・ ロダンとカミーユ・クローデル エロス、芸術、愛、狂気の圧倒的なお話

彫刻家というと、ルネッサンス期のミケランジェロがいますが、
音楽のヴェートーベン、モーツァルト、文学におけるゲーテ、
画家のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエッロ等、と並び時代を超え、

彫刻家のロダンは、時代を超えての世界的名声、
例え名だけでも知らぬ人はない、という存在と思います。が、

彼がちょうど「地獄の門」を制作し始めた40歳過ぎ、1880年頃、
彼のアトリエで生徒として出会った24歳年下のカミーユ・クロデール

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彼女の若さと美しさの前に、激しい愛と芸術のせめぎ合い、
芸術家同志としては互いに影響を与えあう幸せな10年ちょっとがあり、

最後は結局ロダンのずっと以前からの内縁女性の存在の前に
2人の関係は破局となり、

哀れな事にカミーユは精神的に崩れ、後半生の30年間を
ずっと精神病院で過ごし亡くなる、という女性の存在がありました。

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単に美貌と才能に満ちた若い生徒と師の関係ではなく、
ロダンの彫刻の幾つかには、明らかにカミーユの手が入っていると言われ、

つまりロダンにとっては助手、粘土、石膏、型を準備する助手であり、
彼は彼女の持つ技術を利用し、そして様々なインスピレーション、
をも与えたに違いない、彼の愛人でもあったのですね。


ロダンの有名な作品「接吻」 1887年  

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この作品を見ると、2人を思わずにはおれませんね。


最初、この作品は「フランチェスカ」と名付けられたそうですが、
「パオロとフランチェスカ」の2人の愛も悲劇に終わったお話。

n.2 グラダーラ  城 と パオロとフランチェスカ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/470815220.html



ダンテとカミーユの経緯はずっと以前聞いた事があり、
知ってはいたものの詳細はで、今回出会ったサイト記事がこちら。

ロダンとカミーユ・クローデル、エロスと芸術と愛と狂気の圧倒的な物語
Rodin e Camilla Claudel, travolgente storia d’eros, d’arte, d’amore e follia

ロダンとカミーユ・クローデル:愛と芸術の物語
Rodin e Camille Claudel: una storia d’amore e d’arte

オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデル、巨人と蝶
美神ではなく共犯者、共生する官能的な愛の物語
Le storie d'amore nella storia dell'arte: Auguste Rodin e Camille Claudel, il gigante e la farfalla
Non musa ma complice: storia di un amore simbiotico e voluttuoso

他に、ウィキペディアの日本版、ロダン、カミーユ共に。

が、今回は余りにも偉大な彫刻家であるロダンではなく、
彼と共に人生のひと時、余りにも短く濃縮された10年ちょっとを過ごし、
そして去ったカミーユ・クロデールについてを。


カミーユ・クローデル・Camille Claudel (1864-1843)
パリから南東に110km程、車で1時間半、電車で2時間の
ノジャン シュル セーヌ (オーブ)・Nogent-sur-Seine (Aube)生まれ。

父親は公証人役場の管理職を務め、詩人・外交官として有名な
ポール・クローデル(1868-1955)は弟。

彼女は幼い頃から彫刻に親しみ、粘土でモデルを作ったりと、
卓越した技術と才能を示し、彫刻家アルフレッド・ブーシェ・
Alfred Boucherに評価され、パリに出る以前、彼のアトリエに通います。

1881年に彫刻家になる夢を持ちパリに出てきますが、当時の
エコール・デ・ボザールは女子の入学枠がなく、別の学校に進学。

その学校の彫刻家の師がアルフレッド・ブーシェ、だったと思いますが、
1883年彼はイタリア・フィレンツェ、ローマに1年間出かけるにあたり、

そのアトリエの代理の師を友人のオーギュスト・ロダンに頼み、
そこで2人は出会ったと。


1883年のカミーユと家族。 多分一番手前が彼女と。

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カミーユ 19歳、 ロダン 43歳

美しく才気活発な19歳の若き女性、ロダンは背が低く、足が不自由、
近視でさえあった、と書いてもある記事があり、
2人は「美女と野獣」とも、 また「巨人と蝶」 とも。

いずれにしろ才能ある男性、それもかなり年上の芸術家であり、
彫刻家を目指す彼女は、多分即、その彼の大きさ、カリスマ性に
恋をしたのだろうと推察します。

アトリエのロダン

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アトリエで制作中のカミーユ

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すぐにロダンのお気に入りの生徒となり、が、既に素晴らしい技術を
持つ彼女に自分の作品の粗削りと、手足の仕上げを託す様になり、

20歳の彼女は、モデル兼同僚としてロダンのアトリエに入ります。


彼女の非常にきわどいエロティックなスケッチと同様に肖像画のポーズをとり、
2人の彫刻家がお互いに影響を与えるとりわけ幸せな時期を持ちます。


パリのロダン博物館に所蔵されている多数のスケッチが、
カミーユへの愛の進化を語っているされ、

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これらのスケッチには関連するエロティックな内容と、カーリダーサという
4,5世紀のインドのサンスクリット作家によって改訂、再編集された
カーマ・スートラを参照するカミーユ自身による幾つかの作品もあると。

彼らの関係がさらに進むと、継続的な仕事となり、どこまでがどちらの、
と識別する事は困難になり、 とあり、

当然ロダンの作品からカミーユは大きなものを得つつ、またそれが
ロダンの仕事への貢献となり戻るわけで、
2人の関係もどんどん深くなって行ったのでしょう。


カミーユの、ロダン像 1888-1889

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ロダンによる、カミーユ像

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こうして続く年月、2人は一緒に仕事をしたり、旅行をしたりしつつ、
1888年共同のアトリエを開設します。

が、この時以来カミーユは彼女の個人的スタイルを少し調整し始め、
絶対に紛れもない熱意と情熱の特徴付けが現れます。


ロダンには既に長年の内縁で、息子も生まれていたローズ・ビューレ
Rose Beuretがおり、カミーユとの関係が深くなるにつれ、2人の間の
問題となり、ロダンは2人の女の間で悩んだのでしょうが、結論に至りません。

カミーユが20歳前に妊娠した時も、結局ロダンは彼女に中絶を迫り、
彼女にとってはかなりのショックだったでしょうし、
大きな喧嘩、遠ざかり、という事もあった様。


1888年カミーユは作曲家のクロード・ドビュッシー・Claude Debussy
に出会い、作曲家から直筆の手紙が残っており、2人の相互の関心を
示す多くの証拠があるそうで、

ワルツ」 カミーユの作品  ドビュッシーとの別れの後

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2人の行き来は1889年までの約2年間続くものの、特別な影響はなく、
実際カミーユはロダンとの関係も続けており、

つまりカミーユは、ローズとの決着をつけないロダンへの見せつけ、嫉妬を
煽るつもりだった様ですが、

2人の関係は非常に荒れ狂う様になり、断絶があり、和解しても短期間。

そして遂に1898年、2人は永久に別れ去ったのでした。


別れの後のカミーユの作品 「成熟

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1906年カミーユはケ・ブルボン・Quai Bourbonのアトリエに引っ越し、
そこで数多くの作品を破壊し、
精神的苦痛の兆候が表れ始めたのは1913年。

この年唯一の理解者であった父親ルイが亡くなり、心の支えを完全に
失い、パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院に強制入院させられ、

その後第1次世界大戦の影響で、南仏のアヴィニョン近郊の
モンデヴァーギュ精神病院に転院し、以後生涯をそこで過ごし、

1943年10月19日、家族に看取られず、78歳の死


彼女の創作活動は1880年頃に始まり、1905年頃に終わり、

つまりロダンの傍らで生きていた期間、わずか25年間ほどであり、
哀れというか、残念というか・・


カミーユと、彼女を嫌った母親との間には生涯確執が残り、彼女も同様で、
精神病院に入院後は創作する事なく、誰とも口を利かず、知り合おうとせず、
1人自分の世界に閉じこもり、

母への憎悪と、周囲の患者を見下す事で自分の精神の安定を保った、と
いうのが、読んでいて辛い事。



ですが、ロダンの53年間に渡る伴侶となり、亡くなる16日前に結婚した、
というローザ・ビューレ・Rosa Beuret(1844-1917)について読むと、

ロダン作、ローザの像

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お針子、洗濯女だった彼女は20歳の時にロダンと知り合い、彼は4歳年上、
彼女は内気で控えめ、一方のロダンは真面目で勤勉、素朴で内気、
だったというので、良い相手同志だったのかもで、

一緒に引っ越し、仕事を続け、ロダンは時々彼女のボタン付けも手伝い、
一方彼女は徐々に忠実な仲間となり、ポーズも取るようになり、
こうしてロダンは女性の肖像にも近づき、

産まれてきた男の子も、彼は認知せずのまま、彼のモデルもしており、
となると、これはもう完全に長い年月の「一家庭の形成」だったわけで。


と、いわゆる三角関係にある2人の女性の様子を少しでも知ると、

カミーユはロダンにとって、まさに禁断の実の様な、若く美しく、
輝く才能と自信に満ち、才気溢れる勝気な性格を持ち、
ロダンに結婚を迫ったのでしょうね。

彼女の前に、一旦は官能と仕事の両欲の前に屈したロダンも、
10年を経てちょっと目が覚めた、という感じだったのかな、
というと厳しいかもしれませんが・・。

そんな様々な感想を抱いた今回のテーマでした。


カミーユの破壊を免れた約90点の彫像、スケッチ、絵画が現存し、
1951年弟のポールがロダン博物館で展示をしたそうですが、

2017年カミーユの生まれたノジャン シュル セーヌに、彼女の作品を
集めた「カミーユ・クローデル美術館」が開設されたそうで、

こちらでヴィデオが見れます。
Musée Camille Claudel, ouverture le 26 mars 2017
https://youtu.be/ibjPoEcDJ-U



写真に見る、本当に美しいカミーユの写真に驚き、
見た途端に「イザベル・アジャーニだ!」と思ったのでしたが、

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実際イザベル・アジャーニ主演で「カミーユ・クロデール」という
タイトルで1988年、映画になっており、

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ロダンを演じるのは、ジェラール・ドパルデュー。

彼の顔は一瞬分からず、・・信じられ~ん!!  今の彼は誰だぁ?!

映画のストーリーを読みましたが、もめ事続き、喧嘩続きの様で、
う~ん、こういうのはこの年になるとシンドイなぁ。



最後は、若い頃姉のカミーユから日本の素晴らしさを聞き、その後
外交官となり駐日大使だった事もあり、
日本人、日本文化の素晴らしさを伝え、戯曲「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
「繻子の靴」なども残した弟のポール・Paul(1868-1955)

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ロダンと別れた後の姉の経済援助もしていたそうですが、
姉を精神病院に強制入院させたのも、後の30年間、彼女が家に
戻りたくとも許さなかったのも、弟のポールだったそうで、

そう言った厳しくも、大変に知的で理性的判断が出来た人だったろうと。

カミーユの生涯は、家族にとっても大変だったろうなあと思い、
知ったこちらも、あれこれ物思いに耽った事でした。


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