先回ヴェネツィアのコッレール博物館のご案内をした中に、
そこにはイタリアのロンバルディア、ヴェネト州がナポレオン以降の
オーストリア・ハンガリー帝国の下にあった1850~60年代には何度か
皇后エリーザベトが、愛称シシーで知られる皇后が最初は皇帝と共に、
後には彼女のみで数か月を滞在した、と書きました。
オーストリア・ハンガリー帝国の下にあった1850~60年代には何度か
皇后エリーザベトが、愛称シシーで知られる皇后が最初は皇帝と共に、
後には彼女のみで数か月を滞在した、と書きました。
で、今回はその皇后シシーに関連し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との間の
1人息子ルドルフ・Rudolf(1858-1889)が、
17歳の愛人、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラ・Marie von Vetseraと、
1889年1月29日、ウィーンから南東に30kmほどにあるマイヤーリンクの
王室狩猟用の城館に於いて心中した、
当時ヨーロッパ中に大変な反響を引き起こした「マイヤーリンク事件」と
呼ばれる悲劇について、です。
マイヤーリンクの城 1889年
位置は
王室の狩猟用城館、と書きましたが、当初、実際は王室の持ち物ではなく、
皇太子ルドルフが1887年だったか、自分の狩猟用に購入したものだそうで、
皇太子ルドルフが1887年だったか、自分の狩猟用に購入したものだそうで、
多分狩り用にだけでなく、堅苦しいウィーンの宮廷から逃れ一息入れる
目的だったのだろうと。
目的だったのだろうと。
shinkaiがこの事件を知ったのは、高校の時図書館で見つけた
クロード・アネの「うたかたの恋」原題は「マイヤーリンク」
その後2度ほども映画化されており、ご存知の方も多いかと思いますが、
高校生の多感な心にどの様に響いたか、ご想像くださいませませ。
高校生の多感な心にどの様に響いたか、ご想像くださいませませ。
ずっと記憶に残っており、その後1991年になって初めてウィーンに行った時は
半日間のウィーンの森ツァーに加わり、ハイリゲンクロイツ修道院に案内され、
マイヤ―リンク事件についての話も改めて聞き、
半日間のウィーンの森ツァーに加わり、ハイリゲンクロイツ修道院に案内され、
マイヤ―リンク事件についての話も改めて聞き、
事件の後シシー皇后が1人息子の死を嘆き、城館を壊し、供養の為に
修道院を建設し、当時の城は無いと説明されました。
修道院を建設し、当時の城は無いと説明されました。
それにしても各国からの観光客が一緒のツァーで、ガイド氏は英、仏、独、伊を
順番に語る凄いガイドで! 何とか分かっただけでも偉いやんかぁ、と、ははは、
当時は自分を褒めなだめたshinkaiでした。
順番に語る凄いガイドで! 何とか分かっただけでも偉いやんかぁ、と、ははは、
当時は自分を褒めなだめたshinkaiでした。
が、今回これは半分本当、マイヤーリンク城のルドルフの寝室があった場所と
その周辺を破壊し、礼拝堂が建設されている、と知り、
その周辺を破壊し、礼拝堂が建設されている、と知り、
つまりハイリゲンクロイツ修道院とは近くとも別物、ただしここには心中の片割れ、
マリー・ヴェッツェラが埋葬されている事を知りました。
マリー・ヴェッツェラが埋葬されている事を知りました。
今回参考にした記事は
シシーの宮廷の悲劇:マイヤーリンクでの2重の愛の自殺
Dramma alla Corte di Sissi: il doppio suicidio d’Amore di Mayerling
シシーの宮廷の悲劇:マイヤーリンクでの2重の愛の自殺
Dramma alla Corte di Sissi: il doppio suicidio d’Amore di Mayerling
そしてウィキペディアのイタリア版 Fatti di Mayerling 写真も拝借
日本語版のあれこれも。
日本語版のあれこれも。
オーストリア-ハンガリー帝国の、ハプスブルグ=ロートリンゲン家の跡継ぎ、
フランツ・ヨーゼフ1世皇帝と、エリザーベト皇后の1人息子、
4人の内唯一の男子ルドルフ、他の3人は女子、長女のゾフィーは2歳で死亡、
フランツ・ヨーゼフ1世皇帝と、エリザーベト皇后の1人息子、
4人の内唯一の男子ルドルフ、他の3人は女子、長女のゾフィーは2歳で死亡、
広大なオーストリア-ハンガリー帝国の後継者と、生まれながらに。
父皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 1903年
エリーザベト皇后 ルドルフの亡くなった後は終生黒色の衣装のみを。
幼少の頃より皇帝たるべき厳しい軍事教練、スパルタ式教育で鍛えられ、
神経過敏、内気、意固地というように育った様子。
神経過敏、内気、意固地というように育った様子。
彼の好んだ学問は自然科学、とりわけ鳥類学と地質学を好み、
「オーストリア-ハンガリー帝国の歴史、文化」辞典の編纂、文章も
かなり彼自身が書いていると。
「オーストリア-ハンガリー帝国の歴史、文化」辞典の編纂、文章も
かなり彼自身が書いていると。
当時の中欧の政治情勢についてはとても手に負えずご案内はパスですが、
母親エリザベートも逃げ出したかった、スペイン式の厳しい宮廷生活の中で
お世継ぎの皇太子」と、きっとがんじがらめの生活だったのでしょうし、
本当に心からの同年代の友もいなかったのではないかと想像を。
お世継ぎの皇太子」と、きっとがんじがらめの生活だったのでしょうし、
本当に心からの同年代の友もいなかったのではないかと想像を。
1881年23歳のルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニー・
Stéphanie(1864-1945)当時17歳と結婚。
Stéphanie(1864-1945)当時17歳と結婚。
1883年には娘エリーザベトが誕生するものの、結婚当初はまだしも、
次第に性格の不一致、無理解と喧嘩と続き、遂には静かで冷たい
すり切れた関係に。
次第に性格の不一致、無理解と喧嘩と続き、遂には静かで冷たい
すり切れた関係に。
確かに写真で見ても余り美しい方でなく、髪の毛も少なそうで、失礼。
そしてお気の毒ながら、ルドルフは数知れぬ遊び相手から貰った淋病持ちで、
ステファニーも感染、次の子が生まれぬ体になっていたとか。
ステファニーも感染、次の子が生まれぬ体になっていたとか。
蛇足ながら、このベルギー王の長女シャーロットは、フランツ・ヨーゼフ1世の
弟で、トリエステのミラマーレの城を建設後、メキシコ皇帝となって行くものの、
かの地で革命が起こり、革命軍に銃殺されたマキシミリアンの妃。
弟で、トリエステのミラマーレの城を建設後、メキシコ皇帝となって行くものの、
かの地で革命が起こり、革命軍に銃殺されたマキシミリアンの妃。
図らずも当時の世界情勢の激しい中で、姉妹2人ともに不幸な結婚生活を
送った事になりますね。
送った事になりますね。
そんな情況にあった1888年の秋、ウィーンの競馬場でと言いますが、
30歳のルドルフと、17歳になったばかりの男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが知り合い、
小柄で目の美しい生き生きとした優雅な少女に、ルドルフは一瞬に捉えられ!
30歳のルドルフと、17歳になったばかりの男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが知り合い、
小柄で目の美しい生き生きとした優雅な少女に、ルドルフは一瞬に捉えられ!
エリーザベト皇后の姪、つまり皇后の兄が身分違いの結婚をしての娘、
ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼが2人を知っている事から間を取り持ち、
11月頃より2人は秘密の関係を持つように。
ルドルフは、「マリーはマダム・ポンパドールには憧れていない。
私の階級は彼女には無関心であり、彼女は単純に私が愛している女性である。
彼女についてたくさんの事を知ったし、それに大変に美しい。 が、これ程にも
貞節な心に出会った事が無い」と書いているそう。
彼女についてたくさんの事を知ったし、それに大変に美しい。 が、これ程にも
貞節な心に出会った事が無い」と書いているそう。
マダム・ポンパドール夫人とは、かの有名なフランスはルイ14世の御愛妾で、
大いに権勢をふるったという方で、マリーはそんな女ではなく、
またそういう関係には置けない、という気持ちだったのでしょう。
大いに権勢をふるったという方で、マリーはそんな女ではなく、
またそういう関係には置けない、という気持ちだったのでしょう。
こんな言葉からも、宮廷で出会う人々との関係、お世継ぎの皇太子に
対する人びとの接し方が想像され、
なおの事初めて接した、若く率直、純真なマリーに一直線に惹かれたものと。
対する人びとの接し方が想像され、
なおの事初めて接した、若く率直、純真なマリーに一直線に惹かれたものと。
2人の出会い、逢瀬についてはラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼがいつも
お膳立てし、皇太子の不倫についても隠していたものの、
年が明け1889年には次第に噂が広がり、皇太子の単なる遊びでない
婚姻外の関係について宮廷に大きなスキャンダルが起こり、遂に父皇帝が
皇太子との2人での話合いに呼び出し、愛人との即の別離を言い渡すものの、
婚姻外の関係について宮廷に大きなスキャンダルが起こり、遂に父皇帝が
皇太子との2人での話合いに呼び出し、愛人との即の別離を言い渡すものの、
ルドルフは逆にステファニーとの婚姻消滅を願い、もし聞き入れられない場合は
死ぬと迄願いますが、勿論父皇帝が聞き入れる筈もなく。
死ぬと迄願いますが、勿論父皇帝が聞き入れる筈もなく。
父皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は保守的で、皇帝とは神に選ばれての道、と
言う様な絶対君主の考え方だったそうですし、
勿論一国の世継ぎの身の処し方としては到底無理な事。
言う様な絶対君主の考え方だったそうですし、
勿論一国の世継ぎの身の処し方としては到底無理な事。
どうやらマリーは妊娠していた様子で、ルドルフは教皇レオ13世に
ステファニーとの婚姻消滅願いを書き送るものの、
教皇はこの不届きな要求を勿論許さず、
おまけにこの返事をフランツ・ヨーゼフ1世当てに送ったとかで、
なおの事皇帝の態度は固くなり、事態は急速に悲劇の影を帯びる事に。
なおの事皇帝の態度は固くなり、事態は急速に悲劇の影を帯びる事に。
こうして自分の立場、環境から逃れ道はなく、かといって真実に愛し始めた
マリーとの関係は断ちがたく、遂に2人はある道を選ぶ事に。
1887年の皇太子ルドルフ
1889年1月29日ロドルフは両親に気分がすぐれず、公式晩餐会には
出席できないと言い、マイヤーリンクの狩猟館に引きこもりますが、
マリーも一緒に。
前夜に、明朝暁には狩りに行くので早く起こすように、と言われていた従者は、
1月30日早朝部屋のドアをノックするものの、返事もなく、音もせず。
1月30日早朝部屋のドアをノックするものの、返事もなく、音もせず。
これからの事は、後に従者が語った所によると、
何度か試すうちに、部屋の中から内にこもった銃声が聞こえ、
扉を力ずくで開けようとするも果たせず、斧を取りに行き、扉の板を打ち破り、
漸くに部屋の中に入る事が出来たと。
扉を力ずくで開けようとするも果たせず、斧を取りに行き、扉の板を打ち破り、
漸くに部屋の中に入る事が出来たと。
部屋の中はカーテンが引かれていて暗く、中に入った従者と小間使いは
座っているか、ベッドに横になっているルドルフの形を垣間見ます。
座っているか、ベッドに横になっているルドルフの形を垣間見ます。
彼の口から血が流れ、近くには空のグラスが見え、
傍らには、横たわり、動かない、ヌードの若い女性の姿が。
従者が即考えたのは、皇太子は愛人に毒殺されたのだと思ったそうで、
がこれは、最初に見たイメージからの発想で、
がこれは、最初に見たイメージからの発想で、
これが元になり、たくさんの陰謀説理論の組み立てが続いたそう。
従者は直ちにウィーンの王宮にニュースを伝え、幾人かの皇帝側の貴族等が
やって来て様子を見ると、どの様に皇帝に伝えるかの議論となり、
やって来て様子を見ると、どの様に皇帝に伝えるかの議論となり、
最後は皇后シシーより、という事でお願いし、皇帝は息子ルドルフの死を
妻の皇后から知ります。
妻の皇后から知ります。
両親の嘆き
どの様に両親が息子皇太子の死を知ったか、反応などは知られておらず、
嘆いた事は確かでしょうが、とにかく最初は一切秘密裡に運ばれたといい、
嘆いた事は確かでしょうが、とにかく最初は一切秘密裡に運ばれたといい、
緘口令も引かれ、その日の午後遅く警察が城館周囲を閉鎖し、
皇帝の医師達が2人の遺体観察に。
皇帝の医師達が2人の遺体観察に。
部屋にルドルフの2通の遺書があり、自分の妻と、母親シシーに。
妻ステファニーにあてたルドルフの遺書には、
親愛なるステファニー、君にとってまさに襞であった自分の存在なしで
君は自由だ。 君のやり方で幸せであれかし。
手紙は長い間「自殺説」を通す為に作られた偽物とされていたのが、
2度に渡っての別々の鑑定により、例え日付が無いにせよ、
本物と鑑定されたのだそうで。
2度に渡っての別々の鑑定により、例え日付が無いにせよ、
本物と鑑定されたのだそうで。
マリーの遺書は無かった、と長い事言われていたのが、実際にはあり、
それも近年公開されたとかで、
今迄こんなに幸せだったことはない、という様な文章と記憶にあるのですが、
どこで読んだのか、残念今回は見つけられませんでした。
残された医者のレポートも、後の研究者によると、書き換えたらしいとも。
いずれにしても、ルドルフは頭を撃っての自殺であろう、そして自殺する前に
マリーのこめかみを撃ち、殺傷したのであろうと。
マリーのこめかみを撃ち、殺傷したのであろうと。
翌31日のウィーンの新聞に、ルドルフ皇太子は動脈瘤で亡くなった、と
公表されたものの、暫く後にはウィーンの宮廷は真実、ルドルフとマリーが
死んだ、と認めざるを得ませんでした。
この時期1900年代末はオーストリア-ハンガリー帝国にとっては大変難しい
時代で、このルドルフの死は大きな痛手で、
歴史家はいずれにしてもこの事件が第1次世界大戦発端に繋がったと。
時代で、このルドルフの死は大きな痛手で、
歴史家はいずれにしてもこの事件が第1次世界大戦発端に繋がったと。
というのも、オーストリア-ハンガリー帝国の後継者は、ルドルフの死後
フランツ・ヨーゼフ1世の末の弟が即辞退したため、その息子フェルディナンド・
Ferdinandになったものの、
フランツ・ヨーゼフ1世の末の弟が即辞退したため、その息子フェルディナンド・
Ferdinandになったものの、
マイヤーリンク事件後25年にはサラエヴォでフェルディナンドは暗殺され、
これが第1次大戦の緒となったのは皆さんも良くご存知で。
これが第1次大戦の緒となったのは皆さんも良くご存知で。
マリーの遺体は医者の検査を受けた後すぐ、秘密裏に、母親の最後の
挨拶も間に合わない内に、すぐ近くのハイリゲンクロイツ修道院に埋葬され、
ルドルフの死は最初動脈瘤によると発表されたものの、医師の検察が済み
遺体表敬を受ける様になると、死の原因を隠す訳に行かず、
遺体表敬を受ける様になると、死の原因を隠す訳に行かず、
ルドルフ皇太子の遺体
特別に教皇に埋葬許可を貰い、約150代に渡るハプスブルグ家のご先祖
同様、ウィーンの王家の埋葬所に。
同様、ウィーンの王家の埋葬所に。
様々な秘めた一連の動きと共に、大帝国後継者である皇太子の、
愛人との自殺は、様々な憶説をかもし、陰謀説も生み、
当時のヨーロッパ中の大スキャンダルとなったそう。
最初に遺体を発見した従卒が考えた、マリーによるルドルフの毒殺は、
銃による傷がある事から直に否定され、
銃による傷がある事から直に否定され、
次に、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命令による、2人の殺傷説もあったものの、
皇帝命令、の説明がつかず、
皇帝命令、の説明がつかず、
ドイツや、フランスによる陰謀暗殺説も根強いものがあったそう。
そして、医者の観察により、マリーの方が数時間か先に亡くなっている事から、
彼女が受けた堕胎手術の事後経過が悪く、出血して先に亡くなった、とも
言われているようですが、
いずれにしても、2人は一緒に死のうと決め、決行したのに間違いは無いようで、
私めは、「2重の自殺」という言葉ではなく、日本の言葉「心中」を捧げます。
なぜならこの言葉には、
愛する2人が、愛する事を禁じられる今の世から、もう1つの世、
死んで、2人が一緒にいられる世に行こうとするのを哀れみ、
例え残された者の悲しみは深くとも、2人を寿ぐ意がある様に
感じられるので。
愛する2人が、愛する事を禁じられる今の世から、もう1つの世、
死んで、2人が一緒にいられる世に行こうとするのを哀れみ、
例え残された者の悲しみは深くとも、2人を寿ぐ意がある様に
感じられるので。
こちらが、マイヤーリンクの城館のルドルフの寝室一帯を壊し、
冥福の為に建設された礼拝堂。
知り合って僅か4か月間ほどの、本当に短い2人の愛のお話。
19世紀末のウィーンの、どこか陰鬱でもあり、また秘められた華やかさの
空気が滲む、マイヤーリンク事件のあれこれでした。
空気が滲む、マイヤーリンク事件のあれこれでした。
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この記事へのコメント
Yuko
興味深く拝読しました。
「最後の皇女エリザベート」を読み始めた時おばあさまのエリザベートだと思って手にした本でした。
考えたら彼女は皇女ではなく皇后ですから間違えるほうがおかしいですよね(;´Д`)
3年前初めて王妃エリザベートが愛したハンガリーに行ってその孫の生涯を再読しようと思いながら挫折しています。
これを機会に再挑戦します!
機会をいただき感謝です。
前回のヴェネチアも楽しく拝読しました。
shinkai
いやぁ、書いて下さった「最後の皇女エリザベート」なる方がどの方か、あれこれ大急ぎで探しましたが、どうもよく分かりません。
フランツ・ヨーゼフ1世と、エリザベートの間の娘3人の内、2女のジゼッラにも、3女のマリー・ヴァレリーにも、どちらにもエリザベートなる娘がいて、要はお祖母様の名を、という事なのでしょうが、
どうもよく分かりません。
日本語版ウィキには詳細説明がなく、イタリア語版はとても全部読めず、という、へへ、なのです。
多分、写真を見ての雰囲気からすると、次女の娘エリザベート・マリーアの方ではないかという気がしますが。
本のアマゾンの紹介によると、かなり経歴が興味ある方なので、宜しかったら、お教えください。
ハンガリーにも行かれましたか。広大な土地で、大変素晴らしいそうですね。 皇妃エリザベートは大変愛した土地で、ハンガリー人たちからもとても愛されたそうですね。
動乱の時代に生きた人々の生きざまにも惹かれますね。
こちらこそ、有難うございます。