今日のご案内は、シエナのドゥオーモの内部奥の左側にある、
ピッコローミニ図書館・Libreria Piccolomini を。
ピッコローミニ図書館・Libreria Piccolomini を。
シエナのドゥオーモに行かれた方はきっと中に入られご覧になったと
思われる、素晴らしく絢爛豪華な図書館。
思われる、素晴らしく絢爛豪華な図書館。
聖堂内の入り口部分はこんな様子で

上部にチラッと見える壁画と上部真ん中上には、ピウス2世の
戴冠式の浮彫があり、画家はピントゥリッキオ・Pinricchioと他。
戴冠式の浮彫があり、画家はピントゥリッキオ・Pinricchioと他。

ピッコローミニ・Piccolominiという姓は、シエナから南東に約50km
に位置するオルチャの谷のピエンツァ・Pienza、
に位置するオルチャの谷のピエンツァ・Pienza、
現在世界遺産に指定されている、自分の生まれた村をルネッサンス風の
理想の町にしようと奮闘した教皇ピウス2世(1405-1464)
の姓がピッコローミニ。
理想の町にしようと奮闘した教皇ピウス2世(1405-1464)
の姓がピッコローミニ。
壁画の中にも現れるこのピウス2世の頭上にあるのが教皇冠。

で、この図書館は、彼の甥で後の教皇ピウス3世(1439-1503)が
シエナの大司教時代に、
シエナの大司教時代に、
叔父ピウス2世が収集した大変貴重な書物収集の遺産を収容する為に
1492年から造られたものなのですね。
1492年から造られたものなのですね。
教皇ピウス2世は、若い頃は詩人でもあり、人道主義、学者としても
名高い方で、その後に遅く宗教界に入った方で、大司教となって後
3年で教皇選出という、何とも稀な人生を歩まれた方でした。
名高い方で、その後に遅く宗教界に入った方で、大司教となって後
3年で教皇選出という、何とも稀な人生を歩まれた方でした。
花のピエンツァ点描 ・ 再訪できた喜び!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461453714.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461453714.html
ロマネスクの古寺ふたつ ・ ピエンツァ周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461832854.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461832854.html
そしていわゆるネポティズムと呼ばれる縁故取り立てにより、司教、
大司教、枢機卿となった甥フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキ、
は大変優秀な方で、叔父の引き立てで宗教界に入ったものの、
周囲からの引き立てで教皇ピオ3世に。
は大変優秀な方で、叔父の引き立てで宗教界に入ったものの、
周囲からの引き立てで教皇ピオ3世に。
赤い衣は枢機卿位で、余りにも短い教皇で、教皇冠の肖像はなし。

最初の写真の、聖堂内の図書館入り口から入ると、内部はこんな様子で、

大変天井の高い煌びやかな細長い広間で、全部で10面のフレスコ画で、
正面には2つの高い窓が。


フレスコ画製作は、ウンブリア出身画家ピントゥリッキオ(1454-1513)
に依頼され、
当時の彼はローマでのあれこれの制作、システィーナ礼拝堂のぺルジーノの
フレスコ画助手、教皇アレッサンドロの依頼による「ボルジャの間」
等などで成功の大人気画家でしたが、
1502年6月29日の契約書があり、ルネッサンス期に大規模な一連の
絵の契約は珍しいケースだったそうで、
絵の契約は珍しいケースだったそうで、
10場面の主題は、ピウス2世の生涯の逸話。
1503年までに最初の準備段階が済み、壁に壁龕と建築用格子が設置。
そして同年9月22日、注文主はピウス3世として教皇に選出されたのが、
なんと26日後の10月18日に亡くなり、工事が中断、という事に。
この早すぎる逝去についてはちょっときな臭い話がありますが、またに。
とはいえ、ピントゥリッキオはシエナに残り、他の仕事をしていたそうで、
ピウス2世の壁画の話が再開されたのは、1505年頃。
で1507年、シエナに留まりつつ、ウンブリアからの他の依頼を
受け入れ始めたので、この仕事は完了したものとみられますが、
支払いは更に数年間続いたそうで。
支払いは更に数年間続いたそうで。
部屋の中、上部の壁画の下には、手稿細密画の入った本が並んでおり、
これはどうやら楽譜の様ですねぇ。
これはどうやら楽譜の様ですねぇ。


とにもかくにも、注文を受けたピントゥリッキオの美しい絵と、その手伝いの
若きラファエッロが大変素晴らしい仕事振りなのが一目で分かる、
豪華絢爛の部屋の一連のフレスコ画の様子をどうぞ!!
若きラファエッロが大変素晴らしい仕事振りなのが一目で分かる、
豪華絢爛の部屋の一連のフレスコ画の様子をどうぞ!!
まず第1の場面、という事で良いのかと思いますが、若き日の逸話2面。

左の画面、中央下の白馬に乗っているのがエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ・
Enea Silvio がピウス2世の本名で、若干26世!
バーゼルの公会議に出かける所。
Enea Silvio がピウス2世の本名で、若干26世!
バーゼルの公会議に出かける所。
右の画面は、スコットランド宮廷大使の彼で、君主が左に視線を向けた
先の赤い服を着ているのがエネア・シルヴィオ。
先の赤い服を着ているのがエネア・シルヴィオ。
shinkaiめは、左の背景の上空が嵐の描写に興味を持ち写しており、

エルバ島とコルシカ島の間で、彼らの船を襲った嵐が、南に方向転換した事、
右から(黄色い)虹がかかるのは、ポルトヴェーネレとジェノヴァ間の
無事着陸と穏やかな帰還を現しているのだそうで。
無事着陸と穏やかな帰還を現しているのだそうで。
ですがぁ、サイトで見つけたこの白馬の上の貴公子! いくら26歳とはいえ、

注文主の叔父上とはいえ、なんか、凄いヨイショ、ではないですかぁ、ははは。
でも布の表現が、素晴らしく的確で、そのくせ、そう手間がかかっていないなぁ、
で、まぁ、フレスコ画ですので、下描き・下塗りが濡れている間の
仕事で、モタモタしてはおれませんけんね。
で、一旦乾いてからの上からの手入れも、ピントゥリッキオはしたそうで。
この場合は、テンペラで、ですね。
この場合は、テンペラで、ですね。
こちらは左に切れているのが上述の、スコットランド宮廷大使の、
君主の覚えめでたい彼の場面で、

真ん中は、エネア・シルヴィオが皇帝フリードリッヒ3世により、
詩人としての戴冠を受けた、という場面。
詩人としての戴冠を受けた、という場面。

同じ画面の右端前の若者2人。 これも取り分けこちらを向いている方が
ラフェエッロの雰囲気ですよね?
ラフェエッロの雰囲気ですよね?

この2面は、入り口を入っての上の壁で、前に白いニッキがある中の像は、
楽園追放のアダムとエヴァで、
楽園追放のアダムとエヴァで、

左側は、シエナ司教のエネア・シルヴィオが、アラゴン(ポルトガル)
のエレオノーラ王女を、神聖ローマ皇帝フィリードリッヒ3世に紹介の場面。

つまり司教は結婚交渉を担当し、1452年2月24日にシエナに2人が到着、
という事だった様で。
という事だった様で。
でも初対面で肩に手を置いたり、握手したり・・、そこまでするかなぁ?!
後ろで空を見上げている若者など、ぺルジーノかラファエッロか、と思う程。
まさにこの仕事では若きラファエッロがかなりをこなした様子で、
まさにこの仕事では若きラファエッロがかなりをこなした様子で、
本当に、あちこちに彼の筆使いを感じたのでしたぁ。
こうして見て行くと、背景に風景が入るか、建物があっても、窓を通したり、
脇から遠い風景が見え、大変爽やかな空気を感じさせる工夫がある様で。
脇から遠い風景が見え、大変爽やかな空気を感じさせる工夫がある様で。
これは上の、許婚者2人の背景で、奥に見えるのはお話に添い、
シエナの風景、と言われると、ああ、白黒横縞の鐘楼があるなぁ、と。
左に見える門はポルタ・カモッリア・Camolliaとあり、現在の姿とは違いますが、
シエナ駅前から坂道を上がった辺りかと。
シエナ駅前から坂道を上がった辺りかと。

こちらはスコットランド宮廷大使の場面背景で、豪華な宮廷内装飾と、
ずっと奥に広がっていく水辺と、遠い丘、山。
ずっと奥に広がっていく水辺と、遠い丘、山。

詩人の戴冠式の場面背景。 空飛ぶ大きな、鳥!!

左画面から、1458年9月3日遂に教皇に選出され、
遂にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの当時の教皇位に。

白い司教冠がたくさん見えますが、
場面右手前に2人、どういった人物か、衣服から判断しにくい男性がおり、

この2人の衣服の光と影の描き方がテンペラ画で使う明暗法なのに
目が留まったshinkaiで、
同時代の他の画家のフレスコ画ではどう描いていたんだろ、と
自分の今後の宿題に。
目が留まったshinkaiで、
同時代の他の画家のフレスコ画ではどう描いていたんだろ、と
自分の今後の宿題に。
これと同様に、右端の画面、シエナのサンタ・カテリーナを列聖、では、
左端手前の若者2人、これはもう、如何にもラファエッロの筆で、
おまけにこの2人の上着の開きから見えるシャツのお腹辺り、ね、
まさに影色の描き方が玉虫色のね。

自分の撮ったのがブレており、焦って探し回ったのでしたぁ、ははは。
真ん中場面は、1453年のマントヴァの公会議を描いており、ここで
ピウス2世の念願であった、対オスマントルコ戦が議論されたのだそうで。
ピウス2世の念願であった、対オスマントルコ戦が議論されたのだそうで。
背景の風景はこちらで、マントヴァの宮殿前のミンチョ河の湖というより、
ガルダ湖のイメージですねぇ、はは。
ガルダ湖のイメージですねぇ、はは。

でもね、こういうサラサラっとした木が描けたらねぇ、と憧れてるのですぅ。
この3画面は上と半分ダブっていますが、ピウス2世の最後が右側にあり、
1464年十字軍開始の為、自身が出航の港アンコーナ迄出かけ待つ姿。


アンコーナの港に集結する船団が背景に見えますが、マントヴァ公会議で
約束されていた船40隻どころか、たったの2隻のみ!
6月にローマを出発、夏の暑い時期、熱狂的に焦りつつ、2か月間
まだかまだかと待ち続け、憤慨した教皇はペストに感染。
まだかまだかと待ち続け、憤慨した教皇はペストに感染。
8月12日にヴェネツィアから12隻の船団が遂に到着したものの、
教皇は2日後14日に死亡、58歳でした。
教皇は2日後14日に死亡、58歳でした。
最初の3,4枚目の部屋の中に見える「3美神」の像ですが、
サイトから拝借。
ギリシャのヘレニズム期の彫刻デッサンを基に、ローマ期に彫られた、
ローマのお屋敷のコレクションだったそう。

あちこち欠けているのが残念でしたが、部分はとても美しく。

最初は、ピウス2世の貴重な本のコレクションをここに、と始まった
図書館建設でしたが、遂に本は届かないままになったそうで。
図書館建設でしたが、遂に本は届かないままになったそうで。
床も中心部は、菱形に、ピッコローミニ家の三日月が入った陶板で、

こちらは床の端っこ部分と、それに続く2枚は、四角の模様入りが、
上を歩くために模様が擦れてしまったようで。
上を歩くために模様が擦れてしまったようで。

奥の2双の窓の内側にも、ピッコローミニ家の三ケ月模様があり、

こちらは壁画の合間に描かれた騙し絵的な、
ピッコローミニ家の紋章に、教皇冠が入ったもの。

シエナの聖堂内部の、白と濃い緑の縞模様、太く束ねた円柱で
支えられる高い天井、と言ったゴシック様式の雰囲気に続き、
支えられる高い天井、と言ったゴシック様式の雰囲気に続き、
ここに入ると如何にもルネッサンスの香り、柔らかで優美な洗練された美、
それもお金に糸目をつけずに、という豪華さが加わり、
それもお金に糸目をつけずに、という豪華さが加わり、
聖堂内の、まさに別世界、の感あるピッコローミニ図書館なのでした。
シエナに行かれる方は、是非少しお時間を取って、
ここの見学もゆっくりとどうぞ!!
ここの見学もゆっくりとどうぞ!!
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