ずっと頭のどこかに宿題が残りつつ、写真整理も残ったままご紹介が
滞っていた、トスカーナ州の東南部に位置し、ラツィオ州と
はたまたウンブリアとの境にも近いピティリアーノ・Pitiglianoの町。

なんと8年前に訪問し4泊したのでしたが、ははは、お笑いくださいね、
が、頑張って今回やっとご案内を!
エトルスクの紀元前からの歴史の古さと、16世紀からのユダヤ人の移殖の
多さから立派なシナゴーグも残り、「小さなジェルサレム」の名を持つ町。
今回は2回に分けてご覧頂きますので、ごゆっくりどうぞ!
上の写真はホテルの窓からの、朝日を受ける町。
ピティリアーノの町はどこにあるか、地図をどうぞ。
イタリア半島の西側にあるグロセット・Grosetto県に含まれ、
細い薄いグレーの線が見えるのが、南はラツィオ州、東はウンブリア州。
東に見える大きな湖はボルセーナ湖・Bolsenaで、

バスでの旅行では、西のグロセットの町からの連絡がある様子。
衛星地図で見る、普通「ピティリアーノ」と呼ぶ旧市街は、
こんな風に右に広がる何倍もの大きさの新市街の先っちょに、
まさに樹海に囲まれ谷に突き出した形で。

海抜313m、現在の人口は、周囲の大きな新市街を考えると、
えっ、と少し驚いたのですが、4千人を切る人口で、
近世の一時は衰退していたそうですが、
現在は「イタリアの一番美しい村々」にも選ばれ、観光面で
大きな進展を遂げているそう。
そうですねぇ、この町の特異な立地条件の美しさ、はたまた歴史面での
古さ、特徴なども、大いに観光客を引き付ける要因だと思います。
これが半島状に突き出す元の部分というか、岩と共に城壁に囲まれ、
左にちょっと見える広場のテントの右横に我らの泊まった宿があり、

Benvenuti a Pitigliano・ピティリアーノにようこそ。

エトルスク期からの古い町の城壁は既に紀元前7世紀にあったと言い、
9世紀頃から当時一帯を領していたアルドブランデスキ家・Aldobrandeschi
が要塞化、それを13世紀末よりアルドブランデスキ家と婚姻関係となり
領主となったオルシーニ家が整備したものだそうですが、
これは旧市街の入り口にある、城壁の高台から見た旧市街の入り口で、

こちらが上の写真の右下に切れていた、城壁内への門。

滞在期間中の最初は夜中に雨が降り、朝まだ曇り空で
写真の発色が良くありませんで、後のお天気の日の写真を混ぜてご覧を。
門を入って行った所に広がる広場、谷に面してある立派な大きな泉で、
16世紀の中頃に造られたものだそうで、7つの口を持つ泉、と。


ですが、5つは分かりますが、7つとなると、上と真ん中の下からも?
泉の背後の壁から見下ろす谷の見事な眺め! ここも走りましたっけ。


泉から中に進むと、パラッツォ・オルシーニ・オルシーニ家の館があり、
元々11-12世紀にはアルドブランデスキ家の要塞だった物ですが、
後にオルシーニ家の館、城塞となり、現在は博物館、図書館に。

入口を守るライオン君。

中も見学したのですが、写真禁止でサイトにも余り見つからず、
ここでは中庭の一枚だけを。

彫りの見事な井戸があり、入り口扉周囲の飾りも見事でしょう?
で、井戸の右手に小さな格子の嵌められた穴があり、その後ろにゴーニャ・
晒し首用の台があるのですが、背後の写真と重なって見えにくいですが・・。
実はあの晒し首台の所に張り紙があって、撮って来たのを友人のジュリアーナに
送り読んでもらったのですね、飾り文字で読みにくかったので。
で分かったのは、あの穴には斬首刑になった首を放り込んでいた、のだそうで・・!
それに城内見物では、中には入れませんでしたが、拷問室もありましたっけ。
はぁ、さすが中世からの城には、あれこれ残忍さが見えると思ったものでした。
町の中の道は両脇の建物がびっしりと並び、朝までの雨に濡れ、
些か暗いイメージもありましたが、

徐々に薄日も射し、隙間隙間に見える細い谷への下り坂にも目が行き、

坂道を下りながら、幾つもの家の入り口が重なり、


そろっと座り込んでいる美猫ちゃん。

建物の間を支えるアーチの向こうに見える次の家並、
そしてこういう細い狭い道にはぴったりの、小さな3輪車が働く姿も見え。

町の中を縦に走る3本、2本の道はそれなりに広く緩やかな坂道ですが、
そこから谷側に向かう道はいずれも細い急な階段道で、
道の奥には谷!


家々の扉が、細い階段道の両脇に並びます。

時にこんな風な行き止まりの道もあり、手前は倉庫、物置の扉で、
奥が住居部の扉。

トスカーナ、ラツィオの一帯は、トゥーフォ・tufo・凝灰岩で出来た町で
有名なのですが、茶系のかなり柔らかい石で、
このピティリアーノの町も元々は洞窟を掘って住居、仕事場、倉庫としていた
のが良く分かるつくりですね。
谷に下る階段があり、ちょっとした展望台となっていて、

そこから眺める家並。
谷から立ち上がるごつい岩がそのまま使われているのが良く分かります。

南の谷側に一番近い道を進んで行った中程に、ゲットーのパン屋さん。

店の脇から下る道で、入り口に半円形の案内が「小さなジェルサレム」、
古いユダヤ人住居区画はこの下、と ↓ が。

一番下まで行くと小路は右に折れ、

その突き当りに、シナゴーグ・ユダヤ教教会を含む一帯が、
現在博物館として保存、公開されており、

こちらはその案内図で、
1.宗教的儀式の沐浴場
2.ワイン貯蔵庫
3.シナゴーグ
4.宗教にのっとった屠殺場
5.パン焼き窯
6.染色場
7.講演会場

1.の沐浴場。 ここはユダヤ教の教義では、生理後の女性は
身を清める必要があったという、沐浴場で、

shinkaiはその暗さ、岩のごつごつの感触にちょっと身震いを。
2.葡萄を絞り、そしてワインを作った部分。


3.シナゴーグはかなり広く、修復されたにしても立派な調度。

4.屠殺場。 ユダヤ教においては、家畜の屠殺にも決まりがあるそうで、
それにより肉も新鮮なので、人気があったというのもどこかで読みました。

5.ユダヤ人の復活祭は、旧聖書に書かれた「エジプトからの脱出」を
祝う物なのだそうで、その時に食べるイースト菌なしのパンを焼くための窯と。

内部はかなり土地の上下の構造を含む複雑な造りで、写真は今回パス
ですが、ユダヤ文化を伝える品々の展示もありました。
こちらは、谷に向かった窓を飾る、ユダヤ教の7本の燭台を表した飾り。

ユダヤ人たちがこのピティリアーノの町に定住するようになった切っ掛けは、
16世紀後半の、すぐ近くに国境を接するローマ、教皇領内からのユダヤ人排斥で、
この地に逃れて来た人々の数が多く、当時6000人の住民に対し500人、
単に農業や商業に携わるだけでなく、土地の文化にも溶け込み、
ラビーノ・ユダヤ教の律法学者、生物学者、弁護士なども、
このゲットーから育っているそう。
が19世紀以降、他の大きな街でのもっと良い機会を求め出て行く事から、
衰退したと。
そうですよねぇ、狭い土地の狭い場所に閉じ込められること自体が
理不尽な生活をユダヤ人に強いていたのですものね。
その後の第2次大戦下での強制収容所への連行もあり、
また同じこの土地の家族に匿われ助かったケースが幾つもあったと
読みましたが、そういう点はこういう田舎町の方が良かったかも、とも。
谷の向こうに見えるのは聖所教会マドンナ・デッレ・グラツィエですが、

お天気の良い朝出かけ、対岸からの町の姿を撮りましたのでそれを。
まさに樹海に浮かぶ島の船、みたいでしょう?!

飛び出して見えるのは町の聖堂サンティ・ピエトロ・エ・パオロの鐘楼ですが、
まさに岩の断崖の上の町ですねぇ。 ご案内は次回に。

真ん中右寄りに丸窓の見える建物、あそこがシナゴーグ。

こちらは突き出した半島の一番先の部分。

宿の窓からは、町全体のイルミネーションが良く見えましたが、
これはまだ薄闇の夕暮れ時で、岩の色がこんな風に赤く見えるのですが、

空の色が暮れ始めると、黄色く見え始め、

その後、空の色の変化と共にどんどん見え様が変わりましたが、
それは次回のお楽しみに。
という所で、今回はお終いです。
◆ 個展のお知らせ ◆
3月19日から25日まで、東京八重洲地下街のギャラリー八重洲にて
個展を開かせて頂きます。
新しく描きためた20枚ほどを含め、約40点ほどの展示となります。


私にとりましては初の東京での個展であり、また殆ど友人も知り合いも
いない東京ですので、いささか緊張しております。
お知り合いの方にもお知らせ頂けましたら、とても嬉しい事ですし、
ブログを見て下さっている方、絵に興味をお持ちの方、
またイタリア旅行についてのあれこれ、
お出で下さり、お喋りできるのを楽しみにしております。
ご高覧よろしくお願い申し上げます。
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