皆様、いつも当ブログご訪問有難うございます!
この夏以来、新しい事を始めたい為に下準備に掛かっており、
来春の東京での個展を控えてもおり、ブログの継続が難しく、
暫くお休みを頂きたいと思います。
来春の東京での個展を控えてもおり、ブログの継続が難しく、
暫くお休みを頂きたいと思います。
また様子をお知らせ致しますので、
どうぞよろしくお願い致します。
どうぞよろしくお願い致します。
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この夏の大阪行きの想い出、天神祭りも思いがけず楽しませて
頂いたのでしたが、これは行かなければ!と思っていたのが、
はい、大阪城だったのでした。
頂いたのでしたが、これは行かなければ!と思っていたのが、
はい、大阪城だったのでした。
まず、大阪城の見学地図をどうぞ。
現在残る外周の堀は、勿論外堀ではなく、かっての内堀で、
豊臣時代には、現在残るこの姿の約倍の広さがあったそうで。
豊臣時代には、現在残るこの姿の約倍の広さがあったそうで。
そして長野で生まれ育った私めには、松代の城=真田の城、
真田十勇士、六文銭、そして時代をさかのぼる、川中島の一戦、
等などで育ち、心の奥深くにしまわれておりまして、はい。
真田十勇士、六文銭、そして時代をさかのぼる、川中島の一戦、
等などで育ち、心の奥深くにしまわれておりまして、はい。
そんな私めに大きな衝撃だったのは、トゥレヴィーゾに出かけた時、
駅から町中に入った所で見た大阪城のポスターで、
駅から町中に入った所で見た大阪城のポスターで、
ずっと天守閣などの姿はほぼ頭になかったのが、こんな形で、
この写真の天守閣を囲む、2周目の堀から奥のビル群を切りとって、と
御想像を!
御想像を!
つまりこんな格好で、かなり上からの、ビルに囲まれぴょんと
飛び出た天守閣のポスターをみて、即大阪城と分かり、
おいたわしや!!という感情にも似たのがふつふつと・・。
この2枚の写真はサイトからの拝借で、下はウィキペディアからと。
そして後年同じポスターを、なんとトゥレヴィーゾの移民管理局の
事務所でも!
一度も行った事が無かった大阪城がそれ以来、いつか!と思いの底にあり、
今回は、やっと行くチャンス、が巡って来て、
今回は、やっと行くチャンス、が巡って来て、
暑い夏の大阪、大阪夏の陣ではありませんが、はは、出かけて来ました。
上の大阪城の地図の左下に近い位置に赤く見える大手門前から。
橋を渡り、右手奥に見えるのが大手門。
朝10時前だったのに、もう帰りの方がかなりおられ・・。
朝10時前だったのに、もう帰りの方がかなりおられ・・。
堀を囲み、あちらもこちらも高いビル、ビル!
堀に沈む石組みのキリっとした角、と水面下に偲ばれる角度。
大手門前の写真は忘れ、入って後に裏側を。 これも暑さのせい?!
大手門を入った所はこんな長方形の広場になっており、
その正面に、物凄い大きな石が! 枡形・ますがた、というそうで、
この石は城内第4位の大きさで!約29畳敷。
この石は城内第4位の大きさで!約29畳敷。
でこちら左手のが、第5位で約23畳敷、なんだそうで!
いずれも砕石地は瀬戸内海の小豆島、と推定されているそうで。
諸大名たちは大変だったでしょうねぇ!!
諸大名たちは大変だったでしょうねぇ!!
そして左手に見える多門櫓の門。
角に見えた櫓の勾配。
この後、ぐるっと回り込みながら、本丸を囲む空堀を見つつ、
今見える奥の勾配の坂が、本丸に入る桜門への坂。
そして、桜門。 奥にまた大きな石が見え・・。
これです。 これが蛸石と呼ばれる花崗岩で、城内第一の大きさ、
36畳敷 重量約108トン。
で、この横の左右にも大きな石が使われており、大手門の石と共に、
これらの石は豊臣時代ではなく、徳川幕府による再築工事の際に
用いられたものだそうで。
これらの石は豊臣時代ではなく、徳川幕府による再築工事の際に
用いられたものだそうで。
本丸地区に入って来て眺める天守閣。
コンクリート造りの城、なんぞと悪口を言われますが、そうとしても、
やはり見事な、大きな素晴らしい心意気を示す装飾ではありませんか?!
やはり見事な、大きな素晴らしい心意気を示す装飾ではありませんか?!
殆ど天守閣の手前まで来て、東側の堀に出る道に。
かってはここに月見櫓があったのだそうで、月見の名の由来は
着見、であったろうとの札が。
ここの眺めは、多分上と同じ位置から東南を見たものと。
そしていよいよ入場券を買い、天守のすぐ下に!
エレベーターで3階まで上がり、後は歩いて階段を。 戻りも同様に。
天守の4面の壁左右に、描かれた鶴。 かなりの盛り上がりがあり、
表面を透明板で覆われているので、本金で描いているもののと!
表面を透明板で覆われているので、本金で描いているもののと!
しゃちほこ。 周囲に金網が張られ、オートで撮ると鯱がボケ・・。
南側。 見える広場が桜門から入って来た本丸の広場で、左端に
切れて写っている濃茶のビルは、確かかっての大坂鎮守府、でしたっけ。
切れて写っている濃茶のビルは、確かかっての大坂鎮守府、でしたっけ。
こちらは北側と。 船着き場があり、船で堀を遊覧できるとか。
西南方向と。 どこもかしこも、高い大きなモダンなビルばかり、
と田舎者が・・。
と田舎者が・・。
天守の中はあれこれ展示物があり、やはりなんといっても「大坂夏の陣」!
旗印、徳川方は右上で25大名、左下は豊臣方13、赤旗が真田陣。
大坂夏の陣を描いた大きな金屏風があり、その一番中心で向かい合う
右が松平忠直陣、彼は家康の孫、左の赤旗が見えるのが、真田幸村陣。
その下に、人型、今頃はフィギュア、とかいうのでしょ? が並べられ、
こちらは真田幸村の陣、
そしてその息子、真田大助。
確か15歳ほど、最後は父の命で豊臣秀頼の警護を命じられ、
そして自刃という、哀れさ。
フィギュアを見ながら、真田勢を探していましたら、隣に来た
お母さんと小学生くらいの息子さん2人が、なんと松代から、と
言われ、その奇遇に驚きましたっけ。
大坂の冬の陣 1614年11月、 そして夏の陣 1615年5月、と
関ケ原の戦い1600年以後の、あっという間の豊臣勢の凋落。
そして軍勢数約半分の、ほぼ大名参加なしの浪人勢の集まりで、
統制が取れていなかったと言われますが、
統制が取れていなかったと言われますが、
やはり豊臣勢の党首となる秀頼の実力が数段家康に劣っていたものと。
冬の陣の後の講和条件で外堀を埋めさせ、籠城説を取るなど、
秀吉が聞いたら、お墓の中で情けなくて泣いたろうなぁ、と。
秀吉が聞いたら、お墓の中で情けなくて泣いたろうなぁ、と。
上の「大坂夏の陣図屏風」は、自らも参戦した黒田長政が当時の一流の
絵師を集めて描かせた大作で、重要文化財、通称「黒田屏風」。
現在大阪天守閣に所蔵、というので、
実際に見たのが、実作だったのですね。 もっとしっかり見るのだったぁ!
この作品についてのヴィデオが流れ、各部各部の解説がとても良く、
ずっと全部眺めながら聞いたのでしたが、
ずっと全部眺めながら聞いたのでしたが、
勝ちに乗った徳川勢の雑兵どもが、大阪城下の民衆に襲い掛かったり、
略奪を計ったり、身ぐるみ剥がしたり、川を渡って逃げる民衆を
略奪を計ったり、身ぐるみ剥がしたり、川を渡って逃げる民衆を
待ち構え、銃口を向いけたり、女性を手籠めにしたり・・!
大作の細部がアップされ、その解説を聞くと、まさに、まさにで、
大戦、そして敗戦となると、本当に悲惨さを引き起こしますね。
大戦、そして敗戦となると、本当に悲惨さを引き起こしますね。
こちらは、天守閣に見えた虎、 カッコいいねぇ!
派風の菊紋、銅板打ち出し金箔2度押し、という造りだそうで、
この菊紋は直径90cm、厚さ5,5cmと。
この菊紋は直径90cm、厚さ5,5cmと。
となると、上の虎も、やはり同様の造りなのでしょうね。
しゃちほこの鯱、というのは、ずっと鯱という魚がいるのかと
思っていましたがぁぁ、
顔がライオン、そして魚の尾、という想像上の怪魚なんだそうで!
そう言われてみると、そうね、顔はライオン君ですねぇ。
という事で、降りて来た所でおなごりに。
処々に、太閤様がお造りになられた時の豪華絢爛たる装飾を蘇らせ、
やっぱりなぁ、日本のお城は美しく華麗で、素晴らしいなぁ!!
日本の美学の粋だもんね!!
日本の美学の粋だもんね!!
と、満足して戻ったのでした。
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