ヴェローナのカステルヴェッキオのご案内 その2を続けます。
さて、橋を渡って戻り、博物館の見学に。
この棟がナポレオン軍支配当時に増築された兵舎で、
その後中世風に修復されたもの。
上の写真の左下に見える遺構ですが、
これも多分アディジェ河の水を引き込んだ堀の一部と。
博物館の建物の左端、2階部分に見える騎馬像は、
スカラ家の一番隆盛を極めた領主カングランデ像・Cangrande.
昔博物館に入らずに庭からこの像を眺め、本当に憧れたものでした、はぁ。
今回は中からじっくりカングランデの顔も、
お馬君の顔も眺めることが出来ましたので、次回のご案内で。
城壁の飾りが映る博物館の窓。
多分これは東側、事務所図書館側の窓と。
前庭の山羊かな、を形どった小さな泉と、
奥が博物館入口。
ほっと一息の、前庭に咲いていた鮮やかな花。
入り口脇にあった碑。 どこから来たのか、
日時計のようでもあり、飾りの碑のようでもあり・・。
かっての城の一部と兵舎を利用して博物館にする大改修は、
1958年から1974年にかけて行われ、
監修はカルロ・スカルパ・Carlo Scarpa。
すっきりと見やすい30室ほどの陳列室で、彫像、絵画、武器、
貴金属などなど、見きれないほどの収蔵品の博物館となっています。
日本の建築美に傾倒した著名な設計家カルロ・スカルパの
有名作品の一つ、トンバ・ブリオンのご案内は
博物館に入り左側、1階は彫像の展示でローマ期から始まり、
そしてshinkaiの大好きな中世。 気に入った女性像のみを数点
ご紹介しますと、
まずは輪のサンタ・カテリーナ。
アレキサンドリア(エジプト)の聖女カテリーナ(287-305)を指し、
その美しさから王に仕えるよう、改宗するよう説得されるのを受け付けず、
刃のついた車輪で拷問死刑を受けるものの車輪が壊れ、
遂には斬首に、という聖女です。
昔から写真で見て憧れていたこの背中!
男性的でもあるこの存在感!
初めて正面からお目にかかりましたが、
音楽の守護聖人サンタ・チェチーリアかな?
こちらも背中ですが、はは、渋く素晴らしい緑の彩色で、
何という事! 今回写真を整理していて気が付きましたが、
前面から撮っておりませんで・・、バカがぁ!!
きっとこちらの素晴らしく優しい雰囲気の聖女像に
先に目が行ったのでしょう。
優しい目つき、ふっくらの頬、口元、細かい衣装の彫り、
素晴らしい!!
サンタ・リベーラ・Libera像、サンタナスターシャ教会のマエストロ達の作で
あろうと云うことで、14世紀半ばの作品と。
という所で、博物館のご案内はいったん止め、
城の中から連絡して北のアディジェ河を渡る橋について
ちょっとお話をさせて下さいね。
上の写真はグーグルの衛生地図から切り取ったもので、
橋の3連アーチの位置がよく分かると思い・・。
ちょうどアディジェ河が街中に来て大きく蛇行する位置に城と橋があり、
河のほぼ真ん中に、最初の城からの長いアーチの橋脚があり、
後の距離をほぼ半分にして、もう一つのアーチがかかります。
つまり、同じ幅のアーチではないのですね。
こちらをどうぞ。
横からその差がよく見える写真をサイトで見つけまして、
橋の全長119,9m、城側の一番長いアーチ部分が48,69mで、
あとのは29,15mと、24mと。
城から最初のアーチの頂上部分まで少し上り坂で、
そこから緩やかな下り坂で北に渡ります。
説明には、ヴェローナの中世において一番大胆で見事な作品であると。
確かに、アーチ下部を支える白い石と上の赤い煉瓦の色の対比も鮮やかで、
城の防御の一部としての造りも頑丈な、見事な橋!
建設は城と同じグリエルモ・ベーヴィラックワの名が上がり、
1354年から56年にかけ、城が完成した後に引き続いての事と見られ、
万が一に備えての、北への逃亡路でもあったと。
こうして5世紀を無傷で経た橋は、北側にあった塔と橋の上のレース飾りが、
主塔の上を削られたと同じようにフランス軍に寄って削られ、
その後のオーストリア軍占領時に再建設された事もあったのですが、
が一番大きな損害は、
1945年4月24日、撤退するドイツ軍によって爆破された事!
これはこの橋のみならず、アディジェ河に掛かる街のすべての橋が
爆破されたのだそうで、
ドゥオーモの北東にあるローマ期のピエトラ橋も爆破されたのでした。
戦争終了後即、街の他の重要な記念物、橋共に再建が決められ、
上の写真で見るように、
大爆破にも関わらず基礎の大事な部分が残っているのを幸いに、
新しく全部掛け替えるのではなく、その部分を修復して掛ける事に決定。
最初の仕事が始まったのは1945年末で、まさに戦後数ヶ月、
河床の残骸を除くことから始まり、
1949年から新しい無傷の切石がオリジナルと同じ場所に
置かれ始めたのだそう。
これは幸いに爆破前にされた測量と写真があったのが役立ったといい、
おまけに石の色彩研究から、中世の石切場のどこから
この橋の石が切り出されたのかも突き止めることが出来、
つまりヴァルポリチェッラ・Valpolicellaのサン・ジョルジョ・
San Giorgio一帯の石であるのもわかったのだそう。
ヴェローナの有名なワインにヴァルポリチェッラ、同名の赤ワインがありますが、
同じくヴェローナの赤い大理石の産地でもあるのですね。
ヴェローナの北西、山地に掛かる一帯で、サン・ジョルジョはそのやや南西に。
こうして新しく赤いヴェローナの石が切り出され、橋の下部に使われ、
一方煉瓦は、粘土があちこちのもので大きさも不揃い、
各地で焼かれている事から、解体された建物から新しい煉瓦を取り出し、
またヴェローナやマントヴァの違う煉瓦工場から取り寄せたそうで、
こうして無事に架替工事が終了したのが1951年7月20日の事。
爆破された当時の写真からも見えるように、
アーチの基礎は5角系で、上流側は尖った形に張り出し、
3連のアーチの広さも様々の、長さ120m,幅6mを越す、
アディジェ河の水の流れもよく研究された、
中世14世紀の橋がこうして蘇ったのでした。
修復や建設工事の際の様々な研究努力を読むと、つい興奮し、
何とか皆さんにもお伝えしたいと、ははは、お分かり下さいますよねぇ?!
とこの城が「カステルヴェッキオ・古い城」と呼ばれる所以ですが、
この城の後アディジェ河を挟んだ北の山手側にサン・フェリーチェ・
San Felice とサン・ピエトロ・San Pietro(現考古学博物館)が
築かれて後、古い城・ヴェッキオと呼ばれることになったと。
そしてもう一つお断りですが、
先回スカラ家と書いておりましたが、Scalaの発音はスカーラですので、
やはりスカーラ家と書くのが正しいと思い、
先回の分から訂正させて頂きましたので、よろしくご了承願います。
さて、博物館内見学に戻って頂きまして、
1階の彫像展示室から出て、
スカーラ家の居城だった一郭の展示室に移動する際、
上階の角に展示のカングランデ像が見え・・。
スカラ家の居城であった部分にも展示室がある事も頭になく、
順路に従い自然に移動したのでしたが、
今になって知ってみると、この奥が城郭部分だったのでしょうねぇ!
もっとしっかり見ておくんでしたぁ!!
宝石類を使った装飾品があり、美しいと思ったのを数点写しましたが、
ピンぼけご容赦!
首飾り、ベルト、ブローチでしょうか。 美しい貴族の品々!
とにかく展示品の数が多く、ぱっと見に良いな!と
思った物だけ撮っていて、
これは旧約聖書の絵解きですね。
スカーラ家の城郭部の展示室は、
こんな風に部屋の形も真四角でないのがあり、
天井下にはスカーラ家の紋章、梯子・イタリア語でスカーラ、と
両脇には立ち上がった犬の紋章が描かれ、
その下は装飾柄のフレスコ画で埋まります。
なぜ紋章に犬なのか、またなぜ一族にカングランデ・大きな犬とか、
マスティーノ・マスティフ犬などの名があるのか、
ずっと疑問だったのですが、
現在では時に余り良い意味を持たない「犬」も、
中世においては「犬」には良い意味があり、価値とか賞賛を示し、
スカーラ家がかってトルコ系の軍の長であるKhanと縁戚になったとか、
カングランデが生まれる前に、
母親は犬の唸り声の中で犬が生まれる夢を見たという伝承もあり、
とりわけカングランデの偉大さが知られて後は、
家系と犬を結びつけたのであろうという事。
カングランデについては、後ほど騎馬像の所で改めてご説明しますが、
ここでスカーラ家についてちょっとご案内させて下さいね。
最初の記録にスカーラ家が登場するのが1180年。
布、織物商アルドゥイーノ・デッラ・スカーラ・Arduino della Scala
が南の方から移って来たように申告があり、
その息子ジャコミーノ・Giacomino またはヤコピーノ・Jacopino
毛織物商、彼が後に続くヴェローナの君主の始祖と見做されます。
ヤコピーノの息子マスティーノ1世・Mastinoは特別の金持ちでもなく、
貴族の称号も持っておりませんでしたが、
残虐で知られるエッツェリーノ3世・ダ・ロマーノの占領から逃れて
間もないヴェローナ市民に受け入れられやすい平和志向の男で、
大変に政治的にも優秀であった弟のアルベルト・Albertoとともに、
当時の街の政治を動かしていた富裕な羊毛組合の中で自然に長となり、
特別な闘争なしに、
マスティーノが1262年にヴェローナの君主となり、1277年まで。
ついで弟のアルベルトが、1277年-1301年まで、
3代目はアルベルトの息子バルトロメーオ・Bartolomeoが1301-1304年
4代はアルベルトの息子、バルトロメーオの弟
アルボイーノ・Alboino1304-1311年
そして5代目がスカーラ家の一番の繁栄期、絶頂を迎えた
カングランデ1308-1329年という事になります。
という所で、今回のご案内を終え、次回その3に。
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