はい、イタリアは4月25日は国の祭日で、お・や・す・み、で~す!
というのも、この日は、国の解放記念日、なので~す。

何からの解放かと言いますと、ナチ、ファシズムから、
そして、最終的にファッシスト党没落による専制からの開放です。
そして、最終的にファッシスト党没落による専制からの開放です。
1924年4月6日の総選挙により、ムッソリーニ率いるファッシスト党
が最大政党となり、1926年には一党独裁体制となり、
ドイツ、日本と3国協定を結び、国際連盟からも脱退。
が最大政党となり、1926年には一党独裁体制となり、
ドイツ、日本と3国協定を結び、国際連盟からも脱退。

第2次大戦がはじまると、それ迄に既に経済的に疲弊しており、
次第にドイツの援助下となり、
次第にドイツの援助下となり、
1943年にはムッソリーニは逮捕され、変わったバドリオ政権の元
政府、国王、軍内部の王党派は南イタリアのブリンディシに脱出。
政府、国王、軍内部の王党派は南イタリアのブリンディシに脱出。
9月に無条件降伏、10月にドイツに宣戦布告をし、連合軍の
一員となるのですが、
一員となるのですが、
幽閉されていたムッソリーニは、ドイツ軍特殊部隊に救出され、
北イタリアのガルダ湖畔のサロに、イタリア社会共和国を樹立。
北イタリアのガルダ湖畔のサロに、イタリア社会共和国を樹立。
こうしてイタリアは、ドイツ軍、連合軍、RSI・イタリア社会共和国軍、
イタリア王国軍、これにパルチザンも加わった内戦状態と。
イタリア王国軍、これにパルチザンも加わった内戦状態と。


その後7月にシチーリアに上陸した連合軍の北進、ドイツの崩壊もあり
連合国側に傾き、イタリア社会共和国もパルティジャーニに打倒。
連合国側に傾き、イタリア社会共和国もパルティジャーニに打倒。
ムッソリーニは1945年4月25日パルティジャーニに拘束され、
4月28日裁判なしで処刑され、その後ミラノのロレート広場に
吊るされたのは、生存説を退ける為と。
実際にドイツ軍がイタリアから引き揚げ始めたのは、1943年7月の
連合軍のイタリア上陸以降ですが、
連合軍のイタリア上陸以降ですが、
1926年にイタリア共産党は非合法となり、それ以来反ファッシズム
運動活動を始め、
運動活動を始め、
1943年9月に結成された国民解放委員会のレジスタンス戦争が
始まり、パルティジャーニはイタリア北部から中部にかけて活動。
こうして1945年4月に国民解放北部委員会が、北部の
主要都市でのパルティジャーニの一斉蜂起を成功させた事により、
国土の開放となり、
主要都市でのパルティジャーニの一斉蜂起を成功させた事により、
国土の開放となり、


反ファッシズム運動が国土を解放した、という意識がイタリア国民に
強く根付き、1946年6月に王政廃止、イタリア共和国となり、
現在も誇りをもって、4月25日イタリア開放記念日 を祝います。



ムッソリーニ個人についても、パルティジャーニについてものあれこれ、
各局面での展開、動きについても、あれこれ読むと様々な思いが
沸きますし、
表面には出てこないパルティジャーニの逸話を読むと、
動乱の歴史の中で戦い、亡くなって行った人々の哀れさにも胸が
塞がりますが、ここでは簡潔に全体の動きのみを記しました。
各局面での展開、動きについても、あれこれ読むと様々な思いが
沸きますし、
表面には出てこないパルティジャーニの逸話を読むと、
動乱の歴史の中で戦い、亡くなって行った人々の哀れさにも胸が
塞がりますが、ここでは簡潔に全体の動きのみを記しました。
イタリアも国力、資源のない国としては日本と同様で、
軍部の独占とはいえ、どんどん戦争から抜け出せない状態に
追い詰められていったのは同じでは、と思うのですが、
日本の8月15日の終戦記念日、との意識、雰囲気の違いはこの辺りかと。
という、4月25日のイタリア全体の祝日、開放記念日なのですが、
と同時にヴェネツィア独特のお祭り、ボコロ・ディ・ローザ・
Bócolo di Rosaというのがずっと昔からあり、
多分この日がカトリックのカレンダーでは、ヴェネツィアの守護聖人
サン・マルコのお祝いの日なので、重ねて、という事なのでしょうが、
サン・マルコのお祝いの日なので、重ねて、という事なのでしょうが、


ボコロ・ディ・ローザは、薔薇の蕾 の事で、この日に男性は
愛する女性に、非常に長い茎を持つ薔薇の蕾を贈ります。
サン・マルコ広場に赤十字の屋台が出て、赤い薔薇を売るそうですが、
多分寄付金募集、
多分寄付金募集、

で、勿論、こんな風に運河沿いでもね。

この、赤い薔薇を愛する人に、は伝説があり、
ヴェネツィア総督、オルソ1世パルテパーツィオ・Orso I Partepazio
の娘マリーアと、若い庶民のタンクレディ・Tancrediのお話で、
の娘マリーアと、若い庶民のタンクレディ・Tancrediのお話で、
朱赤のフワフワの髪から「ヴルカーナ・Vulcana・火山」と呼ばれた
マリーアは、貴族の家柄の父親が庶民の若者への反対を見て、
マリーアは、貴族の家柄の父親が庶民の若者への反対を見て、
父親に、最愛のタンクレディを受け入れて欲しく、彼を説得し、
シャルルマーニュ・カール大帝の軍に参加し、スペインのアラブ人と
シャルルマーニュ・カール大帝の軍に参加し、スペインのアラブ人と
戦う勇敢な彼を父親に知って貰おう、と、若者は出発していきます。
そしてある日カール大帝の12人の騎士の1人オルランドがヴェネツィアに
到着し、ヴルカーナを探し、彼女に哀しい知らせを。
到着し、ヴルカーナを探し、彼女に哀しい知らせを。
彼女の最愛のタンクレディは、サラセンの侵略者と勇敢に戦い、
薔薇園で血を流して倒れており、最後の力で薔薇の蕾を摘み取り、
それをオルランドに手渡し、ヴルカーナに届けてくれるように、と。
薔薇園で血を流して倒れており、最後の力で薔薇の蕾を摘み取り、
それをオルランドに手渡し、ヴルカーナに届けてくれるように、と。

マリーアは悲しい沈黙の中で薔薇を受け取りましたが、
翌日、サン・マルコのお祭りの中で、胸に血まみれの花が飾られた姿
で死んでいるのが発見された、と。
翌日、サン・マルコのお祭りの中で、胸に血まみれの花が飾られた姿
で死んでいるのが発見された、と。
で、それ以来、4月25日に薔薇の蕾を最愛の人に届けるのが習慣に、
という事なのだそうで。
という事なのだそうで。
この伝説は歴史的根拠は全くなく、年代順も正しくなく、
ドージェ、オルソ1世は、864年にヴェネツィア市長に選出、881年に
亡くなるまでその職にあり、
ドージェ、オルソ1世は、864年にヴェネツィア市長に選出、881年に
亡くなるまでその職にあり、
それはシャルルマーニュと彼を取り巻く12人の騎士が戦った戦からは
数十年後の事で、
数十年後の事で、
オルランドはまた、ロンセスパンスの戦いでオリファンテ・
Olifanteと呼ばれる多分有名な角笛、軍隊の指揮用かな、を
吹きつつ亡くなった、と。
まぁ、伝説にありがちな年代ごちゃ混ぜですが、戦における英雄の価値、
兵士間の兄弟愛、そして中世ヨーロッパにおける、異なる社会階級間の
愛の難しさ、を解き伝えているのであろうと。
兵士間の兄弟愛、そして中世ヨーロッパにおける、異なる社会階級間の
愛の難しさ、を解き伝えているのであろうと。
現在の社会においては、こういう逸話は軽く一蹴されそうですが、
でも今なお、「ボコロ・ディ・ローザの日」として、

赤い薔薇の習慣が残っているのが、
愛する人に花を贈る気持ちが続いているのが、素敵だと思われません?!

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