先回からのヴェネツィア散歩のその2 を続けますが、
今回はリアルト橋北隣の広場にある教会サン・ジャコモ・ディ・リアルト・
San Giacomo di Rialtoからご案内を。
リアルト橋の北詰め、道両脇に屋台店が並んでいる右の広場ですから、
皆さんもよく、この姿をご存じと思います。
前に張り出したポルティコがあり、大きな時計とアーケード型の鐘楼が特徴ですが、
調べてみると、ヴェネツィアでも一番古い教会になるのだそうで、
カルペンティエーレ・骨組み作業の工員、職人が
大火事の鎮静を願っての祈願からで、421年という年号!
記録に出るのは1152年、1513年の近隣一帯が破壊された大火事から逃れ、
1601年には床も高潮にも大丈夫な修復があったそう。
何度も前を通り、ポルティコの下に座り込んでお昼のサンドウィッチをかじったり、
その時には周囲を鳩に取り囲まれ、足の上にも乗って来られ、ははは、
鳩の足からの温もりを感じたりした想い出はあるのですが、
肝心の内部はいまだに拝見してない事を思い出し、ははは、
ウィキペディアからの拝借でどうぞ。
前部のゴシック式ポルティコは、ヴェネツィアでも数少ない一つだそうですが、
内部はルネッサンス風に改装されているそう。
次回のチャンスには、ちゃんと内部拝見を。
今回の行程の地図をどうぞ。
1がサン・ジャコモ・ディ・リアルト教会、 リアルト橋を渡って2が元のドイツ商館、
現在この上部テラスが無料で一般公開されている場所。
3がサン・ルーカ広場、 4がバレテッリ橋
南にサン・マルコ聖堂、サン・マルコ広場で、
サン・ジャコモ・ディ・リアルト教会から道筋に出て、リアルト橋の上り階段。
この時はまだ朝早めで人が少なかったのですが、この一帯はいつも大賑わい。
有難いことに、橋の修復は済んでおりました!
ですが、今回は戻りにもう一度リアルト橋をご覧頂く事にして、
橋の上から見る、大運河北側を。
右端が元のドイツ商館で、現在ショッピング・センター、階上のテラスが公開。
さて、サン・ルーカ広場。 この時はコンタリーニ邸のカタツムリ階段に上り、
サン・マルコ広場に行くのにここに出て来たのですが、
広場のこの正面の建物など、お気に入りです。
上の広場の左側だったと思いますが、こんな壁龕の聖母像を見つけ、
スタイルが興味深くアップして見ましたら、
MCMXIII CA PIERO BORTOLVZZI GRILLO とありました。
1913年 ピエロ・ボルトルッツィの家
で検索を掛けましたら、1875年生まれの画家で、ヴェネツィアのアッカデミアで学び、
人物風景共に粘り強い描写で、絵画のみならずニューヨークのメトロポリタン・オペラ
舞台装置などでも活躍したりの、多才な方だったようですが、
この家の内装をしたのか、ここに住んだのかは分かりませんでしたぁ。
広場の店のウィンドウにあったコンサートのポスターなども眺め、
ははは、誰かのおでこが写ってる。
運河沿いに出てきて、
すぐそこがサン・マルコ広場、 広場北西角の裏のゴンドラ溜まりに出て、
ゴンドラの意匠に目を配りながら、
金貨ザクザクの袋を抱えた幸運の女神に、なぜ目隠し? とライオン君。
真ん中のドージェ・ヴェネツィア総督を囲む2頭のライオンと、総督の冠。
ゴンドラの上で一服のゴンドリエーレと、
左の若いゴンドリエーレの髪の毛! ははは。
上だけ残して横を刈るスタイルはちょいちょい見かけますね。
でも彼、本物の金髪!
この後サン・マルコ広場に出てぐるっと一回りの後、はい、パトロールを、
ははは、
時計塔の下の道からリアルト橋に向かって来た所で出会うこの橋
バレテッリ橋・Baretteriと今回名前を知ったのですが、
係留杭が赤いのと、大概何隻かゴンドラが係留している場所で、
運河沿いにレストランの窓が開いているのですね。
描きたいとずっと良いチャンスを狙っている場所でして・・!
この時もまだ新しいゴンドラの、素晴らしい彫りを舳先に施したのがいて、
艫の飾り。 眺めていて気が付いたのは、艫の飾りは折れているのに
よくお目にかかりますが、これは修復されたのが分かりますね。
で、再びリアルト橋に戻って来て、記念撮影されるのに合流し、ははは。
所で、ヴェネツィア名物のリアルト橋ですが、元は木製の橋だった、
というのはご存知の方が多いと思いますが、
このカルパッチョの絵に見られる様に、15世紀末の姿、真ん中が吊り橋で、
背の高い船が通る時は上に引き上げられたのだそうで。
が、それ以前は舟を繋いでの橋だったのだそうで、
そして12世紀後半杭の基礎の上に板を渡した橋が作られ、
当時は橋の東近くに古い貨幣鋳造所があったので、
貨幣橋・ポンテ・デッラ・モネータと呼ばれたと。
リアルト橋の市場が重要さを増した1250年頃、木製の橋に架け替えられ、
これが上のカルパッチョの絵に見えるスタイルで、これでリアルト橋の名に。
1310年叛乱劇が起こった時破壊され、1444年にはフェッラーラ侯爵の
花嫁の行列の際、大群衆の重さに耐えかね橋が落ち、1524年にも落下。
で、橋の両脇に店が並ぶようになったのは15世紀の半ばなのだそう。
16世紀になり始めて石の橋を架ける事が提案され、がなかなか決定せず、
その中にはアントーニオ・パッラーディオの提案のこんな橋もあり・・。
皆さま、いかが、お気に召します、この姿?! 古臭いイメージでは?!
現在の姿のこの橋が完成したのは1591年で、最初の提案から約1世紀
かかった事になりますが、美しい形ですよね?!
橋の全長48m、 大アーチ長さ28m、高さ7,5m、 幅22,1m
設計はアントニオ・ダ・ポンテ、まさに橋という姓で、3年間の工事だったと。
当時はこの大胆な一つのアーチ、という案に、落下するに違いない、と
第2設計家のヴィンチェンツォ・スカモッツィなども言ったそうですが、
はい、未だに健在で、ヴェネツィアの建築美のシンボルの一つですね。
元ドイツ商館の階上のテラスに、パノラマを楽しむ人の姿も見えますが、
我らは薄日が射してきた大運河の眺めを、リアルト橋の上から!
最後はウィキペディアから拝借の、夜のリアルト橋の姿をどうぞ。
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この記事へのコメント
pescecrudo
橋といえば先日、La Nuova紙でBarateri橋(ホテル・スプレンディッドスイス脇)に罅が見付かり、急遽人も下を行くゴンドラも通行止めになり、修理に入った記事がありました。リアルトからサン・マルコまでのメイン通りのメルチェリーア(ヴェネツィア語Marzaria)にありますから、ヴェネツィアの道を知らない観光客には移動が大変です。修理期間はどれくらい掛かるのでしょうか。
前回のヴィゼンティーニの版画の事ですが、カナレットがサンタ・クローチェ教会(悪党ナポレオンの命令で1810年には取り壊され、現在はパパドーポリ公園です。サンタ・クローチェ区命名の元になった教会です)から大運河を望む景観画を描き、それをヴィゼンティーニがより購入し易いモノクロ版画にしました。謂わば今日の絵葉書の拡大版です。それをオランダ人が長崎の平戸に持ち込み、歌川派の祖、歌川豊春(1735~1814)の下に現れたようです。それを豊春は遠近法(浮絵)習得の為に、『浮絵 紅毛(オランダ)フランカイノ湊鐘響(しょうけい)図』を模写したようです。その遠近法が将来の北斎の富士山図に繋がったのでしょう。
南蛮屏風にヴェネツィア島を描いたものがありますが、これがヴェネツィアの街を描いた日本第1号と思われます。彼の版画は第1集(14点)、第2集(12点)、第3集(12点)とあります。イタリアと日本の繋がりは、マルコ・ポーロの昔から深い絆で繋がっていると、ますますイタリア・オタクになっていくようです。
shinkai
あ、そうでしたか、橋に罅とはそれは大変ですね。
近頃は朝ちょっとTVニュースを見るだけで、地方ニュースはまるで見ておらずで知りませんでした。
大きな工事にならないほどだと良いですが・・。
同じ名前の橋ですが、ここの小運河がバラテーリ運河なのですね、多分罅で工事の橋はもう一つ西に並んでいる橋ですね。
私はいつもこちらの橋を渡るだけで眺めておりましたが、次回のチャンスには、工事が済んでいたら渡ってみます。
ナポレオンは本当に悪党ですね! プロヴァンスに行った時も修道院など破壊され修復された新しい姿で、本当に勿体ない事をしたものだと痛感致しました。
イタリアでもあれこれ破壊しているのですから、本国ではもっとやりたい放題だったことでしょうね。
浮世絵に描かれた元の版画の由来を、有難うございます!
遠近法の勉強にですか、成る程ですね。
北斎の絵に影響し、それがまた西洋でさまざまに影響を及ぼした、というのが愉快ですね。
南蛮屏風にヴェネツィアを描いた、というのは何処かサイトで見れますか?
宜しかったらお教えください。 とても興味があります!