ええと、今日は知ってみると意外に奥行きが深く、へぇ~と好奇心満開の、はは、
フランスの太陽王ルイ14世若き時代の、最初の本気な恋愛、愛人のお話を。
フランスの太陽王ルイ14世若き時代の、最初の本気な恋愛、愛人のお話を。
ルイ14世のご寵愛を受けた女性方は多いので、まぁ、イタリア名前の
読んだ事も無いような、殆ど行きずりの方かと思いましたら、
なんとあちこちに、日本版ウィキにもちゃんと個別事項で載っておられ、
はぁ、例の如く、知らぬはshinkaiなりけり、へへ、なのかもの、
読んだ事も無いような、殆ど行きずりの方かと思いましたら、
なんとあちこちに、日本版ウィキにもちゃんと個別事項で載っておられ、
はぁ、例の如く、知らぬはshinkaiなりけり、へへ、なのかもの、
そして例により、ウィキのイタリア版、日本版を参考に。
写真もサイトで見つけたり、ウィキペディアから拝借を。
写真もサイトで見つけたり、ウィキペディアから拝借を。
フランスの17~18世紀、太陽王として、フランス国家の繁栄、貴族文化の絶頂を
築かれたルイ14世(1638-1715)については、以下にも取り上げましたが、
築かれたルイ14世(1638-1715)については、以下にも取り上げましたが、
ヴェルサイユ宮殿における 太陽王ルイ14世の1日は
https://www.italiashiho.site/article/479317225.html
https://www.italiashiho.site/article/479317225.html
17世紀 ルイ14世のフランスと ヴェネツィア間の「鏡の戦争」
https://www.italiashiho.site/article/479383538.html
https://www.italiashiho.site/article/479383538.html
いつも残された画像で見るルイ14世はすっかり太陽王になった大人の、
中年の王様の顔、様子ですが、
中年の王様の顔、様子ですが、
こちらは1661年未だ23歳の若い様子で、こうして見るとなかなかのハンサムで!
彼女マリーア・マンチーノ(1639-1715)は、ローマ生まれのイタリア女性。
貴族の3女として生まれ、姉にラウラ、オリンピア、妹にオルタンス、
マリー・アンヌ。
母親のジローラマ・マザリーニ・Girolama Mazzarinoは、マザリーノの姓で
お分かりの様に、
お分かりの様に、
ルイ14世の宰相でもあったジュール・マザラン枢機卿・Jules Mazarin・
イタリア本名Giulio Mazzarinoの妹に当たり、
夫が早く亡くなった後、兄の枢機卿を頼りにパリに出て来て、年頃になる
娘たちの良い結婚を頼み、
娘たちの良い結婚を頼み、
マザランは上の妹ラウラ・マッツァリーニの娘アンヌ・マリー、ラウラ姉妹も含め
7人の姪のそれぞれの嫁ぎ先を、自分の立場を上手く使い王侯貴族に嫁がせ!!
7人の姪のそれぞれの嫁ぎ先を、自分の立場を上手く使い王侯貴族に嫁がせ!!
これらの姪っ子たちはマザリネット・混ざりネット・Mazarinettes、ははは、
なる言葉で呼ばれるほどで!
なる言葉で呼ばれるほどで!
皆大変美しく、かなりの策士でもあり、はは、それぞれが良い結婚をしたと。
そうなんですね、後程それぞれがどういう夫を見つけて貰ったか、
興味あるお話も。
マザラン枢機卿なる方が元はイタリア人だったというのも、以前知った時には
驚いたのでしたが、
1634年に教皇から派遣され南仏アヴィニョンに行き、そしてパリに。
その後、スペイン側に嫌われ再度アヴィニョンに。
驚いたのでしたが、
1634年に教皇から派遣され南仏アヴィニョンに行き、そしてパリに。
その後、スペイン側に嫌われ再度アヴィニョンに。
そしてリシュリュー枢機卿・宰相の知己を得、後継に相応しい人物と見なされ、
枢機卿となり、リシュリュー、並びにルイ13世が亡くなった後、ルイ14世の母
アンヌ・ドートリッシュの相談役、ルイ14世の実質宰相に、フランスに帰化と。
という様な周辺事情のご案内で、本筋のマリア・マンチーニに戻りますと、
ルイ14世は、父王ルイ13世が41歳で亡くなった後、わずか4歳で即位し、
母后アンヌ・ドートリッシュが摂政となり、マザランは実質的な宰相となりますが、
母后アンヌ・ドートリッシュが摂政となり、マザランは実質的な宰相となりますが、
1652年満13歳になったルイ14世は成人を宣言したものの、まだ国王の勢力も弱く、
フロンドの乱、30年戦争、その後のスペイン戦争と続きます。
フロンドの乱、30年戦争、その後のスペイン戦争と続きます。
1658年と思われる、ルイ14世20歳か19歳頃、未だスペイン王女との結婚の
話が起きていない時、スペインを威嚇する意味のサヴォイ家の姫
話が起きていない時、スペインを威嚇する意味のサヴォイ家の姫
マルゲリータとの結婚話が持ち上がり、
が、フランス南東部のリヨン・Lyonで王と姫の顔合わせが会った時、
ルイ14世が目を止めたのはマザリンの姪のマリーア・マンチーニで、
ルイ14世が目を止めたのはマザリンの姪のマリーア・マンチーニで、
まさに2人にとっては、「稲妻の一撃」 一目惚れだったそう!
レポートには、「女性に対するすべての親切さを、彼・王が出来る事を彼女の為に、
音楽、朝食、乗馬での散歩をし、彼は自分の馬の一番美しいのを彼女に貸し、
彼女に2台の馬車を作らせ・・」
音楽、朝食、乗馬での散歩をし、彼は自分の馬の一番美しいのを彼女に貸し、
彼女に2台の馬車を作らせ・・」
こうして2人は逢瀬を重ねる様になり、即、王がイタリアから来た貴族女性に
恋をしているらしいという噂が広がり、
恋をしているらしいという噂が広がり、
ルイ14世は本気である事をマゼランに、つまり彼女と結婚をしたいと。
スペインとの和平を結ぶ1659年のピレネー条約締結の為の立役者はマゼランで、
王のご寵妃ならともかく、結婚となると国政に関する事で、
王のご寵妃ならともかく、結婚となると国政に関する事で、
彼はマリーアを諦める様説得すると共に、母后からの説得も含め、あらゆる手段、
影響力を行使しますが、
影響力を行使しますが、
ルイ14世王は交際をやめると約束するものの、また元に戻るという有様。
娘を心配する母親、マゼランの妹が死の間際に囁いた、不思議な星占いの事も
あり、遂にマリーアをラ・ロシェル近くのブルアージュ修道院に押し込め、
あり、遂にマリーアをラ・ロシェル近くのブルアージュ修道院に押し込め、
フランス国王ルイ14世の最後の決定を引き出したのは「国、国政の道理」で、
ここに若き太陽王のロマンスが終わり、彼は2度とマリーアに会わず。
1670年のルイ14世。
こうしてスペインとの和平、ピレネー条約が締結され、国王フェリペ4世の姫
マリーア・テレーザとの結婚が決まり、
条約締結の際の、2人の顔合わせ。
1660年6月3日、最初に代理人結婚、が行われ、
6月9日にフランス・スペインの国境の街サン・ジャンド・リュスの、
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会で正式に結婚式が。
結婚式の様子の絵・原画と、 つづれ織り。 ルイ14世の右背後にマゼラン。
結婚式のサン・ジョバンニ・バッティスタ教会の祭壇。
国王の結婚式の後は、2人の恋人の間の儚い書簡も無くなり、
1661年にマリーアはパリでロレンツォ・オノ―フリオ・コロンナ・
Lorenzo OnofrioColonna(1637-1689)と結婚した後、イタリアに戻ります。
偉丈夫、家柄も良く、教養も素晴らしい公爵、法王庁での外交関係で
力量を発揮、結婚後2人の間には子供も3人生まれますが、
力量を発揮、結婚後2人の間には子供も3人生まれますが、
3人目の子が生まれて後は、夫が自分を殺したいのではないかと恐れ始め、
何度か家出を繰り返し、遂には1681年修道院に。
何度か家出を繰り返し、遂には1681年修道院に。
そして夫が1689年に亡くなるまでを過ごし、その後の事は余り記録が無く、
1715年5月8日にピサで最後を。
1715年5月8日にピサで最後を。
これは愛し愛された想い出の残る、ルイ14世の亡くなる4か月前で、
彼女の遺品はピサのサント・セポルクロの教会に休んでいるそう。
棺の中には夫からのダイアモンドと、強制的別離の少し前にルイ14世から
贈られた真珠のネックレスを希望したと。
贈られた真珠のネックレスを希望したと。
一方ルイ14世はあらゆる種類の気まぐれにふけり、女性をリボンを変える様に
取り換え、アジア、アフリカでのフランス植民地の拡大に伴い、フランス国を
ますます強大に、影響力を与え、絶頂に至る72年間の在位人生。
後に出て來るご寵愛人達の多さと派手さに、王の若き日の恋は薄れて
しまいましたが、
しまいましたが、
マリア・マンチーニを主人公にした本は、フランソワーズ・マレット-ジョリス・
Françoise Mallet-Jorisの「Maria Mancini」
他 2冊出版されているそうです。
Françoise Mallet-Jorisの「Maria Mancini」
他 2冊出版されているそうです。
過去の中でずっと生きたのであろうマリーアの生涯は、いささか哀れを誘いますが、
ちょっと元に戻り、マザリネットと呼ばれたマザリンの姪っ子たち7人のその後を。
姪のみでなく3人の甥の世話も見たそうで。
姪のみでなく3人の甥の世話も見たそうで。
彼女たちがフランス王家の宮廷に現れた時は、それ迄色白のふくよかな美人を
見ていた目には、すらりとして、少し浅黒い肌が大変新鮮に映った様で、
大きな評判になったそう。
見ていた目には、すらりとして、少し浅黒い肌が大変新鮮に映った様で、
大きな評判になったそう。
いずれもルイ14世の母后の住まいの翼に引き取られ養育されたそうで、
それも叔父マザリン枢機卿の力ですね。
それも叔父マザリン枢機卿の力ですね。
ラウラ・マルゲリータ・マッゼリーノ・Laura Margherita Mazzarinoと、
伯爵ジェローラモ・マルティノッツィの娘2人
・アンナ・マリーア・マルティノッツィ・Anna Maria Martinozzi(1367-1672)
アルマンド・ディ・ボルボーネ-コンティ・同名傍系の始祖に
アルマンド・ディ・ボルボーネ-コンティ・同名傍系の始祖に
・ラウラ・マルティノッツィ・Laura Martinozzi(1639-1687)
モデナ公爵アルフォンソ4世デステと結婚
モデナ公爵アルフォンソ4世デステと結婚
ジェロニーマ・マッザリーノ(1614-1656)と男爵ロレンツォ・マンチーニの娘
・ラウラ・マンチーニ・Laura(1636-1672) ルイ・ドゥ・ヴァンドーム
5代目ヴァンドーム公と結婚
5代目ヴァンドーム公と結婚
・オリンピア・マンチーニ・Olimpia(1639-1708) エウジェーニオ・
マウリーツィオ・サヴォイア-カリニャーノ、 ソワッソン公爵と結婚
彼女は後に黒ミサ事件に関与したと言われ、ルイ14世により追放、ベルギーに。
彼女も最初ルイ14世の愛人だったとか、 確かではありませんが。
・マリーア・マンチーニ 今回の主人公
・オルテンシア・マンチーニ・Oltensia(1646-1699) 叔父のマザリンのお陰で、
公爵夫人の爵位を創設、ラ・メイユレイユ公となるアルマンド-チャールズ・
公爵夫人の爵位を創設、ラ・メイユレイユ公となるアルマンド-チャールズ・
デラ・ポルタと結婚、後離婚。
暴力をふるう夫から逃げロンドンに行き、国王チャールズ2世の愛人に!
・マリーア・アンナ・マルチーニ・Maria Anna(1649-1714)ラ・トゥール・
ドーヴェルニュのモーリス・ゴデフロイ・Maurice Godefroy de La
Tour d'Auvergne、3代目ブロス公爵と結婚
なんとねぇ、どなたもが本当に上流貴族と結婚をねぇ!
いずれにしても、身分高く財力豊かな男性と結婚する事が一番大事であった
当時の女性たちの、大変さを思った事でしたぁ!!
当時の女性たちの、大変さを思った事でしたぁ!!
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