
今回のご案内はローマから南に110kmほど、
車で1時間半程の距離にある
テッラチーナ・Terracinaのご案内を。
昨年春の南ラツィオの旅行では、ここの浜辺沿いの
リゾート・ホテルを基地にしてあちこちに出かけましたが、
テッラチーナの旧市街見学は最終日になっていたのですね。
で5月の煌めくような朝早く、浜辺のホテルを後にし、
一路こんなアッピア街道を模したような道を行きます。
これは通りすがりに見えた町のローマ門。
ご丁寧にS.P.Q.Tと!
S.P.Q.Rだと「元老院とローマの人民」となるので、
どうやら「テッラチーナの人民」の意味を込めている様で、
シャレというか、どこか親父ギャグみたいで、ははは。

ですが我々は一旦町を通り過ぎ、町外れの山上にある
ジュピター・アンクール寺院の遺跡見学に先に行きます。
これが港から見上げたジュピター・アンクール寺院・
Tempio di Giove Anxur。
そうです、この高さに大きな寺院があったのですね。

ですが寺院遺跡のご案内は苦手の上長くなりすぎますので、
写真で様子を見て頂けるよう、
水彩ブログの方に載せましたので見てやって下さい。
街の様子の地図をどうぞ。
街全体としては海辺沿いに細長く西に続きますが、
ジュピター寺院の位置と旧市街、色がほんの少し濃い
囲った部分が旧市街。

テッラチーナと近くの街の関係地図は

現在のテッラチーナの街の人口は4万6千人程。
これは小高い位置にある旧市街部分以外の、
下の街と呼ばれる部分の方が大きいと思うのですが、
バスで山の上のジュピター寺院を見に行く時に、
かっての町の城壁が良く見えました。

テッラチーナは紀元前6世紀末に既にローマの勢力圏にあり、
その後ウォルスキ族の下にもあったのが、再度ローマ人に、
という様子が繰り返された後、
紀元前312年にアッピア街道が通り、ローマ期が続きます。
ビザンティンの時代を経て8世紀から9世紀は教皇領になり、
中世にも、このローマに近いこの町は様々な変遷を経り、
町の繁栄も衰退も何度もあった様子で、
16世紀にはマラリアの蔓延で、
町の人口はわずか150名にもなった事もあった様ですが、
近代となり干拓事業も進み、新道路もつき、
観光地として栄えている様子。
さてジュピター寺院の見学から町に戻り、
城壁の外でバスを降り、ガイドさんに連れられ細い道を下り、
ローマ遺跡の中を通りますが、

位置としては、今見える鐘楼が現在の中心広場にある
聖堂サン・チェザレーオ・San Cesareoで、
正面の建物類は18世紀に増改築された聖堂部分。
カピトリウム・Capitolium(ジュピター神殿のある聖地の意)
と呼ばれるローマ遺跡群は、
後にご覧頂く中心広場の北東、という事になります。
まず驚いたのがこの美しい壁!!
斜め格子状に石を組むのはポンペイ遺跡でも、
スペルロンガのティベリオの遺跡でも見ていますが、
ここのは凝灰岩の茶と石灰岩で格子柄に。


脇はこんな形で高台になっていて、角に、

角にこの円柱が1本残ります。

狭い場所でして、
すぐ脇にはこんな風に家が立て込んでいて・・。

上の壁は、正面に回るとこの様に2重になっており、
かっての仕切壁だったのが分かるのですが、

ここには、現在の聖堂に含まれた形になった大寺院
とは別の小寺院があったのだそうで、これらはその遺跡で、
つまりこの小寺院の中は3つに別れ、それぞれに
ジュピター、ジュノー、ミネルヴァの3神が祀られていたと。
上の写真にも見える、
奥の家の壁に残る色付きの部分にご注目を。

屋根の形が分かるので、かってあった建物の壁を利用して、
後に建て増しをされていた事も分かりますが、
これが神殿を隠していたのだそう。
実はこの一帯、第2次大戦時の爆撃で家々が被害を受け、
それでかってのローマ遺跡が明らかになったのだそう・・!
右手に見えるアーチの上にも、かっての壁跡が見えますし、
我らは今回見なかったのですが、
中央奥に見える小アーチの上に小路が見えますね、
あれを左奥に行くと・・・、
こんなテアトロ・劇場跡が4分の一程も見え、
これも爆撃で明らかになったのだそう!
他の部分は上に家々が立て込んでいるのだそうですが、
近年の研究で分かったのは、
劇場の直径が約72m、4000人ほどの観客収納数と。

脇道の角の家の上階の柱、これも明らかに神殿の柱を
リサイクル利用していて、
ここはどうやら現在の聖堂の一部の様子!

これは何だろ? 浴槽?

遺跡につきものの猫ちゃん。 少し痩せぎすね。

旧市街の中心広場、ローマ期のフォーロ・エミリアーノ・
Foro Emiliano、
塔は聖堂の鐘楼と同じ時代12,3世紀、同じ高さ、
とあるのですが探しても高さは見つからず、
塔はフルメンターリア・frumentariaというので、穀物倉と。

塔の右手のモダンな建物と奥側ともに市役所だそうですが、
ついでに塔の横階段の様子も見て頂き、

古い側の市役所の壁もご覧下さいね。
はい、かってのこの建物の壁も、2色の格子壁だった様!

広場の西を占める聖堂サン・チェザレーオ・San Cesareo.
元々あったローマ期の大寺院を含み、大きくなり高台に。

聖堂の右の建物は、13世紀のパラッツォ・ヴェンディッティ・
Vendittiで、
元々は市役所だったそうで、下に見えるアーチをくぐると、
先に見て頂いたローマ遺跡に連絡し、
このアーチの下をかってのアッピア街道が通っていたのですね。
鐘楼、12~3世紀。 こちらも2色使いの素晴らしいもので、
上階に行くごとに窓の幅が広くなりますが、
これは重量を減らす工夫だったそう。

装飾にはめ込まれた色付きの丸い鉢のようなもの、
お分かりでしょうか?
彩りを添えますが、修復の際に取り替えられたものだそう。
同じ彩色陶器を使う工夫がポンポーザの修道院にも。
元々の教会はローマ期の寺院があった上に建てられた
9世紀のものだそうですが、
聖別は11世紀、鐘楼ともに内部の修復も12~3世紀と。
教会前ロッジャ部分の、モザイクによる装飾は現在右側に
しか残っておらず、何のモチーフか明らかではないそうですが、
最初の十字軍遠征であろうかと・・。

軒下の装飾部分。
人物像は、玉座に座る人物で、その右が猿のようで・・!

入口前の円柱、下の飾り部分。
背を向けて座っている人物とライオンというのですが、
残念ながら破損部分が大きく。

こちらは良く分かるライオン像。

こちらのサイトに、聖堂装飾の詳細写真が。
という所で、次回のご案内に。
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