フィレンツェに行かれた方も、未だの方も、フィレンツェの街が、
イタリアが世界に誇る、世界で唯一のルネッサンスの街であり、
イタリアが世界に誇る、世界で唯一のルネッサンスの街であり、
一度訪問したくらいでは到底見切れない、鑑賞出来ない程の
芸術品、それも第一級の芸術品に溢れている事はご存じで、
お認めになられる事と思います。
芸術品、それも第一級の芸術品に溢れている事はご存じで、
お認めになられる事と思います。
で、今回タイトルの「アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ・
Anna Maria Luisa de'Medici」(1667-1743)という名前と、
Anna Maria Luisa de'Medici」(1667-1743)という名前と、

現在のフィレンツェの街が結びついている事はご存じでしょうか?
多分殆どの方がご存じないだろうと思いますが、
この2月18日は、彼女が亡くなって280年目の命日にあたり、
些かなりと感謝の気持ちを捧げるべく、と
今回はメディチ家最後の公妃であった、彼女についてのお話を。
長兄のフェルディナンド・Ferdinandoと、彼女。 家庭教師と共に。

昔は、男の子も幼児の時は、女の子の服を着せられていた様で、
きっと、元気で生き延びる様に、とのおまじないだったろうと。
今回参考にした記事は
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ、フィレンツェの最後の偉大な後援者
Anna Maria Luisa de' Medici, l'ultima grande mecenate di Firenze
そしてウィキペディアの、Anna Maria Luisa de' Medici
他に、あれこれ。
他に、あれこれ。
最後は、2月18日はアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの記念日
https://www.firenzeplus.com/anna-maria-luisa/ の写真を拝借です。
https://www.firenzeplus.com/anna-maria-luisa/ の写真を拝借です。
まずはメディチ家王朝、最後の後継者達の様子ですが、
父親はトスカーナ大公コジモ3世デ・メディチ(1642-1723)、

この肖像は1660年のもので、
翌1661年、フランスのルイ14世国王の従妹マルゲリータ・ルイーザ・
ドルレアン(1645-1721)と結婚を。

彼女は従弟のロレーヌ公シャルル5世との結婚を望んでいたものの、
トスカーナ大公の相続人であるコジモ3世と、意に反した結婚をし、
トスカーナ大公の相続人であるコジモ3世と、意に反した結婚をし、
夫を人前でも軽蔑、見下げる、という女性であり、酷い結婚生活に。
1663年に長男のフェルディナンドが生まれたものの、両親の関係は
悪化する一方で、
悪化する一方で、
次の妊娠に気づいた彼女は、馬に乗って大スピードで走り中絶を
試みた、のだそうで!
試みた、のだそうで!
それでも無事に娘、今回お話のアンナ・マリーア・ルイーザが生まれ、
1671年には3人目の子である次男、ジャン・ガストーネが生まれます。
両親の間はまるで好転せずのまま、母親はアンナ・マリーア・ルイーザが
8歳の時にコジモ3世と別れ、永遠にフランスに戻り、
彼女はその後一度も母親と会う事はなかったと。
8歳の時にコジモ3世と別れ、永遠にフランスに戻り、
彼女はその後一度も母親と会う事はなかったと。
こうした家庭環境は落ち着きがなかったものの、国家元首としての頭脳と
誇り高い性格は、彼女を大変賛美していた父親と、
彼女を育てた祖母のヴィットリア・デッラ・ローヴェレに負うといわれ、
美しく、たくましく育ちます。
美しく、たくましく育ちます。
こちらが1666年の祖父、祖母に当たる、フェルディナンド2世大公と、
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ。
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ。

祖母のヴィットーリア自身も、14世紀からのデッラ・ローヴェレ家の本家筋
最後の人物、だったと知りましたが、1694年に72歳で亡くなっています。
ヴィットリアは、少女にメディチ家の一員であるのを自覚し、義務と名誉を
誇りとするよう教え、
誇りとするよう教え、
実際、住んでいたピッティ宮殿とその庭園は、王室の血統に相応しい
場所であり、祖母と少女が通る家族のギャラリーには、
場所であり、祖母と少女が通る家族のギャラリーには、
フランスの女王となった2人の先祖、カテリーナとマリーアの姿があり、
カテリーナ・ディ・メディチに関しては、良く知られていると思うのですが、
カトリーヌ・ド・メディシス フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と
https://www.italiashiho.site/archives/20210310-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20210310-1.html
カトリーヌ・ド・メディシスが、フランスお輿入れに持ちこんだお菓子は
https://www.italiashiho.site/archives/20211204-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20211204-1.html
もう一人のマリーア・ディ・メディチは、フランス語での
マリー・ド・メディシスの名で知られていて、
初代コジモ1世トスカーナ大公の後継のフランチェスコ1世が謎の死を
遂げた後、還俗し、トスカーナ大公となった弟のフェルディナンド1世が、
遂げた後、還俗し、トスカーナ大公となった弟のフェルディナンド1世が、
フランチェスコ1世の娘マリーアを嫁がせ、国王アンリ4世の2番目の妃、
となった女性を指します。
となった女性を指します。
つまりどの様な王侯貴族と、または国王と結婚しても引けを取らずの
メディチ家であり、それだけの頭脳も備わった孫娘は、と
デッラ・ローヴェレ家での祖母がしっかり教育もしたのだろうと。
ラテン語、フランス語、ドイツ語、音楽、歌を学び、何世紀にも渡り
一家が収集した芸術品の中で暮らし、絵画、彫刻、建築に精通し、
評価も出来、
一家が収集した芸術品の中で暮らし、絵画、彫刻、建築に精通し、
評価も出来、
男性同様に馬を乗りこなし、狩りをし、美食も大好きな彼女。
そんな少女の為に、父親は衰退した家系に名声をもたらす程の
結婚相手を探す必要がありました。
16歳の、アンナ・マリーア・ルイーザの肖像。
まさに花の乙女、ですねぇ。

「彼女は背が高く、色白で、大きく表情豊かな目は髪のように黒く、
小さなふっくらとした唇、象牙色の白い歯を持っています」と。
小さなふっくらとした唇、象牙色の白い歯を持っています」と。
父親は娘を「イタリアの女王」程にしたかったものの、様々な妨げがあり、
一連の求婚者の後、黄金の相続人のための交渉は、
オーストリアはハプスブルグ家の男寡、強力な選帝侯の
ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・プファルツ・ノイブルク王子に向けられ、
彼は彼女の肖像画を見て恋に落ちたそうで。
ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・プファルツ・ノイブルク王子に向けられ、
彼は彼女の肖像画を見て恋に落ちたそうで。
選帝侯、という言葉が意味する所が分からず調べましたら、
1356年神聖ローマ帝国皇帝カール4世によって定められた、
神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ、有力な7人の諸侯、とあり、
神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ、有力な7人の諸侯、とあり、
3人の聖職諸侯、ファルツ(プファルツ)、ザクセン、ブランデンブルグ、
ベーメン(ボヘミア)の4世俗諸侯、という事で、
ベーメン(ボヘミア)の4世俗諸侯、という事で、
婿候補となったヨハン・ウィルヘルム(1658-1716)は、プファルツ選帝侯
と呼ばれる、領土はライン河西側一帯にあり、
正式名は「ライン宮中伯」というそうで、・・と何やら雲をつかむ様な!
と呼ばれる、領土はライン河西側一帯にあり、
正式名は「ライン宮中伯」というそうで、・・と何やら雲をつかむ様な!
18世紀後半の領土地図がこちらで、何とも飛び地ばかりの領土ですねぇ。

こうして選帝侯とアンナ・マリーア・ルイーザは1691年4月29日、
フィレンツェ大聖堂で代理人結婚をし、
フィレンツェ大聖堂で代理人結婚をし、
その後弟のジャン・ガストーネを伴いデュセルドルフに向かいますが、
待ちきれないヨハン・ヴィルヘルムはオーストリアのインスブルック迄
待ちきれないヨハン・ヴィルヘルムはオーストリアのインスブルック迄
お迎えにきて、そこで正式に結婚を。
1708年の2人の肖像。

1692年プファルツに到着した妃は妊娠したものの流産し、
この時に、彼女は夫の梅毒に感染したと考えられており、
これが彼女の不妊症の元になったものと。
この時に、彼女は夫の梅毒に感染したと考えられており、
これが彼女の不妊症の元になったものと。
幸いな事に2人の関係は穏やかで、心からの愛情と、芸術と音楽への
共通の関心事によって強固なものになり、
共通の関心事によって強固なものになり、
イタリアからの素晴らしい花嫁の洗練さを高く評価した新しいドイツの
宮廷での日々は、パーティ、演劇、バレエ、コンサートが続き、
宮廷での日々は、パーティ、演劇、バレエ、コンサートが続き、
選帝侯妃はモリエールの喜劇を上演する劇場を建設し、夫君と一緒に
ベンスベルクに豪華な城を建設、そこにフラミンゴ、オランダ、イタリア、
ドイツの巨匠を呼び、後援の情熱を発散し、
ベンスベルクに豪華な城を建設、そこにフラミンゴ、オランダ、イタリア、
ドイツの巨匠を呼び、後援の情熱を発散し、
アンナ・マリーア・ルイーザはずっと父親や叔父、親戚、友人との連絡を
怠る事なく、日は過ぎて行きましたが、
2人の結婚には相続人が出来ずのまま。
怠る事なく、日は過ぎて行きましたが、
2人の結婚には相続人が出来ずのまま。

彼女はドイツに住み、多くの村を訪れながらの年月、「これらの町を
美しいと見る為には、フィレンツェに生まれるべきではなかった」と
考え続けており、
美しいと見る為には、フィレンツェに生まれるべきではなかった」と
考え続けており、
こうして25年の結婚生活の後、1716年に夫君が亡くなった時、
彼女はフィレンツェに戻る事に。
彼女はフィレンツェに戻る事に。
兄弟のフェルディナンド、そしてジャン・ガストーネの結婚も同じように進み、
2人とも何とか結婚したものの、
2人とも何とか結婚したものの、
兄は梅毒で父よりも先に1713年に亡くなり、
そうそう、この兄のフェルディナンドとの結婚相手が、
でご紹介した、パリオのコントラーダ・区域を定めた、
ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ妃で、

シエナの統治者になったのは、フェルディナンドが亡くなって後、幸せな
結婚生活でなかった彼女は兄の城があるミュンヘンに帰りたかったのを、
コジモ3世と、義理の弟ジャン・ガストンが説得し、1731年に死去するまで
シエナに統治者として常駐したのだそうで。
コジモ3世と、義理の弟ジャン・ガストンが説得し、1731年に死去するまで
シエナに統治者として常駐したのだそうで。
弟のジャン・ガストーネは同性愛者、かなり強硬に結婚させられたものの、
堕落生活のまま。
アンナ・マリーア・ルイーザが夫の死後1年経ちフィレンツェに戻った時、
父親は非常に年を取っていたものの、彼女の帰還を喜び、
息子2人の後継が叶わぬのを見て、何とか彼女を後継者にしようと
全力を尽くし最後に働きかけますが、返事は戻って来ぬままに。
全力を尽くし最後に働きかけますが、返事は戻って来ぬままに。
彼女には「トスカーナ大公国のプリマ・ドンナ」の称号のみが残されます。
コジモ3世はメディチ家の歴代当主の中で最も長命な81歳で没し、
在位は53年もの長さに渡ったものの、メディチ家のみならず、
トスカーナ大公国はすっかり衰退し、市民は困窮、2度の飢餓さえ
起こる程になっていたそうで。
こうしてメディチ家最後の後継者、ジャン・ガストーネが52歳で
第7代トスカーナ大公となったものの、

1737年堕落生活の中で去り、
アンナ・マリーア・ルイーザは、唯一のメディチ家の名を引き継いだ
最後の人物となり、
最後の人物となり、
トスカーナ大公国は、ハプスブルグ家の下、ロレーナ公の支配下に。
ピッティ宮の予備棟に住む事を許されていた彼女は、

長い年月にわたり収集された素晴らしい芸術の数々、君主のローヴ、
祖母のヴィットリアから受け継いだウルビーノ公国の財産、
そしてメディチ家の流動資金200万フローリン以上が残され、
謁見の間の黒い縁取りの天蓋の下で客人と会い、テーブルから
衝立迄すべて銀色の家具に囲まれ、暮らした彼女。
衝立迄すべて銀色の家具に囲まれ、暮らした彼女。

彼女にとっての最大の恐怖は、自分の死後に、以前神聖ローマ帝国に
併合された他のイタリアの領土が苦しんだのと同じ運命にフィレンツェが
苦しむ事、
つまり支配していた王朝の絶滅と共に、その全ての宝物が剝奪された、
パルマ、ウルビーノ、フェッラーラ、マントヴァ
パルマ、ウルビーノ、フェッラーラ、マントヴァ
で起こった事を避ける為に、
膨大な家族の遺産を保存する事が、彼女の人生の主たる目的になり、
弟、最後のトスカーナ大公ジャン・ガストーネの1737年7月9日の死後、
彼女は自分の「選帝侯妃」という地位を利用し、
高度に文化的で先見の明ある女性は、1737年10月31日に、
最後のメディチ家大公が亡くなって後、僅か110日余り後に、
トスカーナ大公領の後継者となったロレーヌ家のフランチェスコとの間で、
「家族協定」として知られる協定を規定。
「家族協定」として知られる協定を規定。
「選帝侯妃は、現在のS.A.R.(殿下)とその後継者である大公の為に、
最も穏やかな王位継承者の全ての家具、効果、希少性を付与、授与、
謙譲します」
最も穏やかな王位継承者の全ての家具、効果、希少性を付与、授与、
謙譲します」
ギャラリー、絵画、彫像、図書館、宝石、聖遺物などの他の貴重な物、
および王宮礼拝堂の装飾品など、
国の装飾の為、大衆の利益の為、および外国人の好奇心を惹きつける為、
いかなるものも首都から、大公国から、輸送または持ち去られない事を
明確な条件で保持する事を約束する」
いかなるものも首都から、大公国から、輸送または持ち去られない事を
明確な条件で保持する事を約束する」
この太字にした部分、まさに今現在のフィレンツェの観光事情を
見通していた様で、本当に驚いたのでしたが、
つまりアンナ・マリーア・ルイーザ・ディ・メディチは、文化遺産の保存と
保護に関する法律が制定されるずっと以前に、
それらの作品がフィレンツェであり、フィレンツェ自体がそれらの作品で
ある事を、現在と同じ様に、既に知っていたのですね。
ある事を、現在と同じ様に、既に知っていたのですね。
家族の協定で、彼女は自分の血統に属し、メディチ家が1つ1つ情熱を
もって創った、または購入したものについて言及し、
もって創った、または購入したものについて言及し、
メディチ家のコレクションの全ての資産を、街フィレンツェに繋げる
ことを決定し、元の場所から移動したり、販売する事を不可能にし、
それら貴重な宝物を、フィレンツェと、その歴史、その栄光に結び付け、
ロレーヌ家はこの協定を尊重し、メディチ家の美術コレクションを保存
したのみでなく、一般に公開し、
したのみでなく、一般に公開し、
こうしてフィレンツェに最も古く、豊かな美術館の1つである、
ウフィッツィ美術館が誕生し、
ウフィッツィ美術館が誕生し、

家族協定の合意は非常に明確だったので、ナポレオンの侵攻時に、
再び重要であることが証明されたのでした。
当時の館長であったトンマーゾ・プッチーニは、芸術作品の殆どを隠し、
ナポレオン軍に引き渡すことを拒否し、
ナポレオン軍に引き渡すことを拒否し、
ロレーヌの人達は、それらは市民の物であり、その名前で保管する事を
明らかにし、フィレンツェの芸術遺産を救ったのでした。
明らかにし、フィレンツェの芸術遺産を救ったのでした。
アンナ・マリーア・ルイーザ・ディ・メディチの決意と頑固さのお蔭で、
フィレンツェは今日もその芸術作品を保存し、
最高の芸術都市と見做されていますが、
彼女の名前は殆ど知られておらず、ロレンツォ・イル・マニーフィコ
の様な方々の名前の影になっています。
が、彼らが初めた事は彼女が居なければ、今日まで生き残っては
いなかったでしょうし、
いなかったでしょうし、
妃は、フィレンツェの偉大な最後の後援者と見なされるに相応しい方と。
この像は、サン・ロレンツォ大聖堂にあり、彼女はここに葬られました。

毎年2月18日は、75歳で亡くなったメディチ家最後の彼女の命日に、
彼女の偉大な功績をたたえ、パレードや式典が行われており、



また、ヴェッキオ宮殿、サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会、
バルディーニ美術館、ブランカッチ礼拝堂など、
フィレンツェの市立美術館の入場が無料になるそうで。
そして、ウフィッツィ美術館に行った時は、入場してすぐ、チケット売り場の
すぐ上にある、18世紀の衣服を着た美しいブルネットの女性の、
大きな肖像画を見て下さいね。
最後のメディチ家である彼女が、3世紀に渡っての「壮大な」家族の家だった
場所で、あなたを歓迎する準備が出来ているのを見ることが出来ますから、と。
場所で、あなたを歓迎する準備が出来ているのを見ることが出来ますから、と。
次回行った時は、必ず探してみませんと!
長いお付き合い、本当に有難うございましたぁ!!
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