・ n.2 パゾリーニの塔・家 と ボーマルツォのピラミッド 

先回からご案内を続けているヴィテルボ県のボーマルツォ周辺ですが、
n.1では、なんとも凄みのある2700年前からのエトルスクのピラミッド
ご紹介でした。

まだイタリアでも10年ほど前から漸く知られる様になった様子で、
何せ林の奥にあり、徒歩で、おまけに殆ど標識もまだないという道を辿るので、
きっと日本にはまだご紹介されていないと思うのと、

地図を眺めていて偶然知った、その近くにあるピエル・パオロ・パゾリーニの
最後の住まいである、(悲劇的な死を迎えた彼については徐々に)

中世の塔を買い取り改修し住まいにした、キーアの塔・Torre di Chia、
これを今回ご案内致しますね。

こちらです。  1250年に建設の、5角形、高さ42mの塔で、一帯が既に
海抜300m程のかなり高い位置なので、素晴らしい見張り塔だったろうと!。

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平地から見ると、両横に城壁を広げたこの姿で、

2-torre-di-chia-2.jpg

城壁の高さにかっての手前側建物の屋根組みの穴が見えますし、
上の窓の周囲にも穴があるので、張り出しのテラスがあったのかも。



この塔で検索をかけると、「キーアの塔=パゾリーニの塔」と出るので、
一気に好奇心に駆られてあれこれ探し、読んだという事で、

この地図をどうぞ。 一番上に「エトルスク」のピラミッドがあり、
切れている左上にボーマルツォの町があり、

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南に下り、キーアの塔・Torre di Chia、 そしてその下に見える
Set film "Il Bangelo secondo Matteo" が、
パゾリーニが1964年映画を撮影した「マタイによる福音書」 
日本語タイトルは「奇跡の丘」のキリストの洗礼場面の撮影場所。



これが「キーアの滝」とか「キーア城の滝」とか呼ばれる滝で、

4-cascate-Chia-borgo-tanto-amato-da-Pasolini.jpg

5-cascate-torrente-castello.jpg



中世にはここから水を引き2つの水車、1つは麦用、もう1つはオリーヴ油用
を回すのに使われ、1950年代まで現役だったそうで、
今もこうして水車小屋の跡が。

6-il sentiero dei mulini.jpg



そして、こちらが映画の「洗礼場面」と、

7-Le-cascate-di-fosso-Castello-a-Chia-.jpg



撮影の様子。

8-il vangelo secondo matteo.jpg

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パゾリーニはこの地に撮影に訪れた際に即、この地の自然に魅せられた様子で、

1966年にはイタリアの喜劇の王様、現在でも良く放映される、トト・Totòを
主役に「大きな鳥、小さな鳥」を撮影していますが、

ヴィテルボの西のトゥスカーニア・Tuscaniaのロマネスクの素晴らしい教会を
背景にしたシーンがあり、

こちらはサンタ・マリーア・マッジョーレ教会で、

11-1-set di uccellacci e uccellini.jpg



同じ教会の薔薇窓を背景のこのシーンは、上の「マタイによる福音書」で、

11-2-chiesa romanica tuscania.jpg



こちらは「大きな鳥、小さな鳥」のサン・ピエトロ聖堂。 

12-set di uccellacci e.jpg


どちらにもshinkaiは魅せられたので忘れられませんで!
n.1 トゥスカーニア 古寺巡礼 ・ サンタ・マリーア・マッジョーレ教会
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880849.html

n.2 トゥスカーニア 古寺巡礼 ・ サン・ピエトロ聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467881471.html



この背負われているのがトトで、上に見えるのはサン・ピエトロ聖堂で、
右端に切れているのが、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会。

13-1-uccellaci e.jpg



ローマ人以前、イタリア中部トスカーナからラツィオ州にかけ、紀元前10世紀頃より
エトルリア人が住んでいた土地、そして今も残るエトルスク文明、文化には
どこか謎があるせいか、また文化自体にも魅惑的な味わいがあるのか、

それに加えロマネスク美術の残るラツィオ州の北から西にかけての旅は
大変に満足、酔い加減になった記憶が残ります。

ピエル・パオロ・パゾリーニ・Pier Paolo Pasoliniもそんな感じを受けたのかも、
と少し嬉しくなりますが、

ボーマルツォとの位置関係の地図をどうぞ。

13-2-map1Cattura.jpg

ヴィテルボについては  n.1 ヴィテルボ ・ 中世への誘いと、泉のご案内4つ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471535351.html

n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536148.html

n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の始まり、聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536593.html


タルクイニアの  有翼の馬 ・ タルクイニアの国立考古博物館 ラツィオ州
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467882301.html

ボーマルツォの北  n.1 チヴィタ・ディ・バーニョレージョ ・ 天空の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467757700.html

n.2 チヴィタ・ディ・バーニョレージョ ・ 天空の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467757874.html



所で、如何にも知った風に、ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)と
書いていますが、実際は名前を知っている程度で、
お隣フリウリ州のカザルサ・Casarsa della Delizia、ここは母方の郷里で、
暮らした事もあり、彼のお墓もカザルサにある事位を。

映画監督、脚本家、作家、詩人、として、その特異な作風でも影響を与え、
また青少年への同性愛問題も起こしており、最後の映画作品は「ソドムの市」、
これはマルキ・ド・サド原作の映画化で、その残虐描写と、ネオ・ファシストへの
批判、風刺が多分彼の死の原因になったのかもで、
   
1975年11月2日ローマのオスティアの浜で、暴行を受けた後に車で轢殺、
という悲劇的な死を迎えました。

当初は映画「ソドムの市」に抜擢された17世の少年の自白証言で、
そのまま捜査が打ち切られたものの、到底1人の犯行ではないのは明らかで、

2005年になり、この少年は「偽の自首、証言をファシスト達に強制された」と
証言したものの、現在に至るも事件は謎のまま。



これは彼に強い影響を与えたと言われる学校教師であった、母のスザンナ・
Susannaと一緒の写真で、

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この母の影響で、彼は7歳にして詩作を始めたのだそうで。



こちらは映画監督ベルナルド・ベルトリッチ。 パゾリーニの映画処女作で
助監督を務め、翌年自身も監督デヴューした縁だそう。

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脚本家としてもフェデリコ・フェリーニの「カビリアの夜」を共同執筆したり、
自分が監督でデヴューするまでに10本以上脚本を書いたり、
小説の発表で発禁処分を受けたもののアルベルト・モラヴィアの知古を得たり、
上記した「大きな鳥 小さな鳥」ではロベルト・ロッセリーニから好評を得たり、

作品毎のそれぞれに大きな反響を受け、自身が伝説的な存在であり・・。


イタリアにいると自然に知る様々な事もあり、
例えば、昨日友人のジュリアーナに、キーアの塔の住居の事を話すと、
彼女はもちろんボーマルツォのピラミッドの事も初耳だったのですが、

彼女はフリウリ出身、ウーディネで知り合った知人にカザルサの人がいて、
彼はパゾリーニについて、土地の人は「4つのP」と言っていた、と。

4つのPとは、ピエル・パオロ・パゾリーニ+ペデラスタのP、と。
ペデラスタ・Pederastaとは、少年愛好同性愛者の事。

ボローニャ大卒業後カザルサで中学教師になり、イタリア共産党に入党したものの、
未成年者3人への公衆の場での堕落幇助というのか、言葉を選ぶのに困難、はぁ、
裁判沙汰になり、教職も失い、共産党からも除名され、

母親と共にローマに移り、厳しい生活の中で執筆を、という活動の中から
脚本家としての出発を。


という様なパゾリーニの生涯の始まりがあり、1964年春
「マタイによる福音書」の映画撮影でキーアを訪れ、この地の自然に魅せられ、
キーアの城の塔を自分の住居に、との思いを持ちます。

”では、君と分れる前に打ち明けると、
自分は音楽の作曲家となり、買う事の出来ないヴィテルボの塔の中で、
楽器と一緒に住みたい。
世界で一番美しい風景の中で、アリオストなら見て喜びで多分気が違った様に
なるだろう、樫の木の大いなる純粋さで作り上げた風景、丘、水、渓谷、
そして音楽を構成する事が多分唯一の表現で、高く、そして現実の行動の様に
定義できない、と”   拙訳ご容赦。

これは1966年彼の詩の中に書いたもので、ヴィテルボの塔、とはキーアの塔。



確かに周囲をかってのままの素晴らしい自然に囲まれたキーアの村落で、

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住民は400人程というのですが、村には空き家が多く、かなりの廃屋と。



「買う事の出来ない塔」と詩に書いた夢は1970年11月に実現。
塔も自然も破壊しない様な設計を依頼し、塔の足元に石と大きなⅠ枚ガラスの、
岩と緑の懸崖にはめ込まれたような住居を。

こちらに設計図があり、

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最初キーアの塔と知り、出る写真からshinkaiは大きな塔かと思い込みましたが、



この写真をどうぞ。 高い塔の向かい側に低い塔が見え、上の設計図の
城壁の角度から見て、どうやら奥の低い方の、谷側に住居がある様子で、

19-Torre-di-Chia.jpg



こちらをご覧になると、低い塔の城壁のいわば外側、崖の上に、というのが
お分かりかと。

20-71.jpg

そして、上の設計図では塔のこちら側のみの建物が、塔の向こう側にも
見えるので、多分後の設計で変わったものと。



こんな感じに城壁に寄り掛かる感じで細長く家が続きます。

21-unnamed.jpg

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24-DSC00278.jpg

パゾリーニは、待望したこの住居に5年弱住んだことになりますね。

訪問した彼の友人の評によると、如何にも彼の家らしく、内省的な印象が強い、
とあり、写真を見ただけでも、如何にもの独居住宅で。


この9月1日付けで、この家が売りに出された、というニュースのサイト記事で、
広さは185平米、5部屋で、2つの寝室、2つの洗面所トイレ、小さな台所、
料理に興味はなく、出来なかった、と。

現在の持ち主は遺産で、グラツィエッラ・キアルコッシという方で、
とにかく維持費がかかり過ぎるので、という理由で、売値は80万エウロ。

大変に今迄の維持が行き届いており、すぐにでも住める状態だそうで、
とにかく公開しながら、パゾリーニの博物館として、コムーネ、または
ラツィオ州の管轄に、と望まれ色々折衝されている様子で、
文化省のフランチェスキーニ氏がニュースを聞いて椅子から飛び上がった、
という話もあり、

漸くに最近ガイド付きでの公開も始まっている様子なので、
上手く話が進むように願いましょう。



パゾリーニの葬儀写真。 右から2人めは、かのエンリコ・ベルリングエル・
Enrico Berlinguer(1922-1984)サルデーニャ島サッサリの貴族、
政治家、共産党書記長。

25-pasolini.jpg


まだ53歳の死で、駆け足で生きぬいた様子も受けますが、
今回改めて読み、生きた時代が彼の趣味嗜好より少し早かったのかも、とも。


まるで知らずだったのが、偶然の援けで新しく色々知ったエトルスクの地。
やはり少し謎の魔法がかかっている土地なのかも!


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