自分のいつもの生活を続ける中で、時に出会う様々な人々。
歴史の中に、一粒の何かを残している人々の生き方、
または亡くなり方に、
いつもは名を知るだけですれ違うたくさんの人々の中に、
時に何となく気になり、引かれ、読み始め、知り始め・・、
時に何となく気になり、引かれ、読み始め、知り始め・・、
という新しい人々との出会いがあり、
きっと自分がそうした人々に惹かれるのは、孤軍奮闘しながらも
自分自身である事に拘っていた人々だったからと思い、
自分自身である事に拘っていた人々だったからと思い、
その生き方を通そうとし、やり遂げる人もあり、上手く行かずの
人にも、何か、を与えられるからなのだろうと。
なので、つまりは上手く行き、おとぎ話の様に、
「満足し、幸福に生きました」ではなかった人々だった訳で、
今回出会った、フランスの画家ポール・ゴーギャンの人生も同様で、
1885年 ゴーギャン、37歳の自画像

彼の記事はこう始まります。
1903年5月8日 独創的な自由と純粋さを求め続け、
地球の反対側で発見したフランス人画家が亡くなりました。 と。
地球の反対側で発見したフランス人画家が亡くなりました。 と。
彼の人生については、サマセット・モームの「月と6ペンス」が
余りにも有名で、私も半ば彼の人生と混同していたような部分があり、
それで「知っている」気になっていたのでしたが、
それで「知っている」気になっていたのでしたが、
今回粗筋だけを再読した所では、やはり自分の想い出とはかなり違い、
そんなこんなで、興味を持って読み、ウィキペディアでも確かめたのでした。
そんなこんなで、興味を持って読み、ウィキペディアでも確かめたのでした。
いつもは余り熱心に見ない彼の絵も、お陰様で改めて見ての
自分ながらの感想も得ることが出来、良かったと。
自分ながらの感想も得ることが出来、良かったと。
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン・Eugène Henri Paul Gauguin
1846-1903 54歳没
彼の父はクローヴィス・Clovis、共和主義思想のジャーナリスト
母親はアリーン・シャザール・Aline Chazal、彫刻家の娘
母親はアリーン・シャザール・Aline Chazal、彫刻家の娘
1848年6月7日に彼らの息子としてポールは生まれましたが、
当時の政治情勢はかなり混乱しており、
当時の政治情勢はかなり混乱しており、
この為父親は生後僅か1歳のポールと妻、妻の親戚の何人かと一緒に、
または、1851年のナポレオン3世のクーデター時に父親が職を失い、
ポールが3歳の時、という説もあり、南米のリマに引っ越すことに。
ポールが3歳の時、という説もあり、南米のリマに引っ越すことに。
というのも、母親の母、つまりポールの祖母はスペイン系ペルー人の
出身で、フェミニストの知識人フローラ・トリスタン・Flora Tristan。

リマには資産家の叔父がおり、一家はそれを頼りに海を渡りますが、
その航海の最中に父親は亡くなり、母親アリーンと2人に。
ペルーで4年間過ごし、自然との接触と、ヨーロッパの社会的偏見が
存在しない環境で生きた事は、
彼の後のライフ・スタイルと芸術を永遠に調節させる元となったかもで。
彼の後のライフ・スタイルと芸術を永遠に調節させる元となったかもで。
4年後に母親がフランスに戻ることを決め、戻ると彼を寄宿学校に
入れますが、
入れますが、
スペイン語で育ってきた彼はフランス語に慣れず、おまけに環境が以前と
非常に異なる、厳格で格式ばったもので、学校成績はまるで振るわず。
非常に異なる、厳格で格式ばったもので、学校成績はまるで振るわず。
その後将来の方向性に確信が持てずとなり、13歳の時海軍兵士として
の試験に失敗、オルレアンの学校に戻り卒業。
の試験に失敗、オルレアンの学校に戻り卒業。
17歳で商船に乗り込み、実質的に世界中を旅する長い旅に。
リオ・デ・ジャネイロ、インド、そして再びペルーに。また北海の海岸にも。
母親のアリーヌが1867年7月に亡くなったのも、数か月後にインドで
姉からの知らせを受け取るまで知らず。
姉からの知らせを受け取るまで知らず。
兵役で1868年にフランス海軍に入隊、2年間勤務の後1871年
23歳でパリに戻り、
23歳でパリに戻り、
母親との交際相手・結婚した裕福なギュスターヴ・アローザの口利きで、
パリの証券取引所での働くように。
パリの証券取引所での働くように。
母親の早すぎる死にショックを受け、また彼自身の生活を
「落ち着いた」生活に替えることを決心したか、
「落ち着いた」生活に替えることを決心したか、
1870年代は落ち着きのない精神が落ち着き、典型的な中産階級の
男性に変身したかのように見え、
男性に変身したかのように見え、
仕事は彼に素晴らしい収入を保証し、1879年には株式仲買人として
3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を。
3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を。
こうした落ち着いたブルジョワ生活は11年間続きます。
彼はデンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド・Mette-Sophie Gad
(1850- 1920)と1873年に結婚、家も購入。
(1850- 1920)と1873年に結婚、家も購入。
後にエミール、アリーヌ、クローヴィス、ジャン・ルネ、ポール・ロロン
の5人の子供が生まれます。
ゴーギャン夫人の肖像 1880-81年

子供の頃過ごしたペルーのリマの自然の色と、まばゆい太陽の輝きは
想い出となり。
想い出となり。
が、継父ギュスターヴがとりわけ好んだカミーユ・ピサロ・
Camille Pissarroの影響もあり、この時期に芸術への情熱が芽生え、
絵画収集を始め、仕事のない日曜日に絵を描く事に専念し始め、
1871年に彼は最初の風景画を。
ヴォジラールの庭 1881年

その瞬間からすべてが変わり、芸術は彼にとって不可欠なものとなり、
ある日彼は「これ以降、毎日描きます」と宣言し、
画家達との付き合いを始め、ピサロとも知り合い交際し、サロンに入選も。
家を引っ越し、アトリエも持ち、印象派展にも不評だったものの出品を。
家を引っ越し、アトリエも持ち、印象派展にも不評だったものの出品を。
が、1882年パリの株式市場が大暴落、絵画市場も収縮。
ゴーギャンの収入は急減し、彼は徐々に絵を本業とする事を望み始め、
1883年、彼は職を失うものの、より多くの時間を絵に捧げれる事で
特に深刻に感じられず、
特に深刻に感じられず、
家族と共に生活費の安いルーアンに移ったものの自分の絵は1枚も
売れず、貯金を使い果たし、生命保険を清算、多くのコレクションした
作品を手放さずを得ざるとなり、
売れず、貯金を使い果たし、生命保険を清算、多くのコレクションした
作品を手放さずを得ざるとなり、
妻のメッテは、夫が始めたこうした生活に落胆、コペンハーゲンの
家族の元に戻り、翻訳者や教師の仕事を見つけることに。
家族の元に戻り、翻訳者や教師の仕事を見つけることに。
彼もまたこの方法で上手く行くことを望み、妻を追いコペンハーゲンに
行ったものの、期待は裏切られ、
行ったものの、期待は裏切られ、
妻からも完全に疎外され、1885年6月に息子のクローヴィスと共に
デンマークを離れ、イギリスに3か月定住、その後パリでポスター貼りの
仕事に就くものの、収入は1日5フランのみ!
デンマークを離れ、イギリスに3か月定住、その後パリでポスター貼りの
仕事に就くものの、収入は1日5フランのみ!
こうした状況下でもゴーギャンは既に絵を諦める状態を超えており、
1886年5月、第8回目の最後の印象派展に18点の絵画を展示。
この年の展覧会では、スーラの「ラ・グラン・ジャット島の日曜の午後」
が一般の人々と批評家の注目を引き寄せたそうで、
が一般の人々と批評家の注目を引き寄せたそうで、
既に印象派の衰退を非難していた自分の作品について、
内的に研究し始め、
内的に研究し始め、
1887年画家の友人チャールズ・ラヴァル・Charles Lavalと共に
パナマに向けて出発し、少し離れた小さな島タボガを旅行したり。
パナマに向けて出発し、少し離れた小さな島タボガを旅行したり。
が熱帯気候は健康にとって致命的であり、絵も一枚も売れず、
パナマで建設中の運河で働くために雇われ、1か月以上堀削機の
仕事という恐ろしい経験の後、
仕事という恐ろしい経験の後、
アンティル諸島にあるフランスの植民地マルティニーク島の西海岸、
サン・ピエールに移住。
サン・ピエールに移住。

ゴーギャンはこの地に熱中し、誰もが切望していた地上の楽園を認識、
植物と地元の人々の活気に刺激され、
遂にそれを自分の絵画に取り入れられた!と。
植物と地元の人々の活気に刺激され、
遂にそれを自分の絵画に取り入れられた!と。
1887年11月マルティニークの後再度フランスに戻り、新しい芸術的
インスピレーションを求め、まずブルターニュに、次にプロヴァンスに。
ヴィンセント・ファン・ゴッホ・Vincent Van Goghとの、有名な、
苦悩に満ちた共存は、実にこの時期なのですね。
1887年のゴッホと友人達との写真。 左から3人目が
パイプを口にゴッホ、一番右端がゴーギャン。

ゴーギャンは、ゴッホの弟テオから説得され、ゴッホが夢みていた
芸術家のコミュニティを作るという、「アルルの黄色い家」に
一緒に引っ越しを。
芸術家のコミュニティを作るという、「アルルの黄色い家」に
一緒に引っ越しを。
ゴーギャンは2人に気質の大きな違いを認識しており、余り確信が
持てずだったものの、
持てずだったものの、
テオからの条件が、毎月1枚の絵画と引き換えに150フランの給料と、
アルル滞在に関する全ての費用に支払い、という物で、
それ程の多額の金の受け取りに慣れていないゴーギャンは断れず、
1888年の夏、契約を交わし、同年10月29日にアルルに到着。
1888年の夏、契約を交わし、同年10月29日にアルルに到着。
ゴーギャンが描いた、ヒマワリを描くゴッホ 1888年

描かれたゴッホは、絵を観て困惑し、狂人として表現されたと
主張したそうで。
主張したそうで。
実際アルル滞在は両者にとって困難を伴うもので、ゴッホは地中海風景を
高く評価し、新しい伴侶に多大な称賛を示したものの、
高く評価し、新しい伴侶に多大な称賛を示したものの、
ゴーギャンはプロヴァンスに深く失望、風景も人々も全てが小さく意地悪、
と感じ、ゴッホは友人の傲慢さに絶えず苦しみ、
ゴーギャンは、テオに、2人の間柄は、ある種の性格の不一致と
仕事の為の静けさの必要性を考慮すると、決して平和に並んで
暮らす事は出来ません、と手紙を書き、
ゴッホは発狂し、左耳たぶを切り、その後精神病院に収容。
ゴーギャンは深く動揺し、苦しむ友人を見捨て、パリに急ぎ戻ります。
9週間で終わった、2人の共同生活でした。
この悲劇的な出来事に責任を感じていない一方で、ゴッホの祈りに
耳を傾け、
「私たちの小さな黄色い家の悪口を言う」ことを避けただけでなく、
「友人ヴィンセント」に対する非常に良い思い出と、ゴッホへの多大な
尊敬の念を持ち続けたそう。
耳を傾け、
「私たちの小さな黄色い家の悪口を言う」ことを避けただけでなく、
「友人ヴィンセント」に対する非常に良い思い出と、ゴッホへの多大な
尊敬の念を持ち続けたそう。
美しいアンジェラ 1889年

プロヴァンスのポン・タヴァンのホテル経営者マリー・アンジェリック・
サトルを描いており、彼女が非常に美しい女性である事を考慮し、
肖像画を描きたかったのが、女将は全く気に入らずだったそうで!
肖像画を描きたかったのが、女将は全く気に入らずだったそうで!
ゴーギャンは、有毒なもの、と考えていたアルルから逃れパリに戻り、
約2年間滞在。
その間、子供の頃から彼を魅了し、彼を見捨てなかった異国情緒
への欲求がますます強く彼の中に戻って来、
への欲求がますます強く彼の中に戻って来、
新しい創造的な刺激の必要性と、先祖代々の幸福の形を見つける
為の場所の絶え間ない探求が身をもたげ、
為の場所の絶え間ない探求が身をもたげ、
1891年43歳の時、今では画家として評価されていたものの、
彼は自分の人生を完全に変えることを決心。
彼は自分の人生を完全に変えることを決心。
2月3日有名なオテル・ドゥルーオ・Hôtel Drouotで展覧会を開催、
約30点の絵画を販売、収益に一部でタヒチへのチケットを購入。
約30点の絵画を販売、収益に一部でタヒチへのチケットを購入。
デンマークで家族に別れをつけ、当時妊娠中の若い恋人の
ジュリエットを捨て、故郷での名声を捨て、
4月24日彼はマルセイユからポリネシア行の船に。

が、島への最初のアプローチは失望で、先住民との接触を試みた事で、
地元のヨーロッパ人と先住民との両方から不信の目で見られ、
地元のヨーロッパ人と先住民との両方から不信の目で見られ、
彼が持ってきたお金と画材はすぐに無くなり、作品の幾つかがフランスで
販売された事を知っていたものの、誰もお金を送ってくれず・・。
販売された事を知っていたものの、誰もお金を送ってくれず・・。
しかし芸術観念からは、おそらく自分が探していたものを見つけたものと。
この最初の時期の作品は、それまで生きて来た窒息する社会的条件と
切り離された、自由と独特な純粋さを表現する原始性の次元で
特徴付けられますが、
切り離された、自由と独特な純粋さを表現する原始性の次元で
特徴付けられますが、
一方ゴーギャンは借金と孤独に悩まされ、パリに戻る事を考えるものの、
遠足中に知り合った13歳の先住民女性テハアマ・Teha'amanaと
愛人関係、およびお気に入りのモデルとなり、留まります。
愛人関係、およびお気に入りのモデルとなり、留まります。
ヴァヒネ(愛人の)テ・ティアレ 1891年

「花を持つ女」としても知られるこの作品は、タヒチで最初に
制作した作品だそう。
制作した作品だそう。
テハアマの肖像 1891年

死者の魂が見守る 1892年

しかし結局、彼は少女を捨てることを決心し、
「私のタヒチへの旅行は、なんと馬鹿げた、悲しく、醜い冒険だったろう!」と。
1893年6月4日、マルセイユに向け出航、結局2年間のタヒチ滞在。
この時ゴーギャンはフランス政府の資金援助で、「地域の性格と光を修復する」
ためタヒチへの旅行を命じられた形で、補助金を受け取っており、
ためタヒチへの旅行を命じられた形で、補助金を受け取っており、
戻るのに、本国送還命令を取得し、経済的にも肉体的にも大きな困難を
抱えつつ、が、
抱えつつ、が、
かなり豊富な経験と、芸術的価値において非常に貴重と考えた数多くの
絵画を持って戻ったのですね。
幸いに、物事は最良の方向に進み、最初の彼の伝記作家からの送金、
叔父からも遺産準備のお蔭で、借金を返済してパリに戻れ、
漸くにフルタイムで芸術に専念できるように。
叔父からも遺産準備のお蔭で、借金を返済してパリに戻れ、
漸くにフルタイムで芸術に専念できるように。
モンパルナスのハイチ風アトリエに移り、ウェイトレスとして
フランスに来た13歳の混血のアンナと、彼女の猿タオアと一緒に
暮らし始めますが、
アンナと猿のタオア 1893年

1894年5月強烈な郷愁に駆られ、アンナとブルターニュに行った時、
船員が彼女と子猿に対し下品な事を言い、憤慨したゴーギャンは
酷く反応したものの、殴られて足首を骨折、長い入院を。
船員が彼女と子猿に対し下品な事を言い、憤慨したゴーギャンは
酷く反応したものの、殴られて足首を骨折、長い入院を。
足は永遠に不便となり、戻った時、アンナがお金を盗み逃げた事、
猿が死んでいた事、妻のメッテが彼の手紙に応えるのを拒否した事などなど。
猿が死んでいた事、妻のメッテが彼の手紙に応えるのを拒否した事などなど。
こうして2年後の1895年9月9日、彼は2度目のタヒチ、パペーテに出航、
決してヨーロッパには戻らない事を決意し。 47歳。
決してヨーロッパには戻らない事を決意し。 47歳。
自画像 1889年

健康問題が続き始めます。
足の痛みを宥めるために多量のラウダナム・アヘンチンキの摂取で
心臓の問題が発生し、しばしば病院で長期間過ごすことに。
アヘンチンキというのは、アヘン末をエタノールに浸出させたもので、
モルヒネが高濃度で含まれており、鎮痛と咳止めに主として使用され、
常習性が強く、現在では厳しく制限されているそうで。
モルヒネが高濃度で含まれており、鎮痛と咳止めに主として使用され、
常習性が強く、現在では厳しく制限されているそうで。
喫煙によるアヘン摂取と違い、アヘンチンキは腸を経由する為、
常習性はあったものの、廃人となる事はそう多くなかった、と・・。
常習性はあったものの、廃人となる事はそう多くなかった、と・・。
未解決の足首の骨折、脚の無数のただれ、非常に多い皮膚の発疹、
売春婦との出会いで感染した梅毒、と健康状態は損なわれており、
1896年に同棲していた14歳のパフラ・Pafuraが子供を産んだものの、
その子は僅か1年しか生きられなかった事、
1897年3月妻からの便りで、前年1月に発生した肺炎で、最愛の娘
アリーヌが亡くなった知らせを受け取り、
アリーヌが亡くなった知らせを受け取り、
この瞬間からゴーギャンは家族の消息を知らなくなります。
タヒチ時代の一種の自伝である「ノア・ノア」がフランスで出版され
腹を立て、借金を背負い、絶望的に孤独となった彼は自分自身を
毒殺しようと、ヒ素の入ったフラスコを持ち山に行ったものの、
摂取した量が多すぎ、自発的に毒素を吐き出し、一人残され、
耐えがたい痛みに、山を下り、村の医者の治療を受け。
この時期のゴーギャンを包み込んだ無気力を、最も完全に絵画的に
表現した、記念碑的な作品
「我々はどこから来たのか? 何者か? どこに行くのか?」

1897年 キャンバス・油彩 139x374,5cm
約1か月で仕上げたという大作で、
「私の全てのエネルギー、この様な酷い状況でのその様な痛みを
伴う情熱、早熟の痕跡がなく、生命が直接そこから流れ出る程に
明確で正確なビジョンを伝えました」と。
「私の全てのエネルギー、この様な酷い状況でのその様な痛みを
伴う情熱、早熟の痕跡がなく、生命が直接そこから流れ出る程に
明確で正確なビジョンを伝えました」と。
自然の中で、3人の女性が見守る小さな子供、を含む12人の人物。
果物を集める青年と、偶像、そして老婆。
果物を集める青年と、偶像、そして老婆。
ゴーギャンの精神的遺言、とも考えられている、彼の最も有名な
作品の1つで、
作品の1つで、
この様なタイトルが付けられるだけでも、素晴らしい! と。
2人のタヒチの女 1899年

赤い花と乳房、または、マンゴーの花を持つタヒチの女性、など
さまざまなタイトルで知られ、
熱帯の楽園を想起させる、胸を露出した2人の女性が静かに
こちらに、花や果物を持ち歩きますが、視線は異なる方向に。
ヌードであっても、快適で純真な女性達は、地上の楽園の原始的な
無邪気さを呼び起こします、と。
無邪気さを呼び起こします、と。
1901年ゴーギャンはより刺激的なエキゾチックな環境を求める
必要性を感じ、マルケサス諸島のヒバ・オア島に引っ越しを。
タヒチの北東約1400km。

この島でゴーギャンは継続的に執筆し、絵の意図を説明するだけでなく、
彼の実存についても命を吹き込み、
彼の実存についても命を吹き込み、
辛辣に、宗教者や憲兵を非難したりで、
1903年3月31日、裁判所は彼に罰金、懲役3か月を。
が、5月8日の朝牧師が、ベッドに横たわった彼が死んでいるのを発見。
梅毒を患っていた彼の体は、既に限界だったのでしょう。
梅毒を患っていた彼の体は、既に限界だったのでしょう。
無名の埋葬を許可されたものの、参列した現地人は殆どおらず、
すぐに忘れられ、20年後に墓が発見され、
すぐに忘れられ、20年後に墓が発見され、
墓石に「ポール・ゴーギャン 1903年」と。
54歳の、まだまだ若い死、でした。
これは今の墓の横にある「オヴィリ像」 ゴーギャン作。

黄色いキリスト 1889年

ブルターニュに住んでいた時代の最も有名な作品の1つ。
晩年1902年から、1903年の、追いついたイメージが見られる作品を。
扇を持った若い女 1902年

海辺の旗手たち 1902年

1903年 多分、最後の 自画像

彼は印象派風から始め、徐々に彼自身の内に潜んでいた原始的な美
の表現に魅かれ始め、
インスピレーションを求め、南太平洋の真ん中タヒチにまで。
の表現に魅かれ始め、
インスピレーションを求め、南太平洋の真ん中タヒチにまで。
が、その作品はフランス国内の一般、批評家たちの求めるものとは
違いすぎ、多色で、装飾的で、エロチックで、エキゾチックすぎ、
ごつごつした表現で、と、彼の生前には報われなかったものと。
違いすぎ、多色で、装飾的で、エロチックで、エキゾチックすぎ、
ごつごつした表現で、と、彼の生前には報われなかったものと。
絵も、彼の生涯と同様、激しいですものね。
が、今こうして改めてじっくり見ると、当時の先端というか、次に来る
絵画の流れを先取りしており、
絵画の流れを先取りしており、
逆説的かもしれませんが、美しいフランス的な作品と思います。
日本ではゴッホの作品が大変好まれますが、ゴーギャンはイマイチな様で、
それが少し残念な気もする、
それが少し残念な気もする、
そんなこんなを感じた、今回でした。
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