ヴェローナのカステルヴェッキオのご案内 その3を続けます。
こちらはナポレオン棟の展示室で、長い展示室が続き。
この黄金背景の綺羅びやかな絵、ピサネッロと思いますが、
天使たちが飛び交う花園の中の聖母子像は、
多分スカーラ家の城郭部の方にあったのとは思いますが・・、
これはベッリーニでしょうか?
マンテーニャの作品ですが、かなり工房の弟子の手が・・。
この「落書きを見せる少年像」は気に入って撮ったのではなく、ははは、
当時でも、こういうのもありだったんだなぁ、と思って撮ったのでしたが、
何と3年後の2015年11月19日夕方、閉館近くの博物館に入った
強盗が盗み去った17点の中に含まれており・・!
2016年12月23日に無事戻りましたが、
作品はコレクションする人間の希望にそって選ばれたと見られれる、
というのを読み、
う~ん、私ならこういうのは要らないなぁ、ははは、失礼!と思うものが多く、
もっと良いのが他にいっぱいあるじゃぁないの!!と・・。 きゃはは。
とは言え、このルーベンスも持ち去られた内の一作品で、
ええ、これはねぇ、素晴らしい作品ですねぇ!
こちらはマティルデ・ディ・カノッサ・Matilde di Canossa
(1046-1115)の肖像画。
「カノッサの屈辱」事件で有名なカノッサ城を所領に持つ、トスカーナ女伯
と言っても、書いている本人shinkaiにもあまりピンときませんが、ははは、
彼女の遺骸がかってあった(現在はヴァティカンに)という
マントヴァの南にあるサン・ベネデット・ポーという町の大修道院
を訪問した時この絵(の複製)を見ていたので、
あれ、実物はここにあったんだと少し驚き・・。
収蔵展示品は他にも見くたびれるほどあり、余り写真を撮っておらず、
上からの眺めなども見て頂きたいので、これでお終いとしまして、
これは展示室から見える橋の眺め。
そして、お待ち兼ねの「カングランデ騎馬像」
鎖帷子を付け、翼を持つ犬がついた兜は後ろに撥ね、
にっこり笑った笑顔!
愛馬も頭部は主人と同じ兜、ダマスコ織りの踝まで届く盛装をし、
それが一陣の風にひらめいている、という素晴らしい騎馬像!
多分右手には鞘の剣を持っていたと見られ、これは平和を示し、
笑顔には温情が見られると。
この像は元は彼のお墓、スカーラ家墓所・アルケ・スカリージェレの
横にある彼の棺所の上にあったのだそうですが、
現在墓所にあるのはコピーだそう。
カングランデという名を持つ人物はスカーラ家に2人おりまして、
こちらがスカーラ家一番の隆盛を築き、
盛名高かったカングランデ1世(1291-1329)
洗礼名はカン・フレンチェスコ・Can Francescoだったようですが、
彼の幼少からの目覚ましい成長を認めての通称が
カングランデ・大きなカンとなったと。
勢力争いの激しかったヴェローナで、敵方からも
1年後にはイタリア王になるだろう、と言われ、
スカーラ家に招かれ身を寄せていたダンテも賛美を惜しまなかったと。
頭脳明晰、武力に秀で、雄弁快活、謙虚な信心深さももち、
芸術にも関心を持ち、
一旦決めたことにはためらいなく、鉄の意志を持って向かう、という
まさに君主になるべくして生まれた人物。
皇帝フェデリコ2世と縁戚の父を持つジョヴァンナ・ディ・ズヴェーヴィア・
Giovanna di Sveviaが、ドイツにまだ見ぬ夫との結婚に向かう途中、
スカーラ家の当時の当主バルトロメーオ1世の妻となっていた
姉のコスタンツァの元に逗まった時、
彼女を見たカングランデは一目惚れし17世で結婚!
彼女の方が11歳ほども年上だった様ですが・・。
ですが、この結婚からは嫡子を得ず、
カングランデの8人の子供はすべて庶子(男子4名)!
そして彼は38歳の夏7月22日トゥレヴィーゾに於いて突然の死を。
トゥレヴィーゾの政情不安のため乗り出し攻略に成功、
町に入ったのが18日で、司教館に滞在しますが、
4日後の22日の朝司教館の部屋で、
健康に問題なかった壮健盛りの突然の死を迎えます。
トゥレヴィーゾに向かう途中、湧き水の冷たい水をガブ飲みしたのが
原因と見られ、ほんの少し毒殺の声もあったものの、
近年まで自然死と見做されていたのでした。
が、2004年に墓所から遺骸を取り出しての科学的検査が開始、
遂にジギタリス(和名キツネノテブクロ)による毒殺と判明!
ジギタリスはピンクの筒型が集まった美しい花で、
心不全の薬として現在も用いられているそうですが、意図して
適量を越すと毒薬にもなり、まさにこれが原因だったと判明。
多分彼の侍医によるものと見られますが、
この医者は後に絞首されたそう。
誰もが予想しなかった一代の英雄の死が起こったのでしたが、
彼の嫡子はなく、甥のアルベルト2世がスカーラ家の当主となり、
その次代は彼の弟マスティーノ2世と続き、
こうして徐々にスカーラ家は衰退の道を辿り始めます。
この素晴らしい衣装は、棺の中のカングランデが纏っていた
絹の高級織物を再現したものだそうで、
生前の身長は175cmほど、髪は明るい栗色、顔は長く、
下顎がひときわ出っ張っていた特徴ある顔だったと、
2004年の検査が明らかにしています。
カステルヴェッキオから北西にある、
サン・ゼーノ聖堂の後陣に描かれた人物像の内、
ひときわ出っ張った顎を持ち高官にある人物の衣服を付けたのが、
多分彼を描いたものであろうと。
城の見学順路には、かっての物見兵士たちのパトロール道も含まれ、
ここはナポレオン棟のアディジェ河を見下ろす通路。
昔、これによく似た通路を通った記憶が・・!
向こう側の岸で記念撮影中のカップルも見え、
この高さから橋が見え、向こうに見える鐘楼はサン・ゼーノ聖堂。
ローマ兵士も、ははは、休憩中なのが見え、
これは主塔の横に出てきた辺りからの眺めで、
橋の上、そして鳩でいっぱいのナポレオン棟の屋根の上。
物見パトロール道は、この後写真の右に見える城壁、
橋に続く城内の通りの右横のコルテ・ダルミとの境の
城壁の上も通ることが出来、
こんな様子のパトロール路で、
時計塔の中に入り、
展示のマスティーノ2世・MastinoII(1329-1351)の騎馬像。
カングランデ騎馬像と同じような作りなのですが、
やはり少し及ばずの感がありますねぇ。
マスティーノ2世の時代に一旦所領はぐんと大きくなるのですが、
フィレンツェと組んだヴェネツィアと戦う羽目になり、結局領土は
ヴェローナとヴィチェンツアのみになり、スカーラ家の勢力は徐々に下り坂。
カングランデ2世(執政1351~、カンシニョーリオ、パオロ・アルボイーノ、
バルトロメーオ2世、アントーニオと、1387年まで君主制が続きますが、
スカーラ家のレジーナ・Reginaと結婚していたベルナボ・ヴィスコンティ
・Bernabò Viscontiがパドヴァ、フェッラーラ、マントヴァと組み、
妻の財産相続を口実の攻略を始め、
ヴェローナは激しい戦いを乗り切り独立を守るものの、
これによりアントーニオ・デッラ・スカーラは引退し、
125年間12代に及ぶスカーラ家の王朝は終わりを告げたのでした。
時計塔の横には小さい芝生があり、夏の暑い時にホッと。
こちらが初回の最初に見て頂いた城の正面側の城壁で、
向こうに広がるのがヴェローナの旧市街地。
時計塔を出て街に接した城壁の上を歩き、いや、パトロールし、はは、
こんな現代の街中の喧騒も見、
・・次にはあの2階建てバスに乗って回ろうとか計画し、ははは、
博物館入口に戻って、見学はお終いです。
3度に渡っての長いお付き合い、有難うございましたぁ!!
最後はサイトから拝借の、橋の夜景を。
ほぼ6世紀に渡っての変遷を生き残り、
今も見事な中世の城塞を見せてくれるカステルヴェッキオ。
いやぁ、やはり見事なものでした!!
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