐な足跡を尋ね、

また一方ではレオナルド・ダ・ヴィンチのかの「白貂を抱く貴婦人」
に初めておめもじ、という旅行をし、

その後もあれこれしばしば思い出し、また調べという様なこの1年で、

今回はそのままになっていた、クラコフ市の南東に残るプワショフの
強制収容所跡、その周辺のあれこれも纏めてご紹介したく、ここに。


こちらは収容所跡の小高い場所にある記念碑

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収容所跡のいわば一番高い位置、南端にあり、道、店舗、住宅を
見下ろす形で。


こちら地図をどうぞ。 クラコワ市中心は左上端に見える川向うの
北西寄りに。

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中央に見える北に抜ける道の東、囲った場所に、シンドラーの工場
があり、

このシンドラーの記事は、クラコワ訪問前のもの。
オスカー・シンドラーと、映画「シンドラーのリスト」
https://www.italiashiho.site/article/499564686.html



地図中央近くに道路、鉄道が交差しての左下の緑地が、大まかに
かってのプワショフ強制労働収容所跡地で、
この碑の位置は、一番下の真ん中の丸の位置に。


左上に長い赤線を引いた所が、中世からの石灰岩の採石場で、
19世紀後半から大きな規模で石灰岩の火口を行う会社を、
クラコワ出身のユダヤ人起業家ベルナール・リバン・Bernard Liban
が設立しており、

後に別の名となった企業が、第2次大戦中のドイツ占領迄運営され、
1942年にドイツ当局により接収され、
ここに建設労働者の為の収容所を建設したのだそう。

shinkaiはこれらを、かなりの数の写真も掲載されたサイト記事
CAVA DEL LIBANO Cracovia misteriosa
https://tajemniczy-krakow.blogspot.com/2019/07/kamienioom-liban.html
を見つけて知り、

スティーヴン・スピルバーグ監督の名画「シンドラーのリスト」の中に
登場の数々の場面がここで撮影されていた事も確認しました。

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まず、この記念碑と共に、少し収容所の跡地の様子をご覧下さいね。
碑の正面、「引き裂かれた心の記念碑」と呼ばれているそう。

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1964年に建設されたもので、背面には
  1943年から1945年にかけてナチスの大量虐殺によって
  殺害された殉教者に敬意を表して
と碑文が刻まれていると。


実際最初に建設された収容所には400人程の囚人がいたのが、
クラコフの「ゲットー消滅」の後に最初にここに送られたユダヤ人達は
約25000人、その後収容所は5万~15万人を収容できる様に拡張。


碑の位置から見える、前の風景。

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この碑もこの収容所で殺害された方々への慰霊碑。 上の碑の傍、
少し下の道際に。

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こちらはナチスに殺害された警察官の慰霊碑。 

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たくさんの慰霊碑が緑の木々の中、あちこちに見かけられます。

見る事は出来ませんでしたが、中には証拠隠滅の為に、共同墓地を
掘り返し、再度ユダヤ人の死体を焼いた跡地もあるそう。


そしてこちらが跡地に唯一残る建物というか、収容所分遣隊を
収用する兵舎として使用された、所謂グレイ・ハウスと呼ばれる建物。

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現在内部は博物館となっており、見学できる、とありましたが、
写真に見える1つだけ扉のある側は、前を通る道の裏側に位置し、
私が行った時は閉まっておりました。
地下は拷問室に使われていたそう。


上の地図をもう一度どうぞ。  最初の、南端の高台の記念碑の
右へ斜め上に付けた少し縦長の丸印の位置に、グレイ・ハウス


で、その右下斜めの横長の丸印の位置に、プワショフ強制収容所の
アーモン・グースの所長宅がありました。 ご説明は下に。


5の地図写真。 薄い赤線が見えますか? 赤線内がかっての
収容所跡地で、中にユダヤ人墓地が2つ含まれ、

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上でご紹介の石灰石の発掘地が半分含まれています。


現在はポーランドの戦時下博物館、となっているシンドラーの
エナメル工場にあった写真で、

上の写真に見える道角の建物が、グレイ・ハウスで、
下の写真は左に続く眺め、で、その広大な敷地がご想像できると。

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このグレイハウスの裏側にあたる所に、慰霊碑があり、
サラ・シャニールという、ユダヤ人女子学校の創設に尽くされた方
への様子。

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で、すぐ近くに、上で見て頂いたグレイ・ハウスの位置写真掲示があり、
その側面にあった手が突き出た碑が、・・怖かった私め。

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飢えと疲労、過酷な労働に苦しみながら、働かされた収容者達。

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上の写真右に、女性収容者たちが押している運搬車が、博物館に。

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こちらが映画「シンドラーのリスト」に出てくる、隣接の石灰岩採掘場の
様子で、

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スピルバーグ監督は、この現在は放置されている切り立った崖の中の
盆地、というか、そこに収容所の建物を作り、撮影したのですね。

位置として、まるで関係ない土地ではなく、

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この背後左に見える鉄製の塔は、現在も残っている採掘場で、かって
使われていたもので、上の写真の映画シーンにも見えてましたね。

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右に、映画の中では収容所所長アーモン・ゲースの所長宅となり、


上の最初の写真の様に、朝テラスから興味半分に囚人たちを撃っていた
場面がありました。

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が、実際のアーモン・グースの所長宅があったのはここではなく、
上でご案内の様に、全体の地図の右下の横長の丸印の所で、

映画の中の様に家の位置は収容所よりも高くなく、


収容所敷地の一部となるこの辺り一帯に住宅が続き、収容所勤務
将校達の住宅だったのだそう。


アーモン・グースは労働力となるユダヤ人を、意味なく殺戮したり、
所持品を盗んだとして親衛隊に逮捕されたものの、糖尿病を
患っていた事から病院に収容されており、

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戦後に逮捕され、この跡地で絞首刑に処された事は、
映画の中にも描かれておりました。


邸宅位置を知ったのは、クラコフのプワショフ強制収容所訪問ガイドサイトで
Visita il campo di concentramento di Plaszow a Cracovia


プワショフの収容所跡訪問は、shinkaiはタクシーで、運転手に
先に英語とポーランド語で依頼の言葉を書いたメモを用意し、頼み、

ちょうどシンドラーのエナメル工場の見学も予約しており、その前に跡地を
車で回り、その後シンドラーの工場に、と思っていたのですが、

かなりの雨降りの朝となり、タクシーで行って良かった、と思ったのと、
かなり外れた土地で、木々の密集も多く、1人では危険、という
説明もあったので、これで良かった、と思ったのでしたが、

もしお天気だったら、も少し気分的に歩き回って見たい所もあり、
かっての所長宅、というのも見たいとは思っていたものの、

それが偶然にその前の道を通り、逆行きの車とのすれ違いで
止まった時に、

ふっと横に見え、雨粒の当たった窓で、家にはピントが行かずでしたが、
これです。

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サイト記事で、所長宅の住所を知り、グーグル・マップで見ていたのが
こちらだったので、すぐ、あっ、これだ、と分かったのですが、

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2018年付けの写真でしたが、その後綺麗に改修され、新しい
持ち主の物となっているのでしょう。

shinkaiは怖がりなので、こういう因縁のあるお家に住む、と
いうのは、到底、到底・・。


地図内で、その上に青い買い物車の印に短い横線を入れたのは、
そこにLidel・リーデル、というドイツ系のスーパーがあり、

すぐ横の道を入るとグレイ・ハウスだ、と自分の見当にしていたのが、
実際に行って見ると、今はもう、その奥横辺りが駐車場となり、
予約済みの車のみの様で、踏切棒が降り、通れなくなっており、

という様な様子で、プワショフの強制労働収容所訪問を終え、
その儘タクシーで、シンドラーの元エナメル工場前まで
運んで貰ったのでした。



このプワショフ強制労働収容所は、所長のアーモン・ゲートが
逮捕された1944年9月頃より、ソヴィエト赤軍の接近により
徐々に他の収容所に移送され始め、1944年中にほぼすべてが。

そして1945年1月の最後まで残っていた囚人たちは、
アウシュヴィッツ-ビルケナウ絶滅収容所まで死の行進を。

そして1945年1月11日にソ連赤軍が到着した時には、
プワショフ強制収容所は空になっていたのだそう。

ですが、絶滅収容所ではなかったのにもかかわらず、
ここで殺害されたユダヤ人の数は8000人にも上り、

シンドラーが自分の資金をすべて注ぎ込み、自分の故郷に
連れて行き、援けた人々の数は総勢800人。

如何に尊い数だったかが想像できます。



最後にもう1枚地図をどうぞ。 最初の地図よりも北に当たり、
右に囲ったのが、元シンドラーのエナメル工場で、
左に薄紫に囲った地区がクラコワのゲットー。

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川向うに見えるカジミエール・Kazimierzがユダヤ人居住区であったので、
そこから川を越え、この狭いゲットーに押し込まれたのでしたが、

かっては64000人以上だったユダヤ人が、1941年3月にゲットーに移住させられ、
さらに1942年6月、10月にプワショフに暴力的に強制送還され、

最後1943年3月13日、14日にゲットーの最終的清算、消滅を。


ゲットーの中の縦長〇が、イーグル薬局。 その北に見える広場が
現在「ゲットーの英雄広場」と呼ばれ、

1943年3月のこの広場での多数のユダヤ人殺害を示す、放置された椅子
シンボルとする広場となっているのですね。



イーグル薬局は、ゲットーの中に1軒だけ残り、

住民たちを援けた、タデウシュ・パンキェヴィッチ・Tadeusz Pankiewicz、
右端の方。

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彼はユダヤ人ではなく、他のポーランド人経営の店はどこも閉めたのを、
薬局がないと困るから、とドイツ当局から許可を取り、

店の店員たちは通って来たのを、彼はここに住まいながら、
様々な医学的救助、また実際にユダヤ人を匿い、逃がす事もしたようで、

ゲットーに住むユダヤ人の知識者、科学者、芸術家たちの集いの場、
ともなった様子。

写真も撮って来ていますので、また次回にでも見て頂く事に。



という事で、今回はこれでお終いとさせて頂きますね。

n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html

n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産

アウシュヴィッツの女性オーケストラ

ヘドヴィヒ・ヘンデル、 ルドルフ・ヘス-アウシュヴィッツ収容所長の妻 と、映画「ゾーン・オブ・インタレスト」

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」
https://www.italiashiho.site/article/500516785.html


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2人とも乗りがよく、二人展しない? OK. テーマは猫でどう? OK.
という感じで即話が成立したのでしたが、はは。


2人が、わぁお、素敵!と喜んだDMも出来、お互いの作品傾向が
違う、面白い二人展になるかも、という空気ですが、
さて、どの様な会場となりますか、

どうぞお時間を取ってお出かけ下さる様、よろしくお願い申し上げます


**

来週までには、各作品の様子なども纏めて、ご案内致します。
今週は少々困憊気味で、お許しを!


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・ 2024年 第26回欧州陸上選手権大会 ローマ・オリンピック・スタジアム

この6月7日から12日迄 ローマ・オリンピック・スタジアムにおいて、
第26回欧州陸上競技選手権大会が行われました。

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ローマでこの大会が開かれるのは1974年以来の50年振り!
なんだそうで、

48か国の参加、1559人に選手、イタリアからは116名の参加。

今回はイタリア選手勢の活躍目覚ましく、大会初めての記録、
つまりメダルの獲得数1位!! という活躍ぶりでした。


すぐ来月にはパリ・オリンピックも控え、
この金メダルを目指して、暑い夏になるだろう事と。

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が、まずはパリ・オリンピックに出場するイタリア選手団全員と会い、
マッタレッラ大統領から団旗が、13日に官邸庭園で渡された様子から。

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イタリア選手団団長は、走り高跳びのジャンマルコ・タンベーリ
フェンシングのアリアンナ・エッリーゴ選手。


タンベーリは東京で、カタールのムタズ・エサ・バルシム選手と
金メダルを分けた逸話でもご存じの方が多いと思いますし、

フェンシングのエッリーゴ選手は素晴らしい記録保持の選手であり、
また双子のママでもあり、選手活動とママ生活の大変さに、
マッタレッラ大統領の言葉に落涙したそう。


つい先日、何を検索していた時か、小谷実可子、と言う名が出て、
あれ、この名前は良く知っている方だけど、何されていたんだっけ、と、
はぁ、浦島タロコが焦り・・、

戦線復帰し、それも男子選手とのミックス競技でマスター選手会に、と
いうのを知り、偉いなぁ、立派だなぁ、と逆に大いに励まされた思いでした。
この頃の女子選手の頑張り、そして女性全般の前向きの頑張りには、
本当に頭が下がります!!



で、この大会が行われたローマ・オリンピック・スタジアムはどこにあるか、
ご存じですか? なんとなしに知っているものの、正確には言葉にならずで、
へへ、改めて調べて見ましたら、
はい、ローマのこの位置に、

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この様に、あるのですねぇ。

1960年のローマ・オリンピックの、はい、裸足でローマを駆け抜けた
マラソンのアベベ選手の名がすぐに思い浮かぶ、あの会場で、
次の1964年が東京オリンピック、という繫がりでした。



主のメイン・スタジオの様子はこちらで、
欧州陸上大会の様子をご覧下さいね。

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この競歩の選手、アントネッラ・パルミザーノ選手も、東京で
金メダルを獲得していましたが、

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このローマ選手権でも! そして今回は銀もイタリア選手でしたぁ。



ハンマー投げの男子金メダルの、レオナルド・ファッブリ選手、

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そして女子ハンマー投げサラ・ファンティーニ選手も金を!

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顔がよく見えず、110mハードルの金メダル、ロレンツォ・シモネッリ選手

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男子200mでは2位、100mx4では金の、フィリッポ・トルトゥ選手、
100x4では、東京でもでしたが、素晴らしい闘志で、今回も!!

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今回100m100x4でも2区を走り、金メダルのマルセル・ジャコブ
この顔も、既に東京でもお馴染みの筈。

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ナディア・バットクレッティ女子5000mでの金メダル。

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イタリア勢の今回のメダルは、金が11、銀が9, 銅が4、の計24個!!
今迄で最高なんだそうで、イェイ!!

なので、上の金メダル獲得者の顔写真ももっとある筈が、ご容赦!

2位はフランスのメダル総数16、その内の金は4つ、
3位がイギリス、 そしてノルウェーと続きます。

余りに今回が良いと、来月のパリ・オリンピックが逆に気がかりですが、
はい、この勢いに乗って頑張って欲しい物です!!



この女子競歩アントネッラ選手にかかる言葉は、

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来る日も来る日もイタリアの選手たちは、これまでに見たことのない
数多くのメダルを獲得して私たちを興奮させました


本当に、オリンピックに限らず、運動選手達の連日の激しい練習、
その意気込み、継続は、いつもTVの前の我々を感動させます。



今回大いに沸いたのが、いや、いつもの彼なのか、はは、走り高跳び
ジャンマルコ・タンベーリ選手で、

ほら、この顔を! 顔右半分の髭はきれいに剃られているものの、左は!

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彼はいつも何かやらかす、というか、いろいろ話題を引く選手でして、

今回も既に2m34cmを飛んだ所で、金メダル決定だったのが、

飛んだ後に足を引きずり転びこみ、スタジアムのファンが一瞬シンと
した所で片足の靴を脱ぎ、中からたくさんの巻きバネが!!

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その後に、2,37cmを見事に!! 中継のアナウンサーも、
観覧席で並んで眺めていたマッタレッラ大統領も、お偉方も仰天!!

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観客席に走り寄り、この白いTシャツは確か彼の父親、
トレーナーの方と。 しっかり抱き合い、感動的でした。

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いつもちょっと奇矯な動作を見せたりする方ですけど、こうして
普通の場面での顔は、ハンサムでしょ?! 背も190cm近く。

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そして男子100m。 これはいつもどの大会でもハイライトですよね?

余り東京以後のジャコブの華やかな活躍ぶりは報道になく、
年齢的な事とか色々大丈夫かな、と思っていたのでしたが、

1度目は同じイタリアのアリ選手のフライイングで、飛び出しはなく、
イエローカードのみで済み、2回めは綺麗にスタート。

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結果、1位ジャコヴ・10"02、 2位アリ・10"02 共にイタリア選手。

この素晴らしさ!! パリでのイタリア選手の成果を見たいものです!!

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そして大会最後を飾る、男子100mx4のリレー。 
1区を走るマッテオ・メルッツォ

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そして2区、マルセル・ジャコヴ。

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3区はロレンツォ・パッタで既に最後のフィリッポ・トルトゥにバトンが。

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左下に、順位が出ていますが、最初からイタリアが先頭を走っており、


最後はかなりの差でトルトゥが走りぬき、素晴らしい金メダルを獲得。
37"82。 バトン・タッチも素晴らしかった様で!

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4人の最高の笑顔!

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こちらからあれこれヴィデオがご覧になれま~す。

2024 年欧州陸上競技選手権大会、イタリアの「黄金」版
Europei di atletica 2024, la "dorata" edizione dell’Italia



パリ・オリンピックはいつからだっけ?とカレンダーを見ましたら、
7月26日から8月11日迄と。 

あれま、shinkaiは7月23日早朝の飛行機で大阪に発ち、
戻るのは8月5日夜中! 
まぁ、大阪では時差を狙ってのTV観戦になりそうで!



については、今年2月初めにオーストラリア・オープンで優勝した時に
そのはつらつとした若さと、力に驚き、ご覧頂いたのでしたが、

その後怪我があったり、最後のパリでのトーナメントでは優勝できず、
でも、今迄最強の世界N.1だったジョコヴィッチに着々と迫り続け、

遂に6月 世界N.1の位置に!!  22歳!


所でつい最近、彼は生まれ故郷であり、両親が居られるセスト・Sesto,
ボルツァーノ県に戻った様で、
市の名誉市民台帳にサインし、歓迎会に出席した様子が報道されました。

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雨がぱらつく中で、お偉いさんに傘をさしかけたり、いつも通りの
爽やかな笑顔、姿勢で、素敵ですねぇ。

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そしてこの方、ヘリベルト・メイル氏がシンナーの7歳から13歳までの
最初のテニスの師だったそうで、

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彼が話すのを聞くと、
子供の頃のシンナーはスキーをしており、子供チャンピオンになったりの
素晴らしい素質を見せていたそうですが、

13歳の時にやって来て、スキーは止めてテニスをする事に決めた、と
伝え、去って言ったと。



そして今22歳の彼が到達した位置が、世界N.1。

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凄い馬力で、どこまで行くのか、楽しみです。

あれこれのニュースが出ますけど、見る方も迷わされずに!!


皆様も、この夏のスポーツ・ニュースのあれこれをお楽しみに!!!


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・ 80年前の1944年6月6日  D デイ・ノルマンディ上陸作戦

先日6日のTVニュースに、1944年、80年前のこの日、
ナチ占領下のフランス、ヨーロッパを解放する為の、アメリカ、
イギリス、カナダ軍の、7千の部隊と、数万人の兵士が
フランスのノルマンディ海岸に上陸、ヨーロッパの解放戦を開始した、

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映画「史上最大の作戦」、そして「プライベート・ライアン」、
そして様々な小説でも皆さんも良くご存じの、

ノルマンディー上陸作戦が行われ、その80周年記念、という事で、


ニュースには、バイデン大統領やマクロン大統領の顔も並び、
チャールズ国王もお出でだったのですね。

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映画の中で見た、オマハ・ビーチのアメリカ軍兵士の墓地も再度
見かけたのでした。

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そうだった、6月6日だった、とサイト記事を探し見つけた、
「ノルマンディ上陸作戦、Dデイの海岸」
Sbarco in Normandia, le spiagge del D-Day

そしてその2日後だったか、ナショナル・ジェオグラフィックの
ストーリカのメール通信が届き、
1944年6月6日:オマハ・ビーチの地獄からの記録」の記事が。


ノルマンディの戦場写真は、かの有名なロバート・キャパの写真はじめ、
たくさん見知り、ダウンロードもしていますが、

このサイトで初めて、現在の浜の様子の写真を見つけ、余りこれは
見かけないし、鎮魂の碑でもあるから、皆さんにもご案内を、と
思ったのが、今回の記事の始まりです。


せめて年に1度でも、あの酷い海岸線での戦闘で亡くなった方々、
アメリカ人の墓地には、行方不明兵士を含め9387名が
葬られているそうで、

他にイギリス人兵士、カナダ人兵士、そしてその後の長く続いた
大陸内での戦闘の死者も含め、

そして、先日久し振りに見たイーストウッドの「硫黄島からの手紙」に、
改めて、このような島で、あの環境で、日本兵士が亡くなって行ったんだ、
と思うと、胸が詰まる想いがし、

せめて今の平和な国で過ごせているその下には、たくさんの方たちが
辛い思いをし、生きたくとも生きれなかった、その方々を思うのも、
生きさせて貰っている我らのささやかな供養になるのかも、

と思ったのでした。


ノルマンディ上陸作戦の後、フランス領土は8月25日のパリ解放となり、

76日間の戦闘で連合軍は21万の兵士を失い、ドイツ軍は20万人の
死者と、20万人の捕虜を失ったと。

この場合の捕虜、というのは、何を指しているのか、少しわからない部分で。


この上陸作戦の舞台となったコート・ド・ナクル・真珠の母と呼ばれる
この美しい海岸全体に、
戦場、爆撃によって残されたクレーター、墓地、戦争博物館が点在し、
この海岸で起こった恐怖を物語ります。


上陸作戦D デイの舞台となったこの海岸は、5つの区域に分けられ、
アメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍とでカバーする計画で、


この地図をどうぞ。  右上に見える様に、突き出した半島がコタンタン半島で、
東側のちょうど窪みとなった部分の海岸に、

左から順に既にお馴染みの名、 ユタオマハ、米国  ゴールド、英国  
ジュノー、カナダ  ソード、英国 と上陸したのですね。

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興味深いのは、これら海岸のコード名は、各作戦の指揮官が選んだそうで、
ユタ、とオマハは軍隊の指揮を執る上層部の土地の名に由来し、

ソードとゴールドは、イギリス将軍モンゴメリーに選ばれた魚の名で、

ジュノーは、クラゲのジェリー・・、が選ばれたものの、最後は
中佐ドーネイの妻の名ジュノーとなったのだそうで。



ユタ・ビーチ・Utha Beach

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兵士像の後ろに見えるのが上陸用舟艇。 兵士達は設計士の名に
ちなみ「ヒギンス」と呼んでいたそう。

舟艇の長さ11m、幅3m、前部は開いて浜に接岸する為にスロープで、
これに兵士36名と、乗組員3名が乗ったのだそうですが、

夜明けの、この決戦を決めた朝は霧も出ての荒れた海で、兵士達は
艦船から乗り移り、浜に着く迄1時間ほどかかり、船酔いを・・!


このユタ・ビーチは湿地帯で、ドイツ軍は敵の上陸には適さないと考え、
特に人員配置はなかったのだそう。

1944年6月6日の午前6時25分、アメリカ第8歩兵連隊の兵士達が
20隻の上陸用舟艇により海岸に近づけられ、フランスの地に初めて触れ・・。

ドイツ軍の監視が不十分であり、損失は他の海岸に比べ明らかに限られて
いたものの、ここの装備や武器の重さで多くの兵士が溺死を。

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今回は各浜の戦闘についてのみ簡単な説明をさせて頂きますが、
下に各戦争博物館のある位置地図を。

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1つここに書くのは、連合軍の悲劇もですが、ドイツ軍跡地の博物館も
も訪問される事をお勧めします、で、


Crisbecq Battery・クリスベック砲台 isle A1, 1 Rte de Crisbecq,
50310 Saint-Marcouf, Francia  地図位置3

というのも、ドイツ軍には、彼らが直面する悲しい運命を知らない
少年達が配置されていた事が非常に多かったのだそうで、

多分戦争も末期になっていたので、とりわけそうなのでしょうが、

完全に復元された寮、診療所、台所など、一部には日用品も備えられた、
戦時中の砲台での生活を語っているそうで。



サント・メールエグリーズ・Sainte-Mère-Église 位置地図4

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この小さな村は鐘楼で有名になった、というと、あっ、あれかな?!と
思われた方もおられるかと。

はい、私めもよく覚えている「史上最大の作戦」にエピソードが描かれた、
上陸中の連合軍降下部隊の兵士のパラシュートが教会の尖塔に引っ掛かり、
2時間程も吊るされていたそうで!

で、それを記念し、今も教会の屋根にはパラシュートが引っ掛かった
兵士のマネキンがね!

この村はフランスで一番早く連合軍によって解放された村、となると。



オマハ・ビーチ・Omaha Beach

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上陸作戦で一番の激戦地であったオマハ・ビーチ。 

最後は、R・キャパの写真で。


7kmの海岸沿いに繰り広げられた、劇的で最も血なまぐさい戦闘地で、

スピルバーグの「プライベート・ライアン」で描かれたシーンは、
凄まじく、でも、きっとそうだったんだろう、と思える真実感が漲り。

ドイツ軍が砂丘の頂上から容赦なく発砲する銃弾で、海岸に到達するや
否や倒れる兵士達。

この日上陸した約35000人のうち、約2000名が砲火に晒されたのでした。


ノルマンディ一帯の指揮官はロンメル将軍。 かれは上陸軍阻止の為に
海中に3重に爆破物、障害物を設け、

高波の中では隠れる高さの為、上陸舟艇はそれをよけ高波、強い風に
煽られ、流され、細かく指定されていた位置に到達できず、

なんとか浜について舟艇のスロープを降ろした途端に機銃一斉放射を受け、
兵士36名がそのまま死亡、というのも多く、

舟艇はそのまま艦に戻り、死体を降ろして後また兵士を乗せ海岸に。


海岸から離れすぎて舟艇が止まると、兵士達は飛び込むものの、
救命胴衣を着けていても装備の重量で、火炎放射器を背負った兵士の
荷の重さは36キロもあり、水に入った途端に沈み、

仲間たちの驚異的な手が彼を掴み、引きずってくれ、機関銃の球を避け、
堤防迄の200mを乗り越え、Dデイを生き延びた幸運な兵もおり。

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午前7時上陸の第2波が始まり、 8時になり次々と上陸波が押し寄せる
ものの、未だに地獄のオマハから逃れる道はまだ開かれておらず、

状況は非常に危機的で、上陸したばかりの米軍将校は部下に移動を
促す為、「この海岸に残るのは2種類の兵士だけだ。 死んだ者と、
これから死に至る者だ」と叫んだと。

漸くに9時頃、数人の小さなグループが的を絞った行動で陣地を
確保し、浜の側面に移動し、小さな隙間を開け、
彼らはオマハを通過した最初の同盟国軍と。

海岸での戦闘が激しくなる一方で、小さなグループがゆっくりと
頭上の塹壕を征服する事に成功、

こうして視界は徐々に改善、海軍は部隊を海岸から1キロまで移動させ、

艦砲は目標を正確に特定して射撃できるようになり、この砲撃のお蔭で
サン・ローラン・シュル・メールの村の前に通路が開け、

歩兵と最初の戦車が通過出来る様になったのが11時半

死の地獄の浜を抜けるのに、5時間かかった事に!


午後2時になり、最終的にさらに3つの出口を開ける事が出来、
オマハの東、ヴィエルヴィル・シュル・メールの町の前、2つは西の
コルヴィル・シュル・メールの村の前に。



そして戦闘の最後には、浜に残された戦友たちの遺体の埋葬が。

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現在の浜には、こんな戦没者慰霊碑があり、「勇敢な人々」と
呼ばれているそうで。

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真ん中のは、「自由の為に立ち上がれ!」



上記した様に、浜のすぐそばには、果てしなく続く白い十字架の列、
1557人の行方不明の兵士を加えた9386人のアメリカ兵士の墓碑が。

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観光客のみでなく、退役軍人や犠牲者の家族が愛する人を探して
徘徊し、涙を流し想い出すのは辛くとも、この場所があるからこそ。



オック岬・Pointe du Hoc  位置地図13

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この岬のボコボコに空いた穴は、同盟軍が投下した爆弾跡、なんですと!


6日の深夜、非常に強い風と、視界不良の為にジュノー・ビーチに
パラシュート降下する筈だったカナダのレンジャー部隊の225名が、

誤ってこの地点に降下され、敵の砲撃を受けつつ、
敵の砲撃を受けつつ、高さ30mの崖をよじ登らねばならず、

兵舎とドイツ軍司令部をなんとか占領した時、生き残ったのは
90人のみだったと。



ゴールド・ビーチ・Gold Beach

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写真は ロング・シュル・メールの砲台。 位置地図 15

このドイツ軍砲台は、オマハとゴールドの海岸まで、20km離れた
場所でも攻撃できるよう設計されたドイツ製の大型大砲を
無傷で保存している唯一の砲台。

現在では、戦争に対する無言の警告となり、お天気の良い日には
その巨大なコンクリートの基礎から、バイユーの大聖堂が見えるそう。


イギリス軍の幾つかの連隊が上陸した海岸ゴールド・ビーチは、
バイユーの町とカーンを結ぶ線を遮断し、バイユーを解放し、
ソード・ビーチに到着のイギリス軍に加わる事だったそうで。


この浜には、下船作業を可能、容易にするために秘密裏に造られた、
一時的な人口港の、マルベリー・ハーバーというのがあり、

現場で沈没した船と、金属ケーソン・なにかと調べましたら、
コンクリート、または鋼製の箱で、地下水などの流入を圧縮空気で
防ぎながら、中で工事できるようにしたもの、と。

その金属ケーソンで作られた、波を打ち破って軍事装備の着陸を
可能にする目的で、

40万台の車両と、300万トンの資材を降ろすのに、15km以上の
桟橋も建設されたのだそうで。

でこのアイディアは、英国の偉大な政治家ウィンストン・チャーチルの
アイディアからなのですと!

勿論、戦後のお話でしょうねぇ。



ジュノー・ビーチ・Juno Beach

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この写真の建物は、ジュノー・ビーチ・センター、この海岸にある
唯一のカナダの博物館で、

多くの人にとってはマイナーですが、第2次大戦中のカナダ軍の
役割は基本的な物だったそうで。

ジュノー・ビーチへの上陸作戦に参加したカナダ軍は、
東はサン・トーバン・シュル・メール市、 西はクルル・シュル・
メール市に隣接するベルニエール・シュル・メールの海岸に上陸。

カナダ第3歩兵師団の任務は、カーンとバイユー間の道路を遮断し、
カルピケ飛行場を占領する事で、

ジュノーに上陸した23000人のカナダ人、イギリス人の内、1200人近くが
海岸で命を落としたそうで。



ソード・ビーチ・Sword Beach

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海岸続きの上陸作戦地は一番東に位置するソード・ビーチが最後

ウイストルアム市とサン・トーバン・シュル・メール市間のこの海域に、
イギリスから到着のイギリス兵と自由フランス軍を含む3万人が上陸。

他の上陸地点と比べ、ここで亡くなった兵士は僅か700名であり、
他の海岸での死者を考えると成功で、

上陸目的は、ジュノー・ビーチ上陸のカナダ部隊との連携にあったそうで。



上陸地の名前などは聞きかじりで覚えているものの、実際の実情は知らず、
オマハ・ビーチの凄さなど、やはりきちんと知って見ると、実感に溢れます。

そんな大戦争、大上陸作戦の敢行、成功から80年!

やはり平和の世界、日常は有難く感じ、1年に1度は再度知る事を、と
振り返ってみる事の大事さも、深く感じた事でした。


6月6日の上陸作戦80周年行事の後、浜辺に立つ軍服の人々。

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そして暮てゆく、オマハ・ビーチ。

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posted by shinkai at 04:32Comment(0)・欄外

・ 現在プラド博物館で新公開の カラヴァッジョ ・ 驚きの新発見作

この5月28日から、スペインはマドリッドのプラド博物館で公開中の、
カラヴァッジョの、いわば新作、新発見の作品、

男をみよ・エッケ・ホモ・Ecce Homo」

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いつもニュースに遅れる私めは、この作品について5月8日付け
のサイト記事で知った所で、

この作品を修復されたイタリア人修復家アンドレア・チプリアーニ氏・
Andrea Cipriani、フィレンツェ、50歳、

私はカラヴァッジョを修復しました。キリストとピラトの後ろには彼の弟子チェッコがいます
Ho restaurato Caravaggio. Dietro Cristo e Pilato c’è il suo allievo Cecco
で読んだのでしたが、

写真がまだ発表できない時期だったのか、光った状態のもので、

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ですが、修復者の喜び、というのか、まず最初に偉大な画家の
作品を独り占めして眺められる様子が述べられており、

最も美しい瞬間は、夕方気が付くと1人で彼の前にいた時で、

カラヴァッジョも、この作品を描いている時、キャンバスに向かい、

色、キリストの光を前に、同じ感情を抱いたのではないかと思い、

自分が恵まれていると(特権者だと)感じました。


素晴らしく素敵な言葉で、修復者でなければ持てない感情ですよね。

現在はフィレンツェにスタディオを持ち、30年ものキャリアを
積まれているチプリアーノ氏は、トスカーナ州の東南の端近い、
ラツィオ、ウンブリア州に近いサン・カッシアーノ・デイ・バーニの出身。

古典絵画の修復で有名な方だそうで、数年前、彼の人生とキャリアを
形作る大事業を依頼され、
つまり今回のこのカラヴァッジョ作の「エッケ・ホモ」の修復でした。

この作品についてはつい最近までかなり秘密にされていた様子で、
というのも信じられない様な、絵の発見時の様子の様々があり、
いわば美術史上における近代最大の発見だったと言えそうなのですね。

この写真は修復前のもので、修復者の説明として、
手前の男ピラートの衣服の肩と襞、奥に見える少年の肩と袖が
消えていたのをあげておられたのが見られます。

修復により、再びその形状が現れ、色彩の価値が全て、絵画の
劇的表現に現れたのだそうで。

絵のタイトル「エッケ・ホモ」とはラテン語で、「見よ、この男」の意で、
ヨハネの福音書にある、ローマ総督ピラト(ポンティウス)が、
この言葉で、キリストを人々の嘲笑に晒したのだそうで。

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この作品が描かれたのは、1605-1609年、カラヴァッジョがナポリを
訪れた2回のうちで、
そのまま時期にスペインに持ち込まれ、スペイン王フェリペ4世の
個人コレクションに記載があったという、

カラヴァッジョの既知の作品約60点のうちの1点


それがなんと、世の光を浴びたのは2021年4月8日に、スペインの
持ち主、古い家柄の所有者から1500エウロ!!で、

ジュセペ・デ・リベーラ・ホセ・デ・リーベラ(同人)の
周辺画家の作と言われ、

ホセ・デ・リベーラはスペイン人ですがナポリで終生活躍した、
というので、代々の一家はそう思い、そう伝えられていたのかも。


が、マドリッドの有名なオークッション・アンソレナ・Ansorenaに
出品されるとカタログに掲載されたのを知り、

プラド博物館は即作品の価値を知り、スペイン文化省に警告、そして
文化省は直ちに、この作品は美術展以外にスペイン国外に出る事は
出来ないと宣言。

プラド博物館館長は、その数十年の美術史における偉大な
再発見の一つと考えられるこの作品の紹介を開始し、
その真贋に関し、前例のない素早い合意を得たのだそうで。


その作品が、1500エウロから、という低価格での出品とは!!

新しく真の画家名が提示された時、2世紀に渡って所有していた
ペレス・デ・カストロ・メンデス家・Pérez de Castro Méndezは
競売から取り下げ、

科学的研究、修復、販売管理をコルナギ美術館委託。


こちら3枚組写真は、修復前から修復後への変容の様子と。

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で、スペイン在住の匿名英国人が購入、おそらく3600万エウロで
あったろうと言われ、

ギャラリー・コルナギ・Colnaghiというのは、現在プラド博物館と
共同で展覧会を行っており、今回のカラヴァッジョの絵も3年間
保管していたギャラリーで、

ここのエグゼクティブ・ディレクター、ホルヘ・コル・Jorge Coll氏に
よると、国際市場での価格は「1億ユーロを遥かに超えるだろう」と。

が、たくさん応募された全世界からのオファーはそのまま消え、

なぜスペイン国家が、マドリッド市関係が、この様な重要な作品を
入手しなかったのか、という疑問もあるようですが・・!

案外スペインから絵が海外に買い取られず、展覧会での外出は
別とし、ちゃんとした所有者がスペインに在住し、
レンタルできる方が良い、と考えたのかな、とも・・。


これまでのところ、芸術作品に対してスペイン国が支払った最高額は、
現在プラド美術館にあるゴヤの「チンチョン伯爵夫人」に支払われた
40億ペセタ(約2400万ユーロ)だったそうで。

6-Goya_Condesa_de_Chinchon_GF.jpg


絵が世間に公表されて以来3年間、コルナギ美術館に保管され、
と共に、様々な研究が行われ、修復も勿論で、


その専門家たちの仕事についてはこちらのサイトに詳細が
ありますので、どうぞ。

Al Prado il Caravaggio messo all’asta per 1.500 euro


で新しい所有者は、一般の方にご覧頂ける様にと、この作品を
プラド美術館に9カ月間貸し出し、

この5月28日から、はい、4日ほど前から始まっており、
10月13日迄展示され、

現在は、濃い色の壁と、典型的なカラヴァッジョ風の明暗を
強調できる小さな部屋に単独で展示されているそう。

ご覧の様に、右が8A室、左が7A室で、

7-01 112514_GF.jpg

左の7A室には、プラドで唯一のカラヴァッジョの
「ダヴィデとゴリアテの頭」が展示されているのだそうで。


こちらですが、ダヴィデが何をしているのかと思いましたら、

8-David_and_Goliath_by_Caravaggio_GF.jpg

紐で、ゴリアテの髪を彼の背中の革の防具に括りつけている、
と知りました。



修復師のチプリアーノ氏の言葉には、

カラヴァッジョは絵を描くのではなく、筆の先端でキャンバスに
主要な構成線を刻み、

肉眼でも、人物や目の周囲の彫刻の線を見る事が出来、

このテクニックを使ったのは彼だけであり、彼の特徴だと
考えられていて、

私が新たな解釈を加えたもう一つのディテールは光、で、

通常、我々は非常に安定した強いライトを使用して
作業しますが、

彼のキャンバスでは、光を暗くすればするほど、絵は
より美しくなりました。

それは予想外の演劇性を吸収し、
薄暗い所で観察するのが良いと思います。

そして、そこから傑作に生まれ変わります。 と。



専門家、プロの仕事をされている方の言葉はいつもすらっと
しつつも宝の山で、今回も成程なぁ、と。

私めはカラヴァッジョは凄いと思いつつも、どこか苦手で、
好きとは考えられなかったのですが、

それはそれとして、やはり見るべき点を指摘して頂いた様で有難く、
チャンスを待とうと思う気持ちが出来ました。


今回の絵の発見に伴い、クリスティーナ・テルザーギ・Cristina Terzaghi
美術史家、ローマ・トゥレ大学教授の率いる17世紀板来絵画の
一連の専門家たちは、

当初はただの絵画であったことを裏付ける文書や絵画の証拠を
追跡する事に専念し、

コルナギ・ギャラリーの役割も重要で、修復の促進、作品保管、

キャンバス上の診断研究は、イタリアの専門家、原子力技術者の
クラウディオ・ファルクッチ氏によっても行われ、

テルザーギ氏によると、「この絵があらゆる予想を超え、世界中に
不意打ちと驚きを呼び起こした事を忘れてはなりません。」

と、多数の研究者による多数の研究、診断による、その出所と
信頼性を認定する仕事の確認を。

そして「洗浄と診断テストにより、特に交差した筆運びの存在により、
このキャンバスとカラヴァッジョの絵画技法の互換性が疑いも無く
明らかになった」と結論付けを。


絵画は1605年から1609年にかけ、カラヴァッジョがナポリに
2回滞在したうちの1回に描いたもので、
(学者には、その年代について同意していない人も)

1657年にカストリージョ伯爵の貨物と共のマドリッドに運ばれ、
1666年この絵画はフェリペ4世の資産目録に掲載され、

18世紀末から19世紀初頭までそこに保管されていたと考えられ、
カール4世が大臣ゴドイへの贈り物として与え、その貪欲な芸術愛好家
の終わりに、コレクションはサン・フェルナンド王立アカデミーに入り、

19世紀にこの絵画は、現在アロンソ・カノ・Alonso Canoの作
とされる聖画との交換後に、スペインの収集家で外交官である
エバリスト・ペレス・デ・カストロによって、アカデミーから入手。

それ以来、この絵はおそらく匿名の大した価値はないと考えられ、
ペレス・デ・カストロの相続人、つまり建築家、デザイナー、
芸術家を含む家族内で世代から世代へと受け継がれ、

つまり3年前のオークション未遂に至るまで、と。


それにしても、それにしても、2世紀間の相続のうちに、誰か一人位、
目の確かな人はいなかったのだろうか、と?!

少なくとも鑑定とか、多少でも頭が働く人はおられなかったのか、と。

まぁね、そのおかげで絵が世間の陽を浴びたので良かったですが、

癇癪持ちだったろうカラヴァッジョが忍を切らし、いい加減にせい、と
オークッションに出させた方が良いかも、と思ったのかな、と
可笑しくなりますが。

という様な一連の事件シリーズ物の様な顛末となりましたが、はは、

9-IMG202405271731381581_GF.jpg



プラドでの展示は、上記の通り、10月13日迄8A室、での
展示の後、隣の「ダヴィデとゴリアテ」のある部屋に移され、

カラヴァッジョ同士の並びとなり、またヨーロッパの自然主義絵画との
視覚的対話を促す事に。


そして最後のニュースは、

2024年12月24日から始まるイタリア・ローマでのジュビレオ・聖年
に参加というか、展示がほぼ間違いないとみられ、

2025年12月14日迄の1年間、カラヴァッジョの作品は御里帰りを。
バルベリーニ宮での展示と。


修復後の作品は、赤い布の色がひときわ目を引き、

10-4ca66e17-771c-59d6-288d-588708344dd2_GF.jpg

背後で布を持つ、口を開けた青年が、彼の愛弟子チェッコ、と知り、
彼の愛情も感じたのでした。

チェッコ、についてはこちらに。
チェッコ・デル・カラヴァッジョ の初めての展覧会

大盛況の様で、素晴らしい! 彼の作品は大ファンがおられるから、
スペイン・マドリッド・ツァーも増えるかもですね。


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