ヴェローナのご案内が続きますが、今回は3度に分けて
カステルヴェッキオ・Castelvecchio・現在博物館になっている
14世紀からの城と、城内を通りアディジェ河を北に渡る
3連アーチの美しい橋、のご案内を。
トップは、18世紀のヴェネツィアの画家ベルナルド・べロット・
Bernardo Bellottoの描いたカステルヴェッキオと橋の眺め。
河に張り出した漁のためと見られる突堤や小屋以外、
城と橋の眺めは現在とまるで変わりません。
ベルナルド・ベロットと聞くとご存じないかも知れませんが、
ヴェネツィア風景で有名なカナレット・Canaletto
という画家はご存知でしょう?
カナレットの本名はジョヴァンニ・アントニオ・カナル(1697-1768)といい、
彼の妹がベルナルドの母親で、つまり甥になります。
よく似た作風で描いていますが、北ヨーロッパでの活躍が多かった様で、
最後はポーランドのワルシャワで亡くなっています。
カステルヴェッキオはどこにあるかの地図は、
先回のサンタナスターシャ教会ご案内にありますので、そちらをご覧に。
城城壁の正面全体が写っている写真が見つからず、サイトから拝借し、
アディジェ河がヴェローナの旧市街の出っ張り部分を
大きく湾曲して包み込む、
その西の端にある14世紀建設のカステルヴェッキオの正面。
ご覧のように高い塔が3つあり、真ん中の塔が現在の博物館への
正面入口で跳ね橋が見え、これは手前右の塔にも名残が見えますが、
かってはアディジェ河から水が引き込まれた堀が城をめぐり、
各塔の下にある門はすべて跳ね橋があったそう。
が、堀は現在すべて空堀、または埋められています。
奥に見える塔には時計が見え、その通りに時計塔と。
塔の間を繋ぐ城壁の上は物見の通路となっていて、
上にはメルレット・レースと呼ばれる飾り兼銃眼、狭間付きの壁。
こちらが正面の塔と跳ね橋で、
この門の扉と、
門の内側にあった井戸。
今回は先に橋の様子をご覧頂くので、また表に出て頂き、はは、
こちらが時計塔。
カステルヴェッキオは現在ヴェローナ市の博物館となっていて、
その切符に城と橋の上空写真があり、分かりやすいのでご覧を。
先程の真ん中正面の塔は、一番東の塔よりも細く見えますが
幅があり、跳ね橋を渡って中に入っての様子もお分かりですね。
中庭は大内庭・コルティーレ・マッジョーレ、または武器の広場・
コルテ・ダルミと呼ばれ、
見える河寄りの建物が現在の博物館で、
正面白く見える壁の部分に図書館や事務室、
で、この建物角部分、アディジェ河寄りにもう一つの塔。
そして正面側の3つの塔の手前(下側)に、高い城壁に囲まれた通路、
ここが橋に至る城内を通る通路で、
左側、河の手前に見える高い大きな塔、これがマスティオ・主塔と
呼ばれる塔ですが、この横を抜けて橋に連絡します。
この写真では切れて見えませんが、正面の塔のつながりの一番下に、
もう一つ低めの塔があり、ここから斜め下左に城壁が伸び、
この部分の城壁は2重になっており、その内側、つまり
主塔の手前に見える建物類、ここがかってのスカーラ家の城郭だった
レッジャ・スカリージェラと呼ばれる一郭。
所でこの写真に見える現在の城は、築かれた当時、
そして18世紀後期までとは違う姿なのですね。
というのもこの平面図をどうぞ。
これは1801年の城の平面図で、2のスカラ家の城郭部分、
3の主塔部分は同じですが、1のコルテ・ダルミと呼ばれる
右の広場の河よりの部分、現在の博物館棟がありません。
ここは実はナポレオン軍が統治時代に、兵舎として建て増しを
した部分で、ナポレオン棟と呼ばれることもありますが、
土手や砲台がヴェネツィア共和国時代にも築かれた事はあったものの、
ずっとアディジェ河に向かって開けていたようです。
ですから、正面側の入口の門から入って見える姿は随分違って、
兵士や兵舎が多分並んだ、殺風景な要塞城の姿だったことでしょう。
さて、橋に行きましょうか。
時計塔の左下に橋への通路口があり、入り口からの眺めは
こんな様子で、奥に見えるのが主塔の下部分。
右側の城壁は内庭との境の壁ですが小さな通路口があり、
上空からの写真で見えたスカーラ家の城館部分との境の城壁は、
左の内側に高く見える城壁です。
ここが主塔の横を通り橋に抜ける部分で、奥に橋が。
抜けてきた正面を振り返り、
見える塔が正面城壁の一番西端の低い塔。
緩やかな上り坂の通路左側、主塔の内庭部分は一段低く、
こんな井戸も見え、
大砲の弾というか、弩砲の石の球!も積んであるのが見え、
これは主塔の窓、テラスで、左奥にちらっと見える壁が
スカーラ家の城郭だった壁の一部。
かっての城の様子を見て頂いた所で、ちょっぴりこの街と城の歴史を。
ですが、長い歴史の変遷を持つ街と城ですので、ほんの要約を。
現在のヴェローナは、ミラノとヴェネツィアを結ぶ幹線上の一都市、
に近い存在になっていますが、
かってのヴェローナは、アディジェ河に沿って北に向かい、
アルプスを越え北ヨーロッパの国々とを連絡する
通商交易で重要な街道の基点地であり、
先史時代からすでに集落があり、紀元前のローマ期には
現在の旧市街地区がきちんと整理された都市であり、
ローマ期の主街道の交差点でもあり、
テアトロやアレーナも現在に残っているのは、よくご存知と。
そして中世に入り自由都市となり、ロンゴバルドの下、
また封建領主の影響も受け、
13世紀に頭角を現しヴェローナの領主となったのがスカーラ家・
Scalaで、1262年から1387年にかけての125年間、
この街を支配したのでした。
スカーラ家の要塞城として建設されたこの城は、1298年から
形となり始め、かっての自由都市時代からの城壁も利用し、
最終的に完成したのが1354年。
建設を任されたのはグリエルモ・ベーヴィラックワ・
Guglielmo Bevilacquaという名が上がり、
同時にアディジェ河に掛かる橋の建設も。
城と一体になっているこの橋は、
万一の際の北への逃亡にも備えたものであり、
スカラ家の居城でもあり都市要塞でもあるこの城が、
更に主塔マスティオの建設を加え、南西側が少し引っ張られた、
全体として大きな台形の城が完成したのが1376年。
ヴェローナの君主としてのスカラ家の時代の後、
1404年この街はヴェネツィア共和国の下に。
その下での平和の時代が4世紀ほど続き、
この城は兵舎、武器庫などなどに利用され、
その後ナポレオン統治の下に、
上記したようにアディジェ河の眺めを塞ぐ長い棟が出来、
現在の姿になります。
さて、アディジェ河に掛かる橋に戻りまして、
橋の上はこんな様子で、観光客のみでなく、地元の人々の
生活の通路でもあり、自転車も通り抜けて行きます!
橋の上から振り返る主塔。
この主塔は、カステルヴェッキオの歴史の中の変遷とともに
変化を遂げ、ヴェネツィア共和国時代には東側の面に、
大きなサン・マルコのライオン像のフレスコ画があったそうですし、
ナポレオン軍が駐留していた時代には、
上部を削られ低くされた事もあったそうで、
その後に占領したオーストリア軍により元の姿に。
塔の中ほどでレンガの色が違って見えますね。
多分あの高さにされたのだろうと・・!
で、一体どれほどの高さがあるのかと調べましたが見つからず、
かなり意地になりましたが、ははは、遂に見つからず!!
まぁ、教会の鐘楼程度かなと思いますが・・。
今、買い物袋を下げた地元の人も通って行きます。
この橋を渡って真っ直ぐ行くと、アレーナの前のブラ広場に出ますし、
地元の人々には北と南を繋ぐ便利な橋なのですね。
橋から見る現博物館の建物、ナポレオン軍が兵舎として
建て増しした部分の裏側で、
一番上階は見張り兵士の通り道になっており、
カップルがアディジェ河を見下ろし・・。
橋から眺める街の東側。 見える橋はポンテ・ヴィットーリア、
右の鐘楼はサンテウフェーミア教会・Sant'Eufemiaで、
左奥がドゥオーモの鐘楼。
アディジェ河はトレントの奥、アルプスから流れ全長約410km。
イタリアでの最長の河ポー(652km)より少し北でアドリア海に注ぎますが、
ここヴェローナでもとうとうと流れ河幅も広く、
城から掛かる橋の長さは119,9mもあるそう。
所で、スカリージェロ・Scaligelo(複はリ・li)という言葉も
ガイドブックによく出ますが、
ポンテ・スカリージェロ、カステッロ・スカリージェロなどなどですが、
スカリージェロというのは、スカラ家の、という形容詞。
shinkaiはややこしくならぬよう、なるべく使わず、
スカラ家とご説明していますので、ご了承願います。
この部分は橋から張り出す、アーチの基礎部分の上にあり、
この尖った3角形は上流側に向かった部分で、下流側は四角形。
かっては物見兵士の通路だった道も、
今は観光客の格好の撮影ポイントで、ははは、大賑わいですね。
ローマ兵士の格好をした、撮影お供のモデル氏もいますです。
橋を渡りきっての北からの眺め。
橋の北の袂にある、ローマ期のものだったと思う碑。
可哀想に落書きされ!
以前説明を読んだ記憶があるのですが、今回見つからずで・・。
所でこの橋は、グーグルのストリート・ヴューで渡れます!
しかも白バイ2台を先導にですから、ははは、ぜひお試しを!!
という所で、この回をお終いにし、
次回に博物館内部のご案内を。
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