・ 大阪城 見学   回顧の想い遥かに   「追記」

皆様、いつも当ブログご訪問有難うございます!

この夏以来、新しい事を始めたい為に下準備に掛かっており、
来春の東京での個展を控えてもおり、ブログの継続が難しく、
暫くお休みを頂きたいと思います。

また様子をお知らせ致しますので、
どうぞよろしくお願い致します。

*****


この夏の大阪行きの想い出、天神祭りも思いがけず楽しませて
頂いたのでしたが、これは行かなければ!と思っていたのが、
はい、大阪城だったのでした。

まず、大阪城の見学地図をどうぞ。

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現在残る外周の堀は、勿論外堀ではなく、かっての内堀で、
豊臣時代には、現在残るこの姿の約倍の広さがあったそうで。

そして長野で生まれ育った私めには、松代の城=真田の城、
真田十勇士、六文銭、そして時代をさかのぼる、川中島の一戦、
等などで育ち、心の奥深くにしまわれておりまして、はい。

そんな私めに大きな衝撃だったのは、トゥレヴィーゾに出かけた時、
駅から町中に入った所で見た大阪城のポスターで、

ずっと天守閣などの姿はほぼ頭になかったのが、こんな形で、

1-2-castle-view-from-mid-tower-s_GF.jpg

この写真の天守閣を囲む、2周目の堀から奥のビル群を切りとって、と
御想像を!


つまりこんな格好で、かなり上からの、ビルに囲まれぴょんと
飛び出た天守閣のポスターをみて、即大阪城と分かり、

1-3-09-10 153238_GF.jpg

おいたわしや!!という感情にも似たのがふつふつと・・。

この2枚の写真はサイトからの拝借で、下はウィキペディアからと。


そして後年同じポスターを、なんとトゥレヴィーゾの移民管理局の
事務所でも!

一度も行った事が無かった大阪城がそれ以来、いつか!と思いの底にあり、
今回は、やっと行くチャンス、が巡って来て、

暑い夏の大阪、大阪夏の陣ではありませんが、はは、出かけて来ました。


上の大阪城の地図の左下に近い位置に赤く見える大手門前から。

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橋を渡り、右手奥に見えるのが大手門。 
朝10時前だったのに、もう帰りの方がかなりおられ・・。

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堀を囲み、あちらもこちらも高いビル、ビル!

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堀に沈む石組みのキリっとした角、と水面下に偲ばれる角度。

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大手門前の写真は忘れ、入って後に裏側を。 これも暑さのせい?!

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大手門を入った所はこんな長方形の広場になっており、

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その正面に、物凄い大きな石が! 枡形・ますがた、というそうで、
この石は城内第4位の大きさで!約29畳敷。

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でこちら左手のが、第5位で約23畳敷、なんだそうで!

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いずれも砕石地は瀬戸内海の小豆島、と推定されているそうで。
諸大名たちは大変だったでしょうねぇ!!


そして左手に見える多門櫓の門。

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角に見えた櫓の勾配。

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この後、ぐるっと回り込みながら、本丸を囲む空堀を見つつ、

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今見える奥の勾配の坂が、本丸に入る桜門への坂。


そして、桜門。  奥にまた大きな石が見え・・。

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これです。 これが蛸石と呼ばれる花崗岩で、城内第一の大きさ、
36畳敷 重量約108トン。

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で、この横の左右にも大きな石が使われており、大手門の石と共に、
これらの石は豊臣時代ではなく、徳川幕府による再築工事の際に
用いられたものだそうで。



本丸地区に入って来て眺める天守閣。 

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コンクリート造りの城、なんぞと悪口を言われますが、そうとしても、
やはり見事な、大きな素晴らしい心意気を示す装飾ではありませんか?!


殆ど天守閣の手前まで来て、東側の堀に出る道に。

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かってはここに月見櫓があったのだそうで、月見の名の由来は
着見、であったろうとの札が。


ここの眺めは、多分上と同じ位置から東南を見たものと。

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そしていよいよ入場券を買い、天守のすぐ下に!

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エレベーターで3階まで上がり、後は歩いて階段を。 戻りも同様に。


天守の4面の壁左右に、描かれた鶴。 かなりの盛り上がりがあり、
表面を透明板で覆われているので、本金で描いているもののと!

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しゃちほこ。 周囲に金網が張られ、オートで撮ると鯱がボケ・・。

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南側。 見える広場が桜門から入って来た本丸の広場で、左端に
切れて写っている濃茶のビルは、確かかっての大坂鎮守府、でしたっけ。

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こちらは北側と。 船着き場があり、船で堀を遊覧できるとか。

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西南方向と。 どこもかしこも、高い大きなモダンなビルばかり、
と田舎者が・・。

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天守の中はあれこれ展示物があり、やはりなんといっても「大坂夏の陣」!
旗印、徳川方は右上で25大名、左下は豊臣方13、赤旗が真田陣。

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大坂夏の陣を描いた大きな金屏風があり、その一番中心で向かい合う
右が松平忠直陣、彼は家康の孫、左の赤旗が見えるのが、真田幸村陣。

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その下に、人型、今頃はフィギュア、とかいうのでしょ? が並べられ、
こちらは真田幸村の陣、

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そしてその息子、真田大助。 

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確か15歳ほど、最後は父の命で豊臣秀頼の警護を命じられ、
そして自刃という、哀れさ。 


フィギュアを見ながら、真田勢を探していましたら、隣に来た
お母さんと小学生くらいの息子さん2人が、なんと松代から、と
言われ、その奇遇に驚きましたっけ。 


大坂の冬の陣 1614年11月、 そして夏の陣 1615年5月、と
関ケ原の戦い1600年以後の、あっという間の豊臣勢の凋落。

そして軍勢数約半分の、ほぼ大名参加なしの浪人勢の集まりで、
統制が取れていなかったと言われますが、

やはり豊臣勢の党首となる秀頼の実力が数段家康に劣っていたものと。

冬の陣の後の講和条件で外堀を埋めさせ、籠城説を取るなど、
秀吉が聞いたら、お墓の中で情けなくて泣いたろうなぁ、と。


上の「大坂夏の陣図屏風」は、自らも参戦した黒田長政が当時の一流の
絵師を集めて描かせた大作で、重要文化財、通称「黒田屏風」。
現在大阪天守閣に所蔵、というので、

実際に見たのが、実作だったのですね。 もっとしっかり見るのだったぁ!

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この作品についてのヴィデオが流れ、各部各部の解説がとても良く、
ずっと全部眺めながら聞いたのでしたが、

勝ちに乗った徳川勢の雑兵どもが、大阪城下の民衆に襲い掛かったり、
略奪を計ったり、身ぐるみ剥がしたり、川を渡って逃げる民衆を
待ち構え、銃口を向いけたり、女性を手籠めにしたり・・!

大作の細部がアップされ、その解説を聞くと、まさに、まさにで、
大戦、そして敗戦となると、本当に悲惨さを引き起こしますね。


この「夏の陣図屏風」は、
でかなり大きめにダウンロードできますので、細部をご覧になれると。


こちらは、天守閣に見えた虎、 カッコいいねぇ!

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派風の菊紋、銅板打ち出し金箔2度押し、という造りだそうで、
この菊紋は直径90cm、厚さ5,5cmと。

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となると、上の虎も、やはり同様の造りなのでしょうね。


しゃちほこの鯱、というのは、ずっと鯱という魚がいるのかと
思っていましたがぁぁ、

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顔がライオン、そして魚の尾、という想像上の怪魚なんだそうで!
そう言われてみると、そうね、顔はライオン君ですねぇ。


という事で、降りて来た所でおなごりに。

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処々に、太閤様がお造りになられた時の豪華絢爛たる装飾を蘇らせ、

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やっぱりなぁ、日本のお城は美しく華麗で、素晴らしいなぁ!!
日本の美学の粋だもんね!!

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と、満足して戻ったのでした。


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posted by shinkai at 03:08Comment(0)・欄外

・ 大阪 北浜の適塾跡 と 中の島の夜景

大坂での二人展の際のホテル選びをしていた時、早く予約した方が
空きも、値段も良さそうと思い、

条件の合うホテルを地図上で探し、中の島の南側の
相鉄フレッサイン淀屋橋 を見つけ、予約しました。

そしてその後地図上で、友人の言う筆・紙屋の位置を探したり、
中の島美術館などの位置を確かめていた時に、

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えっ、と思ったのが、ホテルから少し南を通る筋に「適塾跡」という文字。
適塾、って、あの緒方洪庵の?! と確かめると、確かに。

上の地図は中の島辺り、淀屋橋の位置も分かる程に、と少し広く
とったので、字が見えにくくなりましたが、ピンクの線に掛かる四角が
ホテルの位置で、
左側の筋の角に赤丸を付けたのが適塾の見える角。



こんな感じの角なのです。 背後にも見える高いビルに囲まれ、
まさにビル街になっているのですが、

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この一郭に残る江戸末期の建物がそうで、左端に見える
赤い円錐コーンが入り口。



角からこんな感じに近づき、こんな感じに通り抜けれる様に。

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ここの管理は、適塾が後の大阪大学の前身となった事から、
現在も大阪大学が管理をされているとの事。



細長く、左の建物と右側の木々、隣の建物との間が通路、
通り抜け道となっており、

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左に見える羽目板風の建物、焼杉かな、と思う壁の建物、
2階建てと。

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それを過ぎた所に、緒方洪庵師の銅像があり、その奥に連なる建物、
その屋根上の洗濯物干し場も、如何にもの生活風景を醸します。

6-DSC03145_01_GF.jpg

現在、中の様子などはどの様にしたら拝見できるのか、ダメなのか、
調べておりませんが、

洪庵師の像の少し右の壁に板戸の、多分通用口だったろうと
思われるのが見えるので、
かっては塾の生徒や、御出入り商人達はここから出入りしたのだろうと。


かなり大きな建物類の様ですが、このも少し南には「蔵」も見え、
緒方洪庵師なる人はどんな方だったのか、元々大家の出だったのだろうか、
などとも考え、初めて彼について、適塾についても読んで見ました。

備中国足守藩、山陽道に面した岡山辺りになるのでしょうか、が一時
領土の殆どを陸奥の国、東北の福島、宮城、岩手、そして青森、秋田の
一部に移され、藩庁を足守陣屋、岡山市の足守に置いた、との説明で、

なんとまぁ、当時の藩内の連絡など、どの様に?!と余分な方に驚き!

関ケ原の戦後で、それ以後もあれこれと問題起こった様で・・、
で、足守藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵が出ている、でお終い!



緒方洪庵師の像 1810-1863

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という事で、1810年生まれの足守藩士、8歳の時に天然痘に。
15歳の時大阪蔵屋敷の留守居役となった父と大阪に出て、
翌年私塾に入門、緒方三平と名乗り、以後は緒方を名字とし、

4年間蘭学、特に医学を学び、1831年江戸に出て学び、
1836年には長崎に遊学し、オランダ人医師ニーマンの下で医学を学び、
このころから洪庵と号を。


1838年大阪に戻り、現大阪市中央区河原町で医業を開業、
同時に蘭学塾(適塾)を開き、同年結婚、後6男7女をもうける。

その後洪庵の名声が高くなり、門下生も日々増え、塾が手狭となり、
北浜の商家を購入し、適塾を移転させたものと。
で、現在残るこの適塾に住まわれ、医業と共に教えていたのですね。


1849年に京都に行き、長崎出島のオランダ人医師モーニッケが
輸入し、京都に伝わっていた痘苗を得、
大坂の現中央区道修町に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による
切痘を始め、

その後、牛になる、等の迷信とも戦い、もぐりの牛痘種痘法者の問題に
対しても、江戸幕府に対し、「除痘館」のみを国家後任の唯一とする様、
関東から九州まで186か所の分苗所を維持しつつ天然痘予防の為に
奔走し、遂に1858年に幕府公認、免許制となったのだそうで。

その後除痘館を適塾南の、現大阪中央区今橋に移転。


武士の子ではあっても、虚弱体質であったようで医師を目指し、
当時使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだそうで、

功績を認められ、幕府の奥医師兼西洋医学初頭取となり、どうやら
心配していた健康を損ない、
1863年に54歳の若さで急死。



適塾からは、福沢諭吉を始め、幕末から明治維新にかけて活躍した
多くの人材を輩出、という、

人柄は温厚で、人を怒った事がない、という方だったそうで、学習態度
には大変厳格ではあったものの、笑顔で教え諭し、逆に塾生を
緊張させたと。


姓名録に残る門下生の数は636名。 上記した様に実子も多く、
その後の経緯を見ると、医学会に広がる素晴らしい家系に驚く程で、

実際に、この適塾跡の細い道を抜けた所には、「緒方クリニック」なる
ビルも見え、医学界に長く広く道を残されている事に驚きでした。



これが表から続いていた屋敷の南端で、蔵も見え、向こうの建物
との間に見える板塀も、多分適塾の部分ではないかと。

8-DSC03148_01_GF.jpg



反対側の塀の続きは写真の様に細い路地となり、伝わって行くと、
やはり広い通りに出るのですが、

9-DSC03149_01_GF.jpg

奥に見える日本家屋らしきもの、最初の十字の角で見えた通りの
こちらも大きな建物で、なんだろうかと・・。


彼の5男にあたる緒方惟直氏、1853-1878 は、早くから
フランス語を学ばれ、1875年にイタリアに渡り、日本語教師をされ、
フランス語で教えられていたと!

イタリア女性と結婚し、女の子も生まれたものの、かなり生活に困窮、
25歳でヴェネツィアで亡くなっておられ、


かなり以前になりますが、サン・ミケーレ島のお墓参りをした事があり、
その事から「適塾」と知った時にとても驚き、

洪庵師の銅像の前で、「以前御子息の惟直氏のお墓参りを致しました。
次回のチャンスがありましたら、御父上の事をお伝えいたします」と、
礼を正し、申し上げずにはおれませんでした。


・ ヴェネツィア ・ ムラーノ島、サン・ミケーレ島


最後にこの着物姿の方は、福沢諭吉殿。 お札に残る、よく見る姿とは
違っているので、お目にかけますね。

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1862年、幕府の慶応使節団の1人として出かけた時の、
パリのフランス国立自然史博物館で撮影したものだそうで。 27歳。



という所で、画廊への行き帰りに通った中の島の夜の眺めを。

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北側の流れで、奥に見えるのが大江橋、撮っているのは鉾流橋から。
はい、天神祭りの始まりに神鉾を流す、と言う名の由来を思い出しました。

右側に見えるのは、阪神高速。 帰りの関空に向かう時にここを通り、
見下ろした眺めが、本当に美しく、懐かしく思い出されます。



東向き。左側に続くのが、阪神高速で、正面で南向きのカーヴに。

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橋を渡って来ての、中の島の中央公会堂。 素晴らしく美しく重厚な建物!

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中の島の南側。

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そして見える、泊まっていた相鉄フレッサイン・ホテル。 高い黒い
ビルの左側の低い小さなビル、一番上にネオンが見える所に。

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朝食が品数も多く美味しく、泊まってから朝食代込みと知り、イェイ!


栴檀木橋上から淀屋橋に向かい。 なんとまぁ、いつの間に、こんなに高い
大きなビルばっかりになったんだろう?!

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その代わり夜景では見えませんが、並木がある所では物凄い蝉の大合唱!!
本当に驚くほどの力強い蝉の大合唱に、元気だなぁ、もう!!

という、様子でしたぁ。


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