暫く前にTV放映のヴィクトリア女王とその従僕ジョン・ブラウンを描いた映画
「私の女王 (ミセス・ブラウン)」・日本タイトル「Queen Victoria 至上の恋」
を見る事が出来ました。
「私の女王 (ミセス・ブラウン)」・日本タイトル「Queen Victoria 至上の恋」
を見る事が出来ました。
随分昔にヴィクトリア女王は夫のアルバート公の亡き後、従僕との間に
大変親密な友情を持ったことがあるものの恋人は持たなかったと読んでいたので、
ああ、この事だったのか、と納得しましたが、
ああ、この事だったのか、と納得しましたが、

その後こちらのサイトでかなり詳細なサイト記事をあれこれ読み、
彼女の棺に入れる様に本人が書き残し、実際に何が、というのを読むと、
彼女の棺に入れる様に本人が書き残し、実際に何が、というのを読むと、
通常伝わる「女王と従僕の間の深い友情」とは違う、と確信し、はぁ、
歴史のゴシップ好きshinkaiは、今回それについて。
ヴィクトリア女王は63年以上に渡る、現エリザベス女王2世に次ぐ
在位記録を持ち、

ちなみにエリザベス2世はヴィクトリア女王の玄孫・孫の孫に当たり、
9人(男子4人、女子5人)もの子女たちはヨーロッパの各王室に入り、
「ヨーロッパ王室の祖母」とも呼ばれるほどに、40人の孫、37人の曾孫!
「ヨーロッパ王室の祖母」とも呼ばれるほどに、40人の孫、37人の曾孫!
2人+9人の、家族総勢。

頑固我がまま、意地っ張り直情径行、短気で激高しやすく、道徳的、かなり
妄信的な面もあったと言われるヴィクトリアは、ケント公エドワード
妄信的な面もあったと言われるヴィクトリアは、ケント公エドワード
51歳の時の子で、1819年5月24日生まれ。
父のケント公は彼女が8か月の時に薨去。
生まれた時は王位継承の5番目に位置していたのが、翌年1820年3番目となり、
1830年には2番目、こうして最後の叔父のウィリアム4世が65歳で国王となり、
遂に次期王位継承者の位置に。
16歳の誕生日のヴィクトリア。

叔父のウィリアム4世国王は1837年6月20日の未明に亡くなり、
ヴィクトリアは18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位を。
ヴィクトリアは18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位を。

「ヴィクトリア王朝時代」と呼ばれるイギリスの繁栄期をつくり、
世界に広がる大植民地帝国も創り上げた当時の政治状態についてなどは
到底手に負えませんので、
世界に広がる大植民地帝国も創り上げた当時の政治状態についてなどは
到底手に負えませんので、
今回は「ヴィクトリア女王とジョン・ブラウン」の関係のみに絞りますね。
ヴィクトリアは身長145cm程の小柄で、道理で写真で見る夫アルバート公
も身長は167cmと高くないのに大差があるので、一体彼女の身長は?と
思っていたのでしたが、
も身長は167cmと高くないのに大差があるので、一体彼女の身長は?と
思っていたのでしたが、
一方体重は結婚前に56kgで、出産を重ねる度に体重が増え、最後には70kgを
超えていたといい・・!
超えていたといい・・!
夫のアルバート公は、ヴィクトリアの母方ケント公妃の実家ザクセン・コーブルグ・
ゴータ公である兄エルンスト1世の次男であり、最初から婿の最有力候補。

大変な美男で知理性も備えた教養高い男性で、ヴィクトリアは以前出会った時から
いわば一目惚れ、ただ周囲がかってに話を進めているのが気に入らなかった様子が、
いわば一目惚れ、ただ周囲がかってに話を進めているのが気に入らなかった様子が、
改めて1839年10月に訪問して来たアルバートが更に素晴らしくなっているのに、
君主位にある彼女の方からプロポーズをし、
君主位にある彼女の方からプロポーズをし、
1840年2月10日に挙式を。

ヴィクトリアの母方の従兄弟に当たるアルバート公は1819年8月26日生まれ、
つまり3か月遅れの同い年で、
つまり3か月遅れの同い年で、
映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」にも描かれていた様に、イギリス女王と結婚、
婚家に入った婿の様に最初は何にも手出しができなかったものの、
婚家に入った婿の様に最初は何にも手出しができなかったものの、
徐々に女王と共同統治の形となり、影響力を強めて行く姿がありましたが、
ヴィクトリアにとってはちょうど格好の良い夫ではなかったのでしょうか。

そんな夫君アルバート公が20年の結婚生活の後、1861年42歳の若さで
亡くなった後の悲しみは深く、その後公的な生活から遠ざかる隠遁生活を
スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスで過ごし、
殆どロンドンにも行かず、そんな生活は10年以上も続いたのですね。
亡くなった後の悲しみは深く、その後公的な生活から遠ざかる隠遁生活を
スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスで過ごし、
殆どロンドンにも行かず、そんな生活は10年以上も続いたのですね。
政治的な活動にも支障をきたし、健康問題もあるそんな生活から
少しでも女王を引きだそうという意図から、
アルバート公のお気に入りでもあった、バルモラル城の馬丁、スコットランド人の
ジョン・ブラウンがヴィクトリアの馬係となり、乗馬や馬車で出かける様に。

ジョン・ブラウンは1826年12月8日生まれ、つまりヴィクトリアよりも7歳年下の、
ラフで有能な、ちょいちょい酔っ払ってもいる男で、そんな彼はヴィクトリアの
大のお気に入りに。

女王に向い直接に「女」と呼びかける、そんな荒々しい手応えのある扱いが
落ち込んでいる、元々は気の強い彼女には気に入ったのかも、で、
落ち込んでいる、元々は気の強い彼女には気に入ったのかも、で、
私的な召使、ボディー・ガードとなり、遂には王族、首相に至るまで、彼を通さずに
謁見が出来なくなるほどとなり、
ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」と新聞紙上に書かれ、様々な噂の的に。
謁見が出来なくなるほどとなり、
ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」と新聞紙上に書かれ、様々な噂の的に。
ヴィクトリアは絵を描くのが好きで、彼女の描いた「ジョン・ブラウン」

こうした2人の大スキャンダルを醸した主従関係は、1864年から1883年の
彼の死迄の約19年間続き、
彼の死迄の約19年間続き、

ジョン・ブラウンはまさに良き友として、示唆を与え女王の心の内に
強く入り込み、支えたのでしょう。
夫アルバート公とはまた違った意味で、「2度目の人生」を共にの
ヴィクトリアだったのかもで、
彼が亡くなった後、ヴィクトリアは彼を偲ぶ像や、こんなベンチも。


映画の中の1シーンを。

そしてその後また1人になり、実際どうだったのかは知りませんが、はぁ、
女王ヴィクトリアの生活は1901年1月22日82歳での薨去まで。
80歳のヴィクトリア女王。

そして1901年2月1日から4日、大葬の日の棺。

と、ざっとご紹介して来たのですが、最後に冒頭に書いたジョン・ブラウンとの関係
について、映画でも、熱い友情が交わされたのだろうなぁ、というノスタルジ-的な
思い入れで描かれていましたが、
自身の12ページに渡る葬儀についての指示があり、棺には、彼女が指定した通りに、
彼女の秘書と私的な医者のみが携わり執り行われ、
彼女の秘書と私的な医者のみが携わり執り行われ、
結婚式の白い衣装で、その上からアルバート公の衣類をかけ、
両手の間にはスコットランドの野に咲くヒースの花束を。
両手の間にはスコットランドの野に咲くヒースの花束を。
宝石類は感傷的に大きな価値を持つもので、左手の薬指にはアルバート公との
結婚指輪を、そして右手にはジョン・ブラウンが贈った彼の母親の結婚指輪を、
結婚指輪を、そして右手にはジョン・ブラウンが贈った彼の母親の結婚指輪を、
彼は結婚しておらずで、そして彼の写真と、髪の毛のひと房、そして交わした
何通かの手紙。 これらは人目に触れぬ様、他のたくさんの花に埋もれる様に、と。
他のサイトにも載っていましたし、これを読んだ時に、2人の間柄を確信。
55歳の女性と48歳の男性。 夫との生活はまだ若く、次々と9人の子育てと
公的な生活に追われたままで中断。
その様な生活と違い、改めて2度目の大人の人生をしみじみと味わった様な、
そんな感慨がヴィクトリアにはあったかもで、
そんな感慨がヴィクトリアにはあったかもで、
他にも色々名のあがった人もいるものの、棺に入れる様願ったこの品々で十分に
彼女の心底を覗いた様な、ちょっといじらしい気もする程に!
彼女の心底を覗いた様な、ちょっといじらしい気もする程に!
最後にもう一度2人の写真と、

ジョン・ブラウンの、shinkaiめが気に入った、へへ、ワンとの写真を。

今の我らから2世紀前と遠く、がんじがらめの旧い女王の生活も、こうして知ると、
彼らも生きたんだなぁと、彼らの熱い血の思いをも感じません?!
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