◆ 3月16日 朝のニュース ◆
15日現在の感染者は2万人以上で、症候がある方9663人、
集中治療室に1672人、死亡者は昨日は今迄で一番多い368人、
その内ミラノだけで255人で、計1890人。
治癒された方368人増え、2335人、という事です。
集中治療室に1672人、死亡者は昨日は今迄で一番多い368人、
その内ミラノだけで255人で、計1890人。
治癒された方368人増え、2335人、という事です。
コンテ首相は、この先まだ「頂上」が来るだろうが、間違った方向には
進んでいない、と、次々と救済対策案が出されています。
進んでいない、と、次々と救済対策案が出されています。
どうやら感染者の広がりは北イタリアから南に下がっている様子という
見解の様で、今後がまだまだ懸念されます。
見解の様で、今後がまだまだ懸念されます。
ドイツもフランス、スイス、オーストリアとの国境を封鎖し、ヨーロッパは
各国毎に国境を封鎖、内部で戦いつつある状況に向かっている様子。
各国毎に国境を封鎖、内部で戦いつつある状況に向かっている様子。
スペインもイタリア同様の様子で、shinkaiの6月の旅行は
9月に延期となりました。
9月に延期となりました。
中国はどうやら山頂を乗り越え平成に戻りつつあるようですが、
お医者さん達の援軍がイタリアにやって来ていて、マスクや扇風機、
薬なども届いているそうです。
お医者さん達の援軍がイタリアにやって来ていて、マスクや扇風機、
薬なども届いているそうです。
分家の方に、イタリア現在の、めげずに頑張っている日常の様子を
載せてますので、見てやって下さいね。
載せてますので、見てやって下さいね。
そして、日本の皆さんも頑張って!!
また3日後のブログ・アップで様子をお知らせします。
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◆ スマホで訪問して下さる皆さんにお願いを。
スマホ画面で見て頂くと、少し不都合が起こる場合もある様ですので、
一旦画面の下までスクロールし、PC版を見る、をクリックして頂けると、
ちゃんと見て頂けると思いますし、宣伝も少なくご覧頂けすので、
宜しくお願い致しま~す。
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いよいよパオロ・ウッチェッロ描いた所の「サン・ロマーノの戦闘図」の最終回、
3枚目の右端「フィレンツェ勢ミケーレ・アッテンドロの決定的な介入」を。

こちらはパリのルーヴル博物館所蔵で、182X317cmの大きさで、
やはりテンペラ画、板絵の作品。
やはりテンペラ画、板絵の作品。
テンペラ画というのはご存知ですね? 教会の古い祭壇画に見かける
板絵が殆どで、ポプラ材などを使い、ジェッソ・石膏を塗り下地とし、
卵の黄身、または白身、または全卵に酢を混ぜたのを使って
粉絵の具を溶き、描きます。
板絵が殆どで、ポプラ材などを使い、ジェッソ・石膏を塗り下地とし、
卵の黄身、または白身、または全卵に酢を混ぜたのを使って
粉絵の具を溶き、描きます。
使う時はかなりの粘土があるので、水で伸ばして描いたりもしますし、
現代的には油絵の具との層を重ねて使う場合もありますし、
現代的には油絵の具との層を重ねて使う場合もありますし、
基材としてキャンバス地が出てきて油彩画が主流になった後も、
キャンバス地にテンペラを使っている作品もあり、
キャンバス地にテンペラを使っている作品もあり、
マンテーニャのこの作品「死せるキリスト」などもキャンバス目を生かして
描いたもので、また遠近法を使った大胆な試みの作品と言えるかもですね。

shinkai個人は、マンテーニャ作としてはヴェネツィアのカ・ドーロにある、
「サン・セバスティアーノ」が絵画的にも素晴らしいもの思いますが。
ピエトロ・ベンボとルネッサンスの創造展 ・ パドヴァ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461921616.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461921616.html
キャンバス地にテンペラで描くと、余り絵肌に艶が出ませんが、
板で下地に石膏処理を施してあると、卵の油分でしっとりとした艶が出ます。
板で下地に石膏処理を施してあると、卵の油分でしっとりとした艶が出ます。
その上教会の祭壇画などは背景に金箔を貼った黄金背景とか、衣類の柄に
金を貼ったり鏨で打って模様を作ったりの一際豪華で煌びやかな画面に。
こういった手法をウッチェッロはこの「サン・ロマーノの戦い図」に生かし、
黄身を使った油脂分多いテンペラで、騎士たちの甲冑や、馬具などに
金や銀の金属箔を貼ったり、それも下に漆喰で盛り上げを作ったりしてで、
最後には全体にワニスをかけてもいるそうで、
一際きらきら輝く、豪華絢爛の絵作りを目指したことが分かります。
黄身を使った油脂分多いテンペラで、騎士たちの甲冑や、馬具などに
金や銀の金属箔を貼ったり、それも下に漆喰で盛り上げを作ったりしてで、
最後には全体にワニスをかけてもいるそうで、
一際きらきら輝く、豪華絢爛の絵作りを目指したことが分かります。
なので、上からのワニスが長年の内に茶色っぽく変色したりで、
白馬が少し黄土色がかったりの様子が見えたり、
また人物の顔よりも甲冑の方がはっきり見える、という事も見られます。
白馬が少し黄土色がかったりの様子が見えたり、
また人物の顔よりも甲冑の方がはっきり見える、という事も見られます。
という道草で、主題の絵に戻り、上に全体をご覧頂きましたが、
こちらが今回の主役、フィレンツェ勢に勝ちを齎したもう1人の指揮官
ミケーレ・アッテンドロ・Michele Attendolo. (1370頃-1463)
ミケーレ・アッテンドロ・Michele Attendolo. (1370頃-1463)

最初の画面で、ジューリアの塔に出していた斥候からの知らせにより、
急襲をかけたニコロ・ダ・トレンティーノと共にこの戦闘に参加し、
軍を分けていた一方の指揮官ですね。
急襲をかけたニコロ・ダ・トレンティーノと共にこの戦闘に参加し、
軍を分けていた一方の指揮官ですね。
ニコロの軍から襲撃が始まった事を知らせる2人の騎士により
急襲が始まった事を知り、
急襲が始まった事を知り、
ミケーレは右手の指揮棒を振りかざし、援軍に駆け付ける所。
左手背後でラッパ手が進軍ラッパを吹き、旗がなびき、兵士たちが歩み出し、
左手背後でラッパ手が進軍ラッパを吹き、旗がなびき、兵士たちが歩み出し、
アップするとこんな様子で、ミケーレはニコロと同じような派手な帽子をかぶり、
これは描いたウッチェッロ自身の好みかもで、

shinkaiが気に入ったのはこの馬の顔!
彼の跨る見事な黒馬は、逸って前両脚は空を掻き、口を開け背後の騎士を
グッと見つめる目は、そらぁ、行くぞぉ!と気合を入れてでもいる様子!
案外大将よりも気合が入っている感じで、つい笑ってしまいそう、ははは。
彼の跨る見事な黒馬は、逸って前両脚は空を掻き、口を開け背後の騎士を
グッと見つめる目は、そらぁ、行くぞぉ!と気合を入れてでもいる様子!
案外大将よりも気合が入っている感じで、つい笑ってしまいそう、ははは。
アッテンドロ一族は現ラヴェンナ県のコティニョーラ・Cotignolaの出身の
裕福な農家だったのが15世紀にミラノに移り、後にミラノ公となる
スフォルツァ家の元となります。
裕福な農家だったのが15世紀にミラノに移り、後にミラノ公となる
スフォルツァ家の元となります。
「スフォルツァ・Sforza」という姓は、ジャコモ・ムーツィオ・アッテンドロ・
Giacomo Muzio Attedolo(1369-1424)のその素晴らしい身体
と能力に対しニックネームとなったもので、
Giacomo Muzio Attedolo(1369-1424)のその素晴らしい身体
と能力に対しニックネームとなったもので、
後年ナポリ王国の大法務官となった時にアッテンドロの姓を
スフォルツァに変えたのだそう。
ジャコモの息子が後にミラノのヴィスコンティ家唯一の後継者となっていた
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ・Bianca Maria Viscontiと結婚し、
ミラノ公となるフランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza.
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ・Bianca Maria Viscontiと結婚し、
ミラノ公となるフランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza.

つまりここに登場のミケーレ・アッテンドロの父親は、フランチェスコ・スフォルツァの
父親ジャコモの弟で、彼らは従弟に当たる訳ですね。
父親ジャコモの弟で、彼らは従弟に当たる訳ですね。
いやぁ、これを納得するのに、ミケーレと、ジャコモ、そしてフランチェスコが従弟、
と書いてあるので、あり得んでしょう? 従弟フランチェスコの父親ならば、
叔父ですものね?!
と書いてあるので、あり得んでしょう? 従弟フランチェスコの父親ならば、
叔父ですものね?!
私の小さな頭の中はわやくちゃとなり、はは、自分で相関図を作りましたぁ。
先回のフランチェスコ・ダ・モンテフェルトゥロの時も、登場人物が多くややこしく、
はい、shinkaiにはね、やはり相関図を作ったのでしたが。
スキャンして資料に置いておこう! ははは。
先回のフランチェスコ・ダ・モンテフェルトゥロの時も、登場人物が多くややこしく、
はい、shinkaiにはね、やはり相関図を作ったのでしたが。
スキャンして資料に置いておこう! ははは。
つまり豪農一族アッテンドロが武器を取って働くようになり、
最初は自衛の為、次には自分たちの兵を養い、そして傭兵隊長に、
という成り行きだったのでしょうが、
そんな一族、傭兵隊長からミラノ公となったのも出た、というお話で。
ミケーレ・アッテンドロは初め教皇軍で働き、1431年からフィレンツェ軍の
隊長で、このサン・ロマーノの戦いに参加、という訳ですね。
例により年齢調べで、最初の画でフィレンツエ軍が急襲攻撃をかけた際の、
もう1人の指揮官ニコロ・ダ・トレンティーノが当時82歳だったと驚いたのが、
彼ミケーレも負けておりませんで、ははは、当時62歳!
もう1人の指揮官ニコロ・ダ・トレンティーノが当時82歳だったと驚いたのが、
彼ミケーレも負けておりませんで、ははは、当時62歳!
66年間の軍務歴を誇り、1434年つまり84歳まで働き、93歳で亡くなります。
彼の領土を見ると、ラツィオ州のアックワペンデンテから始まり、
カステル・フランコ・ヴェネトがあり笑いましたが、最後はヴェネツィア共和国の
元でも働いていたので、この土地を与えられたのでしょね。
ええと、パドヴァのサンタントーニオ聖堂前にあるドナテッロの
「ガッタメラータ将軍像」のガッタメラータ、ウンブリアのナルニ出身の
傭兵隊長で、最後はヴェネツィアで働いたガッタメラータの後釜で、
軍大将に任命されたのだそうで。
「ガッタメラータ将軍像」のガッタメラータ、ウンブリアのナルニ出身の
傭兵隊長で、最後はヴェネツィアで働いたガッタメラータの後釜で、
軍大将に任命されたのだそうで。
が1447年の戦闘でロンバルディーアのレッコ・Leccoを陥落させたものの
最後はミラノ勢に負け、格下げとなり、コネリアーノのみになったと!
きゃはは、我が町コネリアーノにお出でだったんですと。
最後はミラノ勢に負け、格下げとなり、コネリアーノのみになったと!
きゃはは、我が町コネリアーノにお出でだったんですと。
さて、ウッチェッロの絵に戻りまして、
右側に見える騎士の一団の様子は、味方の一群がシエナ勢に急襲を
かけて戦っている、という知らせを受け、さて出陣の場面で、
右側に見える騎士の一団の様子は、味方の一群がシエナ勢に急襲を
かけて戦っている、という知らせを受け、さて出陣の場面で、

手前左の白馬は土を掻き、気合が乗っていて、
手前2頭の馬と、斜め背後に見える4騎士の間に、従者の姿が。
手前2頭の馬と、斜め背後に見える4騎士の間に、従者の姿が。
これは背後斜めの騎士たちの煌びやかな兜と、覗く目の様子を。

頭上の兜の飾りもそれぞれ賑わしく、洋の東西を問わず、
これが戦場における男の美学なのですよね。
こちらが馬の間に埋もれる様になり、手綱を握っている従者の姿、顔。

そしてこちら左側では、すでに長槍を突き出し、突進を始める騎士たちがいて、
その間を走る兵士の姿、ラッパ手の顔も見え、

馬のお腹の下には背後を走って行く兵士たちの脚が見えます。
こうして先に戦っていたニコロ・ダ・トレンティーノの許に援軍に行く訳ですが、
フィレンツェ軍は4000の重装備の騎士と2000の兵士、
シエナ共和国+ルッカ共和国+ミラノ公国の軍勢は明らかではない物の、
明らかに優勢だったと言います。
で、闘いは6~7時間続いただろうといい、
急襲をかけたニコロ率いるフィレンツェ勢は最初は良かったものの、
疲れてかなり押され気味になった所にミケーレ・アッテンドロの軍が
アルノ河を渡り、つまりサン・ロマーノの北を流れるアルノ河の向こうにいた訳で、
援軍を迎えたニコロ・ダ・トレンティーノは涙をこぼさんばかりに喜んだと!
疲れてかなり押され気味になった所にミケーレ・アッテンドロの軍が
アルノ河を渡り、つまりサン・ロマーノの北を流れるアルノ河の向こうにいた訳で、
援軍を迎えたニコロ・ダ・トレンティーノは涙をこぼさんばかりに喜んだと!
まぁ82歳の年ですし、いくら元気とはいえ疲れ、ひょっとして・・と、
弱気にもなるでしょうしね、援軍が間に合って良かった、良かった!
弱気にもなるでしょうしね、援軍が間に合って良かった、良かった!
という様子で、シエナ側は敗走にかかったのだそうで、戦果として
フィレンツェ勢は400人の騎士が捕虜に、
シエナ+ルッカ+ミラノ勢は1500人の騎士と、大勢の兵士が捕虜になったと。
フィレンツェ勢は400人の騎士が捕虜に、
シエナ+ルッカ+ミラノ勢は1500人の騎士と、大勢の兵士が捕虜になったと。
つまり傭兵隊長、そしてそのお抱えの兵士達は戦場での戦いが仕事で、
死んでしまっては元も子もなくなるわけですから、
様子を見て、これはダメそう、という所で降伏するのでしょう。
死んでしまっては元も子もなくなるわけですから、
様子を見て、これはダメそう、という所で降伏するのでしょう。
捕虜となっても身代金を払うと大丈夫な訳で、その辺りが自国の為に
自国民が戦う、というのとは随分戦闘の持つ意味が違いますね。
自国民が戦う、というのとは随分戦闘の持つ意味が違いますね。
長年傭兵として、傭兵隊長として、たくさん払ってくれる側について働き、
戦闘の様子、空気を読むのに優れた傭兵隊長たちは、
臆病と言われぬ様に勇敢に戦い、そして機を見る、戦のプロだったわけで!
戦闘の様子、空気を読むのに優れた傭兵隊長たちは、
臆病と言われぬ様に勇敢に戦い、そして機を見る、戦のプロだったわけで!
という所で再び登場の、オリジナルはレオナルド・ダ・ヴィンチの下描きを、
ルーベンスが模写したという「アンギアーリの戦い」の図。
ルーベンスが模写したという「アンギアーリの戦い」の図。
「サン・ロマーノの戦い」の8年後1440年に行われたアンギアーリの戦い」
で、真ん中こちら向きのフィレンツェ勢の騎士に左右から立ち向かう
ミラノ勢のこちら2人の騎士。
で、真ん中こちら向きのフィレンツェ勢の騎士に左右から立ち向かう
ミラノ勢のこちら2人の騎士。

このデッサンの左端の隅に、馬の蹄にかからぬ様、縦の陰に隠れる様に
している男、これがなんと今回の絵の主役ミケーレ・アッテンドロと!
している男、これがなんと今回の絵の主役ミケーレ・アッテンドロと!
はぁ、ウッチェッロ描く、おとぎ話の世界の様な戦闘図と違い、
レオナルドは戦闘を実際よりもずっと勇敢に激しく描いている様ですが、
ミケーレ・アッテンドロは卑しくも傭兵隊長で、一介の兵士では
ないので、こうして這い回る図、というのは考えられず、はは、
ないので、こうして這い回る図、というのは考えられず、はは、
この下図に登場の騎士名も、戦闘当時の隊長名を単純に充てた
という事かもで、その点はレオナルド様は計算に長けていたと思いますし、
ともかくこの同年代の戦闘に、同じ傭兵隊長が戦っていた、という事ですね。
という事かもで、その点はレオナルド様は計算に長けていたと思いますし、
ともかくこの同年代の戦闘に、同じ傭兵隊長が戦っていた、という事ですね。
サン・ロマーノの戦いはフィレンツェ勢が勝った、という事になっていますが、
シエナ勢は自分たちが勝った、とも言っているそうで、はは。
シエナ勢は自分たちが勝った、とも言っているそうで、はは。
結果としては、現在も作品と画家名が残る程のパオロ・ウッチェッロと、
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、という点で、
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、という点で、
実際の内容以上に、2つの戦闘が歴史に大きく名が残っている、
という事なのかも知れません。
上からロンドン、フィレンツェ、パリに収蔵の、3枚の作品をもう1度。

何年か前、フィレンツェのウッフィツィで、多分ウッフィッツィ美術館
収蔵作の修復が済んでの記念だったかも、と思いますが、
こんな大きな画面に映し出された展示があった様子。

これは素晴らしかったでしょうねぇ!! 細部が良く見え、
細部に拘ったウッチェッロにとって、改めて面目を施した様なものですね。
随分前から気にかかっていたこのウッチェッロの絵について、
今回あれこれ読む事により、絵の背後の、当時の人間達の繋がり、
傭兵隊長なるものの繋がりも分かり、とても興味深かったです。
皆様、4回に渡る長いお付き合い、有難うございました!
遥かな15世紀の時代逍遥、楽しんで頂けました様に。
ご訪問よろしくお願い致しま~す。
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