昨年6月にポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする
ナチスの残虐な足跡を尋ね、
ナチスの残虐な足跡を尋ね、
また一方ではレオナルド・ダ・ヴィンチのかの「白貂を抱く貴婦人」
に初めておめもじ、という旅行をし、
に初めておめもじ、という旅行をし、
その後もあれこれしばしば思い出し、また調べという様なこの1年で、
今回はそのままになっていた、クラコフ市の南東に残るプワショフの
強制収容所跡、その周辺のあれこれも纏めてご紹介したく、ここに。
強制収容所跡、その周辺のあれこれも纏めてご紹介したく、ここに。
こちらは収容所跡の小高い場所にある記念碑。

収容所跡のいわば一番高い位置、南端にあり、道、店舗、住宅を
見下ろす形で。
こちら地図をどうぞ。 クラコワ市中心は左上端に見える川向うの
北西寄りに。

中央に見える北に抜ける道の東、囲った場所に、シンドラーの工場
があり、
があり、
地図中央近くに道路、鉄道が交差しての左下の緑地が、大まかに
かってのプワショフ強制労働収容所跡地で、
この碑の位置は、一番下の真ん中の丸の位置に。
左上に長い赤線を引いた所が、中世からの石灰岩の採石場で、
19世紀後半から大きな規模で石灰岩の火口を行う会社を、
クラコワ出身のユダヤ人起業家ベルナール・リバン・Bernard Liban
が設立しており、
クラコワ出身のユダヤ人起業家ベルナール・リバン・Bernard Liban
が設立しており、
後に別の名となった企業が、第2次大戦中のドイツ占領迄運営され、
1942年にドイツ当局により接収され、
ここに建設労働者の為の収容所を建設したのだそう。
1942年にドイツ当局により接収され、
ここに建設労働者の為の収容所を建設したのだそう。
shinkaiはこれらを、かなりの数の写真も掲載されたサイト記事
CAVA DEL LIBANO Cracovia misteriosa
https://tajemniczy-krakow.blogspot.com/2019/07/kamienioom-liban.html
を見つけて知り、
CAVA DEL LIBANO Cracovia misteriosa
https://tajemniczy-krakow.blogspot.com/2019/07/kamienioom-liban.html
を見つけて知り、
スティーヴン・スピルバーグ監督の名画「シンドラーのリスト」の中に
登場の数々の場面がここで撮影されていた事も確認しました。

まず、この記念碑と共に、少し収容所の跡地の様子をご覧下さいね。
碑の正面、「引き裂かれた心の記念碑」と呼ばれているそう。

1964年に建設されたもので、背面には
1943年から1945年にかけてナチスの大量虐殺によって
殺害された殉教者に敬意を表して
1943年から1945年にかけてナチスの大量虐殺によって
殺害された殉教者に敬意を表して
と碑文が刻まれていると。
実際最初に建設された収容所には400人程の囚人がいたのが、
クラコフの「ゲットー消滅」の後に最初にここに送られたユダヤ人達は
約25000人、その後収容所は5万~15万人を収容できる様に拡張。
約25000人、その後収容所は5万~15万人を収容できる様に拡張。
碑の位置から見える、前の風景。

この碑もこの収容所で殺害された方々への慰霊碑。 上の碑の傍、
少し下の道際に。


こちらはナチスに殺害された警察官の慰霊碑。


たくさんの慰霊碑が緑の木々の中、あちこちに見かけられます。
見る事は出来ませんでしたが、中には証拠隠滅の為に、共同墓地を
掘り返し、再度ユダヤ人の死体を焼いた跡地もあるそう。
掘り返し、再度ユダヤ人の死体を焼いた跡地もあるそう。
そしてこちらが跡地に唯一残る建物というか、収容所分遣隊を
収用する兵舎として使用された、所謂グレイ・ハウスと呼ばれる建物。
収用する兵舎として使用された、所謂グレイ・ハウスと呼ばれる建物。

現在内部は博物館となっており、見学できる、とありましたが、
写真に見える1つだけ扉のある側は、前を通る道の裏側に位置し、
私が行った時は閉まっておりました。
写真に見える1つだけ扉のある側は、前を通る道の裏側に位置し、
私が行った時は閉まっておりました。
地下は拷問室に使われていたそう。
上の地図をもう一度どうぞ。 最初の、南端の高台の記念碑の
右へ斜め上に付けた少し縦長の丸印の位置に、グレイ・ハウス、
で、その右下斜めの横長の丸印の位置に、プワショフ強制収容所の
アーモン・グースの所長宅がありました。 ご説明は下に。
アーモン・グースの所長宅がありました。 ご説明は下に。
5の地図写真。 薄い赤線が見えますか? 赤線内がかっての
収容所跡地で、中にユダヤ人墓地が2つ含まれ、

上でご紹介の石灰石の発掘地が半分含まれています。
現在はポーランドの戦時下博物館、となっているシンドラーの
エナメル工場にあった写真で、
エナメル工場にあった写真で、
上の写真に見える道角の建物が、グレイ・ハウスで、
下の写真は左に続く眺め、で、その広大な敷地がご想像できると。


このグレイハウスの裏側にあたる所に、慰霊碑があり、
サラ・シャニールという、ユダヤ人女子学校の創設に尽くされた方
への様子。
サラ・シャニールという、ユダヤ人女子学校の創設に尽くされた方
への様子。

で、すぐ近くに、上で見て頂いたグレイ・ハウスの位置写真掲示があり、
その側面にあった手が突き出た碑が、・・怖かった私め。
その側面にあった手が突き出た碑が、・・怖かった私め。

飢えと疲労、過酷な労働に苦しみながら、働かされた収容者達。


上の写真右に、女性収容者たちが押している運搬車が、博物館に。

こちらが映画「シンドラーのリスト」に出てくる、隣接の石灰岩採掘場の
様子で、
様子で、

スピルバーグ監督は、この現在は放置されている切り立った崖の中の
盆地、というか、そこに収容所の建物を作り、撮影したのですね。
位置として、まるで関係ない土地ではなく、


この背後左に見える鉄製の塔は、現在も残っている採掘場で、かって
使われていたもので、上の写真の映画シーンにも見えてましたね。
使われていたもので、上の写真の映画シーンにも見えてましたね。

右に、映画の中では収容所所長アーモン・ゲースの所長宅となり、
上の最初の写真の様に、朝テラスから興味半分に囚人たちを撃っていた
場面がありました。

が、実際のアーモン・グースの所長宅があったのはここではなく、
上でご案内の様に、全体の地図の右下の横長の丸印の所で、
上でご案内の様に、全体の地図の右下の横長の丸印の所で、
映画の中の様に家の位置は収容所よりも高くなく、
収容所敷地の一部となるこの辺り一帯に住宅が続き、収容所勤務
将校達の住宅だったのだそう。
将校達の住宅だったのだそう。
アーモン・グースは労働力となるユダヤ人を、意味なく殺戮したり、
所持品を盗んだとして親衛隊に逮捕されたものの、糖尿病を
患っていた事から病院に収容されており、
所持品を盗んだとして親衛隊に逮捕されたものの、糖尿病を
患っていた事から病院に収容されており、

戦後に逮捕され、この跡地で絞首刑に処された事は、
映画の中にも描かれておりました。
映画の中にも描かれておりました。
プワショフの収容所跡訪問は、shinkaiはタクシーで、運転手に
先に英語とポーランド語で依頼の言葉を書いたメモを用意し、頼み、
先に英語とポーランド語で依頼の言葉を書いたメモを用意し、頼み、
ちょうどシンドラーのエナメル工場の見学も予約しており、その前に跡地を
車で回り、その後シンドラーの工場に、と思っていたのですが、
車で回り、その後シンドラーの工場に、と思っていたのですが、
かなりの雨降りの朝となり、タクシーで行って良かった、と思ったのと、
かなり外れた土地で、木々の密集も多く、1人では危険、という
説明もあったので、これで良かった、と思ったのでしたが、
かなり外れた土地で、木々の密集も多く、1人では危険、という
説明もあったので、これで良かった、と思ったのでしたが、
もしお天気だったら、も少し気分的に歩き回って見たい所もあり、
かっての所長宅、というのも見たいとは思っていたものの、
かっての所長宅、というのも見たいとは思っていたものの、
それが偶然にその前の道を通り、逆行きの車とのすれ違いで
止まった時に、
止まった時に、
ふっと横に見え、雨粒の当たった窓で、家にはピントが行かずでしたが、
これです。
これです。

サイト記事で、所長宅の住所を知り、グーグル・マップで見ていたのが
こちらだったので、すぐ、あっ、これだ、と分かったのですが、
こちらだったので、すぐ、あっ、これだ、と分かったのですが、

2018年付けの写真でしたが、その後綺麗に改修され、新しい
持ち主の物となっているのでしょう。
持ち主の物となっているのでしょう。
shinkaiは怖がりなので、こういう因縁のあるお家に住む、と
いうのは、到底、到底・・。
いうのは、到底、到底・・。
地図内で、その上に青い買い物車の印に短い横線を入れたのは、
そこにLidel・リーデル、というドイツ系のスーパーがあり、
すぐ横の道を入るとグレイ・ハウスだ、と自分の見当にしていたのが、
実際に行って見ると、今はもう、その奥横辺りが駐車場となり、
予約済みの車のみの様で、踏切棒が降り、通れなくなっており、
予約済みの車のみの様で、踏切棒が降り、通れなくなっており、
という様な様子で、プワショフの強制労働収容所訪問を終え、
その儘タクシーで、シンドラーの元エナメル工場前まで
運んで貰ったのでした。
その儘タクシーで、シンドラーの元エナメル工場前まで
運んで貰ったのでした。
このプワショフ強制労働収容所は、所長のアーモン・ゲートが
逮捕された1944年9月頃より、ソヴィエト赤軍の接近により
徐々に他の収容所に移送され始め、1944年中にほぼすべてが。
そして1945年1月の最後まで残っていた囚人たちは、
アウシュヴィッツ-ビルケナウ絶滅収容所まで死の行進を。
そして1945年1月11日にソ連赤軍が到着した時には、
プワショフ強制収容所は空になっていたのだそう。
ですが、絶滅収容所ではなかったのにもかかわらず、
ここで殺害されたユダヤ人の数は8000人にも上り、
シンドラーが自分の資金をすべて注ぎ込み、自分の故郷に
連れて行き、援けた人々の数は総勢800人。
如何に尊い数だったかが想像できます。
最後にもう1枚地図をどうぞ。 最初の地図よりも北に当たり、
右に囲ったのが、元シンドラーのエナメル工場で、
右に囲ったのが、元シンドラーのエナメル工場で、
左に薄紫に囲った地区がクラコワのゲットー。

川向うに見えるカジミエール・Kazimierzがユダヤ人居住区であったので、
そこから川を越え、この狭いゲットーに押し込まれたのでしたが、
かっては64000人以上だったユダヤ人が、1941年3月にゲットーに移住させられ、
さらに1942年6月、10月にプワショフに暴力的に強制送還され、
最後1943年3月13日、14日にゲットーの最終的清算、消滅を。
ゲットーの中の縦長〇が、イーグル薬局。 その北に見える広場が
現在「ゲットーの英雄広場」と呼ばれ、
1943年3月のこの広場での多数のユダヤ人殺害を示す、放置された椅子を
シンボルとする広場となっているのですね。
イーグル薬局は、ゲットーの中に1軒だけ残り、
住民たちを援けた、タデウシュ・パンキェヴィッチ・Tadeusz Pankiewicz、
右端の方。

彼はユダヤ人ではなく、他のポーランド人経営の店はどこも閉めたのを、
薬局がないと困るから、とドイツ当局から許可を取り、
薬局がないと困るから、とドイツ当局から許可を取り、
店の店員たちは通って来たのを、彼はここに住まいながら、
様々な医学的救助、また実際にユダヤ人を匿い、逃がす事もしたようで、
様々な医学的救助、また実際にユダヤ人を匿い、逃がす事もしたようで、
ゲットーに住むユダヤ人の知識者、科学者、芸術家たちの集いの場、
ともなった様子。
ともなった様子。
写真も撮って来ていますので、また次回にでも見て頂く事に。
という事で、今回はこれでお終いとさせて頂きますね。
n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html
n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
アウシュヴィッツの女性オーケストラ
ヘドヴィヒ・ヘンデル、 ルドルフ・ヘス-アウシュヴィッツ収容所長の妻 と、映画「ゾーン・オブ・インタレスト」
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」
https://www.italiashiho.site/article/500516785.html
https://www.italiashiho.site/article/500516785.html
*****
7月25日から30日迄 大阪の igu_m_art・イグエムアートで、
広島からの絵の友人ミノヨシコさんと2人展を開催させて頂きます。
広島からの絵の友人ミノヨシコさんと2人展を開催させて頂きます。


2人とも乗りがよく、二人展しない? OK. テーマは猫でどう? OK.
という感じで即話が成立したのでしたが、はは。
という感じで即話が成立したのでしたが、はは。
2人が、わぁお、素敵!と喜んだDMも出来、お互いの作品傾向が
違う、面白い二人展になるかも、という空気ですが、
さて、どの様な会場となりますか、
どうぞお時間を取ってお出かけ下さる様、よろしくお願い申し上げます。
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来週までには、各作品の様子なども纏めて、ご案内致します。
今週は少々困憊気味で、お許しを!
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