・ 古きロンゴバルド教会と、 ティツィアーノの家始末記  N.1

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  1週間前の快晴の午後のひと時、近くのカッペッラ・マッジョーレ
  ・Cappella Maggiore の町外れにある「ロンゴバルド教会」の
  見学会に出かけてきました。

  この教会があるのは既に20年ほど前から知っていましたが、
  殆ど放置された状態で閉じており内部が見れなかったのが、
  今回参加しているグループでの見学があるというので喜んで!

  ロンゴバルド時代の教会というと、この近くではフリウリ州の
  チヴィダーレの教会がとても美しくて有名ですし、期待して。
       




  カッペッラ・マッジョーレの町の中心はこんな感じですが、高台にあり、
  ここから更に奥高地の田舎への上り口、という感じの小さな町で、

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  訪問した教会は、左下に伸びる道を行き、坂を下った平野部に。





  車で動くようになってからは余り通らない道なので、
  すっかり整備修復されていたのも初めて知り!

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  これはトップで見て頂いた道端の標識を入ってきて、南側からの眺め、
  教会周囲もきちんと整備され、洗われた壁の白さがとても美しく。

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  扉は正面と脇に2か所、窓も正面扉上に一つ、南側壁に2つ、
  張り出した小さな聖具室部に一つ、そしてこの写真では見えませんが、
  内陣部の南に一つ。 が建物の東、北には一つもありません。





  脇扉の上に TRINO ET UNI と彫り込みが見え、三位一体の意、
  教会が奉納された正式名「サンティッシマ・トゥリニタ・Santissima Trinità」
  を示します。

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  最初に出た「ロンゴバルド教会」の名が一般に知られていると思いますが、
  その他にも「マッタレッラ教会・Mattarella」とも呼ばれていて、
  マッタレッラというのは、この土地の古い持ち主の名前からと。





  教会前にあった掲示板で、一番上の平面図に見える白い線が
  現在の教会の形で、緑の線がロンゴバルド時代にあった小さな教会。
   
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  つまり8世紀から9世紀建設とみられる古い小さな教会を内に含み、
  14~15世紀に大きく拡張されたのが現在の教会、という訳。

  ピンクの線は壁画のある部分で、南に張り出している聖具室部分は
  17世紀のもの、教会上に見える小さな鐘楼もその時のものと。





  皆がぼちぼちと車に分乗して集まり、神父さんが来られ扉を開け、
  最初に扉の中に頭を突っ込み覗いたshinkaiが見たのがこれ!

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  もちろん神父さんに「写真を撮っても良いですか?」と尋ね、
  OKを頂いておりますです。

  正面の「最後の晩餐図」の左脇、上、右にも少し見える石の跡、
  これがロンゴバルド時代の小さな教会跡の壁なのです。
  きっと高さも低かった事でしょう!





  この壁画は蛮族-ビザンティン様式11世紀のもの、6x3mの大きさ
  から、最初の教会の大きさが分かりますね。

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  銀貨の入った袋を握ったユダはテーブルのこちら側に小さく光輪なしで、
  キリストにべったりと寄りかかる使徒ヨハネ、
  その肩越しにユダにパンを与えるキリスト。
      
  長いテーブルの上にはワインもパンも、木の実のような小さい丸いもの、
  果物かな、細長いものも見えますね。

      
  上に「蛮族-ビザンティン様式・barbarico-bizantino」と書きましたが、
  ここで蛮族というのは北から来た民であるロンゴバルド族を指します。
       
  イタリア語では北からの侵入民族をバールバロ・barbaroと言いますが、
  その語源は、何をバルバルしゃべっているのか分からない、から来ている
  という説明が、昔大いに勉強になった小学生向け図鑑に書いてあり・・!
  ほら、日本語で、ベラベラしゃべりやがって、というのと同じです、ははは。





  皆が入り込まないうちにと、大急ぎで撮っていきますが、
  上の「最後の晩餐図」以外は、時代が下り15世紀のもので、
  画家の名も判明、というのは、殆ど絵の下に書き入れがあるのです。
       
  隣の「ザクロの聖母子像」 アントネッロ・ダ・セッラヴァッレ作
  近隣ヴィットリオ・ヴェネトの画家で、聖母子の左足元に膝まづくのが寄進者。
    
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  いつもこういう訪問の際のガイド役、ソリゴン・Soligonという
  グループの講師・元学校の先生が到着し、皆も席に着き説明が始まると、
  入り口の扉を閉めたため暗くなり、それもあり、
  今回の写真はイマイチよく見えないをご容赦願います。       
  フレスコ画自体が損傷し、傍で見ても細部がはっきり見えないのも多いのですが・・。

  全体の様子と、内陣後陣の全体像。

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  「磔刑図」はベルガモ出身のアントニオ・ザーゴ・Antonio Zagoの作で、
  他にもう一人アントニオ・グネール?・Gnerという画家の名も。





  正面脇左下には聖母子像と、上に受胎告知の天使像。

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  聖母子像の顔細部が教会のパンフレットに載っていて、これです。
  達者な筆さばきでしょう?

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  同画面の下部にはこんな風な、右に切れて眠る女性の顔半分と、
  白い犬がいて・・、ちょっと判じ物風。
  講師ソリゴンによると、白い犬は彼女の処女性を示す、といい・・。

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  上部「受胎告知」の天使。 横割れの衣装から脚を大胆に見せた天使が
  口に百合の花を咥えて、というちょっと変わった構図で、はは、

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  右脇、下の絵はかなり薄れていますが、上部の「受胎告知」のマリア側。

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  写真が良くなくて、申し訳ないです!

  聖母は謙虚に描かれているのですが、左上の天使の目つきとか、
  聖母の右奥の天使の顔もちょっと変わっており、
  左の戸棚の中も、いかにも家庭内の戸棚の静物画の様で、ははは。
  画家の名が判明しませんが、面白いセンスを持っていると・・。





  後陣の「磔刑図」上部、キリストの顔ははっきりしませんが、

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  右の男はこんな風に描かれているのを、サイトで見つけました。

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  磔刑図の背景が壁になっている構図も初めて見ましたし、
  壁の上の三角風の飾り、これはヴェネツィアの大運河、リアルト橋横の
  新装なった元のドイツ商館の屋根飾りと同じ。 





  左下には心痛で気を失いかける聖母が抱えられており、  

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  右下のこの人物たち、これが良く分かりません。
  お分かりの方、お教えください! 

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  「磔刑図」を見ていて、中央のキリストは槍で心臓を突かれ、
  手足も釘付けですが、左右の二人は腕を横木に縛られ、
  脚も縛られた状態で、脚に傷を受けています。

  今までこんな風に描き分けられたのを見た記憶がなく、あったかな?
  この違いは何を意味するのかと、
  改めて「磔刑」についてちょっと読んでみました。   
  で、知ったのは、

  磔刑はバビロニア期から行われていた極刑で、
  ローマ期においてローマ市民に適用されることはなく、
  奴隷や破壊活動者、外国人に対してのみの刑で、
  磔刑の前に行われる鞭打ち、これはまさに酷い拷問であった様子。

  常に十字の形でなく、一本の木でも、逆さまVでも行われ、
  十字の場合、縦の木はすでに建てられており、
  横木を受刑者が運ばされたのだそう。

  脚に見える傷については、いつも、こん棒か槌で折られたのだそうで、
  つまり磔刑というのは、長いゆっくりの死の苦しみの後に来る、
  貧血、肋骨の圧縮による窒息、または心臓の血液循環の滞り、
  虚脱による死、なのだそう。 恐ろしい!!

  キケロは磔刑について、一番残酷な体刑であり、一番陰鬱なもの、と。
       




  内陣の天井図。

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  内陣、北側の壁、上部。 これはアントニオ・ザーゴ作。
       
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  アーチ部の飾り画。

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  という事で、ロンゴバルド期の教会の、どこかちょっと違った教会かと
  出かけましたが、
  教会自体が後世に改装され、内部のフレスコ画も後世の物でした。
   
  が、一風変わったフレスコ画で、修復されて見やすくなっており、
  色も鮮やかで素朴で、なかなか良いと満足でした。

  1936年この一帯に地震があり、今残っているフレスコ画はこの時
  助かったものというので、
  案外それ以前は教会全部の壁がフレスコ画で埋められていたかも・・。



  神父さんが仰ったのは、ここは博物館ではなく、毎週金曜日には
  ミサが行われる教会ですのでお出かけください、との事でした。


  という所で、ティツィアーノの家の話題、その2に続きます。



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