・ カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と

カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)、イタリアはフィレンツェの
メディチ家出身、かのロレンツォ・イル・マニーフィコのひ孫にあたります。

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彼女は14歳の時、当時のフランス王フランソワ1世の子
後の国王アンリ2世(1519-1559)と結婚。

が夫の国王アンリ2世を26歳の時に、騎馬試合の大惨事事故により
亡くして以来、69歳で亡くなるまでを王妃、そして国王母公としての
55年に渡るフランス生活ですので、

彼女の名前もフランス風に、カトリーヌ・ド・メディシスと記しますね。


当時はイタリアの方が文化的に進んでおり、美味しいイタリア料理や、
フォークをフランスに持ち込んだとかの逸話があれこれありますが、

当時のフランスはカトリック教徒とプロテスタント教徒(ユグノー)との
対立が激しく、遂に1572年にはサン・バルテルミ―の大虐殺も起こり、

また彼女の産んだ男子3人がつぎつぎと国王となりますが、いずれも長く続かず、
という大変な時代、人生を生きた女性でした。



暫く前に「王妃マルゴ」という、アレクサンドル・デュマの作品を映画化
したのを見た時に、豪華な衣装、舞台設定にかかわらず大変ややこしく、
はぁ、shinkaiには、俳優の顔と扮する人物とがピンと来ずで、へへ、

映画を見た後、改めてあれこれ読み、なんとまぁ、大変な時代だったと感嘆、
到底少々調べた程度では及ばぬ深刻さで、

が、イタリア料理以外にも、今やフランスがご本家とされている香水も
かってカトリーヌが持ち込んだ、つまり調香師を連れて行ったと知り、
今も健在に残る香りのお話と、

はたまた「毒」使用についても出て来たので、それについてもちょっぴりと。


参考にした記事は
カテリーナ・デメディチとレナート・ビアンコ、フランス宮廷における香水と毒
Caterina De’ Medici e Renato Bianco tra Profumo e Veleni alla corte di Francia

レネ・レ・フロランタン、フランス宮廷における調香師
René Le Florentin: Profumiere Alla Corte Di Francia



という事で、カトリーヌと、当時オルレアン公アンリ2世の結婚式は
1533年10月28日にマルセイユで行われましたが、

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イタリアはフィレンツェから花嫁が、花嫁介添え人、近習たち、
警備員を引き連れマルセイユに到着した時、

フランス側の迎えの人々、そして地元民たちは、女性達が首やベルトに
付けていた金や銀の球、そしてそれを時折鼻に使づけ香りをかぐ様子に
魅力と疑問とを感じた様子でしたが、

その仕草はマルセイユの港町の悪臭を打ち消すための物で、
中に香料入りのエッセンスが詰められた、練り香の様なものと、
フィレンツェではブッソロッティ・Bussolittiと呼ばれる球体で、

その後大変に人気の出た香りのエッセンスが含まれた軟膏で、
ポマンダー・Pomanderという名が付けられたと。


写真は、「中世における琥珀の卵・Il pomo d’ambra nel Medioevo
という文献に載っていたポマンダーと書かれたもので、
多分こういった形であったろうと。

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「香水」使用はローマ期において大変に栄え、後忘れ去られていたのが、
当時のフィレンツェでは高貴な女性の間で定期的に用いられており、

イタリアの殆どすべての修道院には、ハーブ処理と、そのエッセンス抽出に
専念する修道士が少なくとも1人はいたのだそうで。


そしてフランスの宮廷入りをするカトリーヌには、レナート・ビアンコ・
Renato Bianco、後にフランス名レネ・ル・フロランタン・
René le Florentinとなる調香師が従っており、

こうして彼女が持ち込んだ香り、レナート・ビアンコによる香水が
フランス貴族、裕福な階級の社会における不可欠要素になったのですね。


レナート・ビアンコの正確な記録は残っておらず、

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伝説的に、フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴエッラ修道院の使用人と
して入り込み、後にアルキミスティ・alchimistiの僧の助手となり、
ハーブの抽出法についての秘密、技術を学んだと。

またある説では、ヴェネツィアの港で香辛料の取引をしていたフリウリの
商人の息子とも言い、フィレンツェに引っ越した後、
1519年にメディチ家と接触したと言い、

またはフィレンツェのヴェッキオ橋近くの薬草店の見習いとして10年程
働いている内に、エッセンスのマエストロとなり、ここで著名な画家達、
またミケランジェロと出会い、
このおかげでルッカとカッラーラの貴族一族に紹介され、後にメディチ家にも、と。


という様に様々に彼の成り立ちが語られますが、
要は、サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院、という大きな背後関係を
持っていた、という事でしょうね。

師の亡後は、修道院唯一人のこの分野の豊富な知識技術所持者となり、
他の僧たちからの羨望を招きますが、

カトリーナが彼の熟練度に魅了され、専用の調香師に任命されたのが
彼にとっては大きな出世の糸口に。


上に「アルキミスティ・錬金術師」という言葉が出ましたが、
これは普通の金属を金に変える、という通常の錬金術師を指すのではなく、

化学、物理学、占星術、冶金学、医学等々、様々な分野の言語を通じて
表現される哲学システムであり、その考え方は科学的方法が誕生する以前の
現代の化学の先駆けである、という事で、

修道院にいたアルキミスティの僧、とは、医学、占星術、美術なども収めた
科学的分野の専門僧を指すのだろう、と思います。

そしてカトリーヌはアンリ2世と結婚の後、イタリアからフランス宮廷に
重要な天文学者、医者、アルキミスティ、僧、教皇庁の護衛兵、
これはスイス衛兵の事と、お付きの女性達を呼び寄せているそうで、

上記したレナート・ビアンコもこうして移住した人物の中で飛びぬけており、
パリの・サン・ミッシェル橋の近くに店を持ち、
裕福な貴族達の為に香水や化粧品を提供して繁盛したのが、
フランスにおける無数の新しい調香師の誕生に貢献したと。


彼の貴族社会における成功のレベルは、多くの敵を作りもし、
また彼自身の権力への欲望は、道徳に反し、殺人者にさえなった程に!

というのも、当時の人々は余り入浴せず、また呼吸器疾患を恐れ沐浴を避けたり、
また建物の広い部屋は決して十分に暖かくはなく、
そういった衛生状態から来る体の悪臭をカバーする為には香水が
欠かす事が出来ないようになり、

当時は彼の店に貴族階級の顧客は自身のリネンの下着類を預け、
香りを付けて貰うのが一般的となったのですが、

彼はその香りをつける前に、処方を研究した不活性毒を下着に浸ませ、
その後に店の使用人たちが香りを付けた下着は、
体の熱や汗に反応し強力な酸のようになり、皮膚や肉を燃やし、
耐えがたい苦痛で死に至ったと。

この衣類にしみ込んだ毒、については、宮廷陰謀を描いた映画にも出ますし、
南アフリカのアパルトヘイト政策の時にも使われた、と
いう恐ろしい事を知りましたから、
大袈裟な嘘話ではなく、実際に行われた様子ですね。


レナート・ビアンコは、カトリーヌの為に皮なめしの悪臭を取り除いた
香りの手袋とか、手の肌を水溶性に保つ為の香油なども使い、
フランスの手袋メーカー連合に、大きな名声を与える事も。

但し一方、カトリーヌの娘マルゴと結婚したプロテスタントのアンリ4世
の母親ジャンヌ・ダルブレは、
カトリーヌから贈られた「毒のしみ込んだ」香りの手袋で死に至った、
という伝説も。



ブロア城ではカトリーヌが、彼女の書斎の秘密のキャビネットに、
毒を隠しているのではないかと、長い事信じられていたそうで、

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上記した1994年仏映画「王妃マルゴ・La Reine Margot」の中に、

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占いでフランス王になると出た、娘マルゴの結婚相手のナヴァール王アンリを、
息子たちの為に、とカトリーヌが暗殺を画策するものの、

彼は実際に後にアンリ4世として、フランス国王になりますが、

彼に渡る筈の毒を含んだ本を、マルゴの兄王シャルル9世が気に入り読みふけり、
閉じられたページを開くのに指で舐め、徐々に確実に死に至る場面があり、
最後は母親のカトリーヌが仕組んだことと知りつつ、という恐ろしい経緯も。



映画の結婚式の場面。 実際はカトリックとプロテスタントの結婚の為、
花婿のアンリは聖堂の外に、という事だったらしいですが、

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式で、イエス、じゃなかった、ウィ、の返事をマルゴが躊躇っているのを、
兄王シャルルが怒り、背後から彼女のうなじを抑えて頭を下げさせ、
強引に同意の印とさせる場面があり、実際その様だったようで!



こちらはカトリーヌ、イタリアの名女優ヴィルナ・リージと、
兄王シャルル9世。

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1572年8月24日には、それ迄も闘争の続いていたプロテスタントとの争いで、
遂に「サン・バルテルミ―の大虐殺」と呼ばれるカトリック教徒側が大虐殺を、
という大惨事も起き、

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犠牲者数の数については現在も正確に算定されておらず、
2000人から70000人という差で、

戦争でない日常生活における殺人場面が映画の中で繰り広げられるのは
非常に恐ろしく、豪華絢爛でもありながら、暗い凄惨な印象が残りました。


蛇足ながらシャルル9世の跡を継いだアンリ3世の、ちょっと興味深いお話は

ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html



レナート・ビアンコの様々な製品のレシピはその後の長い時代の中で
失われてしまいましたが、
「女王の水・l'Acqua della Regina」というオーデコロンは
現在も残っており、

これはカラーブリアのミカンの一種であるベルガモットの強い香りがあるもので、
カトリーヌの依頼によって創られた、という事実に由来し、

現在もフィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の脇にある薬局、
聖堂名と同名の薬局で売られている「アックワ・ディ・コローニア
がそれなんだそうで。

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非常に高く評価されている製品の為、オリジナルのレシピがほんのわずか
修正された様ですが、何世紀にもわたって復活しており、

フィレンツェのお土産に、自分自身へのお土産にされている方も多い様ですね。


レナート・ビアンコは、パリにおいて最も嫌われ、また最も愛された人物
でしたが、宮廷の中における様々な陰謀にも関わらず、

その卓越した個性は現代の香水のパイオニアの1人として、
フランスを香水の偉大な故郷にした人物として記憶され、

また共に自身の故郷フィレンツェを、香水と自然の美容製品の
故郷として残す貢献をもしたのでした。


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