・ プワショフ強制労働収容所の、跡地とその周辺 ・ ポーランド・クワコフ

昨年6月にポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする
ナチスの残虐な足跡を尋ね、

また一方ではレオナルド・ダ・ヴィンチのかの「白貂を抱く貴婦人」
に初めておめもじ、という旅行をし、

その後もあれこれしばしば思い出し、また調べという様なこの1年で、

今回はそのままになっていた、クラコフ市の南東に残るプワショフの
強制収容所跡、その周辺のあれこれも纏めてご紹介したく、ここに。


こちらは収容所跡の小高い場所にある記念碑

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収容所跡のいわば一番高い位置、南端にあり、道、店舗、住宅を
見下ろす形で。


こちら地図をどうぞ。 クラコワ市中心は左上端に見える川向うの
北西寄りに。

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中央に見える北に抜ける道の東、囲った場所に、シンドラーの工場
があり、

このシンドラーの記事は、クラコワ訪問前のもの。
オスカー・シンドラーと、映画「シンドラーのリスト」
https://www.italiashiho.site/article/499564686.html



地図中央近くに道路、鉄道が交差しての左下の緑地が、大まかに
かってのプワショフ強制労働収容所跡地で、
この碑の位置は、一番下の真ん中の丸の位置に。


左上に長い赤線を引いた所が、中世からの石灰岩の採石場で、
19世紀後半から大きな規模で石灰岩の火口を行う会社を、
クラコワ出身のユダヤ人起業家ベルナール・リバン・Bernard Liban
が設立しており、

後に別の名となった企業が、第2次大戦中のドイツ占領迄運営され、
1942年にドイツ当局により接収され、
ここに建設労働者の為の収容所を建設したのだそう。

shinkaiはこれらを、かなりの数の写真も掲載されたサイト記事
CAVA DEL LIBANO Cracovia misteriosa
https://tajemniczy-krakow.blogspot.com/2019/07/kamienioom-liban.html
を見つけて知り、

スティーヴン・スピルバーグ監督の名画「シンドラーのリスト」の中に
登場の数々の場面がここで撮影されていた事も確認しました。

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まず、この記念碑と共に、少し収容所の跡地の様子をご覧下さいね。
碑の正面、「引き裂かれた心の記念碑」と呼ばれているそう。

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1964年に建設されたもので、背面には
  1943年から1945年にかけてナチスの大量虐殺によって
  殺害された殉教者に敬意を表して
と碑文が刻まれていると。


実際最初に建設された収容所には400人程の囚人がいたのが、
クラコフの「ゲットー消滅」の後に最初にここに送られたユダヤ人達は
約25000人、その後収容所は5万~15万人を収容できる様に拡張。


碑の位置から見える、前の風景。

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この碑もこの収容所で殺害された方々への慰霊碑。 上の碑の傍、
少し下の道際に。

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こちらはナチスに殺害された警察官の慰霊碑。 

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たくさんの慰霊碑が緑の木々の中、あちこちに見かけられます。

見る事は出来ませんでしたが、中には証拠隠滅の為に、共同墓地を
掘り返し、再度ユダヤ人の死体を焼いた跡地もあるそう。


そしてこちらが跡地に唯一残る建物というか、収容所分遣隊を
収用する兵舎として使用された、所謂グレイ・ハウスと呼ばれる建物。

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現在内部は博物館となっており、見学できる、とありましたが、
写真に見える1つだけ扉のある側は、前を通る道の裏側に位置し、
私が行った時は閉まっておりました。
地下は拷問室に使われていたそう。


上の地図をもう一度どうぞ。  最初の、南端の高台の記念碑の
右へ斜め上に付けた少し縦長の丸印の位置に、グレイ・ハウス


で、その右下斜めの横長の丸印の位置に、プワショフ強制収容所の
アーモン・グースの所長宅がありました。 ご説明は下に。


5の地図写真。 薄い赤線が見えますか? 赤線内がかっての
収容所跡地で、中にユダヤ人墓地が2つ含まれ、

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上でご紹介の石灰石の発掘地が半分含まれています。


現在はポーランドの戦時下博物館、となっているシンドラーの
エナメル工場にあった写真で、

上の写真に見える道角の建物が、グレイ・ハウスで、
下の写真は左に続く眺め、で、その広大な敷地がご想像できると。

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このグレイハウスの裏側にあたる所に、慰霊碑があり、
サラ・シャニールという、ユダヤ人女子学校の創設に尽くされた方
への様子。

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で、すぐ近くに、上で見て頂いたグレイ・ハウスの位置写真掲示があり、
その側面にあった手が突き出た碑が、・・怖かった私め。

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飢えと疲労、過酷な労働に苦しみながら、働かされた収容者達。

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上の写真右に、女性収容者たちが押している運搬車が、博物館に。

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こちらが映画「シンドラーのリスト」に出てくる、隣接の石灰岩採掘場の
様子で、

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スピルバーグ監督は、この現在は放置されている切り立った崖の中の
盆地、というか、そこに収容所の建物を作り、撮影したのですね。

位置として、まるで関係ない土地ではなく、

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この背後左に見える鉄製の塔は、現在も残っている採掘場で、かって
使われていたもので、上の写真の映画シーンにも見えてましたね。

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右に、映画の中では収容所所長アーモン・ゲースの所長宅となり、


上の最初の写真の様に、朝テラスから興味半分に囚人たちを撃っていた
場面がありました。

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が、実際のアーモン・グースの所長宅があったのはここではなく、
上でご案内の様に、全体の地図の右下の横長の丸印の所で、

映画の中の様に家の位置は収容所よりも高くなく、


収容所敷地の一部となるこの辺り一帯に住宅が続き、収容所勤務
将校達の住宅だったのだそう。


アーモン・グースは労働力となるユダヤ人を、意味なく殺戮したり、
所持品を盗んだとして親衛隊に逮捕されたものの、糖尿病を
患っていた事から病院に収容されており、

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戦後に逮捕され、この跡地で絞首刑に処された事は、
映画の中にも描かれておりました。


邸宅位置を知ったのは、クラコフのプワショフ強制収容所訪問ガイドサイトで
Visita il campo di concentramento di Plaszow a Cracovia


プワショフの収容所跡訪問は、shinkaiはタクシーで、運転手に
先に英語とポーランド語で依頼の言葉を書いたメモを用意し、頼み、

ちょうどシンドラーのエナメル工場の見学も予約しており、その前に跡地を
車で回り、その後シンドラーの工場に、と思っていたのですが、

かなりの雨降りの朝となり、タクシーで行って良かった、と思ったのと、
かなり外れた土地で、木々の密集も多く、1人では危険、という
説明もあったので、これで良かった、と思ったのでしたが、

もしお天気だったら、も少し気分的に歩き回って見たい所もあり、
かっての所長宅、というのも見たいとは思っていたものの、

それが偶然にその前の道を通り、逆行きの車とのすれ違いで
止まった時に、

ふっと横に見え、雨粒の当たった窓で、家にはピントが行かずでしたが、
これです。

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サイト記事で、所長宅の住所を知り、グーグル・マップで見ていたのが
こちらだったので、すぐ、あっ、これだ、と分かったのですが、

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2018年付けの写真でしたが、その後綺麗に改修され、新しい
持ち主の物となっているのでしょう。

shinkaiは怖がりなので、こういう因縁のあるお家に住む、と
いうのは、到底、到底・・。


地図内で、その上に青い買い物車の印に短い横線を入れたのは、
そこにLidel・リーデル、というドイツ系のスーパーがあり、

すぐ横の道を入るとグレイ・ハウスだ、と自分の見当にしていたのが、
実際に行って見ると、今はもう、その奥横辺りが駐車場となり、
予約済みの車のみの様で、踏切棒が降り、通れなくなっており、

という様な様子で、プワショフの強制労働収容所訪問を終え、
その儘タクシーで、シンドラーの元エナメル工場前まで
運んで貰ったのでした。



このプワショフ強制労働収容所は、所長のアーモン・ゲートが
逮捕された1944年9月頃より、ソヴィエト赤軍の接近により
徐々に他の収容所に移送され始め、1944年中にほぼすべてが。

そして1945年1月の最後まで残っていた囚人たちは、
アウシュヴィッツ-ビルケナウ絶滅収容所まで死の行進を。

そして1945年1月11日にソ連赤軍が到着した時には、
プワショフ強制収容所は空になっていたのだそう。

ですが、絶滅収容所ではなかったのにもかかわらず、
ここで殺害されたユダヤ人の数は8000人にも上り、

シンドラーが自分の資金をすべて注ぎ込み、自分の故郷に
連れて行き、援けた人々の数は総勢800人。

如何に尊い数だったかが想像できます。



最後にもう1枚地図をどうぞ。 最初の地図よりも北に当たり、
右に囲ったのが、元シンドラーのエナメル工場で、
左に薄紫に囲った地区がクラコワのゲットー。

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川向うに見えるカジミエール・Kazimierzがユダヤ人居住区であったので、
そこから川を越え、この狭いゲットーに押し込まれたのでしたが、

かっては64000人以上だったユダヤ人が、1941年3月にゲットーに移住させられ、
さらに1942年6月、10月にプワショフに暴力的に強制送還され、

最後1943年3月13日、14日にゲットーの最終的清算、消滅を。


ゲットーの中の縦長〇が、イーグル薬局。 その北に見える広場が
現在「ゲットーの英雄広場」と呼ばれ、

1943年3月のこの広場での多数のユダヤ人殺害を示す、放置された椅子
シンボルとする広場となっているのですね。



イーグル薬局は、ゲットーの中に1軒だけ残り、

住民たちを援けた、タデウシュ・パンキェヴィッチ・Tadeusz Pankiewicz、
右端の方。

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彼はユダヤ人ではなく、他のポーランド人経営の店はどこも閉めたのを、
薬局がないと困るから、とドイツ当局から許可を取り、

店の店員たちは通って来たのを、彼はここに住まいながら、
様々な医学的救助、また実際にユダヤ人を匿い、逃がす事もしたようで、

ゲットーに住むユダヤ人の知識者、科学者、芸術家たちの集いの場、
ともなった様子。

写真も撮って来ていますので、また次回にでも見て頂く事に。



という事で、今回はこれでお終いとさせて頂きますね。

n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html

n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産

アウシュヴィッツの女性オーケストラ

ヘドヴィヒ・ヘンデル、 ルドルフ・ヘス-アウシュヴィッツ収容所長の妻 と、映画「ゾーン・オブ・インタレスト」

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「白貂を抱く貴婦人」
https://www.italiashiho.site/article/500516785.html


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7月25日から30日迄 大阪の igu_m_art・イグエムアートで、
広島からの絵の友人ミノヨシコさんと2人展を開催させて頂きます。

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2人とも乗りがよく、二人展しない? OK. テーマは猫でどう? OK.
という感じで即話が成立したのでしたが、はは。


2人が、わぁお、素敵!と喜んだDMも出来、お互いの作品傾向が
違う、面白い二人展になるかも、という空気ですが、
さて、どの様な会場となりますか、

どうぞお時間を取ってお出かけ下さる様、よろしくお願い申し上げます


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来週までには、各作品の様子なども纏めて、ご案内致します。
今週は少々困憊気味で、お許しを!


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