・ ジューリア・ファルネーゼ  教皇アレッサンドロ6世の愛人の・・

先回の、10世紀ローマの教皇庁を手玉に取り、政治の実権を
握ったというマローツィアのお話に続き、

今回は15世紀ルネッサンス期の教皇、アレッサンドロ6世の愛人として、
「ジューリア・ラ・ベッラ・麗しのジューリア」と呼ばれた美人のお話を。


但しジューリアの場合は、彼女自身が政治の表に立つことはなく、
彼女に魅せられた教皇の引き立てにより、
ファルネーゼ家が一気に隆盛の門口に立ち、権力と富を持つ一家となり、
またその幸運に応えるだけの才を持っていた兄アレッサンドロも
後に教皇パオロ3世になる、という経緯で。


同じ15世紀の美人として有名なシモネッタ・ヴェスプッチ・
Simonetta Vespucci(1453-1476)の肖像は、ボッティチェッリが
彼女をモデルに何枚も「春」「ヴィーナスの誕生」等を描き現在に残りますが、

1-1-Simonetta-Vespucci-Copertina-900x473.jpg



ジューリア・ファルネーゼ・Giulia Farnese(1475-1524)は
美人の誉れが高かったにも関わらず、その肖像画が残っておらず、

こちらはその数少ないうちの1枚、ラファエッロ描く、1505
ジュリアであろうと言われる、作品。

1-2-Dama-Unicorno-Giulia-Farnese.jpg



なぜ彼女の肖像が残らなかったのか、という謎も含め、彼女についての
記事は、こちらを参考に。

ジューリア・ファルネーゼ:教皇ボルジャの愛人は「キリストの花嫁」だった
Giulia Farnese: Amante di Papa Borgia era la “Sponsa Christi”


ジューリアは1475年に北ラツィオ州のボルセーナ湖に近いカポディモンテ・
Capodimonteの生まれで、家は田舎の小さな貴族、彼女の上に
2人の兄、アンジェロと後の教皇アレッサンドロがいて、妹にジローラマ。

彼女の教育は、当時の田舎の貴族女性同様つつましく、
残る3通の手紙の筆跡は殆ど幼いものと。


9歳の時に父親のピエール・ルイージ1世が亡くなり、彼女の母親
ジョヴァンネッラ・カエターニ・Giovannella Caetani、

カエターニの姓から分かる通り、彼女は教皇ボニファーチョ8世なども輩出の
カエターニ家の出身で、

ジューリアがまだ幼い数年前に、父親のピエール・ルイージと枢機卿の
ロドリーゴ・ボルジャの間で交わされた子供の婚約に関しての合意を、

ジューリアとオルシーノ・オルシーニ・Orsino Orsini(1473-1500)
枢機卿の甥であるオルシーニとの婚約の確認を。

こうして1489年5月にジューリアとオルシーノは結婚契約を交わし、
翌年1490年5月、恒例のローマ貴族による華やかな騎馬行進の
儀式が行われ結婚を。

美しい15歳の若き花嫁は結婚の後、花婿の領土である現ヴィテルヴォ
にあるバッサネッロ・Bassanelloに従いますが、

多分この時点で既に、強力な夫の叔父であるボルジャ枢機卿、
若い少女の熱心な愛人でもあるロドリーゴ・ボルジャの許に
通っていたであろうと。

これは1492年8月教皇アレッサンドロ6世となって後の
ロドリーゴ・ボルジャ、お気に入りの画家であったピントゥリッキオの作

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ロドリーゴ・ボルジャ・Rodrigo Borgia、教皇アレッサンドロ6世
(1431-1503)はスペイン出身で、母方の伯父カリストゥス3世教皇の
引き立てにより、ボローニャ大学で法学を学んだ後、司教、枢機卿と
なった方で、
ジューリアのオルシーノとの結婚当時、彼は既に59歳!

彼には既に有名な愛人ヴァノッツァ・カッタネイ・Vanozza Cattanei
(1442-1518)との間に4人の子がおり、他にも数人、子供もで、はぁ、

3-Vannozza_Cattanei.jpg


彼女との間のチェーザレ・Cesare(1475-1507) ホアン・Juan、
ルクレツィア・Lucrezia(1480-1519) ゴッフレード(ホフレ)・Goffredoと、
歴史上にも名を残す子供たちがおり、

こうして見るとチェーザレとジューリア・ファルネーゼは同い年だった訳で!

ロドリーゴとヴァノッツァの関係は、ゴッフレードの誕生頃より疎遠に、と
言う事らしいですが、


ジューリアとボルジャ枢機卿との関係は偶然に始まった事ではなく、
多分彼女の母親ジョヴァンネッラと、夫の母、姑のアドリアーナ・ミア・オルシーニ
が、各家の利益を望み、仕組んだことであろうと! 

まさにで、その報酬は即現れ、ジューリアの兄のアレッサンドロは枢機卿に、
オルシーニ家はカルボニャーノ・Carbognanoとヴィニャネッロ・
Vignanello、いずれもヴィテルヴォ県の土地を領土に。

オルシーノ・オルシーニは、オルシーニ家の名にふさわしくない、へへ、
弱々しく鈍く、片目が不自由、戦闘に参加するのを避ける為には何でも、
というタイプだった様で、
妻と教皇との関係には、多分何も言えなかったらしく、気の毒にねぇ、はは。


ジューリアの兄のアレッサンドロ(1468-1549)が枢機卿に任命されたのは
1493年9月の事。
彼は始めローマに出て古文学、歴史、数学、科学の手ほどきを受けるも
芳しくなく、監獄にも入った様子でローマを離れ、

フィレンツェのロレンツォ・デメディチの宮廷に送られ、マルシーリオ・フチーノ、
当時の一流の人文学者に学び、ピコ・デッラ・ミランドラとも知り合い、
当時の一流イタリア貴族出身の若者たち、後の教皇、国王、
枢機卿、芸術家、文学者、詩人たちとの出会いがあり、
後の教皇レオ10世、クレメンテ7世との出会いも。

こうしてローマに戻ったアレッサンドロは教皇インノチェンティ8世に使えますが、
この教皇の亡くなった後跡を継いだアレッサンドロ6世により、
枢機卿に任命されたわけで、

妹ジュリアーナが教皇の愛人である事から、姓になぞり「枢機卿フレニェーゼ」、
フレーニャとはローマ俗語で女性X器を指すそう、というニックネームを。

まぁ、辛い時期であったでしょうが、彼の出来具合も良かったのでしょうね、
次々と昇進を重ね、教皇ボルジャが1503年に亡くなった後も
後継の教皇4代に仕え、家の封土も増えて行き、

遂に1534年教皇パオロ3世として戴冠を。

こちらは、その10年後1543年の、ティツアーノによるパオロ3世の像。

4-Paolo-III.jpg


一代の教皇で終わったボルジャ家と違い、
次々の人物輩出を重ねたファルネーゼ家の隆盛の様子をどうぞ。

n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536148.html

n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の始まり、聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536593.html

パオロ3世の孫のアレッサンドロ枢機卿の時代の勢力を示す

カプラローラ ・ ファルネーゼ家邸宅のある町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467764132.html

n.1 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467879883.html

n.2 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880189.html

n.3 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880454.html

ここにも   パルマの街 10の 見るべきもの、すべきもの
https://www.italiashiho.site/archives/20181125-1.html

ファルネーゼの大遺産 ナポリ カポディモンティ博物館のご案内ちょっぴり
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468061515.html



ファルネーゼ家の未来について先に述べましたが、またジューリアに戻り、

彼女はローマ滞在中は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼーノ枢機卿の館に、
ヴァティカンに近く、生き生きとした知的環境に囲まれ、教皇の娘
ルクレーツィアと一緒に暮らしており、

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1492年についに教皇位に上り詰めたロドリーゴ・ボルジャ61歳は
カトリック教会の絶対的権力を獲得、
一方ジューリアに対する思いは強く、非常識な程の渇望の対象となり、

1493年13歳のルクレーツィアがペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァ・
Giovanni Sforzaと結婚しローマを去るのに、

ジューリアと妹、そして姑のアドリアーナ・ミーラが、夫婦を送りがてら
マルケ州に旅立ちますが、
数週間後も教皇の帰ってくるようにという催促にも戻らず、



折も折、ナポリ王国の後継者問題から、相続を主張するフランス王
シャルル8世がイタリアに侵入、徐々に南に下りはじめ、

6-Carlo-VIII.jpg


その心配と、彼女に会いたいのみの教皇は、戻らないと破門に付し、
領土財産もすべて没収する、という脅しの手紙も送りつける様!

そしてジューリアの兄アンジェロ・ファルネーゼが郷里の城で重体に
なった知らせが届き、教皇の怒りに挑戦する様な形で兄の枕元にと
駆け付けますが、既に7月12日(1494年)に亡くなっており、

ジューリアも、やって来た兄のアレッサンドロも寝付いてしまい、
教皇は侍医を送るものの、事態は好転せず、そうこうするうちに秋に。

教皇は苛立ち、脅しの手紙を送り、ジューリアのローマへの帰還を促し、
一方夫のオルシーノも精一杯の誇りで、妻に自分の領土への帰宅を督促。


教皇の脅迫は成功し、遂にジューリアとその妹、姑はローマに向かいますが、
ヴィテルボ近くまで来た所で、教皇が送った30騎の騎士に守られた一行は
フランス軍の前衛軍に取り囲まれ、

30騎の騎士は戦うどころか抵抗も出来ず、これ幸いとフランス軍は
3000ドゥカートの身代金を要求する有様で、ははは、

この時点で教皇はすべての外交手段を通じ、フランス王シャルル8世も
じかに巻き込み、女性達は無事2週間後、12月1日にローマに。


一旦はこうして教皇の元に戻ったジューリアは、誘拐の経験に怯え、
またシャルル8世の南下に恐怖を感じ、兄のアレッサンドロ枢機卿の
援けにより、教皇の知らぬ間に娘のラウラを連れ、ローマから去り、
これ以降2人が会う事は無く、

1503年8月18日に、教皇アレッサンドロ6世は亡くなります。


そうそう、話が遅れましたが、娘のラウラ・Lauraは1492年11月30日生まれ、
夫オルシーノの、はたまたボルジャの娘であるのか微妙で、

ファルネーゼ側は、とりわけ兄のアレッサンドロは彼女が幼い頃より
良き夫を見つけるべく、教皇の娘と、宣伝していた様子で、

が、教皇は常に子供たちに寛大に接していたのが、ラウラに対しては
殆ど何もせず、ただファルネーゼ側の思惑を有利にさせる為に自分は沈黙し、
嘘を通させたのではないかと。


ジューリアの夫、ラウラの父のオルシーノは、1500年に亡くなり、
彼の資産は娘のラウラが受け継ぎ、

ローマを去った後のジューリアの行方は分からずのままだったのが、
教皇が世を去った1503年の末になり、カルボニャーノの城にいたのが明らかになり、

「麗しきジューリア」もすでに30歳、娘ラウラの良き結婚相手探しにローマに。
そして当時絶頂の勢いであったデッラ・ローヴェレ家の二コロ・Niccolò、
当時の教皇ジューリオ2世の、妹の息子と、1505年11月15日に結婚を。


年代記によると、1506年にカルボニャーノの城を、アレッサンドロ6世が
夫のオルシーノに与えたのを継ぎ、
熟練した、しっかりしたエネルギッシュな手腕で、封土を治めたと。


これはルーカ・ロンギの描いた、多分ジューリアであろうという作品

7-Giulia-Farnese-luca longhi.jpg



1509年、ジューリアはナポリ貴族ジョヴァンニ・カぺーチェ・ボッツゥート・
Giovanni Capece Buzzutoと再婚。
1517年10月ジューリア43歳、再度未亡人に。

1522年までカルボニャーノの城に住み、最後ローマに戻り2年間を過ごし、
1524年3月23日48~49歳で、兄のアレッサンドロ枢機卿の館で亡くなり、
これは枢機卿がパオロ3世教皇となる10年前の事と。


という15世紀の「麗しきジューリア」の人生のお話でしたが、
「教皇の愛人」という、流されそうな道を選びながら、いざという時は
しっかりと自分を保ち、すっと立ち去り、兄のアレッサンドロも賢く援け、

田舎の一貴族から身を起こし、ファルネーゼ家の隆盛の緒となった
女性とその兄の生涯で、あれこれ読みながらふ~~む、と。



所で、なぜ彼女を描いた肖像が無いのか、という最初のタイトルに戻りますが、

アレッサンドロ6世は、現在ヴァティカン博物館の「ボルジャの間」に残る
ルクレーツィアの肖像同様に、きっとお気に入りのジューリアの肖像も、
と思われるのがこれで、

ちょっと皮肉を込め「キリストの花嫁」と呼ばれる絵で、
聖母マリーアとキリスト、そして教皇ボルジャが前に膝まづいている様子で、

9-Alessandri-VI-Giulia-Farnese.jpg

但しこの絵はオリジナルのピントゥリッキオの絵をピエトロ・ファッケッティが
模写したもので、余り出来が良いとも思われずの作品で残念。



で推測として考えられるのは、兄のアレッサンドロが、ジューリアが
教皇アレッサンドロ6世の愛人だったから、自分が出世した、と
言われ続けるのを嫌い、憎み、

彼がすべて取り除いた、消し去ったのではないか、というのですね。


確かにそうかも、ですね。 ここ迄見事に確かな肖像画が残らない、
というのは意図しないと無理ですものね。

となると、なおの事、アレッサンドロ・ファルネーゼ、教皇パオロ3世の
見事な手腕も感じ取れるというもので、



最後はこれもヴァティカン収蔵の、ラファエッロの「変容」
一番手前の膝まづく女性が、ジューリア・ファルネーゼだろうと。

10-La trasfigurazione -Raffael_096.jpg


ルネッサンス15世紀の、爛熟したローマの空気に生きた美女のお話、
如何でしたか? こういう消え方も良いと思われません?!


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