毎日のお絵描きの友に音楽は欠かせず、午前中は大概バロック音楽、
そして午後はなんでも!(但し日本語とイタリア語の歌は除く)CDをかけます。
そしてもう一つは、へへ、脇に本を置いておいて合間にちょこっとずつ読む事。
で、今回のタイトルのなぞ解きを始めますと、
先日来読み始め、大変に面白く興味深く読んでいるのが、
今回トップのこの写真の本、渡辺一夫著「戦国明暗二人妃」。
後ろを見ると、中央公論社から昭和47年7月10日初版発行 1800円
となっていて、shinkaiめがまだ20代だった、きゃはは、若き日に買った本で、
途中で買取に来た本屋さんが、これは高く買いますから、と言ったのにも売らず、
ずっと手元に残り、遥かイタリアにまで付いて来ている本の一冊。
ですが内容となると殆ど覚えておらず、ははは、フランスの清教徒の大虐殺が
書いてあったっけ、という程度だったのですが、
今回改めて読み始めると、なんで覚えていなかったんだろ?!と思うほどに
興味深く、多分当時は読んでも頭に入らなかった知識内容だったのでしょう!
内容は2部に分かれ、 1.巷説・逆臣と公妃
上がシャルル(3世)・ド・ブゥルボン公 下がマルグリット・ド・ナヴァール公妃
シャルル・ド・ブゥルボン公(1490-1527)は、フランス王フランソワ1世に仕え
大元帥だったのが、後に神聖ローマ帝国のカルロ5世の下に走り、
逆臣と呼ばれるようになった方で、
マルグリット・ド・ナヴァール公妃(1492-1549)は、フランソワ1世の姉、
「七日物語」の作者としても有名な方と。。
この二人はお互いに愛し合っていたらしい様子が随所に見られるものの、
確実に残された記録、手紙類などは分からない、という・・。
で、なぜ愛する二人が結婚できなかったか、また大元帥にまでなった側近中の
側近がなぜ逆臣となったか、となると、
これも確実とは言えないものの、フランソワ1世とマルグリットの母親である
ルイーズ・ド・サヴォワ母后がシャルルに横恋慕し!! 14歳年上!
結婚を迫り、はねつけられた為に、復讐も兼ね息子フランソワ1世を焚きつけ、
シャルルの封土を取り上げ、逮捕するよう仕向けた、と!!
ね、なんとも人間臭いお話でしょう?!
で、結局シャルルはフランスから逃げ、カルロ5世の下で一将軍として働くようになり、
「ローマ略奪」戦の時に火縄銃で撃たれ、37歳で亡くなった、という・・。
素晴らしい武将であり、当時のフランスにあって国王と並ぶほどの権勢と
封土を持っていた事も、王権絶対制度に向かっていた王家にとっては
目の上のたんこぶで、省くべき存在だったのかも、なのですね。
こちらは、 2.世間噺・マルゴ公妃 の晩年と若き日の姿。
このマルゴ公妃は、色情狂と呼ばれるほどの度はずれた男遊びをされた方で、
ははは、羨ましいなぁ! 作られた愛人リストには25人の名が並ぶそう!
渡辺教授は28人と書いておられますが、ははは。
フランソワ1世の息子アンリ2世の娘、であり、また上のマルグリットの娘の息子、
つまり孫に当たるアンリ4世と結婚しているので、フランソワ1世の孫でもあると共に、
上のマルグリットにとっても義理の孫にあたるわけなのですね。
という様な、なんともゴシップ満載的な16世紀のフランス王家に関係の人々の
姿が詳しく説きあかされ、数々の資料のどこにあるかの付記も大変詳細で、
また人間関係や称号からのややこしさに紛れないよう、
その都度詳しく説明されているので、分かりやすく読め、大変に興味深いもの!!
例えばマルグリット、という名前だけでも同時代に限っても3人おられ、
生年、父母の名などから特定しなければ資料にも行きあたらない、
という様なややこしさですので、
この渡辺教授の記し方は我ら素人にとって大変に有難い分かりやすい本。
現在は中公文庫から出ているようですので、興味をお持ちの方是非どうぞ!
で、これら3人の主人公、とりわけ最初の2人の後ろに大きく控える
フランス王フランソワ1世(1494-1547)ですが、
イタリア侵攻戦争に名が出て来ますし、もっと近しい所ではルネッサンスの大天才
レオナルド・ダ・ヴィンチを彼の晩年フランスに招き、レオナルドはアンボワーズの城
で亡くなっている、という様なのもよく知られていますよね。
で、そのフランソワ1世が北イタリアのピッツィゲットーネ・Pizzighettoneという
町に、戦争捕虜として捕囚の身を過ごした、というのは、余りご存じないでしょう?!
こちらのイタリア人に聞いても、知らない、というのが殆どなのですけど、エッヘン、
shinkaiはたまたまピッツィゲットーネに行った事があったので知ったのでした。
で、訪れた町のインフォメーションにこの写真があり、
グアードの塔 フランス王フランチェスコ1世(フランソワ1世)捕囚
でも最初はまるでピンとこず、誰?! 何?! どうして?! だったのですね。
分かってからも余り意味がピンとこずで、ははは、
それが今回の本を再読するうちに、主人公2人の背景として出てくるので、
そうそう、あのピッツィゲットーネなんだ! と懐かしく思い出し、
それで、撮ったままになっていた9年前の、ははは、2008年2月28日の写真を
引っ張り出してきて、周辺事情などもまた改めて読んで、という次第。
という事で、ピッツィゲットーネの町はどこにあるか、地図をどうぞ。
ヴァイオリンのストラディバリで名高いクレモナ・Cremonaの町から西に、約20㎞
ミラノからだと南西に約70㎞、車で1時間半程の距離に。
この時はソンチーノ・Soncinoに行き、アグリトゥリズモに確か2泊だったかし、
そこで見たガイドブックの写真から興味を持って、ピッツィゲットーネと
クレーマ・Cremaに行ったのでした。
ついでに言いますと、フランソワ1世が捕囚の身になったのは、
イタリア戦争のうちの一つ、上のシャルルは敵陣カルロ5世の指揮官であった
「パヴィアの戦い・1525年」で大敗しての捕虜で、
パヴィア・Paviaは、ピッツィゲットーネの西52キロほどの距離。
普通はフランソワ1世はマドリッドで捕囚の身を送った、と出ますが、
そのマドリッドに連行される前に、ここで3か月ほど過ごした、という事になります。
という所で、2月末のパダーニャ平野の霧の深い日の写真で、
町の入り口の道脇。
上空からの写真をサイトから拝借し、上の写真をshinkaiが撮った位置は、
写真の一番下の右、町に入る道が真っ直ぐ城壁を破って続いている所で、
ご覧になる通り、この町は頑丈な低めの城壁で囲まれており、
これは重火器が出来て来てからの城壁であるのが良く分かるもので、
町を2分して流れる川はアッダ川・Adda。
写真の上が町の東側で、手前が西になります。
この部分がいわゆる旧市街で、写真の下側外、北西の方角に
現在の町が広がります。
さて上の町への道を入って来た所が駐車場兼の広場になっており、
入ってすぐ横、つまりかっての城壁兼用の建物がインフォメーションになっていて、
Aperto・開いています、と見えながらしっかり鉄棒で閉まっているのは、はは、
お昼休みの時に撮ったからでして・・、
大きな薪ストーヴが赤々と燃える内部はちょっとした博物館も兼ねた様子で、
現在は博物館や城壁なども整備されている様子ですが、
当時9年前は皆閉まっておりました。
で、上でご覧頂いたフランソワ1世の幽閉の塔の写真も目についたのですが、
これは「Le Mondine・レ・モンディーネ」とあるのは、「田植え女たち」で、
当時は田植えの季節に、季節労働者として働きに回っていたのだそう!
映画「苦い米」ですね。
中には子供と思われる顔も混じりますが、こうして若い女性たちが田舎を
回って働いていた事で、土地の若い男達との問題も起ったでしょうし、ね、
そして、この一帯にもお米の栽培があった事が分かります。
現在は農業でも、トウモロコシや飼料の栽培なのだそうで、と
既に50年以上前から、この町には元のピレッリ・Pirelli、タイヤで有名、
そのタイヤの内側に貼る特殊な糸の製造会社があるのだそう。
町についた途端に、これは凄い!と思った町を囲む城壁を見て回りますが、
堀をめぐらした低い厚い城壁で、これは元々は12世紀にクレモナが西への
前哨地としての町を築いたのが起こりだそうですが、その後何度にもわたり
改修され要塞化された町となったのだそう。
ですが、現在も町の中を通るアッダ川を渡る位置として、ローマ期以前から
定められた場所だった様子で、戦略的にも重要だったのですね。
城壁の上に上る柵もとじられていましたが、
サイトで見つけた写真にはこんなのもありましたから、
やはり戦略的意図の濃い、実践的な城壁だったのですね。
城壁の内側を巡る通り、そして、弾薬庫の跡。
教会サン・バッシアーノ・San Bassianoの前のアーチのある建物と、
教会正面と、内部写真はサイトから。
元々は12世紀の中頃の様子ですが、15世紀の中ごろに正面が改装され
大きくなり、16世紀にも新しく鐘楼が造られたなど、年代毎の改装が
大きい様子で、閉まっていて中を見ていなかったので驚いたほど。
これは鐘楼脇側からの眺め。
町に入ってきた所に駐車場と広場があって、と書きましたが、
これは広場の南側で、近くの美味しいレストランでお昼を食べましたっけ。
右に見える通りをまっすぐ行くとアッダ川に出て、
これが川の畔、橋の袂にあったフランソワ1世が捕囚の身を送ったグワードの塔。
どっしりと太く、
橋を渡った側から見るとこんな様子に見え、低い塔ですが、
かってはアッダ川に面してこんな要塞があり、4本あった塔のうちの一つで、
現在残っている唯一の物と。
グワードの塔、と呼ばれるというのも、グワード・Guadoという言葉自体が、
川の浅瀬を歩いて渡る場所をさしますので、
かってはここでアッダ川を徒歩旅行者たちは渡り、この要塞で渡賃を
払った事でしょうね。
で、フランソワ1世が捕虜となった「パヴィアの戦い」ですが、
神聖ローマ帝国そしてスペイン国王でもあるカルロ5世と、イタリア制覇を目指し
争っていたフランス側との間に繰り広げられていた、イタリア戦争の一つで、
1525年2月24日パヴィアのミラベッロの広大なお狩場で行われた戦。
勢力的には互角だったものの早朝奇襲をかけたドイツ・スペイン勢が優勢に戦い、
4時間半にわたる戦いの後、フランス側は12000人の死者負傷者を出した
大敗北に終わり、総大将の国王フランソワ1世自身が捕虜になるという・・。
殆ど半裸の姿で周囲を敵兵に囲まれ、あわや殺害されかねないのを
スペイン側のシャルル・ド・ラノワが駆けつけて救ったと、
渡辺教授が書いておられましたが、
こうして敵の手に落ちたフランソワ1世は、ピッツィゲットーネの
グワードの塔のこの部屋で、
パヴィアの戦いのあった3日後の2月27日から5月18日までの79日間を
囚われの身で過ごします。
そしてスペインに向け船出を待つまでの1週間を、リグーリア州のチェルヴァーラ・
Cervaraの修道院の塔で過ごし、マドリッドに向かったと。
マドリッドで1年を過ごし、屈辱的なマドリッド条約に署名するものの、
自由の身になりフランスに戻るやいやな条約をホゴにした、という・・!
ピッツィゲットーネでの捕囚の身の時は、町の司祭G.ジャコモ・チペッロ師
との間に深い友情が芽生え、後にはフランスの宮廷に招いたり、たくさんの
私的な贈り物をしたりしたのだそうで、それらを書き出したリストもありましたし、
現在はこの塔の部屋も公開されている様子。
最初にご紹介した逆臣のシャルル・ド・ブゥルボン公もこのパヴィアの戦いに
参加して目覚ましい働きをしていますし、一種の敵討ちでもありますね、
フランス側で敗走したものの、後に責任を問われ憤死したアランソン公
というのは、マルグリット公妃の最初の夫で、
2人はこれでお互いに自由の身になり、結婚できるか、と考えた一時期も
あった様子云々、というのも渡辺教授が書かれておりました。
アッダ川に面した堤防の上は、こんな風に散歩道になっていて、
下流側の橋、鉄道の鉄橋と。
橋の向こうは町の東側、ですが、この霧で寒くもあり、横着して見に行かず・・!
霧のアッダ川。
こちら側のグワードの塔の先を行くと、かっての要塞遺跡を使ったらしい
家畜小屋とか、
草を食べている猫ちゃんとかを見かけ、
城壁や堀の残っている部分も見かけました。
2月の末で、まだ漸くに新芽がほころびかけたか、という時期でしたが、
サイトで見つけたアッダ川の観光クルーズ、
パスクワ以降の毎日曜と祭日に行われるようですから、
緑滴る美しい時期には、さぞや楽しい事でしょう!
という様な、懐かしい本の再読から始まった、
歴史の隙間を埋める、小さな町ピッツィゲットーネのご紹介でした。
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この記事へのコメント
ゆんぴょ
あっという間に師走に入り、気持ばかりが焦る毎日です。
すっかり寒くなりましたが、お元気そうで何よりです。
若いときに読んだ本を再読すると、また違った感想を抱いたり、興味が尽きなかったり。人生経験が大きく関わってきますよね。
フランソワ1世・・・そうだ、そうだ! レオナルドを招いた人物でした!
アンボワーズのお城をバスの車窓から観て、ガイドさんが説明してくれました。あそこでレオナルドが~と窓に張り付いた覚えがあります。
ピッツィゲットーネに幽閉されていたのですか。
なるほど要塞の町。建物が当時を想像させてくれますね。
shinkaiさんならではのガイド、ありがとうございます!
コネリアーノの冬景色、色づいた木々の風景も堪能させてもらいました。お馬ちゃん、可愛いですね~。
クリス
今回行ったサン・ゴーダンスはマルグリットの亡くなったオードからは70km程の距離です。南に下るとルルドがある。
もちろんフランソワ1世がピッツィゲットーネで捕虜生活というのは知らなかったですよ。スペインでというのがそのまま。大まかな歴史書じゃ省略されちゃうでしょ。
この辺の歴史というのは、勝ち負けがころころと変わってややこしい!
shinkai
本当に寒くなって来ましたが、そちらはなおの事、師走、という事であれこれお忙しい事でしょう。
気に入った本を何度もじっくり読むのが好きなのですが、これは本当に久し振りに読み返したもので、その分なおの事興味深く面白く、長い事持っていて、ははは、本当に良かったと思いました。
そうです、そうです、フランソワ1世と聞いてピンとこずでも、レオナルド・ダ・ヴィンチが絡むと、ああ、そうだったっけ、と思い出す人物ですよね。
あの辺りのヨーロッパの王様となると、だれがどうなって、どちらの王様が先なのかなど、まるでチンプンカンプンになりますけど、でも今回は、この部分に限っては、ははは、しっかり覚えましたです。
ピッツィゲットーネに行ったのは偶々だったのですが、それでも何となしにどこかで何かに触れているのですね。その辺りも興味深い事です。
知ってから行ったのであれば、もっとあれこれそのつもりで見た事でしょうが。
スコミーゴ村もしっかり枯れ木の季節となりましたし、この冬はとても寒くなるかも、ですね。
馬たちが元気でいてくれて、牛も増えたので、眺める楽しみが増えました。
mitsu
おかげさまで、私もシャルル・ド・ブゥルボン公とフランソワⅠ世の顔と名前が結びつき、覚えていられそうで嬉しいです。
世界史は名前が混乱して、わかりずらくなってしまいます。
shinkai
はい、そのようですね、ナヴァル王エンリケ2世もパヴィアの戦いで奮戦したのがフランス王家にとって良い印象を招いたのと、ナヴァルの位置がフランスにとって対スペインとの重要な戦略的意味を持つ、という政略結婚だったようです。
ジャンヌ・ダルブレについては、同じ渡辺一夫が「もう一人のナヴァール公妃」という本を書いている様で、見つかったら読んでみたいと思っています。
で、その息子のアンリ4世が、ブログに載せた本の第2部の「マルゴ公妃」と結婚しているのです。 最も後年離婚していますが。
マルゴ公妃の愛人リストに25人、とかあると書きましたが、アンリ4世も素晴らしくて、ははは、40人を超えたのだとか!
宗教戦争で大変な時代だったようですが、それにしてもお元気だったのですねぇ。
いやぁ、あの時代はまだまだ「国」という意識も国境も定まらない時代で、戦争もあっちこっちで、王家の結婚もあれもこれもでまったくややこしく、おまけに他国に嫁ぐと呼び名も、それに敬称も変わるでしょう?
それらに全くの事惑わされますね。
shinkai
はい、そうなんですよ、何十年も持っている本なんですね。 そのくせ、本当に本の真価を知ったのは、今回、という事で、知って良かったです!
そうですねぇ、本の中に「ピッツィゲットーネ」と出て来たのはかなり後ろになってで、それまでは大概の歴史書と同じにマドリッドに幽閉、となっていたので、
出て来た時は、ははは、嬉しかったです、証拠がやっと見つかった、という感じで。
それに、なんともフランス王家の中での人間模様というか、そんなのも詳しく分かって、それがとても興味深かったのです。
私は、当時の人間の行動が分かる、年を自分で数えて見て、それからもあれこれ想像できるという、そんな資料が読めるのが大好きで、その意味でも、これは本当に素晴らしい本だと思います。
中公文庫から出ているそうですし、図書館でも見つかりそうですから如何ですか?
名前がねぇ、本当に! それに嫁いだ先が外国だと名前まで変わりますからねぇ、これが難点ですねぇ。
シニョレッリ
渡辺さんの本は知りませんでした。読んでみることにします。
私がピッツィゲットーネに行ったのは、ポーランド継承戦争の所謂「ピッツィゲットーネ包囲戦」の舞台となった要塞を見たかったからでした。
ミラノ中央駅からクレモナ行の普通列車に乗り、クレモナの一つ手前がピッツィゲットーネ駅です。クレモナへの旅のついでに行った次第です。
フランソワ1世の話は城塞に行った時に知りました。
ピッツィゲットーネでは、サン・バッシアーノ教会の他にキンキラキンのサン・ピエトロ教会が印象に残りました。(外壁が金色塗装)
パヴィアの城(Museo Civico)ですが、城の北側は1527年にフランス軍によって爆撃破壊されたまま修復されずに当時の姿を今に留めてますが、ピッツィゲットーネから釈放されたフランソワ1世が捲土重来を期して再びパヴィアを攻撃した爆撃のようです。
shinkai
ああ、そうでしたか、ピッツィゲットーネには行かれてましたか。
でもその理由が凄いですね。ポーランド継承戦争での包囲戦、なんて全然知りませんでしたから、早速調べに行って来ました。
成程、包囲されたミラノ公国側、というよりもオーストリアの駐屯軍の隊長が冷静で偉かったのですね!
援軍が来なかったら退却して要塞を引き渡す、なんて、なかなかですよね。
かなりの大軍に包囲されて、全然勝ち目がないと分かったのかもですが、ははは。
それに、パヴィアのお城の攻撃も、現在の市博物館のヴィデオと写真で見て来ましたが、このフランソワ1世はやはり捕虜生活を送ることになったパヴィアでの戦争を憎んでいたのでしょうね、可笑しいです。
たったの2年後ですものね、ははは。
パヴィアはまだ行った事が無く、修道院もまだ見ていないのですが、このお城もなかなか凄そうですね。
チャンスがあるのを願います。
そうそう、ピッツィゲットーネのサン・ピエトロ教会は私もサイトで見たのですが、実物を全然見ていなかったので載せずじまいになりました。