皆さま、新年明けましておめでとうございます!
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
今年がどうぞ良い年であるように願いつつ、頑張って参りましょう!
そうです、この方、フランスの絶対王権を築いたと言われる「太陽王ルイ14世」
(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)ですね。
(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)ですね。
ヴェルサイユ宮殿、パリの南西22k、最初は前王ルイ3世の狩猟の館があったのを、
1661年頃より広大な庭園あれこれとトリアノン宮等の増築、改築が続きますが、
1661年頃より広大な庭園あれこれとトリアノン宮等の増築、改築が続きますが、
1682年に宮殿と政府を、前の宮殿ルーヴルから移し、つまり第2の首都とし、
ここにルイ14世の王国基本が示された、という事に。
ここにルイ14世の王国基本が示された、という事に。
国王44歳、即位後5年。
単に王宮だけでなく、貴族、廷臣、政府関係者、勿論それに仕える者たち、
全てヴェルサイユに住む事を義務付けられ、これも「絶対王権」を築いた一因に。
全てヴェルサイユに住む事を義務付けられ、これも「絶対王権」を築いた一因に。
こちらが1668年、とあるヴェルサイユ城の様子で、
これが正面玄関、入り口ですね。
「ヴェルサイユ」と言うと、広大で豪華な噴水のあるとてつもない大きな宮殿、
というイメージがすぐわきますが、shinkaiは未だ未訪問ですが、へへ、
つまり広大な庭園があるのは、宮殿建物の裏側、というか、北側で。
こちらが建設第2案というか、右上に(1680-1683)とある様に、
最初の案に変更を加え、王の住居、政府となった時の物。
若草色部分が王のアパート・住まい部分で、その下の赤色が王妃の住まい、
そして上の黄色部分が、多分政府関係の部屋と。
そして上の黄色部分が、多分政府関係の部屋と。
右上に、Quarta Cappella Reale・第4の王室礼拝所、とあるので、
どうやらあちこち住まいながらの変更もあった様子で。
こちらが現在の図で、礼拝堂も少し離れた位置となっているのが分かります。
こちらが庭園を含めた図で、建物類は右寄り中央に赤線で囲った部分が、
上の図にある当初の建物類で、左右に広大な、まさに広大な庭園が
広がるのが良く分かり、
多分これ以外に、狩猟が好きだったルイ14世の為に、
100万平米に渡るという狩猟場があったそう。
と、十字形の運河の東側に、大小のトリアノン宮があり、
今回「絵のブログ」ではこの近くの菜園で働いているイタリア人の若者に
ついて取り上げましたので、この後どうぞご訪問を。
ついて取り上げましたので、この後どうぞご訪問を。
という事でヴェルサイユ宮殿全体のご案内が済みましたので、
本日の主題である「ルイ14世の一日の推移」をご案内致しますね。
本日の主題である「ルイ14世の一日の推移」をご案内致しますね。
王の毎日は、きちんと決められた時間によって進行し、
後に残されたサン・シモン公爵の有名な言葉、
「アルマナッコ(月の満ち欠け、祭日等の記述のあるカレンダー)と、
時計があれば、たとえ300リーグ(1リーグ4-5km)離れていても、
王が何をされているか、確実に知る事が出来ます」と。
「アルマナッコ(月の満ち欠け、祭日等の記述のあるカレンダー)と、
時計があれば、たとえ300リーグ(1リーグ4-5km)離れていても、
王が何をされているか、確実に知る事が出来ます」と。
王の1日は、8時半に始まります。 こちらが王の寝室で、
ベッドの傍で警護し、1時間前に起きている第1の従者がベッドに近づき、
「陛下、お時間です」と声をかける事から始まり、
ベッドから出て、洗顔、衣類の着付け、髪を整え(カツラをつけ)、
毎日の祈りの言葉を唱える、これが毎日の儀式で、1時間。
毎日の祈りの言葉を唱える、これが毎日の儀式で、1時間。
部屋の外には10人程もの廷臣たちが待ち構えているものの、
身分の違いが部屋に入る順番が決められており、
身分の違いが部屋に入る順番が決められており、
まず皇嗣たちと王の身内、そして大臣、閣僚たち、次が廷臣たち、で
部屋への入り口は全部で6つ!あったそうで。
部屋への入り口は全部で6つ!あったそうで。
王に目通り出来るのは情報を伝えたり、恩恵を受けたりの大きなチャンスで、
時に他よりも先に部屋に入れる許しを得られる場合があり、
これは身体機能、欲求を果たすために座る時、
はぁ、「chaise percée」とあり、何かと検索しましたら、「画期的椅子」
つまり椅子の下にオマルを仕込んだ画期的なるものの写真が出て!きゃは、
つまり椅子の下にオマルを仕込んだ画期的なるものの写真が出て!きゃは、
この身体欲求を果たすのに30分間!
これは証言によらずとも、「王には儀式以上に、必要なもの」だった訳で。
そして、洗って(これは洗顔のみだったと思うのですが)、衣類を着て、
礼拝堂に向かう前にあったのは、従者たちに靴の紐を結ばせる事。
で、shinkaiが心配したのは、起きて後、何も食べずに礼拝堂に
行ったのか?という事ですが、
他のサイトの記事に、「ティザーナ・煎じ薬、茶、を飲む」とあり、納得。
行ったのか?という事ですが、
他のサイトの記事に、「ティザーナ・煎じ薬、茶、を飲む」とあり、納得。
こちらが王の礼拝堂で、礼拝堂行きは毎朝の重要な行事。
国王が信仰篤いという事を見せる為でもあり、誰もが王に従い行進でき、
礼拝堂に入れ、入る所を見せたり、もありで。
礼拝堂に入れ、入る所を見せたり、もありで。
礼拝堂はご覧の様に上下になっており、上の階が宮殿の2階と同階、
つまりこの様で、ここで王は跪き、毎日のミサ、30分間拝聴したと。
年に5回特別な祭日の日に、王は聖体拝受・つまり薄いパンを受け、
この時は下の階に降りて跪き、ミサに参加。
この時は下の階に降りて跪き、ミサに参加。
そしてこの日は礼拝堂を出た所で、「皮膚結核の患者に触る」儀式が行われ、
皮膚結核というのは、肺以外の結核症状で、数多い患者が国の各地から
集まり、王の通る道に膝まずき待つのに、王は1人づつに触り、
「王がお前に触る、神よ、治したまえ」と唱えたのだそう。
皮膚結核というのは、肺以外の結核症状で、数多い患者が国の各地から
集まり、王の通る道に膝まずき待つのに、王は1人づつに触り、
「王がお前に触る、神よ、治したまえ」と唱えたのだそう。
ミサに行くには、王の部屋の背後にある「大ギャラリー」を抜け、そして
「大アパート」、多分黄色の部屋の幾つかを抜けて行ったのだそう。
「大アパート」、多分黄色の部屋の幾つかを抜けて行ったのだそう。
そうなんですよね、この様に如何に大きな宮殿でも、城でも、当時は
プライヴァシーが無かったというのか、部屋の外に廊下は無く、
直接に部屋を抜けて行く、という様子だったのですね。
プライヴァシーが無かったというのか、部屋の外に廊下は無く、
直接に部屋を抜けて行く、という様子だったのですね。
ミサから戻ると、または起きた後にすぐ、この場合はミサは後刻に行われ、
王のサロンに続いてあった会議場に入り、毎日議会があったそうですが、
この部屋は1701年に王の寝室となったそう。
大臣たちはテーブルの周囲に座り、その日の様々な問題について順番に
話したり意見を言ったりで、王は最後に認可や承認を与えたりで
解決したそう。
話したり意見を言ったりで、王は最後に認可や承認を与えたりで
解決したそう。
この画は、科学アカデミーのメンバーたちと王の会見。
そして昼食というか、朝食というか、最初の食事となりますが、
1686年から王はいつも自分の部屋で食事をしたそうで、四角なテーブル、
恒例の決まった「6皿の3コース」を。 これは「小さなコペルト」と呼ばれ、
恒例の決まった「6皿の3コース」を。 これは「小さなコペルト」と呼ばれ、
自分の部屋と言っても、公開の、部屋のドアは開けられ、大勢が見つめ、
という状態で!
という状態で!
とにかくヴェルサイユ宮殿においては、フランス人のみならず、外国人も
どこにでも立ち入ることが許され、すべて公開されており、
どこにでも立ち入ることが許され、すべて公開されており、
これによりフランス国の裕福さ、宮殿の豪奢さが外国にも伝わり、
国や宮殿の制度も他国が追従する元にもなったのだそうで。
国や宮殿の制度も他国が追従する元にもなったのだそうで。
他のサイト記事によると、王の好みによる食器類は重要で、銀かマヨリカ焼き、
グラス類は透明なヴェネツィア産、ナフキンは様々な形、兎とか犬等に折られ、
フォークは既に何世紀前にイタリアからお輿入れのカテリーナ王妃によって
伝えられたのは有名な話ですが、
伝えられたのは有名な話ですが、
ルイ14世はフォークを使わず! 一皿が終わる毎に、濡れたナプキンで指を
拭いたそうで。 となると、あまり熱い料理は出なかった、出せなかったのかも。
王と王妃が一緒に食事をして見せるのは「大きなコペルト」で、
「小さなコペルト」は王妃は時1人で自分の部屋で食べたそう。
「小さなコペルト」は王妃は時1人で自分の部屋で食べたそう。
もし議会の様子が大丈夫で、午後の予定がない時には王は自由で
庭園に散歩に出かけたり、とにかく園芸が大好きな王様だった様子で、
庭園に散歩に出かけたり、とにかく園芸が大好きな王様だった様子で、
自分で「ヴェルサイユ庭園を見せる方法」なる本を書き、公開されている
庭園を訪れる民衆に、どこで何を見るかと、花壇や森の見方を書いているそう。
庭園を訪れる民衆に、どこで何を見るかと、花壇や森の見方を書いているそう。
また庭園に彫刻類を置き、眺めるのも大好きで、彼の治世中のヴェルサイユの
庭園には約200体もの彫像があったそう。
庭園には約200体もの彫像があったそう。
これは北の花壇にある、セーヌ河を現す像で、
こちらは、お付きの者、グループに囲まれ、多分狩猟に出かけるルイ14世。
もし王が出かける気分にならない時、また天候が良くない時は王宮に留まり、
1693年に拡張された「アパート部」には議会関係の部屋が15室あり、
1693年に拡張された「アパート部」には議会関係の部屋が15室あり、
気分を楽しませ、変化をつける為に様々な絵画が飾られたり、
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」や、
貴石や、その鉢、銀や青銅の小さな彫像、ミニチュアの手稿や、メダル等々が。
ルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ・Marie Thérèse d'Autriche
(1638-1683)スペインからお輿入れの王妃でしたが、ヴェルサイユに移って後
僅か1年で亡くなり、
国王の愛人、公的な愛人もこれ以前から何人か続いており、こちらは有名な
モンテスパン夫人・Françoise de Montespan (1640-1707年)
王のご寵愛の深さに増長し、驕慢で、権力欲の強い女になり凋落したとか。
モンテスパン夫人・Françoise de Montespan (1640-1707年)
王のご寵愛の深さに増長し、驕慢で、権力欲の強い女になり凋落したとか。
モンテスパン夫人が生んだ、王との間の庶子たちを愛情深く育て、
その慎み深さからも王の信頼を受け、遂に秘密結婚(1685~1686)に
至った、マントノン夫人・Françoise de Maintenon (1635-1719)
その慎み深さからも王の信頼を受け、遂に秘密結婚(1685~1686)に
至った、マントノン夫人・Françoise de Maintenon (1635-1719)
1683年頃から、王は午後はマントノン夫人を訪問する事が多くなり、
夫人の人柄の影響は宮廷に大変良く広がったそう。
夫人の人柄の影響は宮廷に大変良く広がったそう。
またこの当時から王は宮廷のメンバー達を週に何度か規則的に招く会、
パーティーを開く様になり、それも公衆が訪問しやすいアパート部で開き、
一般人達も自由にフランス王の生活や、芸術のコレクションへの努力なども
知る事ができ、
知る事ができ、
招待客たちは王と共有できる特権を楽しみ、規則無しの気晴らしも出来たそうで、
ビリヤード、様々なタイプの遊び、賭博もで、また会話する事、音楽を聞く、
ダンスをする、お菓子を食べるなども。
ダンスをする、お菓子を食べるなども。
またこうした会で、ヴェルサイユが占める今までと違った位置を認識させ、
王とその権力について慣れさせる意味もあった様で、
高位貴族たちが不信や警戒を超え、王との絆を深める事にも。
王とその権力について慣れさせる意味もあった様で、
高位貴族たちが不信や警戒を超え、王との絆を深める事にも。
また別の週にはフランス語かイタリア語のコメディ、または悲劇の上演もあり、
オペラ上演よりもずっと多かったと。
オペラ上演よりもずっと多かったと。
1683年からは、10時頃に王の控室において夕食がとられ、「大コペルト」
の「スープ」という決まりの、5コースで!
の「スープ」という決まりの、5コースで!
王族のメンバー何人かは王と同じテーブルに座る事が出来、
豊かな料理の量は王家の富のシンボルであり、王国の健康さの良い印とされ、
豊かな料理の量は王家の富のシンボルであり、王国の健康さの良い印とされ、
ミサに公衆が参加する事が出来たように、部屋の広さからして、いつも
皆が満足する程に入れたわけでは無くとも、これもまた公開の場であり、
音楽が演奏され、45分間に渡る儀式であったと。
皆が満足する程に入れたわけでは無くとも、これもまた公開の場であり、
音楽が演奏され、45分間に渡る儀式であったと。
ルイ14世は大変な大食漢だったらしく、平常よりも腸が長かったのかも!
とあり、ははは、
とあり、ははは、
夜中に起こりうるかもの「飢え」に備え、従卒は部屋のテーブルの上に、
「応急食」の「冷肉と小さなお菓子」を用意していたそうで!
ヴェルサイユ宮殿の一番の有名所、「鏡のギャラリー」
そしてルイ14世のヴェルサイユにおける1日の最後は、「王のベッド」、
文字通り「ベッドに行く時」で、
偶然に光栄にも王にベッド・ルームに入るのを許される廷臣たちがおり、
それはロウソク立てを持って、王が衣類を脱ぐのを手伝う事!で、ははは。
それはロウソク立てを持って、王が衣類を脱ぐのを手伝う事!で、ははは。
ヴェルサイユの世界、ルイ14世によって定められた組織の確立は、
従順な廷臣たちで構成された単なる政治システムではなく、
フランスの礼儀と政治家の特権的な空間、宇宙であり、
従順な廷臣たちで構成された単なる政治システムではなく、
フランスの礼儀と政治家の特権的な空間、宇宙であり、
それは多くの外国人観光客や大使たちによって、フランスのみでなく、
ヨーロッパの他の地域にも広まって行った、
王国最高の芸術家たちにより考案作成されたシナリオの、
完全なる展開であった、と。
ヨーロッパの他の地域にも広まって行った、
王国最高の芸術家たちにより考案作成されたシナリオの、
完全なる展開であった、と。
という所で、「ルイ14世のヴェルサイユ宮殿の1日」も終わりに。
ボンニュイ! ドゥマン。
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