先月中頃に出かけたシエナですが、漸くに写真を整理、
資料も何とか読み、自分が撮ってきた写真が何だったのかの
意味も何とか納得出来ましたので、へへ、
見てやって下さい。
資料も何とか読み、自分が撮ってきた写真が何だったのかの
意味も何とか納得出来ましたので、へへ、
見てやって下さい。
漸くに朝の雨が止み、薄日が斜めに差し掛けた聖堂。
いつ見ても美しいですねぇ!
いつ見ても美しいですねぇ!

但し、出かけたあの日、あの朝は物凄く寒くて凍え、
どうやら頭の中までも凍ったらしく!
あちこち見ておらず、撮り忘れが多かったのを知りましたがぁぁ、
どうやら頭の中までも凍ったらしく!
あちこち見ておらず、撮り忘れが多かったのを知りましたがぁぁ、
まぁ、これも次回出かける口実になるかもで、ご容赦を!
ファサード・ファッチャータは大きく2層に、下段、上段に分けられますが、
下段はかのジョヴァンニ・ピサーノによるもので、
上段は、カマイーノ・ディ・クレシェンティーノによるものと。
彼は、シエナ派の有名な彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの父親で、
どうやら上段の中の彫像には、ティーノの作品もある様子。
彼は、シエナ派の有名な彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの父親で、
どうやら上段の中の彫像には、ティーノの作品もある様子。
下段中央の3つの扉。 現在は右端が入場口になっており、


そうそう、切符売り場は聖堂前左をぐるっと回り込んだ奥に。
ロマネスク様式で始まり、じんわりとゴシック様式が取りこまれて行き、
ほら中央の大きな円窓がある両端の垂直線が、下側の位置と違いますね、
ほら中央の大きな円窓がある両端の垂直線が、下側の位置と違いますね、
そんなこんなの統一感に欠けている、と言われるものの、
この色と装飾の美しさは、イタリア聖堂の美しさで一番美しいものの1つ、
と言われ、このスタイルでの建設でも、最も重要なものであると。
と言われ、このスタイルでの建設でも、最も重要なものであると。
もっとキンキラキンのオルヴィエートの聖堂とも比較されるようですが、
あちらの方が数年遅れて建設にかかっており、
シエナの聖堂を見てから、というのが正しい、とウィキ伊の説明に。
あちらの方が数年遅れて建設にかかっており、
シエナの聖堂を見てから、というのが正しい、とウィキ伊の説明に。
この大きな円窓の前に居られるのは、聖母像で、円窓がいわば光輪に
あたる、という説明で、
あたる、という説明で、

背後には様々な聖人、預言者たちの像が並びます。
そういった像の下には、色大理石モザイクがそれぞれに収まり、
各人の姿勢と共に、見飽きませんね。
各人の姿勢と共に、見飽きませんね。
中央の一番上には、「聖母被昇天」図がモザイクで描かれ、

はい、このシエナの大聖堂の正式名は、サンタ・マリーア・アッスンタ・
「被昇天のマリア様」に捧げられており、
「被昇天のマリア様」に捧げられており、
このモザイク、上部の横共に3画面のモザイクは後世19世紀のもので、
ヴェネツィア製だそう。
ヴェネツィア製だそう。
正面の両脇角には、一番上の派風にまで届く高さの塔があり、
これは向かって右の角、様々な聖人たちと混じり、大動物たちが身を
乗り出し、小さな動物、または鳥たちは雨水吐けとなっており、
乗り出し、小さな動物、または鳥たちは雨水吐けとなっており、
こうして近く、横から見ると、かなりの迫力!

こちらは向かって左側角の、左の扉上部の半円の層と共に。
馬、牛、ライオンの半身乗り出しが、迫力で!
馬、牛、ライオンの半身乗り出しが、迫力で!


雨水吐け・今回知った伊語で、ドッチョーネ・doccione、
動物の形をしたのをこう呼ぶのだそうで。
そうか、あんな雨の日だったのに、本当に動物たちが働いているのかどうか、
見れたのにね、と思うのは、暖かくしてPCに向かっているからで、ははは。
見れたのにね、と思うのは、暖かくしてPCに向かっているからで、ははは。
こちらは少し正面向きに位置を変え。 上のライオン君が大口を開け!


シエナの聖堂は白と黒の縞、と頭にありましたが、濃い緑色だそうで、
大変すっきりの印象ですが、
大変すっきりの印象ですが、
それに対し、このファッチャータに添えられたピンク色の優しさ、が
本当にエレガントな趣を添えて、素晴らしいですねぇ。
本当にエレガントな趣を添えて、素晴らしいですねぇ。
向かって右の柱の様子の写真が少ないのは、です、 聖堂のある
位置の高さが盛り上げられているのが、幅が狭く、後ろに下がれずで、
つい撮りやすい左側になり・・、と凍えて意気地なしだったshinkai。
位置の高さが盛り上げられているのが、幅が狭く、後ろに下がれずで、
つい撮りやすい左側になり・・、と凍えて意気地なしだったshinkai。
両正面角から少し下がった円柱の上に、シエナの雌狼・ルーパ・セネーゼ。

シエナのシンボルであり、街中のあちこちの円柱の上に見かけますが、
やはりローマの雌狼と同じで、こちらの雌狼のお話はローマの続編伝説。
父親のレムスが、弟のロムルスに殺されたセニオとアスカニオの兄弟は、
(お母さんはどうなったの?)
アポロとディアナが提供した2頭の馬(白と黒、これがシエナの紋章の色に)
に乗り、彼らを養って来た雌狼を連れ、北に逃げ、
に乗り、彼らを養って来た雌狼を連れ、北に逃げ、
定住する事を決めた谷に到着。 ここに町を建設、兄の名をつけ、
セナ・Sena、そしてシエナ・Siena、となったというのですね。
ローマの狼とのスタイルにわずかな違いがあり、ローマの方は横向きで、
シエナの方は前を向いており、
シエナの方は前を向いており、
同じ雌狼なのですけど、間接的に呼び起こされるだけで、実際は、
フィレンツェのシンボルであるライオン、に対する図、なのだと!
フィレンツェのシンボルであるライオン、に対する図、なのだと!
そうなんですねぇ、このフィレンツェに対するシエナの複雑な感情ね。
こうして正面から見ると、単純にお乳を飲んでいるのと違い、
元気はつらつ、走ろうよ、マンマ、とでもいう感じで、ははは。
元気はつらつ、走ろうよ、マンマ、とでもいう感じで、ははは。

大体は石像が円柱の上に、ですが、一番豪華なルーパは、
パラッツォ・コムーネの中の、黄金のルーパ、という説明に、
あれ、そんなのあったかな、と思い出せず、写真を探し、
コムーネ宮の内部、背景から特定し、
撮っていた、いや、写っていたのを、探し出しましたぁ。

という所で、シエナのドゥオーモの正面。

中央の正面扉の上。 青銅の扉は後年作で。浮彫はマリア様の逸話と。

入場切符を買った時の、聖堂北側の大理石の象嵌。

このシエナの大聖堂の建設について、簡単に拾い出しますと、
確実な古い資料がなく、1220年頃始まった、と言われており、
1226年12月に、シエナ共和国が大聖堂の建設と装飾に関する費用と
契約登録を、ビッケルナ・Biccheruna・支出事務所で開始しており、
これが最初の記録なのだそうで。
契約登録を、ビッケルナ・Biccheruna・支出事務所で開始しており、
これが最初の記録なのだそうで。
位置する場所はシエナの町中でも一番高い位置、町を3分割した
その中央部にあたり、
おそらく9世紀からの既存の建物、おそらくミネルヴァの架空神殿の
上に建設が始まり、
上に建設が始まり、
正面を西側に向けたバジリカに変えられ、1370年頃に完成。
という超簡単な年代記とは別に、既に古い聖堂建設は始まっており、
1179年11月18日にシエナ人の教皇アレクサンドル3世により、
奉納式が行われた、という記述もあるのですが、
この仕事は完成には程遠く、1196年から市民の特別代理人が
「サンタ・マリーア聖堂建設」とでもいう設置委員会を作り、
1238年から1285年迄、サン・ガルガーノの修道士により管理された、と。
「サンタ・マリーア聖堂建設」とでもいう設置委員会を作り、
1238年から1285年迄、サン・ガルガーノの修道士により管理された、と。
で、この辺りから支出簿記載の記録が始まり、
1227年には、白と黒・濃い緑の大理石に対する一連の支払い記録、
1227年には、白と黒・濃い緑の大理石に対する一連の支払い記録、
1273年には合唱団席の調度品の支払いが記録され、
1263年にはドーム・円天井の屋根を覆う為の鉛が購入され、
ドームの頂上に置かれた銅のリンゴの代金が支払われ、
ドームの頂上に置かれた銅のリンゴの代金が支払われ、
高さは、ドーム状の十字架も含め、48m。
という事は、1263年までに、聖歌隊席、中央の6画形、そしてその上の
丸天井が既に建設されていた事になり、
丸天井が既に建設されていた事になり、
特定されていない資料によると、1280~84年の間に身廊の完成、を
示しているそうで、
14世紀の匿名年代記によると、1284年にファサードの最初の石が
置かれた、とし、
置かれた、とし、
1284年から1297年に掛け、ジョヴァンニ・ピサーノが、下部の建設の
現場監督の長として働いていた事を証明し、
現場監督の長として働いていた事を証明し、
なぜ突然に解任されたか、というのは、ピサーノの浪費、無規律、監督
不行き届き、など設置委員会からの苦情によったらしく、
不行き届き、など設置委員会からの苦情によったらしく、
ピサーノほどの腕がある人間を首にする方もですが、受けて立って、
おう、なら、辞めてやろうじゃぁないか、となったのかも、で、
・・こういう場面は、も少し詳しく知りたいものですねぇ、ははは。
おう、なら、辞めてやろうじゃぁないか、となったのかも、で、
・・こういう場面は、も少し詳しく知りたいものですねぇ、ははは。
で後を継いで、1299年~1317年頃、彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの父、
クレシェンティーノによって完成したと。
クレシェンティーノによって完成したと。
1313年、高さ約77mの鐘楼が完成。
14世紀の年代記によると、1317年5月にファサードが完成し、
東部で拡張工事が始まった事を証言。
東部で拡張工事が始まった事を証言。
東部の拡張工事、というのは、聖堂の東側の低い土地、ここは聖堂の
内・後陣の地下にあたり、ここに洗礼堂を造る工事で、
洗礼堂の屋根が聖歌隊席を支える事により、新しい聖歌隊席も
2つの径間部席が追加され、
2つの径間部席が追加され、
また中央身廊も高くなり、新しく完成のファサードに合わせたと。
こうして、新しい建設を見直しながら、次の工事に、という感じにも
見える進捗具合だったのですが、
1339年に突然に中断されたのですね。
この時のシエナは、町の発展の素晴らしさの頂点にあり、
時の大聖堂は、町の大きさには小さすぎると思われたに違いなく、
時の大聖堂は、町の大きさには小さすぎると思われたに違いなく、
人口と富が増加し町の生活が拡大し、フィレンツェとその新しい巨大な
大聖堂に負けまい、見習おう、という欲求も成熟、
大聖堂に負けまい、見習おう、という欲求も成熟、
現在の縦方向の建物が、翼廊と南向きのファサードのみになる様に、
はるかに大きく、進んだ位置で拡張する事が決定されたのですね。
はるかに大きく、進んだ位置で拡張する事が決定されたのですね。
という事で、即新しい計画は発足し、工事が進みかけたのですが、
1342年に疫病の発生、そして飢餓に襲われ、状況は一変し、
1348年のペストの流行と、いくつかの構造的崩壊、
1357年にさらにペストに襲われ、遂に6月に工事中断。
1348年のペストの流行と、いくつかの構造的崩壊、
1357年にさらにペストに襲われ、遂に6月に工事中断。
数年後に工事は再開されたものの、1870年の火災もあり、
遂に増築工事は完全に放棄され、
遂に増築工事は完全に放棄され、
今も残る、ファッチャトーネ・大ファサードと呼ばれる、夢みた大聖堂の
ファサードの壁、そして身廊になる筈だった壁が残ります。
ファサードの壁、そして身廊になる筈だった壁が残ります。
が、大聖堂内部の装飾はその後も着々と進められ、
国際ゴシック、ルネッサンス、バロック様式も混在する美の宝庫に!
という事で、漸くに内部のご案内に。
身廊をずんと奥の後陣まで見通し、

天井部のアーチの交わる点まで、どれほどの高さになるのだろ?!


中ほどの高さに、両側にずらっと並ぶ顔ですが、アップで眺めたshinkai。
特別に余り出来の良い顔とは思えないけど、ここまで並ぶと、
それなりの威圧感、迫力だなぁ、と。
そしてウィキ伊の説明を読むと、なんと、まったく同じ説明があり、
きゃはは、と大笑いしましたが、
きゃはは、と大笑いしましたが、
なんとこの顔は初代ヴァティカンの初教皇となったサン・ピエトロから始まり、
始まりは後陣の背後中央のキリストの右から始まり、時計回りに進み、
キリストの左で終わる171番目の教皇ルキウス3世まで!
で、本当はこのシリーズは、シエナ人教皇アレクサンドル3世(1159-1181)
で終わる筈だったのが、
で終わる筈だったのが、
ジョヴァンニ8世教皇が、実は男装した教皇ジョヴァンナ、ご存じですよね?
であった事から外す必要が出て、胸像を一つづつずらし、
新教皇を1つ追加する事になり、この様になったのだと!
今回、シエナのドゥオーモについて、ウィキペディアのイタ版を読み、
どう言ったらよいのかな、シエナに対する愛情、悪口はちゃんというものの、
その奥には愛着心ふつふつ、というのを感じ、
今迄ウィキの記事にそういった感情を感じた事が無かっただけに、
これを書いた方はシエナの人かなぁ、なんぞと思ったり、
これを書いた方はシエナの人かなぁ、なんぞと思ったり、
よく分かる丁寧な説明に援けられつつ、感心したりだったのでした。
また他のシエナの記事を読んでもそうなのか、気を付けてみましょう。
また他のシエナの記事を読んでもそうなのか、気を付けてみましょう。
内陣、後陣の様子。

上述の歴代教皇様の胸像、真ん中のキリスト様の顔は見えませんが、
頭に金色の柊の王冠をしているので分かりますね。
頭に金色の柊の王冠をしているので分かりますね。
実はこの内陣、後陣には、最初はドゥッチョ・ブオンニンセーニョの
祭壇画があったのが、
祭壇画があったのが、
内部の大掛かりな改造が行われ、その時に祭壇画が外され、
フレスコ画と大理石の装飾になったのだそうで。
フレスコ画と大理石の装飾になったのだそうで。
というのも、シエナの人々もルネッサンス様式に馴染み、魅かれたのと、
かっての中世の物は古臭い、と思うようになったのが原因なのですと。
かっての中世の物は古臭い、と思うようになったのが原因なのですと。
まぁ、今となると、古くとも出来の素晴らしいのは、ま、少々の出来でも!
古いというだけで価値が決まる事もありますが、失礼、
古いというだけで価値が決まる事もありますが、失礼、
今回のこの説明は、そうなのか、ドゥッチョの作品でも古くなったのか、と
ちょっとばかり、新鮮な説明の様に受け止めたのでした。
ちょっとばかり、新鮮な説明の様に受け止めたのでした。
シエナ点描 小路と、黄昏どき
https://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html
が、このドゥッチョがデザインしたステンド・グラスはそのままで、
直径5,6m、 1287-88年に作られた、イタリアで製造された
知られている最古のステンド・グラスなのだそう。


但し実物は、ドゥオモ博物館にあり、聖堂のは画家のフランチェスコ・モーリ
によってコピーされたものだそう。
によってコピーされたものだそう。
ドームの下、濃いブルーの地に、金メッキされた星が打ち込まれており、
下を聖人たちが囲みます。
下を聖人たちが囲みます。


上に明り取りのランタン部分が見えますが、
凍り付いたshinkaiの頭は、この下右の方の様に、上を狙うのも忘れ・・!

内陣に向かって左側にある、説教壇。 二コラ・ピサーノ・ジョヴァンニの父、
1265-68年の素晴らしい作品。

製作には父のジョヴァンニ、アルノルフォ・ディ・カンビオなどの名も見え、
これほどの作品をカッラーラ産の大理石に彫り込む力量、凄い!
これほどの作品をカッラーラ産の大理石に彫り込む力量、凄い!
350x200cmという大きさ。
こちらが正面側。

そして裏側から。 階段と渡橋があります。

聖堂内床面には、全部で56のパネルになった、大理石の象嵌細工が
嵌め込まれており、
嵌め込まれており、
その独創性、広さ、モチーフの表現などなど、大変ユニークなイタリア芸術と。
何枚か写したのですが、ここでは一つだけ、シエナのルーパを。

周囲を囲む動物たちのモチーフと、その名付けの由来を知りたいもの。
もっとも古い物で14世紀後半から、19世紀迄の物で、
40人以上の作者により、その殆どがシエナ人なのだそう。
40人以上の作者により、その殆どがシエナ人なのだそう。
古くて摩耗したものなど、何世紀にも渡り復元され、一部は古い作品を
尊重しながら、ゼロから作り直されたものもあるそうで。
尊重しながら、ゼロから作り直されたものもあるそうで。
で、訪問された時にシートで覆われたのがあり、がっかりされぬよう、
6月末から7月末迄、そして8月末から10月末までは、
床が完全に公開されているそうで、それ以外は僅かしか見れません、
床が完全に公開されているそうで、それ以外は僅かしか見れません、
というのを訪問時のヒントにして下さいね。
聖堂を上から覗ける 「天国の門」 ・ シエナのドゥオーモ
https://www.italiashiho.site/archives/20180716-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20180716-1.html
これは確か、内陣に向かって右の壁にあったオルガンで、左にもあり、
古いオルガンを解体し、使える部分をすべて利用した作品なのだそう。
古いオルガンを解体し、使える部分をすべて利用した作品なのだそう。

オルガンの下に見える小さい額の数々は、信者が祈願して叶ったお礼に
捧げるエクスボートと呼ばれるもの。
捧げるエクスボートと呼ばれるもの。
逆に入り口側に向かって。 中央の扉を囲んでの装飾が大変美しく。


こちらのステンド・グラスは、最後の晩餐。 1549年作。

ふと上を見ると、高く囲われた上で、修復作業に関わる方がおられ、
天井の作業かな、という感じで、大変ですね。
天井の作業かな、という感じで、大変ですね。

中央扉の前に、左右対になった素晴らしい聖水盤があり、

こちらは、入って右側ので、 左側のがブレてしまい・・!
おまけに説明によると、どうやら左の方が、素晴らしい作品と、うう。
おまけに説明によると、どうやら左の方が、素晴らしい作品と、うう。
この聖水盤の所から振り返る、右側の側廊。

所で、今回の聖堂内の脇の礼拝堂はまるで見ませんでしたが、
ピッコローミニ図書館はちゃんと見学し、写真も撮りましたので、
これは次回にご案内、という事でよろしくお願い致します。
これは次回にご案内、という事でよろしくお願い致します。

という事で、全体が明るくなった聖堂の姿で、今回はお終いに。

2018年の シエナの朝 カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
https://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html
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