6月のポーランドはクラクフ旅行で関心を持って見て来たものを。
日本からはかなり遠い国でお出かけになるチャンスは余り多くない
だろうとも思われ、実際私めも同様でしたので、
自分なりにあれこれ調べ、纏めてご紹介をと思いますので、
宜しくお願い致しま~す。
日本からはかなり遠い国でお出かけになるチャンスは余り多くない
だろうとも思われ、実際私めも同様でしたので、
自分なりにあれこれ調べ、纏めてご紹介をと思いますので、
宜しくお願い致しま~す。
まずは初日の午後、ダ・ヴィンチの作品を見に行った
チャルトリスキ博物館・Czartoryski近にある、
チャルトリスキ博物館・Czartoryski近にある、
城壁外のバルバカン・Barbakan、街の北の要でした。
クラクフのこのバルバカンは15世紀末に建設されたもので、
ヨーロッパでも数少なく残っているものの1つと。
ヨーロッパでも数少なく残っているものの1つと。
13世紀に続けて起こったモンゴルの再襲撃、トルコの脅威
をも恐れ、街の防御強化の為の建設ですね。
をも恐れ、街の防御強化の為の建設ですね。
直径25m、内径24,4mの円形を持ち、壁の厚さは3m以上、
円形と6角形の7つの塔が交互に配置されたゴシック様式。
円形と6角形の7つの塔が交互に配置されたゴシック様式。
背後の、街の防御壁の北のフロリアンスカ門を守るためで、
かっては長い「首」で繋がっており、このアーケードの上には内側の
貯蔵庫もあった様子。
かっては長い「首」で繋がっており、このアーケードの上には内側の
貯蔵庫もあった様子。
実はモンゴル軍によるポーランド、いやヨーロッパ侵攻、というのに
取り分けこちらの歴史に弱いshinkaiはあれこれ読みながらも、
一度ではのみ込めずの苦戦で!
つまり1241年2月から始まったトゥルスクの戦い、3月18日に
フェルニクの戦い、4月9日にはレグニツァの戦い、といずれも完敗!
フェルニクの戦い、4月9日にはレグニツァの戦い、といずれも完敗!
クラコフの街も包囲され焼き払われたのだそうで、
そしてなんとこれらの戦いの軍本隊は、ジンギス・カンの長男の
次男バトゥ、つまり孫、が率いていたそうで!
この戦いではモンゴル軍は占領せず、略奪して去った、というものの、
後の戦いでは2万人の捕虜を連れ去ったとかで、
後の戦いでは2万人の捕虜を連れ去ったとかで、
いずれにしてもヨーロッパには大きな戦慄であったでしょうし、
これによって街の防御についての大きな転換があった様子。
英語ではバービカンと呼ぶようですが、地図にもBarbacanと
あるので、この言葉でご案内を。
地図でご覧の様に、クラコフの旧中心街を囲むプランティと呼ばれる
緑地公園がありますが、これがかっての街を囲む城壁跡で、
上記のモンゴルを始め、トルコからの襲撃に対しての建設が
始まり、最終的に17世紀末には8つの街の門と(7門、というのも)
47の監視塔が!
が時代が下り、攻撃の武器も強大な力を持つ重火器に代わると、
古い薄い城壁の高さだけでは守り切れなくなり、
経済的にも維持するのが大変な重荷となり、
遂に19世紀初頭、城壁は解体されたのだそうで。
古い薄い城壁の高さだけでは守り切れなくなり、
経済的にも維持するのが大変な重荷となり、
遂に19世紀初頭、城壁は解体されたのだそうで。
こちらがかっての街の防御壁の図で、真ん中に見える建物と塔は
旧市庁舎と塔で、ここも塔のみを残し、都市計画の一環として
1820年に取り壊しになったそうで。
旧市庁舎と塔で、ここも塔のみを残し、都市計画の一環として
1820年に取り壊しになったそうで。
今回ご紹介のバルバカンは、街の北を守る城壁から突き出した
前哨基地ですが、後には貴賓の街入場の儀式が行われる場所ともなり、
前哨基地ですが、後には貴賓の街入場の儀式が行われる場所ともなり、
これを読んでいて、大変可笑しな逸話を思い出しましたので、後程。
街全体を囲む城壁の、かって8つ、または7つあった街の門
で現在唯一残るフロリアンスカ門・Floriańskaに続き、
で現在唯一残るフロリアンスカ門・Floriańskaに続き、
これが先回も見て頂いた、街の中心広場のサンタ・マリーア聖堂
寄りから真っすぐ北に通じる、
13世紀からのフロリアンスカ通りの突き当りに見える門。
寄りから真っすぐ北に通じる、
13世紀からのフロリアンスカ通りの突き当りに見える門。
一番下に小さく見えるアーチを通って出ると、今回のバルバカン。
shinkaiは、心急いでいたのか、斜め前からのこの様に前部を・
首、と呼ばれるかってはフロリアンスカ門に繋がる通路の一部を、
首、と呼ばれるかってはフロリアンスカ門に繋がる通路の一部を、
おまけに跳ね橋があったという入り口、堀にも目を止めておらず、
煉瓦壁が修復再築されたせいでしょう、余りにも新しく見え、それに
いささかがっかり、興味が半減された事もありご容赦。
いささかがっかり、興味が半減された事もありご容赦。
何せイタリアで見る中世以降の物は、殆どがそのまま保存された
趣あるものが殆んどで、それに慣れてしまっており・・でして。
趣あるものが殆んどで、それに慣れてしまっており・・でして。
なので、後ろの半円形に突き出した部分の、東からの眺めは
こんな感じで、なかなかの趣あるのも見ておらず、・・くやちい、
こんな感じで、なかなかの趣あるのも見ておらず、・・くやちい、
古い絵葉書、1909年12月19日も見つかり、
当時は市電も要塞の東側を通り、門のすぐ傍まで行ってたのですね。
1909年、というと、未だ第一次世界大戦も少し遠く、ヨーロッパは
平和時だったのでしょうか。
平和時だったのでしょうか。
そして半円形に突き出した西側に、入り口・出口の門があり、
ここにも跳ね橋が架かりますが、現在はそのままの様ですね。
要塞内は、上部に上がるのはガイド付きで時間も決まっていますが、
1階内部を見るのは自由で、1人で見ながら写真を撮りましたが、
1階内部を見るのは自由で、1人で見ながら写真を撮りましたが、
一階をぐるっと取り囲むアーチ内には、説明の図、絵が付いており、
こんな風にこの要塞の図で、街の城壁の周囲もめぐる堀、
塔の様子も分かりやすく、
塔の様子も分かりやすく、
城壁の右から2つの塔、そしてフロリアンスカ門、数字23の塔まで、
街の防御壁はこの部分200mのみが残されており、
街の防御壁はこの部分200mのみが残されており、
上記の通り、フロリアンスカ門から今回のバルバカンに続く、
「首」と呼ばれる接続部は現在はありません。
で、ここは現在緑の公園を背景に、街中でたくさん見かける
2頭立て馬車の休憩所となっており、
なぜか御者台にはお2人で、背後に乗り合い席が繋がる、という
ちょっと変わった仕立てでしたが、たくさん撮っていますので、
またご覧に。
で、お馬ちゃん達の毛並みも、色々な柄が多く・・。
で、お馬ちゃん達の毛並みも、色々な柄が多く・・。
こちらが入り口部から入って、北に向かっての位置で、
左寄りの位置にすらっと明るく見えるのが、
これ、矢狭間というか、鉄砲打ちの為のスリット。
入り口横から奥に。 で、上の写真にも見える門が、上の図で
見えた堀に掛かる橋の出入り口だったのですね。
見えた堀に掛かる橋の出入り口だったのですね。
跳ね橋のかかる堀ですが、幅24m、深さ3,5mという、
本格的なものだった様子。
本格的なものだった様子。
一番奥の北から逆に入り口方面を見た所。
防御の要塞の内庭が、クラコフの街と国全体の重要な儀式に
用いられる意味を持つようになり、
用いられる意味を持つようになり、
国全体の重要な儀式、云々は、1596年にワルシャワに王宮邸が
移され、1611年に正式にポーランドの首都となる迄、
クラコフが国の首都だったからで、
移され、1611年に正式にポーランドの首都となる迄、
クラコフが国の首都だったからで、
この内庭で、教皇特使、将来の王の妻たちが厳かに歓迎され、
勝利を収めた指揮官の凱旋劇も行われ、
勝利を収めた指揮官の凱旋劇も行われ、
新君主の戴冠式はも少し北にあるサン・フロリアノ大学教会で
行われ、この中庭で市議会議員達に歓迎され、
行われ、この中庭で市議会議員達に歓迎され、
フロリアンスカ通りには様々なギルド、同胞団、聖職者たちが集まり、
そこを通って君主の行列がヴァヴェル城迄向かったのだそう。
そこを通って君主の行列がヴァヴェル城迄向かったのだそう。
戴冠式はヴァヴェル城で、と書いたのもあり、その方が確かそうですが、
戴冠式(前)の要塞への入場は、フランス王子アンリ・ヴァロワ・
Henry Valoisによって始まった、とあり、
Henry Valoisによって始まった、とあり、
あっ、あの王子だ、と思い出し、
フランス国王アンリ3世 (1551-1589)
この方はアンリ2世と、イタリアからお輿入れのカテリーナ・ド・
メディシスの4男として生まれたものの、次々に兄の国王継承者が
亡くなり、
ポーランド国王に選ばれて行き、戴冠式も行ったものの、じきに
上の兄が亡くなった知らせを受け、夜中に逃げ出しフランスに帰った、
という方で、
上の兄が亡くなった知らせを受け、夜中に逃げ出しフランスに帰った、
という方で、
短いポーランド国王様でしたが、こちらに詳細を。
ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html
左側に見える小さなアーチ、そして通り抜けのどちら部分にも
階段が見え、上階との連絡部と。
この階段ですね。 ここの段石は綺麗に大きさも揃ってますが、
思い出したのが、中心広場で頑張って上った市庁舎の塔は、
今迄経験した事がない程のめちゃくちゃに段の高さ、広さが違う
石段で出来ており、
今迄経験した事がない程のめちゃくちゃに段の高さ、広さが違う
石段で出来ており、
横に鉄鎖が付いているのが、やれやれ!という酷い階段で、
若い男の子が目の前でつまづいたり! ははは、
何せ13世紀末の建設だもんなぁ、と。 またのご案内をお楽しみに!
若い男の子が目の前でつまづいたり! ははは、
何せ13世紀末の建設だもんなぁ、と。 またのご案内をお楽しみに!
こちらは上階の兵士のパトロール窓。
そして上の図のご説明で、現在は200mほどの城壁と、3つの塔、
1つの門が残っていると書きましたが、
1つの門が残っていると書きましたが、
フロリアンスカ門の西側を、城壁内側から見るとこんな様子で、
手前側が家具職人の塔で、奥にちょっと見える塔が大工の塔。
塔の名前の由来は、街の防御は市民達の各ギルドに任されており、
それにより尚のこと責任感が増したのだろうと。
それにより尚のこと責任感が増したのだろうと。
城壁にある各塔の間隔は約50mと言い、これは矢が届く距離、
から出ているのだそうで。
この部分の塔の前には建物があるので見えにくいですが、背後の
公園部から撮った写真が見つかりましたので、
公園部から撮った写真が見つかりましたので、
こちらがフロリアンスカ門に寄った家具職人の塔で、
右横から始まり、大工の塔の左に迄延びている建物は、アルセナーレ・
市の武器庫、16世紀の建設で、現在は博物館に。
市の武器庫、16世紀の建設で、現在は博物館に。
武器庫の1階にはいわゆる大砲とか銃の武器が置かれ、火薬は
深い地下倉庫に保管されていたそう。
深い地下倉庫に保管されていたそう。
幸いにも地下の火薬庫は19世紀の城壁破壊から無傷で姿を現し、
博物館目的とし、王家のチャルトリスキ王子に寄贈したのだそうで、
博物館目的とし、王家のチャルトリスキ王子に寄贈したのだそうで、
グーグル地図の武器庫にポイントを合わせると、確かに博物館で見た
像や壺が見え、謎が解けた事でした。
像や壺が見え、謎が解けた事でした。
そして殆どアルセナーレの壁に隠れた「大工の塔」
そしてフロリアンスカ門から続く、内側の城壁の道。 見学で上がれる様子。
良く似た城壁の見張りの道に上がった事があり、
グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.2
グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ n.1
そしてフロリアンスカ門の東にもう一つ残っている塔は、こちら、
小間物商のギルド、だそう。
小間物商のギルド、だそう。
最初は靴職人、そして通行人のギルドに、とあり、一瞬?でしたが、
案外街に出入りする商人達からの通行料徴収かな、と。
案外街に出入りする商人達からの通行料徴収かな、と。
そして門が、正しくは門の跡が残っている、として分かったのが、
上に載せたクラクフの地図、東のプランティの中ほどに書き込んだ
「肉屋の門」というのがあり、
「肉屋の門」というのがあり、
現在は[ドメニカーノ会派姉妹修道院」とでも呼ぶのか、
その修道院の壁に組み込まれているのだそうで。
古都として栄えたものの、近代に何とも残酷な歴史に見舞われたポーランド、
そしてクラコフですが、歴史を少し探ろうと思うと、とても深く深く・・、
今回は少々頭の体操に疲れましたぁ。 ああ、年だぁ!
そしてクラコフですが、歴史を少し探ろうと思うと、とても深く深く・・、
今回は少々頭の体操に疲れましたぁ。 ああ、年だぁ!
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