・ 描画鉛筆のファーバー・カステル社 創業由来と、オッティリーなる人物

絵のブログの昨年最後にちょっと登場した描画の為の鉛筆、色鉛筆、
パステルなどで世界的に有名な、「ファーバー・カステル」でしたが、

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ファーバー・カステル社のあれこれ


あの時はたまたま見つけたYoutubeの「こんな風に作ってます」ヴィデオで、


ご先祖様が作り始めた鉛筆工房が工場となり、事業成功で男爵位を授かり、

そして後継者となった「オッティリー」という若き女性が伯爵と結婚、

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ファーバー家の名も残し、伯爵家と一緒に事業を引き継いで行くのに、
ファーバー・カステル・Faber-Castell となった、という事を知りました。



その時に「後継者となった若き女性」オッティリー・Ottilieと、結婚した
アレクサンダー・ツー・カステル・リューデンハウゼン伯爵の顔を知ったものの、

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ふ~ん、という位で、そのままに。



所がこの13日! TVでの映画放映のサイトを見ていて唖然としたのは、
12日の夜に「オッティリー・フォン・ファーバー・カステルの実話。勇気ある女性」
というTV映画が放映された、というので、あちゃぁ、

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いつもはサイトの「映画」番組のみの項を見、「テレビ映画」の項は
見ないので見落としで、とても残念に思ったのでしたが、

段々あれこれを調べつつ分かったのは、「実話」とは言え、元になった小説を
参考に映画化で、ドラマにするのにかなりそれらしく盛り上げた、
というのが分かり、ああ、それならいいや、と。


つまり、彼女の結婚前に2人の男性がおり、その1人に彼女はより愛を感じて
いたものの、結婚し事業を進める為にも、彼女の財産により多くの興味を
持っていた男性、つまりアレクサンダー伯爵と結婚した、という荒筋。

まぁ、当時の19~20世紀初頭において、女性が事業家として企業を
率いるには幾つもの困難があったという、彼女の生涯を描いては居るものの、


へぇ~、と俄然興味を持ってあれこれ読んでみると、アレクサンダー伯爵は、
共同事業家として責任をもって企業を盛り上げ育て上げた実力者で、
               
オッティリー自身も伯爵に大変熱を上げており、TV映画のCMに描かれて
いた様な、2人の男の間での彼女を巡っての決闘など無かった様子!

で、実際にその男性フィリップ・フォン・ブランド男爵・Philipp Paul 
von Brand zu Neidsteinとは後20年後位に知り合い、
彼女は本気となり、離婚し再婚を、だった事も知り、

こうなると、尚の事本当の所はどうだったか興味が湧くでしょう?! ははは。
という事で、今日のブログに、という訳で~す。

参考にした記事は 




他にもあれこれ・・。


まず、元々のファーバー・カステルの鉛筆製造からお話しますと、

1761年ドイツのニュールンベルグ近郊のスタイン・Steinで、

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カスパー・ファーバー・Kaspar Faber(1730-1784)が
自分の工房で鉛筆製造を始めます。

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学校卒業後大工として訓練を受け、1758年にスタインに引っ越し、
そこで息子アントン・ウィルヘルム・Anton Wilhelmが生まれ、定住。

アントン・ウィルヘルム(1758-1819)は、ファーバー・カステル社2代目と。

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1761年、現在もファーバー-カステルの商標にもしっかり出ている年号で、
彼は小さな工房を持ち、当時の大工仕事の典型であった鉛筆製造を。

鉛筆製造を、ギルドが承認する工芸品に変えるには、ニュールンベルグの
街とその周辺の商業監督のラグサムト・Rugsamtからの承認が
得られなかったものの、鉛筆製造を続けます。


作り方としての大雑把な製法は、鉛筆の芯となる黒鉛に、粘土と水を加え
ミキサーで攪拌細かくし良く練り混ぜ、芯の太さに押し出し、長さを切りそろえ、
乾燥させた後焼き固める、という訳で、

黒鉛と粘土との割合により芯の硬度が違い、など、様々な工夫が凝らされて
現在に至っている様子。


純粋な黒鉛のみだと崩れやすく、1771年に硫黄、アンチモン、
バインダー樹脂を混合した粉砕黒鉛を使用した、鉛筆改良の最初の試みをし、

木の棒に鉛筆の芯を接着する技術は、当時ニュールンベルグでは既に知られて
いたものの、ファイバーはそれをしなかった、と。



ただファーバー・カステルのサイトで、1905年にアレクサンダー伯爵が発表した
カステル9000番鉛筆は鉛筆のスタンダードで、木軸と芯を全面接着で行い、
非常に折れにくい芯で、全16硬度での展開で、使いやすく幅広い表現が可能、
とありましたので、後に新発展が行われたのかも、ですね。


が、カスパーの生涯の間の鉛筆製造業事業はまだ小規模だったのを、
息子のアントン・ウィルヘルムが工業化したのだそうで、

https://www.faber-castell.com/ の、会社 歴史 と辿ると出ます。



3代目アントン・ウィルヘルムの息子ゲオルク・レオンハルト・
Georg Leonhard(1788-1839)と、妻アバーティン・Albertine.

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厳しい経済状況の中、工場を維持し、妻も積極的に彼をサポート。
彼らには3人の息子と2人の娘が。



4代目ゲオルグ・レオンハルトの長男ローター・Lothar(1817-1896)が
後継者となり、彼の管理下で工場は国際的な会社となり、

彼の経済的な成功と進歩的な社会的貢献により、1862年に貴族となり、
姓がフォン・ファーバー・von Faberとなります。

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5代目となるウィルヘルム・Wilhelmと、母親のオッティリー・Ottilie.

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ローターとオッティリーは1847年に結婚。今回の主人公のオッティリーは
この祖母の名を受け継いだのですね。



こちらが5代目ウィルヘルム・フォン・ファーバー(1851-1893)
スイスの学校でのビジネス・トレーニングを経て会社を継いだ、とありますね。
他の子供は幼くして亡くなり、彼は1人息子の立場。 男爵の称号を受けます。

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が42歳の若さで心臓発作で、3人の娘を残し亡くなり、



愛称をティリーと呼ばれた当時16歳のオッティリーは父親の死により
大きな財産を相続、
会社は当初ウィルヘルムの妻であったバーサ・Berthaの手に渡るものの、

祖父ローターの指示は当然オッティリーが後継者となる事で、彼女は1896年
成人となり会社で働き始め、



1898年21歳のオッティリーは、アレクサンダー・ツー・
カステルリューデンハウゼン伯爵・Alexander zu Castell-Rüdenhausen
(1866-1928)と結婚。

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バイエルン国王の承認の下、ファーバーの名を残したい祖父の希望をいれ、
企業はファーバー・カステル・Faber-Castellという、ロゴは変更したものの
現在の名に変わります。


こうして2人は長い新婚旅行で各国を見て回り、アレクサンダーは工場の
正面に居城を建設、常に仕事を綿密に追跡出来ることを目指し、

祖父の亡くなった後、後見人を務めていた祖母も「彼は責任を負い、
全ての事について相談することが出来、息子と同じである」と。

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2人の間には3人の娘と2人の息子が生まれ、1902年生まれのウォルフガングは
同年に亡くなりますが、

1905年には待望の男子ローランド・Rolandoが誕生。

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1903年に祖母が亡くなり、企業は完全に2人の手に渡り、彼の革新的な
ビジョンにより、企業は大きな成功を遂げ、全世界への道を歩み始め、
2つの世界大戦を挟んでも、オーストラリア、オーストリア、ペルー、
アルゼンチンに新しい工場が出来、

現在では120か国以上に普及しているブランドは、素材、デザインにおいて
最高のブランドの1つと見なされている事は、皆さんも良くご存じですね。


という事で、当時の社会事情から、女性1人が企業を引き継ぐには難しい問題も
多々あったろうとは思われますが、

家族経営企業であることは良く知られていたでしょうし、まして頭脳明晰な
伯爵と結婚、彼が最高経営者となっているには、余り問題がなかったのでは
ないか、と考察しますが、


実際問題は、結婚生活が安定していた1914年に起こった第一次世界大戦で、
アレクサンダーはベルギーの戦線にと家を離れた時に起こったのですね。

まぁ、夫が家におらず寂しいとか、企業の相談問題もあったのかも知れず、
また改めて結婚してからの事を振り返っての事からかも、
その辺りは分かりませんが、

オッティリーはフィリップ・フォン・ブランド・ツー・ネイドスタイン男爵・
Philipp von Brand zu Neidstein(1868-1935) と知り合い、恋に落ちます!

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オッティリーから夫アレクサンダーに   1916.6.22
 1年間私は我々のお互いの感情が既に同じでない事に気づきました。

 この1年半良く知る事を学んだ所の・・・彼と一緒に幸福でいたい、
 親愛なるアレクサンダー、今日は大きな要望と一緒に貴方の所に行きます:
 お互い自由になりましょう!

 ・・・誰も知りません、私が内部でどれほど、私が決断を下すまで
 どれほど苦しんだか。  ・・どうぞ、私の為にこの犠牲を払って下さい。
 私は偽る事は出来ず、そうは出来ず、だからです。

 ・・・私はあなたに息子を与えました、以前の様に彼の為に全てを管理
 して下さい。 あなたは私よりも上手く出来ます。


結局アレクサンダー伯爵は、妻のオッティリーと離婚することに同意し、
彼女は夫に企業を譲り、息子のローランドに彼女の持っていた半分の
企業株を渡し、居城を出て、フィリップ・フォン・ブランド男爵のもとに。



この辺りを読み、shinkaiには、これは財産を持っている女性だから
出来たことでもありましょうが、

彼女の映画評の「勇気ある女性」という言葉が一番相応しいのは
この場面ではなかろうか、という印象を持ったのでしたが、如何でしょう?!


アレクサンダー伯爵 50歳  オッティリー 39歳  フィリッポ男爵 48歳
というそれぞれの年令。 

この辺り、女性のみでなく、男性にとっても、あれこれ分かる事が増えて来ての
年代、そして先行きに対しても思いがこもる年令なのかも、ですね。



ファーバー・カステル社はローランドが、アレクサンダーとオッティリーとの息子
が7代目となり、唯一人の所有者として50年近い経営を保ち、

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8代目は2016年に亡くなった、アントン・ウォルフガング・Anton Wolfgang.

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既に9代目もおられるのでしょうが、知りませんで。
ローランド辺りから、王朝物語にも似た、広く深い婚姻関係で手におえず!

ですが、企業熱が今もしっかり生き続けている伯爵家であろうと想像し、

全世界に15の工場を持ち、セールス・オフィス18ヵ所、従業員8000人
2016年の総売り上げ 667000000エウロ、桁間違えてませんように!
という世界企業ですが、


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かってその中で生きた、若きフォン・ファーバー・カステル伯爵夫人が
居られた事を知り大変興味深く、そこから企業の経緯も辿った事でした。


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