昨年12月半ば頃にお知らせの記事に書いた
ブロンズィーノの肖像画が、サザビーズNYの競売に
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20221215-1.html
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20221215-1.html

に、年が明けた1月に競売に付される、とあったので、
そろそろニュースが出る頃、と待っておりましたら、はい、
たくさんぞろぞろ出て来まして、というのもです、
そろそろニュースが出る頃、と待っておりましたら、はい、
たくさんぞろぞろ出て来まして、というのもです、
大体の所これ位の価格で、というよりもず~っとお高い価格で売却
されたからでして、
されたからでして、
にかなり詳細に、絵についても、元の持ち主についても書いてあり、
この絵画の変遷についても、絵の内容についてもあれこれ知ることが出来、
はぁ、それは良いのですが、
絵の最後の持ち主の名前や、どの様にして手から離れナチスの下に、
その後正当な相続人の元に戻るまでの様子を少しでも知ると、
その後正当な相続人の元に戻るまでの様子を少しでも知ると、
もっと正確に詳細を知りたくなる私めの性格から、
これを書き出す直前にまた新しい、これが素晴らしいサイト記事、
ザ・ニューヨーク・タイムスの記事を見つけ、どっぷりと浸かり・・、
ザ・ニューヨーク・タイムスの記事を見つけ、どっぷりと浸かり・・、
でも、これは皆さんにも是非知って頂きたい、書きたい、という内容
ですので、今回また読んで下さいませませ。
ですので、今回また読んで下さいませませ。
まずは、ニューヨーク・サザビースでの競売、売却の様子ですが、
1527年に描かれたと思われるアーニョロ・ブロンズィーノ・
Agnolo Bronzino(1503-1572)の、
「羽ペンと紙を持った若者の肖像」は、

300~500万ドルの想定価格の2倍以上の、1070万ドルで
売却されたのだそうで!!
この価格は、2015年に同じくニューヨークのクリスティーズでの競売で、
同じブロンズィーノの「本を持つ若者の肖像」が
同じブロンズィーノの「本を持つ若者の肖像」が
900万ドルで売却された価格をも軽く上まわったもので、
まぁ、7年経過しておりますしね、それにしても凄いものです。
まぁ、7年経過しておりますしね、それにしても凄いものです。
競売当日の様子は、上向きのレースが5分間続き落札。
新しい所有者の名前は明らかにはされていませんが、
サザビースNYのロシア部門の長が担当していた事は明らかですので、
そちら方面のお金持ちであろうと。
そちら方面のお金持ちであろうと。
まぁ、絵が少し遠い所に行かれるのは残念ですが、
いわば今迄まるで知られていなかったブロンズィーノの絵の存在が
今回明らかになり、
今回明らかになり、
それ以前のクリスティーズからの写真も無かったのだそうで!
その当時の彼の他の絵と比べて見ると、まぁ、まるで彼以外には
あり得ない、というほどの共通点をshinkaiめにも看て取れ、
嬉しくなる程で。
あり得ない、というほどの共通点をshinkaiめにも看て取れ、
嬉しくなる程で。
この点については、カルロ・ファルチーニ・Carlo Falciani教授、
美術史家であり、フィレンツェの美術アカデミーの現代美術史の教授
であるこの方が、
美術史家であり、フィレンツェの美術アカデミーの現代美術史の教授
であるこの方が、
フィレンツェのストロッツィ宮殿での、ブロンズィーノ展 2010~11年、
を監修されたそうで、
を監修されたそうで、
それでサザビースからの問い合わせ、画家の確認についてに対し、
ブロンズィーノの作品に間違いない、との答えを出された方。
ブロンズィーノの作品に間違いない、との答えを出された方。

顔写真を見てお若いのに驚きましたが、
生年月日は出ずですが、フィレンツェで大学を卒業され、パリで、
ハーヴァードでも、という優秀な方の様子。
生年月日は出ずですが、フィレンツェで大学を卒業され、パリで、
ハーヴァードでも、という優秀な方の様子。
「ブロンズィーノ、として知られるアーニョロ・ディ・コジモに
関する最近の発見の中で最も興味深いもので、
16世紀の肖像画の傑作であるこの品質の絵画が、科学界に知られて
いなかった事は注目に値します。
いなかった事は注目に値します。
その再発見は、画家の最も美しい肖像画の1つを明らかにするだけでなく、
彼の初期の活動についての理解を深めます。
彼の初期の活動についての理解を深めます。
既にブロンズィーノのキャリアの初期において、この肖像画は
言葉とイメージに対する彼の二重の関心を、最も説得力のある表現で
示しました。
彼の芸術的な洗練は、コジモ1世メディチ家の宮廷で働いた
成熟期が典型的ですが、
成熟期が典型的ですが、
にも拘らず、この肖像画は、若い頃から同じ文学的、および視覚的観念が
彼の作品の基礎であったことを示しています」と。
彼の作品の基礎であったことを示しています」と。
はい、この教授の言葉に出て来たブロンズィーノの描いた肖像画の
中の若者たち、今回以外にも、
上記した、「本を持つ若者」もそうですし、

ミラノのスフォルツェスコ城にある「ロレンツォ・レンツィの肖像」も、
若者は本を、ペトラルカの詩集、を持っており、
若者は本を、ペトラルカの詩集、を持っており、

これも今回の肖像画と、ほぼ同じ時期のもので、
私が驚いたのは、この細部の写真に見える、衣装の布の特徴である、
細かい細かいビーズかな、の表現!

当時のスペインからの流行だったと思われる、黒い衣装に一粒一粒
縫い付けたものでしょうか?!
説明には、ビロードに似たフラシテン、長いケバを持つ絹または木綿、と
あるのですが、ケバではなく、袖には完全に光っている様子が見えますよね?
あるのですが、ケバではなく、袖には完全に光っている様子が見えますよね?
黒色が地味、なんぞとはまるで裏腹の、素晴らしく豪華な衣装で!!
彼は1516年生まれの詩人、アントニオ・ディ・ピエロ・ディ・アンフリオーネ
(大変裕福なフィレンツェの商人、だった様)の息子で、
枢機卿ガッディが母方の叔父さん、で、教育はこちら側で、とあり・・。
(大変裕福なフィレンツェの商人、だった様)の息子で、
枢機卿ガッディが母方の叔父さん、で、教育はこちら側で、とあり・・。
ちょっと脱線しましたが、ええと、カルロ・ファルチーニ教授によると、
今回のブロンズィーノの肖像画と、手の描き方は同じで、それが彼の
スタイルであるのを示しており、
スタイルであるのを示しており、
それでも当初はブロンズィーノではなく、ポントルモの作品とされており、
それは、ブロンズィーノの初期の作品の認識がごく最近のものであるので、
未だ一連の作品全体が認識されていないのだ、と。
未だ一連の作品全体が認識されていないのだ、と。
そしてもう1枚の作品、ウゴリーノ・マルテッリ・Ugolino Martelli 像。
1537-40年作
1537-40年作


(1519-1592)フィレンツェの貴族、銀行一家の出身で、人文主義者、
言語学者だそうで、
言語学者だそうで、
多分ブロンズィーノはヴェネツィアとの繋がりもあり、
高価なラピスラズリの入手先もあったろうと思われる、とあり、
多分実際の絵の中で見えるウルトラマリン・群青色が素晴らしいのだろうと。
そして手前に広げ指さしているのは、「ホメロスのイーリアス」の写本、だそう。

袖口からチラッと見えるシャツの袖口がグレイがかった青紫で、ふふ、
絵の背後に広がるのは、彼が住んでいたご自分のお屋敷で、
左端に見える彫像は、ゴリアテの頭を下に転がしたダヴィデ像で、
実際にこのお屋敷にあったそうで!
実際にこのお屋敷にあったそうで!
この絵は現在ベルリンのGemaldegalerie博物館に。
そして本を指す指、という関係で、今回の我らが肖像画をもう一度、

そして、ブロンズィーノはラテン語で書かれたなぞなぞを、
ここに書いており、

最初の行には、
「書いているように見えますが、事実は書いていません」と。
さて、これをあなたはどの様に解釈されますか?
で、もう少しで書き忘れそうになった大事な事、カルロ・ファルチーニ教授が
「これはもしかしたら、ブロンズィーニの自画像かもしれない」
と言われている事。
未だ仮説であり、定かではありません、と言われておりますが、
彼が描いたこのラテン語の言葉は、非常に興味深く、
つまり「話す」から、と。 つまりここではブロンズィーノが直接に
鑑賞者に語りかけている、という事かと。
で、書く事と別の方法で自分自身を表現する事の間で、バランスを
取っている人物のイメージがあり、
これはブロンズィーノが他の絵画でもしているゲームである、と。
そして、彼がほぼ60歳の肖像画があり、彼の人生の終わりの肖像画でも、
彼は筆ではなく、ペンと手を持って、自分を描いているのだそうで。
多分教授は、今回のブロンズィーノの新しく発見された絵についての
学術論文を書かれているのではないかと思えるので、
その発表があった時には、もっと詳しい事が分かるかもと。
という所で、この絵の持ち主の変遷について、ですが、
かなり強烈で問題ある歴史を経ており、
かなり強烈で問題ある歴史を経ており、
ここからの内容は、上記したニューヨーク・タイムスの記事で、
ほぼ無事に彼女はミュンヘンに戻り、絵と命を失いました
ほぼ無事に彼女はミュンヘンに戻り、絵と命を失いました
サイト上で右クリックすると、日本語翻訳で読めますので、是非!
ブロンズィーノの絵は、最初は英国王チャールズ2世の個人顧問で
あったサー・ウィリアム・テンプル卿が所有し、
そして1824年から1920年にかけてシーモア・コレクションに。
その後アーチストのヒュー・ブレイカーの手に。
そして裕福なドイツの相続人でコレクターのイルゼ・ヘッセルベルガー・
Ilse Hesselbergerが購入したのですが、
Ilse Hesselbergerが購入したのですが、
今回お話したいのは、この女性についてです。
ユダヤ系の女性で、絵をナチスにいわば脅され売却したものの、
自分の身をそれで救えると思ったのが、結局は強制収容所に送られ、
そこで亡くなった、と知り、もっと詳細をと記事を探したのでした。
自分の身をそれで救えると思ったのが、結局は強制収容所に送られ、
そこで亡くなった、と知り、もっと詳細をと記事を探したのでした。
まず、彼女イルゼ・ヘッセルベルガーの1921年の写真をどうぞ。

この写真が見つかった時は、わぁお、見つかった、と!
こうして写真が見つかると、ああ、本当に居られたんだ、
こうして写真が見つかると、ああ、本当に居られたんだ、
という気になり、ここから記事が見つかり、
これは皆さんにもお伝えを、と思ったのでした。
1938年の夏の終わり、ナチスがドイツのユダヤ人に対する迫害を
強め始めた時、イルゼ・ヘッセルベルガーと娘のトルディ・Trudyは、
親戚を訪ねる為にミュンヘンからミラノに旅行中で、
ミラノから娘は無事に渡米。 イルゼは信仰はプロテスタントでも、
民族的にはユダヤ系であり、ドイツに戻りましたが、
民族的にはユダヤ系であり、ドイツに戻りましたが、
華やかな社交家としての生活が知られていたものの、
帰国後は、ヒトラーの権力の台頭に重要な舞台であったミュンヘンで
祝う事は殆どなく、
祝う事は殆どなく、
ナチスの人種法の下でユダヤ人として識別された彼女は、
すぐに田舎の不動産を売却する事を余儀なくされ、
すぐに田舎の不動産を売却する事を余儀なくされ、
1927年に購入した、「羽ペンと紙を持つ若者の肖像」を含む
コレクションを失います。
コレクションを失います。
その後ナチの役人は、後にユダヤ人を強制収容所と、死の収容所に
送る為に使用する、つまり選別の収容所建設費を援助するように
圧力をかけ、
送る為に使用する、つまり選別の収容所建設費を援助するように
圧力をかけ、
歴史家によると、彼女はお金を払えば定住できる、と確信していたのが
その約束は嘘で、
その約束は嘘で、
1941年11月、収容所の資金援助の為の10万ライヒスマルクを
回収して後わずか数週間で、他の資料には数日、ともあり、
回収して後わずか数週間で、他の資料には数日、ともあり、
彼女はそこから始発の列車に乗せられ、ドイツ占領下のリトアニアに
送られ、彼女と他の多くのユダヤ人は5日後に殺害されたのでした。
送られ、彼女と他の多くのユダヤ人は5日後に殺害されたのでした。
不動産を売らせ、美術コレクションを売らせ、そのお金をも吸い取り、
その後に、というナチスの残虐な手法だったのですね。
その後に、というナチスの残虐な手法だったのですね。
ヘッセルベルガーさんがブロンズィーノの作品を購入した時、彼女は
ミシン工場の財産相続人であり、
夫君は、1930年代半ばに亡くなったミュンヘンの皮革工場の
オーナー、フランツ・ヘッセルベルガーさん。
ナチスはイルゼの出生記録の最初のページの隅に、彼女がユダヤ人で
ある事を示す「サラ・Sara」という名前のスタンプを追加。

娘のトルディは、ちょうど間に合うチャンスに逃げ渡米したのが分かり、
というのも、彼女の出国から2か月後に、ユダヤ人保持のドイツの
パスポートは無効となり、
その1か月後、水晶の夜のユダヤ人虐殺が起こり、
12月には、ナチス当局は既に5000ライヒマルク以上の資産登録を求めて
いたユダヤ人に対し、財産、事業、株を、通常より低価格で、
非ユダヤ人に売却する事を強制。
いたユダヤ人に対し、財産、事業、株を、通常より低価格で、
非ユダヤ人に売却する事を強制。
新しく建設のミルバーツホーフェン収容所の件で、ナチス事務所に
召喚され、金を要求された時、既に彼女には選択の余地はなく、
こうして多くのユダヤ人は、自分たちの死に資金を提供させられ、
トルディは別のパスポートを用意するのにお金を払ったそうですが、
それが届いた時はすでに遅く、
ナチスとの約束にも拘らず、ミルバーツホーフェンからの
ユダヤ人を移動させるための最初の列車に乗せられ、
ドイツ政府の記録によると、イルゼは1941年11月20日に
リトアニアのカウナス収容所に強制送還され、
1941年11月25日に殺害、51歳でした。
ブロンズィーノの絵画は、総督博物館のコレクションに含まれ、
これはヒトラーがオーストリアの故郷リンツの為に計画した贅沢な
これはヒトラーがオーストリアの故郷リンツの為に計画した贅沢な
複合施設の一部でしたが建設される事なく終わり、
戦後アメリカ軍は、この絵画オーストリアの岩塩構内に保管されて
いるのを発見し、ドイツ当局に引き渡され、
過去数十年間にわたり、ドイツ連邦共和国が所有。
過去数十年間にわたり、ドイツ連邦共和国が所有。
ボンの連邦政府の建物にかなりの期間吊るされていたのが、
2022年初め迄に、ドイツ議会教会が使用するベルリンの建物に移動。
2022年初め迄に、ドイツ議会教会が使用するベルリンの建物に移動。
こうして絵の裏側には、ヒトラーが計画していた美術館の目録番号、
[1400」のシールが貼られており、その来歴を知る手がかりに。

数年前、ナチスにより略奪された美術品回収を専門とするニューヨークの
弁護士デビッド・J・ローランドが、イルゼ・ヘッセルベルガーの
弁護士デビッド・J・ローランドが、イルゼ・ヘッセルベルガーの
相続人に属している可能性のあるドイツの絵画について聞き、
イルゼの娘の財産を担当する弁護士と話し、彼の事務所はすぐに
ドイツの弁護士と共に調査を開始。
ドイツの弁護士と共に調査を開始。
2022年初頭、ドイツ政府は、ナチスの迫害により没収された
可能性が非常に高いと結論付けた後、この絵を財団に引き渡し、
財団は、当時ヤコピーノ・デル・コンテの作品、とされていた
この絵をサザビースに委託、
3月に届いた時は、それは土と熱い黄色のニスの層で覆われており、
でも、サザビースの熟練したスペシャリストたちは、
その根底に特別な何かを信じ、
フィレンツェのカルロ・ファルチャーニ教授に写真を送り、
ブロンズィーノの作品であることが結論付けられたのでした。
ファルチャーニ教授はメールの中で、
「手はブロンズィーノの若々しい肖像画と同じ様に描かれ・・
空間における人物の澄んだ光と、立体的な形はまさにブロンズィーノの
ものである」と。
「手はブロンズィーノの若々しい肖像画と同じ様に描かれ・・
空間における人物の澄んだ光と、立体的な形はまさにブロンズィーノの
ものである」と。

長い文章を読んで頂き、有難うございます!!
長らくブログを続け、時に草臥れる事もたびたびですが、失礼、
でも時に、「これは書きたい、書かなければ、 読んで欲しい」
と強く思う事柄に出会う事があり、
と強く思う事柄に出会う事があり、
今回もまさにそれでした。 そんな時に思うのは、
イルゼさんの人生が、私に書かせる何か、みたいに思われ、
イルゼさんの人生が、私に書かせる何か、みたいに思われ、
自分が知った事柄を大切に心の隅に置き、生きて行こう、と。
有難うございました!
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